早稲田スポーツのこと – 会長 上田
早稲田スポーツのこと 上田会長 1981年
正月2日・3日に行なわれた、東京-箱根往復駅伝競走で、わが早稲田大学が見事に優勝した。心から祝辞を送るものである。30年ぶりの優勝である。前回優勝した昭和29年は、私が文学部を卒業する年であった。しかしそれ以後は早稲田にとって冬の時代が続いた。私は、昭和34年から体育局の教員になったこともあつて、ほとんど毎年、箱根駅伝の応援をしてきた。
応援バスに乗りこんで、箱根の山を登った最初の年も監督は中村さんだった。しかしその頃は選手層が薄く、やっと10人のメンパーを揃えることができたくらいで、いかに中村監督がすぐれていても、優勝など望むべくもない状態であった。順位は年々下る一方で、監督も何人か交替された。遂には出場辞退や予選落ちということもあった。
それが瀬古選手を得て中村監督が復帰されてからは、早稲田大学が見事によみがえって30年ぶりの往路・復路完全優勝を成しとげたのである。
「今年の駅伝はこれで終りです。来年もご声援ください」
と告げて行く読売新聞の広報車の前を早稲田の選手が走っていた時の淋しさを思うと、スポーツは勝たなければいけないとつくづく思わずにはいられない。
それがここ数年は、バスを降りて応援していると、沿道の人々が、早稲田が強くなってよかったですね、と心から喜んでくれる。有り難いことである。
早稲田のスポーツ程、国民の多くの人々に支持されているものはないと思う。野球、ポート、ラグビーしかりである。早稲田スポーツが盛んになれば国中の活力が湧いてくるように思えるのである。早稲田スポーツに寄せる多くの人の期待を考えるとき、関係者こぞって早稲田スポーツの発展に努力しなければと思う次第である。
昭和62年開校を目ざして準備されているスポーツ科学系の学部が、国民スポーツの発展、健康の増進に大いに寄与されることを願って止まない。
主将ノート – 上田
主将ノート
第二十代主将 上田 1984年
はじめに
潮風に吹かれGALといっしよに浜辺をルンルンサイクリング。大学に無事入学し、こんな事を思い浮かべながら、サイクリングを全く経験したことのない私は、WCCを訪ずれてみた。
思いとは裏腹に、女人禁制、見せてもらつた写真は山の中の乞食の集団、と、想像していたサイクリング観はみごと一瞬にして崩れ去った。
しかし、なまりの残る田舎の一青年を、諸先輩は麻雀と酒と連日誘って下さり、部室にいりびたりとなった。新品の自転車を買ったのはいいが、某先輩に「上田、インフレーター貸してくれ」と言われ、元気よく「はい。」とポトルを差し出したり。
はっきり言って、サドル・ベダル・ハンドルぐらいしか知らないのである。そんなアホな人間がサイクリングクラプの主将になるとは。
主将として
改選後、大隈講堂で校歌を唱っている時、ふと時計台を見上げると、いつもは大空に向ってまっすぐに立っているはずなのに、なぜかその時に限って自分に重くのし掛かっているように見えた。
自分にとって主将の職が大役すぎることは分っていた。
が、大役だからこそ自分の全力を注いでやってやる、 一年後には、今まで以上に堂々と自信あふれて、そびえ立つ時計台を見てやると胸に誓ったのを今でも覚えている。
クラプの運営において主将として一番考えたことは新入生への対処の仕方である。三年はサイクリング観、クラブ観を持ち自分の役割を分っている二年生は思いっきり暴れさせておけばよい(いい意味で)。新入生も大人ではあるがクラプの一員としてやっていくには少しフオローする面も必要だと思った。
我が大学のようなマンモス大学はクラスの結東も弱く、学内における自分の存在を明確にするのはサークルが主である。
サイクリングクラブといえども毎日自転車に乗るわけでなく、普段の付き合いにおいても多くのコミュニケーションをはかるために、トレーニングに出席し、酒を飲みかわしたりして交流を深めるべきであろう。
ましてや孤立しがちな新人生と交流するにはそういう場が大切であり自分自身、多く持ってきたつもりである。
新歓ランを終えるとぼちぼち退部したいという者が出てくる。クラプの風潮として、「来る者は拒まず、去る者は追わず」だが、やはり主将の立場からして、去る者が出てくることは実に寂しい。
新入生を迎えての総会の時に
「俺達は、クラプを通じてお前たちに充実した学生生活を送らせる自信がある。とにかく夏合宿が終わるまでは俺たちについてこい」
と偉そうに言った覚えがある。
やはり最低でもWCCの柱である夏合宿まで続けてそこで考えてほしかった。無理矢理クラプにとどめようなどという考えは毛頭ないが、何の切っ掛けにせよWCCに興味を持ちクラブの間を叩いたのだから、
一度だけはじっくり話す機会を作り、分かってもらうよう努力した。
が、やはり去って行く者はいた。別の事、サイクリング以外の事をやりたくて去って行くのはかまわないが、クラプをやめてサイクリングを続けるという者がいたのは残念で仕方がない。
WCCは団体としてのサイクリングがメイン、ましてや合宿は生活がメインであり個人の自由がある程度東縛されるのはやむを得ないが、そんなのは年間のうち一ヶ月弱で、自分ひとりでツーリングしようと思えばいくらでもできる。
WCCの団体ツーリングの中での人間同志のぶつかり合い、いたわり合いの大きさも知ってもらいたかつた。
そうこうしている間にオープン、2年企画プレ合宿を無事終え、待ちに待った夏を迎えた。確かオープンの打ち上げコンパの時だったと思う
「今年の夏は絶対60日走るぞ、約束破った時は坊主頭になってやる」
と豪語した。酒の勢いで言ったのではなく、走る主将であるということを示したかったのだ。
サークルの一員としてクラブランだけ走るという人も別に構わないが、それでは寂しすぎる。
サイクリストとしてクラブという枠を離れて皆んなにどんどん走ってもらいたかつた。一人でのサイクリングの面白さ、苦しさが分かり、そこでサイクリングとクラブ、クラブと自分を考えて、母体WCCに戻り反映させ、WCCで何かを考え、また一人で走り出す。WCCにおいてクラブと個人の関係はそういうものだと思うから。
又、ESCAラリーにも参加したが、他のクラプの走りを知る上で勉強になったし、多くの友人を得ることができた。クラブだけで満足せず、ESCAのような場をフルに活用し、自転車を通じ自分の世界を広げてもらいたい。
残念ながら、虫垂炎のため、五十日でツーリングを断念せざるを得なかったが、走った実感は大いにあり、皆にも示せたと思う。余談ではあるが、頭ではなく別のところが坊主になり、しばらく恥ずかしい思いをしました。
後期に入り、夏の疲れが残っていたかも知れないが、早同交歓会の担当ということでまた全員一丸となってぶつかることができた。
一年間のハードなランを終え、事故が全く無かったことは幸いであったし、これがクラブにおいて一番大切な事ではなかろうか。
以上自分のサイクリング観、クラブ観を織り混ぜながら1年間を振り返り書いてきた。我々の代は全体的に地味でパッとしたところがないため、中で特ににぎやかな自分だけが目立ってしまったのかもしれないが、主将としてやってこれたのも、副将をはじめ執行部の連中にしっかりしたやつが多く、アホな自分を支え、持ち上げてくれたからこそである。本当に感謝する。そして俺なんかについてきてくれた後輩、どうもありがとう。
一応籍はあるものの、クラプを離れた今、WCCは青春のエネルギーをぶつけるに十三分に値したクラブであり、クラプを通じ自分がすごく成長できたと自信を持って言える。
クラプを離れてもペダルを踏み続けていたい。サイクリストとして。
山陰夏合宿 (A班) – 荒川
1982年度
山陰夏合宿(A班)
第一文学部 荒川
プロローグ:
WCCのメインエベントである夏合宿。私は2年生であるけれども、昨年の東北夏合宿は、6月のプレ合宿での事故により残念ながら不参加。体力的に乗り切れるかどうか非常に不安であったことは確かである。さて、今年はどのようなドラマが伝統あるWCCの歴史の一ページに書き加えられてゆくのだろうか。
7月31日(土) 集合前日
きのうまでアルバイトをしていたので、けさは5時に家を出て、新幹線、急行を乗り継ぎ、集合地鳥取駅まで一気にワープする。途中、山陰本線の豊岡駅あたりだろうか、時間調整のため少し停車していた。すると反対側の窓を外からたたいている男がいる。
誰かと思えばプライベートランですつかり日焼けした永井であった。次の瞬間、僕は冷房など全く効いていない各停に乗り換えさせられていた。でも古めかしく趣のある電車で気に入った。鳥取駅に着いたのは、自宅を出てからなんとH時間半後の午後4時半。プライベートで真っ黒に日焼けしている者、真っ白な顔をしている者、それぞれの顔がとてもなつかしい。その晩、2年会を中心とする面々は駅近くの養老の滝で、夏合宿の前祝いをやった。
《コースの距離、標高差について》
距離は、初日、2日目のみバンフの数字をそのまま引用し、あとは我が愛車のツアーメーターによる計測値である。標高差については高橋Lに協力を願い、正確無比なる数字をはじき出してもらった。このきわめて面倒な作業を快く引き受けてくれたことには深く感謝の意を表するものである。
尚、彼によれば、まちがっても総標高差を計算してはならないということなのでその旨、付け加えておく。
8月1日(日) 初日 58km/1390m
(コース)鳥取駅→十三峠→蕉島→蒲生峠→竹田→美原高原→長坂→よし滝キヤンプ場
駅で寝た者、砂浜でテン張った者、どこからともなく鳥取駅に集ってきたWCC ・イエロー軍団。様々な心持ちで副将の「集合」の合図を待つ。
午前8時30分、浜田さんの低い声が短年山陰夏合宿の始まりを告げた。50人余りが一堂に会する情景はまさに壮観である。
主将・上田さんの言葉で各自がそれぞれの決意を新たにする。空を見れば今にも泣き出しそうである。出陣式を終え全体写真を撮る頃、とうとう雨が降りだした。この時、今年の夏合宿が終始雨にたたられることになろうとは果たして何人が予想していたことだろう。
そして午前11時すぎ全体CLの北畠を先頭にイエロー軍団は鳥取駅を出発した。
出だし早々に車と接触事故を起こしたり、バンクしたり、アクシデントの連続で各班の順序が乱れてしまった。台風の影響で雨は徐々に強く降りだしキヤンプ場では寒さにふるえながら仕事をし、かまどの屋根で50人が雨をしのぎながらひしめき合うように夕食をとる。
この風雨ではテントで寝ることができるのだろうか。この不安は現実となり初めからトイレに避難する者もいた。しばらくテントで我慢していた者や、展望台でシートを張って寝ていたが、そのシートが風で吹き飛され頭に覆いかぶさってしまった者など時間を追うごとにトイレに避難する数が増えてきた。こうした中でかまどの余熱でぽかぽかと全くぬれることなく安眠をむさぼった者が3人ほどいた。と同時についに一晩中浸水してプールのようになったテントの中で耐え抜いた者もいたのである。悲惨!!
8月2日(月)2日目 64km/660m
(コース)貫田→氷の山→今在家→キヤンプ場(鳥井野)
早くも台風の影響でコース変更となった。氷の山も雨であった。
コースが変更になったことでタイムテープルがくり上ってキヤンプ場
(と言えるかどうか)に早く着いた。ところがここは火が使えないので飯を炊くことが
できなくなった。そこで登場したのが「バン一斤作戦」である。
何のことはない。1人がバンを一斤ずつ食べるだけのことである。
それと野菜をきざんでドレツシングをかけただけのサラダをつけた。
玉ねぎがやたら多くてたまらない味であった。
8月3 日(火) 3日目 66km/1270m
(コース)物見峠→河井→大ケ山肩→倉見→峠→キャンプ場(越畑)
朝から天気がよく、出発前におあつらえ向きのポールがあったのでWCCの副将旗を高々と掲揚し、山根天皇陛下の一般参賀が行われた。合宿最初のフリーランは物見峠。途中で一旦下り坂があったため、不審に思って立ち止まっている場面もあったが、そのまま下ってまた上っていった所が峠であった。
とにかく暑かった。今日も早めにキャンプ場に到着。岡山県内随一のキャンプ場でゆっくりと洗たくができた。確かに設備の整ったキャンプ場ではあったがブヨがたくさんいて、じつと座って食事もできないほどであった。
最大の被害を受けたのは高橋Jr.。で、片方のくるぶしだけで37カ所余りも刺されてくるぶしがなくなってしまったのであった。おかげで彼は以後しばらくの間、トウクリップから足が抜けなくなって転倒するというはめになった。
8月4日(水)4日目 46km/1540m
(コース)正宗→笠管峠→奥津→峠→踊堂→山乗山→下和→峠→下長田→キャンプ場(鏡ケ成)
夏合宿第一のヤマ場がやってきた。ただでさえコースがきつい日なのに2班のCL、通称「曲がり角の辻」はオリジナルのコースを進んで行き肉体的疲労を倍加させるというマゾヒスティックなサイクリングをしていたのであった。誰もが忘れもしない山乗山のアプローチは長く日差しも強かった。深砂利の道が続いたかと思うと、それに加えて轍が深くなり、ペダルを踏み切れなくなって片足をついて進んでいたが、とうとう力つきてダウンしてしまった。
私にとってハンガーノックというのは初めてのことで、全身がしびれて脱力感におそわれた。しばらく横になって休んでもなかなか回復しないのであきらめて出発した。あえぎあえぎ頂上に着くとすぐさまその場に倒れこんだ。下りは下りでまた、段差のところで前輪のリムを曲げてしまい惨々な一日であった。蒜山大山スカイライン人口ではちようどこちらに向ってきたC班と出会った。あの時の西川の顔といったらなかった。
スカイラインは班別フリーで走った。とても景色がよかった。下りは道なり真っすぐでとてもスピードが出た。キヤンプ場は牧場のような所で、例の体をくねらせるようにして虫にさされたところをかいていた河口は、「何をそんなにかいているんだ」ときかれて「かいているんですよ」とわけのわからぬことを言っていた。
8月5日(木) 5日目 68km/410m
(コース)御松→鍵掛峠→米子→キヤンプ場(広瀬)
ようやく休息日である。米子駅に自転車を置いて風呂に行った者もいたがほとんどは駅でうだっていた。それにしても「ワセダ」のネームバリューは高いもので、ただ駅でうだっているだけで、駅の人からスイカの差し入れがあったり、息子がワセダに通っているという地元の人から金一封をもらつたりした。
そんなこととはつゆ知らず米子市内の自転車屋を駆け回っていたのがメカの北畠、筒井、そして私であった。前日、わき見しながら走っていて橋の欄干に激突しフロントフオークを曲げた筒井と、2日目から一日な何度となくフリーのふたをはずして北畠にさんざん面倒をかけ、前輪のリムまで曲げるというおまけつきの私は自業自得であるが、メカの北畠は実に迷惑極まりないというところであったことだろう。この日のキヤンプ場はなかなか見つからず、たぶんここがキャンプ場であろうというところがそうであった。当然のこと、かまどなどはなかった。私のは北畠が、辻のは上田さんがホイール組みをしてくれた。
8月6日(金)6日目 86km/2060m
(コース)市原峠→大呂→竜駒→多里→道後山→永金→峠→保賀谷→峠→油木→峠→中組→キャンプ場(六ノ原)
今日はA班の一番長い日であるため、真っ暗闇の中4時に起きて早目にキャンプ場を出発した。
市原峠でフリーランをやって、竜駒までの上りはワセダファィトで気合を入れて行った。この日も雨が降ったり止んだりしていた。メカトラで遅れる班を待つためずい分と休息をくり返していた。六ノ原キヤンプ場に着く頃にドシヤ降りとなりOBの田中さん、松森さんらも後ろから追いついて合流した。B班、C班はすでに到着していて雨やどりしていた。夕飯の飯盛りでは各班の性格がくっきりと表れA班の1年生は惨敗した。
8月7日(土)7日目 76km/1210m
(コース)立鳥帽子山→分岐→峠→比和→坊地峠→西城→キヤンプ場(三坂)
今朝は昨日の雨がうそのように晴れあがり周囲の景色がとても映える。いきなり朝一での大フリーラン大会。砂利ばっかりで走っていても気分のよくない道だったが、全員がゴールした後、徒歩で立鳥帽子山に登ったがよい展望であった。
その後再びそれぞれのコースに分かれて行った。この日は2班にとって最も長い日であったかも知れない。例によって合宿中にプライベートランをしてしまった。この班はいくら走っても前が見えないので引き返していたが途中ドシャ降りに会い、トラックが向かってきたので脇によけたところCLの辻は、左足をついた位置が悪く、何もない水のところに足をついて田んぼに転落していった。
悲惨だが、まだ話は続くのである。今度もまたコースミスで道はだんだん細くなり、ついにはあぜ道となってしまった。さらに走り進んでいると突然CLの辻が消えてしまった。またもや彼は自転車ごと水路に落ちてしまったのであった。
この時靴まで流されてしまい筒井のサンダルを借りて走り続けた。この頃1班、3班は倉庫の屋根下で雨やどりをしていた。このような雷雨ではとうてい走っていられぬほどであったのだが。かなりの時間待ったが結局降りやまないので雨足が弱まると出発した。やがて雨があがるととても大きな虹が現われとても感動した。思わず自転車をとめてみんなで見とれてしまうほどだった。
8月8日(日)8日目 71km/630m
(コース)犬瀬→峠→下市→栗石峠→二次→キヤンプ場(高谷山)
三次まではほとんどこれといった上りもなく線路沿いを走りのんびりとしたムードであった。最後にキヤンプ場まで300mちょっと上ったがその後がたいへんであった。なんとキヤンプ場に着いてみたら水が出ないのであった。
こうして2年生、3年生を中心に「水汲みフリーラン」が突然行われることになった。ボトルをかき集め、なべを積んで標高200-300m下ったところまで往復にして8kmの道のりを水汲みに行ったのである。水を汲んで帰ろうとした頃に雷が鳴り雨も降り始めて、思わず落雷→死という構図が脳裏をかすめた。とにかく全力で疾走し、全員無事に辿りついた。
夕食後展望台に行ったが霧で何も見えなかった。ところがしばらくするとす―っと霧が晴れて市街の夜景がくっきりと浮かび上がり一堂みな感動した。また遠くの山々も稲光と共にシルエツトのように浮かび上がった。連日の感動である。
8月9日(月)9日目 64km/410m
(コース)栃林→峠→辰田→戸河内峠→阿須那→荷〆峠→皆井田
この日も雨にたたられた。コース的にはきつくはなかったがキヤンプ場は斜面ばかりでテントを張ればすぐに浸水するような感じの上にマムシまで出たのでは危険であるのでかなりもめた末に、地元の人の好意で断魚自治会館に泊まれることになった。
洗濯もできたし、上田さん、林さん、高場、鈴木そして私を除く全員は1、2kmほど離れた温泉にも行け、私たち5人は意地?を張って風呂に入れるチャンスを棒に振り、卓球遊びに興じていた。また3年生は会館内で寝れたのに、わざわざ庭にテントを張って寝たのであった。
8月10日(火) 10日目 73km/1400m
(コース)大利峠→ 下郷→ 水越峠→ 町中央→ トンネル→上戸川→雲月山→大仙原→峠→キャンプ場(聖子)
昨日とはうってかわつてハードな一日であった。特に雲月山の上りは「壁」のようで腰をやられるのではと思うほどであった。峠で昼食をとり、自転車を置いて雲月山の頂上に行ったが遠くに三瓶山を眺めることができた。みんなぐったりとしてしばし草の茂った斜面でぼうっとしていた。
キャンプ場に着くとまたもやドシヤ降りとなり、常設テントで寝ることになった。松森さんがA班に合流してきたが、食事の時には合宿も10日目とあって疲労度もピークに達しているのか、暗く沈んだムードであったので松森さんによってそうしたムードも少しは和らいだようである。尚、常設テントの寝心地はばっちしであった。
8月11日(水) 11日目 76km/1710m
(コース)道戦峠→餅の木→餅の木峠→分岐→水越峠→細見谷→峠→吉和→松の木峠→宇佐郷→ キャンプ場(羅漢山)
この日もハード日で起床は4時。この日の難関は細見谷からの峠で、この下りではアプの大群に襲われるといら地元の人の話であった。この峠の上りは道もしまっていて快いダートであった。
しかし、班長のメカトラによるストップの声に気づかず鈴木と私の2人はすいすいと上っていってしまい、追いついてきた松森さんによってやっとそのことを知ったのであった。待っている間に、松森さん十八番のナルシ写真をお互い撮っていた。
さて問題の峠であるが、結果的にアプなど一匹もいなくて、それどころか途中から輔装になり川沿いのゆるやかなダウンヒルを満喫できたのであった。そしてこの日最後に待ち受けていたのが羅漢山キヤンプ場までの上りであった。もういいがげん疲れていたが雲月山に劣らず壁のように立ちはだかる羅漢山にはおそれいった。キャンプ場では温泉に入ることもできた。
8月12 日(木) 12日目 99km/850m
(コース)宇佐郷→初見→仲仙道→米山峠→鹿野→金峰峠→須万→峠→キヤンプ場(椋野)
朝食後、東京に戻られる松森さんを「紺碧の空」で送り、小雨がばらつき霧で視界の悪い中、急勾配の羅漢山を注意して下る。
この日のメインエベントは米山峠でのタイムトライアルである。全体CLは高場。1年生から順に10秒毎に次々とスタート。私と伊藤がデッドヒートをくりひろげ伊藤がボトルを落としている間に一旦は抜き去ったが、今度は私がボトルを落としている間に抜き返されてしまった。結果は1位林さん、2位高橋、3位上田さんであった。またこの日は筒井がWCC史上おそらく例を見ないであろう一日に数回にわたって計27ヶ所もパンクをした日でもあった。
8 月13 日(金) 13日目 78km/700m
(コース)杭名→甘木峠→玖珂→通津→松尾峠→弥栄→キヤンプ場(蛇喰)
いよいよB、C班との合流日。コース的にはこれといって何もなかったがキヤンプ場近くの峡谷を上っていると下の川でC班の面々が泳いでいてとても楽しそうであった。
しかしどういうわけかA班は彼らを横目にそのまま泳ぐこともなく行き過ぎていった。キヤンプ場ではB班とばったり出会った。ここにも河原があって結局水遊びをすることができたが、その水はとても冷たくて気持ちよかった。4年生の宇野さんも合流し、明日の出発順序がジャンケンで決められた。するとなんとわが1班が一番になってしまい、緊張のため夜もなかなか眠れなかった。
8 月14 日(土) 千秋楽 44km/220m
(コース)峠→岩組→明石峠→広島
千秋楽。思えばこの日まで、長くもあり短かくもあつたような気がする。さて、今日1位で無事広島駅に到着できるであろうか。栄光の全体CLは鈴木(康)。もしパンクやメカトラなどで後続の班に抜かれようものなら半殺しの目に会うことは免れそうもない。
緊張の中、1班は出発した。いつになく道の端はあまり通らないように意識する。鈴木のCLだからコースミスはまずないので、バンク、メカトラだけに気をつければよい。
合宿最後の赤石峠を豪快に下り切ると広島駅まではほとんど平坦な道であった。2班は例によってプライベートランのためこれ見よがしと言わんばかりの9班に抜き去られていった。広島市内に入りすぐ後ろに9班がこちらのスキをらかがうようにびったりとくっついている。市の中心部に入るとだんだんと気分が昂揚してくるのが自分でもわかるほどであった。
そしていよいよ広島駅まで1kmを切ったあたりから9班について浜田さんの声で「紺碧の空」「都の西北」を歌いながら午前11時15分ゴールの広島駅へと無事1着でなだれ込んだ。丸山さん、林さん、鈴木、北畠、姫野、それに私の6人。
全体CLの班を全うすることができて感無量といったところである。お互いに握手を交わし合う。続いて9班もゴールイン。写真を撮り終えると、ダンポール箱捜しである。全班無事揃い、解散式。「紺碧の空」「都の西北」が高々と広島駅前にこだまする。
よくぞここまで来たものである。平和公園ではこうした安堵感からか、どっと2週間の疲れが出てきた。コンパ峠を越えて今年の夏合宿も幕を閉じる。
《エビローグ》
今年の夏合宿も様々な試練にもめげずに無事終えることができた。
A班― 終わってしまえば楽勝よ、ではないけれども、ふり返ってみればいい班であったと思う。コースに関しては他の班よりもハードで、食事に関しては最も安上がり。だが最も安上がりというだけではなく最もデリシャスであったのは食当の阿部や伊藤のおかげである。
苦しい日々も高場と鈴木のコンピで河口をおもちゃにしながら乗り越えていった。河口も性格が変えられてしまったようである。2班は辻と山根のコンピで毎日他の班よりも確実に距離と標高をかせいで脚力をつけていた。ブヨの集中攻撃を受けてくるぶしがなくなった高橋Jr.。タイムトライアル優勝の林さん。女の子に見とれて思わず転倒した谷川さん。 一日に27カ所もバンクした筒井。遅れながらも最後までついてきた姫野。私をはじめとしてたび重なるウルトラメカトラに辛抱強く面倒をみてくれたメカの北畠。みんなが主将の上田さんを中心によくまとまって作りあげた夏合宿である。
つまるところ、今年の夏合宿はWCCの歴史の中でいつまでも語り継がれてゆく思い出深いものであったことは間違いないのである。
最後に。ぼくと同じテントになってイビキのために眠れなかった方々へ、本当に申し訳ありませんでした。
完
山陰夏合宿 (B班) – 守田
1982年度
山陰夏合宿 B班 守田
8月1日 58km/850m
鳥取駅裏公園簡易キヤンプ場は、朝から雷雨であった。 一同、駅の軒下で、朝食を取った後、集合の声が掛かる。みんな、色とりどりのカツパを着て、校歌をうたうが、不安を隠せないまま出発する。
キャンプ場までの上りの途中で、初日から小野Aさんがバンクをしたが修理をせずに、根性で上りきる。夜になってますます雨は強くなって、ついに台風になってしまった。寝れるテントが少ないため、便所、見晴らし台、竃等に別れて寝たが、私が寝た女便所は、いっぱいになって、膝を抱えるようにして寝た。又、シュラフは、湿つて蒸れて、二、三時間しか眠れなかった。
8月2日 76km/900m
朝になっても雨は降り止まなかった。だれもが寝不足で、むだ口を叩く気力もなく、ただ黙々と仕事をしていた。そして、ラジオの声に耳を傾け、これから走る方角から、台風が逸れてくれることだけを、祈っていた。
雨の中、氷ノ山越えの林道は、なかなかよい荒れ具合ではあったが、テントが重く大変だった。下りは舗装で、気持ち良く下れ、午後から雨も上り、キャンプ場は、なかなか設備がよく、シュラフを篭の上で乾かせ、助かった。
8月3日 64km/1050m
よく眠むれ、たっぶり食べられて、やっと人心地が着いた。九時、まさかと思われたかつぎが出てしまった。丸山さんなどは、一人でいとも軽々と、ひょいひょいと登っていったが、ゆっくり登って迷惑をかけた。一時間後、やっと辰巳峠へ着いた。
いよいよ合宿中、最悪の難所、山乗山に来た。昼食後のフリーランだが、とにかく20%の急坂に加えて、ごりごりの地道という地獄で、私は萎えてビツケになってしまうし、先頭集団は、「血も涙もない鬼の企画」という怒号があがった。下りも道がひどく、バンクが相い次ぐ。
この後に300mぐらいの小さい峠を越えるはずが、CLの武田さんの迷判断のおかげで、60mになる。峠で川村さんは、イモリを見つけて、「イモリ、可愛いい。」と狂喜して、皆から呆れられる。下りでは、明日行く大山がよく見え景色はよかったが、こけてしまう。
キャンプ場へ着くと、小学生の団体が先に入っていて通路ヘテントを張る。又、キャンプフアイヤーをやっているのをながめていた。
8月4日 63km/1400m
昨日もらつたカレーに、味噌汁、サバカンというリッチな朝飯を食べて、いざ出発という時になって、バンク車が続出し、小野Bさんのキャリヤも折れていた。このせいで少し遅れて出発する。地蔵峠までは、たらたら登りで、どこが峠だかわからないような所だったが、大山が見えた。
二番目の峠までは、何もない所で班別フリーになった。しかし、暑くてけっこう疲れた。そして、縫部君は、膝を痛めて遅れる。二時になって、鍵掛峠へ着くが、小野Aさんがスポークを二本も折って、
直している間に、大山に掛っていた雲が晴れてきて、素晴しい景色が見えた。結局、峠に、 一時間半もいた。生田さんが急違、キャンプ場を大山に変更したので、洗濯ができた。私は、永井さんに髪の毛を切ってもらい、さつばりした。
買い出し班が下までくだってビストンしてくれたが、夕飯は、御飯とチキンラーメンになってしまった。ノートルダム清心女子大のユースホステルクラグが来ていて、キャンプフアイヤーをやっていたので、仲間に入れてくれと頼んだところ、「合宿だから、けじめをつけますので。」と断わられ、がっかり。代本を見てやっていると、やっかんだりしながら見ていた。
夜寝る時になって、例によって遠くへBテンを張られた小野Bさんは、犬にテントを倒されて、 一人で必死に建てていたらしい、
8月5日 85km/800m
チャーハンを太シャベルで作った朝食をたべて出発。下りは、カープが少なかったせいか、アツと言う間に終ってしまったが、かなりのスピードで下った。
この日は暑かったせいなのか、バンクとパーストが続出して、そのおかげで阿哲峡で四、五班は泳げた。川の水はさほど冷たくなく、流れもけっこうゆるやかで地元の子供たちも泳ぎにきていた。子供たちがかなり高い所から飛び込んでいるのを見て、我々も下から飛び込んだ。
バーストの応急処置をした後、泳いでだるい体に鞭うってキャンプ場につくと、C班と合流である。互いに中ば敵対意識を持っているかのように仕事をした。夕食は、たき込み御飯に、なめこ汁だったが、
一年生のめし争いは、B班は全員敗北し、改めてB班は平和だったんだと思ったりもした。
8月6日 75km/800m
C班と別れて、峠を一発越える。時間があったので帝釈峡へ行った。渓谷をかなり見て回ったので、新たな感動を得るということもなかったが、途中に大きな岩をくり抜いた、トンネルがありこれには、びっくりした。自転車で行けるところまで行って、そこで昼食をしてピストンをして戻った。
三班分の買い出しをしようと店に入る直後にひどい夕立にあう。雷もかなり落ち、最後の班は、夕立に降られ、雷が電線やトタンを震わせている中をあわてて走って来た。ABC三班合同となり、田中さんと松森さんが登場しいっぺんに賑やかになった。
8月7日 70km/850m
全体でのフリーランは、各班対抗意識を持って一所懸命走っていたように思う。フリーラン終了地点から立鳥帽子山まで歩いて登る。頂上はあまり広くはなかったが、景色は良かった。つりがねにんじんや、なでしこ等が咲いていてちょっと高原の雰囲気だった。
AC班とエールを切って別れ、峠を越えようと行くと道はなく、地元の人にマムシが出ると言われ国道に迂回した。キャンプ場までの300mの地道は班がかってにばらばらになリフリーランになってしまう。着いたキヤンプ場は素晴しく設備の整ったキヤンプ場で、鍋、包丁、油、コンロ等色々なものを使わせてもらい、八宝菜はとても美味しく、又、OBのおごりで、スイカとトマトを食べさせてもらいとてもリッチな気分でした。寝る時も、畳、展望台の上に別かれて眠った。
8月8日 60km/200m
今日は、半日フリーで出雲大社まで行けることになり、はりきって、私は蒲本君と永岡さんと出発したが、途中永岡さんがバンクとバーストというひどい日に会い、出雲市駅で生田さんたちと治す。駅前のデパートに入り、久し振りに文明に接した気持ちがした。
大社町へ向い、途中私の自転車の後輪がひどく重いので見たら、ひどくブレていた。なんとか出雲大社まで着き、 一年生はかたまって参拝した。女の子と写真をとったり、おみくじを引いて楽しんでいたが、小川だけが何故か女の子に写真をたのまれていた。”小川の裏切り者”
茶店に入り、カキ氷やパフェをたのみ、絵葉書を出した。大社前駅で昼食後キヤンプ場へ向う。Aコープで買い出しの時、私は、後輪のプレをメカの岡本さんにとってもらっている間に、丸山さんが外国人に話しかけ国際的な雰囲気になる。
キヤンプ場は、つり橋を渡った所にあり、竃がなく、水の出もあまりよくなかった。半日フリーの日だった割には、後半疲れた。
8月9日 78km/500m
私は、全体CLとなり、タイムキーパーのためあまりよく眠れなかった。しかし、出発してすぐに、縫部君がメカトラをし、直している時に、力まかせにネジの頭をもいでしまったので、この時”牛”という徒名が付いてしまった。地図のないところで道を間違がえ、かなり走ってからおかしいと気が付いてピストンして正しいコースヘ戻った。
島のキャンプ場へは、荷物を持って海岸線を10分ぐらい歩いて着く。松森さんとサングラス姿の宇野さんが参加して頂き、松森さんは、丸山さん、小野Aさんと共に、サザエとカニをたくさんつかまえ、明朝の味噌汁の具となる。この日の夕食は、ホイコウロでありとても美味しかった。又、この日の夕焼けは、空も海も真赤に染って、いか釣船の漁火とよく調和して、合宿中最高の景色だった。夜、町のお風呂へ入りに行った。合宿中唯一の風呂だった。
8月10日 65km/650m
今日は、縫部君がCLで走るが、しばしば間違えてしまう。千畳狭に行って昼食をたべる。千畳狭では時間がかなりあり、水あそびをしたりして楽しかった。景色もとてもよかった。ここもピストンして戻り三日市の町へ向う。三日市の町では、この町に住むサイクリストと会い、キャンプ場まで案内をしてくれた。
前の日ポトルを忘れてしまった私は、醤油ポトルを使わざるを得なくなったが、水が醤油くさくなってひどい有様だった。
8月11日 66km/1000m
この日地元の高校一年のサイクリストを迎えて走り、フリーランにも付合ってもらう。結果、高校生は第二位、 一年生はほとんどかなわず、「若さに負けた……」とぼやいた。小野Bさんは、全体CLで先に上ったのだが、ゴール 前で道を間違って、押し、ついには担いでしまい、峠から大声で呼びやっと気がつくといった事もあつた。
二発目のフリーランは急違私が代理の全体CLとなって走り、なんとかまっとうできてよかった。峠を下り、キヤンプ場へ向うが、キャンプ場までの300mの上りは、けっこうきつかつた。
この日は、四時起床、六時半に出発したが三時半にはキャンプ場についた。ここは前日にC班が泊っており、可愛いい仔猫がいた。夜余った時間は尻取り歌合戦などをやって楽しんだ。ここは常設テントがあり、そこに寝た。
8月12日 66km/800m
湯来温泉まで上って、昼食を買い出そうとすると、そこはパン屋が一軒もないような小さな温泉町だった。ここで、縫部君と私は、喧嘩をしてしまう。結局、東山牧場で、昼食を取る時に和解した。東山牧場までの道は渓流ぞいに上っていて、結構景色が良かったが、一時間半にわたる長いアプローチだった。
峠を下リキャンプ場まで上るとそこは寂地峡という渓流のそばにあるキャンプ場だった。夕飯までの間に滝が五つある所まで行って見ると、なかなか素晴らしい所だった。
夜、四年生のおごりで、バナナとスイカを食べた。その後花火をした。ロケツト花火をしてその標的に永井さんがまず立ち、その次に私が出た。近いところを通るロケットがあってびっくりした。
8月13日 81km/850m
この日は最後のフリーランが羅漢山であり、4km、450mの平均ではあるが、始めは、15%以上の急坂だったが、みんな燃えて頑張った。峠では早く上りついた者たちでアーチを作って迎えてくれた。
この後、栗楢から万古渓をビストンするという暇な企画を考え万古渓まで行ったが、さほど良いというほどのこともなかった。ほとんど話題性だけで行ったようなものだと思った。
キャンプ場へ向い皆と会うと、いよいよ合宿も終りに近づいたと感じた。このキヤンプ場は川ぞいにあり先輩が数人泳いでいたりした。夜になると学年別ミーテイングをしたが、 一年会は別段話し合うこともないので、走ったコースの自慢し合ったが、二年会は長い間真剣に話し合っていた。
8月14日 76km/320m
やっと最終日であると共に、もう最終日かというような思いが込上ってくる。苦しくも楽しかった合宿もついて終りを向かえて、それぞれの胸をよぎるのは、何の思いであろうか。
広島駅に無事一人として欠けることなく着くことができ、みんなで校歌をうたうことができたことは、本当に口では言い表わせられないような感動をみんなに与えたことだろう。
こうして個人個人に多くの物を与えてくれた合宿は終りをつげた。それから、 一年生はコンパ峠を越えて広島の街へとくり出していった。
山陰夏合宿 (C班) – 植田
1982年年度
山陰夏合宿C班 政経 植田
プロローグ:
1982年の夏は異常気象だった。私が東京からフエリーで南紀勝浦で降り立った時、迎えてくれたのは、大型台風による強風と激しい雨だった。この台風は長崎地方に於て、多数の人の命を奪い、眼鏡橋を破壊した。それから1週間後、再度大型台風が襲来する。この2つの台風が我々のプライベート・合宿に大きな影響を与えた。
7月31日(土)
ここは鳥取駅前。私が昨日ここに着いた時は丸山さん。浜田さん。武田さんの2人しか居なかったが、今は陽に焼けたなつかしい顔が集まってきて、ワイワイ賑わつている。みんなの顔を見ると矢帳嬉しい。
夜は酒盛り。コッヘルでビールを飲んだ。明日から合宿。まだこの時点では晴れていたので、合宿に対する期待と不安を抱き、星を見ながらおやすみなさい。
8月1日(日)、雨 シチュー
朝冷たさで起こされる。雨でテントが濡れている。合宿初日を雨が迎えてくれた。駅前へ行くと自転車が並んで、黄色いユニホームが集合している。雨の中の校歌の大合唱のあと、11時14分出発。いよいよ夏合宿のゴングが鳴った。
途中の雨中ランよりこの日のハイライトはよし滝キャンプ場。このキャンプ場は、山の頂にあり、何もさんぎるものもなく横なぐりの強風と雨が我々を襲う。寒さ、冷たさの中、こごえながら、かまどで食事となるが、食事後の一人一言は途中で打切られる。
北村氏「浜田さんが、カマドとか展望台とかに割りふったじゃん。俺なんか河口とロツカーに寝ていたら、河日の奴、『ねえ―、てつろ―、狭くない?』と言って寄り添ってきやがんの」
私は、小林氏・縫部氏と展望台でテントをかぶって寝ていたのだが、下からの水の冷たさに耐えかね、女子トイレに避難する。浜梶氏と鍵本氏も銀マツトにくるまっていたが、結局トイレに避難した。この展望台では、テントを張らず、風よけとしていたが次々と飛ばされたのです。
この悲惨な夜を忘れる人はいないでしよう。この夜の出来事で、″ヒサンイン合宿″と呼ばれることになる。
8月2日(月)、雨のち晴れ 朝(サバ缶。みそ汁)夕(バン・トマト・キャペツ・サバ缶)
9時に雨の中を出発して下って行く。氷山越は険しく、道路状況も悪い。後ろに積んだテントは、たつぷり水を含みやけに重い。雨は依然降り続きゝ体が次第に冷え、手は凍りつきそうだ。下った若桜駅で昼食となり、これからの前後策が検討され、ここでA班・B班と別れる。C班はコースを変更し、大きく迂回することになる。
若桜線沿いの国道29号線では『若桜線廃止反対』の看板を多数見る。この国道を少し入った所に廃校寸前の小学校があったので、そこを寝所にする。もう雨はすっかり止んでおり、晴間ものぞいていた。校舎は取り壊され材木があちらこちらに置かれていたが、プールと体育館は今でも使われているようだった。夕食はキャベツ・トマト・サバ缶。1斤のパンというわびしさだった。牛乳を買いに行ったが売ってなかったので、バンを水で流し込み食べた。夕食のあと、私と浜梶氏。北村氏の2人は、真っ暗のプールで、今合宿の初泳ぎをしたのでした。
8月3日(火) 晴れ 朝(バン・トマト・キャベツ・缶詰) 夕(カレー)
ラジオ体操をしに来る子供達を横目に6時50分出発。当初のコースとは異なり、距離。標高差とも増える。国道53号線をスピードをとばして、船岡町、河原町、用瀬町、智頭町と経る。前日の雨から1転して9時頃から真夏という感じのする快晴となり、暑さもまさしく戻って来た。やはり夏だ。うだろような暑さで体が汗に濡れ、自然、ポトルの水を飲む回数がふえる。橋の下から黒尾峠に向って初のフリーラン。
9時15分出発。ひどい地道で、小川の中を上って行くような感じだ。タイヤがとられ、思うように進まない。少しこぎ出する直ぐ足をついてしまう。私はこの峠を喘ぐように登った。ほんと″苦労峠″だった。
下りでは、本日の見所、ループ橋をあっという間に過ぎ、奈義町へと下った。日本原には自衛隊の駐屯地が存在し、私達に装甲車が数台、対行して行き過ぎる。まさしく「野性の証明」の世界だ。因美線の美作加茂駅で買出しを済ませたあと、たらたら上りのアプローチにかかり、いよいよ30人が山へと登っていく。
今日2つめの峠はひどい砂利道で峠近くはこいで上ることができず、皆自転車を押す状況だった。しかし峠で待っていてくれたのは見晴しの良い景色。感激! そこから下り恩原高原のキャンプ場に到着した時は、6時半を過ぎ、陽はすっかり沈んでいた。朝、あの廃校を出発して12時間弱走っていて、標高差も2,000mを数えた。
しかもこの日は、フリーのふたをはずすメカトラや下りでのパンクが相続いだ。しかしキャンプ場はその疲れを吹き飛ばしてくれるかのような好環境で、芝生が綺麗で、山並の景色が夕焼けに映えて誠に素晴しく、高原らしい雰囲気を出していた。マイカー族も来て夜、キャンプフアイヤーで盛りあがっていたようだったが、我々は9時20分、早めの就寝。霧がかかって夜空の星が見れなかったのは残念。
8月4日(水) 晴れ 夕(八方菜)
小鳥のさえずりがテントの中に聞こえてくる中を「起床!」という声がかかった。疲労した体を起こして、テントを出る。木々に降り注ぐ朝日がキラキラ眩しい。今日からまたバンフ通りのコースに戻る。
7時50分出発して人形峠とと向かう。人形峠は標高729m、付近一帯にはウラン鉱床があり、埋蔵量は200万トンと言われる。ドライブインは封鎖されており、何か寂しい感じのする所だった。人形峠を越えた我々は西下するが、この下りは新しく完成された舗装道で、距離も長く快適であった。この日も素晴しい快晴で、3日前の雨がうそのような天気・猛暑だった。快適な下りを終えたあと、再び地道を上っていく。ここで先を行く9班(高橋氏班長)は、道を間違えて上って行き、県境を越えて岡山県側に入って行ったのでした。
関金町で昼食を終えたあと、西下して地蔵峠へと向かう。地蔵峠を越えたあとは、途中から見返峠まではフリーランとなる。いよいよ大山が近い。だがあいにくガスがかかつて、良く見えない。運に見放されたか。見返峠からの蒜山大山道路の下りは銀々(ギンギン)に下る。道が直線に続き、これが有名な観光地かというような静寂さの中を黄色いユニフォームの一団が連なる。
この快適な下りのゴール、料金所に黄色の同類項を遠くに見る。雨の若桜駅で別れたA班との再会である。A班は我々が下りて来た有料道路をこれから上るのだという。A班とまたの再会を誓い別れたあと、キャンプ場へと向かう。
ゆるやかな起伏の道、芝、牧場の牛の群れ、花園、まるで牧歌的な風景が次から次へと展開される。皆が山キャンプ場到着は4時30分。芝の綺麗な高原的雰囲気のキャンプ場だったが、値段が1人300円と高く、皆から「高い、高い」と文句が聞かれた。やはり合宿中は現実的問題に敏感なようだ。この夜は、虫が多くてなかなか寝つけない夜となった。
8月5日(木) 晴れ 朝(キャベツ入りのみそ汁) 夕(味ゴハン、キノコスープ)
パンフレツトによれば、初の「休養日」である。キャンプ場を7時43分に出ると、野土路へ向い、峠を1つ越え南下した。
第2の峠、坂路峠は地道であったが、上っている途中、大山が綺麗に見えた。大山を南側から見ることになり、昨日の霧中の大山とは相違し、はっきりと目のあたりにすることが出来、感動的であった。
峠を下り大佐町で昼食となったあと、舗装路をたらたらと下っていく。新見市に到着し買出しとなる。街らしい街は久しぶりだ。銀座通りを突き抜け、哲多町を南下、吹屋キャンプ場に卸着したのは、
陽がまだ高い位置にあった3時40分だった。
休養日であったが、標高差はまたしても1,000mを軽く越えた。キャンプ場に着いてからは、自由時間となり、皆洗たくをして休んでいると、上の方から「お―い」という声が聞こえる。今晩合流のB班の連中である。
8月6日(金) 晴れのち雨
キャンプ場を8時3分に出発し、前日南下した道を、今日は北上していく。この新見市までのビストンは17kmにも及び、皆から不平が聞かれたが、その不満を消したいかのように、下りと平地をとばす。
新見市からは伯備線に西下して阿哲峡へと向かう。阿哲峡の渓谷を見たあと、足立で伯備線と別れて峠に登っていく。500mの上りだったが、本当わけもわからない峠だった。下り終えた油野で昼食することになるが、ここで物凄い集中豪雨に会う。あの初日の再現を思わせる土砂降りで、雷が鳴り雨宿りすることになる。30分位して小降りになった所で出発、しばらく行くと広島県という看板を目にする。
とうとう広島に入ったのだった。キャンプ場に向かう道で前の班に追いついたと思いきや、懐しのA班・B班の顔であった。この3班合流のキャンプ場は荷物をおろして300m程上までリヤカーで運ばねばならなかった。久しぶりの話で盛り上っていたが、初日に続いての雨の中で「3班合流はいつも雨だ。合流しない方がいい」という声も蘭かれた。またこの日も9班が道を間違え、プライベートしたことを付記しておく。
8月7日(土)
今朝、雨はやんでいた。今日は大フリーラン大会。目標の立鳥帽子山を目にする。いよいよスタート。1年2年3年の順に出発。ゴールでは皆の晴れ晴れした顔。歓声。ここでA班、B班を校歌で送る。我々C班は上山佐のキャンプ場までの下りをあっという間にすごす。キャンプ場は、ダム横に設けられ、町の組合の集まり、ボーイスカウト、小学生など、多くの人間が利用していた。
夕食のあと、ジンギスカン肉、焼きイカなどの差し入れの御好意を頂いたのだが、腹一杯のため、皆1切れ、2切れでハシを置くのでした。
8月8日(日)
またあの猛暑が戻ってきた。今日は完全な休養日。標高差0mという話が出る。8時10分にキャンプ場を出発し、広瀬町を通り、安来市で国道9号線とぶつかった。この道で今度は大山を西側からはっきりと見ることが出来た。
松江まであと○kmの標示が続く中、皆スピードを出す。今までの行程とは違い、やはり交通量が多い。松江市に到着すると久々の都会という感じだ。しかし松江駅前でコッヘルを広げて人目を気にせず食べたのは、皆の合宿慣れを示す所か。昼食のあと我々1年は松江城に寄ることもせず、喫茶店に入ることになる。
よく利いた冷房の中、皆疲労のためか、口を開けることなく、ただ店に置いてあるマンガに目を落とすだけである。 1時間余り居たあと、またあの蒸し暑い街中へと戻っていった。松江市から宍道湖の北岸を走る。
平田市を通り猪ロキャンプ場に到着する。このキャンプ場は日本海の浜にあり今合宿で初めて海を見ることになる。ここで夕方まで泳ぐ。 1日も風呂に入らなかったC班にとって、合宿初めての水につわるという行動に接し涼しんだ。
夕食をたべながら見た日本海に出ている漁火が感動的だった。夜は花火大会、歌の尻取り大会と続いてスイカも頂き、合宿初の休養日の夜を楽しんだのでした。
8月9日(月)
またしても雨。7時35分キャンプ場を出発して舗装の峠を1発越えて下った所が出雲大社。OBの田中氏はC班に参加して下さったが、大社駅で帰られることになる。
雨中の峠を1発越えた後、三瓶山へと向かう。大山に続いてまたしても雨で残念。ここで、OBの松森氏と別れることになる。松森氏はこのあと他の班と合流すべく向かわれた。そのあと南下して羽須美村のキャンプ場に着いたのが4時53分。キャンプ場で高橋氏と北村氏は即席の釣りざおで釣りをするのだが、魚が食卓にのらなかったのはいうまでもない。
8月10日(火)
ポスの浜田さんは疲労を考えてか、5時30分の遅い起床となった。徳前峠を越えたあち、久々のフリーランとなる。終点の栗屋峠を下ったあと、今日3つめの峠、明神峠へと向から。今日も標高差1,000mを越えた。バンフの「55キロ、450m」がうらめしい。もうバンフの距離・標高差を信じる者はいなくなった。
キャンプ場に到着したのは3時53分。広島市から20kmあたりの地点まで来たのでした。さすが広島市から近いこともあり、キャンプ場は、レストハウスあり、炊事場には冷蔵庫ありの豪華さでした。美人の保母さんが居たこと、迷い猫が皆に可愛がられたのは、このキャンプ場の出来事でした。
早く到着したため、洗たくや洗髪をしてすっきりした気分になると共に、バンガローで寝ることになり、雨で濡れ臭気たちこめるクラブテント以外での睡眠とあいなったのです。だがCL会議で翌日は標高差2,500mなどと噂され。翌朝の起床が4時と決ったのでした。このおどしが利いたのか、
北村氏は夜中バンガローで
「高橋さん、だから駄目って言ったじゃないですか」
と大きな寝言を吐き、同じバンガローで寝ていた私達はしっかり起こされたのでした。
8月11日(水)
4時起床。コース説明での「本日はC班の1番長い日だ」という発言で皆緊張する。6時47分出発し、可部線沿いにスピードを出して西下する。
私はCLの松広氏に何度も離れることになり、班長の山崎氏に叱咤激励される。可部線と別れ二軒小屋へと向う。標高がどんどん上っていく。五里山を越えて山口県べと入った。
この地道の下りで工事中であり車両通行禁止という標識もあったが、ひき返すことも出来ず、強行突破。押しかつぎをしながら何とか通ったのですが、このあとの下りで、前を行く松広氏は転倒、一方、中本氏の自転車に大きな衝撃を与えることになったのでした。
裏匹見峡に到着したのが3時40分。皆頑張ったせいか、意外と早い到着でした。だが買出しがまだ済まされておらず、買出班は300m下の街まで向かうのでした。
買出班が行って、私達はなごんでいる間、鍵本氏の一言がその場の雰囲気に緊張を走らせた。何と中本氏の自転車のトッチュープはひびが入っていたのでした。先程の地道でのショツクに耐えきれなかった様子で、業者のいい加減さが暴露されたのです。
8月12日(木)
「津和野に行きたい」という要望が受け入れられ、津和野回りの迂回路コースがとられることになる。そのため本日もまた4時起床。
残念ながら中本氏と付添の高橋氏は、トップチュープを熔接すべく街の工場へと向かい、戦線離脱。7時にキャンプ場を出発して峠を1発越えたあと津和野に下ったのでした。
津和野は山陰の小京都と呼ばれ、森鴎外や西周の生家、石見半紙の製造工場を見る。しかし皆の期待したギャルは少数にとどまり、11時30分出発。青野山を越えて、買出し地点で中本氏・高橋氏が戦列復帰。
チュープの折れる急険は依然つきまとうものの、全員そろってめでたし、めでたし。買出しを終えたあと、米山峠を越え、途中からフリーランとなってキャンプ場の長野山に向かった。
長野山の頂上からの夕暮れは印象的でありました。長―いきつい日が終わり、C班だけの最後の夜を迎え、一人一言もいつもより長時間費やされた。合宿もあと2日となり、それぞれ色々な思いが脳裏を横切るようです。このあとレストハウスでベストテンを見たのでありました。
8月13日(金)
朝起きてみると、前日炊事場に置いてたはずの調味料がなくなっていました。これには食当の怒りが爆発した。長野山から下り、金峰峠を越え東下する。途中ダムの建設により迂回させられるが、この道のトンネルでは、前後からの反射音良く「聖女たちのララバイ」の歌声が聞こえてくるのでした。
前日のTVの影響の様です。岩日線沿いに走り、とうとう広島県に戻ってきたのです。キャンプ場に着けば、なつかしい顔、顔、顔。キャンプ場最後の夜に話は弾んだ。これでシュラフに寝るのも合宿最後かと思うと一味の寂しさも感じたのであります。
8月14日(土)
いよいよ広島。広島駅前ではどの顔も誇り、自信。満足感に満ちて、校歌・紺碧を歌ったのでした。コンパで感激の余り中本氏がダイビングしたこと、劇場での高橋氏・宇野氏の御活躍、縫部氏の逆噴射、西川氏の異様な目つき等々。
エピローグ:
山陰夏合宿・C班の特筆すべきことは、14日間1日も風呂に入らなかったことでした。この原稿に対し(SPECIAL THANKS to 北村氏)
小さな出来事 – 丸山
1982年
小さな出来事 文学部5年 丸山
バンコクから南へ約九百キロ、プーケツトという海のきれいな島がある。そこのタウンでのちょっとした出来事について。
その日私はビーチめぐりのサイクリングを終え、日焼けの肌を汗にまみれてタウンヘ戻ってきた。ビールでも飲もうかと手ごろな食事屋に入ると、別に珍しいことではないが、そこのおっさんは中国人の顔をしていた。そう、東南アジアどこにでもいる華僑と呼ばれる人たちである。
するとそのおっさん、やけに私に親切なのである。奥の洗面所で顔でも洗えとか、テープルに着くとすぐに氷入りの水を持ってきてくれたり。
で、私は考えた。このおっさん、私を中国人と思っているのではないだろうか。だいたいこんな所を自転車で走っている日本人なんていやしないし、実際タウンで会う人に「シンガポール?」(つまり「華僑?」)と尋ねられたことも何回かあった。私はせっかくのおっさんの好意をムダにするのも何だし、それにちよっとした、いたづら心も加わって、ここはひとつ中国人を演じてみよう、ということにした。
別れ際、ちょっとマジな顔でおっさんに聞いてみた。
「弥也是中国人鳴?」
(あなたも中国人ですか?)
おっさんは何か私には聞き取り難い中国語をしゃべったが、コマ切れの単語から推測して、バンコクに生れてここへ流れて来たと言っているのが理解できた。奥さんは、たぶんこの地で一緒になったのであろうか、マレー系の顔をしていた。更に私が、
「我嬌鳩是台湾、透是我是日本。」
(私の母は台湾生れ、私は日本人です。)
と言うと、おっさんはウン、ウンとうなづいてから、たぶん「お互い苦労してるな」というようなことを、二言三言しゃべった。どことなく寂しそうな表情だった。
まあ会話はこんな具合で終り、「再見」ということで別れたのであるが、私はこの小さな出来事に、何かずっしりと重いものを感じてしまった。
中国人でも何でもなく、単にタイを自転車で旅している一日本人にすぎない私が、「お互い苦労しているな」というような感情を分けてもらえたのは、さてこれは一体どういうことなのだろうか、と。
私は街はづれの海に面した公園へ行き、木陰のベンチに横になった。アルコール度の少々高いタイのビールが程良く効いて、感情がどんどんふくらんでゆく。
私は、何度も何度も、先程の出来事を頭の中で繰り返し、考え、自分のものにしようとした。タイって何だろう、中国人って何だろう、アジアって何だろう、人間って何だろう、旅って何だろう、どうして私はここに居るのだろう? 結局は何も分かることは無かった。
しばらくして、私はタバコを取り出した。日の前には、もうすぐ夕暮れを迎えようとする南の海が、のんびりとただづんでいた。
「タイに来て、正解だったな、、、」。との思いが、現在でも私の心の中にはっきりと生きているのである。
1983年春 – 生田
1983年春 生田
「Hill up road start」の看板。日本を離れて26日日、遂にHill Climbが始まった。カトマンドウヘ通ずるこの道はヒンドスタン平原から突如として切り立ったノコギリのような山の間に吸い込まれる。
勾配はそれほど厳しくはないが、10日以上、峠はおろかアツプダウンも存在しなかった
広大に平原を走り続け、しかも日本人の舌を拒絶するようなインド料理のために極端に体力が衰えているので、足は鉛をつけられたように重い。今までの時速25kmのファーストランとはうつて変って、かたつむりの行進へと変る。
山はあくまで切り立ち、木は自分の足場を見つけられず、まばらにしか生えていない。湧水が白糸のように幾筋もその間を縫って落ちてくる。左手はやはり険しい峡谷が蛇のようにうねって走り、山の間にそのからだを隠して行く。
山はあたかも人間を阻むかのように、私達の前に立ちはだかっていた。旅の最後のクライマツクスは始まったばかりであった。
私は1人でカトマンドウの街を歩いていた。通りの両側には土産物量が軒を連ねている。ヤクやドラゴンの図柄や幾何学模様を織り込んだ絨毯が古びたレンガの壁にかけられ、軒先にはパツグやナイフ、その他諸々、何に使うのかわからないような物まで所狭しと並んでいる。
通りを行きかう人々は、日本人には親近感を感じさせるモンゴル系の顔を持つ人や、整った顔立ちのアーリア系など同一国民とはいえ、様々である。
ほど良い日差しを受け、インドの街ほどの喧曝感のないザワザワとざわめくような雑踏を歩いていると眠気さえもよおしてくる。何気なく一軒の土産物屋の軒先に陳列されているネパール独特のつば無しの帽子のトルピを手に取ってみる。
その時突然、タイムリミットの到来が間近いことを知らせる刺激が私の身体に走った。私はあわててトルピを元の位置に戻し、踵を返し足速に昨日から宿泊している宿へと急いだ。
急がなければならないのであるが、身体の変調のために走ることはできない。走れば突発的に終焉が訪れるかもしれないからだ。タイムリミットは約30分、距離にすると宿から片道2kmぐらいしか私には行動範囲が与えられていなかった。
身体中に油汗がにじんでくる。今はもう通りの両側に連なる店も、通りを歩く人々も私の目には入らなかった。
ただひたすら宿を目指す。10分程で入口に片仮名で「ストウンハウスロツジ」と書いてある宿ヘ着いた。ロピーを抜けてすぐ廊下の右側にある薄暗い、異臭のたちこめた個室へ飛び込む。やっと波状的に襲って来ていた苦痛から解放されることができたことの安堵感からフツと目をとじる。
ネパール領に入ってからの厳しい道のりが頭の中に浮かんできた。あまりにも広大な起伏の殆どないヒンドスタン平原を10日以上も走り続けた足にはアツプダウンを繰り返しながら徐々に高度を上げていくネパールの道はこたえた。
特にタンゼンからポカラヘの道は全て登りと下りであり、勾配はきつく、ポカラヘ着く前に陽が暮れてしまった。
街灯が殆ど無いため、漆黒の闇と疲労に脅かされての青息吐息で寝静まったポカラの街への到着であった。ポカラでは間近にそびえ立つマチャプチヤレ峰を眺望しつつ、ゆっくりと6日間のエネルギー充填期間を過ごした後、2日をかけてハイウェイとは名ばかりの単なる山道を走り、今流行の最終目的地であるカトマンドウヘ到着したのだった。
それにしても何が悪かったのであろう。昨夜食べた揚げバンであろうか、それとも今朝のオムレツであろうか。私は調子の悪い腹をさすりながら、個室…つまり便所から出て、再び街の散策ヘ出かけるべく宿の間をくぐったのであった。
3月20日、現地時間15時5分タイ航空TG322便はトリブヴアン国際空港を飛びたった。古びたレンガ色が主調の、びっしりと集まった家々が翼下に箱庭のように見える。飛行機が高度を上げるにつれ、箱庭は茶色と緑色の模様に変わっていった。突然、窓の外が真白になった。飛行機が雲の中に入ったのだ。
「やった。遂に成しとげた。」と「もう終わってしまった。」
という相対立する2つの感情が私の脳の中にこみあげて来た。
思えば私の旅の終りにはこの喜びと一種の悲哀に似た2つの感情が常につきまとって来た。私の走りの1つ1つの節目にはこの2つの感情がセットとなってくっついていた。節目の最小のものとしては1つの峠を越えた時、一日の終り、そして1つの旅の終りがある。
節目が大きなものになるに従ってこの2つの感情が強くなっていき、しかも後者の感情の占める割合が大きくなってくる。走っている間には感じられなかった虚脱感にも似たこの感情は前者と表裏一体のものであった。
私のサイクリングの、そして学生生活の総仕上げの意味を持つのがこのインド・ネパールサイクリングであった。
今、この旅の終りに「遂に終わってしまったLという感情が、こみあげてくる中、日本への帰路に就いていた。
欧州自転車見聞記 – 笠松
欧州自転車見聞記 笠松
1.仏蘭西にて
1、仏蘭西にて
フランスヘ着くとすぐに私はリヨン郊外の小さな町ヘツール・ド・フランスを見に行った。まずびっくりしたのは、駅に自転車専用の運搬台車があることで、1台の台車に数台の自転車をぶら下げてそのまま荷物車に乗せ、目的地の駅まで運んでしまうらしい。
そういえばヨーロッパでは輪行している人を見かけなかった。自転車がちゃんと市民権を得ている点はさすがだと思う。町ではロードレーサーが多く、小さな子供から老人、若い女性までが気軽にロードを乗り回しており、自転車競技愛好者の層の厚さを感じた。ツーリング車もあつたが、日本のランドナーのような車ではなかった。
パリの有名自転車店をいくつか見たが、それぞれ店に個性があって楽しかった。完成車ばかり置いている店も、部品やウェア類をたくさんそろえている店もあった。どの店も正面ウインドウには自慢のレーサーを並べ、奥に入ると様々な車種がそろっているようだった。
2.伊太利にて
2、伊太利にて
イタリアでは、ナポリ、ポンペイ、フイレンツエなどの町の小さな自転車屋を見たが、店というより工房という感じの所が多かった。
こちらはフランスと違ってロードレーサーオンリーだったが、感心したのは子供用のレーサーが非常によく揃っている点で、年齢に合わせて様々なサイズのレーサーがそろっていた。
1番小さなものでは3輪車ぐらいの大きさのレーサーまであり、しかも子供車用の部品がよく揃っているので、1人前のスタイルをしていた。ちょうど日本で子供用の野球用具が何から何まで揃っているのと同じで、それだけ自転車競技がポピュラーなスポーツだということだろう。
もう1つイタリアで日についたのはBMX車が多いことで、どうやらロードレーサーとBMXがイタリア自転車界の2本柱のようだ。
以上、思いつくままに書いてきたが、1番うらやましいのは、とにかくサイクリストの層が非常に厚いこと。老若男女を問わず自転車好きは多い。それともう1つ、ロードレーサーがポピュラーで、気軽に乗られていること。
(レーサーのサドルにシュラフ等をしばりつけ、ツーリングしている人もいた。)
逆に期待はずれだったのは、デパートではほとんど自転車を扱っていないこと(日本並み)。そして自転車関係の書籍をフランスでは申し分なく揃っていたが、イタリアではあまり多くなく残念だったことなどである。
いずれにしてもヨーロツパはさすがに本場だと思うことが多く、日本もいつかあのように自転車が理解される日が来ればいいと思っている。
安全 – 川村
安全 川村 1983年
私は中学でワンダーフオーグル部に入った。このクラプは安全を何よりも大事にしていた。私が入学する前年に死亡事故があった事が、その最大の原因であろうが、野外活動は安全こそが、何にも優先する条件である事を教えこまれた。危険が予想される時には、中止や引き返しは躊躇なく行なわれたし、無謀は厳禁であった。
更にもう一つ、私がワンゲル時代に身につけれ野外活動の絶対の原則は、パーティーが一度フィールドに出たならば。リーダーの決断は絶対という事である。
リーダーが決断すれば、進むも退くも、新人から付添の先生までも、それに従わなければならないという事である。そしてリーダーはその決断をするだけの知識と判断力を持たねばいけないという事である。
そして私は早稲田に入り、サイクリングクラフという、やはり野外活動のクラブヘ入った。新歓ランは何事もなかったが、私にとって二つ目の行事であった二年企画が問題だった。
二年企画は南アルプスの丸山林道の予定で、前日から身延駅に泊り込んでいたのだが、当日雨が降った。当時の二年生の方々が、道路状況等様々な情報を仕入れ、二年会長としてこのランのリーダーであった樋口さんの所へ持寄った。
その結果樋口さんは二年企画の中止を決断したのだった。そして三年生以上の方々も、それに素直に従った。この時、私はWCCに、本当につかり込む気持だった。
更に秋の一年企画の時、やはり進退の決定を必要とする事態に落入った。この時私は都合で不参加の一年会長の代理としてリーダーの役だった。そして二年。三年の先輩方は、「おい川村どうするのだ。」と聞いて来た。
この時は、準備不足と一年の力不足があまりにはっきりしていたので、退く他に決断の仕方がなかったが、WCCは一年とはいえ、リーダーの決断で動いたのだった。
WCCに惚れ直すと共に、もつと実力をつけて、GOの決断を下せるような主将になりたいと思った。このようにWCCはクラブとして、安全面で充実しているが個人面ではどうだろうか、私の感想としては無謀なプライベートランがみうけられるような気がする。
林道の終点から更に先へ進む行動が流行になりつつあるのは素晴しいと思うが、流行にのって自分の実力以上の計画をたてる事があると思う。
丸山さん等の活躍に刺激されているのだろうが、その丸山さんも二年の頃、雁坂越を計画しながら、当時の実力では無理と判断して計画段階で断念している。その後実力をつけているからこそ、更にハードなランを丸山さんは成功させている。
もっとも判断力が皆十分とはいえない。私の判断力では、もし私が主将であったならば、山陰合宿の初日は鳥取に停滞という決断しかできなかったと思う。
実は上田の決断が正しかったので、私より上田の方が主将として優れているというWCCの判断が正しかったことになる。
ということで、WCCが、今後も安全なサイクリングを楽しむ事を祈ってむすびとする。
さらば輝けるとき! – 林
さらば輝けるとき! 林
その日は朝から雨が降っていた。ポクは昼で走るのをやめ市民公園の屋根付きベンチで泊ることにした。ボンカレーの夕食をすませてテントを張りさあ寝ようとしたとき、自転車に乗った浮浪者風が雨宿りに入ってきた。
「アンチヤン、どこからきたんや。」
ポクはそっけなく「東京」と登える。
「ホー」とそのまましばらく沈黙。
荷物をさりげなくテントの中にしまう。テントの中で一緒に寝かせてくれと頼まれたらどうしようと考える。
突然「アンチャン、きたないのお。」
たしかにポクはきたなかった。自転車がなかったら彼とまったく同じてある。
「オイチャン今日は競馬でもうけたんや。」
やけになれなれしく話しかけてくる。ボクのきたなさに親しみを感したのかもしれない。少なくとも悪意はなさそうなので少々安心した。
彼は実は結婚していて、今日は働きに行くと言って家を出たが、さぼって競馬を見に行ったという。かあちゃんにまたしかられるというが、ぜんぜん心配しているようすはない。
彼の息子は暴走族のポスで、彼自身は地元ではちょっとした暴力団の顔であるという。どこまでほんとかわからない。貫禄がまったくないのである。
「アンチヤン腹が減ちてるやろ、オイチヤンがおごつてやるわ」
ボクは腹は減っていなかったけどコーヒーは飲みたかったので素直にうなづいた。下心はないと思った。
テントはそのままにして目の前の喫茶店に入っていった。そのときのウエイトレスの驚愕の目は一生忘れられない。とにかくボクらは異様にくさく、きたなかった。
きれいなネーチャンだったけど顔をしかめてメニューをきく。なんとなく痛快であった。
ボクは新宿によく寝ころがっている浮浪者を思い出した。不信の目でチラリチラリと見る人々をニヤニヤしながら眺めている彼らである。
なんとなく彼らの痛快さがわかるような気がした。倒錯したマゾヒズムである。老後は浮浪者も悪くないなと思う。
しばらくしてしんみりと
「オイチヤンは悪いことばかりしてきた。世の中のクズだわ。しかしアンチヤンは違う、うらやましいのお。」
オイチャンは早稲田が高校であるか、大学であるかも知らなかった。字も書けないという。
「アンチヤン、今日おごってやるのはアンチャンに頑張ってほしいからや。オイチャンの分までいいことしてくれや。」
ポクは胸が痛んだ。なんだかとても悲しくなった。2人ともしばらく黙り込んでしまった。
喫茶店が閉店の時間になり、オイチヤンは家に帰っていった。別れ際、ぎごちなく握手をするとオイチヤンはてれて頭をかいていた。
それから1年、ポクは就職の重役面接でなにか感動したことはと聞かれ、この体験を話した。それまでおもしろくなさそうな顔をしていた面接官がその話の後、急に好意的になり、なんとか内定することができた。
10月7日、この会社に落ちたら就職浪人になろうかと考えているときだった。それまで1度も話したことがなかったが、とっさに頭に浮かんできたことだつた。オイチャン、ありがとう、ポクは頑張ります。
「卒業にあたって」- 山根
「卒業にあたって」 山根
私がサイクリングをする契機となったのは、大学3年直前の春休みの帰京時、徳島から出航しているオーシヤンフエリーに、高3のサイクリスト、今中君と同乗したことでした。
彼は、まず千葉在住の友人を訪ね、それから伊豆半島を回り、東海道を走り、実家のある大阪が終点という計画をたてていました。私は、航行中、彼のサイクリング談を聞いていて、次第に血が燃えてきました。
彼が信州を走っていて、地元のサイクリスト・に一晩お世話になったこと、初詣に大阪から伊勢神宮へ行った帰り、雪の峠をかついで登り、雪中でコーセーを沸かして飲んだこと、etc…
そして、その時、私は「サイクル・スポーツ」を見せてもらつたのでした。伊豆半島、京都の風景が鮮やかに載せられていたのが、とても印象的でした。
彼は、早同ランのこと、神保さんのこと、浜田のこともその誌上で知っていました。彼は同志社のサイクリングクラプの部室を訪ねたこともあり、部屋で酒を飲んでいたとのことでした。彼とは、4年直前の春休みに、一緒に明治の森箕面国定公園を走りました。
彼は、ただ今、2浪中なのですが、早稲田に合格して、サイクリング・クラブに入ると言ってました。以上のことから、私は3年時から、新歓ランにロードマンでデビューしたわけです。
山陰合宿の集合地である、鳥取駅へ向かう途上、津山線の無人駅、玉柏駅で寝ようとしたところ、向井さんという方のお宅に一晩やっかいになったこと。これは、サイクリングを始めてまだ半年も経たない自分にとって、すごく感動的事件でした。
向井さんは大学時代、カナダをヒツチハイクで旅行した経験があるから、私のような金欠青年には親切なのだと思いました。向井さんに会うまでに、この駅で、バンやスイカを持って来てくれたオジサンがいたのです。さらに1,000円手渡してくれました。
こんなに親切な人たちがまだまだいて、日本も捨てたものじゃないのです。サイクリング・クラブに入って、更に一段と良かったことといえば、一度に50人以上もの仲間ができたことでした。
早同ランだけ参加できなくて非常に残念だったし。また実質的に3年時しか
動できなかったことが心惜しくてたまりません。しかし、社会人になっても自転車は手放さず、続行し、自分が受けた親切以上のことを、これからは会うサイクリストたちにしてあげられればと願います。
サイクリングの回顧 – 小野
サイクリングの回顧 理工学部 小野
私が最もなつかしく思うサイクリングのひとつに、2年から3年になる時の春休みに走った南九州のサイクリングがある。中部、信州あたりのハードなアタックサイクリングとは異なった、旅の情緒深いサイクリングとなったからだろう。
だいたい、自分は峠を全力で登るサイクリングをしないと気がすまない。脳ミソの回路がそうなっているので、これはどうしようもないらしい。クラブランのフリーランの「ふ」の字を聞いただけで、アドレナリンが全身をかけめぐるようにできているのである。
富士スバルラインは1時間半で上がったし、松本を出てから、乗鞍と御岳とハケ岳の3つを走って甲府へ下るのに6日しかかからなかった。そのランの5日めは、木曽福島から姥神、権兵衛、杖突、麦草の4つの峠を越えて八千穂へ下ったのだから、これはもうアホとしかいいよ―がない。
そんな自分が、九州の内陸を走ったとき、五木村という静かな村を訪れた。九州の脊梁山脈の山ふところ深く、ひっそりと散らばる村々は、平家落人伝説のロマンを秘めて、あちこちの谷間に身を寄せ合うように点在している。
1,300から1,700mの山々に畳みこまれ、プナ、ツガ等の原生林が生い茂る。宮崎県の椎葉村から走って行くのに、不土野峠と自蔵峠を越えて行ったが、降り積もった深い雪に足を取られて、この2つの峠を越えるのに6時間もかかった。
倒れては押し、押しては倒れて、また乗っては倒れ、汗と雪にまみれて峠を越えた。それはいかにも、陸の袋路「奥の院」と呼ばれる五木村へ行くのにふさわしい方法だったのだという気がする。
ねんねした子に 米んめし くわしゅ
黄粉あれして さとつけて
ねんねした子の 可愛さむぞさ
起きて泣く子の つらにくさ
おどま盆ぎり盆ぎり 盆から先きゃ おらんと
盆が早よくりゃ 早よもどる
五木の子守唄だ。こんな哀しい唄の里とはどんなところなのだろう、という好奇心があったので、ムチャクチャな雪の峠を越える気になった。五木村へ降りたのは、4時過ぎだったと思う。
深い渓谷、吊り橋、茅葺き屋根。夕飯の薪を燃やす匂いがする。五木村の日暮れは早い。公民館の前にテントを張った。すると、丸がりの男の子が牛小屋の方からテントヘ歩いてきた。
「よう。こんにちは。」
と声をかけると、
「はい。こんにちは。」
聞いてみると、小学生ではなく中学生だった。
「何か学校でクラブやっているのかい。」
「野球をやっています。」
「部員は何人ぐらい?」
「今、6人しかいません。」
「へえ、少ないな。じゃ、野球の試合ができないんだ。しかし、野球だったらもつと、多くてもいいのにな。」
「いや、みんな引越すんです。だから、ポクのクラスも今度4人いなくなるんです。」
「そんなに引越すのかい?・じゃあ、友達がいなくなって淋しいなあ。」
「ダムができるから、どんどん引越すんです。」
あたりは、もう真暗になっていた。互いの顔が見えなくなったら、その男の子は隣りの家へ帰って行った。通りを少し歩いて何でも売ってる店を見つけて、さば缶を買った。
「どこから来られたんですか」とそこの奥さんが聞く。
東京から自転車で来ましたと答えると、
「あんたアー、東京から自転車で来たんだってえ。」
すると奥から、
「ナニイー?」
という驚いた返事。御主人が、東京からだと聞いて、驚いたようにあらわれた。この御主人は、相当話好きなようで、五木村の歴史から教えていただいた。
「しかし、おまはん、どこからやつて来たと?・へえ、あの白蔵を越えて来たと?。あそこは、おめェ車でも通らんぞ、今の時期は。よお越えてきたのオ、最近のわかえあもんは、車じゃバイクじゃいうて、ドラ息子が多い中で、そりゃ見上げたもんじゃ。すばらしいことじやて。わしや驚いた。」
「しかし、あと数年でこの街が消えるというのは本当なんですか。」
「ああ、ダムのことか。ダムができるのでの、ここは10年以内に水没するじゃろうて。」
翌日には、金川(かなごら)という、五木村でも最も古い家屋の立ち並ぶ集落地を訪ねたが、茅葺きの家の1戸1戸が、ほとりを流れる五木川の清流と同じく、あまりにも静かだった。
本当に誰か住んでいるのだろうかと疑う。どこを歩いても、誰も何もいない。誰かが影で、自分を見つめているのではないかと錯覚を起こすほど、ここは幽寂の集落だ。
その裏山はすでに半分が削られ、醜い地肌の上50mほどのところに、すでにアスフアルト道路が建設されているのを僕は見た。時間の止まった五木村を置き去りにして、K電力のダム建設の計画は着々と進められていたのである。
奥さんに、餅と菓子をたくさん出してもらい、縁台に腰かけさせてもらつて、半身で御主人の話を聞くことにした。
「でも、ここが水没するのは、反対も多いんじゃないですか?」
「いやいや、反対するのはごく1部じゃて。わしかて賛成しとる。というのは、この村には何にも産業がないから、村の若いもんはどんどん外へ出てしまうんじゃて。帰ってきても、山で木を切るしかないしの。山で木を切るような仕事をせえ言うても、若いもんには無理というもんじゃ。そうじゃろう?K電力がどうしてもダムを創りたい言うとるし、寂れて年寄りと子どもの村を、ああこう言うてもはじまらん。そう思うて村の大部分はダムに賛成しとる。」
部屋の中を少し覗くと、清潔な部屋の中にこたつを囲んで、家族はテレビを見ていた。
「ここの街並みも写真に撮ると、そりゃあ、ええ記念写真になるじゃろう。」
霧島の事を聞いたあと、餅のお礼を言って店を出た。真暗な道を歩いてテントヘ帰ると、あの男の子が餅をかかえてやつて来たところだった。母親がテントの人にあげなさいと言ったのだと言う。もう帰るのかい、と聞くと、9時には寝ないと、明日も6時から牛の世話があるのだと言う。
五木村の朝は、濃い霧がたちこめていた。ラーメンの残り汁で雑煮をしていたら、向こうで大きなオバサンが歩きながら手招きをしている。ひょこひょこついていったら、みそ汁に御飯を食べさせっくれた。霧が消えて、上を仰ぐと空は快晴だった。山と山の間にいるせいか、見上げる青空は一際高く見えたのを思い出す。
登校中の女子高生が、
「おはようございまあす。」
と僕に声をかけた。吐く息が自い。僕も、おはよう、と返事を返したとき、テントをたたみながら、暖たかな街、五木村に触れたような気がした。
旅をするということは、新しい世界へ裸足のまま踏み出すということだ。もちろん、そうでない旅も知っている。しかし、決められたスケジュール通りに滑らかに進む旅は、もう旅とは言えない。寝るところさえ決めない旅こそ旅らしいものになるのではあるまいか。
約束、家庭、習慣、学校その他もろもろの重たげに自分にぶらさがつてこびりついているものを、一挙に放り出して風の中へ駆け出すという、憧れにも似た衝動が旅の原点であるとするならば、旅で期待しなければならないのは、偶然という現象だ。
はじめての土地を訪れる印象は、その季節やその日の天候によって全く異なる。そして、旅をするこちら側の心理的状況によって未知の街というのは1人1人にいろんな顔を見せると思う。それもまた偶然だ。私の体験から得られた五木村のイメージは、あくまで私の五木村であって、実在する五木村とは関係がない。旅とはそういうものだと思う。
できればもう1度、あの峠を越えて五木村へ行ってみたいと思う。しかし、その時にはすでに湖の底に沈んでいるかもしれない。あの時に自分の行った場所は沈んでしまったとしても、あの日あの時に出会った五木村は、私の心の中で生き続けるだろう。今これを書きながら、そう思う。静かに流れる五木川の両側に古い家屋がひっそりと立ち並ぶのを、今自分は想い出している
この後は、霧島、開聞、内の浦、日南海岸を走って、大分まで。上田と四国に渡って、春合宿へ参加した。その間、4日も地元の方に泊めていただいたし、内の浦のロケツトセンターでは、警備の人に文部省の電話を使わせてもらった。椎葉では、乾電池を買ったことから、椎葉伝説が生まれた。
それ以来、あのテントは○○テンと呼ぶようになったが、「お前のテントで走らたけど、なんもいいことなかったぞ、お前の○○テン」
と、谷川に言われても、この超大だこは運に恵まれないとできないサイクリングの秘技であるから仕方ない。
3年生の秋に1人で走った中部。信州は、忘れ難い想い出のアタックサイクリングだ。椎葉も忘れ難いが、ここも忘れ難い。その時早稲田では100周年記念行事があり、学生は1週間程休みだった。
何でもパリ大学やプリンストン大学の総長が来早したらしいが、あまり学生には関係なさそうだったので、最初から中部信州へ行くことにしていた。
100周年記念のぶんは、うちのクラブとしては小林青少年を弁論大会へ送り込んだので、それで許してもらったことにする。しかし、うちの大学は学生とは無関係に存在する部分が多いので、何とかしてもらいたいと思う。
春休みや夏休みの間、いったいいつ開いているのかがわからない。生協は新しくなったが、パイクやスクーターを売るとは何を考えているのか。この間、クルーザーボートが店頭に並んだときはもっと驚いた。
アホなもんを売る前に、軍手を売って欲しい。ゴミ捨て用のビニール袋を売って欲しい。馬券も宝クジもタワシも売るべきだ。これこそ、庶民の生協のあるべき姿だ。最近のプルジュア嗜好の生協は非人道的であろう。茅野が死んでしまうではないか。
話をもとにもどそう。その中部信州を走った話であるが、松本を出発して乗鞍、御岳、ハヶ岳を走って甲府へ抜けた。6日間の走った総標高は13,000m。前々から朝タトレーニングを積み、準備は万全だった。
一日目は何ということはない。2日目は、1之瀬から剣が峰へ。しかし、ここでとんでもないアクシデントに見舞われた。その下りですっ転んで、膝をイヤというほど小石に打ちつけたのである。
ついでにキャンプ場にサイフを忘れてきた。樋口氏に伝授されたこの病気は、まだ治ってはいなかったのである。乗鞍スカイラインは何とか下った。
あの料金所は、じいさんがやっているので、アウタートップで何なく通過。しかし、文なしで安房。平湯両峠を越えるのはつらかった。ハンガーノックを初めて経験したのもこの時だ。
スーパー林道を走っていた頃には、痛めた右膝が激痛に変わりはじめていた。意識も薄れて、2日目だというのに右足が動かない。キャンプ場へたどり着いたときには、日が暮れていた。まあ、キャビンという喫茶店では、サイクリストだと話する、
食事代はタダ、おまけに膝にテービングまでしてもらったし、翌日、樋口氏が乗鞍山頂へ行ったときには吹雪だったらしいので、ラッキーではある。キャビンの人に感謝!
その夜、きつね色の落葉で埋め尽された白樺のキャンプ場に、たったひとり寝っ転がって見たあの夜空、ダイヤを散りばめたような星空はよく覚えている。
3、4日目は、濁河峠を通って御岳から木曽福島まで。山の中にテントを張ると、夜中にサルや変な動物がやってくるので、コワイのである。山水で炊く飯は格別うまい。
5日目は、自分にとって記念すべき日となった。空は快晴。朝6時の時報と共に出発し、姥神、権兵衛両峠、杖突峠、そして麦草を越えた。杖突峠から諏訪湖の街と、ハケ岳連峰を見渡しながら、自分は必ず越えてみせる、と必に誓っていた。
最後の峠ヘアタックしながら見た、北アルプス、中央アルプスの雄大な眺めは、今も忘れることはできない。秋特有の高い空が、次第にオレンジ色に変化していき、1番星が見えはじめた頃には、山頂付近に雪を頂いたアルプスをシルエットに、空が赤く燃えていた。
自分も確かに燃えていた。以前も走っているのに、全然違うのである。右膝をやはりかばうように走りながら、ヒユッテに到着した時には、ほぼ体力の限界。こういう時には、何も考えられないのであるから、その下りで見た佐久や小諸の夜景しか覚えていない。心の中で、「自分はとうとうやったのだ」と叫び続けていた。
次の日は最終日。テントをたたんで、八千穂駅を出る。馬越と信州、木賊峠を倒れては走り、また倒れては走り、野猿谷を押し担ぎ、昇仙峡を通って甲府へ降りた。走りながら、「きの―、アホなことするんやなかったの―」と思いつつ、しかし、こんなに必死になって走ったことはなかったと思う。
自分の体力をほぼ使い果たした頃、昇仙峡から1キロ下ったところで、ふいに甲府の夜景に出くわした。あまりのカンドーで腰が抜けた。甲府の夜景は、6日間のランを締め括るのにふさわしい眺めだったったのだろう。「人が生きている」ということに、妙な感動を覚えた。
ふり返ってみると、2日目に右膝を打つというアクシデントがあったので、前々からのトレーニングなしには、とても6日間を乗り切ることは不可能だったろうと思う。
こういう時の為にも、虚弱児には日頃からのトレーニングをお奨めする。しかし、何でまたこんな超大ダコをしたのだろう。もういっぺんやってみイ、と言われてもできっコない。今想い返しても、吐き気がしそうである。
何か強烈なこと、衝激的なこと、感動的なことが自分の身の回りに起こらなければ、生きていても面白くも黒くもない。人に感動するよりは、自分のすることに感動したいという心の奥底からの欲求を感じるたび、私はアタックサイクリングを試みたように思う。
1人で走り続け、山の中にテントを張り、大自然に立ち向かうように峠への道を全力で登るサイクリングは、とても都会では得ることのできない満足感を与えてくれるのだと知るのに、このクラプに入ってそんなに時間はかからなかった。
自分の可能性への挑戦、何んと響きのいいことばなのだろうと思う。全力を出し切る、体力のすべてを出し切るそのためには、高レベルの精神状態での自分との戦いである。
中学時代からスピードを競う陸上競技をしてきた自分にとっては、全力で走り切ることは情熱があるからというよりは、それは自分の習性ではないのかという気がする。
しかし、この習性こそが、サイクリングをする上で、この上ない武器となっていたのではないかと思う。
早く走ることだけがサイクリングではない。しかし。大自然を相手に早く、多く自分がどこまでやるかという量的な目標を達成することに、自分は今だに魅力を感じる。
そのために計画を練り、トレーニングを積み、出発前から自分自身を高めておくのである。
それを自分の行動力で成し得たときには、喜びは何倍にもなって返ってくる。自分にしかできないことを見つけ、それを実現し得たとき、人間は自分の存在を発見し、個性を生みだすはずである。
本来のサイクリングの姿は、小さな目標を持ってのんびり走る主体性のない、風に吹かれるままのものだと思う。私も同じ走るならその方が、いろんな人に会えてずっと楽しい。アタックサイリングを試みたのは、それとは別に自分自身に劇的な事件を求めたかつたからだと思う。
もしサイクリングに出会わなければ、学生生活の中で「体力の限界に挑む」なんてことはできなかった。ま、このランはその代表として、創立100周年記念ランとでも名付け、よくもまあ、あんなあほなことをしたもんだと、忘れないつもりでいる。
あと、沖縄も面白かったなあ。西表島では、世界1といわれるサンゴ礁の海を毎日泳いだ。やはり旅は、のんびり自由でなくてはいけない。与那覇岳で見たのは、あれはやっばリヤンパルクイナで、西表島で見たあれは、イリオモテオオゴリラだったのかもしれない、と今ぼんやりと思う。現役生諸君よ、今の自分は永遠なのだ、などというのは錯覚だぞ!
いいかよく聞け、今の自分に可能な限りの体験を求めよ。自分の力と行動で、二度とない一瞬をとらえよう!
ある青年の手記から – 浜田
ある青年の手記から 浜田
人間の身体とは不思議なものである。またそれにしばしば伴なう病も不思議である。そんな病の中に「自然気胸」という名の病気がある。これは簡単に説明するならば、肺壁に小さな穴があいて、肺がつぶされてしまう病気である。原因は現代医学をもってしてもはつきりとはわかっていない。ただ、水泳選手、長距離走選手、吹奏楽者などといった比較的肺を酷使する人たちに多い傾向があるということが言われているだけである。
彼は当時、大学二年生であった。自転車のサークルに所属していて、次期のクラブ運営における副将という任務を受け継いだ直後の頃であった。学校では後期の授業も終わりかけていて、間もなく語学などの教場試験が始まり、その後には後期試験期間がひかえていた。その冬になって何回めかの雪が降って、消えたあとの寒さの厳しいある晴れた日に、彼はその自然気胸にたおれた。つぎの文章は病床での彼の手記の一部である。
俺が自転車に乗って長期のツアーをして、いったい何が得られ、また何の得があるわけか全くわからない。どれだけのプラスがありどれだけのマイナスがあるのだかわからない。しかし今の自分がやりたいことは自転車に乗ることである。
そのことで授業に出ないこともしばしばあり、勉学もかなり手薄になっていることは否めない。それでも俺はわけ(理由あるいは意義)もわからず、自転車に乗っていたい。仮に何かの理由で、それが勉強にしろ、仕事にしろ、家族にしろ、女性にしろ、俺が長期ツアーにでることに足をひっばる理由がでてきたならば、その時俺が選択できる道は三つ考えられる。
まず一つ日は、そのなんらかの理由を全て捨て去って自転車に乗ることである。とは言っても、それらはとてつもなく大きな力を俺に投げかけてくることであろう。勉強にしても仕事にしても大変な魅力があるにちがいない。しかしとにかく捨て去ってしまうしかない。
第二番目は、それら魅力あるものは捨てない、しかも自転車も捨てない。両方いっしよに手掛けるのである。しかし、だれもが一日二十四時間と限られているので、二つのことをやるには、どちらも中途半端になってしまう危険性が常につきまとう。
最後の第三番目の選択は、そのとりつかれたものに自転車から乗り換えてしまうことだ。しかしこの時というのはまさに、今まで自分が綴ってきた己の青春に終止符をうつ時だと決めている。そう青春が終わるのだと思っている。
この自然気胸のため、退院してからもしばらくは安静にしていなくてはいけないらしい。三カ月から半年くらいは息の切れるような激しい運動は禁じられている。さもないと再発し、癖になるそうであぶないらしいのだ。
だからといってそのことを恐れて、自転車をおりるようなことがあるとするならば、すなわちそれは己の青春に終止符をうったことを意味する。三カ月もすれば五月になって新入生歓迎ランがまずあるし、その後つぎつぎとランがある。もし半年も安静にしていようものなら、あの夏合宿すら参加することができないではないか。副将のいない夏合宿なんて前代未聞だ。
しかし、そんなことする気は手頭ないし、できやしないだろう。だから俺はまた自転車に乗る。もちろん自然気胸の再発は心配ではある。でもまだ青春のベージは終わらせやしない。まだ見知らぬ土地へ、見知らぬ人々の中へ自転車ではいっていって、山の中で、あるいは海岸で満天の星を見ながらシュラフの中でねむりたい。雨の中、ビショ濡れになって、今にも泣きだしそうな心を抱いて走っていたい。
また、長い合宿でいや気がさし、疲れきってしまい、人とのぶつかり合う中でペダルを踏んで、最後の解散地で満面の笑みを分かち合いたい。そういうことすべてに終止符をうつなんてとてもできやしない。
だから俺は走る、再び自然気胸になって、それ以後運動ができなくなったとしたら、その時はその時で俺も潔く身をひこう。再発して肺がたとえ片一方になったとしたって本望ではないか。その時は本当に自転車をおりるときだ。俺は走る。こんなことなんでもないや。
彼は退院後、新歓ラン、夏合宿もすべて元気に走った。
今、彼は元気である。
編集後記
編集後記
いやあ、ほんとにネコはよくやってくれました。ほんとに大変でしたね、アキレス腱なんて切っちやって。ごくろうさまでした。(ハマダ)
たまたま居合せた編集会議、アー幸せ、好きにして、アーそこ、もつと。(ハゲオヤジ)
活髪、オノダを加えた五年会集合!落書ギプスが軽い。今日も元気なこねのねこ。御苦労さんでした。(ミニラ)
編集者怠慢のため出版が一年近く予定より遅れた事をお詫びします。社会人になり学生時代とは別な意味の充実した日々を送っていますが、あの胸いっばいになる感動が時々とても懐しくなります。
そんな感動を少しでも伝えることができたらこの「峠」を出版した意味があったと思います。
最後に発行に際し、多額の援助をして下さった、神金自転車商会、原サイクル、サイクルセンターすずき、オギワラ、沢田屋、つるやの各社、並びに完成まで辛抱強くつき合って下さった明宝印刷の皆様に心から感謝致します。(ネコこと林(由))
峠 第16号
発行日 1984年12月1日
発行所 早稲田大学サイクリングクラブ出版局
Editor’s Note
1983年の出来事。昭和58年。
2月 – PGAツアーで青木功が初優勝。
4月 – 東京ディズニーランド開園。
7月 – 任天堂ファミコンを発売。
9月 – 大韓航空機撃墜事件。
映画「スターウォーズ/ジェダイの復讐」
第25回日本レコード大賞 1983年 矢切の渡し 石本美由起
WCC夏合宿は、「山陰 : 鳥取から – 広島まで」でした。
=====
こんにちは。WCC OB IT局藤原です。
16号の最後に、浜田君の文章があるが、当時我々はかなり心配しました。というのも、彼には
相当の才能と意思があると思われていたからです。病を克服し、サイクリングにかける思いがつづられています。必読!
当時の文章をWEB化するにあたり、できるだけ当時の「雰囲気」を尊重するよう心掛けたつもりです。
文章と挿絵はPDF版より抜粋しました。レイアウト変更の都合で、半角英数字、漢数字表記等を変換していますが、全ての誤字脱字の責任は、編集担当の当方にあります。もし誤りありましたら、ご指摘をお願いします。
2024年冬、藤原