「WCC秋田合宿所」のご案内 – 菅原
「WCC秋田合宿所」のご案内 第一期 菅原
1962年春、11号館の薄暗い階段を下りて左に曲がったあたりの柱に一本の釘を打ち「連絡ノート」をぶら下げ「早稲田大学サイクリングクラブ」がスタートしてからちょうど55年が経ちました。
今年の夏、秋田県を訪れた現役の夏合宿を訪ねるとそこに私の孫のような歳ながらそれは正に55年前の自分の姿でした。 WCC設立当時のストーリーもさることながら長きに渡り革新と前進を続けて頂いた後輩の皆様に心より御礼と敬意を表したいと思います。
私は秋田市で家内と二人暮らしですが以前下宿屋をやっていたほどですから空き部屋が多い。家は多少古いですが(築107年) 常に誰でも泊まれるようになっています。
秋田の夏祭り『竿燈』の見物、旅の途中の立ち寄り、当てもなくぶらりと・・・いかなるご訪問も大歓迎です。異なる年代、あらゆる業界、生き方、考え方マチマチ、利害関係 なし、ただ共に酒を飲み昔を語り今を想う。これに優る楽しみはございません。心より皆様の立寄りをお待ちいたしております。
秋田駅より徒歩15分。ご連絡はメールまで。
WCC草創期に取り組んだ事柄(第4期クラブ員として) – 鈴村
WCC草創期に取り組んだ事柄(第4期クラブ員として) 第4期 鈴村
期間:昭和39年-昭和42年(部員約45名)
(1) 東日本サイクリング連盟 (ESCA) /西日本サイクリング連盟(WESCA)発足と参加活動(栗原委員長)
(2) 早同交換会:第1回三浦半島、第2回京都、第3回伊豆半島(藤瀬委員長)
(3) WCCユニフォーム、部族、三角フラッグの作成、(部歌は作曲出来ず)
(4) 部活動費の確保で各種奔走 ダンスパーティー(渋谷リキパレス)
*「峠」広告の賛助先:高橋製作所(山王スポーツ)、アルプス、 東京8グループ(吉川ブレーキ、唐沢プリマフレームポンプ、中村ケースキャリヤ、日東ハンドル、三光舎デイレーラ―、藤田サドル、三ヶ島ペダル、など)
*「学生の会」へ入会運動補助金と室のおよび大学 一のテイクリングクラブとして認定を得る為)
・ESCA(明治学院、慶応、立教、胸大、など各校より推薦状を得る。
・大学窓口である神沢学生部長宅を訪問し理解を求める。
(5) オープンサイクリング(自転車産業振興会及び自転車会の協力を得る)
原宿・岸記念体育館より自転車30台備受し、早稲田大学まで移動し準備、
勧誘した女学生など約30名の参加を得て、総勢約60名で 大学正門より狭山湖方面ヘラン。
(6) WCCクラブ専任会長の確保
自転車部の佐藤文学部教授が兼任でありましたが、専任会長の確保を図り、心理学泰斗である清原健司文学部教授に引き受け
て頂いた。クラブ活動に積極的に関与頂き公私にわたりお世話になりました。その後のクラブ会長は、弟子の小杉教授に引き継がれ、更には上田教授へと続きました。
(7) 第一回OB会開催(新宿・中村屋)
(8) 組織とその役割の充実
(9) 夏合宿先:碓氷峠・上高地・乗鞍(1年生、宮田主将)、北海道東、中部(2年生、山添主将)、東北6県(3年生、鈴村主将)能登、北陸、中部(4年生、品田主将)
主なラン
ESCAラリー(山中湖籠坂峠、日光金精峠)、早同交歓ラン、台湾一周、東海道ラン、その他
(10) 集合場所、商学部地下、観音寺、河太郎、やぶき
OB総会・創立55周年記念パーティへ向けて – 吉田
OB総会・創立55周年記念パーティへ向けて OB会長 第13期 吉田
前回50周年総会で会長に就任しました13期の吉田彰夫です。早いものでもう5年経ちました。 前回の総会で会則を変更し、OB会費を年会費制から寄付金方式への変更を実施しました。
どうなることかと少し心配しましたが、OB通信で報告の通り皆さまからたくさん寄付いただき残高もほぼ変わらず推移しております。このように寄付が多く集まるのも何かしらの会合の機会にWCCのことを思い出し、現役への熱い思いがなせる業だと思います。
我々が日常生活の中でWCCを肌に感じる機会としては、同期会を中心に現役時代同じ時間を共にした仲間との交流が主ではないでしようか!
年に1度か2度位の頻度だとは思いますが、会った瞬間に現役時代に戻れるのはそれだけ現役時代の熱い思いが皆さんの心にまだしっかりと残っているからだと思います。さらにOB総会・記念パーティは世代を超えたWCCの歴史を肌で感じられる絶好の機会だと思います。是非ともOB総会および55周年記念パーティ 承されています伝統を堪能しましょう!
自転車放浪博士の数奇な半生 – 松下
自転車放浪博士の数奇な半生 第17期 松下 (学校法人東京農業大学・東京情報大学 教授)
早稲田では年間百日~百四十日、自転車で先鋭な山岳サイクリングに走りに出かけていた。自転車が好きで止み難い放浪癖を持つ男にとって、WCCはベースキャンプのようなもの。したがって大学から卒業したというよりは、名実ともにWCCから卒業したようなものだった。
圧巻は1980年、3年の冬から4年の初夏にかけて走り抜けたインドとネパールだ。おそらくはWCC現役生として海外を自転車で走ったのはWCCの歴史で初めてではないだろうか。
17期同期の張替と遠藤とともにニューデリーからカトマンズまで、酷熱のヒンドスタン平原から山また山のネパールの山岳地帯を走り抜け、幾多の病気(マラリア、下痢、高熱など)を堪えつつ走り抜けた。長髪のヒッピーのような恰好で真っ黒に日焼けしガリガリに痩せ細って帰国した小生の姿に、周りの者たちは驚愕した。
そして授業に半年ぶりに出て今度は自分が驚愕した。経営分析の授業だったのだが、これがまったく理解 できないのだった。それもそのはず、走りに走り、混沌の毎日をサバイブし寝て起きてまた走る。そんな日々の末、結局お勉強らしいお勉強は早稲田ではまったくしなかったのである。弁解はしない。鍛えたのは首から下だけだったのだ。
これに関しては冷徹な自覚があった。早稲田の4年間は肉体と魂の鍛錬に集中し、頭脳すなわち本当の学間はしかるべきワールドクラスの大学院で究めよう!とカルカッタでガンジスの川面をまんじりと見つめながら心の奥深く決めていたのである。社会科学の本場はアメリカ東部のアイビーリーグに代表される名門校だ。
よし、行ってしまえ。そして卒業後数年して奨学金をまんまとせしめて名門コーネル大学に潜り込み学問三昧の日々。卒業後は米国のコンサルティング・ファーム Hay Groupでプロフ ェッショナルとして働き、金を稼いで独立起業。
10年間ベンチャ―企業を経営して、リーマンショックの直前に野生のカンがはたらいて上場企業に会社を売却して小銭を稼ぎイグジットを果たした。
その後は、アカデミアに転じて東京農工大学大学院でアントレプレナーシップ、技術経営、人的資源管理論など教鞭をとり、今は、東京農業大学・東京情報大学で教授として医療管理学、ヘルスケア・イノベーション論で教鞭をとっている。
ただし、自転車放浪癖はいまだ解消されず、というか解消する気 はさらさら無く、過去20年間くらい、飽きもせず毎年北海道を自転車キャンピングで約1000kmを走っている。おそらくオレは自転車放浪馬鹿なのだろう。
振り返ってみれば、自転車放浪博士の数奇な半生と呼ぶしかないだろう。敢えて言えば、WCCで足腰と異界異文脈を越境する知恵、サバイバル能力を培ったのは本当にその後の人生を切り拓く基盤になってきたと思う。
WCCで首から下を重点的に鍛え、その後の人生でかろうじて首の上についているアタマを鍛え直す。現役諸君、あくせくお勉強するのもいいが、学部時代には自転車放浪をがんがんしよう。道は拓ける。前を向いてペダルを漕いでいれば転ばない。自転車は、自由精神を涵養するリベラルアーツの有用な道具なのである。
WCC創部当時のユニフォームと自転車 – 松村
WCC創部当時のユニフォームと自転車 第17期 松村
先輩のアルバムに茫然
55周年の総会で、世代を超えた皆さんのスライドをご覧いただきたい と思いました。まずは草創期からと、第一期・菅原先輩に写真の提供をお願いしたところ、思いがけないものを見せて頂き、私はこれにドップリと浸りきってしまったのです。
二年目のWCC
WCCが産声を上げた翌年の1963年夏、四国一周合宿のアルバムです。 当時のお話を少しは聞いていましたが、想像を超えて生き生きと逞しい先輩たちの姿に圧倒されてしまいました。炎天の陽射し、草いきれ、砂利 道、峠と汗、そして雨。あとにつづいた私達も全く同じ、まさにWCCの夏合宿の真っ最中の姿でした。でも、ちょっと違うところもあるのです。
初代ユニフォームの再現
まず目に飛び込んでくるのは、白いユニフォームです。この年の連絡ノートに記された「ユニフォーム決定」のお話を思い出しました。ポロシャツの袖と短パンの裾にえび茶の帯を付ける。アルバムの中の先輩たちは、まさにその姿で笑っているではないですか。すっかり憧れてしまいました。
私は下手ですが多少ミシンを使えます。見よう見まねで複製を作って一式を揃えました。
ポロシャツ -えび茶の帯とWのアップリケ
短パン -えび茶の帯
キャップ -Wのアップリケ
時計 -大きな手巻時計を模したオリエント社クォーツ
シューズ -アサヒ・クーガーラリー
その他 ソックス・眼鏡・サングラス・軍手
第二期の中村照雄先輩と入学洋平先輩への取材という機会にも恵まれ、合宿の旅程やエピソードなど、たくさんのお話を伺うことができました。その際、このユニフォーム着た私をご覧いただき、僭越ながら同時代の後輩としてランに混ぜて頂いたような気持ちになりました。
部品探しは覚悟したほど苦労なく、ほぼ未使用品を入手できました。 ただ荷台だけはどこにもありません。一念発起してムク棒を曲げて電気 溶接で自作、メッキをプロに依頼しました。後ろに振り分けるパニアッバッ グも見当たらず、白の合成レザーで自作しました。フロントバッグは先輩が お使いのような、二本の皮ベルトを締め込む形の未使用品が見つかりました。
60年代サイクリング車の再現
自分では当然と思いますが、自転車も作りたいという思いが俄然湧いてきました。探したところ、67年に製造された少年向けツアー車の未使用品を入手できたのです。フレームはバンド締めを多用するなどうってつけ。これを先輩たちの自転車に近づけていきました。
各部の構成は次のとおりです。
・車輪 -26インチ鉄メッキリム、8分の3タイヤ、英式弁
・駆動部 -コッタードクランク、フラッシュタイプ4段、ロッド式変速機
・制動部 -軽合金サイドプルブレーキ
・ハンドル -鉄ステム、マースバー、ゴム製スリーブ、リンリンベル
・泥除 -軽合金製、V型ステイはリベット処理、前部マッドフラップ
・電装 -砲弾型ライト、ダイナモ、リフレクター
・荷台 -ムク棒製、前後エンドにて立上げ
・鞄 -帆布フロントバッグ、合皮パニアバッグ
綿々とされど始まり
第四期・栗原秀司先輩の50周年「峠」へのご寄稿を拝読しました。早同交歓会、学生の会への登録、機材の充実、夏合宿のローテーションも第四期に確立されたとの事。WCCはこの頃に内部的・対外的に一段と充実したと教えて頂きました。そして、えび茶の帯が付いた白いユニフォームも、 丈夫な黄色いワセジャーへと、早くも交代しています。
そこからさらに50有余年、コースの立案に始まり、安全な乗車技術、メカニック、キャンピングの手法、グループ行動の要点、リスク対応等々。 色々な創意工夫や試行錯誤が繰り返され、何かが変わり、何かが変わらず。それは真っ盛りのWCCで今日も続いていることでしょう。 草創期の先輩方からのお話です。
「このあたりで目を転じ、WCCを支え発展させてきた、その後のみんなの 情熱や創意工夫に注目すべきであろう」
草創期ばかりに注目が集まるのですね。今回また私がやってしまいました。アルバムの添え書きや旅程も資料にまとめたかったのですが、手が回りませんでした。申し訳なく感じております。
でも、やっぱり私たちの「始まり」です。55年のWCCを始動した人たちは特別で、後輩の憧れであり続けることには疑いがない。アルバムの中で走る青年たちを改めて拝見し、今もそう感じておる次第です。
最後に今回貴重な写真や資料を提供して下さった方々に、深く感謝 申し上げます。
(第一期)菅原先輩、奈須野先輩、(第二期)中村先輩、入学先輩、(第十一期)石井先輩
会費無料化の5年間 – 川村
会費無料化の5年間 第20期 川村
平成24年11月24日の50周年総会の場で私は次のように提案いたしました。OB会は会員一人一人の個人のために有るのではない。
その個人を今まで育ててくれたクラブ、そして先輩同期後輩、さらには現役に感謝をして、更に前進するための気概を養ってくれる場がOB会なのだろう。 そうであるならば、定額の会費ではなく、寄付によって運営すべきだろう。会費によって会員資格を悩む必要もない。かつてWCCに 所属して恩を受けたと言う事実は消せるわけが無い。でも、だからといって会費を払う義務は生じない。受けた恩を寄付と言う形にしたいときにはいつでも受け口をもとう。
背景には50周年総会の準備を続けているときに受け取った、あるOBの方の言葉がありました。その方は次のように問いかけて来られました。「50周年おめでとう、WCCが50周年を迎えたこと を共に祝いたいのだが自分は会費未納が続いている、こんな私でも 50周年総会に出席していいのだろうか」と。もちろん出席していただかなければいけません。
非常に短絡的な発想ですが、こんな悩みが発生する原因は会費にあると思いました。会費なんてものがなければ、もっともっと素直な気持ちでだれもがOB会と向き合えるのではないだろうかと思いました。
そしてOB会の会則から会費にかかわる部分を削除していただきました。もちろん不安はいっぱいでした。会則の改定は5年に一回 の総会でしかできない、その間にもしOB会会計が底をつくような ことになったらどうしようか。その不安をかき消すために50周年の懇親会の場では募金箱をもって寄付を集めまくりました。
会費を廃止し、寄付金に一本化するにあたり、それなりに集まるはずという確信は当然ありました。それまで会費が三千円のところを1万円や3万円と高額の振り込みをされた方が少なからずいらっしゃいました。複数年分の会費とも思われますが、割り切れない額の場合があったり、連続して複数年にわたり高額の振り込みがあれば、これは寄付の気持ちなのだろうと確信できます。
会費を集めていても寄付金があるのですから、会費を廃止すれば寄付金はもっと 集まるはずと思いました。同期会などで集まったときに店の勘定で 端数が出てしまうと扱いに困ることもあるので、そんな端数の受け 口を作れば活用してくれる方はきっといるはずです。
寄付金を募っているという知識があれば、OB同士が集まったときに寄付金を出し合おうという発想も当然起きるとの期待もありました。こうした場合には連名での寄付金が送金されてきました。 あるいは、非常に残念なことですが人には寿命があります。
物故会員のご遺族の方から寄付を受けることもあります。WCCに育てて貰った恩は遺族にまで繋がっていると考えたときに、その恩を少しでも返したいと思うご遺族のお気持ちの受け皿となるべきOB会を守る責任の重さを感じます。
総会を終えて最初のOB会報から寄付の実績を必ず報告して参りました。この峠の原稿締め切りを前に9月20日までの寄付金と、同じ期間の支出から50周年記念事業の後払い金を除外したものを集約すると次の通りでした。
本当にありがたいことです。寄付金はほぼ支出をカバーしてくれました。新たな寄付へのお願いも必ず続けて参りました。これからもOB諸兄のご協力をお願いいたします。 なんとか今後も会費の無いOB会を継続できると思います。
ヨーロッパ・・・多様性は自転車で – 高橋
ヨーロッパ・・・多様性は自転車で 第29期 高橋(竜)
早稲田大学サイクリングクラブ55周年おめでとうございます。そして「峠」発行の労に感謝します。現役時代は長期休刊中だった「峠」に対し、大先輩が創り上げてきたものという、畏れに近い感覚を持っています。この伝統ある存在に拙文が掲載されることに恐縮しつつ、筆を執らせて頂きます。
5年前拙稿の続編として、その後ますます盛り上がっているフクちゃんの集いについて書こうかとも思いましたが、ここはサイクリングクラプということで、今回は走りの記録を残させて頂きます。WCCには氏本さん、のちに堀内俊さんといったヨーロッパ・ツーリングの先駆者がいらっしゃり、「フロントバック」のバックナンバーを読みつつ夢を膨らませていました。
それが早くも3年生の夏合宿後(1991年)に叶い、ドイツに自転車を持ち込みました。しかしながらその3日目にライン川沿いのマインツにて交通事故、入院という事態・・・。その悔しさを晴らすべく、30代なかばになった2001年に14日間のアルプス横断ツーリングを実現、その後、いずれも夏に計5度のヨーロッパ・ツーリングを行いました。それぞれの記録を、できるだけ簡潔に報告させて頂きたく思います。
1: 2001年夏
ジュネーヴ→シャモニーモンブランーツェルマット→フルカ峠→マイエンフェルト→リヒテンシュタイン!ドイツ・アルペン街道→ザルツブルク
初めてのツーリングは迷うことなく、ヨーロッパの多様な文化が交わりあうアルプスを横断する企画にしました。起点をフランス語圏スイスのジュネーヴ、終点をオーストリアのどこかと設定しましたが、道筋は行き当たりばったり。日々コースを決め、夕方になって今日の宿を探し始めるスタイルはその後も毎度のことで、これがまた楽しい要素です。初日からユースホステルが男女相部屋なのにびっくり。
その後、中都市以上ではこれがむしろ標準ということを知ることになります。大きなジュネーヴの街を出るといきなり国境、まずはシャモニーへ。
2日がかりで到着ののち、ここでもユースホステルを拠点にエギーユ・デュ・ミディからの景観を楽しみました。さらに連続する峠を楽しみつつ、ドイツ語圏に突入。看板も、そして会話も、何もかもフランス語一色だったのが、小さな野を越えると劇的にドイツ語に変化するありさまには、ただただ驚く以外ありませんで「こした。いっぽう新聞・雑誌売り場には両方の言語が併存しています。
この光景が忘れられず、この後すべてのツーリングは、多様な民族が共存する幸せな光景というか、そういったものを追い求めることになります。
さらに東に進みツェルマットとマッターホルン、そして今回のメインといえるアルプスの中心、フルカ峠とオーバーアルブ峠へ。
あまりにスケールの大きな風景、そして乗鞍を越える数多のサイクリスト。ランドナーの私は数知れぬロードバイクに追い越されましたが、そのフレンドリーなやりとりも格別です。
ふたつの峠のあいだで宿泊したアンデルマットのユースホステルと、ここに集まった人たちの素晴らしさは忘れがたいもので、10年後に再訪することになります。さらに東に進み少数言語ロマンシュ語圏の素朴な風景と人を満喫したあと、ハイジの街マイエンフェルト、そして小さなリヒテンシュタインを越えるとオーストリアへ。ドイツ最高峰のツークシュピッツェ周辺を
彷徨い、雄大なアルベン街道を経由、素朴な田舎の風景を満喫しつつザルツブルクへ。この音楽祭たけなわの美しいモーツァルトの故郷にて旅を終えました。
2: 2004年夏
バイエルン・レーゲンスブルクーボヘミア(旧ズデーテン地方)→プラハードレスデン
1回目の旅の印象があまりに大きかったので、今回も民族が折り重なる多様性が感じられるところを・・・という思いから、ボヘミア(チェコ部)の、かつてドイツ語圏だったところをメインに計画しました。しかしながら戦後ドイツ人が徹底的に追放されたこの地では、ドイツ語圏だった名残が感じられたのは石碑に彫られた文字くらいで、この思いは満たされませんでした。
多くのドイツ主要都市は壊滅的な戦災を受けているため、フランスやイタリアに比して味わいという点で物足りなさは否めないのですが、この旅のスタート地点・レーゲンスブルクは幸いなことに戦災を免れたために、中大の街並みができます。
この年の春に愛器(ヴァイオリン)を購入した店から出発し、バイエルンの平原を北へ。ドナウ川にはたくさんのサイクリスト。
毎回のことながら、自転車が趣味として広く愛されていることを痛感します。高齢の夫婦が多いのも特色で、活き活きと人生を楽しんでいる様子がはちきれんばかりに伝わってきます。一生の楽しみとなるであろう自転車という存在と出会えた幸せを、私自身感じずにいられません。
この自転車旅の最大のハイライトは、国境を越えチエコに入ってまもなくのスカルナーという村にて、愛器製作者のお孫さんに巡り会うことができたことでした。1937年に生まれ、翌年のナチスによるズーテン地方併合、そして戦後のドイツ人追放(彼女家は追放されなかった珍しいドイツ人)と財産没収、社会主義体制の悲惨、そして1989年ビロード革命を生きた彼女の生涯は、まさにヨーロッパ史の縮図というべきものです。彼女とは2011年・2015年に再会し、そのたびにお互い涙しながら話を伺っていますが、これらは毎年の私の世界史の授業のクライマックスになっています。
その後のボヘミアの風景はドイツとは異なる素朴なもので、幼年期に田舎でみた光景のデジャヴをいくつも感じました。
そしてプラハは学生時代(冷戦終結直後)に行ったときより遥かに観光化されていたものの、感動にあふれた街であることには変わりありません。さらにエルベ川沿いの風景を経由しドレスデンへ。まだまだ街じゅうが工事現場のようなこの古都、戦後放置されていたフラウェン教会の再建が話題になっていた頃でした。大戦と冷戦、甚大きわまる二重の破壊からの復興が見事に完成しつつある、ドイツの底知れぬエネルギーを痛感しました。
3: 2008年夏
ザルツブルクーグロースグロックナー山岳道金路→ハイリゲンブルート→南チロル(イタリアのドイツ語圏)接断!ブレンナー峠→インスプルク
このときは、フランス留学中の堀内さんがフロントバッグに寄稿してくださっていた旅の舞台、イタリアでありながらドイツ語圏の南チロルを是非自分もという思いで、ここをメインにしました。
初回とは逆にザルツブルクを起点にした旅、そのあと最初のハイライトはグロースグロックナー山岳道路。ナイスガイ初老と中学生孫コンビの元気さに引っ張られる形で、予定になかった名勝フランツ・ヨーゼフ・ヘーエまで登りました。そこから降りた街ハイリゲンブルートも忘れがたいものでした。
そのあとは南チロルへ。ここはドロミテを擁する美しい自然が魅力ですが、世界史の教科書にも登場する、オーストリアとイタリアの係争の地で、第一次世界大戦後イタリアに編入されたあと凄まじい同化政策がありました。イタリア人でありながらドイツ語を話す人々のアイデンティティとはどういうものだろうという私の興味は大きく、出会う人みんなとの会話のなかで尋ねてみましたが、ここの若者たちはこういったことをたいして気に留めていない様子。「私はイタリア人でもオーストリア人でもなく、南チロル人」と口を揃えたように言うのが印象的でした。ちょうど北京オリンピックが開催されていましたが、イタリアもオーストリアも特に応援していないと言う人の多かったこと。なるほど、国民とか、ナショナリズムとかいうものは作られたものであり、普遍的なものからはほど遠いようです。
毎度のことながら、17時くらいになってようやく今日の宿泊地を設定、さらに1,2時間経って宿に到着、そしてレストランを探してテラス席という毎日ですが、ヨーロッパの夏が最も素晴らしい表情をみせるののは、この21時頃まで明るい、長い長い夕方。
これまでの人生、自分はなにものなのかに思いを馳せるのにこれ以上の時空間はなく、手元のメモも日々膨大なものになっていきます。
そのあとはゲーテやモーツァルトも馬車で越えたイタリア・ドイツ両文化の分水嶺、ブレンナー峠へ。学生時代からの憧れだったここは意外と平凡な場所でしたが、そこから北に下るチロルの風景の美しかったこインスブルクに至り旅を終えました。
ただここで若いオーストリア女性からいびきにクレームをつけられて以来、相部屋宿泊からやや遠ざかるようになりました。ひとり旅には痛手なのですが。
4.2011年夏
ミラノ→コモ湖→ルガーノ→ベリンツォーナーゴッタルド峠→スステン峠→ルツェルン
葛飾で素晴らしい自転車店を営んでいらっしゃる先輩・石井秀一さんに、コモ湖近くの自転車教会(Madonnadel Ghisallo)と博物館の存在を聞き、今回はこちらの方へと思いました。ミラノは大きな街で、北に抜けるだけで難儀でしたが、なんとかその日のうちにコモ湖畔のユースホステルに到着。そのあと素晴らしい自転車教会を経て、まもなくイタリア語圏スイスに入りました。
今回のテーマはフランス語圏・ドイツ語圏に比ベマイナーな存在であるイタリア語圏スイスの魅力を満喫すること。
ここで出会う人はみな優しく純朴です。ルガーノ湖畔の風景、ベリンツォーナの3つの城など賑わっているものの、観光地を離れると田舎風景が拡がりました。母語はイタリア語であるはずなのに、出会う人みなドイツ語が上手です。
バイリンガルでは駄目、トライリンガルでないと生きていけない土地柄とのこと。走りの合間に食糧を求めた小さな店で、こちらが話し始める前にドイツ語で話しかけられたことがありました。どうしてと聞くと、なんとなくわかるのよとのこと。
ここではこういう嗅覚が発達するようです。こういった地域の悲しさか、優秀な子は高卒後みんな他地域に流出するとのこと。
その後、アルプスの中心に至りました。ゴッタルド峠とスステン峠の雄大きわまる風景。この2つのあいだに、最初の旅で印象的だったアンデルマットがあり、10年ぶりにここのユースホステルに泊まりました。しかしながらずいぶんと廃れていたのは、日本と同じく時代の流れでしようか。私のほかに2組が泊まるのみでした。2組はいずれもスイス人、フランス語を母語とする自転車親子とスイス・ドイツ語を母語とする登山夫妻でしたが、スイスではまったく話されていない、標準ドイツ語で会話しています。
私に気を遣ってそうしているのではない模様。どうしてと聞くと、私たちは小学校のたちは小学校のときから標準ドイツ語を習っているからとのこと、なるほどスイスでは標準ドイツ語が共通語なんですねと聞くと、全員から「それは断じて違う」との反応。
うーん、日本人には難しい。とりあえず、標準語という概念もまた普遍的なものではないことはわかりました。その後はスイスの美しい風景を堪能したあと、ルツェルン湖畔にて旅を終えまし
5.2015年夏
カールスルーエ→シュヴァルツヴァルト→ストラスブール→アルザスの美しい村々→フライブルクーバーゼル
さて、ヨーロッパにおいて多様な民族が折り重なった歴史を持つ地域といえば、やはりまずはここ、アルザスでしょう。
国語の時間に「最後の授業」を読み、のちにこの話の虚構を知った年代としても、ずっと気になっていたエリアでありました。
今回は前回までの旅と異なることがふたつありました。もっとも困難なのは都市部から田舎に向かう幹線道に抜ける道探しですが、このような時に電子地図が一発解決したことがひとつ。。ただこれへの依存存は旅をつまらなくするので、使うのは一日一度までと決めました。また宿の予約の際、前回までは夕方になったら街の観光案内所で少し先の宿を紹介してもらうか、それがないときは直接談判していましたが、数年のあいだにBooking.comなどのサイトが見事なほど確立していたので、ほぼこれにたよる形になりました。行く先行く先、宿の人の対応が顕著に良いものになったのは、明らかにその影響でした。
さてカールスルーエから走り始めシュヴァルツヴァルトに至りましたが、ここは日本の林道風景のほうがずっとスケール感あるものです。
しかしながらライン川を渡りフランスに入ると状況は一変します。ストラスブールては前述の堀内さんが留学されていた時に訪れていた(交通事故の影響で電車旅)のですが、それから25年経っての再訪、あまりに美しい街並みに心が揺さぶられ、目が眩み倒れんばかりでした。
それはその後のアルザスの村々でも同様です。ぶどう畑の起伏が延々と続く丘を、この年知命を迎えた年齢相応にゆっくりと走り、「フランスのもっとも美しい村」のいくつかを満喫、その感動的なこと!自転車でひとり走っていると、素朴な地元人が話しかけてくるのはいつものこと。戦後教育がフランス語化され、いまや年寄りしかアルザス語を解さないよという話、俺の曾祖母は国籍が4たび変わったよという話などなど、本で読むのとは異なる重みと感慨があります。
そして食べ物の美味しかったこと。周囲の景観が楽しめて、そこそこ賑わっているテラス席を探し、地元のメニューを選択するひとり飯が常ですが、この地域では何を食べても美味しく、未だ強固なアルザスの誇りを感じました。
アルザスでゆっくりしすぎ、最低でも行きたいと思っていたベルンに至らず、バイロイトはじめいくつかの予定もあったので、アルプス直前のバーゼルで自転車旅を終えることになってしまいました。それまでに比していわば「楽勝コース」でしたが、これも年相応でしょうか。
帰国してすぐ中部合宿に参加。出発地点まで内緒、順位発表ありなどの新しい文化に面食らったフリーランもありましたが快走。
日本の素晴らしい風景を含め、私の原点をあらためて体で感じ感無量でした。そしてここまで見事に受け継いできてくださった後輩たちと現役諸君に、ただただ感謝です。
さて来年あたり次をと考えています。どこに行こうか、のんびりと考えるのもまた楽しいものです。なお、5回の旅はすべて、中野の原サイクルにてクラブランのために作って頂いた、今年28年目になる愛車で行いました。原さんは今なお健在で、毎度快く自転車を整備してくださいます。思えば私の自転車での楽しみは原さんのおかげであり、あらためて感謝の意を禁じえません。また、私にサイクルツーリングの喜びを教えてくれたWCCの、菅原さんはじめ多士多様にして偉大な先輩方、そして先日7年ぶりに集った同期に心から感謝したいと思います。皆さん、走りに行きましょう。
サイクリングについて – 板垣
サイクリングについて 社会科学部1年 板垣
大学に入学し、サークル選びに悩んでいるとき、ふと気づいたことがある。それは、今までの人生で、何かに打ち込むということを経験していなかったということである。中学、高校と運動部には所属していたが、どちらも三年限りで、その後も続けようというところまでは至らなかった。そんな私がサイクリングクラブに入ることを決めたのは、自転車で旅をしてみるということに少々関心があったからである。自転車は学生時代に通学として毎日往復一時間ほど乗っていたくらいで、自転車に対する特別な想いや知識などはまったくなかった。ただ、高校二年の夏休みに、部活の仲間との軽いノリで埼玉から栃木までをママチャリで、しかも日帰りで往復した時の体験は良くも悪くも記憶に残っている。炎天下の中、ろくな計画も立てず、休憩もせずに七十キロを走るという暴挙に等しい行為はサイクリングクラブでは起こりえないことではあるが、自転車でこれほどの距離を移動したこともなかったので、もしかしたらこの時の経験が今につながっているのかもしれない。
サイクリングクラブに入ってからは、群馬、栃木、そして福島を除く東北各県を走ってきた。もしこのクラブに入っていなければ、こんな広範囲を自転車で旅するなんてことは一生なかったであろう。とはいってもこれは始まりに過ぎず、私が大学を卒業するころには日本のほとんどを自転車で走っていることだろう。夏の合宿では、険しい峠を越えたあとに見える上からの眺望や、ダウンヒル、キャンプ地でのキャンプなど、どれも私にとって新鮮なものばかりであった。このような活動を残りの大学生活で
楽しめればいいなと思っている。この先、自転車とは長い付き合いになるかもしれない。
夏合宿鳥海山にて
WCCと私 – 臼坂
WCCと私 創造理工学部1年 臼坂
まず、私がなぜWCCに入ったのか。私は小中学校のときは野球、高校ではラグビーをやっていた。しかし大学に入ったら何か新しいスポーツをやりたいなと思っていた。そして近所の人がロードバイクに乗っていた影響もあり自転車に興味を持った。
だから新歓期間に自転車サークルを探した。WCCの他にもワンダーサイクリングクラブもあり、そっちのブースにも行き、話を聞いた。
ワンダーサイクリングの新歓ランに参加したいと思ったが、そのためには新歓コンパに参加しなくてはいけないという。
だから私はコンパに参加すると言ったが、そのときすでに予約が埋まっているからと断られた。こうして私はWCCにたどり着くことになった。ちなみにワンダーの先輩にWCCのイメージを訪ねると、「あそこはガチだから」との回答を得た。
WCCではすぐに秩父の新歓ランに参加した。ガチと聞いていたからはじめは少し緊張していたが、人数が少ないこともあり仲がよさそうに見え、同じ学部で同じ学科の先輩もいて、何より初めて乗ったスポーツバイクで走ることの楽しさからその日のうちに入ることを決意した。新歓ランを終えた後、すぐにまた乗りたいと強く思った。今まで乗っていた自転車はママチャリだったから新鮮な気持ちで楽しかったのだ。早く自分の自転車を持っていろんなところを走りたいと思った。
だからその時、他に1年生がいなくても、直後に行われたゴールデンウイークの新歓合宿で落車しても全然嫌にはならなかった。
自転車が野球やラグビーと大きく異なる点は人数に関係なく楽しめる点である。野球なら9人、ラグビーなら15人と先発選手の人数は限られ、その枠を巡って仲間との競争があった。一方で自転車はそれがない。だからみんなで楽しむことができるし、大人になって一人で楽しむこともできると思う。また相手と戦っているのではなく、自分たちの目標を目指して走るから達成感は得られやすい気がする。この坂道を登った先に待つ景色は一体どのようなものなのか、と。実際に登って見えた景色は毎回登った疲れを吹き飛ばしてくれる。私は晴れた日の空の青に緑が映える、そういう景色がとても好きだ。野球やラグビーなら懸命にトレーニングしたのに優勝はたったの1チーム。一方サイクリングは自分が頑張って自分が達成感を得られたら、それでいい。
もちろん完全な個人競技ではない。前後に頑張っている仲間がいるからいつでも話かけられる。みんなで走っているととっても楽しい。
「弱虫ペダル」で主人公の小野田君はみんなと走っていると自然に笑ってしまうというが、それはよく理解できる。
私がサイクリング中に頭に思い浮かべる歌は、GReeeeNの「ソラシド」である。この歌の歌詞はまるでサイクリングの旅のためにつくられたのかとまで思ってしまうほどである。「〜フル回転で超えるスビードで行くmy way next!!!!~」の部分は特に気に入っている。
皆さんにもぜひ聞いてもらいたい。きっと次回のサイクリングで自然と口ずさんでいることだろう。
WCCに入ってからの、というか自分の自転車を買ってからの私の目標は日本全国47都道府県を走ることである。先輩たちが今までに行った場所について話を聞いたり、写真を見せてもらったりしてわくわくした。自分もいろんなところを走っていろんな景色を楽しみ、いろんな風を楽しみたい。そのためには、まず長い距離を走れるような体力をつけたい。キャンプの荷物をつんでもそれが苦とならないようにしたい。次にお金を増やしたい。WCCに入って自転車含めいろんなものを買ったから今はお金がない。
だから今からお金をため、次の長期合宿からその前後に一人旅をしようと思う。
輪行時の移動費や、食事代等、また自分は観光も多くしようと思うのでそういうところでの経費を今のうちに蓄えていく必要がある。
せっかく旅に来たのにお金がないからだとか、高いからという理由で楽しめなくなってしまうのは大変もったいない。あとは自転車のことや旅でのテクニック等を最低限は身につけたい。一人で旅をしていても困らないようにしたい。そして自分が上級生になったときに自分の後輩たちに自分が行った場所について写真を片手に熱く語りたいと思う。僕の先輩たちのように。
私が自転車にはまる理由 – 海野
私が自転車にはまる理由 創造理工学部1年 海野
第56期の海野です。今回は私が自転車にはまる理由を書いていこうと思います。
ママチャリなどには小学生の時から移動手段として乗っていましたが、私がスポーツとして自転車を始めようと思ったのは高校3年の夏休みにクラスメイト数人にツーリングに誘われた時です。私はママチャリを捨ててしまっていたのでその誘いは断りましたが、彼らが東京から福島まで自転車だけで往復したという話を聞いてクロスバイクやロードバイクというもののポテンシャルに驚かされました。冬休みにも行くということを聞いて私もロードバイクを買おうと思ってアルバイトをはじめ、ロードバイクについて深く調べ始めました。その中で「サイクルロードレース」というものを知り、それ以来私はこのレースの虜になってしまいました。
「サイクルロードレース」というのは「ツールドフランス」などに代表されるいくつものチームの選手が道路を自転車でレース形式で走るというものです。私はその「ツールドフランス」も名前だけは知っていましたが、内容は全く知りませんでした。
しかし動画を見てみると、タフなレースやチームの連携、美しい景色、観客の盛り上がりを見てこれから自分が始めることの延長にはこんなすごいことがあるんだと思って感激しました。
サイクルロードレースの魅力の一つに選手と観客の距離が近いということがあります。レース中も物理的な距離も近いです。山を登るようなコースでは選手たちのスピードも遅いので観客が選手に並走するなんてシーンも多くみられます。また、レースのスタート前は選手が観客にサインしてくれたり、リラックスして走りたい選手がサイクリングしているファンに声をかけて一緒に走ることもあるそうです。日本でも10月、11月はビッグレースが開催されているので超有名選手のサインをもらうチャンスがあります。是非皆さんも記念に行ってみてくださいまた、自転車メーカーの販促イベントでサイン会が開かれることも多いです。私も10月某日にサインをもらってきました。
12月になってようやく10万円のエントリーロードを買い、走ってみると今度は実際のロードバイクの軽快さに感動しました。
自分が時速30キロで道路を走ることなんて考えもしなかったので自転車のポテンシャルと風を感じながら自分の足で家から遠い街を走ることの楽しさを知って、こいつは止められないなと思うようになりました。自分で乗っていて一番楽しいと思うのは坂を上っている時です。平地を走るのに比べると軽快さには欠けてしまいますが、登り切った時の達成感とスピードが出ないので逆に安全というところが好きです。今まで走った中で一番よかったなと思う上りは夏合宿で登った八幡平アスピーテラインです。
合宿の大荷物であんな峠を登っていたという達成感は普段なかなか味わえないと思います。頂上の景色だけでなく走っている間に見えた山の景色もすごくよかったです。
機材スポーツだということも好きな理由の一つです。フレームやホイールだけでなくサドル一つとっても重量や横幅縦幅、穴あきかどうか、クッション性、色など選ぶポイントがたくさんあります。普段乗っているロードバイクはちょこちょこカスタマイズしていますがWCCで乗っている自転車はまだ手を付けていません。頑丈であることと長い距離を走るのに適しているというのを考えてこれからパーツ交換などをしていけたらいいなと思います。また、サイクリングを数字で管理するあたりも好きなところです。
サイクルコンピューターを取り付けると、距離・時速・経過時間などを知ることができます。性能がいいものになるとケイデンスや斜度・パワーまでわかるそうです。そういうことが分かると自分の変化を分かりやすく確認することができるのでゲームみたいで楽しいと思います。
今後は、WCCでキャンプツーリング技術をしっかりと学んでソロキャンプにでも行きたいと思っています。また、ロードバイクでブルべなどのいろんなイベントに出たいなとも思っています。WCCに入ってから自転車の新しい楽しみ方を知ってより自転車が好きになりました。
某サイン会の写真です。一番左がアントニオ・ニーバリ選手、真ん中が私、右がヴィンツェンツォ・ニーバリ選手です。
(嘘です、一番右が私です。早稲田ジャージにサインしてもらいました。)(自慢)
自転車と出会ってから現在まで – 川勝
自転車と出会ってから現在まで 商学部1年 川勝
私が本格的に自転車に乗り始めたのは、確か中学二年生の冬だったと思います。当時、貰ったお年玉の使い道に悩んでいた私は、街中で見たクロスバイクを見て閃きました。そうだ、クロスバイクを買おう!
もちろん当時はクロスバイクなんて名前も知らなかったので、ただなんか速そうな自転車というイメージでしたが。さっそくアサヒに行って3万ほどのクロスバイクを購入し、自宅まで乗って帰ることにしました。最初に踏み出したとき、想像以上にグイグイと進むあの感覚は今でもはっきりと覚えています。しばらくその感覚に浸っていたのですが、こう考えてしまいました。
クロスバイクでこれだけ速いなら、ロードバイクはどれだけ速いのだろう、と。
考えれば感がるほどロードバイクが欲しくなってしまった私は、しばらくお金を貯め、高2の時にSpecialized tarmac SL4を購入。
再度その速さに感動することになります。それからはいきなりヤビツに挑み絶望したり、ビンディングを装備し再び挑んだり、まずは体を鍛えようと近所の坂で鍛えたりして日々を過ごしました。
大学でもせっかくだから自転車をやりたいと思い、WCCに加入。入ったのは5月だったので新観ランは間に合わず、後日補修ランに連れて行ってもらいました。無事に輪行も終え、(何気に初輪行でした)埼玉県の飯能駅に集合。余裕ぶっこいて走り始めたわけですがなんと最初の峠でダウン。他のメンバーがすいすいと登っていく中、私だけへばって最初の休憩で倒れこんでしまいました。冷静に考えると受験期に運動していないのに動けるがなかったですね。
それからは体を戻すために軽くトレーニングに励みました。久しぶりのヤビツのため意気込んだヤビツTTでは、42分強という不甲斐ない結果に。結果にショックを受けつつ、このままで夏合宿に耐えられるのか?という不安に苛まれていました。
夏の前プラでは宮城県くりこま高原駅に集合だったはずなのに、急遽一駅前集合に変更になり、前日入りしていたために早朝から走ることに。師匠の教えを受けながら約二日かけて集合地の山形県酒田市に到着。前プラがそんなにきつくなかったので合宿をなめていた私は、一日目にしてWCCの洗礼を受けてしまいました。ご存知の通り山です。初日は鳥海山を駆け上がる1,000m upのコースでした。何時間も続く登り、悲鳴をあげる筋肉に心が折れかけました。ただ、登り切った時の景色は最高でした。
WCCに入って初めて良かったと思える瞬間でした。合宿で一番つらかったのは五日目のアスピーテラインでした。
ここも約1000upでしたが、登りきりまでに5時間以上かかり、初日より断然きつかったです。六日目、七日目も同じくらいきつく、ゴール地の宿についてすぐ倒れこんでしまいました。予想以上にきつかったですが、精神力と大腿筋がめちゃめちゃ鍛えられたのは嬉しかったですね。
合宿が終わってからのヤビツTTでは、合宿を乗り越えたおかげで7分もタイムを短縮し、合宿による成長を一番実感できたときです。初参加の秋花脊では微妙な31分台でした。最後の宴会でその場のノリで次回の花脊では25台を出すと宣言してしまったので、(ペナルティはデュラエースのホイールを買うこと)現在はヤビツや湘南平に通って必死にトレーニングしております。
もともと輪行などはせずに近場を走っていたのでWCCの「自転車で旅」にはかなり興味がありました。
自転車旅にはきつい部分もありますが、それを乗り越え先に新しい発見があると思っているので、これからも精力的に活動を続けていきたいです。
合宿で得たこと – 川原
合宿で得たこと 政治経済学部1年 川原
先日終電を逃し、家までの10㎞を歩いた。何故タクシーを呼ばなかったのか?かなり酔っていて、テンションが上がっていたからだと思う。「家まで10㎞…?意外と近いな~。歩いちゃえ~。」
距離感覚がおかしいのは、我が馬鹿なのではなく、酒のせいでもなく、精神崩壊しかけた夏のあの現世を離れた男まみれの旅のせいだろう。あの旅に他ならない。その日の深夜ウォークは何故かすごく楽しかったのを覚えている。
数日後、また終電を逃した。むしろ逃したのが少し嬉しかった。だが歩き出して10分後、自分の選択を非常に後悔することとなった。なんで学生会館は24時間開いてないのか。いつでも泊まれる家を持たなければならない。まあでもそんなことを今更考えても仕方ないから、合宿で味を占めたネカフェに行こうと思った。だが家までの距離と同じくらい遠いところにある。
歩くしかない。その夜は達成感を感じる暇もなくベッドに倒れこんだ。
そしてまた終電を逃すのが楽しみな馬鹿がここにいる。なんでだろう。これも合宿のせいにしておこう。合宿に行って良かった。
中学・高校は自転車通学だった。いつも遅刻ギリギリで間に合うように7.5㎞を走る。電車と違ってチャリ通だと、体力次第で遅刻かどうかが決まってくる。だから中高生はみんな、遅刻しそうならスピードを上げるし、余裕ならグダグダと走る。
この原理は万人に当てはまるだろう。とはいえ私はチャリ通なので、チャイムが鳴る30分前に来る奴を見ることはできないし、そもそもこんなどうでも良いことを覚えてはいない。私がスポーツバイクを買ってもらったのは、チャリ通を始めてまもなくのことである。なるべく通学時間を減らそうと、よりスピードの出そうな自転車を選ぼうと思った。そこで、あさひの例のプレジションとかいう自転車を買った。今でも家から最寄り駅までの1ちょっとを全力疾走するために使用している。
全力疾走といえば、私はしばしば近くの商店街の坂を全力で疾走し、様々な人が嫌でも私を目撃していた。だから、地元では小学生の頃から、「自転車が好きなたけるくん」は有名だった。私は何か勘違いをしていて、その類の話が親を通じて伝わると、得意になって何度も商店街の坂を下りだした。あの頃は良かった。本当に良かったな。まさか大学生になって下り坂を65㎞で下ることになるとは。
アトムやらサイコパスやらとしょうもないあだ名をつけられている。まあ、あだ名があることには感謝しないといけない。
世の中にはあだ名すらない人もたくさんいる。私も哀れに思ってつけようとするが、固定観念が私の邪魔をして、センスの悪いものしかできあがらない。アイザック先輩とかは本当に痺れるくらいセンスのいいあだ名だ。どこをどうしたらアイザックになるのか。私は、I(私の)-Sack(荷物袋(ドイツ語、ザック))と解釈している。だが、誰があの先輩を荷物袋にできるのか。いや、誰もできないだろう。解釈をやり直す必要がある。
これは合宿で得たことの話だった。ということで、私が合宿で得たのはサイコパスというあだ名です。グダグダになってすみません。
第55代流行語 – 伊藤
第55代流行語 文化構想学部3年 伊藤
「55周年記念冊子」という事で現役の皆さんはまじめなことを書いてくれているのだろう。という事で私は少し肩の力を抜いて55代WCCの主に夏合宿において流行った言葉について綴っていきたい。
●やりますねえ!(○○ますねぇ!)
もともとある理由によりネット上で頻用されている言葉。夏合宿においては一日目に訪れた鳥海山にあるレストハウスのおばさんが客の質問に対して「(カレーは)ある、ある、ありますねえ!」と発言したことにより流行した。○○のところを自由に変えられる他、「(自分が)やりますねぇ!」や「(相手が想像以上に)やりますねぇ!」など汎用性の高さも魅力の一つ。合宿中の脳死会話には持って来いと言えよう。
(使用例)「なかなかやりますねぇ!」(フリーランで抜かされた時)
●暴食
七つの大罪の一つ。なぜそのような小難しい(?)言葉がWCCに、ましてや合宿中に出てきたのか、それは当時上級生がはまっていた「鋼の錬金術師」と言うアニメのキャラクターに付いていた二つ名だからである。空腹時に「暴食の機運が高まっている。」
と行為を表す場合と、師弟でコッヘルに食事をよそいあう時に「量はどうしますか?」「暴食で。」と量を表す場合がある。ちなみに大盛より少し多いくらいの量を表す。(使用例)「牛丼、暴食でお願いします。」
●二郎系ラーメン
前述の「暴食」が現実の姿になったもの。一部では「豚の餌」などと揶揄されるが美味しさの最小公倍数を体現したラーメンだと思う。「暴食」が流行っていたことに加え、普段より胃袋が拡張しがちな合宿中において私が出した結論である。
合宿中こそ上級生数名間での流行にとどまったが地道な布教と同志社大学サイクリングクラブによる「二郎京都店ツアー」によりクラブ内で一大勢力を築くに至った。
盛岡にて食した二郎系ラーメン
●アイドルマスター
巷で猛烈に流行っているアイドルアニメ。文明の波が遂にWCCまで押し寄せてきた証左である。きっかけはある一年生がはまっていたことから。登場キャラが多く誰でも好みのキャラを見つけることが可能。合宿の後半に流行ったが合宿後も持続的な人気を得るには至らなかった。
●アトムの筋肉
アトムとはある一年生のことである。彼は「アトム通貨」と言うサークルと兼部していたためそう呼ばれることになった。
そこまでは良いのだがなぜ筋肉が絡んでくるのか。言わずもがな彼の肉体のせいだ。高校時代科学部に所属していたにも関わらず筋肉が凄いのだ。彼のどんな峠でも重いギアで登る姿勢も相まって鉄板ネタとなった。
●まずいですよ!
これも「やりますねぇ!」と同じくネットでよく使われる言葉。本来は状況がまずい(思わしくない)時に使われるはずだがWCCでは異なる。特にまずくなくても「まずいですよ!」。挨拶がわりに「まずいですよ!」。部室に入って第一声
「まずいですよ!」。もちろん、まずい時にも使います。
(使用例)「伊藤さん!まずいですよ!」(出会い頭に)
●時給換算
青春18きっぷを使う一年生に対してある上級生が言い放った言葉。「時給換算」とは例えば目的地まで二時間で着くが15,000円かかる新幹線と目的地までは十時間かかるが5,000円しかからない普通列車があるとしよう。新幹線と普通列車の目的地までの所要時間の差分8時間がここでのバイト時間になる。このバイト時間に今自分が就いているバイトの給料(ここでは仮に1000円とする)を掛けることで求まった値(8×1000=8000円)を求めることである。この値を安い方の乗り物の代金に足した金額が高い乗り物の代金を上回れば高い乗り物に乗った方がよく、逆に下回れば少々時間がかかっても安い乗り物を使った方がよいと言う指標になる。
この場合「時給換算」で求められた値と安い普通列車の代金の合計は8,000+5,000=13,000となり、1,3000小なり1,5000
(普通列車小なり新幹線)となるのでかかる時間を加味しても鈍行を使う価値はあるという結論になる。
(使用例)「青森から関東まで鈍行で帰るとか(笑)時給換算してみろよ。」
●幸福度
俗に言う「QOL(クオリティーオブライフ)」かと思いきや少し違う。QOLにリアルの充実度(リア充度)も含んでの評価らしい。ある部員はしきりに自分の幸福度の高さを吹聴したため(主に私に)バッシングされた。
(使用例)「最近幸福度が高い(ニヤニヤ)」
まとめ
以上が現在思いつく限りのものだ。今まで多くの合宿に参加してきたがどの合宿においても必ず流行するものがあり、そしてどれもしようもないものばかりであった。しかし、このようなたわいもないことで盛り上がることのできる団体は私にとってWCCを除いて他に無くこのクラブの良さを再認識したように思う。
自転車旅の沿革 – 今西
自転車旅の沿革 創造理工学部3年 今西
私が自転車を近所をうろつくママチャリ的使い道でなく乗り始めたのは小学校3年くらいの頃だろうか。伯父は大学の頃自転車系の団体で活動していて今でも何種類も自転車を持っているのだが、父もその影響なのかは知らないがその頃MTBを持っていたのだ。
小3の終わりか小4の頃だっただろうか、その辺のチャリ屋で買った自分の一代目自転車から二代目に乗り換える時自分が手に入れたのはMTB、KONAのFireMountainという車種だった。近所の光が丘公園のオフロードを走ってみたり、車でMTBのコースへ行ったり、キャンプ好きでもあったのでMTBのコースがあるキャンプ場へもよく行っていた。
しかし当時の自分はコースを走るより自転車に乗って遠くへ出かけたいという思いがあったのだ。小学生の頃は別にアクティブな奴でもなかったので初めての遠乗りは中1の年末に練馬区にある自宅から船橋市の父親の実家まで走ることだった。当時は地理好きな自分だったので方向感覚には間違いはなかったが携帯も持っていなかったのでコンビニの地図で道を確認しながら練馬から目白通り、蔵前橋通り、千葉街道と40あまりの道を走った。それからは毎年年末に荒川土手から松戸経由にルートを変えながら大学一年まで毎年年末に走ってはいたのだが、実のところ高校卒業まではこの自走帰省以外に長距離を走ったことは2回しかなかった。その1回目が自分の初めての輪行旅であった。
自宅の近く以外でも車で高いところまで行ってダウンヒル、なんてことは何度もやっていた。当時から下り大好きな自分が輪行の目的地に選んだのは日本で一番標高の高い駅、小海線の野辺山駅だった。毎年自転車で船橋まで走っていたから自転車に乗るのはまあ好きだったんだろうが、正直何で突然輪行しようと思ったのかは覚えていない。高1の夏休みの初めに朝早くから輪行し、野辺山から南下し下り坂を清里、小淵沢、甲府と走り、ほうとうを食べ、石和温泉駅前の足湯で半ズボンの境目で焼けたところと
焼けてないところがくっきりだったのを覚えている。翌年の夏にもまた輪行しようとしたのだが二代目君がサイズ的にもメカ的にも寿命を迎えてしまい引退、三代目は大学入ってからでいいんじゃないと父親のcannondaleのMTBを借りて出かけた。
また野辺山まで輪行し今度は北に向かって下っていった。佐久まではすいすい行ったのだが、そこから軽井沢までは結構な上り坂だったのだ。今になって数値で見るとまあまあな上りではあったのだが当時の自分は圧倒的敗北を喫しへろへろで押しながら登り切った。その記憶で何となく自転車はどこでもいけるわけじゃないんだな・・・と当時は感じていた。
まあその後の確氷峠の下りが最高だったのですっかり元気になるわけだが・・・大学に入るまでに「自分で」出かけた経験はこれぐらいしかなかったのである。
そもそも自分は自転車とは関係ないところで日本地理好き人間であった。小さい頃の地下鉄路線図から小4の時その後の人生を決定づけてしまった首都高マップ、高学年になってはマックスマップルの全日本道路地図を手に入れ小学生の頃は今と違ってスマホを持っているでもないので暇な時には眺めて過ごしていたものである。(中学はその知識で受かったと言って過言ではないと思っているのだがそれはまた別の話…)そんなわけで地理的知識はそこそこあったが実際その知識で知っている場所に行けるのは年に
数回の家族キャンプの時ぐらいのものだった。しかし当時は部活もあったしその時くらいしか出かける機会もなかったのである。
そんな私は(裏口で)大学生になった。マイルストーンを手にとって最初に探したのは高校までダラダラやっていた野球のサークルではなく自転車の団体だった。取捨選択できない人間なのでその後もぼちぼち野球もやってはいるが・・・
それはともかく街から街へ、遠くへ、地図で知っているあの場所へ行きたいと思っている自分に合う乗り物は自転車しかないと当時は考えていたのだ。そして某ワのつく団体とWCCの新歓に参加し幸か不幸かうっかり迂闊にもWCCに入ってしまい日本中を自転車でうろうろするポンコツ大学生が一台生成されたのであった。入学祝い枠で3代目のSurlyのLong Haul Truckerを手に入れた。
そして無限に峠に登る活動のせいで自転車どこでもいけるじゃん、と認識を改めてしまった私は新歓ランや日帰りランで、関東全域に山梨、静岡、1年夏合宿関連で秋田、山形、新潟、長野、愛知、岐阜、春合宿関連で三重、和歌山、奈良、四国全域に兵庫、大阪、京都、2年夏に北海道、早同で富山、石川、春に九州全県に山口と広島、そして3年夏に宮城、岩手、青森と花背のついでに滋賀を走り3代目で走ってないのは残すところ福島、福井、岡山、鳥取、島根、沖縄の6県のみになるまで訪れてしまった。最高だったのは2年の北海道だ。行く前からとある友人のせいで北海道にドハりしてしまい合宿含む丸丸1ヶ月
(自転車壊れて回送のとき以外)輪行なしの北海道ぐるぐる3,300kmを敢行し12日中11日雨の降っていた合宿中以外は写真を見返しても最高そのものであった。写真とか張り出して語ると終わらないのでやめておきますが・・・
時は流れて今年。合宿は東北だったのだが北にハマった私は道東→東北→道南という説明のつかないルートうろついてきた。
ところが本キャンの隣にある付属の裏口からやってきた私は入学前から免許は持っていたのだが、家の車は大きすぎるし借りる金あるわけでもないし特に練習する機会もなかったのでペーパー状態だったのだが、とあるところで走らす機会を得てこの度公道デビューとなった。自転車旅をする理由が俺に使える乗り物はこれだけだ、と考えていた自分にとっては革新的なことだった。当然車旅には車旅にも良い点はいくらでもあるのだが意外と失うものも多かったと感じる。自転車旅でできること。
まず自分の中でかなり大きかったのは気軽に写真が撮れるところ。自分の旅は目的地行くだけじゃなく道路風景にもかなり重点があって、そして日常生活の上ではいかにその写真から養分を吸えるかでQOLが変わると言っても過言ではない(?) だからいくら防水カメラで腕もない奴が撮った記録写真でも自分にはかなり大事なのだ。
自転車だとおおここいいじゃんとか(相当マニマックな)気になるものがあった時に気軽に止まって写真が撮れるってことは重要なことなんだと改めて気付いた。そして下り最高。全身に風を受けて下っていく爽快感、自転車を操っている感覚の楽しさは車の何十倍にも感じた。そして常に屋外にいることでその土地をちゃんと味わえてる感じを得られるのも他にはないいいところだなと感じた。まあ普通の人からしたら車の旅行で行くようなルートに自転車で同等かそれ以上の価値を見出せることは
自分の中では確かなのではなかろうか。最近はDCCの人たちがトレイルをやっていると聞き昔やっていたMTBコース走るようなそもそも車が競合相手になりえないようなことも久しぶりにやってみたいなあと思ったりもしている。
地理知識で知っているところに行きたい、自転車乗りたい、自分で運転したいみたいな「やりたいこと」の公約数的な位置にあった自転車旅。この先は今までみたいにさあ1ヶ月出かけるかみたいなことは滅多なことじゃできないだろうし新たな選択肢ができたことを歓迎したい。自転車旅中に雨に降られると二度とこんなことするもんかと思うわけだが次の春の旅の計画を自転車ありきで考えている自分がいるのはなぜなのだろうか・・・
天草前プラ – 金子
天草前プラ 文化構想学部3年 金子
今年の春合宿であった九州合宿の前プラとして宇土半島から天草を走り、牛深のフェリーを使って集合地の鹿児島に向かった。
この前プラはWCCの活動の中で最も充実したチャリ旅の1つであった。理由はいくつかあり、晴れであったこと、景色が常に良かったこと、ユニークな出会い(意味深)があったこと、道が快適であったこと、テン泊地が充実していたことなどがあげられるだろう。
北海道でいいだろ!と思うかもしれないがいろいろあって(意味深)そんなこともなかった(またトライしたい)。
まず、宇土半島の国道57号の海沿いの道を走ろうとしたら、権威のあるらしい歯科医の方と親しくなり弁当などの差し入れをいただいた(乞食ではない)。西港という世界遺産に登録されている風景を見て、天門橋を通り天草パールラインを快適に走っていた。
その休憩中にマグロ?を釣りに行くという方が話しかけてくださり、走行中に後ろからクラクションを押し、応援してくれた(うるさい)。
その後もいくつか橋を通るために登って、快適に走っていた。近くを有料の松島道路が通っているため、交通量はほとんどない。
この日のゴール地の道の駅有明で海鮮丼を食べ、温泉に入った。同じくチャリ旅をしている人がいたのだが、夜通し走り牛深に向かうそうだ(まずいですよ!)。Wi-Fiのある休憩所で休み、テン泊地に戻り寝ようとしたら、鹿児島大学サイクリングクラブの方がテン泊ポイントを探していたので、教えてあげた。なんでもこのサイクリングクラブは、全員パナランで、昼飯はコへ米が強制だそうだ。
見習わないと。夜中まで喋り、そこで仲良く寝た(意味深)。
次の日は牛深に向かって海沿いの一番景色が良かったロザリオラインを走った。おっぱい岩なるものを見てサンセットラインを快走し、妙見浦という名前通り綺麗な景勝地を見ながらひたすら海沿いの道を進んだ。そこで白鶴浜という白い砂浜のビーチに出たのだが、このツイートに結構ファボがきた(一人旅では承認要求が醸成される)。牛深天草線の途中の早浦という所も風光明媚で気持ちよかった。その後牛深に着き、フェリーに乗船し集合地に向かった。
編集後記 – 伊藤
編集後記 文化構想学部3年 伊藤
まずはこの「峠」制作にご協力いただいた、OB、現役部 員の皆様にお礼申し上げたいと思います。皆様にお力添えい ただいたおかげでこの記念冊子の発行に漕ぎつけることが できました。
55代発足当初から55周年を記念して「峠」を作成する 動きはありましたがこの代は本当に波乱に満ちた代でして、出版局長が失踪し、色々あった結果代わりに技術指導局の私 が「峠」を担当させていただくことになりました。
このような経緯もあり当初は乗り気ではなかった私でしたが冊子製作段階でWCCの過去の資料やOBの方々のお話に触れるうちに今まで自分の知らなかったWCCの魅力を発見することができました。
失踪した彼には感謝こそしませんが(重要)「峠」を担当して得る物はとても大きかったと思います。至らぬ点も多いですが楽しんでいただければ幸いです。
「峠・第22号」
WCC55代 「峠」担当 文化構想学部3年 伊藤
発行:2017年11月
Editor’s Note
2017年の出来事。平成29年。
1月。豊洲市場予定地。地下水調査でベンゼンが検出。
4月。NHK受信料の徴収は合憲。最高裁判断。
普天間飛行場の移設先の辺野古で埋め立て工事着工。
5月。宮内庁が秋篠宮家長女の眞子内親王と小室圭との婚約を発表。
6月。天皇の退位等に関する皇室典範特例法が成立。
有毒なヒアリが日本国内で初めて確認。
8月。 第3次安倍第3次改造内閣が発足。
9月。ジョージ秋山の時代劇漫画『浮浪雲』が44年間の連載終了。
10月。カズオ・イシグロがノーベル文学賞を受賞。
尖閣諸島問題。ハンドスピナー。
映画「銀魂」
第59回日本レコード大賞 2017年 インフルエンサー 乃木坂46
WCC夏合宿は、「東北地方 : 酒田から – 青森まで」でした。
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こんにちは。WCC OB IT局藤原です。
当時の文章をWEB化するにあたり、できるだけ当時の「雰囲気」を尊重するよう心掛けたつもりです。
文章と挿絵はPDF版より抜粋しました。レイアウト変更の都合で、半角英数字、漢数字表記等を変換していますが、全ての誤字脱字の責任は、編集担当の当方にあります。もし誤りありましたら、ご指摘をお願いします。
2025年新春、藤原