峠「20号」_2002_2000年度

たっぷりの時間を ゆっくりと過ごす

サイクリングクラブ創部40周年にあたって – 薬師寺

サイクリングクラブ創部40周年にあたって

第40代主将 薬師寺

今年で創部40周年を向かえる早稲田大学サイクリングクラブ。40年、長い時間である。直接的利潤の絡まない、サイクリングという純粋な1つの目的性をもって結成された集団がさまざまな変化、進化を繰り返しながらも40年間生き続けるというのは並大抵のことではない。一体の持つどのような魅力によってここまで息の長い、愛される組織ができるに至ったのか、私なりに入部当時のことを振り返りながら意見を述べさせていただきたいと思います。

私見としましては、WCCの魅力はその「走り」と「人」に集約されていると思うのですが、この2つの魅力は分かちがたく結びついているものであると私は考えます。4月初旬、新入生勧誘シーズンで特に入りたいサークルもなくぶらぶらと回遊魚のように大学構内を何周もしていた私を呼び止め勧誘してくれたのは38代主将紙浦先輩でした。

当時の私はサイクリングに特別の興味を持っていたわけではなかったのですが、出店に来てみてその先輩達の持つ独特の風貌―様々な先輩方がいらっしゃいました汚い、ゴツい、男臭い、世捨て人的(これらは全て肯定的な意味において書かれています)にいかにも「早稲田」的な魅力を、世俗の常識にとらわれない凄みのようなものを感じたのでした。

そしてそれはアルバムを見せてもらうことで予感から確信へと変わりました。そこに山があればその険しさをものともせず乗り越え、そこに川があればその水を飲み、そこに海があれば迷わず飛び込む。私はそんな無茶苦茶な旅のスタイルに大きな憧れと魅力を感じ、入部を決意したのでした。しかし実際に走ってみるとWCCのランは当初私が予想していたほどお気楽のものではなかったのです。

かくして私は初の合宿に参加したのですが、それは私の期待を少なからず裏切るものでした。怖い先輩に囲まれて今まで登ったこともないような急坂を延々と登らされた挙句、キャンプ場につけば自由時間もほとんど無しに食事、そして就寝。当時の私は先輩にひたすらついていくのに精一杯で、アルバムで見たような美しい景色を楽しむ余裕は全くありませんでした。しかしながらゴールしてみれば何かしらの充実感のようなものを感じ、また何より一緒に走った仲間達との絆を感じたのでした。後で見たこの合宿のアルバムに写っている自分も、どちらかといえば笑顔が多かったような気がします。そしてそれから合宿への参加を繰り返すにつれWCCのクラブランの魅力にとり憑かれていったのです。

WCCのクラブランの魅力とは何なのでしょうか。これに対する回答は全く人それぞれでしょう。日本全国、メジャーな場所も、全くそうでない場所も含めてあらゆるところを見てまわれること。ひたすらストイックに峠を攻め、自分を限界まで追い詰められること。距離を稼ぐことに対する喜び・・・などといったところでしょうか。
しかし、上に挙げたことは実は全て個人においてもできてしまうことなのです。日本全国を見てまわること、走りで自分自身を追い詰めること、距離を稼ぐこと。それらは、個人の走りにおいてもやってできないことではありません。

ではクラブランの本当の魅力とは何なのか?クラブランにおいてでしか得ることのできないものとは一体何なのか。それはやはり、WCCの「走り」と「人」が交差するところに存在するのではないでしょうか。皆さんもよくご存知のように、ゴールに辿り着くまでには様々な出来事があります。ちょっとした喧嘩、いさかいなどは当たり前。深刻なメカトラブルやコースの変更など、頭を悩ませることがいろいろと起こります。けれども、それらの問題すらも合宿の魅力を形作る1要因となりえるのです。

まさにクラブランから得ることのできる最高の宝は人と人との絆である、と私は思うのです。厳しい規律のもとで毎日常識外れのキツいコースを全員で走り、毎日同じ釜で飯を食い、毎日一緒のテントで寝ること。こういったことを繰り返すことでしか得られないものがあります。人の集まりと真剣さの伴った行為とが同時に揃わなければ感じることができないものがあります。

1年は必死に先輩に食らいつき、2年は鉄鍋の重みに苦しみ、3年が皆を締める。それぞれがそれぞれに課せられた役目をしっかりと果たしながら、全員が唯一共通して持っているといえる目的、すなわち全員無事でゴールへ辿り着くことを目指して必死にペダルを漕ぐこと。そこから起こる皆の一体感。これこそがWCCの持つもっとも普遍的な魅力であると私は考えるのです。

まさに、苦楽を共にするといった感じでしょうか。こういった魅力があったからこそWCCは40年という長い時間続いてきたはずです。だからこそ、その魅力を生み出す土壌を作り出され、そして受け継がれてきた多くの先輩方には尊敬と感謝の念を感じずにいられません。
今回完成した新たな「峠」の中にも、WCCの「走り」と「人」を通してクラブ員達が感じとった人と人との絆が描かれていることでしょう。この魅力を失わない限り、どんなに時間が経っても、どんな変化が訪れてもWCCがなくなることは決してないと私は信じています。

第38代 – 紙浦

第38代 第38代主将 紙浦

サイクリング。この言葉が指し示す範囲は実に広い。限られた期間・限られた人数の下で、我々が目指した道は何だったか。1年の活動を終えた今、我々が描いた軌跡と総括を此処に記す。

改選総会を経て新執行部が発足し、四国にて春合宿が始まる。困難な気象条件の下、数々のコース変更を始め、予想外のアクシデントが続発する。各クラブ員が雪辱を胸に、松山を後にする。

新たにクラブ員が加わり、新歓合宿を迎える。天候にも恵まれ、埼玉・秩父方面での日程は爽やかに終了した。FO会議、早慶戦等を挟みプレ合宿を迎える。もともと夏合宿への総点検という意味合いを持たせた合宿ではあったが、ここでも厳しい試練を迎える。タイムテーブルの大幅な遅れ、メカトラの発生、それに付随する主将の離脱等。様々な問題点が露呈したが、このことは後の夏合宿に向けてのいい経験となった。
また、かような状況下で合宿を乗り切れたのは、執行部各員の意識の向上と、1年生の肉体的・精神的タフネスさの充実が挙げられる。ほろ苦い記憶ではあるが、また収穫の多い合宿であった。

夏合宿。我々が目指した伝統と機能との融合というコンセプトは、この地で無ければ成し得なかったかもしれない、そう感じるほど北海道での合宿は新鮮だった。
どこまでも続く平坦な大地、肌寒さすら感じる冷涼な気候。薪ではない食事風景、12日という合宿期間。少々形式が変わろうとも、大事なことは如何に記憶に残るものとするか、いかに熱くなれるか、それに尽きる。皆が力を出し切り合宿を成功させた記憶は、今も脳裏に焼き付いている。

1年企画、パートラン等を挟み早稲田同志社交歓会を迎える。個人的には夏合宿が大好きであるのだが、野営地での煩雑さから解放されて純粋に走ることを追求でき、その走ることを通じて互いに交友を深め37年間続いてきた早同にもまた格別な味わいがある。来年の再会を誓いつつ、互いにしばしの別れを告げる。

追い出しラン。1回り大きくなった後輩の背中を眺めつつ、自身の達成感と一抹の寂しさとを噛み締める。宿に駆けつけて下さった先輩、苦楽を共にした同輩、次世代を担ってゆく後輩らと共に酒を飲み、騒ぎ、38代の軌跡と共に夜が更けていった。

思うに、我々だから出来た事、また我々だから成し得なかった事、伝統とはそれらを積み重ねた結果である。ゆえに、当初はWCCの名に恥じない活動を、あるいは各役職にふさわしいパーソナリティーの追及を求めてやまなかった。しかしそれらは結果に過ぎず、各員が各自の理想を追求している過程こそが、やはり一番輝いているのではなかろうか。

この1年間の充実した日々は、一生忘れがたい思い出となろう。また、そこで見たもの・感じたものは、今後の人生において大切な糧になると確信している。

そして今、38代を共に作った素敵な仲間達に、改めてこの言葉を送りたい。

「ありがとう。今後とも宜しく!」

春合宿-3年生の1日 – 紙浦

春合宿-3年生の1日 3年 紙浦

あの日は、確か3月1日、よく晴れた日だと記憶する。前日寒風山付近がふぶいていたこともあり、この日はたまらず宿にかけ込んだ。したがって、朝目が覚めると布団の中であった。いそいそと出発準備をし、コース変更した。県道40号を上って行った。道が前面凍結しており、嫌な予感はしていた。が、「今日は晴れているし大丈夫!」と、自分に暗示をかけ、昨日雪だったことは考えないことにした。

途中、「大滝」というでかい滝がカチンコチンに凍っており、感動した俺はカメラのシャッターを押して押して押しまくった。この時は確かにまだはしゃいでおりました。雪中ランだー、などと1人ではしゃいでおりましたが、最後の集落をこえて標高800mあたりにくると、もはやサイクリングではなかった。かつぎ、おし、ひっぱり、時には転がすという行為も体験しました。それでも進み続け、気が付けば雪が膝まで来てるではないか!

あまりの事態にびっくりして、とりあえず天を仰いだ。あー・・・青いなァ。風の音がするヨ。静かだなア。真っ白だヨー(頭の中が。)・・・。あの時の風景、静けさ、安らぎは今でも忘れられない。

人っ子1人、わだち1つない林道のど真ん中で、雪の上で寝ころんだという経験は、四国合宿の下見でしか味わえない、いい思い出である。この日の後の行程については、もはや覚えていない。

ちなみに、奇しくも時を同じくして3年のK野君が、とある峠で死にかけたことを知ったのは、4日後であった。

春合宿 – 熱海

春合宿 3年 熱海

春合宿、そして四国。あの合宿は、前プラも含めて自分にとって大変意味深く、自分自身相当入れ込んだものであったと思う。四国は実際、「日本最後の清流」四万十川を有し、自分の憧れの人物である秋山兄弟や、ジョン万次郎、坂本竜馬などが生まれ育った土地であった。また、初のフォーサイド、初の本メカとなる立場的な思い入れもあり、合宿への思いは並々ならぬものとなっていた。

その合宿で何を感じ、いかに走り、楽しんだかは各個人それぞれ異なるものであると思うし、記憶に残っていることについても同じことが言えよう。よって、私の四国合宿をここに書いてみようと思う。

3月6日・月曜 集合日
正午我々チーム石鎚は室戸岬に集合した。久し振りに会う友人と前プラの話で盛り上がると言いたいところだが、3年の3人はすでに3月5日に集合済みであったので、古橋1人と合流するだけがその日の主なイベントであった。そして自然と足は海へ。
バカ主将こと紙浦と古橋は全裸となり入水。1人で走りすぎて少し大人になっていた自分は岩の上で眺めていた。2人を写す勝野のうれしそうな顔が忘れられない。やっぱ自分は夏の男なのだと思った時であった。そんなこんなで夕食。
勝野の主張で有名な店でめしを食うことになる。定食が1600円もする所で、ふざけるなと勝野と対立するが、案の定、合宿が進むにつれて金銭感覚は壊れていくこととなった。

3月7日・火曜 1日目
午前中は海岸走り、自分は大変燃費の悪い体で、合宿に入ると大量の食料を必要とし、食い物に関してはかなり性格が悪くなる。が勝野が昼飯のポイントでミスをして、買出しできなくなったことは忘れない。この日は今にして思えば最初で最後のダート日であった。川沿いの気持ちの良い道をみなで楽しく走った。夢野温泉700円也にて幸せな時をすごし、土佐山田にて寝る。

3月8日・水曜 2日目
ルート変更があったため、ひたすら国道走りとなった日。つまらなくてつらい時ほど人はその中で楽しみを見いだそうとするのだろうか。その日から、我らがチームのホープである古橋と記録係で、3年会の『舗装の王者』である古参兵勝野の2人トトカルチョが始まった。
ルールは毎回主な峠でどちらが先にゴールするか、自分と紙浦がかけて、勝者にジュースをおごるというもの。当然、資料走りという名目を持っている勝野が先にスパートし、それを古橋が抜きにかかるという展開となる。その日のステージは高知県南国市の根曳峠。
見事な「まくり」を見せた古橋が勝利。その後大歩危にて四万十カルテット班と偶然に出会ったりして徳島県池田にて寝る。めちゃ寒くて銭湯が天国だった日。

3月9日・木曜 3日目
この日から正式に自分の下見ルートということもあり気を張っていた思いがある。2人トトカルチョ第2ステージは、自分が下見した際、雪と氷に見舞われ、死にかけた東山峠。徳島県と香川県の境にある。これぞ峠といった趣のある峠だと思っている。
さて、結果はかつての輝きを取り戻したかのような逃げを見せた勝野が勝利したが、陰で古橋に「俺の先を行ったらオメーの写真は取らねえかんな」と脅しをかけていたことを忘れてはならない。その後、金刀比羅宮にて無駄500アップをし、香川県観音寺市へ。ここで自分は勝野と2人で風呂探しをしたのだが、近くにある温泉へ行ってみて、びっくり(正しくはフロントでだが・・・)。
フロントのねえちゃんのかわいいこと。2人でしどろもどろになりつつ、そのねえちゃんと話し、また来ます、と言い残して他の班の元へ戻ったが、その時にはすでに2人で絶対にあそこにしようと決めていたのだった。結局フロントのねえちゃんにつられて950円也、とほほ・・.。

3月10日・金曜 4日目
海岸走り、国道走りの超楽勝日。よって書くこともあまりないが、その日に四万十カルテットの異変を知ったのだった。訳もわからず寒い伊予西条の武丈公園にて、話し合っていたら、勝野がブッ壊れていたっけ。

3月11日・土曜 5日目
この日、またもやコースがヤバすぎて変更となった。でもつらかった。というのも2・3発目から雨が降り、新寒風山トンネルを抜けるとそこは雨風であった。しゃれにならない。途中で紙浦が森山の運転する車に乗り、去ってしまったので、全権を握った自分は迷わず予定外の風呂に入ることを班員につげたのであった。

思えばそれが、悲劇の始まり。あまりの寒さ(確か4°C)にすっかりやられてしまったため宿を探すか、合流地へ出向くかで、時間を使ったため、合流地である大渡ダム公園へ向かっている途中ですっかり夜になってしまったのであった。断っておくが、決して向こうの班員を見捨てて宿を探そうとしたのではない。すでに風呂に入ったときには公園まであと2、3キロほどで向こうの班員をこちらに呼ぼうと思っていたのだが、まさか公園があんなとんでもない、当然電波の届かない所であろうとは全く予想だに
していなかったのである。公園のあるはずの道がどんどんアップしていくのである。
暗くて何にも見えず不安であったが、確かにこの先に公園がある。というか公園内に入っていたような気がする。結局森山に伴走を頼み、その明かりで2、300アップはしただろう。あの時は大変御世話になりました。激死にさせてもらいました。冷蔵庫の中にいるようなダムのほとりにて寝た。

3月12日・日曜 6日目
その日は期せずして最終日となってしまったが、当時の心境としては正直言ってもう十分という感じだった。その日は快晴で、ダムのほとりを淡々とこいでいた。最後の峠、三坂峠では最後までメカ工具を運びつづけた、という満足感で一杯だったが、やはりバテバテであった気がする。

それにしても、やはり最終日のあの独特の雰囲気は何度味わってもいいものである。やっている事は異なるが、ツール・ド・フランスを戦い終え、無事フランスのシャンゼリゼ通りを走っている英雄の人たちもきっとこんな感じなんだろうと思った。

2000年春・四国 – 勝野

2000年春・四国 3年 勝野

2月29日晴天、高知県安芸市、岩崎弥太郎の生まれしこの地より私の2000年度の春合宿を含む全サイクリング人生に於いて最も「死」に近付いた1日は始まった。
とは言うもののその日の前半は極めて順調。11時には合宿1日目の目的地である物部村中心街に到着し、意気揚々とスーパーで買ったコロッケをむさぼっているとなにやらケータイの音がする。留守番電話の蓄積通知である。

いやな予感がした。前日、寒風山トンネルまで行く途中、雪の為先に進めないと連絡を受けていたのだ。とりあえず「がんばれ」と言っておいたがもし奴が「がんばれていたなら」、奴がケータイに伝言を入れてくるはずなどないのである。「他の誰かでありますように。祈る様な気持ちで聞いていると例の文句が聞こえてきた。

「もしもし。。サイクリングクラブの紙浦です・・・。」後の言葉が左の事を伝えた。
「紙補回避 石鎚断念」

この瞬間、本合宿で標高1000m以上の道を走破できるか否かは全て私の下見区間(1、2日目)にかかっているということが判明した。以前よりの報告で熱海が別子銅山に向かわず、海岸走りをした事はもはや変えようのない事実である。

午前11時半、腹は決まった。せめてこの先のアリラン峠(標高1250、ダート15キロ)だけは超えよう、不退転の覚悟で臨めばきっと突破できるはずだ。(何しろここを行かなければ北へ抜けられない、という理由もある)

<12時> 物部村を出発。一路峠を目指す。
<14時> 民家なくなる。温泉は冬季休業。
<14時30分> そろそろダートに入っているはずだが、道の表面は全て雪なので判別不能。
<15時> 自転車に乗っていられない。今さら引き返せないので押す。陽が傾き始める。
<16時> もうすぐと思っていた峠が現れて来ない。だんだん事の重大さが分かってきた。
<17時> 峠到着。日照時間が残りわずかであることが身にしみる。生命の危機を感じる。北側の道は轍すらない。積雪47ンチ。やばい、マジでやばい。100mも進まぬうちに力尽きる。自転車を置いて行く事を決意した。断腸の思いである。学徒の日々が思い出されるが、これが走馬灯にならないうちに下山、国道439を目指した。
<19時> 下り道は想像以上に複雑だった。幾つもの分岐、川の流れる音と5万図のみが頼りである。ヘッドランプに照らし出される5万図を目に、初めて5万図の必要性を感じる。
<20時> 真っ暗で何も見えない。手袋が水でぬれた為捨てる。道に穴を掘ってかまくらを作ろうとして我に返る。
<21時半> 439の標識を見つける。しばらくすると右手に町の火が・・・。
言い様のない感動で胸が一杯になった。「生きている。」の5文字がひたすら頭の中で反復された。その後何とか民家に到着した私は迷うことなくその家に泊めて頂きました。いままで数々の名湯をめぐって来たつもりでしたが、ここでの風呂の湯以上の物を知りません。生きているってすばらしいですね。あと5万図はやはりあった方がいいかもしれません。

春合宿・5日目 – 古橋

春合宿・5日目 2年 古橋

春の四国なんて所詮「チャリダー」の野郎共が跋扈しているような土地であろう、なんて結構四国をナメて乗り込んでいった。実際、そんな奴らをたくさん目撃した。
しかし、ちょっと山岳地帯に侵入すれば、真っ白になっちゃうんだそうですね。人事口調でスミマセン。

そんな私にとって、一番キツかった日、それは合宿5日目でございました。その前日はあの物知り勝野さんが少々故障していたのですが、あれが何かの前兆であったとは知る由もありませんでした。それに、四万十カルテットの事件が精神面に暗雲をもたらしていたこともありました。朝一から天気は曇り模様、今にも雨が降りそうな雰囲気でした。こんな天気はキライ!と思ったら、やっぱり雨降り。やがて、新寒風山トンネルに入ることになるのですが、このトンネルが最悪でした。延長5キ口、しかもずっとアップしているのです。30分ですよ、トンネル抜けるまで。長過ぎ。肺ヤラれ過ぎ。

昼メシのコンビニについた頃には、体が冷え切った状態に。しかし、よくぞ、というロケーション。
我々のためにこの店はあるように思われる。と、言うわけで、荒らしておきました。ここで心の洗濯はOKに思われたが、ここからが本番だった。

名残惜しい気持ちで去り、また雨の中イン。次の休憩中に私の手袋が水たまりの中に落ちてびしょびしょに濡れて、心もナエナエに。他の班員の方々は私のことを笑っていたが、笑い事でなかった。殺意すら感じた。(ウソです)

四万十カルテットのブレーキで、紙浦さんが我が坊ちゃん隊から離脱し、状況を偵察に向かった後、ようやく黒幕が登場したのであった。もちろん、A海さんだ。この方の指示は俊敏かつ的確で、我々下僕はこの言葉を待っていたのかもしれない。
「そこ右曲がって、風呂を探そうか?」

冷えた体と心に、一瞬、光明が差した時だった。車が跳ね上げる水溜りの跳ねたのを浴びたとき、勝野さんはそんな私を笑いながら「今夜は宿だな!」なんて言っていた。体感温度はおそらくマイナス。
あの時、我々のペダリングの糧になっていたものは、湯で温まる、それ1つだった。そのためには2000アップもやりかねない勢いだった。実際アップしなければならなかったのだが、熱海サンは4サイドの肉感たっぷりの走りを披露し、走る凶器となって私たちを圧倒せん感じだった。もしかしたら、この合宿最高の走りをあの時皆、やったのかも知れない。

しかし、一度風呂に入ったら、もう雨の外界になんか出たくないのが人の常。だが、四万十カルテットとの合流のために行かなくてはならない。この日のテン張りポイント、大渡ダム公園までは残り5キロほど。決死の思いでいざ行かむ、ダム公!!!!!
この後はまさに修羅場となってしまった。確かに我々はダム公へ近付いていたはずだが、異常にアップしまくっているのが不可解でならなかった。これから峠越えをする勢いだった。
おかしい。と、いうことで引き返したりするうちに日も暮れ、結局紙浦さんたちにナビしてもらい、引き返してきた道を又、登り始めた。俺たちはいったい何やってんだ、何で同じ道を又上っているんだ、そんなことを口にするなんて出来ないほどの状況であった。あの時はただ、かすかに見える明かりを目指していた。いつの間にか、河瀬さんやら紙浦さんがいっしょに走っている(足で)。
今思うと、クサイ青春物語みたいな光景だが、あの時はただダム公の野郎を制するのみだった。そして到着したときは、体は冷え冷えだった。(その後は、メシを作ったが、あまり食べなかったこと以外ほとんど記憶がない。彼ともうまく話せなかったし、そんな余裕もなかった。)

大渡ダム公園・・・私のトラウマである。

※「フロントバッグvol.122」から部分的に加筆・修正を加えました。春合宿を襲ったアクシデント(同期の彼が合宿離脱、後に退部になったかと)は、この作品を書いた当時もまだ引きずるものが正直あり、言及することを完全に避けていたものがありました。2年半経った今、その精神面のショックにも触れて加筆しました。

2000年春・四国 – 森山

2000年春・四国 3年 森山

2000年2月28日、その日は自分にとって2度目の春合宿の出発日である。追い出し以来という久々の行事のため、と言うよりは、昨年の夏合宿の無念の不参加、ゴールお出迎え、という屈辱のせいであろう、出発前日は興奮していて一睡もできなかった。

俺にとって1年ぶりの大型合宿である。眠っていないのだから、早起き、とは言わないであろうが、家を5時半に出発した。輪行袋が肩に食い込む、久々の感触だ。持っている荷物はズッシリと重い。なのに、まるで小学生の遠足のように足取りも軽く、空の上の人になるべく、一路羽田へと向かった。行き先は高知である。

俺の下見は土佐久礼から四国カルストまでなので、高知に着いたら、すぐに特急に乗り換えて、今日の午後からは下見を始めよう、というのが今日1日の予定だ。
飛行機は当然、スカイメイトである。早朝の便である。もちろんスカイメイトでもチケットが入手できた。飛行機も1年ぶりである。先走る気持ちを押さえ、荷物を預け、搭乗へと向かった。俺の乗る飛行機はANAのポケモンジェットであった。
今の楽しい気持ちを、さらに高揚させるには10分すぎるほどのデザインで、ポケモンのイラストが描かれていた。搭乗するとき、思わずスチュワーデスさんの持っていたポケモンのシールをもらってしまった。まあ、これはスチュワーデスさんがとても綺麗であったことが1番の理由である、というオチではあるのだが・・・

とにかく、ポケモンジェットは滑走路へ向かうべく動きだした。心が弾む、とはこういう時のことを言うのだろう。久々に見る空の景色。まだ見ぬ高知の姿。早く皆に会いたい。会って皆でくだらないことをしゃべりながら走りたい。さらば本州、しばしのお別れだ。そんな気持ちを乗せて、ポケモンジェットは離陸したのであった。ここから先は敢えて書かないことにする。

本来ならばここからが本題であるが、ここから先を書くと、愚痴になるのは火を見るより明らかであるからである。あしからず。

春合宿 – 河瀬

春合宿 3年 河瀬

私の春合宿は、前プラ・後プラを含めると、19日間にも及んだ。前プラ(下見)を振り返ると、非常に苦しかったというのが本音である。企画としての実質的デビューである四国合宿、いきなり四国の雪深さの洗礼を受けることになってしまった。コースを地図のみで決め、四国の気候をほとんど考慮に入れなかったことから生じてしまった誤算であるのだが、予想以上であった。

下見初日、我が四万十カルテットの出発地である徳島県の阿南駅からスタートしたのだが、剣山に向けての伏兵にすぎないはずの河合峠の途中で吹雪いてきたために野宿するはめに。
1人で野宿することの嫌いな私(というか怖くてできない)にとって前プラにおける唯一の野宿であった。
2日目は剣山を目指し走っていたのだが、あと10数キロというところで地元の人々にこの先は除雪してないから雪が1m以上積もっていると会う度に言われたため、やむなく道変更するはめに。しかし、なんというか「企画としてナメられてはいかん」
という気持ちが大きかったので、最小限の迂回で済ませようとしたのだが、これがとんでもないことになってしまった。しばらく走っていると、一面雪景色となったのだが、依然として前記の気持ちが勝っていたため、押しを3発実行した。しかしこの間進んだのは若干、2、5キロである。

それでも峠が見えてきたので頑張ろうとしたのだが、積雪30センチで自転車がブルドーザーのような状態には抗うことができなかった。しかしこの後が本当の山場であった。
雪が積もっていても下りは何とかなるだろうと思っていたのだが、何ともならなかった。言うまでもなく乗ることはままならず、押していても車輪が回らなくなってしまい、泥よけを取ろうとするとねじが
白銀の中に消えてしまい、何とか集落まで下ってきたのは午後7時過ぎ。
やっとの思いで探しあてた民宿でダウン。この日以降5日続けて私は旅館に泊まった。おかげで3日分の下見に6日を要したが、とても濃密な時間だった。
前プラで1番楽しかったのは、何といっても海賊料理であった。「海上荘」という浦ノ内湾に浮いている
お店でいままであまり好きではなかった貝のおいしさについついビールをジョッキ3杯。勝野とともに満面の笑みを浮かべ、最高!「ながれこ」最高。
その後、下見を終え、土佐清水へ行き、足摺港から甲ノ浦へ。阿南駅にて我が班の面々と再会し、1週間ぶりの野宿。やはり人数がいると平気である。

そして3月7日、いよいよスタート。この日はコース変更のため115キロの長丁場である。その後、祖谷渓、かずら橋、大歩危、桂浜、高知城と観光しつつ、3日で320キロのハードさ。そして運命の4日目。僕らの班は空中分解してしまった。
たったの4人でもゴールを目指し、走り切るということを徹底させることができなかったことはこれ以上にないほど情けなかった。その中で見出せたことはいろいろあったが、具体的なこととしては、下見のタイムテーブルの設定がかなりうまくいったことで企画としての自信を多少、得ることができた。翌日、屈辱の輪行で他班に合流。1日早め、6日目にして松山に到着。
何につけても、雪にコースをめちゃめちゃにされたということであるが、地図上で安易にコースを設定し、前回四国に行った代の情報を収集したり、気候をリサーチしたりということを怠ったことは悔いが残った。

そして今までの合宿では味わったことのなかった物足りなさを感じてしまい、後プラへ。1日半で島なみ海道を渡り、尾道へ。このたった1日半の後プラはとても面白かった。
四国から本州へ自転車で渡るということが妙に嬉しかった。尾道にて私は旅を終え、今回の合宿を糧に今後の活動に全力を尽くすことを誓いつつ、帰路についた。

スプリングキャンプイン四国 – 平井

スプリングキャンプイン四国 3年 平井

今回の合宿を一言で述べるとするならば、「波瀾万丈」この一言に尽きるのではないか。要するに頭の中で考えていた合宿とは大いに違った。(みんなはどうだったかわからんが。)意外なコース、意外な日程であった。まあ、それはそれでよいと思う。

しょっぱなから総括してしまった。文章が終わりそうじゃないか!しいうことで、印象深いことなど思い出してつらつらと書きますか・・・僕の場合、合宿で寄った観光地っていうのは意外と印象に残っていない。後々写真で見て、ほおほぉ、こんな所にも行ったっけぐらいである。

そんなことよりもキツいコース、天候、そして旅を伴にする仲間たのイッちゃってる行為のほうが後々思い出深くなる。まぁ、最高に印象深いのはもう1匹のドラゴンの事だが、思い出深いが決して愉快なこではないので書かん。ここで書くのは河瀬の食事についてと、道後について。

同伴の河瀬はハンガーとしてフランスパンを持っていた。そして、これで寝袋、マットと共に横にしてバイクロープでパッキング。袋をやぶき、ちょっとはみ出たところをナイフで切り、休憩ごとに食っていた。

何という横着者。昼飯の時にはサイドバッグからおもむろに網を取り出し、コンロでもちを焼く始末。あぁ変なヤツ。

話は急激に変わり、ゴール地点道後について。この町は「お兄ちゃんH?セックスしよ。」などという卑猥な言葉を公言してはばからない。
心も体もしおれきった50代すぎのババアが夜な夜な徘徊する町である。下手なお化け屋敷よりよっぽど背筋が凍る。そんな町に繰り出すや否や、ソープの看板が大量に目に入ってきた。将軍、夕月などいろいろあったが、これは深い、と思ったのは、「毬王(まりおう)」毬というのはやはり、男子の精巣、俗にいう金の球体を指していて、その王様ということはたまたスーパーマリオに掛けているのか、じゃあ姉妹店は留慰自(ルイージ)なんだろうな、等々いろいろ考えさせられた。893にしてはよくできたネーミングだ。

私の至った結論を述べさせてもらうならば、スーパーマリオに掛けてもソープとしては何ら得ることはないと思われるので(しいて言えばソープ嬢がピーチ姫みたいに可愛いよ、ということを客に暗に訴えかけるぐらいか、しかし結局はクッパを彷彿とさせる怖いお兄さんにボッたくられるんだろうな。)前者の意味であろう。

そして道後について忘れてはならないのが道後ミュージック。私の頭の中ではHMV、タワレコ等々、大規模小売店に押しつぶされそうな地方の中堅音楽店であった。しかし、そこは・・・。まさに性欲を越えた本当の意味での超性欲ワールド。そこに入った瞬間、私は生まれて始めて性欲を超越した。(引いただけか?)男と女が舞台狭しと縦横無尽に躍る。あれは真にアートだ、芸術だ!(必見の価値はあるが、2度と見たくない。)

「セックスはオトナの組体操」。その日、私のセルフ名言集に新たな1文が刻まれたのである。

奥多摩企画(プレ新歓) – 杉村

奥多摩企画(プレ新歓) 1年 杉村

ゴールデンウィーク明けのある日、以前参加した某サイクリングサークル(WC)の企画になにか違ったもの足りなさを感じた僕は導かれるようにWCCのある11号館地下へと向かった。そして部室に居合わせた紙浦主将の奥多摩企画にすぐ参加することになった。

集合は午後8時に武蔵五日市駅。本当にこんな時間にこんな場所で集合なのかと半信半疑で行ってみると
すでに紙浦さん、古橋さん、薬師寺が自転車を組み終えていた。僕も慌てて慣れない手つきで組み立てた。

その日は近くの河原で野宿。慣れないものだからなかなか眠りつけない。何とか眠ろうとすると何やら外で怒鳴り声がする。地元のヤンキーが来たのだ。僕はテントの中でビビッていると先輩は彼らを軽くたしなめた。僕はこれからの前途に不安を感じるとともに先輩たちを心強くも思った。そんなことを考えているうちに朝になっていた。

眠い目をこすりながらテントをたたみ、メシを食うと休む間もなく出発した。つくづく時間に厳しいサークルだ。某サークルとは正反対!しばらく走ると、山がちになってきて上り坂になってきた。峠は本当にツラい。僕は完全にチャリの山登りをナメていた。そして重力をナメていた。しかしそれはまだ序ノ口。
この後に待っていたのはダートともいえない幅1mにも満たない登山道である。こんなとこチャリで来るなんてどうかしてると思いながらヒヤヒヤ進むと、恐れていたことが起きた。なれないランドナーにバランスを崩した僕は谷側の急斜面に落ちたのだ。間一髪で木の根をつかんで九死に一生を得たが、生きた心地がしなかった。そんなこんなでようやく山の頂上に到着。
天気は悪かったが、広がる景色とある種の達成感に酔いしれているとそれも束の間。谷を1つ越えた山の頂を指し、「次はあそこだ」と笑顔でいう先輩たちの言葉に愕然として。この時点でまだ午前11時。まだ後にもいろいろあったがページの都合上割愛させていただく。ただ最後に待っていた温泉は本当に気持ちのよいものだった。

かくしてWCC初体験の長い1日は終わった。正直大変なサークルに来てしまったと思ったが、この後、さらなる苦しさを知ることになる。

奥多摩企画(プレ新歓) – 薬師寺

奥多摩企画(プレ新歓) 1年 薬師寺

今日は、薬師寺です。今バイトから帰って、フロを入れながらこれを書いています。明日は5時起きでガクトです(現在0時40分)。奥多摩での感想を汚らしい字で書かせていただきます。僕は新歓ラン・合宿共にとある事情で出てないのでこのオクタマが初体験の春でした。フルハシ先輩と馬場まで歩きで輪行!したのですが、これが大失敗でした、ハイ。

ここまで輪行がツライと知っていたのならやめとくべきだったのですが先輩の「歩きで行く?」という
甘言に乗ってしまったボクは、チャリをかかえて馬場まで行ったのでした。何でも屋(ランプ亭近くの雑貨屋)あたりで人にぶつかりまくりました。

1時間後、集合場所へ到着。杉村君と初めて出会いました。その後テンぱってポン酒を飲んで寝ました。睡眠中、族に襲撃されビビりましたが紙浦さんがうまく話をつけてくれました。明朝聞いたのですが杉村はボクのイビキで苦しんだそうです。ゴメンね。

まず最初の峠で僕は死にました。何度か足をつき、泣きそうになってしまい、先輩方に「話しながら登るといいよ。」といわれ、話そうとしましたがボクにそんな余裕はぜんぜんありません。次のダートで杉村が転落し出血しました。
もしかしたら前日のボクの激しいイビキのせいで集中力が落ちていたのかもしれない。本当にごめんなさい。次からはイビキ止めをしようかな。

神社でバッヂを買って山を降り、そば屋でそばを喰いました。量の少なさに古橋先輩は激怒していたのですが、先輩は本当に大喰いです。いつも驚かされます。あと三つ釜の滝で見た先輩のチ〇ポの大きさも驚きました。プレ合宿の時も拝見させてください。

その後温泉へ行き、駅へ着き、解散しました。ではそろそろフロが入ったので終了させていただきます。以上、気合いとニコチンパワーで書かせていただきました。

夏合宿の感想・・・? – 熱海

夏合宿の感想・・・? 3年 熱海

夏合宿の感想ということで、夏合宿の写真をペラペラめくって思い出してみた、この峠はキツかった、この後カミウラとマジケンカしたんだつけ・・・と色々あったことが思い出された。でも本当に何があったか書こうと思ってもなかなか書くことが見つからないのである。それ程自分にとっては、いつも暑く、いつも面白く、そして早く終わってしまった合宿だったと言える。

それにしても写真を見ていて、オレのシュイン・メサGS改のなんとカッコイイことか・・・。これを親バカというのだろうが、久し振りにまた浮気してアイツとまた走りに行きたくなってくるのである。

俺があのチャリを作るにあたって考えていたコンセプトはマウンテンによるツーリング車というものだった。かと言って経済的には非常に苦しく、当時、春合宿の借金をM氏に返せないような状態だったので、比較的安いモデルで追ってバージョンアップさせてやろうと思っていた。MTBをツーリング仕様にするのに必要と思われる改造を自分なりにあげてみると、タイヤの交換、キャリアの装備、そしてこだわりのドロップハンドルのインストールである。
実はこの改造のせいで、合宿の始まった2日目ぐらいまで非常に不快な思いをしていた。メカにはあってはならないようなことだが自分のチャリのセッティングがうまくいかなかったのである。そもそも、MTBにドロップハンドルをインストールするためには、STIレバーしかない、と思っていたのだが、そのアジャスターがどーしても入手できなかったのでありますね。

MTBのラピッドファイヤーを見てみてもらうと分かると思うんだが、リアのシビアな調整はリアDのアジャスターバレルで行い、FDの調整はFD本体にアジャスターがついていないので、シフターのアジャスターを使うようなのである。

しかし、ディアルコントロールレバーにはアジャスターが付いていないではないか。どうするかというとカンタンでフレームの所にアジャスターを付けるのである。ランドナーだとシフトレバーがある所ね。
でも純正のシマノのアジャスターパーツを入手できないのである。未だに付けられないので、シビアな調整はFDのワイヤを止めてある所をゆるめたりしてやるわけで非常に大変なのである。で何が言いたいのかというと、改造は自分の責任の持てる範囲でやれということでありますね。申し訳ありません。パーツやらバイクのカタログを眺めていてもまだまだ分からないことばかりだが、チャリは知れば知る程,その可能性が広がっていくように思える。

たとえば、ディスクブレーキなんかは、かつては一部のエンスーなダウンヒルバイクだけのようなものだったが、いまや油圧オンリーだけでなく、ワイヤー使用のエントリーモデルなんかも出てるわけで、それがメンテナンスフリーだったりすると、いけるんじゃないかと思ってしまう。

夏合宿の感想を書くつもりが、訳分からなくなってしまったが、夏合宿を通じてよりチャリが好きになったと、そーゆーことでしょうか。

第38代夏合宿 – 試される大地・北海道 – 河瀬

第38代夏合宿 – 試される大地・北海道 3年 河瀬

私がこの夏、北海道で過ごした約1ヶ月はとても素敵で、新鮮で、そして熱いものだった。そこで、私が北海道滞在中につけていた日記帳から特に印象深い何日かを抜粋するという形で12日間に及んだ夏合宿を振り返りたい。

まずやはり何といっても初日。この日は127キロ、1000アップ。
今日は、いよいよ合宿初日である。しかし空模様はあいにくの雨。午前5時に起床し、6時出発。まずはオホーツク海の砂浜に出てエール交換。そしていよいよ出発。国道を進む、進む。しかしこの4日間走っていない僕にはちょっとキツい。まず最初のターゲットは美幌峠。この峠は僕がコースを決めるうえで、1番最初に行くことを決めたところである。この峠から見える屈斜路湖は絶景とのことであったが、あいにくの霧で見えずじまい。
残念きわまりなしであった。その後またずんずん進み、次の目的地は双湖台。ここからはパンケトーとペンケトーという2つの湖が見え、とりわけペンケトーは北海道の形に見えるとのことであったが、あいにくまたも霧のせいで・・・。

しかし、出発するときになんとか霧が少し晴れ、ペンケトーが顔をのぞかせてくれた。なるほど、見ようによっては北海道の形に見えないこともない。というか、そう思って見ると確かに見える。とにかく、少しでも見ることができてよかった。そこから下り、買い出しをして、本日のゴール阿寒湖畔野営場に18時5分に到着。そして夕食を作る時、皆のおかずを作るナベ用のガソリンコンロに異常発生。結局各々作るはめに。でも、ビーフシチューはうまかった。何につけても、今日が無事でよかった。(網走 – 阿寒湖)

次は4日目。この日は128キロ、1000アップ。
今日はとても疲れた1日だった。それにしても北海道の天気は移り気である。今日にしてもまず曇り、そして雨、それから青空、そしてまた雨である。頼むから1日通して晴れてくれという感じになってきた。まずコース的には浮島峠というのを越え、下っていると急に晴れてきて、そしてこれぞ北海道という牧歌的な丘を走った。

それからショボい峠をいくつか越え、西興部に着いたが、紙浦と前野のチャリに異常が発生したため、1時間近くストップ。結局、3人残し、3人でキャンプ場へ。今日のキャンプ場はオホーツク海の目の前にあるのだが、キャンプ場のちょっと手前のところで丘を越えて、1本道の下りに入った途端に目の前にオホーツク海が広がったときは、とても感動的であった。できることなら晴れていてほしかったのだが。

また、今日はうれしくない知らせが1つ。1年の前野が足をはらせてしまい、明日離脱することになってしまった。近くの病院に行くとのことであるが、できることならリタイアを避け、明日のキャンプ場には戻ってきてほしいものである。最後に、北海道で出会ったおいしい飲み物を1つ紹介しようと思う。その名はソフトカツゲン。今というか、僕が家を出るときはまだ何かと話題になっていた例の雪印の商品であるが、どうやら北海道限定である。僕の大好きなマミーやピルクル系の乳酸菌飲料でなぜか微妙にパイナップルの味がするのである。1度飲んだらやみつきになる。そして安い。というわけでもう寝ます。おやすみ。(上川町 – 日の出岬)

続いて7日目、8日目、9日目。ちなみに7日目は104キロ、1300アップ。そして8日目は97キロ、750アップ。9日目は109キロ、700アップです。

今日はハードな1日であったが、同時に濃い1日でもあった。朝から雨、丘の町・美瑛の北西の丘でラベンダーソフトを食べようとしたら、今日は雨だからあまり作っていないということで僕の前で品切れ。あんまりである。

しかも、そこを後にしようとした瞬間に晴れてきた。きっとあれからまた作ったのであろう。その後、十勝岳温泉を目指し、登りはじめる。山の天気は変わりやすいということで、ザァーと降っては止むの繰り返し。しかし下見のときの晴天に比べたら、涼しいだけ登りやすかったのもたしか。そしてまたも14パーセントの急坂を制し、道内最高所の温泉である標高1280mの十勝岳温泉に到着。

1週間ぶりに入浴し、皆の入浴シーンを撮ろうと思っていたのだが、混んでいたため断念。景色も霧のため、全く見えず残念。おまけに、下りで翼(タスク)が転倒。改めて、サイクリングが危険と隣り合わせであることを認識し、気が引き締まった。そして下りきりキャンプ場へ。
タダのわりにかなり立派な施設なので御満悦。ちなみに今日はソフトカツゲン1リットルを飲み干した。そろそろ胃袋もMAXになりつつある今日この頃ということで、おやすみなさい。(旭川市 – 上富良野町)

今日は寝不足である。というのも、昨日僕のテントのそばで他のキャンパーたちが宴を繰り広げていたため、23時半頃まで寝られなかったのである。たしかにこの季節にキャンプ場で21時に寝る集団の方が変わっているのであろうが、ちょっと・・・という感じでした。

しかし、昨日虹が出たおかげか、今日は終日青空のもとさわやかサイクリング。という事で楽しい1日だった。
話は変わるが、今日は大半が富良野の丘だったが、何というか「超安倍なつみ的」なのである。具体的に言うと、なっちが白っぽいワンピースを着て、麦わら帽子を頭の後ろに垂らして、とうもろこしを両手に持って、しかも少し風が吹いてちょっとスカートがめくれているという風景がとても似合いそうな丘なのである。分かるかな?いやきっと分からないだろう。

だんだん僕もおかしくなってきた。ちなみに今日通った幾寅という場所は「鉄道員」の舞台になった所らしいということで、帰ったらビデオを借りることにしよう。それにしても晴れた北海道は素晴らしい。
あと北海道滞在は約1週間、合宿に至っては残すところ4日となってしまった。悔いを北海道に残して帰ることのないよう、精1杯楽しもうと思う。

今日はガソリンコンロが復活したので、今合宿はじめてナベでカレーをつくり、皆で食った。食当の1年もとても頑張っており、とてもおいしいのが食べられた。それにしても胃袋の拡張具合が尋常ではない。食べる量が合宿初日の3倍近くになっている気がしてならない。きっとそれだけ動いているのであろうが。今日はソフトカツゲンのかわりにソフトクリームを2つ食べたということで、以上です。おやすみなさい。(上富良野町 – 狩勝高原)

今日はまず私が起床をかけるはずであったのだが、他のテントが開く音で目が覚めた。つまり寝坊したのである。情けない。天気に恵まれ、どんどん進む。そして例の直線16キロの道で自由ラン。ということで45分以内で自由に走れば良かったのだが、何故かというか、予想通りというか、レースのようになってしまい、結局団子状態で皆ゴールしそのタイムは27分。アベレージ30キロ以上である。
速すぎる。その後もどんどん進んだが、いかんせんいつもと違う筋肉を使ったようで、ひざが重く、けっこうきつかった。15時過ぎにキャンプ場に到着し、本日は恒例のヤミ鍋。
皆バナナやらサンマやら青汁やらいろいろ入れ、そして僕は牛肉とソフトカツゲン1リットルパック2本を入れた。ビーフシチューベースだったのに汁が甘くなり、とてもまずく、食えたものではなかったが、してやったり!これぞヤミ鍋である。あと3日になったが、その間存分にうまいタバコを吸おう。
それにしても、サイクリングをしているとタバコがうまい。今日はこの辺で、おやすみなさい。(狩勝高原 – 清水町)

そしてはやくも最終日。この日は98キロ、900アップ。

僕は今、時計台の横で書いている。そう、つまり夏合宿は成功したということである。ちなみに今は8月17日の12時20分。僕らの合宿最終日は雨の中スタートし、まずフリーランスタート地点へ。ここで大失態。
僕は下見で1度走っていたということもあり、うるおぼえに進んでいったら、道にわだちがない。なんかおかしいと思いつつ、約4キロ進み、距離的に着く頃なのに、なにかおかしい。そうです。道間違い、しかもこんな大きな道間違いははじめて。自分の作ったコースを自分で下見して道間違い。イノコ決定とそのとき確信した。ちなみに僕は昨日3度イノコされた。

いざフリーラン、今回のコースはダート1直線7キロ、150mアップ。今回はいままでで1番真剣でした。
そう全ては薬師寺を抜くために。1年との2分差、いつもの僕には決定的だが、昨日はあきらめなかった。なんか気分よかったなー、あいつを抜いたとき、ゴールしたときは吐きそうだったけど、フリーランってしんどいだけじゃないんだって今更ながら改めて気付いた。

その後、雨の中、オコタンペ湖へ行き、そして札幌への下り。あと札幌まで20キロというところで、僕らのゴールを祝うかのように晴れてきた。それにつられて僕も初めての裸走り。羊ヶ丘の展望台ではクラーク博士がすすきのを指さして笑っていた。絶対に号泣するだろうと思っていた札幌駅までの最後の1発であるが、札幌のあまりの大都会さのせいかわからないが、涙はなかった。が、いずれにしても感動のゴール。と同時にホッとした。

何につけても夢のように過ぎていった12日間であった。それに旧道庁前でのエール。今までで1番気持ち良かった校歌であったし、昨夜は充実感に包まれた最高の夜であった。はじめにも書いた通り、僕は今時計台の横にいるが、何というか脱力感におそわれ、正直なところもう自転車に乗る気力も残っていない。あと4日ほど北海道にいるが、もはやこの日記を書くこともないだろう。そして、東京に帰ってからは否応なく慌しい日常に引き戻されていくのであろう。

だから、最後は僕の大好きな吉川晃司の映画(ユー・ガッタ・チャンス、1985年公開、東玉)に出てくるこの言葉で締めたいと思う。

「休暇は終わった。みんなが君を待っている。」(千歳市 – 札幌市)

北海道を駆けた夏 – 古橋

北海道を駆けた夏 2年 古橋

頭はつるつるに、ヒゲも剃らずに集合地の網走に出向いた。自分でも会心のイメチェンである。頭を床屋で刈ってもらうときに、床屋さんが、
「人を殺すようなことはしてはだめだよ。」と、私に諭すようにしきりに言っていた。
当時のニュースでは、母親を殺した少年が自転車で北海道目指して逃亡した事件がトップで踊っていた。どうやら、何か勘違いをしているらしい。それぐらい、ばっさりと切ってもらった。でも確かに夏合宿というのは、人がやられたり、人をやったりするものですね。

ここに来るまで、前プラもたっぷり2週間行った。唐突だが、「チャリダー」と「サイクリスト」の定義をしてみたい。前者は自転車というものを1つの完全な手段、それ自体の価値を新たに見いだす行為よりも、どこかの土地に滞在する旅を主目的としている人間。後者は自転車での移動を楽しむことを主眼としている人間。
一応そんな感じで我が辞書には登録しているのですが、北海道は「チャリダー」が多いのです。それが悪いと言いたいわけでなく、ある種のカルチャーショック、サイクリング魂の根底での乖離を感じたのです。同じ物に乗っていても、考えが全然違うのです。おかげで自分のサイクリングというものを理解させてくれました。

ところで、合宿はとてもいいメンバーと走れました。「明日は勝ち戦」「止まない雨はない」等の名言を生み出したタスク。
ダートで何だか、めちゃくちゃキレていた前野。
先輩方も、柔和な笑みと威圧感を兼ねそろえたメカ殿や、資料走りを毎回つぶさせてもらった河瀬さんもいました。

そして、「反抗」をしていると言われるほどに私の反発の中心にいた(ように周りが見ていた)主将には、いろいろ御世話になりました。決して反抗していたわけでなく、そのときは全て納得できなかったり、合宿のストレスもあったのかな、と思います。

今回の合宿は自分から積極的に関わりをもつこと、という点で「リターン」がたくさんあったかな、と思います。これが「2年生の合宿」というやつかな、と納得しています。又、北海道は1月弱走り、まだ征しきれていないが、でもなんとなくおなか一杯というような満足感はあります。本州とは確かに違う風を感じました。いずれ、冬にでも走ったら面白いかな・・・と思ったり思わなかったりです。

2000年の夏 – 森山

2000年の夏 3年 森山

夏合宿が終わって2ヶ月以上が過ぎてしまった。毎回感じることだが、時の流れというものはとどまりを知らない。夏合宿も色々なことがあったが、ありすぎて、思い出し始めても、浮かんでは消え、浮かんでは消えていってしまう。これを繰り返していても全然まとまった文章が書けそうもないので、いま手元にあるパンフと、貰ったばかりの写真をみながら1日1日、順を追って日記形式で、思い出したことをつらつらと書いてみながら夏合宿の出来事を自分の頭の中で整理してみようと思う。

8月3日(3年集合日)
この日はサロマ湖から走って、10時には網走に着いた。皆のいる公園の場所が分からなかったので、駅前から勝野に電話したら嘘を教えられた。しょっぱなからヘコむも、何とかみんなと合流。前プラの話で盛り上がる。夜はメシ食い行った後、公園で酒宴が始まった。最初はマッタリ飲んでたが、徐々にターボがかかってきた。特に、勝野と熱海のツートップは凄かった。もう誰もついていけなかった。俺もついていけなくなって、途中で寝てしまった。

8月4日(集合日)
この日の目覚め方はチョーBADだった。ガッシャン、ガッシャンと、自転車の倒れる音がしたので目が覚めた。地元のヤンキーが来たのかと思ったら・・勝野だった。奴はまだ酔っ払っていて、まっすぐ前に進めないで自転車にぶつかっているのだ。
そのうちブッ倒れて寝てしまった。全身が酒まみれであった。寒さのせいであろう、ぶるぶると激しく震えていた。正直、こいつ死んじゃうんじゃないかと思った。それくらい泥酔していた。さらに何回か歩いちゃブッ倒れ、歩いちゃブッ倒れていた。そのうち水道場で小便をしやがった。これは俺しか知らない。

皆は使っていたが、俺はそれから水道場は使わなかった。俺の帽子が奴の下敷きになっていて、酒臭くなっていた。数日後にはこの帽子から便所臭がするようになってしまった。結局、この帽子をかぶることはなかった。トホホでやんすなぁ~。

さらに事件はほかの場所でも起こっていた。熱海がテントで寝ゲロっていた。しかも、それが河瀬にかかっていた。壮絶な光景であった。とにかく網走駅に集合した。古橋は、頭を丸めて出家していた。その後、「ホワイトハウス」というレストランにメシを食いに行った。ここはマジで量がハンパじゃない。あの紙浦が得意のカツ丼で苦しみ悶えていた。なかなか新鮮な光景でよかった。いよいよ明日出発だ!

8月5日(1日目)
朝起きると雨だった。相変わらずクラブ行事は天候が悪いなあ。とにかく雨の中エールをするためオホーツク海へ。ここは気合を入れるために、エールをする時はゴアを脱いでワセジャーになった。そう、これくらい意気込んでないと夏合宿は乗り切れない。もちろん紙浦もそうするものだと疑いもなく思っていた。しかし、彼はゴアを着たままエールを行っていた。何でだよ!ワセジャー見せてエールしろよ!おっさんここで気合を見せないのかい。と、心の中ではかなりブチ切れていた。しかもそのエールの出来具合は・・・ハァー、言葉には出来ないッス。とにかく出発した。夏合宿は始まった。

2、3発目でいきなり玉突き事故が起こってしまった。大事には至らなかったが、ちょっとした心の隙間が大事故につながることを再認識。北勝班と別れて、銀狐班だけでいざ美幌峠へ。
最後の1発が70分になってしまった。途中、班長判断を入れないのか?という意見もあった。でも、「あともうちょいだって。」の一言で押し切ってしまった。みんなちょっとキレていた。

しかも峠はレストハウスも見えない程の濃霧だった。皮肉にも、ゲットしたバッジには「天下の絶景」と書かれていた。夕食作り始めたら、とんでもないことが発覚した。ガソリンコンロの火力調節の棒が、2つ入っていた。向こうの班はどうなったのだろう?

8月6日(2日目)
起床は午前2時だった。テントの外は真っ暗で、文字どおり草木も眠る時間である。マジしんどいっす。走り始めてすぐにキタキツネと遭遇。北海道にいることを実感。
摩周湖に向かって上りはじめるも、天候はイマイチ。これでは湖面が見えないんじゃないか、という感じだった。班の雰囲気もそれに影響されて少し沈み気味だった。でも、俺はウキウキしていた。え、何でかって?それは既に摩周湖を2回観にきて、2回とも霧がかかってなかったからですよ。霧のかかってない摩周湖を観ると晩婚になるらしいので、今回はどうしても霧がかかっていてほしかったのだ。このままだと多分、霧の摩周湖が観れる!と、1人浮かれていた。しかし、しかし、しかーし、なぜか今回も摩周湖に霧はかかっていなかった。
皆はハシャいでいたが、俺はひとり、首をうなだれていた。もう晩婚は決定的である。晩婚というゴールにハットトリックしてしまった。いやなゴールである。ブルーだ、限りなくブルーだ。

この日はとにかく走った。走ったというより走らされた、という方が正しいだろう。とにかく勝野のペースも速いし、距離も長かった。それでも1年は文句1つ言わずついてきてくれた。正直、この日が1番不安だった。ナイトランにもならずに、無事に納沙布岬に着くことができて本当に良かった。でも、残念ながら北方領土は見えなかった。

8月7日(3日目)
この日の特筆事項は、下見をした勝野が道間違いをしたことだろう。あと、なぎさのドライブウェーは良かった。砂浜がしまっていて、自転車で快適に走れるのである。厚岸のキャンプ場の蚊の多さに辟易しながら就寝。

8月8日(4日目)
釧路湿原をこえた買出し休憩の時、この合宿最大のアクシデントが発生!
薬師寺がどこかで財布を落としてしまったのだ。だいたいどこで落としたかは予想がついていた。湿原の中にあった階段押しの場所であろう。薬師寺はそこで豪快にコケていた。階段踏み外して薬師寺とチャリが湿原の中に消えていった光景が、頭の中でプレイバックされた。ここからその現場までは、一発分あるであろう。

しかも、湿原の中に落としてしまっていたら、探しても見つからないかもしれない。あるいは他の場所でなくしてしまった、という可能性だってある。俺は判断を悩んだ。
でも、この時点でタイムテーブルより1時間も早かったし、他の班員の人たちも、先にキャンプ場に行って夕食の準備をしてくれる、といってくれたので、俺と薬師寺で、現場へ戻ることにした。とにかく全速力で戻った。
薬師寺も頑張って俺の後についてきた。最後の上りになって、薬師寺がちぎれ始めた。その表情は不安で一杯であった。財布がないという不安だけでなく、俺と2人だけで走っているという不安もあったであろう。一刻でも早く財布を見つけるため、ナイトランを避けるため、そして、ちょびっとお灸を据えるため、かなりのスピードで戻った。

そして、奇跡的にも、すぐに財布は見つかった。場所は階段押しの所ではなく、本当に釧路湿原の道の最後にある、チェーン越えの所に、歯ブラシと一緒に落ちていた。そういえば薬師寺はこのチェーン越えの時も、なかなか越えることができず、ついにチェーンをブチ切って越えるという荒技をしていたな。きちんと修理代は置いていった、ということになる。なんて律儀な奴なんだ。この1件のために、後日、薬師寺は洗礼を受けるのであった。

ナイトランにもならず、無事にキャンプ場に着いた。杉村は杉村で、走行中、米をスポークに絡ませ、道路に撒き散らしていた、ということが発覚。

海岸のキャンプ場だったので、ジャンケンして負けた奴が1歩ずつ海に近づいていく、という遊びをしていたら、勝野が波にビビッて逃げた。
「勝野さん。それじゃモヤシっ子ですよ~!」(薬師寺談)

8月9日(5日目)
今日は道東、大規模林道がカットになったので、観光しながら帯広に向かうことになった。事件は幸福駅で起こった。俺はこの合宿から、バッジを集め始めていた。
それは班員全員が知っていることだった。休憩中、俺は一生懸命に土産物屋の中を探して、バッジを見つけたのであった。勝野もバッジを集めていたので、幸福駅のバッジがあることを教えたのであった。その直後、思いもよらない言葉が返ってきた。
「知ってるよ。」

な、な、な、何ですとおおおおおお〜〜〜っ!彼は既に下見の時にその存在に気づいており、その際にゲット済みなのであった。おれはド肝を抜かれた。では、なぜお前が俺に教えてくれなかったのだ。「勝野さん、それはヒドすぎますよぉ~」(杉村談)
この日は公園でテン張ったので、大鍋を使わずに、個人のコッヘルでホイコーローを作った。そのさなか、ガッシャーンと、やな音がしたので振り返ったら、俺のコッヘルがバーナーから落ちて、ひっくり返っていた。何とか具だけはコッヘルに戻したが、汁は・・・覆水盆に返らずである。しょうがないから、味噌を入れて、俺だけ味噌鍋になってしまった。これはこれでウマいっ!と、言いつつも、みんなのホイコーローの味が気になるのであった。

8月10日(6日目)
この日は然別湖まで行くか、もうちょっと頑張って糠平湖まで行くか迷った。結局、行ってみて時間があったら先へ行こう、ということになった。とにかく暑かった。白樺峠はホント、しんどかった。道東は毎日霧が出て、肌寒かったが、道央に来ると急に気候が変わった。ピーク直前の展望台で十勝平野を一望して然別湖へ。ここから歩いて東雲湖を目指した。高台から東雲湖を眺める所で道は終わっていた。だが、勝野は迷うことなく、笹の葉をかきわけ、一直線に東雲湖に下りていった。
彼の観光魂には、凄まじいモノがある。湖畔に着くと、1本の木が湖に向かって伸びていた。そこを歩いていった薬師寺が落ちそうになって、窮地に陥っていた。内心、落ちればかなりオイシイのに、と思っていたが無事帰還した。その後も順調に進み、糠平湖まで行けた。

この日の夜は、久々に星が見えた。空気が澄んでいるせいであろう。やはり見える星の数が違う。ものすごく綺麗である。就寝まで少し時間があったので、ぼーっと夜空を眺めていた。もう合宿が半分終わってしまったんだな。何だかメランコリーな気持ちになった。

8月11日(7日目)
早朝1発目、糠平湖畔のダートを走っていたら、勝野がパンクした。パンクしたチューブを取り外し、新しいチューブではなく、以前修理したチューブを取り付けていた。
しかし、取り付けている最中にそれもパンクしてしまった。史上最強のパンク最短記録である。勝野は悔しそうに新しいチューブを取り出した。

ダートを抜けたら、雨が激しく降ってきた。ここから三国峠への上りである。勾配的にはあまりきつくはないが、雨のせいであろう、みんな無言で走っていた。
休憩中、勝野の行動がブッ壊れていた。みんなが休んでいる所から100m位先に自転車を止めて、こっちへ来ることもなく、その場に突っ立っていた。なんだかキョドっていた。その後も激しい雨の中走って三国峠に到着した。当たり前の事だが、濃霧で何も見えなかった。
でもね、峠のトンネルを越えるとそこは・・・・・雲の切れ間から、見えたんですよ、太陽が!みんなのテンションがいっきに高まった。このときは本当、嬉しかった。

しかし、この後の天候には悩まされた。晴れたと思ってゴアを脱ぐと突然、大雨になって、その後、急に雨がやんでカーッと晴れて、ゴアの中が汗でムレたり、これが何回も続いた。「何なんだ!この天気は!チョーワケ分かんネー。」(勝野談)

でも、今日泊まる当麻ダムキャンプ場は、今日の天候なんか比にならない位ヤバかった。そこは、キャンプ場というのは名ばかりで、無理矢理木をブッ倒して造った広場があるだけだった。
どう見ても、ここ1年間は誰も使った形跡が無い。熊に襲われても、誰も助けに来ないだろう。こういうディープなキャンプ場がいいんだよー。と、勝野は言っていたが、到着すると速攻でラジオをつけていた。

途中、1台のキャンピングカーがやって来て、飯だけ作って帰っていった。その人達に、サロマ湖で買ったというホタテとホッケを貰った。めちゃくちゃ美味しかった。ごちそうさまです。このキャンプ場にテン張っているのは、当然の如く僕達だけだった。

8月12日(8日目)
僕達に朝はやってきた。全員無事だった。ほどなく旭川に着いた。まずは買い物をした。今夜は闇鍋なので、それぞれが思い思いの食材を購入した。「何買ったんだヨー。」と、早くもお互い牽制しあう。その後、ラーメン村でラーメンを食った。

そしていざ旭岳へ。この日はガンガンに晴れていて、汗がひっきりなしに噴き出しては、滴り落ちた。本格的なアプローチに入ってからは裸走りをした。資料走りをした平井チャンが待ち構えている所へ近づくと、いつの間にかフリーラン状態になった。俺は出遅れてしまって、ダントツのビリになってしまった。う~む、悔しいぞ。その後も何回かフリーラン状態になったが、TENKAを取ることは出来なかった。

旭岳のキャンプ場に着くと、堀江さんがいらっしゃっていた。堀江さんに今夜は闇鍋であることを告げた。「ワーオー、マジかー!」と唸っていたが、内心嬉しそうである。
そう、闇鍋といえば、堀江さんを抜きには語れないであろう。あれは俺達が1年の頃の闇鍋の時である。まあ、みんながそれなりに食えるものを入れていた。そして、堀江さんの番になった。
彼はおもむろに立ち上がると、「皆さんの栄養が足りないと思って、僕はこれを入れます。」と言って、あるモノ(真似する奴が出てくるといけないので、具体的な名前は秘密にする)を鍋にブチ込んだ。
全員がハニワ顔になった。恐らく、当時の3年生も悶えていたと思う。そのあるモノが闇鍋に入っていたために、ある1人を除いて、全員が闇鍋を口に運ぶことをためらっていた。そのある1人とは勿論、堀江さんである。堀江さんは、コッヘルにたっぷりとよそわれた闇鍋を残さず食べていた。恐るべし、である。

とにかく、闇鍋が始まってしまった。1年の入れるモノは問題ない、と思っていた。でも、そこから既に計算が間違っていた。薬師寺がイカの塩辛を入れちまったのである。
(ちょっとヤバくなってきたぞ!)杉村は1年らしく、控えめに、ソーセージを入れていた。
(ウンウン、問題なし。)続いて堀江さん。持ち合わせがこれしかないから、と、メロンパンとパスタ。事前の準備が出来なかったのでA級戦犯も今回は空振りである。
(大丈夫、まだまだイケる。)平井チャンはソーメンとガムを入れた。
(何だかワケ分からなくなってきたゾ。)俺は、ワサビとギョーザを入れた。
(まあ、何とか食えるだろう。)でもね、この後とんでもないことが・・・。
勝野が入れたモノが、今まで入れたものを、全て無にしてしまった。それは、ベースとなったカレーをも凌駕してしまった。勝野が入れたモノとは、レモンティーの素とパンケーキミックスの粉であった。

どちらとも、量がハンパじゃなかった。カレー臭よりもレモンティー臭の方が強く、パンケーキミックスのせいで、強烈に粘り気が出てきた。湧き上がってくる臭いからして、これはヤバかった。

出来上がったお味のほうは・・・・・・あの堀江さんですら、1口食べて、目を白黒させてしまって、それから2度と口にすることはなかった。

8月13日(9日目)
この日は、しょっぱなから、早朝登山が待ち構えていた。朝一のロープウェーに乗って標高1600mまで行き、そこから2390mの頂上を目指した。とにかく風が強かった。
周りに何も風を防ぐものがない尾根づたいを歩いた。急に突風が吹くと、そのまま飛ばされちまうんじゃないかっちゅうくらいしんどかった。そんな中、勝野は今日1番に頂上に着くべく、鼻息も荒く突進していた。

頂上には予定よりも早く着いた。周りには雲1つなく、北海道最高所から見える景色は最高だった。どこまでも続く山々の連なり、所々に点在する神秘的な湖沼、直下に見える富良野の盆地、その雄大さは圧巻だった。そんな素晴らしい場所で、もう1つイベントが用意されていた。以前、薬師寺が大規模な落し物をした(詳しくは4日目を参照)ことはご存知であろう。今まで人数が足りなくて出来なかったが、堀江さんが加わって、人数も増えたので、ここでイノッキングすることにした。かくして、北海道最高所で薬師寺のアレは舞いに舞った。「なんか、近くにいたオヤジが、おいなり見えた、とか言ってましたヨ~。」(薬師寺談)

サクサク下って、自転車に乗った後も下りが続いた。平地まで下ってきたら、この日は異常に暑かった。とにかく、体がアイスを欲した。河瀬並みにアイスが食いたくてしょうがなかった。途中、工事中の道を、交渉して無理やり通してもらい、美しい美瑛の丘に突入。ダートの上りで、薬師寺がとんでもなく過激なブッ倒れ方をするも、無傷で無事だった。日が傾いても、暑さはそのままであった。いざ十勝岳へ。

事件は最後の1発で起きた。平井チャンが資料走りをしたら、例の如く、フリーラン状態になった。しかし、今回は、写真撮り終わってもそのスピードは、なかなか衰えなかった。
ついに先頭が見えなくなってしまった。俺は平井チャンが来ているのを確認するだけで、前には誰も見えなくなってしまった。前を追うのは諦めて、平井チャンが追いつくのを待った。
「どうなってんだよ!!!。」もっともな意見であった。みんなを撮るために、一生懸命資料走りをしているのだから、撮り終わって班の列に戻るまでは、ペースを下げるくらいの配慮をすべきなのに、俺はそのまま自由奔放に走らせてしまった。あの行為には配慮のかけらもなかった。申し訳なかったです。

8月14日(10日目)
それは朝メシを作っているときであった。風が強かったので、ガスコンロの周りを銀マットで囲んだ。火を点けたまま、その場を離れた。戻ってくると、えらいことになっていた。銀マットに火が移っていて、半分溶けてしまっていた。
朝から、ヘコみにヘコんだ。やっぱり、火から目を離しちゃあいけないぜよ。トホホ・・・。「そういえば、森山さんのガスコンロ、焦げ臭かったッスよー。」(杉村談)

占冠で堀江さんと別れて、日高峠を下っていたら、反対車線をヒーコラ、ヒーコラ上ってくるサイクリング集団がいた。北勝班であった。「足つくな~!」と、愛のこもった声援を送り、すれ違った。

8月15日(11日目)
今日がもう合流日になってしまった。正直早いと感じた。合流日なのに、妥協しないコースだった。何だかんだいって、今日も150キロである。杉村のホームである苫小牧をちょっとだけ走って千歳へ。目の前に千歳空港が見えた。
嗚呼、札幌はすぐそこなんだなあ。合宿ももう少しで終わってしまう。ここまで来た、という達成感もあった。が、やはり寂しい気持ちのほうが強かった。まだまだみんなで走りたい、複雑な心境であった。

キャンプ場に着いたら、もう北勝班は到着していた。全員元気そうで何より、何より!

8月16日(12日目)
ついに最終日の朝がやってきた。泣いても、笑っても今日で終わりである。それならば笑って終わりたい。そのためには完全燃焼するしかない。そう、今日はフリーランがある。残ったエナジーを全て燃やして走った。全力でペダルを回した。ただがむしゃらに。

もう思い残すことはない。フリーランゴール時の写真は最高の表情をしている。

そしてついに札幌へ。曇っていた天気も、いつの間か快晴になった。さんざんいじめられた天気までもが、今日ばかりは今までの苦労を労って、僕等のゴールをあたたかく迎えてくれているようである。

羊ヶ丘展望台でベタなポーズの写真を撮って、遂に札幌駅にゴールした。全員無事に完走することができた。みんな素晴らしい笑顔である。1人1人どんなことを感じていたのかは分からないが、楽しい時間を共有し、苦しい時も共に乗り越え、ここまで来た全員には、言わなくても互いに共感することができる「何か」があった。

僕の夏合宿 – 杉村

僕の夏合宿 1年 杉村

WCCの夏合宿、まだプレ合宿しか体験していない僕にとってその全容は全く未知のものであった。ただ約1ヵ月という日程に圧倒されていた。

物心つかないまま羽田空港へと向かったが空港に着くまでがまた死ぬかと思った。テント、サイドバッグその他を含めた輪行袋の重さはハンパではない。大げさではなく10m歩いて一休憩というペースでや
っとの思いで着いた。軽く1000アップくらいした気分だ。紙浦さんは水中ゴーグルを装着して空港にいた。その日は空港泊となったが冷房の寒さと飛行機に乗る楽しみでほとんど眠れなかった。翌日飛行機は何といってもステュワーデスのカワイサが印象に残った。冗談抜きで今まで見た生の女の子で1番カワイイといっても過言ではない。まさに僕のベクトルだ。至福のフライトの後、雨で寒い女満別空港に降り立った。いよいよ修行生活が始まるのだ。

初日はあまり走らなかったが飯と野宿は最悪だった。テントサイトは砂浜。当然水場などなくお茶で米をたく羽目になった。もちろんまずい。夜になると雨風が出てきて、テントはバタバタ音を立て、フライをかけてないので中に浸水してきた。
「フライかけましょうよ」と紙浦さんを起こそうとするが全く起きてくれない・・・。眠れぬまま毎日この調子だったらどうしようと不安になった。前プラ中のテントサイトは本当にろくでもなかった。もちろんキャンプ場などには泊まらない。小学校やら駅前、果てはホテルの駐車場にテントを張ったこともあった。

石北峠に張った時は強風にあおられテントが飛びポールが折れ、使用不能になった。その夜は電話BOXの中で夜を明かしたわけだ。最悪だけど今思うとネタ的には最高だ。人間は疲れていればどんな環境でも眠れるものである。

前プラで苦しかったといえば日焼けだ。晴れた日は殆んど裸走りをしたためもう1日目から背中がヒリヒリと痛みだした。道中に行った温泉でも痛すぎて入らずじまいだったし、夜も背中を下に寝ることができず、体を横に寝るしかなかった。日焼けをあなどることなかれ!

前プラを経て走り的には相当強くなったという実感があるし、野外、野宿自炊生活にも慣れた。前プラあっての本合宿だ。

合宿(1発芸やススキノも含む)を終え人生観が変わり大人になったと思える。そして何より初めてWCCの一員であると実感した。

事後報告(使用後) – 熱海

事後報告(使用後) 第38代技術指導局長 熱海
俺たちの夏、第38代最大の峠であった北海道夏合宿が無事終了し、すでに半月も経ってしまった。僕にとっては役職柄ここ数年で初のMTBとランドナーの混成部隊での合宿成功ということが最大の目標であったし、悩みでもあった。
今回の合宿により様々な経験・資料を得ることができた。それは僕が悩んだよりも同学年や後輩の協力によるところが大きい。ここではその感謝も含めて、僕なりに得た経験や結果、感想などを公開してしまおうと思った訳だ。ダラダラと長くなるが、メカについて、今後のWCCに関心あるやつは読んでみてくれい。(注・考察は主にMTBが主となる)

1 フレームについて
常々、クロモリフレーム(Cr・Mo)はその特有のしなりゆえに、重い反面、疲れが軽減されると言われている。しかし、アルミフレームのMTBで走った僕から言わせてもらうと。あまり関係ないのではないかと思う。
まぁ、スリーサイド・フォーサイドで走っていれば、そんなささいな疲労などは問題外。アウトオブ眼中。(失礼)しかし、本来曲がり易い素材なので、アルミのバイクを輪行する際はエンドキーパーなどを用いた方がいいと思った。

2 タイヤについて
ランドナーのタイヤについてはその実績があったので問題はなかった。しかしMTBについては実際に合宿をWCC流で走った人がいないためこれは本当に困った。
なぜならば、MTBの場合、26×1.0位から26×2.4位まで幅広い太さがあり、またブロックパターンもつるつるスリックからボコボコブロックまであるからだ。

簡単に言ってしまうと、死ぬのが怖くて路面抵抗を極力軽減して走ろうとするとタイヤは細い太さのタイヤチョイスとなり、その結果パンク地獄に陥りかねない。逆にパンクが怖くてごつごつの太いブロックパターンタイヤをチョイスするとその人は間違いなく死ぬであろう。まあ1年は死んでもかまわない(失礼)が、僕は死にたくないしパンクもしたくなかったので、スリックタイヤを志す入門者用サイズであるスペシャライズド・ニンバスEX26×1.5を履いてみることにした。

またタスクは元来スペシャのハードロックに古い型のヘミスファーEX26×1.5を付けていたし、前野はパナのロードランナー26×1.5を履いていた。結果としては「オンロード中心のたまにダートが入る合宿」には十分対応できていたと思う。

1年はパンクが多かったがこれは僕が思うにタイヤの空気圧と関係がある。つまり通常ダートはオンロードの8割の空気圧で走ればタイヤがはねず、快適に走れるのだが、1年は空気圧がちと低かったんじゃないかと思った訳だ。でもここにもWCC流走りのテクニックがあって、普通の走りならば8割圧で行けるものの、過積載的な走りをするWCCにあっては圧が低すぎ、その重さに耐えきれずリム打ちパンクをしてしまうのだ。だからパンクしたくなければ、タイヤがはねまくって、腰を振りまくってもタイヤをガンガンに固くしておく(圧を上げる)ことが大切なのかもしれないと思った。事実、僕は1回もパンクしていない。結果として、26×1.5以上のスリックタイヤであれば合宿でも十分対応できるということだ。(注・スリックはミゾが入ったもの。スリップしちゃうからね。)

3 キャリアについて
従来ランドナーには全て日東のキャンピー(CAMPEE)というキャリアを付けてきた。高価なキャリアだがその耐久性、リペア性を見ればその価値は十分あることが分かる。MTBには日東のMTキャンピーをすすめたい。
これは様々なメーカーのバイクに装着可能なようにアジャストができるキャリアなのだが、ショップによっては付かないだの取り扱ってないだのと言うところがあるようだ。大体、キャリアがブッ壊れて荷物が積めなくなったらどうやって運ぶというのだ!?ということで信頼性という面から日東キャリアをすすめているのである。(強制ではないが)

4 ハンドル
ドロップハンドル最高。サイクリングを快適にするには適切なタイヤチョイスとハンドルポジションの多さが物を言う。T字ハンドルのバイクにはなるべくエンドバーを装備してもらいたいもんだ。グリップ交換も効果大だ。個人的にはエンペラーが出しているLONG TOURING MTBのようにT字をドロップにすることができるような補助バーをもっと出してもらいたい。

5 コンポについて
基本的に合宿が乗り切れれば何だっていいと言いたいところだが、古いパーツや低いグレードのパーツで走ってみて不快な思いをした人も多いのではないだろうか。もちろんシマノのグレードの高いパーツを付けるのが1番だ。だいたいアセラ、ディオーレ、LX、XT、XTRであれば問題ない。
購入時にMTBの場合パーツが選べない時が多いので(パナなど選べる時は良いパーツにしろ)、良いコンポを付けているモデルを買うか、購入後に自分でグレードアップさせていくしかないな・・・と思う。これはこれで結構楽しいもんだよ。

6 今後の可能性
これからはもっとチャリの細分化が進む方向性にある。つまりサイクリングシーンに光が当たる可能性も大ということだ。サスペンションの利用、SPDペダルの利用、新しいサイクリングギアの登場など、同じサイクリングでもその実態は大いに変化・進化できる可能性があると思う。でもそれはそれでいいと思う。使うマシンやグッズが変わったとしても、その根底にあるWCCスピリットは変わらないはずだから。

1年企画 – 杉村

1年企画 1年杉村

10月某日、1年企画なる行事があった。1年が各々企画を立て下見をしてその中から最も優れた企画にクラブで走るというものだ。そしてなぜか私の企画が採用された。てゆーか企画は1つしか出てなかった。集合地はJR日光線の今市駅。
自分で好きな所に企画を立てられるということで、他の人のことなど考えず思いっきり自分の家からアクセスの良い所にした。比較的近くて喜んでいたのは同じ埼玉県民の勝野さんくらいなもので森山さんあたりは不満気だった。

しばらくしてみんなそれぞれチャリを組み終わり、さあ出発という時間になったが1人足りない。そう薬師寺がいないのだ。どうやら電車の中で寝過ごし終点の黒磯まで行ってしまったらしい。

そして1人足りないまま出発したわけだが、しばらくは車が多くてウザい国道走りが続いた。杉並木を越え鬼怒川沿いに走っていくと日塩もみじラインに入り本格的な登りになる。紅葉を期待していたがまだ少々早かったようだ。アップ最後の1発はフリーラン。たいした坂ではなく、しかも1週間前下見で走ったはずなのに何故か激死にしてしまった。クソッ、こんなことならフリーラン入れるんじゃなかった!と思いながらやっとのことで峠に着く。あとは下って温泉に入るだけだ。途中で逆ルートから走ってきた薬師寺と合流し無事ゴールの西那須野駅に着いた。

初めての企画ということでミーハーなコースにしたこともあって終始車が多かったが、比較的バラエティに富んだものになったと自分では思っているが、みなさんどうだったでしょう?
企画者というものは走りながら常に皆さん楽しんでいるのかな?と考えてしまう。初めて企画する大変さがわかった。

1人耐久ラン(早同下見珍道中) – 森山

1人耐久ラン(早同下見珍道中) 3年 森山

「耐久ラン」・・・何100キロという距離を自分のペースでひたすら走る、自虐的行為のことをいう。(WCC用語集より抜粋)

プロローグ
9月某日、ゼミの最後、
「10月のゼミ合宿は本庄ではなく、軽井沢の追分セミナーハウスでやります。」
この一言が事の発端だった。
ゼミ合宿は10月8,9日であった。河瀬が早同の下見を10月7,8,9日にするというので、ついて行くことにした。

いざ長野へ
6日の夜、急行アルプスで、一路長野へ向かった。その途中、塩尻駅のホームで大東さん(DCCのOB、元主将)に会った。大東さんは何故か、ホームを裸足で歩いていた。そして、以前の早同で穿いていたジャージ姿であった。相変わらずジャンボリーな人である。俺のフロントバッグを見るなり、いや、正確にはピンバッジを見て、

「なんや、大したトコ行っとらんサイクリストだと思ったら、お前のだったんか。」
いきなりのカウンターパンチである。

「いやー、今年の夏から集めたばっかなんスよ~。」
などと、ノックダウン寸前の言い訳をするも、話は次の話題へ、トホホ・・・。

大東さんは、この連休にDCCのOBの人達と登山をするために来たらしい。峠だけでは満足出来なくなってしまったのか?今度は山の頂上を目指す人になってしまった。大東さんは本当に面白い人である。
いるだけで周りの雰囲気が明るくなる。会ったことのない1、2年生には、1度会うことを勧めたい。今は、葛西に住んでいるそうである。さらに、今年のDCCの1年生に、本上まなみ似の女の子が入ったという情報を入手。早同には、女子が来ないのを歯ぎしりして悲しむのであった。松本駅で、急行「ちくま」に乗り換えて、長野へ向かった。

下見開始
長野駅には6時前に着いた。さっそく自転車を組み立てていると、いきなりアクシデント発生!!走行距離ゼロキロでのメカトラである。河瀬の前ブレーキのワイヤーが、伸びに伸びていた。カップラーメンを5分置いてもあんなには伸びないだろう。とりあえず応急処置をしたが、河瀬は相当ヘコんだ。しかし、10分後には、朝っぱらから開いている土産物屋に入ってはバッジを探していた。ゲンキンな奴である。コンビニで買った朝飯を食っていると、河瀬がとんでもないことを言った。

「俺、今日ノーハンガーで行くから。」
ええーッ!!今日は渋峠、2000アップだぜ!分かってんの?と、内心思いつつも、
「へえー。」
と、心の内の動揺は見せずに、自分もハンガーは買わないのであった。初めの2、3発は問題なかった。国道でアプローチまで行って、少し登り始めたな、程度であった。しかし、登りはそこから果てしなく続いた。

河瀬の様子がおかしくなってきたのは、標高1200~1300mの地点だった。口数も少なくなり、うつむいて走っていた。よっしゃ!!ここはモー娘の「ハッピーサマーウェディング」で元気づけよう!!と、俺は歌いだした。

「~パラッパラ、パラッパラ、パラッパラッパッパ、父さん母さんありがとう~」
この曲は車での下見中、50回は聴いたんじゃないかというくらい、2人のお気に入りの曲である。だから、絶対喰いついてくると思った。しかし、いくら歌えど、ノッてこない。そして、河瀬がボソッとつぶやいた。

「・・・俺・・・ハンガーノックだ。」
彼は今、パラッパラッパッパ、ではなく、頭の中自体が、パッパラパーになっていた。持っていたチョコレートをあげるも、どうにもこうにも収まりがつかなくなったみたいで、標高1500m付近のスキー場の土産屋で、いつから置かれているか分からない、とても値段の高い「柿の種」を買っていた。何とか復活してくれた。

残り100アップをきって、また河瀬の様子がおかしくなった。何もない所で自転車を降りて、

「モリッシー、ティッシュ貸して。」
と言ったので、渡すと、逃げるように草むらへ駆け込んでいった。柿の種が既に消化されたのであろう・・・。

やっとこさ渋峠に着いた時には、午後3時を過ぎていた。河瀬がトイレへと消えてった。腹が冷えてしまったらしい・・・。

あとは、サクサクと下って、草津に着いた。到着するなり、河瀬の口から、サイクリストらしからぬ言葉が発せられた。

「俺、もう自転車で移動したくない。」
河瀬はマジでイッちゃっていた。その表情を見てみても、もう、全然余裕などなかった。しかし、俺は初めての草津で、かなりアツくなっていたので、その言葉と表情を黙殺して、最後の最後まで引きずり回した。河瀬、俺の好奇心につきあってくれてありがとう。

温泉入って、メシ食ってから、1人用テントに無理矢理2人入って寝た。

軽井沢へ
草津を結構朝早く出発し、軽井沢に向かった。その途中、走りながら話題が髪の話になった。

「そういえば、河瀬って、ずっとロン毛だよな!」
「そうだね~、ながいねぇ~」
「走るビジュアル系だな。」

それが始まりだった。そこから3年1人ずつに「走る~」という歌い文句をつけてみた。

河瀬・・・走るビジュアル系
紙浦・・・走る壊し屋(色んなモノを壊してばっかだから)
森山・・・走るジェントルマン
勝野・・・走る知識人
熱海・・・走る番長
平井・・・走る戦場キャメラマン

こんなくだらないコトばっかり話していたら、軽井沢に着いた。

思っていたよりも早く着いて、ゼミ合宿の集合の時間まで時間があり、河瀬も下見の時間に余裕があるというので、旧碓氷峠を攻めることにした。

「ほんの200アップ、200アップ。余裕ッスよ~。」

こんな感じで、2人とも軽いノリだった。でも、そこに待ち構えていたのは、とてつもない傾斜の道であった。すぐに河瀬がちぎれはじめた。俺も、もう、いっぱいイッパイであった。とにかく、だましだまし上っていった。
苦労して上ったが、そのわりに景色も良くなく、バッジもなかったので、2人で無言で下りた。碓氷峠のちょっと先まで河瀬を見送ってから、追分セミナーハウスに向かった。

ゼミ合宿
セミナーハウスに着くなり、マジで自転車で来たのか!と、言われ、変人扱いである。

発表が始まると、すぐに俺の記憶はなくなった。知らぬ間に発表が終わって、飲み会になった。同じ学年の奴らと飲んでいたら、修士2年の先輩が1人、俺の所にやって来た。この先輩は学部生の頃、山岳サイクリングに所属していた人なのである。山岳サイクリングは、昔、WCCから分派してできた理工に
部室のある自転車サークルである。

「自転車で来たんだって。」
「はい。」

などと、会話が始まり、自転車仲間どうしの話で盛り上がった。気が付くと、3年の奴らはどこにも見あたらなかった。そして、その先輩から質問が飛んできた。

「ところで、明日はどうするの?」
まあ、そんなにガンガン走る気もないし、軽井沢からは電車乗れないから、高崎くらいまで行って輪行しようと思っていた。

「高崎まで走って輪行・・・・」
その瞬間であった。
「それは寒いでしょ~。」

と、先輩はおっしゃったのであった。彼の意見を聞いてみると、自転車で参加したのなら、家に着くまで自転車を使え!ということらしい。

そこまで言われちゃあ、こちらとしても負けるわけにはいかない。本家WCCの魂ってやつを見せつけねば!酒のせいもあったであろう。妙に熱くなってしまった。

次の日、教授の講義が終わって、帰りの時間がやって来た。ハァー、何でこんなことになってしまったのだろう。とりあえず、研究室の人達には、ヤル気を見せるために、大きな声で挨拶をして走り始めた。走っている途中、どうせ誰が見ているワケではないのだから、と、何度かやめようかと思った。それでも、家まで走りきったのは、止めてしまうと、自分自身の甘えに負けてしまったことになる。それが許せなかったからだ。

220キロの道のりを8時間半かけて走った。

早同を振り返って – 河瀬

早同を振り返って 3年 河瀬

早同が終わった。厳密に言えば、返金等残務処理は若干残っているが、同志社の面々が皆京都に帰った今、リアルな感情を記したいと思う。

パンフレットの巻頭でも述べたが、私が早同実行委員長になったのは、
「早同が大好きだから、自らが中心となって第37回早同交歓会を作りたい」
と強く感じたからである。結論から言うと、私は早同実行委員長の職を全うできたと思っているし、早同は大成功であったと胸を張って言える。

しかし、欲張りなもので、もっとできたのではなかろうかという気持ちもいささかある。例えるなら、馬券が完璧に当たった時にもっと金額を多く買えばよかったと感じるのと同じようなものである。つまり人間の欲というものは尽きることのないもので、常に上を向いているものなのである。しかし、成功したから言えることであって、これ以上欲を掻くとろくなことはないだろう。
もしくはこれまでの活動が一筋縄でいかなかったために、あまりにうまく事を運べた今回、逆に戸惑っているのかもしれない。いずれにせよ、第37回早同交歓会は最高だった。

ここで準備段階から順を追って、振り返ってみる。まずコース設定であるが、前提として僕が早同に対して過去2年間で得た率直な思い、つまり相当にきついコースを走ってこそなんぼであり、そしてそこから両校の交歓が始まるというものがあった。それと長野から飛び出すこと、この2つに基づいてコースを作ったわけだが、渋峠、榛名山、赤城山と各日の目玉は直ぐに決まった。

1日目と3日目はベストなコースであるという確信はこの時点ですでにあったが、問題は2日目であった。草津~浅間峠~軽井沢~地蔵峠~榛名山、そして伊香保温泉というこの日のコースは客観的に考えても、ナイトラン必至、企画のエゴ丸出しということは分かっていた。でも私には浅間峠を削ることも、榛名山を削ることも全く頭になかった。なぜなら、我々の代としてクラブが最も成熟している今、3日となった早同で唯一融通が利くと思われる2日目、といったあらゆる条件を加味し、もちろん早同が過去ナイトラン続発という事実も追い風になってくれたが、私のこのマゾヒスティックなエゴを満たしてくれるであろう最初であり、最後の機会を逃すわけにはいかなかったからである。

次に予約や宿との値段交渉についてほんの少しだけ触れると、僕はそういった事が好きだし、恐れ多くも年配の人に自分は受けがいいということも自覚しているので、その強みをフルに発揮させていただいた。ただ、それ以上にこちらのわがままを受け入れてくれて、なおかつ懐の深さを12分に感じさせてくれる対応をして下さった3日間の宿の方々には心から感謝している。

そして下見であるが、まず車で、次に自転車でと計2度行った。私はこの1年間企画という役に就いていたこともあり、下見の技術には自負するものがあったし、とりわけ自らのタイムテーブル設定にはかなりの信頼を置けるまでになっていた。そのおかげで2日目のあの120km・1800mアップを実行に移せたといっても過言ではない。

それではいよいよ早同本編の話に入ろう。11月3日午前6時長野駅善光寺口前にうちの副将森山の「集合~」という声が轟いた。そこには36人のサイクリスト。

一気に人数が普段の我々の倍以上になり、新鮮であり、且つ圧巻であった。心の隅では「どうなるんだろう?」と弱気の虫がうずいていたこともまた事実であったが・・・。
そして7時出発。まず善光寺に行き、成功祈願。そしていざ渋峠へのはずが、何というか早同初日独特の緊張感となごやかさの不均衡から生じる1歩間違えれば、なれあいになりかねない微妙なズレ。

1発目の休憩にたどり着くまでは不安に胸が圧迫されていた。しかし、不思議なもので登りはじめるとこのズレが徐々に解消されていくのが分かるのである。やっぱり早同っていいな。

そんな僕らを味方してくれるかのように、途中の雨が嘘のように峠付近になると青空が現れてくれた。実のところ、私は早同にもう1つ楽しみを持って臨んでいた。それは夏の前プラで連れていった薬師寺と同じ班で走ることである。おそらくこれが最後の機会になるであろうと感慨にひたりながら、班割りをしたのだが、これが見事に凶と出た。峠への最後の1発、奴の激速ペースに殺されたのである。
皮肉なもので、それを望んでいた自分に気付き、その自分と対峙したあの瞬間はある意味苦しく楽しい「至福の瞬間」であった。そして渋峠。あの峠の雰囲気は何ともいえず好きである。

ただ1点、大先輩の相蘇さんが持っていた峠バッジが製造中止になってしまったことを除いては・・・。
その後、白根山レストハウスに立ち寄り、ほぼ定刻通りに1日目の宿、草津高原ユースホステルに到着した。ここで私は久しく味わったことのなかった安堵感におそわれた。夕食後のエール交換で1年振りに同志社のカレッジソング攻勢を受け、「これだよ早同は」と再確認し、この日は幕を閉じた。

2日目、朝から雲1つない快晴、気分も超快晴といいたいところだったが、いきなりの薬師寺のパンクで20分のビハインド。浅間峠のアプローチでは、壮大な浅間山に目をやりながら、「気にするな」と心に芽生えかけた暗雲を奥底に押しやっていた。そして峠、峰の茶屋では眼前の浅間山を肴にタバコをくゆらす。峠の一服、これまた最高。

その後、軽井沢の公園にて昼食を済ませ、碓氷峠へ。184ヶ所のカーブ、今回もやはり目が回ってしまった。そして、地蔵峠。抽象的であまり好きな表現ではないが、これまで幾度となく体感してきたまさに「WCCチックな道」である。車は少ないし、彼方でガードレールが巻いているのが見える。「嗚呼、素晴らしきかなサイクリングは」という心境であった。

ここからやっとこの日のメイン、榛名山である。すでに陽は傾きかけており、そんな中、急勾配を登る、登る。峠まであと1発というところで陽は没し、夕闇の中、まだまだ登る、登る。そしてようやくたどり着いた榛名湖。

湖面に映る逆さ榛名富士がとても素敵で疲れを1瞬忘れさせてくれた。そこから下って、2日目の宿である伊香保観光ホテル到着。僕らが着いたのは午後7時、約40分遅れであった。
先頭班は定刻よりやや早く着いたらしく、すでに入浴を済ませてさっぱりしていた。結局、最終班が着いたのは、7時30分、皆が無事に着いたということを確認し、昨夜よりももう少し大きな安堵感におそわれた。確信犯的にナイトランを仕組んだ形になったが、そんなことは大した問題ではなく、夕食の席で楽しそうに話に花を咲かせている早稲田・同志社の面々を見れただけで十分だった。

そしてはやくも最終日、3日目。この日も天気に恵まれ、絶好のフリーラン日和というやつですかね。渋川でうちの4年生の方が2人合流され、38人でもってタイムトライアルの舞台となる赤城山へ。しかし、紅葉のシーズン、3連休の3日目、しかも快晴ということで予想をはるかに上回る交通量であったため、スタート地点をわずかに変更する事を余儀なくされたものの、全員無事スタート。

結果からいうと、私は38人中35位。実行委員長という名のもとにせめて20位台は欲しいと戦前は思っていたのですが、残念ながらあれがいっぱいいっぱいでした。

見事に薬師寺にも引導を渡されたし、もう悔いはありません。大沼の近くでかなり遅い昼食をとり、そこから2発。定刻よりやや遅れ、笹屋ホテル着。ちなみに最後の1発では何というべきか早く着きたいという気持ちと、もうしばらく走っていたいという気持ちの間で揺れ動き、複雑な心境でした。
現実問題として、足はもうすでにかなり限界近くまで来ていましたが・・・。

宿に着いてのんびりする時間もなく、宴会が始まった。この時点ですでに最大級の安堵感と心地いい脱力感に包まれていた私は少量の酒でも酔えてしまえる状態になっていた。
宴は例年をはるかに凌駕するある種異常な盛り上がりを見せ、1年振りに本場もののサイクラーも見れたし、もう言うことなしでした。そして締め、両校の歌はもちろんのことですが、とりわけ「カワセチァース、ファイファイカワセチァース、・・・、カワセチァー」というのが心に深く響きました。早同最高。

最後に、こんなに素晴らしい早同を創り上げることができたのは、参加者全員が早同に対して心意気と愛情をもって臨んでくれたからであると実感している。
そして、皆の、とりわけ後輩たちの心の中に「早同っていいな、来年も楽しみだな。」とか「来年はもっといい早同にしてやる。」というような意識を残すことができたとも僭越ながら確信している。

本当に最後の最後になりますが、森山をはじめとする早同実行委員、早稲田・同志社の面々、そして協力してくださった皆さまには心から感謝してやまない。どうもありがとう。

追い出し – 古橋

追い出し 2年 古橋

追い出しランのコースをあれこれ思案していたのは合宿後の夏休み中、まだ暑かった9月であった。今年の4年会の方々は大変手強いので、それ相当のものでなければならない。5万図の「甲府」を丹念に読み込んでいた。
その時、追い出しランの定番である御坂峠の南に「檜峯神社」というものがあることを発見した。ほんのささいな好奇心だった。そこへ通じる道も何だか怪しい。5万図の実線の道だ。ツーリングマップルにも載っていない道だ。もちろん、ものすごくきつそうだ。まさに秘境というものを感じた。

早速下見を行った。9月の甲府盆地は異常な熱気だった。さらにこれから向かうは未知の山道。国道から別れて檜峯神社ヘアプローチする林道の入り口はおよそ信じられない勾配で上っていた。鳥居があるし、間違いない、ここだ。想像以上だった。かなりヤられたが、本番が楽しみだ。その後は若干の修正をし、もう1度下見を行い、準備万端で本番を待った。

当日は、フリーランに於いて3名もが、足がつって倒れる、という私のねらいが見事に実現したような事態が起きた。猪木も歳にはかなわないですね、ホリエさん。
結構スイスイ走られていましたね、カザリさん。鬼軍曹にはまだまだですか?スギヤマさん。生きて走り続けてください、キムさん。

宴会も無事終わり、いよいよ秘密会議。主将と企画への立候補。自分にとって、なるべくしてなるようなポストであるかのように思えた。

Editor’s Note

2000年の出来事。平成12年。

1月。コンピュータ2000年問題(Y2K)が注目されたが大問題は発生せず。
3月。ソニー、PlayStation2を発売。
中目黒駅脱線事故
4月。さいたま新都心駅開業。
第一次森喜郎内閣発足。
7月。2000円札発行。
九州沖縄サミット。
8月。2代目500円硬貨発行。
9月。東京ディズニーランド。プーさんのハニーハントがオープン。
高橋尚子がシドニー女子マラソンで金メダル。
DDI/IDO TACS方式携帯電話サービスを終了。
10月。KDDIが発足。
12月。BSデジタル放送開始。
宮ケ瀬ダム完成。
地下鉄大江戸線全面開通。
世田谷一家殺害事件が発生。

第42回日本レコード大賞 2000年 TSUNAMI サザンオールスターズ

WCC夏合宿は、「北海道 : 網走から – 札幌まで」でした。

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こんにちは。WCC OB IT局藤原です。

今回の文章をデータ化するにあたり、これをネット世界に公開してもよいのか?
やや悩みましたが、そのまま行きたいと思います。森山君の文章が秀逸なため、何度か
笑いが止まりませんでした。電車の中ではお読みにならぬようお勧めします。

当時の文章をWEB化するにあたり、できるだけ当時の「雰囲気」を尊重するよう心掛けたつもりです。
文章と挿絵はPDF版より抜粋しました。レイアウト変更の都合で、半角英数字、漢数字表記等を変換していますが、全ての誤字脱字の責任は、編集担当の当方にあります。もし誤りありましたら、ご指摘をお願いします。

2024年冬、藤原

次章、峠「20号」_2001年度

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