峠14号_1979

自転車置場 – 会長 上田

自転車置場
会長 体育局教授上田 1979年

前期も終わりに近づいた或る日、教務主任会へ出席するため本部の方へ急いでいた。
三朝庵の前の交叉点で赤信号になったので待っていると前に一人の学生がコーラを立ち飲みしていた。
物を食べながら歩くのには、以前は非常に抵抗を感じたものであるが、最近は一種の風俗となってしまったのであまり気にならなくなって来た。
信号が青に変って歩き始めると、例の学生が空になったコーラのカンを横断歩道に置いて歩きだした。

それをみて私はがまんがならなくなり、カンをひろいあげるなり学生を追いかけ、やや語調を荒げて、「人のじゃまにならないところに始末したまえ」と言いながらカンを突き出した。学生は振りむいて私の顔を見ると、案外すなおにカンを受け取った。
自分に不要になったから捨てる。これは問題はない。しかしその捨て場所が人の往来のはげしい横断歩道であっては困るのである。

先日テレビで空カンとくずかごの関係についての調査結果を放送していた。くずかごが近くにあれば、その中に空カンを入れる人がふえること、しかもまわりがきれいになっている程その傾向が強いということであった。

その意味でくずかごを用意することは、大事なことである。しかし個人が社会を美しくしようとする心を持つことはもっと重要なことである。

話はかわるが、近頃方々の路上に自転車が放置されている。石神井公園駅の附近は道幅が狭いので、時々バスが通過できなくて運転手が降りて自転車を整理することがある。

自転車の愛用者が増えた事は、喜ばしいことである。しかし、交通の手段である自転車が交通を妨害する形で放置されることは許してはならない。自転車置場を用意すると共に、人々が他人の迷惑にならないようにふるまう心掛けを持つべきではなかろうか。

主将ノート – 神塚

政治経済学4年 神塚

この「主将ノート」を書くにあたって、私はクラブというものを三代、つまり、前執行部、現執行部、そして次期執行部というものがどのようにクラブ運営上関連し、また作用しているのかということを、念頭に置き、1978年度の総括を行なおうと考えた。

どのようなクラブでもそうだと思うが、とりわけ我がWCCにおいては、クラプの運営方法が、そのまま次期執行部に引き継がれることは皆無といってよい程、ない。
裏を返せば、そういう年々新たな運営方法で、執行部が、タラブ活動の指揮をとるということが、まだまだ若い、このクラプを大きく前進させ、数ある大学サイクリングクラプの中でも、特異な存在ならしめる所以であろう。

この運営方法を決定する際の大骨子が年間目標であり、年間目標に従って各代の執行部が、それぞれ独自の運営方針を駆使して、クラブを盛り立てていくことは、言うまでもない。

サイクリングクラブだから、ただ走りさえすればよい、というのでは、執行部として、何ら説得力を持たない。一つ一つのクラブランに意味を持たせ、 一人一人のクラブ員に、クラブ生活の何たるかをよく知ってもらうためにも、執行部は、年間目標、そして運営方針を決定する際には、心血を注がなければならない。

そして、主将とは、年間目標を掲げた御輿であり、担ぎ手は当然、執行部員ということになるだろう。そして、 一人でも多くの見物人を祭りの中に引き込むことが、主将と執行部員の役日である事は言を待たない。

「走りを原点とした共通体験」、この年間目標は、一朝一夕に出来上がったわけではない。
これは、執行部員の各々のクラブ観を、より高次元で統合したものを、さらに、前執行部の運営方針ならびに活動内容という、ろ過紙を通すことによって初めて、生まれてきたものであった。

ろ過紙を通りぬけたものが、その執行部の活動を特徴づける根本原理となる。
しかし、ろ過紙内に残ったものを、 一切捨て去ることは出来ない。
何故なら、ろ過紙内に残ったものの中には、執行部の気が付かないものが残っているかもしれないからである。それは、WCCの伝統的なものであるかもしれないし、前執行部を特徴づけるものであるかもしれない。そして、それは、現執行部が考えているものとは、全く正反対のものであるかもしれないのである。

ろ過紙を涌過した純粋物のみをもって執行部を表現することは出来るが、はたして、それのみをもってWCCを表現することは可能であろうか?。
前執行部を批判することは、たやすい。しかし、たやすいだけに、前執行部の業績や、WCCの良き伝統を、見落とし失ってゆくことも、案外、無意識のうちに、おこなってしまいがちである。

要は、前執行部の目指したものと現執行部が目指そうとするものを、「止揚」したところにWCCの目指すものが存在するということである。主将とは、両者を止揚したものの、いわば純粋培養なのかもしれない。

さて、このようにして、難産の末生まれた年間目標、ならびに運営方針をどのようにして、個々のランに、そして個々人に撤底させるかということが、次に執行部に課せられた問題である。
いかにすぐれた日標計画であっても、ただ題目をとなえるだけでは、何一つ実現させることは出来ない。効果的に、組織的にクラプを目標へ近づけることが、執行部の役日である。

我々の学年は、かつてなかった程の大人数で成り立った。
我々が、 一年、二年の頃、時の執行部は、この点について非常に頭を痛めた。
そして、我々が執行部を作る時点においても、人数問題を、今までのWCCを根底から変革してしまう怪物かなにかのように、これを退治しなければ、WCCは、いづれこの怪物に食われてしまうといった悲愴感に、さいなまれながら、多くの時間をこの問題に費やして来た。しかし、結局、人数増加は、我々の代だけの特異な現象であったことを、新入生を迎え終った時点で気付くのである。

こうなれば要は、執行部の絶対数の多さをもって、効果的、かつ組織的な活動を行なおうとするのは、衆人の考える所ではないだろうか

かくして御輿と担ぎ手は、日標へ向って駆け出したのである。WCCが、効果的、組織的に活動してゆくために忘れてはならないものに、 一年・二年の存在がある。

経験として述べるなら、一年の頃の記憶として残っているのは、第一に、合コン。
第二にランのつらさである。正直言って一年の時に、クラプをやめずに、ここまでこれたのは合コンがあったからと言っても過言ではない。

合コンの回数では、他の学年に対して、胸を張ることができる。(あくまでも、回数だけで内容は伴わない。)たしかに、上級生からは、今年の一年は、合コンをやりすぎる、 一体クラプを何と思っているんだ、といったお怒りの言葉を頂戴したこともあったが、当時としては、何でおこられるのかさっばりわからん、ランさえ出ていれば、何やってもいいでしょ、ぐらいの考えしか持ち合わせていなかったのである。

こんな具合であったから、時として、合コンの合い間にランに出るような月もあった。(元渉外局長の岩田を筆頭に当時どちらかといえば、脚力に自信のない者が、合コンに光を見出そうとしていた。)

ところが、二年になるとそうはいかない。クラブにも一応慣れ、大体の様子がわかりかけ、自分なりのクラブ観も芽生え始める頃で、いやしくも一人前のクラブ員として行動しなければならないのであるから。しかし、合コンは、やった。二年の時、こんな事があった。

執行部の夏合宿案に対して、二年生が、クレームをつけた。
「四隊制を三隊制にせよ。」「走行距離をもっと短かく。」といったものが、その骨子であったと思うが、その背景となったものが、かなり複雑な原因によっているので、このクレームのみをもって、二年の執行部に対する反逆と解することは適当ではない。

しかし、両学年とも熱くなった。二年の、半ば無謀とも思える要求に執行部も当初あきれていたが、合宿前の貴重な運営委員会の時間を、二・三年生会のために裂いてくれた。

二年には、恐いものが何もない。あらゆるものが問題意識として目に映り、それを即クラブに反映させたいと考える。しかし、現実としてそれは不可能であるから、「悩み」、「不満」として、二年一人一人の中に、それぞれ違った形で表われてくる。
そして、それを一つ一つ自分なりに解答を出してゆくことによって、個人のクラブ観が出来上がっていくのだ、と思う。

今の執行部も、当時の我々の執行部に対して先のようなあからさまな批判こそしなかったが、今年のクラブ運営の中で、当時の不満なり悩みなりを、効果的に処理し、作用させているようである。

主将個人の反省というには、程遠い文であり、七十八年度の総括としては、きわめて中途半端なものとなってしまったが、昨年一年間、副将はじめ、スタッフには、大変恵まれていた。

それこそ、御興自身では、右へも左へも行く事ができなかった訳だから、スタッフ一同の活躍には、今さらのように頭の下がる思いがする。ただ、御輿と担ぎ手は、何とか目標へ到着することができたが、果たして、 一年という見物人をどれだけ祭りの中へ引き込んだかということになると疑間である。「来る者は拒まず、去る者は追わず。」というのが我がクラブのモットーだが、一年にやめられる時程、主将としてつらいことはなかった。

祭の余韻をかみしめる暇もなく、主将を降りたけれども、今となっては、苦しかった事もまた、楽しい思い出として、酒を飲む度に脳裏に蘇ってくる昨今である。

山陰夏合宿A班の記録 – 古閑

A班教育学部二年 古閑

A 班
我がWCCの最大のイベント、夏合宿は、1978年8月1日から8月13日までの13日間にわたり行なわれた。鳥取- 広島間、全距離約700キロ、全標高差約8,000mというものであった。

8月1日 鳥取- 浦富- 浜坂
九時、鳥取駅に集合。殆どの者が、長いプライベートランをしてきており、遅しく日焼けしている。
黒田氏は、北海道の山奥から出てきたばかりといった感じだし、下沢氏はどう見ても『ヒゲゴジラ』であった。

例によって、校歌をうたい全体写真を撮って十時出発。国道九号線を東進。
30分程で砂丘センターに着いた。空はマッ青、海もマッ青、太陽はギンギン、砂丘はアッチッチであった。さらに東進。網代を過ぎると海沿いのアップダウンとなる。太陽はさらに高く、ギンギラギン。横目に紺碧の海を望みつつ、心は今日の宿泊地、田井の浜の海へ飛んでいた。

8月2日 浜坂- 春来峠- 氷ノ山
今日は、我が一班が全体CL、松下氏張り切って出発したが、10分も行かずに、磯谷氏が踏切で、松下氏に追突。磯谷氏はこのとき右手にケガをしてしまった。幸い、ひどいケガではなかったが、ストップの合図は、お早めに。

温泉町を過ぎると道は登りとなる。平地では気にならないテントが、俄然、その存在を主張し始める。トンネルは通らず、旧道へ。ワセダコ-ルのうちに峠に到着。眺めも何もなく、着いてしまえば何ということもない峠。

和田まで一気に下り、いよいよ氷ノ山へ。秋岡で食料を買い込む。ここから峠までは、距離約十キロ、標高差約600m。矢田川沿いに、小代渓谷を登っていく。左右から山がせまり、道は狭く、険しくなる。腰を引き、姿勢を低くして、 ハンドルをグイグイと引く様にして登る。

と、その時。先頭の松下氏の後輪が派手にバースト。いや、助かりました。ゆっくり休めます。しかし、この頃から雲行きが怪しくなり、雨が降り出した。

高度をかせぐにつれて、風も吹き出し、雨、風、くそ地道にくそ坂という、サイクリングの極致を十三分に堪能して、やっと、峠に到着。疲れきった体を地面に横たえ、体の芯に残る快感の余韻にいつまでも浸っていた。

峠からチョット下ると、キャンプ場。ここで、この風雨は、台風の影響と判明。
この夜、テントを吹き倒され、炊事場で夜を明かした者もいたとか。

8月3日 氷ノ山- 郡家- 用瀬-辰已峠- 恩原
今日は、99キロ、1500mというシビアなコースの予定であったが、台風の為、予定を変更、B班と同じコースとなった。

用瀬から西へ折れる。峠までは二十五キロである。佐治村、加瀬木で買出し。
いよいよ本格的に登り出す。天候は、依然回復せず。雨中の峠路となったが、前日の氷ノ山に較べこの道は、しっかりとした、よく踏み固められた道で、又、道を囲むように追る木も、雨に洗われ、緑も鮮かで、しっとりとした、良い雰囲気の峠であった。この登りでも松下氏のタイヤは、バースト。氏のタイヤは明らかに耐用年数を過ぎているようだ。

下りは舗装で、五時三十分、恩原青少年旅行村に到着。合宿に入って最初のフロに入った。

8月4日 恩原- 人形峠- 穴鴨- 蒜山高原
前日の雨はウソの様に晴れ上がり、八時出発。人形峠への登りは、車、それもバス、トラックが多く、不快であった。この人形峠の下りで、我が松下氏は、 ついに三日連続バーストという偉業を達成。氏の体は感激にうち震えていた。

十時半、福本着。ここでB班切り放しである。仰仰しいエールの交換の後、B班はフリーランで出発。我がA班は手を振って見送ったのだが..。

さて、A班も出発。すぐにモ-レツな勾配が現われる。まるで壁のようだ。20%はあろうか。と、ここで信じられない様なメカトラ。何と、吉川氏がバカカにまかせてチェ-ンを、ぶっち切ったのである。全く、どういう力の持ち主なのだろうか、氏は。

そして、 ヒーコラ、 ハーコラ、やっと峠に着くと、何とそこには、いるはずのないB班が….いた。
時のB班の全体CL、松村氏の一言、「道を間違えた…。」アッシラー。

改めて、B班と別れ、蒜山へと向う。八東村に入ると。前方右手より下・中・上の各蒜山がせまり、さらにその左手奥には大山も見え、壮快な気分で快走。二時には、キャンプ予定地塩釜キャンプ場に着いた。ところが、ここが、いっぱいでダメ。急違、B班のキャンプ予定地、蒜山高原休暇村に問い合わせると、OK、との事で、そちらに向う。かくして結局本日もB班切り放しは失敗に終った。

8月5日 塩釜- 関金- 御机- 桝水高原
今日は、合宿のハイライト、とも言うべき日だ。峠を四つ越え、
距離にして五十五キロ、標高差1,300mあまりだ。
最初の峠は、犬挟という。実にアッサリと着く。ほんの5,60m登っただけなのに関金まで
400mの下り、喜べるのも今のうちか。買出しをすませ、キャンデ-売りの
オッサンの様な小林氏らが出発していく。

二つめの峠を地蔵峠という。これはかなりきつかった。長い直登の末のキツイヘヤピンの上に
峠はあった。三つめの峠は、新古屋峠。東大山大橋から全体フリーで登った。
標高差300mだった。しかし、小生は、メカトラの為大きく遅れ、誰がトップであったかは知らない。ここも眺めはなく、御机までサッと下る。ここで買出し。暑さがひどく、皆バテ気味で予定より遅れる。

最後の峠は、鍵掛峠。ここからの大山の眺めは最高。気分を良くしてそのまま一気に、桝水高原へ。

8月6日 桝水- 溝ロ-境港- 松江
パンフによれば、今日は距離七十二キロ、標高差ゼロという大楽勝コース。
溝口まで、快適な一直線の下り。やはり下りは直線にかぎる。岸本,日吉津と走り、久しぶりの海、夜見ケ浜に出る。あまりきれいではないが、泳いだ班もあったようだ。境水道橋を渡り、島根半島へ。
今度は中海沿いに西へ。中海はもっと汚ない。天気もさえず、どんよりとしている。十一時四十分、松江着。ここで、四年の野口氏合流。恒例のOB への葉書き書きをサ店でやる。久し振りのコ-ヒ-の味は、また格別。

二時半松江を出、下忌部のキャンプ場へ。ところがこれが大フェイントコースで予期せぬ登りが続く。全くバンフはあてにならない。企画を恨む声、しきりであった。

8月7日 忌部- 松江- 平田- 猪目- 出雲大社- 外国
今日で合宿も中日。コースも七十キロの400mと楽勝であった。だから気が抜けた、という訳でもなかろうが、トラブルが多かった。

松江で、雨男、山村氏が合流。その神通力は今だ衰えず。宍道湖北岸を西進中、どしゃ降りの雨となる。畑自動車道が通行止で通れず。さらに西進。平田で昼食。やっと雨は小降りとなり、12時過ぎ出発。ここで三班のCL藤原は、左折すべき所を迷わず直進。後続の二つの班もそのあまりに自信ありげな、三班の走りにおかしいと思いつつもついていった。

こうして藤原は、全体CLよろしく我々を山へ山へと導いていった。しかし、我が精鋭一班は、絶対間違っていると断定。サブCLの磯谷氏が、全く止まる気配のない三班を呼びに走った。
ここで、吉川氏が、藤原に言った名言、「いいんだ、いいんだ。走りゃ着くよ。」以来、藤原は、この「走りゃ着く」を座右の銘としている。

何とか、遅れを取り戻そうと急げば、今度は、岩田氏がバースト。後続のメカにまかせて、出発。
やっと十六島湾に出た。依然として雨は止まず。イライラがつのるばかり。

ちょっとした言葉の「あや」から岩城氏と松下氏が、 口論したのも、このイライラのせいでしょうなあ。

濡ねずみになって、猪目に二時四十分到着。途中、分岐点にサブCLの磯谷氏を残してきており、我が一班は四人となっていた。
ここで一時間も待ったが岩田氏、磯谷氏らは来ない。先に出発。
鷺峠を目指す。これが四キロの270m程の登りで、結構な直登でありました。
雨は止まないし、後からは、 いじめっ子、深井氏にせかれるし、全く、まいった、まいった。

峠を登ったところで、今度は、井上氏が、カメラを猪目に忘れてきた事に気付き、引き返す。
この峠をまた登るなんて、御苦労様です。これで我が班は三人。

スリップに注意して下れば、そこは出雲大社。言ってみれば、我々は、出雲大社の裏山から下りて来た事になる。この下りで、山村氏は、雨を降らせた天罰か、ブレーキのア-チワイヤ-が飛んで、道端の草むらに突込んでしまった。幸い、大したケガは無かった。

大社を出て数分後、またしてもトラブル。千葉氏が、ミニサイクルを押して道を歩いていたおばさんに追突、転倒して頭を打ち、動けず、救急車まで来る騒ぎとなった。幸い、大した事はなく済んだが、事故は、本当に恐ろしい。

この事故で、松下氏が伝令に走り、結局、キャンプ場に着いた時には、我が一班は、深井氏と私の二人だけとなっていた。キャンプ場では、さすがに気も引き締まり、皆テキパキと動いたが、大変、反省の多い一日であった。

8月8日 外園- 出雲- 立久恵- 三瓶山東の原
朝トレをしていると、何やらパブ、パブと聞きなれたクラクション、そうです、WCCで唯一人、ジェット噴射により推進力を得るという特技の持ち主、五年の田中氏の御登場であります。氏は、合宿に出るつもりはなかったけれど、皆が今ごろ走っているのかと思うと、矢も楯もたまらず電車にとび乗った、との事。全く氏は、サイクリングが好きなのです。

昨日の事故の処理などで、出発が遅れ、予定を変更して三瓶山東の原までとなった。

出雲市駅で、高田A氏も合流、 一路南へ。
何ということもなく、立久恵峡を過ぎ、 一窪田で昼食。川沿いの舗装道路をどんどん南へ下ると、そこは三瓶山。300mの登りだ。
北の原までは舗装、 ここから有料道路をさけて、裏の地道を行く。アップダウンをくり返して三時半、キャンプ場についた。

8月9日 東の原- 粕淵- 大峠- 瑞穂
今日も良い天気である。我-A班は、あまり雨に降られない。
日頃の行ないが報われる。

今日の峠、大峠は、一丁五キロの180m程、全体フリーであった。

まず全体CLの神保氏スタ-ト、続いて、 一年、二年とスタ-ト。短距離の為、皆すさまじいダッシュ。
後ろの方で野口氏が、「そら!神保を抜け!」と、わめいている。 一部地道がある。
地道得意の小生は、ここぞとばかりに、前を行く藤原を抜く。しかし、さらに軽快なる音が、後ろから近づき、抜かれる。スケコマシ岸野氏、ミスターナルシ松下氏、さらには、ガッハッハ吉川氏、いじめっ子深井氏等である。あ-あ、やっばリダメか、と思っていると藤原がしかけてくる。が、これは、あっさりとちぎった。

二十分程で全員到着。皆、ギンギンに競い合って満足そう。その中で、神保氏だけが、「誰とも競い合えなかった。」と、つまらなそう。速すぎるのも、考えものですなあ。

キャンプ場に着くやいなや、モーレツな夕立。このキャンプ場には中学生のサッカーチームが合宿中。早速、遊び好きの杉本氏らが交渉して、雨上りのグランドでサッカ-を始めた。
スパイクなんぞはいてないWCCチ-ムは、スッテンコロリンの連続であった。

8月10日 瑞穂- 越木- 来尾峠- 深入山
今日の峠は、来尾峠。これを越えれば、いよいよ広島県、ゴールが見えて来た感じである。
この峠は、標高約800m。登り日の越木からは、八キロの600mである。
ここも、フリーランであったが、 フリーラン開始点までで、皆パテバテ。というのも、道は荒れて、しかも勾配もかなりきつく、久光なんぞは、田んぼに墜落したくらいであった。この峠で、意外?な力を発揮したのが、岩田氏。氏は、越木で飲んだ「赤マムシ」が効いたのか、ほとんどの者が一部押したにもかかわらず、全部、乗って峠に着いたのでした。これ以来、岩田氏と「赤マムシ」は、切っても、切れない仲となった様です。

深入山キャンプ場では、近くのホテルのフロに入ることができ、久し振りに、アカを落して、サッパリできた。

8月11日 深入山- 餅ノ木峠- 水越峠- 松ノ木峠- 羅漢山
今日は、合宿最後のハイライト。パンフによれば、距離70キロ、標高差1,000mというコースであったが、実際の標高差は、1,300mをこえていたであろう。また、今日は、B班と合流する日でもあった。深入山いこいの家前で、今日で、合宿を放れられる、本原・山村両氏を校歌をうたって送り、出発。

先ず、軽く深入山をやっつけ、小板へ下る。ここから先は、A・B班ともに同じコースを走ることとなる。

二つめの餅ノ木峠も、軽くやっつけ、横川に入り、水越峠を目指すが、ここから、中津谷までが、大へんな悪路。文字通り、クソ地道という感じで、パンク続出、A 、B両班入り乱れてのメカトラ合戦となる。特にB班の面-は、弁当をつめられなかったとかで、食料に余裕がなく、みんな血走った目をしており、声を掛けるのも恐しいくらいであった。それでも久し振りに見る、B班の面々は、皆退しく焼けており、元気そうであった。

ただ、両班とも、オンの班が、いやオレの班がと主張し合うあまり、その出合いに今一つ劇的さが欠けていたのが残念であった。
それでも、A班の大将杉本氏が、ガケから落ちかかったり、B班の大将、主将神塚氏がインフレータを落とし、 一人おいてけばりを食ったりして、 エピソードには、事欠かなかった。

松ノ木峠を何なく越え、山口県に入る。この下りで高田A氏がバースト。氏のタイヤはモーレツに磨り減ちており、バーストは時間の問題だったのである。

予定より大幅に遅れて、五時四十分、宇佐郷着。買い出しを済ませ、いよいよ、本日最後の登り、いや、本合宿最後の登りと言ってもよい、羅漢山へのアタックだ。距離7,8キロ、標高差600m位か。
全舗装ではあったが、勾配はかなリキツく、苦しい。それだけに、合宿の最後を飾るには相応しかった。

上から、下から「ワセダ、ファイト!」のコ-ルが聞こえ、自然と手足に力が入る。
苦しい登りも、皆で声を出し、意地になれば、何とか登れる。膝を痛めている久光が、軟弱で鳴る水野が、頑張っているんだ。負けてたまるか。全て意地である。
班員が一つになって峠に挑む。ソロランでは絶対に味わうことのできない、集団ランの良さがそこにある。全ての力を燃焼し、最後の切り通しから、振り返って見た、あの夕日が、忘れられない。

なお、この日、走りながら、 フレ-ムにヒビを入れるという離れ技をやった山本と、下りで岩と熱い接吻を交わしフレ-ムを曲げた小林氏の二人が、合宿完走を目前にして無念のリタイヤ 一足先に広島へ。

8月12日 羅漢山- 生山峠- 栗栖- 五日市- 広島
いよいよ合宿も最終日。今夜は、うまい酒が飲める。とはやる心を押えつつ出発。

キャンプ場から直ぐ峠というのは疲れるものだが、この日ばかりは足どり軽く、アッサリと峠に到着。あとは広島まで、ほとんど下りとあって、自然と皆の顔はゆるみがち。

アッという間に、広島駅に到着。時に、午後一時五十分。12日間に及ぶ、長いサイクリングは終った。しかし、合宿はまだ終ってはいない。そう、 コンパがあったのう。

このコンパは、筆舌に尽くし難く、到底、小生の筆の及ぶところではないので、割愛させて戴くが、 一言いわせてもらえば、今年のコンパは、例年よりおとなしかった様で、パンツも2,3枚飛んだに過ぎなかった。

コンパの後は、皆千鳥足で夜の街へと消えて行った。

8月13日 解散
今朝の朝食代をも、昨夜の酒代に回した為に、皆、空きっ腹を抱えての解散式であった。即輪で帰る者、更なる旅に出る者、様々であるが、13日に及ぶ団体生活を乗り越えた皆は、精神的にも肉体的にも一回り大きくなった様に見えた。

山陰夏合宿B班の記録 – 松倉

山陰合宿B班 1年 松倉

八月一日 鳥取― 浦富― 浜坂
大きく変貌を遂げたクラブ員と再会し、プライベートから合宿へ突入。プライベートで失った小さな自信と、得た中くらいの不安、大きな黒さを背負って鳥取駅をあとにしたのである。この熱さ。暑さではないのである。おまけに砂丘とくれば、充分である。

左手に日本海の真っブルーを見ながら、 一路キャンプ場へ。さんさんと降りそそぐ日輪の光は熱く、汗が地面をぬらす。
3時前には、キャンプ場へ到着。海を見るとクラゲも恐れず、くたくた状態まで泳ぐのが人情であり、策略的に体力の出しおしみをしないのが少年である。
ボートの一隻沈めるのは苦もないこと。できることならひと泳ぎして、太平洋から瀬戸内海を通って広島で待っていようかなどとはさすがに考えなかったが、リポビタンDを必要としない位に元気であり、「活力」も無用なほど精力もあったのである。

八月二日 浜坂― 春来峠― 氷ノ山
この日は台風、登りの悲惨な勇装を思い起こすのである。田井の浜キャンプ場を出てから、春来峠を越えるあたりまでは楽勝と思われた。しかし、氷ノ山へ至る地道に突入するや、地面がいじめるのである。雨が、風が、いじめるのである。しかし、台風の接近による雨さわやかに、強風吹きまくる氷ノ山の峠は爽快である。これでも夏か/私は訴えたい。天気屋は何をやっとるのだ。すずしすぎる。テントが変形して雨がもるではないか。

八月三日 氷ノ山― 辰已峠― 恩原
本日、A班と離縁できる予定だったが、まだ雨が残って止まず、しかたなくA班をつれていってやることになる。辰已峠の立派な碑は、曲がり角にある峠にそびえ、記念写真に適している。

6時過ぎ、恩原青少年旅行村に着く。雨のためテントは張らず、小屋に寝かしてもらうことになった。メシもレストランで、400円のカレーを少ないながら食った。そこのフロが使えるということで、皆が200円風呂に殺到。

小屋の二室に班ごとに分かれてゴロ寝したのであるが、その晩、中村氏がチェックの先頭をきったのである。本人曰く、「トンネル内で、生き埋めになった。」とか、絵になってるやないすか。

八月四日 恩原― 人形峠― 関金― 犬挟峠― 蒜山
人形峠は、売店などがあるが、まったくシラケた峠であった。が、下りはなかなかそ―かいである。

福本にてA班を切り離し、B班はフリーランに火をつけたのであった。しかし、この切り離しはまたもや失敗。全体CLの松村氏がフリーランの出足で道をまちがえたのである。名もない峠を登りつめた所で、再びA班と合流。
その後、よけいな地道の峠を越えることになり、空腹におそわれる。なんせ、今日の朝食は、食バンに牛乳だったのだから。

その峠の下りで、山崎氏が転倒。めがねの上フチに青ビニールテープを張って登場。
関金で、あまりの空腹に食料を買いすぎて食い切れず、峠の上まで持ち込すしまつ。

蒜山高原は、眺めがすばらしく、雄大で、牛がモーモーしている。しかし、ここで、またびっくり。
キャンプ場に着くと、なんと、A班が待っていたのである。

八月五日 蒜山― 鍵掛峠― 矢倉峠― 鵜の池
大山蒜山スカイラインは、眺めよく、舗装よく班別フリーということで、鍵掛峠の寸前で、我が6班は、CL中村氏の班をぶっちぎった。その瞬間の中村氏の顔が印象的であった。矢倉に至る地道はきつく、また強い日差しのため、暑く、きびしかった。矢倉峠では、一年の伊藤氏が昼寝をする。(日差しと熱さのため倒れた。)

4時に鵜の池キャンプ場に着いた。このキャンプ場は、トイレ2.、水道1、ヵマドナシ、売店ナシと設備最低である。そこへ、途中参加の堀尾氏がやってきた。堀尾氏の顔は、真白であった。

八月六日 鵜の池― 万丈峠― 大峠―吾妻山
今日は日曜だというのに交通量は少ない。島根あたりは車の絶対量が少ないようだ。万丈峠は、グラダラの楽勝であった。その前の大入峠の方がきつい。
横田で昼食の後、反保で買い出し。ところが、ここには米屋がなかった。米の無い買い出しなんて、○○○ の様ですね。辺地買い出しは、とかく不足の多いもの。
この様な事態には、主将様たちが、エンヤコラと横田まであともどりに足を運ぶのです。

大峠登り口で、全体CL の後藤氏が、またずれ、または、たまずれのため、全体フリーとなる。岩石道路の登り、乗っては止まり、止まっては乗り。 一等賞は中村氏でした。

注目の吾妻山の峠は、切通しで感激の薄い峠だが、それに至る地道は、石ゴロゴロの、ごつい味のある道であった。

八月七日 吾妻山― 中小峠多数― 三瓶山
走っていれば、じきに着くだろうと、走り続けたのが、このコースである。
雨のため、コースを変更し、距離を縮めたところ、標高差が増した上、ひどいドロンコ地道となった。雨の中、黙々とペダルをまわすのみであった。夕食は、周囲のキャッキャ言う黄色い声を聞きながら、食欲に燃えた。

八月八日 三瓶山―石見大田―温泉津
今日は休養日である。道も国道で、ダンプなど多いがよい道である。トンネル峠が、若干あったのみで、アップダウンという程度。石見大田にて、4、5年生と合流、走っていたらいつのまにか温泉津についた。

温泉津駅で昼食中、大雨となり、近くの小浜公民館どまりと決定したところ、見事雨はあがった。久しぶりに温泉風呂、ラジウムなんとか鉱泉にはいり、メシはたっぶり浅黄屋で、ちらしずしライス十おやこ井を食って、その後、茶店にもいったのである。

八月九日 温泉津― 浜田― 今市― 雲月山
公民館での一夜は、中村氏の悪夢の叫び声があったものの、平和に明け、朝食はパンのため、
いつもより早く出発できた。
温泉津―‐浜田―日南は、アップダウンの連続。これまで、買出し予定地で米屋がなく、農家めぐりをするなど、悲惨であったため、浜田で、てがたく買出しを行なったのであるが、今市もマーケットなどあり充分に買い出し可能の様であった。
日南(ひな)から雲月山に至る道は舗装ではあるが道幅が狭く、見るとはるか前方、延々と登りが続いている。登坂意欲減退し、しばらく下を向いて走る。やがて、勾配がゆるくなり前向きに走る。雲月山は、きつい登りであった。

今日も、キャンプ場到着寸前に雨をもらい一連のぬれ男どもとなった。

八月十日 雲月山― 班別フリーー聖湖
今日は班別フリーである。6班の企画したコースは、雲月山―野々原― 亀有―‐荒神社
(茶店もいい、昼食)―東八幡原(合流、買出し) ― 聖湖キャンプ場。
走行距離25キロ、高低差200メートルと、8日よりも楽なコースであり、茶店で読書にはげんだ。

八月十一日 聖湖― 餅ノ木峠― 水越峠― 中津谷― 松の木峠― 宇佐郷― 羅漢山
餅の木峠を下ったところで、我班は三分割となり、後半部位の到着を待っていた。10分程して、やっばりこない。しかし、30分すると、やっぱりこない。50分たってようやく、やっばりこない。
ところがである。カラーン、コローン、カランコロンとナベの音をたて相当人数のざわめきが迫り来るのを感じたのである。ムッ!さては、離縁したA班が押しかけてきたのでは、これは抜かれる。あっ来た、まっ赤な高田氏、グリ頭の古閑氏、藤原を名乗る将道、ピポピポピポの杉本氏、さあやるだ。

今日はパンクバーストなんでも来い、来た、やったのである。
道ばたにたたずむ人ぞ皆バンク。私は、わずか三回、ディレーラーこわし一回。佐々木氏∞回の、
うばすて山とよろこぶ神塚氏。
なんやかんやで、やっと宇佐郷。買い出しをして、登ってびっくり羅漢山。ゆうやけ見ながら、 エッサホイホイ。ゆけどもゆけどもまだ登り。

キャンプ場に着いたのは、6時半。メシを食ちたのは9時半であった。ひとりひと言は省略。10時消燈であった。

八月十二日 羅漢山― 明石峠― 広島
昨日の羅漢山登り、あれは、力いっぱい元気ムンムン満足ランであった。皆、力ふりしぼったことの満足感と、本日広島登場ということで、意気揚々である。
まさに、もうあとは無い、ハダカいっかんどこまでもいくぞ、の裸感山であった。
さて今日は、6時起床。さすが我が肉体も、永久に寝たい、という欲求に反して6時10分前に起きてしまった。5時起きのパターンが体に刻まれてしまったのである。
羅漢山青少年旅行村は峠より標高差にして40mのところにあり、一日の朝は登りで始まる。何ぶんにも、パソフレットによる標高差であるから、すべて虚構の数字であるかもしれないことは、体験者誰でも御存知と思います。

今日は、コンパ。あすは新幹線と思いつつ、しかし、執拗に追り、照る太陽。

生山峠の下りは、一部工事中だったが、全舗装であった。
明石峠では、一瞬、瀬戸内海の島々が見えた。広島市街は交通量が多く、非常に走りにくい。広島駅前に全員集合と思ったら、「やるじゃん。」でおなじみの先輩、4年佐々木氏が、ズタズタのパンクをやったじゃん。
後に先輩、駅前に真赤な顔で登場、延々日の国から押してきたとのこと。全員集合には、ずいぶん時間を要したが、つらねて旅館へ着くや、食欲とミーティングの冷戦が続き、そして何事もなく、無事ぐっすり安らかに眠ったのである。

八月十三日 広島解散
夢の超特急「こだま号」の中で、コンパ疲れの藤原氏を前にして思ったこと。
「電車って速いなあ。」

広島駅で感じたのであるが、国鉄は駅舎の全国ワンパターン化を進めていいと思っているのであろうか、アホめ。のっぺりとした駅前広場の日差カンカン・アスファルト焼きの上で円陣を組み、めいっぱい校歌をうたった我クラブは、合宿中一日一日としたためた精力を、少なからず消耗してしまったのである。

春季ランレポート – 神保

春季ランレポート
文学部三年 神保

3月25日
駿河湾に面し、伊豆半島の付け根にあたるこの沼津の街には、もはや冬の面影はない。再びやってきた春を、思う存分享受しようと、WCCの面々が顔を合わせたのは、そんな沼津駅である。

黄色いユニホームは、朝の光をいっそう幸やかにする。冬の間に忘れていた何ものかを、漠然と思い起こしたのは、輝く車輪の為だろうか。空は快晴である。

各人が自転車を組み終え、出発準備完了。改めて班割し、5班構成。かくして11時頃に出発。沼津駅からは真っすぐ南。振り返ると雪を残す富士が見送り顔である。

信号の多い市街地の道をしばらく行くと、海沿いの道となる。我5班のCLは川村。海を右に見ながら、曲りくねった道を快調にとばす。江浦湾、内浦湾を過ぎると道は西へ向かうようになり、駿河湾をはさんで富士の頭が浮かんでみえる。

その内浦湾にかかる頃から、前の班が全然見えないことに、班員皆気付いた。極めて快調に走っているのに、そして道は湾に沿って弓なりにその全容を顕わしているにもかかわらず、そこには黄色いユニホームを見出だすことができないのだ。5キロ以上も離れていることになる。前の班の人達も久しぶりのクラブランに元気一杯とばしていると思われる。

伊豆半島は比較的入りくんだ海岸線を持つ。そして、そのことは、海に近く山が迫っていることを意味する。最初に登った真城峠は、海から4 ・5キロの所にある。
この峠は江梨と井田と、その両面から登ることができる。江梨からだと道は舗装である。
我々は井田から登ることになる。こちらは地道。しかも、荒れていて石がごろごろしている。
班別フリーではあるが、隊列を整えて登るのはなかなか難しい。

100m程標高をかせぐと、背後に海が見えてくる。風がないためか、駿河湾には波一つなく、海面は鏡のように穏やかだ。海を見ながら登るのも、なかなかいい。
体内からの熱の発散と空気の冷たさが、共に惑じられるようになると、峠はすぐそこだ。何もない峠。荒れた舗装を、戸田‐戸田峠間を結ぶ道まで少し下る。
そこからはきれいな舗装道路。真城峠の登りよりの視界もいい。

戸田峠に着いたころは、もう日も暮れかけていて、アスファルトの上を吹きぬけていく風は冷たい。皆、ウインドブレーカーを着て下りに備える。今日の宿”修善寺ユース”まで、下りっばなしである…ただ一つ、 ユースホステル直前の急勾配を除いては……。

3月26日
朝もやも消えやらぬ澄みきつた空気の中、 ユース前をかけ出すと、思いがけなく、再び富士が、こんどはくつきりと目の中にとびこんできた。どこへ行っても富士が見える伊豆トレーニングから二日目の朝は始まる。本日も快晴。

朝食後(めずらしく、パン・コーヒー、紅茶)修善寺ユースを後にする。修善寺駅まで道はなめらかに傾斜を保ちつつ、川の流れと共に僕らを運んでくれる。
春、朝、澄んだ空気、光、ぬけるような青空、そして自転車。時は僕達に、最も心地よい感覚を投げかけてくれる。

修善寺駅前をぬけて、伊東へ通ずる道。ほとんど起伏のない道。快調なベース。八幡のあたりで左折。さらに柳瀬を右折して、道は国士越へと向かう。筏場の手前で小休止。すぐそばには小川も
流れている。まわりは、農家が数軒。去年刈り取られたままの稲の株の残る田んぼ。そのあぜ道には菜の花。山に囲まれて、わずかばかりの場所にある田や畑は、伊豆ではどこにでも見られる。

この、のどかな風景は、いつまでも変わらないで欲しい。道はすこしずつ勾配を増し、舗装の途切れる所までくると、そこからはフリーランだ。残す所150mばかりの標高差。数分後には、広大な伊豆の山々をバックに、そろって記念写真を撮る。

湯ケ島まで、快適なダウンヒル。町に出る直前で前の班の張替がバンクしている。
そこで大ミス。我5班は、近道のつもりで、そこを左へ曲がってしまったのだ。全体は、すぐ前方を左折した場所で集合していたのだ。そんなこととは露しらず、持越方面ヘ向かう道を、水抜きのあたりまで進んだ。そこで「持越方面通行止」の看板と御対面。

賢き5班の班員は、前の班が先には行っていないであろうことに気が付き、しばらく待った後、湯ケ島の町まで戻ることにした。賢き5班の直感通り、道沿いの駐車場で皆が待っていた。

仁科峠の通行の可否をここで再確認した結果、通れないことがわかった。変更する道をどこにとるか、今年の執行部の性格を占うには、絶好の事態である。昼食をとっている間に、3年で話し合った。

最終決定を後に残して、ひとまず天城を越えることになった。比較的ゆるやかな登りの、広い舗装道路は、天城トンネルの開通と共にもはや峠ではなくなっている。

トンネルをぬけた後、道はかなり勾配のある下りとなるが、所々工事中で、片側通行の個所が多く、スムームには下れなかった。下りの途中で、諸坪峠への分岐がある。ここで全体ストップ。

三年の多数決。結局、諸坪峠に行くことになった。とたんに道は狭くなり、地道になる。荻入川に沿つて、道は進む。左右を山に囲まれた道で、傾きかけた太陽の光は、あまりとどいてこない。車がこない事もあつて、とても静かだ。平たんだった道が、少しずつ傾斜を増してくる二つ目の分岐点からフリーランだ。フリーランを始めた地点から峠まで随分と長く感じられた。この峠は、自分の登って来た道を見おろせる。

この下りは、カーブが多く、以外とテクニックを要する。少し行った所で、大きな土砂くずれに行く手を阻まれた。道は完全に土砂の下。車の通らない訳がわかつた。

僕らは、がけくずれも何のその、自転車を背中にかついで、お茶の子さいさい。

道は途中で舗装になる。仁科川に合流し、川に沿って海へ。道も広く平坦になった辺で、川の前方に、夕日を受けて金色に輝く駿河湾が姿を現わした。海が何とも言えず、懐かしく思えたのは、何故だろう。

三余荘ユースに着いたのが、ちょうど日没の頃。道に面する、ちょっと古めかしい問を入ると、鯉のいる池のある小ぎれいな庭がある。なかなか風情があるが、どちらかと言えば、年寄り向きだ。
このユースは、畳の室で、ベッドではなく、ふとんなので、ゆったりと眠れ、疲れもとれる。

3月27日
何故か、最終地点が伊東から修善寺に早変わり。従って、今日は国道36号オンリーとなる。3日目も好天に恵まれている。松崎-土肥間はアップダウンの繰り返しだ。土肥で海から離れる。

小休上の後、船原峠へ向うが、交通量がやけに多い。そんなせいか、バスやトラックを気にしているうちに峠まで来てしまった。
峠で昼食。この峠には広い駐車場があり、多くの車が行き来するので、あまり風情があるとは言えない。

食後、記念写真を撮って峠を後にした。豪快?なダウンヒルは除々にその勾配をゆるめていった。程なく修善寺の町に入った。

パートラン1 – 水野

パートラン1
夜又神峠・野呂川林道
商学部二年 水野

標高3,000mクラスの南アルプスの山々にはさまれて流れる野呂川の大峡谷を眼下にしながら、岩壁を削ってつくられた林道を走る、豪快なコースと、サイスポに説明してあるところに、今回、芥川氏、岩田氏、岸野氏、森村氏、白沢氏、そして私の6人の一行が挑戦したのであります。

私が、未だ慣れない大都会のざわめきにおののきながら、新宿駅西日を廻つて、東口についたのは、まだ7時を10分ばかり過ぎた頃。向こうに磯谷氏の姿を見つけて一安心したのも束の間、
「やっぱり早すぎましたね。8時に来れば充分ですよ。」などとぶつぶつやり出す。

暇にまかせて、自分の車をみてみると、21インチのちっこいロードフレームに1 3/8のWOタイヤを付けた、あまりにも異様な姿、おまけにタイヤが太くなった分だけ、フレームとのクリアランスが極端に減って。ちょっとでもプレがきたら、とても走れそうにない。

磯谷氏に続いて、私も車をバラし始めましたが、Rホイルが、前述の理由のため抜けないのです。
タイヤを足でぶったたいて危機脱出(空気抜いちゃったら、後で困りますもの)したが、突然の雨にたたられ、地下鉄の入口の下に引越す。

何しろ、フォークも、プレーキも抜かないやり方なので、さんざん手間取って、磯谷氏に手伝ってもらう。チェーンフツクなし。フレーム当ても忘れ、バンドはだらだらという状態だが、 一向に私は構わない。

嶋日の分解を手伝っている際に、大事なシャツを汚したのと、彼のリテーナーを反対に差し込んでおいたのを、多少気に止めながら、汽車に乗る。

甲府駅には意外に早く着いた。組みたて始めると、カゴ、スタンド付きのロードマンに乗つた、異様な感じの、関取りのような兄ちゃんがやってきて、ごそごそやり始める。
嶋田に相手にされないので、私に向かって、「この車は、7万いくらもした。」とか、「これは背が高い。乗つてみろ。」とか、いささか、呂律の回らない口調でまくしたてる。

ふと、「ナイトランにでも行きたいなあ。」と思う気持ちを押えてごろりと横になるが、
なにせヤッヶをひっかけただけ。おまけに横では3年生諸氏の密談、結局、 1,2時間の仮眠から3時半に目覚めるとすぐ食事をとる。5月の夜はまだかなり冷える。少しカゼ気味だが、走り出せばすぐ直るだろう。

5時半に出発。足が重い。なかなか調子が出ない。どうしてなんだろう。タイヤかブレーキシューでも接触しているのかな。違うなあ。タイヤが太くなったのと睡眠不足のせいだろう。
峠の入口に向かう軽い登りで、もはや5段もろ落し。1,500mもある峠を思うと、ノックダウンした自分の姿が、脳裏をかすめる。前でガチャガチャチェンジしている白沢氏を見て、多少安心はしたが。

峠の入口からフリーランに入る。いち早く飛び出した岸野氏に続けとばかり意気込んだが、足の方はちつとも言う事を開かない。遠く東の方に、真白な、粘っこい有様の雲が、まるっこい山連にまとわりついている情景。
巨大なヘビのように、とぐろを巻いた九十九折や、多少期待はずれではあったが、やはり東京から来れば、すがすがしさを感じる美しい新緑を楽しむ余裕など、まったくなく、森村氏と並んで、せっせとペタルを回していた。

岸野氏の姿は、どこを見廻してもない。「まだトップで登っているのかなあ。」と、10段もろ落しの自分が、常人であることを確信しながら、恐れてみる。
氏に遅れること10分。「岩田さん達、9時までには来るだろう。」という岸野氏の言葉に、「まだ40分近くもあるわい。」と、ほくそえんで、170円のネクターをむさばる。
「道も良かつたし、坂もそれほどきつくなかったし。」と、さきほどまでヒイヒイ言ったくせに、安心してみる。だが、甘かった。あのトンネルをくぐってから、そこからドラマは始まった。

予想よりも20分以上早く両氏は到着した。トンネルの前には、「道路工事」の立て看板が、立っていた。おそって来るどす黒い不安。
トンネルを出ると、急に地道に変わる。激しいヘアピンに神経を使い、鋭く尖った小石を避けながら、沈黙が広がっていった。プラサドルヘの激しい振動には、絶えずバンクヘの危惧が走る。パンクぐらいと笑いなさんな。

ところどころくずれている、崖の淵をかすめ、あまりにも深い谷の様子に恐怖を感じながらも、大峡谷の追力に息を飲む。走り去る一行に、細かい飛沫を飛ばしてくれる滝が、ところどころにあるのは、さわやかだった。

白鳳渓谷を過ぎ、野呂川橋を渡ると、広河原ロッジがある。みんな飯にありつけるとあつて、意気込んだが、まだ開業していないと知って、がっかり。
私一人、こつそりと残しておいたにぎり飯にありつく。それを横目で見ていた岸野さん、「出発します。」と、声をかける。

もうすぐ終わりだと思ったのに、広河原から南東に向きを変え、きつい下りになった道は暗く、細く、湿った、恐ろしい道だった。連続する、大小の、まるでお化けの様なトンネルは、水漏れがひどく、
真暗やみの中で段差あり、池のような水たまりあり、おまけにバッテリーのない私は、まるで生きた心地がしなかった。

ボッカリと浮かんだ出口が、進むにつれて次第に拡がり、それを突き抜けた時の、クライマックスに達する大パノラマ。

しかし、あと数キロという所で、今度は睡魔が私を襲いはじめた。危い、危い、前に遅れる。前の白沢氏の車が、あやうく接触しかかった瞬間、目を無理矢理ひんむけた。

下部駅に着いたのは、2時ちょっと過ぎ。「やつばり俺達の班だよ。いちばんすごいコースを走ったのは。」とつぶやいた。まだ後12時間も走り続けた班がいるとも知らずに。

パートラン2 – 佐藤

パートラン2
志津林道 商学部2年 佐藤

志津林道パートランの感想を一言で言えば、「走った!」という一語に尽きる。

5月21日、午前8時、日光大谷川ユースホステルを出発。5月22日、午前3時5分、鬼怒川温泉駅着、ラン終了という、長い長いランであつた。

安良沢から野州林道に入る。野州林道、志津林道とも、傾斜は比較的ゆるやかだったが、砂利があまりにも厚く敷きつめられていたため、自転車に乗って登ることは難しく、押して登った所もかなりあり、あまり良い登りではなかった。
その登りのうつ憤を晴らそうと、志津林道から、戦場ヶ原に抜ける下りに向かったが、この下りで、 一つのハプニングが起こった。桑谷さんが輪行袋を走行中に落としてしまったのだ。話によると、輸行袋を落とすなどという事は、たいへん珍しいことなのだそうだ。さすが、桑谷さんは、 エンターテイナー。

さて一同無事に下りを終え、戦場ヶ原の光徳牧場でひと休みをした我班は、一気に山王峠まで登った。峠の上では、缶詰め、チーズでティーパーティーという具合に、この頃までは4人の顔から笑みが絶えることはなかつたのだ。

1時間程休み、あたりがうす暗く冷え冷えした七時過ぎに、川俣温泉を目指して下りを開始した。4,50分下ると、あたりはもう真暗になっていた。4人の顔から、笑みが消え始めたのはこの頃からだった。

下れども下れども、目指す川俣温泉に着くどころか、山の中はますます暗く寂しくなるばかり。地面から来る振動と寒さで、 ハンドルを握っている手は感覚を失い、日中の地道の下りにも慣れていない僕は、ただ顔をひきつらせながら自転車にしがみついているだけだった。

このような下りを、2時間程続けた後、山中に温泉ホテルの明りを見つけた時は、ホッとする思いであった。

川俣温泉から、鬼怒川温泉までは、ただもう無心の状態で走ったため、今思い出してもばんやりとしか覚えていないが、最初惰性で動いていた足が、12時を過ぎる頃から快感を感じるようになって来たのは覚えている。

今度のランでは、無心に走ることを学んだようだ。しかし、今思い返してみても、いわゆるよいランと呼べるものだったとは思えないが、今度のランは、今度のランなりに、楽しかったし、サイクリングの初心者である、僕にとっては貴重な経験だつたような気がする。

ESCAラリー報告 – 後藤

ESCAラリー報告
理工学部三年 後藤

今年のESCA理事校は、明大MCTCで、吉川氏の理事長時代、吉川氏の行動思考に対して大きな共感を覚えたという大場氏が理事長だけに、二年前のWCC主管当時をさらに大型化した充実したラリーが現出すると思われていた。

今年は清里集合であつたので、その前にプライベート、念願の大弛峠へと行つたのである。
27日午前5時、糀谷の豪邸を出発した私は、後方から進出してくると思われる吉川氏を気にしつつ、柳沢峠へ。途中の坂で下つて来た二人組が、私に手を上げて挨拶した直後、ガードレールに接触、転倒。悲惨であつた。皆さん、このような日高氏チックな転倒には充分注意しましよう。

さて柳沢には、 1時半に着いて、シラー。吉川氏を2時間待てども来ず、下つて塩山へ。

マーケットで食糧をしこたま買い込んで、始めタラタラ、中パッパ、そして最後にはウダウダとなった頃、吉川氏が夕暮の日のかげりの中から現われた。6時半であった。なんと氏は、 1時に青梅のあばら屋を出たとのこと。私、ガックリ。

その日、ターミナルで寝たのは0時頃で、次の日、5時過ぎに起床。6時出発。予定を1時間遅れて不安であった。

塩平まではギンギンに見栄を張り合って登ったが、塩平の最後の売店で一息入れてからは、タラタラと急坂を登り出した。焼山には以外と早く着いて休み小屋で一服というか二服というか、かなり休んでしまった。そして焼山の100m程の下り。
途中でマッドガードが、ガシャ、ガシャ、バリンとはずれ、 ハっと下を見たとたん砂にとられて転倒。ウオーと叫びながら下り、やっと小川の前に着けました。この間の苦しさたるや、今思い出すのもゾッとする。

川で怪我した所を洗ってみると左手足の脇が傷だらけ。特に手の平と足の傷はひどく、足の傷などは最後まで私を苦しめました。
吉川氏にも見拾てられた私は、ウダウダとまた登り始めましたが、左手の握力が傷のためにあまり出ず、クソー、畜生/とわめきながら進んだのでした。
大弛を目前にしたところで吉川氏がメシを食っていたので、私も食いました。

峠に着くと2人の大学CC (それぞれ違う学校らしい) のムッツリスケペがおった。話かけてもムッツリ。エスカラリーに触れると、「うちの先輩は、女好きだから行くかもな」などとのたまいやがって、張り倒したかった。
「エスカラリーは、合ハイじゃねえんだ。ラリーに出た事もねえのに、でけえ口たたくんじゃねえ。」と言いたかったが、両大学との親睦のために黙っていた。

下りも私が先発した。天気が良かったので登りは気楽で、 1時には着いたのだが、下りは左手の平の負傷のため後ブレーキを強くかけられず、地獄であった。必死で1時間の地道を終わり、舗装になったときのうれしさは峠に着いた時の比ではなかった。

一方、吉川氏は途中でくつろぎながら降りて来た。ヤダね。シュラフとマッドガードを背にしばりつけていたのだが、両脇にゴムバンドが食い込んで、苦痛が快感に変って来ていて、舗装の下りはすばらしかった。千曲川に着いて、やっとまたマッドカードとシュラフを自転車につけてホッとした。

野辺山駅で夕食をベンチで食つていると、男女の自転車集団6人が走っていたが、吉川氏は、女の子は実践だろうと言い、これが見事に当っていた、さすが。

メンを食って清里へ。大場氏達のいる美森キャンプ場に行くかどうか考えたが、吉川氏の「ただでもぐり込んだら、金を払っている後輩に悪い」という後光の輝く御言葉で清里で寝る事になったのでした。南山大のハイカーの方もおり、シュラフで快い眠りを貧りました。

次の日、29日は、ラリーの初日。朝メシに昨日の残飯をあさっていると、実践が自転車を組み立て始めていたが、そのままメシを続けた。そのうち彼女らは、10人位の集団で出発していった。

ところが、我々が、バンドエイドとフィルムを買いに売店へ行くと、出発したはずの実践グループがメカトラでジトーしていた。

ここで、あたかも初めて気が付いたかのごとく、シラジラしく、挨拶を交してみると、クランクのメスネジがナメッておったので、無理矢理ねじ込んでやつた。これでよかろうということで、
用意整い、我々も出発すると、まだウダウダしておった。
今度は、ブレーキの千鳥の調整を近くのレンタサイクルのお兄さんにしてもらっていたが、なかなかうまく調整できずに大変そう。私も自転車を持ってあげる位で、このお兄さんに同情しました。しかし、さすがにお兄さん。最後には見事に調整しました。御苦労様。

さて、ようやく実践も出発し、我々も出発しました。タルイ登りを美森キャンプ場へ。いの一番に到着すると大場氏とMWLK(明大ワングンレンカー部)の田中氏がお出迎え。大場氏と吉川氏再会を喜びあっておりましたが、この二人、まさにエスカの恥部そのものでありました。
この2人のつながりのためか、私は知らぬ間に役員となっておって、一層楽しくラリーを過ごせたのでした。

さて一方、実践はかなり脚力差が出て、トップとテイルの差は大なるもので御苦労さん。私の左の傷は、水が出ていたので、露出して乾かしていたのですが、そこを、これもMCTCの恥部米山君につけねらわれました。

3時過ぎには、WCCのメンツも大体そろいましたが、杉本氏は、かなり遅れて「ガン」ぶりを発揮。
結局、エスカラリーの動員数は140名程で、WCCは10名。
なぜか、はじめのうちは、 ユニホームを着ず、特に4年生は同志社のユニホームを着て目立とうとしているのが見え見えです。もつとも、WCCのユニホームの方がはるかに日立つようですが。

WCCのメンツは、獣使いの田中氏、東十条コーモン会長の小辻氏、絵文字の高橋氏、いじめっこ深井氏、無芸大食吉川氏、シチイボーイ加藤氏、三谷A大畑氏、恥部自身杉本氏、フィーパー橋本という惨僣たるもので、なんとかWCCの面目を私一人で保っているという状態でした。

エスカの中で最も日立つと言えば聞こえはいいが、早く言えば恥部、ガン、阿呆な連中は、早・明・専の4クラブであり、 エスカ最悪連を形成しておる。
炊事でも、当番でもないのに、割り込むのは、この連中である。スキモノなのである。その中でも田中氏(WCC)は、さすがにかまたきのプロ、他の連中が換気の悪い、煙だらけの炊事場で交代して逃げておるのに、氏は目を真赤にしながら、カマを守り通した。さすが早稲田マン。

できあがつたメシは、皆様の努力にもかかわらず、米の入れすぎでパサパサ、結局、合宿のようにうまいメシは最後まで出来ませんでした。夕食を食い終わつて後、大広間でミーティング。翌日のフリーランのペア決めでした。
女の子と組めるかどうかわからない三年生はそわそわ。さすがは加藤氏、シチーボーイチックに落ちついておりましたが、大畑氏、杉本氏は落ち着きません。

二人とも、「別に男とでもかまわん。」と、口では言っておりましたが。幸いにも三年生はほとんど女の子と組めました。両氏とも、興奮気味。両氏はこの時から、フリーラン終了まで態度が一変しました。あぁ、男の悲しさよ、おぞましい。

その夜、MCTCが集まって明大の歌を鳴らしておりました。
私も写真をとる時、セコく割り込みました。その時間いた明大校歌と応援歌は印象的で、このラリーでの明大諸氏の行動と合わせさらに明大ファンぶりが大になったのです。

30日、第2日目。フリーランの日である。朝はきつちり5時半起床、思い切り起床をかけてやった。そして体操、同志社伝来のフオークダンスを楽しく、お手々つないでやってみました。そして、しめくくりに、米山君がMCTCの特製ケンツキ体操を。役者/米山。

そのあと、メシ作って食事し、いよいよ1分ごとにペアーが出発しはじめた。MCTCの上級生や役員のほとんどが自転車に乗らないチェッカーや、監視、運搬などについたのに比べ、私はカメラマンという楽しい仕事にありつき、女の子を中心に撮ろうとはりきりました。
当初は、雪谷高出身の同志広井氏(一応二年なので同級生ながら氏をつけてみた)と走る予定だったのだが、お○○のしすぎか、病気になって部長さんに変わった。

しかし、部長氏と走るのは畏れ多い(ほんとうは我クラプの歴代主将と同じかなり阿呆なのだが)ということで、 一人で走ることになった。

当初の女の子を中心にという計画とうらはらに、私の行くところには、女の子は居ず、ただ野郎のみが群らがっており、余程不幸な星のもとに生まれたのだと、自己嫌悪に落ち入っている次第である。ただ、最終地点、松原湖の登りで苦しみながら登る女の子を写し得たのが、なぐさめである。

さて、メシの仕度に松原湖キャンプ場に着いたが、4時間半のリミットタイムに余裕で遅れたのはWCCばかりで、ケツから三位までWCCのペアが独占。その痴態ぶりを発揮した。結局、時間内に着いたのはWCC9ペアのうち、深井、吉川、高橋氏の三ペアだけであった。

ただ吉川ペアは、女の子がMCTCのパリパリの一年健脚嬢であったので、平沢、海の口ときついコースを走って間に合つたという、いわく付き。
かねてから吉川氏は、「男と組んでガンガン走りたい。女の子だったら絶対根性がないとつまらん。」と、大言していただけに、このペアを作ったMCTC3年の塩谷さんにも感謝、感謝。

彼女と4年恥部連とは、 一昨年のラリーで知り合ったそうで、先日完成した吉川氏主演の映画(すぐにボツになるだろうが)でも共演しており、吉川氏の性格を知ってペアを作ったのかもしれない。
塩谷さんが4年恥部連とつきあいがあつてもMCTCの誉れとなっていることには驚くには値しない。MCTCの男達に何人恥部でない人間がいるだろうか。

その点はWCCと全く同じである。にもかかわらず、女の子達が皆、誉れとなっているのは、やはり、こやしをやるとよく草花が育つというのと同じではないだろうか。
カメラを構えると顔をそむける塩谷さんとすぐ無理矢理ファインダーの中に食い込んでポーズをとる、大場、米山氏等と比べれば、その差くっきり。そういう面では、我々の中にも女の子を入れるのもいいかもしれない。おかまでは誉れにはならないでしよう。

さて、脱線してしまったので元に戻す。食事を終えるといよいよコンパ、狂気の祭典。だが困ったことに我々は、出し物のメドが立っていなかった。
酒は去年のようには進まず、なぜかシラーとした感じで、大場氏も盛り上げるのに必死。
だが、だが、ワセダコールを受けても出る事ができないという失態を招いた。急いで話し合い。三度目のコールで勇躍立ち上がった。出し物は、磯谷の「巨人の星」と岸野の「一人野球」を全員でやったのである。

ことに「一人野球」はうけた。他のクラプの時は、皆、ウダウダやっていたのに、WCCが出ると、さっと静まったのには、こちらが面くらった。WCCはそれだけ注目されているのだ。WCCの部員諸君、自信を持っていいんですよ、自分の奇態に。

コンパも末となると、いよいよ、大場理事長が狙われる。去年は、井出理事長をコンパツトマーチで素裸にした(さすがに常識が残っている上級生の命令で女の子の前でのフリチンだけは避けられた。)のだが、本年は、湖もあるし、チョウチョだけでかんぺんしたのだが、頭をしこたま打ったようでした。
その後は、大場氏は他大学の連中にかつがれて、松原湖へ。どういう訳か、理事長は池に投げ込まれる事になっているのである。吉川氏も二年前、田貫湖へ。

我々は、明大MWLKの人達と明大校歌を歌い、 エールの交換をした後、湖へ行つてみたが、もう大場氏のみならず他の何人かぶち込まれて泳いでいました。私、殺気を感じました。なんと役員の田中氏、掘田氏とMCTCの先輩方もつかっています。

彼等に見つかったら最後と隠れましたが、「もうやめ、もうやめ。」という声が広がり、安心して出たところを慶応の主将村上氏につかまりました。
彼もぬれねずみ。「早稲田も入らんかあ!」と黄色のユニホームを着て居あわせた私を獲えたのです。橋本は姑息に私服を着ていやがって。逃げようとする私に第二、第三の手が伸び、あっという間に湖へ。水は汚く、ああ、くさか―。

私、何を思ったか、その場に居あわせた、WCCの4年生達に抱きつこうとしました。そして、皆逃げるのを、サド的ともマゾ的とも言える快感で楽しんでいました。と、MWLKの田中氏が、「一緒に飛び込もう」とウェットな誘惑。もう焼けくそです。

デュエットで飛び込んで泳ぎました。そこに、杉本氏が来て、「おい、後藤!水は冷たくないか。」と聞き、冷たくないと答えると、「よし、泳ぐぞ。ウオ!」と服を脱いで飛び込み、「いや―、気分いいなあ。」と泳ぎ出しました。変ってますなあ、この人。

ようやく一応騒ぎは終って泳いだ連中は、震えながら散って行きました。フィーバー橋本を始めとして当然、この後、実践とトランプでもと思つておったのですが、MCTCはなかなかシビアでバンガローの人数確認などを行いました。

この間、日大の一年生が、アル中で救急車を呼ぶ騒ぎもありましたが、昨年の早慶戦で血を吐いてグォーとなった杉さんよりはましなようでした。彼は翌日にはケロッとしていたそうです。

湖のほとりで、私はMCTCの先輩方と、吉川氏、小辻氏と星を見つめていました。(やっばり、俺にゃこんなクールな風情が似合うぜ、ガハハ。)そして、あいているバンガローで惰眠をむさぼったのでした。

明けて31日最終日、予定通り6時半に起床をかけ、すぐ体操。この予定、必ずくずれると思つたのだが、さすがは、MCTCそして参加者の皆さん。メシ食って10時解散。全体写真も撮りました。

その後、皆バラバラに帰って行き、残つたのは、MCTCと吉川氏、小辻氏、橋本氏と私、そして他に10人ばかり。MCTCと我らはポートに乗り込み、始めは、ただ軽く流していました。
他のポートに女の子が、入ってましたが、我がボートは橋本と俺。シラー。ところが、MCTCの三年の女子が、冗談で水を同輩(実は塩谷さん、同乗〔情〕していたのが小辻氏、吉川氏)にかけた事で、戦端が開かれ、すさまじい攻防戦となった。

こうなると強いのが男組の我船であつたが、それ以上に強力だつたのが高橋・米山隊であった。悲惨だったのは大場氏で、なすことなく集中攻撃を受けたのでした。
野郎どもは皆びしょびしょ。フィーパーできたと喜ぶ橋本以下諸氏であった。そして、 一時間程で終わり、MCTCは合宿(東北)に向けて走り去って行った。

我々もメシ食って帰ることになり、小辻氏、高橋氏と橋本は車で、吉川氏と私は、走って帰ったのでした。塩山で輪行した私達は充実感と感激で満ちて5日間のランを終えたのでした。今回のラリーは、いつになく充実度が高く、合宿の雰囲気がありました。

その中で、各大学の同志と語り、笑い、走り、そして酒をくみ交し、自分をクラブをもう一度振り返って、 一層自己を向上させ得たと思います。

MCTC、MWLK、専大の方々をはじめ、参加者皆様の自覚とやる気、団結が、ラリーで燃え上がり、 一大火となって光り輝きました。同じ心を持つ者に境はないという事を実感として認識し、 エスカの発展がまた一歩あった事を喜ばしく感じます。

全てが申し分ないラリーの中で唯一つの難点は、男子下級生の少なさでした。血の気の多い現役パリパリの一、二年生にとってそれ程走らないエスカラリーは軟弱に写り、それが軟弱–>軟派の行くところを連想させる者がいてもおかしくはない。

しかし、広い視野をもつてエスカを見て、よく認識してくれ。そこには、大学CCだからこそ成し得る心の交流があるはずである。認識不足は我々クラプの上級生にもあるだろう。
しかし、これからWCCを担い、特に、次期理事になる可能性の高い1年に願いたいのである。

(読者の方々へのお願い)
この文がMCTCに流れないよう充分御留意下さい。あなたとあたしとのお約束よ。

太陽と大気と自転車と – 松下

1978年夏、太陽と大気と自転車と太陽を背にうけて
商学部三年 松下

78年の夏のことだった。独り東京を発ってから43日目の日だった。中国合宿が広島で終った後、私はまたあてのない放浪の旅を求めて九州を思う存分、縦横に走り巡つてから四国の地に入っていた。

その日の朝も田舎の駅の寝袋の中で迎えた。土佐湾沖に発生した低気圧のため石鎚山脈南面の低山塊は厚い層雲におおわれている。好天時の早朝に発生する層雲は陽が高くなれば消えてしまうのが普通だが、低気圧のため層雲の上方には乱層雲が発生しているかもしれない。自己流の観天望気を一通り終えた後、また私はいつもの様に安煙草を飲みながら昨日までの旅に想いを巡らせた。

岩国駅で偶然野宿を共にした東欧からやって来た若者の言葉が煙の中に浮かんで来た。
私にも負けない位貧相な身なりをしたそのユーゴスラヴィアの無銭旅行者の日からは、その風体には似ず流暢な英語が出てきた。
「俺は九州をヒッチハイクで廻つて東京へ行く途中だが、お前さんはどっから来て、どこへ行く?」

単語と単語を結び合わせて解釈すると、彼はこの様に言ったのだろう。日本人の英語の事情を識っている外人はよくわざわざゆっくりしゃべるが、その様に話しかけられると私はその種の外人に見下されている様な気がしていい気持はしない。

彼の早口は私の偏屈な自尊心を満足するには充分だった。彼にとって日本という国は少年時代からの憧れだつたそうだ。キューシゥーの山と海はとにかく素晴らしいと青い瞳に栗色のまつ毛をばちくりさせながらひとしきり九州を誉めちぎってから、覚えたてのナガサキ、アソ、カゴシマの感想を喋り立てた。

その朝、煙草の煙に想い出した九州は、私の九州ではなくその異邦人のキューシゥーだつたのかもしれない。私はその鮮明な輪郭を持たない九州の想い出を厚く垂れこめた雨雲のせいにしようとした。

想えば九州ではクラブ員の家に泊めてもらつた他は、野宿の目自押しで、ゆっくり山の景観を味わったり古い街並を詮索する余裕が少なかった。
私にとって九州は、身も焦げる程の暑さと疲労の代名詞の様なものになり下がっていた。そして旅の記憶の所々に巡り逢っては別れた旅の人々の面影が浮かんでは消えるばかりだった。

あれこれ思いにふけりながらも私は雲を気にしつつもその日の旅を始めた。
高知から土讃本線沿いに北上し徳島の池田を目指す。池田から徳島までは讃岐山地と剣山地をくさび状にくぎる吉野川の右岸を走る国道192号線を走ることにした。四国には2,000mを越える峰は無い。

低山地系と細かな谷を緩く削る渓谷そして豊かな降水によって潤う深緑の山々、そんな山の弛みを結ぶ峠 ‐源平の昔以来、平家落人の末裔が切り拓いては交易に歩いた峠‐ そんな漠然とした私の四国の山域のイマージュは車が行き交うアスファルトの上では決して現実として像を結ぶものではなかつた。

しばしば紹介される石鎚山脈を越え、ひなびた寒村を結ぶ峠を走る精神力はとうに失せていた。固いアスファルトを650Bホイールを装備したキャンピング装備の自転車であえぎあえぎ走らなければいけないという現実は私をいら立たせ、グルな疲労感は、逢か彼方本州は大宮の我家の自室に立てかけられている主のいないロードレーサーを想い出させた。

どんな細かな路面の凹凸も確実に伝え、サイクリストに大地の息づかいと、それを可能な限り快楽にまで高めようとするテクニックを要求するチュープラー。

両脚の回転運動がほとんど理想的な形で駆動力としてリアホイールに伝えられ大地をけり飛ばしながら空気抵抗と斗う壮快さ。過負荷の状態でのはち切れんばかりの心臓の鼓動と流線形にまとめ上げた上半身の後方でうずを巻く空気の流れ。
繊細にして大胆なチュープラーの忘れかけていた感覚がこの時ほど私に「ロードに乗りたい」と云う激情をかりたてたことはかつて無かった。

徳島入りを諦めた私は吉野川中流域に野宿の場を求めた。寝袋が一本あればどこでも寝られる。上は無人駅、神社。中は公園、浜辺等、下はパチンコ屋の横の広場、ガソリンスタンド等。私はこのようにホテルに等級を設けている。

その日、夜を明かした徳島本線の山瀬と云う駅もとり立てて人目を引くもののないどこにでもある田舎の駅にちがいはなかった。しかし翌朝には私にとって生涯忘れることのないだろう上の上、特上のステーションホテルとなったのだつた。

翌朝、目がさめると、寝袋の横に銀ぶち眼鏡をかけたやや腰の丸い老婆が話しかけて来た。ぜひ家に来いと。駅前の米穀商は何もない通りに質素な門を構えていた。彼女は寝ぽけ眼の私をそこに通すと遠慮する私を制しておいしい朝食と珈琲をふるまってくれた。老婆は20万分の1地図大の古いパネルを居間へ大切にかかえて持って来た。「あっ」、声にならない様な私の息。

ちょうど私と同じ位の若者がサイドバッグをしたたかに付けた自転車にまたがり笑っている写真だった。老婆のひとり息子も学生時代、自転車放浪癖があり東北の方を廻った時は、よく人の親切になったものだと、息子さんの話を蕩々と語ってくれた。
彼女は娘時代から50年以上山瀬の里に住んでいるが山瀬駅で自転車の旅の者は初めてだとも語った。別れぎわに、断わる私をどうしてもと制して楽に3日は大食して走れるお金を私の雨具のポケットに入れてくれた。金に困つていた私は、ただ感謝の気持で胸が一杯だった。ただうれしかつた。

この日も一日中雨が降り続いた。しかし額にあたる雨は昨日のそれとは違うものであつた。自分の旅に後悔も焦燥も無くなっていた。

その後私は大阪ヘフェリーで渡り、今はもういないYとひと時のアバントウールを楽しんでから、京都、名古屋、浜松と走り、郷里天龍川をさか登って再びホームグレンデ信州に舞い戻った。家に着いた頃にはもう後期の講義が始まっていた。

62日間、4,870K mに及んだ旅と共に、私の78年の夏が終った。

旅先でめぐり逢った全ての友人に多くの挨拶を

夏のサイクリスト – 張替

夏のサイクリスト
社会科学部3年 張替

2年の夏休みを利用して60日間もサイクリングをして西日本を回ってきた。自己を鍛えるため、というのが動機であったが、今の感想としては、サイクリングの面白さ、辛さといったもののみが強く残っていて、今も目を閉じるとアレコレと思い出が浮かんできて懐かしいことしきりである。

ここに書いたものは、その中で強く印象に残っているものである。書きたい事はまだまだたくさんあるのであるが、私の筆力ではこれだけがやっとで、自分でも歯痒い。どうか、「つまらん。」と云わずに読んでやって下さい。

唐谷林道

唐谷林道
私の寝泊りした場所は、合宿を除くと、もっとも多かったのは駅、次が知人・友人の家、後は数回づつだったが、お宮、公民館、国立大学の寮、フェリーの船着場、山小屋などであり、民宿へ泊ったのは黒田氏と九州で偶然出合った晩の推葉村の「スズカケ」1度きりでYHはついぞ泊まらなかった。

金がもったいないのと、西日本(特に九州)には、友人・知人・先輩方のお宅が多かったのでそれらの人々に御迷惑をおかけした次第で、おかげで大分節約ができました。(その節はどうもお世話様でした。)

さて、宿を考える時、真先に浮かぶところが3つある。 1つは鳥取までゆく途中の御岳山の中腹、濁川温泉(濁河温泉とは違う)付近の林道建設小屋である。2つめはその翌日の萩原のお宮である。3つめは九州で黒田氏と偶然に会い「スズカケ」に泊った翌日の雨の降る山小屋の以上の3つである。

人間不思議なもので、良い思いをして、「天国、天国。」と云いながら寝たところよりも、不安にかられながらやっと見つけた山小屋や、恐しい思いをしながら寝たお宮の方が思い出に残るものらしい。

御岳山中林道建設小屋泊り事件の顛末はこうであった。
その日(7月24日)は、昨日偶然、高遠のT字路で出会った松森氏、松倉氏、伊藤氏の3人で、伊那から権兵衛峠を悪戦苦闘の末越え、木曽福島で松森氏一行に、鳥取での再会を約し、炎天下の2時、岐阜の萩原を目指して出発。

木曽福島から萩原まで、地図によるとどう少く見積っても60キロ。峠は無いにしろ山道だから4,5時間はかかる。ましてや、ゴンペエを越えた後だから、私の脚力では少々無茶である。が、精神の昂揚と強靭な肉体の鍛練を約束して、家族・朋友と別れて、まだ3日。無茶だの危いだのは挫けている証拠だと自己を奮い立たせて実行できる程、私はまだこの旅に対する期待や夢を失なってはいなかったのである。

木曽福島を出て10キロ程走ると、 一天俄にかき雲り、激しい雷雨となる。一早く、バス停の軒下に雨やどりをした私は
「コンナ日ニーステキナ彼女アラワレーナイカトォー」
鼻歌まじりに歌ってみたがあいにくと誰れも通らず、目の前の水溜りを勢いよく突っ走る車の水しぶきばかり浴び、雨やどりした甲斐なくズブ濡れとなる。

やけになった私は小降りを見計らって出発する。しばらくして雨はやんだが、雷雲は一向に晴れる様子も無く頭上について来る。御岳湖沿の雨に濡れたアスファルトを、憂うつに走り、上島という人家の密集地に出、ここでバンなど買い、 ついでに道を聞く、
「ここから、三浦ダムヘ行くにはどう行ったらいいでしょうか?」
「そこの道を真っすぐ行けばいいんだけどアンタ今から自転車で行くんか。」
「ハイ、ソーデスガ。」「ソリャーエライが、まだまだずっと先だぞ、夜になっちまうよ。」

とガソリンスタンドの人は驚くが、 一般の人が我々サイクリストを見る時にありがちな(自転車で旅行するということに対する)あの驚きと受け取り、
「ダイジョープスヨ。」と云って教えてもらつた道を、うす暗くなってきた(それは多分に雷雲のためでもあるんだが)ことにちょいと不安を感じながら走り出す。

地図では川沿いの登りになっているから、多少は覚悟していたが、いつまでたっても川沿いにしては急である。ゴンペエで疲れているから、足は重い。そのうち川が消えた。「コリャ道を間違えた。さてはあのガソリンスタンダァめ、嘘つきやがつたな。」と思い、道路工事のオジサン達が仕事を終え帰り仕度をしているので尋ねる。
「三浦ダムヘ行きたいのですが、この道でいいのですか。」
「アア、いいんだけど、オマエ今から行くんか。」
「エエ、そうですが、地図によると玉龍川沿の道があるはずなんですけど」
「アア、あの道は無いよ。」

と簡単に云う。私は驚くが、国土地理院を信じ、フロントパックから地図を出し、広げてその道を人指し指で指し示し、どうだと云わんばかりに
「ココにあるんですが?」
と云うとオジサン
「アーコノ地図か、これは古いんだよなア。前にもコレを持ってきて迷っていた奴がいたっけ。」
とさほど気の毒そうに云わず、こんな地図をもってくる方が馬鹿だという調子で云う。

この道をどこまでも行けば、やがては三浦ダムヘ着くらしい。自動車でも2時間はかかるという。舗装の下りなら自転車でも負けないが、上りで、その上、あと1キロも行くと地道になるという。とてもいけない。三浦ダムから、私が目指す萩原まではさらに30キロ以上あるのである。

ここに至って私は途方に暮れる。オジサンたちは
「上の方へ行けば山小屋ぐらいあっからそこへ泊れや。」
と極めて簡単におっしゃる。私はラヂウスと米とカンズメを持参していたから食物は何とかなるが、ここは御岳山中であり、クマがでるか蛇が出るかわかったもんじゃない。

ましてや、つい4日前までは文明生活を営んでいたのである。
(クマが出たら喰われてしまうだろう。タヌキはどうだ? ナニカ負けそうだ。ヘビは? これもマムシかなにかだったら殺られるだろう。ネズミは?一匹なら勝てそうだ。)
とかようなまでの心細さに落込んだが、「登れるだけ登ろう。あとはそれからだ。」と自らを励ました。

雷雲の暗い空模様に、山の木々はさらに黒々とシルエットを描き出し、その間を縫うようにポンヤリと白く続く地道。日は暮れようとしている。孤独なサイクリストに安心な寝床を与える前に。静かな山奥には私の自転車のみがうるさいぐらいにカタカ夕鳴る。

私は今も時々、ふとあの時の淋しさを思い出す。それは小学生の頃、遊びすぎて夕暮れになってから家に帰る時の淋しさにどこか似ていた。

完全に陽が暮れようとしたころ、私の日の前に一軒の家の灯が飛び込んできた。
天の助けとばかり、さっそく自転車を置き、玄関を開け「ゴメンクダサイ。」と大声を出す。
主婦らしき人が出て来る。「すいません。自転車で旅行をしているものなんですが道に迷って泊まるところがありません。軒下でも貸してもらえないでしょうか。」
としおらしく聞いたが、腹の中では
『そんな事言わずに家の中で寝ていきなさい。』
という返答を当然のごとく期待しているあさましい男が私である。
「それは大変ね。ちょっと待っててね。」と奥へ奥さんは消えてゆく。

しばらくして主人が出てきて、プレハブ小屋へ案内してくれる。なんでも林道建設中の労働者が泊まっている家だそうで、その詰所が、プレハブ小屋なのだそうだ。そこには、タタミ、電気、水道、ガスが備わっていて駅ぐらしの私にはもったいない所であった。

私は持参した食物で夕めしを済して疲れを癒していると、フロに入りなさいと言って家にあげてもらう。フロに入るとオジサンが2人ほどいて、サイクリングの話などをしながら、家を出てから初めてのフロを味わう。
さっばりした私は小屋に戻り寝ころんで旅行記などを付けているとフロで一緒になったオジサンが一束のマキとナタを持って入ってきて腰かけ、
「今日はニーサンと四方山話でもしようかな。」
と云いながら、何に使うのかわからぬが、マキをナタで削り出した。人の良い顔付きのオジサンで、東京に行ってる息子の事や大学のことを話した。

1時間くらいで木を削り終えたオジサンは帰って行った。
私は、この晩自転車の1人旅の面白さを、発見した気がして嬉しかった。
多少興奮気味でなかなか眠れなかったが疲れていたためいつのまにか眠りに落ちていた。夜中、ネズミがチューチュー鳴いており、夕方の不安が一瞬よみがえったが、朝まで何事も無かった。

朝、朝食を御馳走になった後、詰所で林道で働く人たちのミーティングが行なわれ、15、6人の輸の中にポツンと私は肩身の狭い思いで聞いていた。ミーティングが終り、皆さんはトラックに乗り出発していった。ろくろくお礼を言う暇も無くオジサンたちは行ってしまった。
仕事をする男たちの厳しさが感じられ自転車で旅行している自分が非常に小さいものに見えた。所詮、いきがっていても遊びは遊びなのかと落胆する。が、山陰合宿を経て、九州を回り、四国、近畿、北陸を経て関東は埼玉へ帰るまでを思い、まだたったの4日目ではないか、うろたえるなと励まし、出発したのであった。

御岳山の中腹あたりを横切るこの建設中の林道はアツプダウンの厳しさと共に道の軟弱さがひどく、四苦八苦しながら走った。途中林道わきの真新しい木で作られた標識には「唐谷林道」と記されていた。

美濃白鳥

美濃白鳥
明るいうち(夕方4時ごろ)に白鳥駅に着けた。家を出てから5日目の事である。さっそくナップザックを背負って買い物に行く。ボロキレの体をなしてきた、チューリップハット.色あせた紺のTシャツ。同じく色あせたエンジのジャージをバミューダーに仕立てたバンツ。野球のスパイクから歯を取った、
どぶのような匂いのシューズ。それらを身にまとったきたない男が、白鳥というロマンチツクな名の町でショツピングをはじめた。

まず品の良い店でバンを買う。野菜類を買いたいが、 マーケットや八百屋が見当らない。仕方無いので買い物籠さげて立ち話をしている2人のおばさんに八百屋があるかと問く。教えてくれた方のおばさんが、道順を話す前に、私を足元から顔までながめまわし、なにか、いやな物を見たような顔付きをした。

自転車に乗っているか、自転車の側にでもいれば、
「ああ、あの人はサイクリングやっているから、キタナイのも無理はない」
と思われこっちも助かるが、駅前に自転車置いて、この格好でウロウロすればコジキとあまり変わらないに違いない。

ちょっと恥かしくなったが、旅の恥はカキ捨てと、特に気にせず教えてもらったマーケットヘゆく。

店内をあれこれと30分も回った後、結局買ったのはトマト1個とラーメンニつ。
買物を済ませた私は、駅に来る途中今夜の寝床にと思って見っけておいたお宮に戻った。「お宮なんかに..」と云う人も居るだろうが、存外寝易いのである。
丁度この日の前の晩の事である。萩原駅で寝ようと思った私は、駅員に断わられ、この先のお宮で寝ればいいと教えられたわけだが、もう夜も10時近い頃である。生まれてこの方20余年、まさかお宮という所が寝られる所とは思ってもみなかったので驚いた。驚いたところで他に泊る所も無し、仕方無くお宮へ行ってみた。
木々で囲まれたわりと広いお宮であった。境内の入口にお決りのようにシシが2頭何かいいあっている。
パッテリー片手に境内を探険家のようにあたりを見まわしながら恐る恐る歩く。寝場所は境内のほぼ真中にある建物(恐らく、何か行事のある時はここで踊るのだと思うが。屋根があっても四方壁が無く柱だけの板敷きの建物である。)と決めた。

そこに上り込んでシュラフを敷いて、蚊取り線香焚いて1ぶくつける。
タバコと線香の煙りが、心細い私を、 ユウレイ・バケモン類から守ってくれるような気がして安心する。それにしても見渡せば見渡すほど不気味である。
賽銭箱の置いてある建物の開きの戸が格子になっていて、そこをしっと見ていると中からその開きを開けて何やら出てきそうである。

その建物の横がヤブになっていて、その中には種々様々なヨーカイたちが潜んでいるように思えてくる。「こりゃやりきれん。」と思っているとタイミング良く「ゴーン」と鐘がなりやがる。
到底寝られそうも無いので、駅の自動販売機まで行ってピールのロング缶を買ってきて、一気に飲みほす。5日振りの酒と疲労感によって私は案外ぐっすり眠れたのである。

風通しはいいし、蚊も居無かったし、寝易いことこの上ないのである。そこでこの日(白鳥に着いた日)もお宮で寝る事にしたのである。

さて、パンとトマトとラーメンを買ってお宮にゆくと、角に黄色の公衆電話がある事に気づく。
家を出てから5日経っが、まだ家に電話をかけていないので、さつそくかけてみる。母が出てきたが5日間何の連絡もしなかったので相当に心配していたようで、すまない事をしたと思う。

まだ明るかったので、チュープの穴にパッチを張る作業に取りかかる。かなり穴があいており、10センチの幅の中に4枚もパッチを張るはめになる。塞いだのはいいが、使えるかどうか心配になる。

その作業をしている時である。年の頃なら小学校の3・4年といった子供が、後に手をくみ、 ニコニコしながら私のところへ近づいてきた。よく見ると後手にくんだ手の中に、ファンタオレンジの岳を持っている。最初はそれを私にくれるとでも言うのかと思い、こちらもニコニコする。

「おにいちゃん!」
ヤッタ。この辺の子供は素直でいい。東京あたりのガキだとこうはいかない。
前に大宮駅で、電車に乗るべく、自転車を分解していると、 1人のガキがよってきてこんな会話を交わした。
「オジサン。何やっているの。」
「(カチンときながらも、ぐっと声をおさえて、優しく)いや自転車を分解してね、そら、この袋に入れて電車に乗るんだよ。」
「フーン。でオジサン、どこへいくの?」
「長野だよ。」
「フーン。オジサン、自転車好きなの。」
「きらいじゃないね。」
「フーン。オジサン、大学生?」
「(大学生はもうオジサンなのかと、いくぶん腹を立てながらも、グッとおさえて)ああ。」
「東京大学じゃないよね。」
「(このガキ)ああ。」
「オジサン、自転車好きなの?」
「(うるせえな、きれえじゃないっていっているだろうが)ああ、わりとね。」
「オジサン、可哀そうだね。」
「….。」

何がカワイソーなのか知らんが、とにかく私に対して何のためらいも無理もなく、「オジサン」と話しかけやがる。朝から縁起でもねえガキだと苦々しく思った次第である。話が横へ行きすぎたようだ。元に戻そう。

「オニイチャンノ」と、その素直な、白鳥の子供は近寄って来た。人なつっこい子供でしばらく旅行の事などを話していると、その子の兄が自転車に乗ってやってきた。
兄は小学校6年、弟は3年。お宮の縁側で2人で腰掛け、いろいろと話をした。
都会と田舎の違いを、さかんに聞きたがり、「オレは都会はキライだ。」といった弟。
自転車のことを根ほり葉ほり聞き、「オレもやろうかな。」といった兄。なかなかいい兄弟であった。

3年と6年と言えば、私の兄と私との年令差であり、かって、わが兄弟にも、こんな時代があり、野球や、おにごっこを近所の仲間達と楽しんだのであった。
今は、兄も就職して九州に居る。だんだん人間は大人になつていくものではあるが、こうして久々に子供と話していると、その頃の自分に戻るようで、新鮮な空気を胸いっぱい吸ったような気持になり、懐しさがこみ上げてくる。ばかげているが、大人にはなるもんやないなあなどと思ってみたりする。

夕方、兄弟が帰り、ポツンと縁側に座っていると、今まで、お宮の庭を広くすべく工事をしていた1人の、正真正銘のオジサンが近寄ってきて、
「ここで泊るのもいいが、火の始末はきちんとしてくれよ。」と話しかけて来た。

それで、少し話をしていると、
「ホー。そんなに走るのかい。1人じゃ親も心配だろうな。」
「エエ、今、5日ぶりに電話したら、 エラク心配していたようで、悪い事をしたと思っているんです。」
「そ―さ。あたりめえさ。親に心配かけちゃいけねえよ。毎日でも電話しなくちゃな。」

と、手に持ったおいしそうな、ムギ茶といっしょに帰っていった。私は、家族の重さというものを、幼い兄弟と、オジサンに教わったような気がして、少しばかり感傷的にそれらの事を考えていた。

そこへ、「オニーチャン、遊びに来たよ。」と、先ほどの兄弟達が、仲間を数人つれて来た。「カーサンにオニーチャンの事話したら、これ持ってけって。」と言って、キューリの漬物をさし出した。ありがたく受け取って、又しばらく子供達を相手に話をした。

「明日の朝、ここでラジオ体操やるから、また来るね。」と、そう言って帰っていったなんとなく感傷にひたりながら、旅の面白さを感じ、静かに寝た。

翌朝、弟の方が早く来た。すぐ兄の方も来て、オニーチャンも一緒にやろうよと、ラジオ体操にさそわれたが、照れくさいので見ていた。彼等の体操が終ってから、「じゃな。」といってお宮を後にした。

「オニイチャン。帰りもここでとまれよな。」
と後から子供がさけぶ。こんな子供でも、仁義をこころ得ている。
この土地が気に入った。いつまでも素直に育てよ、兄弟!
のぼる朝日を背にして、孤独なサイクリストは、今日も西へ西へとペダルをこぐのであった。
「オニイチャン、ガンパツテ!」
とはさすがにいわなかった。

天草・島原

天草・島原
その日は、天草西海岸。畑や花畑が、みごとな田園風景をなしていて、その向こうに海が見えるといった、絵のようなところで、いにしえ、悲惨な戦のあった所とは思えない情景であり、つい「天草や つわものどもも」と歌ってみたくなるところである。

そこを回って、鬼池から口之津までのフェリーに乗って、日之津から島原へ愛車を乗り入れた。
今夜は、島原港のフェリーの船着場に寝ようと思ったが、海を見渡せる、恰好の公園があったので、そこの屋根付きベンチに泊ろうと決める。そこへ自転車を置き、その日の行程を思い浮かべながら、 一服していると、2人の幼子を連れた30すぎの男の人が、私に近寄って話しかけて来た。

いろいろ話しているうちに、その人も、高校の頃に、自転車旅行の経験があることを知り、意気投合する。

「俺は、今は島原にいるが、会社は高知にある。帰りに高知に寄ったら、是非、電話してくれ。めしぐらいおごるよ。」と言って、電話番号を書き、帰っていった。名を山口さんという。

私は、なんだか不思議な気がした。見ず知らずの他人が、遊びでやってるこの旅に感服してくれ、親切をほどこしてくれる。山口さんに限らず、大体の人は「本当の青春だ」とか、「若いうちに、こういうことをやっておくのは良い事だ」とたたえてくれる。が、1人だけ、四国の山中で出会ったダンプの運転手はこう言った。

「まぁ、遊びでやってんだから、えらいとは思わねえよ。」と。
私は、こう言ってくれた,この人に好感が持てた。世の中には、私と同じ年で働いている人はいくらでもいる。学生の本分である勉強もせず、遊びで走っている私に、賞讃の言葉はいらないのである。
第一、私は、慣れていないこともあって、ほめられるのは苦手なのである。気恥しくて、つい恐縮してしまうのである。

話はそれたが、とにもかくにも、「自転車にまたがったコジキ」である私が、「くれる。」というものを、こばむはずはないから、嬉しさはひとしおであった。

自炊するつもりであったが、気分がいいので、外食することにした。長崎チャンポンである。うまかった。

気分壮快な私は、明朝の米でもといでおくかと、さっそうと、屋根付きベンチホテルに戻る。が、そこには、ああなんという事か!1対のアペックが愛をささやきあっているのではないか。

私が、 コッヘルと米を取るために自転車に近づくと、必然的にアペックに近づく。彼等の話は、 ピタッとやむ。 一瞬の気まずい沈黙が、サイドバックから米をひきだそうとしている私の背に重くのしかかる。彼等はまた、ささやきあう。叔女の方はどうやら看護婦らしい。紳士の方は学生か、労働者かちょいと判断はつかないが、海を見ながら、何やら楽しそうに話している。
寂しき米とぎ青年は、公園の水道へ行き、米をとぐ。米とぎ青年は、青春物ドラマの3枚目の役を演していることにいら立ちを覚え、人の寝床と壮快な気分とを奪った、紳士・叔女に報復してやろうかと考えたが、紳士君にぶちのめされては、ヤクザ物のチンピラ役を演じることになり、いよいよかなわんと思い、少し離れた所にシュラフを敷き、横になる。

「大体こんな所に来るなってんだよ。アホングラめ。」
とつぶやくが、海岸線に細長く続き、ソテツやシパフがきれいに整備してある公園には、アベックがふさわしい置物であって、私のようなコジキ同然の自転車乗りこそ出て行くべきなのであると気付くと怒りも消えた。

星を見ようとするが、曇空で見えない。水平線のかなたには、暗雲が立ちこめ、稲光が時々、夕やみ迫る島原の街並を明るくする。風も吹いて来た。「こりゃ雨になる。さっさと帰ればいいのに、アイツら。」
私はだんだん淋しくなって来た。何か歌おうと思ったが、急には出てこない。ヤケクソ気味にのどをかすかにふるわせて、「都の西北」を歌った。広島での解散式や、コンパ。黄色のユニホームの面々が思い出され、懐しさがこみ上げてきた。

一人で走るのが、サイクリングの真髄だという意見には私も同意するが、大勢でキャンピングしながら、ワイワイやるのも又、面白い。我々WCCは、その両方をやる機会に恵まれているのであるから幸せである。

さて、いよいよ雨が降り出しそうになったにもかかわらず、アベックは立ち去ろうとはしないので、私はフェリーの船着場の大きく出ているひさしの下に寝ることにして、そこへ引越をした。ベンチに横になってみたが、なかなか寝つかれない。

こういう生活も、 1ケ月もやっていると、慣れてしまって、普段の生活の時と同じように眠れなくなるときがある。最初の頃は毎日の行程や、神経の疲労によって、どんな所でもぐっすりと眠れるのであるが、体が慣れるに従って、物事を考えるようになる。
特に普段、眠る前にいろいろ物を考えるくせのある私は、考えだすと眠れなくなるのである。

この日も何を考えていたのかは忘れたが、なかなか眠れず、外の世界は、あい変らず時々カミナリの稲光で明るくなる。雨はまだ降らない。

と、そこへ誰かに「はりがえくん」と呼ばれた。「ハイ」と、私は返事をしたものの、こんなとこに知り合いのいようはずもなし、誰かと身を起こすと、先程の山口さんである。さっきの公園に私が居なかったので、捜していたらしい。

「やあ、 一緒に缶ピールでも飲まんかい。」と、願ってもない感激のお言葉。 一も二も無く了解し、公園の方のテープル付きのベンチヘ腰掛ける。つまみは折り寿司である。
それをパクパクくいながらビールニ本を、グビグビやり、あっと言う間に平げながら、旅行の話などをした。ほろ酔い気分で、話がはずんできたところへ、ついに雨がボツポツ降ってきた。「高知へ来たら、是非寄ってくれ。」といって、山口さんは、自転車に乗って帰って行った。

その晩、眠れなかった私は、ビールの酔いと人の親切によって上機嫌で、ぐっすりとねたのである。

「ナガサキ」

「ナガサキ」
思ったより楽であった、雲仙を下り、私はナガサキヘと向った。「ナガサキ」この地名は、幾度私に感銘を与えたであろうか。日本の聖地。南蛮渡来の港町。日本における洋風文化の発祥地。訪れた知人は、口をそろえて「いいとこ」だと激賞した。

芭蕉の奥州への旅立は、松島見たさが要因の大だったらしいが、私の今回の長期プランでは、芭蕉における松島が、この「ナガサキ」であったと言っても過言ではなかったくらいである。したがって、この地で連泊して、じっくり見物することは、前からの計画であった。

さて、ナガサキまでの海岸線の道路は、ものすごいアップダウンで、楽勝雲仙も、物足り無く感じていた脚も、充分、痛めつけられさんざんな目に会った。
その上、炎天下の日差しが、日陰を作らせない角度で、降りそそぎ、私に休ませる機会を与えなかった。ようやく見つけた、半径1m程の木陰に、私は愛車を横倒しにし、一服つけた。
いいようもない疲労感で、ぐったりとしている私の側を、 1台のパトカーが通り過ぎる。
「くそっ。エラソーに走っていったって、こんなときゃ役に立たねえんだから。」
と、パトカーを横目にグチを言う。

と、 1匹のアプが、私の回りを旋回している。じっと見ていると、右足のふくらはぎに止まる。慎重に狙いをつけて、バシッとはたくが、間一髪、逃げられた。クソッと吐いて、もう一服つける。その途端、左のふくらはぎあたりで、チクッと痛みを感じ、みると同時にバシッとたたくが、アブは逃げていった。頭のいいアブにしてやられたと悔しがるが、後の祭り。泣きっ面にアブである。

さて、こりもせず又、自転車にまたがり、出かける。こんな時は、サイクリングの1番面白くない時で、腹ばかり立てて、ベダルをこいでいる。

丘陵地帯のこの辺は、緑一色で、家もてんで見当らない。1台のパスが、私を追い抜き、先の停留所で、 1人の女子高生を降していった。後から見るその姿は、女にしてはガッチリとした体つきで、足も太く、
必然的に近づいてゆく私に、あまり期待を起こさせなかったが、他に見る景色もないし、抜き際にチラッと横顔を拝ませてもらった。予想とは裏腹に、すばらしく奇麗な眼をした娘で、ギリシャの彫刻にでもでて来そうな美人であった。

それにしても眼のすばらしさには感動した。きれいな海の見える所で、家もあまり無く、のんびりとした環境で育って、こうも違うものかと、東京あたりで見る女性と比較し、何度も私をうならせたのである。

長崎までの行程にうんざりさせられていた私は、急に元気を取り戻し、こぐペダルも軽くなったのである。これも旅の面白さの1つであろう。

さて、様々の期待を抱いて、ようやくの思いで行ったナガサキの第1印象は、どうだったかというと、私にとっては良くないもので、その時の旅行記を引用してみたい。

8月29日(火)晴れ
ようやくの思いで長崎に着くと、そこはなんて妙な所であったか、家々が、谷底みたいなところにびっしり建っているかと思うと、山の中腹まで、あるいは、山のてっぺんまでハチの巣みたいに、びっしりと建て込んでいる。

そして、道路状況のひどさ。坂が多いとは聞いていたが、平地育ちの私に言わせてもらえば、多いんじゃない。ようするに、坂しかないのだ。のぼるか下るかの。

さらにこんなわけで、住民はおそらく自転車などというものは使わないのだろう。道路は、自転車の事など、あまり考慮せずに作られているらしい。大きなトラックやバスが、ビンピンに走る割には、自転車が歩道を通れない。
(段差があって、歩道から歩道へゆくのに自転車を持ち上げねばならない。)

まったく坂が多くて、車が多くて、自転車に向いていない道路で、おまけに猛暑とあっては、サイクリストにとっては、長崎なんてクソくらえだ。まったく、ゲンメツだ。

その晩は、長崎大学の寮に泊った。ゲンメツはしても、明日ゆっくりとナガサキを見て回れば、考えも変わるだろうと思って眠った。

さて、翌日、市内見物としゃれ込んで、非常にきたない寮に、すべて荷物を預け、さっそうと出かけた。パンフレツトをガイドに、先づ平和公園へ行った。

今度の合宿が広島解散なので、広島の平和公園にも解散後寄った。高校の修学旅行以来4年ぶりであった。ここで感じた事は、4年前も同じで、アメリカが憎いということであった。同じ白人の国であったら、落さなかったであろうと言われている原子爆弾が、日本にだけ落された。そのアメリカの白人至上主義みたいなものが、吐き気がする程きらいなのである。

ところが、このナガサキでは、そうは感じられなかった。遠い昔、西洋文明が、この地に現れ、いろいろな物を伝えた。なかでも、西洋の宗教であるキリスト教は、この地で根強く残り、
鎖国の江戸時代の弾圧にもめげず、かくれキリシタンとして、なんとか存在し続けた。そんな西洋の文明を宝のように大事に何百年も温めてきたナガサキに、西洋文明のパケモノの結晶みたいな、原爆が、昭和20年8月9日に落ち何もかも破壊した。

浦上天主堂でも、このように思った時、私は、アメリカが悪いんじゃないと思った。戦争が悪いんだと思った。戦争は、民族・宗教・学問、何でも関係なく、めちゃめちゃにする。

「となりのじいさんは人がいいから長生きする。」とか、「あの先生は教育熱心で尊敬に値する人物だ。」とかいうものは、何も通用しない。戦争の時代を経験した人は、そんな事は当然だと
言うかも知れないが、戦争を知らぬそういう人までもが、一瞬にして死んでしまうことに慣れてはおらず、改めて気付く時に、戦慄するほど驚いてしまうのである。

人と人とが僧しみあうことは、それだけで悲しい事である。我々はこのような過ちを二度と繰り返してはいけないと痛感した。その後、グラバー邸とか、オランダ坂など、名の知れた所をまわったが、
ちっとも感動せず、こんなところは、連れ(彼女でもいいし、男の友人の何人かとでもいいが)とジョーダンをまじえながら、見て回るもんだと思い知らされた。渋々と、あまり成果を得られずに、大学の寮に帰ると、市内の道の悪さのためか、後輪のチュープにニケ所も穴があいており、ナガサキに対する憤怒、ここに極まれりの感があった。

その夜、気を取りなおして、 1000万ドルの夜景といわれる、ナガサキの夜景を見るため、イナサ山に向かった。自転車でも登れるらしいが、あいにく、そんな精神状態ではなかったので、ふもとまで愛車で行き、頂上までは、往復500円のロープウェイを使った。

頂上にある、展望台兼茶店の建物に入ると、意外に中はすいていて、1番見晴らしのいいテープルに座り、アイスコーヒーをたのむ。タバコがきれたので、カウンターに行って、タバコを求めるが、品切れで無いと言う。全くナガサキは、ろくな事が無く、腹を立てながら、テープルに戻り、まずいアイスコーヒーをすすりながら、 1000万ドルの夜景をじっくり見る。

この稲佐山に500円かけて夜景を見に来た訳だから、1ドル200円として、1,999,999,500円もの価値がこの夜景にはある訳だが、ふざけちゃいけない。
「1000円やるから見るな。」と言われたほうがよっぱどうれしいや。結局、何の成果も無く、寮に戻り、憤満やる方なく床につき、次の日、荷物をくくりつけ、ナガサキを発ったのである。

おもうに私は、あまりにも見る前から、ナガサキに期待をかけ過ぎていたので、失望してしまったのだろう。「名物にうまい物無し。」である。従って私にとって、ナガサキは、「長崎」と言うよりも「名が先」であった訳である。

2年の夏、自己の内面のお粗末さ、至らなさを感じ、入部以来考えていた、長期にわたるサイクリングを思い切ってやってみれば、いくらかましな男になれるのではないかと思い、ただれた生活からの脱出を図ったのである。

埼玉から、中部山岳地帯を横切り、日本海は敦賀に出て、鳥取からクラブの山陰合宿をし、関門トンネルをくぐり、九州の地を8の字に1周し、四国、関西、北陸を経て信州に入り、埼玉は大宮に戻るという、長い道のりを、2ヶ月の夏休みをあます事なく利用し、敢行したのであった。我ながらよくやったと思う。おかげで、多くの思い出ができた。そして私は、こういう形のサイクリングを愛して止まない1人となった。

クラブ員諸氏、大いに走ろう。ステレオを買う金があったら、車を買う金があったら、そんなものは後回しにして、走りに出よう。青春は1度しかないのだから。

但し、ことわっておくが、たった2ヶ月ぐらい走ったからといって、自己の内面が変わるわけではない。人間というものは、むづかしくできているらしい。日本全国、いや、世界のどこへ行っても、私は私、あなたはあなたなのではないだろうか?

房総にも山はある – 遠藤

房総にも山はある
早慶ランレポート

教育学部3年 遠藤

10月14日、朝。この秋1番の冷え込みであった。市川の小生宅に泊まり込んだ橋本、後藤、そして松下も、なかなか起き出す事ができない。こんな時、頭に浮かぶのは、翌週の2年生企画ランの大弛峠の事である。
「平地でさえ、こんなに寒いのに、山はどんなに寒いだろう。」

7時という出発予定時刻は迫るが、気分は萎えて輪行へと傾く。が、ただ1人、輸行袋を持たない後藤があせり、起き出し、走る事となった。

集合地、安房勝山までは90キロ。昨年のオープンランの前に走ったコースなので、道はだいたい覚えている。

1時間遅れの8時に橋本、後藤、小生は出発。(松下は何故か最初からリタイヤ)1時の集合時刻までには、少々急がなければならない。しかし、国道14号線を走る小生の気持ちは軽かった。

クラブランとして初めての房総である。日頃、山がないと、まるで無視されていた房総である。千葉県民として、これ程嬉しい事はない。それに、丹沢、奥多摩、奥武蔵へ行く度に輪行しなければならなかったのが、今度は、目的地まで走らて行けるのだから。

木更津を過ぎると、先行していた、田中氏、小林氏や、 1年生に追いつき、小さなアップダウンを越え、安房勝山に向かう。

1時少し前に到着。慶応は皆、到着している。ランドナーあり、ロードあり、そしてトラツクレーサーまである。早稲田はと言うと、まだ半分も着いていない。早稲田タイムは守られている。
1時4分に急行が着いたが、誰も乗っていない。どうしたのかと思っていると、1時23分の各停で、続々とやって来た。このあたりは、セコイというか、やはり早稲田らしいと言うのか。

約1時間遅れて出発。 一応班をつくり、先頭と班長はあるが、走り方は自由。WCCにはなじみが薄いが、たまにはこういう走りもいいと思う。

市街を抜けると、すぐ地道の登り。かの有名な嶺岡林道である。
300m程登って小休止。低いとは言え、周囲には山が連なっている。ここからは、尾根を走る。アップダウンが続いた。

登り方は、全く対照的である。早稲田は、いつものように、重いギヤで、ギシギシと先を争い登るが、慶応の方は、カラカラとマイベースで後から登って来る者が多い。
どちらの走り方が正しいと言うものではないが、慶応にしてみれば、この早稲田の走り方が異様に映る事があるらしい。しかし、小生は、この走りが好きである。

比較的整った地道のアップダウンが、標高200から300mの尾根の上に続いている。標高の割にはキツイコースである。

そうこうしているうち、出発の遅れもあり、陽が傾いて来た。しかし距離にしてもまだ半分しか走っていないし、これからまた300m前後の嶺岡山のアップダウンが待っている。
早く宿に着いて風呂へ入りたいなあなどと考えながら走っていると、前の班が止まっている。どうやら道を間違えたらしい。

ここで日和る事ばかり考えていた小生は内心、「やった!」と喜びの声をあげた。「これだけ遅くなれば鴨川から宿へ直行だろう。」

案の定、 コースは変更され、薄暗い中、川沿いの舗装道を鴨川へ向かう。平地となるとグッとペースが上がる。誰もが早く宿に着いて熱い風呂に入りと考えているらしい。

しかしそこで惨めなのは先程の林道で体力の全てを使い果たした、早稲田のT氏、K氏らで、完全にぶっちぎられながら宿に着いた時はもうあたりは真っ暗闇でありました。

ここで早稲田の輪行組、数名が加わり、風呂、夕食後、あのコンパが始まった。あのコンパと言っても見ていない人にはどんなコンパか、わからないし説明しても無駄でしょう。

ただ圧巻だったのは、やはりあの薄葉君の「学生注目!」に始まる、腕相模、酒飲み大会。特に主将戦に至って、コンパでもオレンジジュースしか飲まないという徹底して酒の飲めない、御存知、村上氏が
薄葉君にどんぶりになみなみと注がれた酒を必死に飲んでいる姿が何とも印象的でした。

さて日が変わって10月15日。何とこの日は小生と松村くんの誕生日。記念すべきこの朝は新しい爽快な気持で迎えようと思っていたのだがどうも風邪がなおらず、鼻をつまらせながら走るはめになった。

この日の最初の登りは清澄山。例によって早稲田の面々は坂になるととばし出す。
小生もつい、踏んばるが、房総の山は1度に400m以上登る事は無い。先が見えている山だとやはり気楽に走れるものです。そして清澄山から東大の研究林の中のアップダウンを走る。
途中バンクしたら猿がギャーギャー言いながら見物しに来たっけ。

山を下って昼食は三島湖(と言っても小さなダム)で取る。
食い終わるとじっとしていないのがWCC。さっそく手頃な捧を取って来て野球を始めた。
早慶戦を2週間後に控えている事もあり、慶応側もゲームに引っばり込んでしまう。
ここらへんになると慶応主催とは言え、すっかり早稲田ペース。だが1回終わった所で雨がパラついてきたので1対0で早稲田の勝ち。

ここからは小雨の中をもう1つのピーク、鹿野山へ向かう。
(千葉の山は標高が低く、なだらかな為、頂上近くまで道が続いているところが多いです。)

鹿野山と言えば例の虎騒動で有名になったあの山です。
例によって早稲田ギンギン、慶応マイベースのフリーランでしばらく登るともう頂上に着いてしまう。本降りとなった雨の中、皆、木陰などで休んでいたが、人数を数えてみるとどうしても1人足りない。行方不明と言う事で、1時は、後の虎狩りのように捜さなければと考えられたようだったが結局、彼、H本君は勢い余ってマザー牧場まで走ってしまったとの事で解決。
ところが虎と言えば当時、御存命だったその雄姿をあの時見ておけばと、今になって残念に思っている次第です。

さて雨足は一向に衰えず、その中をマザー牧場へ向かったが高い入場料の為、入口で記念写真を撮って即、山をおりる事になる。何とも面白くない雨のダウンヒルを下り、解散地佐貫町駅に全員揃った所で土砂降りの中、来年の両クラプの再会を約して早慶ランは終わり、それぞれ輪行で、あるいはフェリーで帰宅の途についたのであった。

早同交歓会日記 – 河越

早同交歓会日記
商学部2年 河越

思い起こせば10月は、 ハードスケジュールで、毎週ランであったが、それなりに非常に充実した月だった。

まず1日は、1年企画下見ラン、8日は、1年企画「犬越路」本番ラン。14、15日と、たかが房総半島と楽勝気分で参加したが、けっこうきついフェイントコースの連続だった早慶ラン、22日は2年生企画「大弛峠」を、「やむなく」お休みして、信州・木賊峠ヘとのんびりお昼寝ラン、
(大弛は今春佐藤氏と1緒に、新1年を連れていこう?などと計画しておるんですが… ハハハ…私達の方が弱かったりして…)

そして、秋のメイン・イベントである、恒例早同交歓ランが30日 – 11月3日まで、木の葉舞い散り、秋去りゆく信州において行なわれたのであります。

第1章…不吉な前兆と同類たち

第1章…不吉な前兆と同類たち

その時私はほっと胸をなでおろしていた。時は、10月30日、松本4時集合の当日である。
所は緑の電車は山手線、内回り新宿方面行電車の中、隣りには恐怖の前ホークはずしのみ輪行派の水野氏と彼の黄色い自称輪行袋にくるまれた水野チックな自転車がまだそこにはあった。

胸をなでおろしていたのは、以前東京駅へ行くのに池袋で彼とはぐれてしまった苦い過去の出来事を思い出したためである。
(彼はその時、何と赤羽線に乗ってしまったことが後日明らかになった。はぐれて当然である!)

かくして電車は新宿に着き、2番線へと急いだ。そして必死で階段をかけ登り、新宿10時30分発、松本行「アルプス3号」にやっとの思いですべり込んだのだが、車掌さんの「セーフ」の判定は残念ながら見れなかった。

案の定電車はほぼ満員だったが、クラプの面々をさがして何とか座ることができた。
クラブランで急行なんかに乗るのは実に久し振りで、最初多少ビビったりしたが、なめらかな走り、その速さ、乗り心地のよさに改めて感動して、しばらくの間放心状態であった…。

その時にも、確かに水野氏の黄色い輪行袋は、まだ電車の中にしっかりと存在していた。

前日までのぐずついた天気とうってかわって、空はぬけるような秋晴れ、その秋にしては強すぎるくらいの日ざしの中を電車は次第に都会から遠ざかって行ったが、折しもその頃、神官の森では、伝統のしかも優勝をかけた早慶戦第2戦が大観集の中、華々しく展開していたのである。

電車の中では、松本まで、「白人」堀尾氏と、「精力の塊」松森氏が1台のラジオをめぐり、
NHKの電波を相手どって、ささやかな早慶戦を演していた。

さていよいよ松本に着くという時、輪行袋を取りに前の車両に行こうとした水野氏、そこは運転席で、もう前の車両がないのに気付き、 一瞬呆然とし「あらっ?」とつぶやいた後、いつものニヤニヤ笑いに戻り、気まずさを隠そうとしていたそうである。

(岸野氏談)これこそ、永遠にWCC史にその名を残すであろう「魔のアルプス3号、あれま!事件」である。

つまり、アルプス3号は辰野で松本行と飯田行に分かれるのであるが、それを知らずに輸行袋は飯田行に、そして彼は松本行の車両に乗っていたというわけで、私はあやうく一両差で難を免れたのであった。

それにしても、こんな窮地に陥っても.少しも慌てたそぶりを見せず、いつものニヤニャ笑いを浮かべている彼は、果して変人なのか?それとも大物なのか…?今だに謎である。

さてさて原稿用紙も4枚め終わりとなってようやく松本に着きました。

松本駅に降り立つと、すでに同志社ヒーロー達がいて、2,3年生たちは互いに
「ようク○○」「おっ××!来たな」
などと親しげに話を始めたのに、我々1年はシラーっとして黙々と愛車を組んでいた。

先輩たちの姿を見ながら、『ああ俺も早くあんな風になりたいなあ。』と思ったのは、恐らく私だけではなかっただろうと思う。愛車を組みながら、前に聞いていたとおり同志社ヒーロー達とは、なんか気が合いそうだなあ―とうっすら思い始めていた。

4時すぎ、全体写真をとった後、 一路浅間温泉YH へと向かった。といっても、この日は数キロしかなく、あっという間にYHに着き、どうにか部屋に落ちついた。

しかしまだ同室の友とはなかなか話ができず、ぎこちなかったのだが、夕食後のミーティングがあってからは次第に打ちとけてきた感じがあった。

この日、飯田へ1人さびしく自転車を取り返しに戻った水野氏は、遂に帰ってこなかったし、私も朝、池袋の吉野屋で、300 円払って2500円のグロープを忘れてきたし、この先まだ何か起こりそうだという不吉な前兆が、ふと頭の中をよぎったのです。

第2章…ああ扉峠、死の野球ゲーム

第2章…ああ扉峠、死の野球ゲーム

31日の朝は深い霧に包まれていた。
起床6時、合宿よりはまだいいが、やはり眠い。外は非常に寒く、雪深い新潟か、はたまた厳寒の北海道か、という感じであったが、そのおかげでいっぺんにお目目パツチリ、勇気100倍、筋肉隆々、やる気満々…とまではいかなかったが、またあの懐かしい扉峠を登るのだと思うと、不思議に胸がわくわくし始め、なんともいえない気分に襲われた。

あ―思い起こせば4か月余前、プレ合宿で上田から和田を抜けてアタックした、あの峠である。「きつかった」以外の何ものでもなかったっけ…。

とらえにくい地道、延々と続く急勾配、おまけにリアキャリアには、ずっしり重い初めてのテント…峠に着いたときは足に全く力がはいらず、休憩後もしっかり歩けないほど疲れていた、そんな苦しかった思い出だけの峠だった。

そんな因縁の峠への2度目のアタックの日である。しかし、依然霧は深く、寒さが自転車のスピードと相まって容赦なく体中を貫いていく。軍手など役に立つものか!

寒さで顔がひきつり鼻水をたらしながら、みんな「まことちやん」の形相となってタラタラ登っていった。

9時頃休憩したあたりから、青空と秋の日ざしが顔をのぞかせ、渋い紅葉の木々の間からの木もれ日が我々に、そして愛車に注ぎ込む。そんな、サイクリストが自然に溶け込み、一体となった姿はとても美しい…。

と感概にふけっているうちに、フリーランスタート地点に着いた。と思うまもなく10時「黄金の脚」神保氏スタート。

私も早く峠に着いてゆっくり休もうと、ろくに休憩もせず3、4番目にスタート…最初は舗装。除々に勾配を増し、三城牧場までは非常にきつかったし、そこから地道になって少しは緩くなっても走りにくい道だった。

どうにかバンクもせずに峠に着いたのは、確か5番目くらいであったろうか…。

以前に較べるとずっと楽であったが、多分にコースのせいでもあろう。機会があったら、またプレ合宿の時のコースを走りたいなと思ったけど、それは峠に着いた後だからであって、実際に走っている時には絶対に思わないのである。ほんとに峠というものは、着いてしまえば、それまでの苦しみを何とでも言えるんだから…。

まあ言いかえると、それが峠にやっとたどり着いた時の歓びなんだろう。

さてさてほぼ全員峠に到着したころ、私が恐れていた不吉な前兆が現実となってしまったのです。そもそもは、私と、『長老』伊藤氏が足バンドを丸めたヤツとタオルで野球ごっこを始めたのが運のツキだったんですなあ。

実際には、私が彼の目をくらまそうと投げた『フラッシュボール』は大きく外角にスライドし、それを「俺は若いんだ!」と、さも言わんばかりに右手だけを目いっぱいに伸ばして振った彼の体重は右足にかかった…
その時の彼の右足はちょうどアスファルトの切れ目に乗った…
その瞬間、彼の体は空中で回転し「ガツッ」という音とともに落ちた。
よろけた、 コケたなんてもんじゃない…まさに一瞬にしてひっくり返ったのである。

彼には悪いが、よくあんな転び方ができるもんだと感心する程見事であった。

その時は、ねんざだと思っていたのが骨折だったとは…。誰かがつぶやいた。「やっばり骨も、もろくなってんだなあ…」

早同不参加の1年健脚派中村氏・松倉氏に加えての伊藤氏のリタイヤは、2日後に控えたタイム・トライアルを考えると大打撃であり、彼の事故に一抹の責任を感じた私は残りYHまでの行程をアウターしばりで走った。(どんな関係があるかは知らんが…。)

後からは、伺志社1回生の五十嵐氏と『白人』堀尾氏の「ヒザこわすど―!!」のコールがあったが、何をかまうものか!

個人的には、今回で3度めである霧ケ峰ビーナスラインと360度大パノラマの雄大で美しい景色を堪能しながら、私は黙々とペタルを踏んだ。

それにしても『どべ』の班はいい!合宿での『のろいのCL』コールはないし、おまけに伴走車が抜いていく度に写真をバチリである。おかげで今回は、いつになく多く写真に納まっているという次第なのだ。

さて、途中休憩したり写真をとったりしてこの日は自樺湖から少し先の女神湖畔にある、立科白樺高原YHまで行ったが今回の早同ではいちばんハードなコースだという話であった割には早く着けた。

真白な建物へ一歩足を踏み入れると、 一瞬『おみやげ屋さん』。もう1歩。すると正面になにやら大きなペインティングがあり、一見『美術館』風。さらにホールには、卓球台などがあって、昔懐かしい『運動場』風…。その上、画期的なTVゲームがあったりして…。

借り切りのせいもあってか、みんな1つのサイクリングクラブと同化して、TVゲーム、卓球台を囲んでワイワイやっていたが、そのうち知らず知らず時が経ち、パッタリ寝た。

第3章…ああ大河原峠、呪いのCL

第3章…ああ大河原峠、呪いのCL

11月1日の高原の朝は雲1つなく超快晴。前日ヒザをこわした橋本氏に代わり、急違、私がCLをやることになっていたため、昨晩から緊張のあまり非常によく眠れたし、天気もいいし、気分最高!マイベースでゆっくり行こうとYHを後にしたのであります。

峠までは、班別フリーで、途中視界が開けた所で写真などを撮ったり
(ここからの眺めは抜群!ビーナスラインから、自樺湖周辺もいいけど、それに輸をかけてすばらしい。あ―あ生きててよかった…あ―あサイクリングやっててよかった…あ―あ早同に参加してよかった…。)橋本氏のヒザ痛もあって、タラタラと走っていると、またもや後から「ヒザこわすど―」のコール!

『うるせえ、雪おろしで鍛えたこの足腰、そう簡単にヒザをこわしてたまるか!』
と思いつつ、実際ちょっと苦しくなってきたので、時々インナーに落として走っておりますと、道は下りになったのです。例の『ビックリ地道』かな?と思いつつ少しセープして下りながら前方をよく見ると、やはりそう。私は後を振り返りざま「地道です―!」と叫んで、前に向き直った直後、後の方からにぶい音が…。

一瞬いやな予感…またあの不吉な前兆が、もしや…。
地道に入る手前で止まり後を見ると、あ―悲惨、ヒザ痛の橋本氏が、そして白いダイヤモンドがアスファルトの上を転がっていた。ああやっばり…。

私はがっくりして、どうしようもない切なさに襲われた。私の目の前で、伊藤氏に続いて橋本氏も事故ってしまったのであるから…。

と前を見てびっくリ!地道の入口には大きな、しかも、深い水たまりが目いっぱい口を開けて笑いさえ浮かべていたのである。

もしあのまま突っこんでいたら事故っていたのは私だったかもしれない。その証拠に後から来た班は、私達の必死のアピールも聞こえなかったらしく、磯谷氏はすばらしいジャンプをパッチリと決めたが、同志社川浦氏は転倒、高価なフレームをダメにしてしまった。

さて、急いで橋本氏の所へ駆けつけると、外傷はすり傷少々程度で、大丈夫かに見えたが、頭と肩を強打したらしく、 一時記憶喪失状態に陥っていた。

何度も「一体俺どうしたの?」とか、「俺コケたの?」と聞くので、こりゃヤバイと思ったら、堀尾氏曰く、
「俺ラグビーで経験あるけど、少したつとだんだんよくなるよ。」
というので、まあひと安心、しかし左肩が痛くて持ち上がらないほどなので、救急車にSOS!

それにしても、今度も骨折だとは思わなかった…。
状況はこうである。私が地道だと叫んだのをサブCLの橋本氏が受け、同様に後に知らせようと振り向いた時に、道路上にあった石に接触して転倒したというわけであるが、実は私にはその石の存在が全く目に入らなかったのである。

私が叫んだのを受けたのと、石があったことのタイミングが悪かったと言えば、そうなのだが、何故私が石に気づかなかったのだろうか…?

そんなこんなで峠へ向かったが、途中日陰の所はうっすら雪があったりして、さすが標高2,000mだなあ…と思っているうちに峠の頂上が見えてきた。

予定を大幅に遅れたが、 コース変更なしで一路八千穂へと向かった。この道が曲者で、ジャリあり、登りあり、雪あり、大ぬかるみあり、石ゴロゴロありで、悪戦苦間の末、やっと舗装に出た。
この下りは実に快適で、あっという間に八千穂に着いたが、まだ行程の半分である。

ここから清里まで、国道で非常に恐ろしい上に遂に野辺山の前あたりからナイトランになってしまった。車は怖いが、夜の闇の中を走るのは、トンネルの中と同じように、なんか自転車が地についていないようで、しかもスピード感がよくわからないし、体がふわっとしていて、とても快感クしかし、寒くて、ゆっくり快感に浸る余裕はなかった…残念!

清里YHは「きちがいYH 」と評判だそうなので期待と興奮で満ち満ちていたのだが、意外とフェイントだったりして…しかし、 一風変わっていたことは確かである。

それにしてもメシの時間はいつもすごい!
サイクリストという暴飲暴食家の集団のようなもので、おかわりの時など、その様は、まるで1つの獲物に群がる蟻、○○○にたかるハエのごときである。何故みんなあせって先を急ぐのか? メシをかっ込むのは体によくないのだよ。もっとゆっくりよく噛んで食べなさい。

私は低燃費人間でして、あせらず悠然とかまえて、おもむろにおかわりをするという具合なのに、だんだんみんなにつられて、おかずをドッと残してメシを早く食うパターンになったりして…
みんな低熱費人間になりましょう!

この夜は全体・学年別ミーティングの後、久々にアンカを抱きながら、雪深い冬の新潟を想いつつ、眠りについた。

第4章…ああ早同賞ノ痛恨のTT

第4章…ああ早同賞ノ痛恨のTT

11月2日の朝も寒かった。あたりまえ…もう冬なんだもんなあ―と思いつつトレーニングを終える。空は今日も快晴、まったくツイている。

私の班は、橋本氏がリタイアしたため、2年生だけの班になってしまったので、この日は堀尾氏がCL。彼は昨晩からさかんに心配していて『白人』から『青人』になってしまうのではないか?と期待をもたせたが、スタートの声に少々緊張が感じられただけであった。

国鉄最高地点で記念写真をとり信濃川上へとむかう。ここからは班別フリーとなるが、その前にTTに備えてリポDスーパーを買ったが、遅効性だという話で、すぐに飲んでしまった。
後になって考えると、TTの時に、そんな体中が燃えて力がみなぎってくるなどという感じではなかったし、たいした疲労回復もしていなかったよなあ―やっばり、「赤マムシ」がいいのだろうか…?

信州峠の衝撃の直登の途中、10日ほど前に生々しかった猫さんが、まだ横たゎっていらっしゃって、長い日なたぼっこだなあ―と思いつつも足の力が抜けていった。

そうだ!これはきっと猫の怨念にちがいない!たたりじゃ!と叫びながら、みんな一丸となって塩川までぶっ飛んでいった。ジャーン!遂に来た塩川に。これからいや―なTTが始まろうとしております。

円陣を組んでにぎりめしをむさぼっている所では、「○○は速いからな―」とか、
「××がんばれよ。」とか、偽善的な言葉を吐くと、「いやあ、もうダメですよ。」とかいう、
これまた偽善的な応答が返るといったぐあいに、みんなさも自分は全然ダメだというふうに、心とはうらはらな会話を交す、大偽善大会が開かれていた。

足に覚えのある人は、心の中では、
「よしやるぞ!」「絶対〇〇には負けられん」
といった競争心、敵愾心がメラメラと燃え、その牙にヤスリをかけていたに違いないのである。

そんなこんなで、はやスタートの時間。これまた、いやらしいスタート。みんな、ビューンと飛んでく鉄人28号である。

そこで私もピューン…といきたかったが、足がいうことをきかん。塩川で1時間以上も休んでいたために足がすっかり萎えてしまったんだと思いながらも、もはや後のまつり。

なにせ3段を踏むのもきついくらいだったが、そこは、雪の新潟で鍛えた不屈の精神!勝負は舗装だと必死でペダルを踏んだ。

何人かを抜き、部落に入るころから、「ヤパイ、ちょっと飛ばし過ぎたか?」と後悔し始めた。がその時、後からやって来るのは神保氏!がぜん張り切り、増富鉱泉のあたりまでなんとかくっついて行ったが、温泉街での「ガンパツテー」の声援がないのにガックリしたのか、地道に入るとすぐにぶっちぎられてしまった。

さすが「サイスポのエース」「サイクリストのアイドル」神保氏の黄金の脚はすごい。
根本的に体の出来が違うのだと思いつつ、このままマイペースだ!と自分に言いきかせた。

しかし、前に人がいると抜きたくなるのが人情である。が、「そこはまあ!」となだめすかしながら行くと分岐点。芥川氏のカメラに、 ニッと笑い納まると、ここからがきつくなる。

脚のほうでは「もうダメ」と言っているが、そこは「Never Give Up!」男はタフでなければ生きて行けないのだ。

と突然ガクン、やった。チェーンがフリーとスポークの間に落ちた。
しまった…あ―もうだめだ…お先まっくら!必死でチェーンを引っぱるが、こっちがはずれたと思いきや、反対側が食い込む。その間にも1人・2人と抜かれ、ますますあせる。

4 ・5人抜かれた頃、やっと現役復帰、いざ再スタート。くそう!抜かれた分を抜き返すぞ―の心意気で踏んばる。1人・2人…早稲田、同志社なかなかいい勝負である。

長―い急な地道を乗り切ると、そこは木賊平であった。よしここだ!と目いっぱいスピードを上げた。
また1人、2人、3人…。
木賊平が終わるとまた少しきつくなる。もう少しだ…となんとあの「本命」岸野氏が押しているではないか?驚いて「どうしたんですか。」と聞くと無言で悲痛な表情。

しかし今は、自分のことで精いっぱい。もう少しだと何度も自分に言いきかせ、苦しさに耐える。

すると、右手後方に伸びる道がある。分岐点だ。ここをそのまま真っすぐ。ゴールはもう目前である。いざラストスパート…

胸のカラータイマーの点滅が早くなる。ゴールまでの実に長かったこと…最後の力をふり絞ってゴールイン…パッタリ…完全燃焼してTTは終わった。7番目の班でスタートして、16番目のゴールインであった。

満足感に浸りながら、休んでいて、ふと、「う―ん、早同賞の15位は無理かな―?」と思ったのだが…果して…。

かくして、全員無事ゴールインし、ここに第15回早同TTはその長く苦しかった幕を閉じたのである。

10日ほど前、下見に来たときは空は青空、暖かい日ざしのもとで1時間以上もお昼寝をしたこの峠は、この日は空一面の雲がひろがり、いまにも降り出しそうであった。その上、汗が冷えたせいもあって、すごく寒く、セーターを着こんで下った。

尻を浮かして、ペタルに乗せた足で体重を支えると、足がガクガクし始める。ブレーキングする手が痛い。

途中の店で休憩すると、熱いお茶を出してくれた。冷えきった体には最高だ。

うん、やっばり日本人だ…渋いお茶に限る。お茶をすすりながら急速にせまる暗闇の中でばんやりとあたりを見つめながら、
「ああ、終わったんだなあ―。」と思い始めていた。

渋いお茶には、やっばり最中が最高なんだが、そうも言っていられない。もうあたりは暗いのである。そこで堀尾氏とタッチして、ナイトランのCLとなっていざ「明治」へ!

ジャンジヤジャーン、眼前に広がる「明治」の特大ネオンサイン。
こ・こ・こんな所に泊るのか…予想に大きく反してすごい所…
貧乏サイクリングクラブにしては画期的である。みんな汚れに汚れたフロントパッグをぶら下げ、上品な客を装い、気どって玄関を入った。

大浴場をみんなで十分汚したあと、待ち受けるは大コンパ大会。
きれいなきれいな大広間で、給仕のおばさんたちは愛想よく、おかわりをよそってくれた…可愛そうに… コンパの修羅場も知らないで…。
メシを早々に食い終わり、みんなおかずをちやんと残しておいた上で、いよいよ大酒飲み大会が始まった。

ほろ酔い気分のあたりでTTの結果報告。
1位は予想どおり神保氏、2位はなんと松森氏、さすが3年生の中にあって1人、気を吐く氏は、腰が痛いといいながらも、並いる強豪を払いのけ堂々の2位である… 「やリィー!」

そして3位には、同志社1回生川口氏、本命視された浜中氏をけ落とし、1回生でありながら同志社1番乗りである。

4位には、風前の灯である我が1年生会のホープ山本氏が入りみんなの期待を10分担ってがんばっつてくれた。

そしてブービー賞は「ハッハッハック」と豪快な笑いとともに吉川氏の上に輝いた。

早同賞を心秘かに期待していた私は14位であった。う―!な・なんと15位とはわずか、1差、もう少しへばっていればよかったのだ…。

がしかし、15位よりも上位なのだ。それを考えればうれしいことである。実際、貧脚・軟弱派の私にしては、でき過ぎ、過ぎ、過ぎくらいなのだから…。

それにしてもへたに入賞するとたいへんである。あちらこちらからドッと祝杯がふり注ぐ…
それにもまして、酒をついで回る我々も返杯返杯と、いいくるめられて、ドッと飲まされる。「ついで回る」というより「回ってつがれる」と言うのが正解で、まあそこが先輩方の狙いであって、みんなニヤニヤしながら眺めているのである。すっかり酔が回った頃、例の調子で薄葉氏登場「学生注目!」が始まる。

そして、 ハイライトの学年別演芸大会が、幕を開けた。同志社1回生は前もって出し物を決めてあった割にはフェイントであったが、我々1年はその場になって酔いにまかせて、メチャクチャにやったにしては上出来であった…と思う。

早稲田2年会は、ワンパターンオンパレードでなかなかの芸人がそろっている。1年生会と、今度トレードしたいほどであるが、いかがなものでしょう。

同志社3回生の「フィーリングカツプル」あたりには、 コンパは最高潮に達し、まさに修羅場と化していた。そのうちに延々と両校の歌のヒットパレードが続き、第1次コンパは終わろうとしていた。

そして、ここらへんから1年生はみんなあせってくるのだ。恐怖の、そして先輩方にとっては、歓喜の大パンツ脱がし大会が、そろそろおっ始められるのではないかと、コンパがお開きになると同時に日にもとまらぬ速さで、ドッと退散するセコイ「某たち」もいたが、私と久光氏は暫くステージに腰かけボヶッと状況を眺めていた後、「ほな、行こうか。」という感じで、クラブ1位・2位独占を誇る、形のよい尻を仲よく振り振り、ゆっくりと部屋を横切ったのだが、何事も起こらない… ハテ?

ほっと安心してド下のソファーでグターっとした後、外へ出た。夜の冷たい空気は実に気持ちよく、冷えたジュースを流しこみながら、「これでみんな終わったんだなあ―。」という安堵感や何ともいえぬ喜びがこみ上げてきた。

旅館に戻り、神保氏のシャドウボクシングを観戦していると、酒を買いに行かされ、170円のワンカツプを延々と10円玉で17本買って大広間に行くと、やってるやってる、第2次コンパ大・大会。

しかし、酒への拒絶反応から、その場を離れ静かな部屋へ戻った。お茶を飲んで布団に横になると、いつの間にか遠い夢の世界へ…と、なんだか明るいし、さわがしい。どうやら私の部屋でも酒飲み会が始まったらしいが、そのあとは覚えていない。

第5章…解散/いざ早稲田の社ヘ

第5章…解散/いざ早稲田の社ヘ

さて、待ちに待った楽しい輸行の日である。予定変更で旅館の前で解散になったあと、甲府駅へ向かう。今日も天気がいい!なんだか、また走りたい気分であるが、駅に着くと、やはり輪行しかない! 「みんなそろって楽しい輸行」である。

同志社1回生で東京へ来るのは、川口氏、沢氏、五十嵐氏の3人だけで、茶店でイモったあと、各停でいざ新宿へ…。

川口氏が私の下宿へ来ることになり、 1組しかない布団で寝ながら聞いた話によると、何と同志社はメシを作るのに、まきなんぞ使わないそうである。ガスを使うそうで、非常に画期的である。我々のクラブも思い切ってそうしたら…無理でしょうなあ―。

翌日は、早稲田の社に集合し、早稲田祭を見て回ったあと、飲みに行き、その次の日は神官の森で早同戦である。同志社応援席に入ったのだが、本命早稲田が全然ダメで、点をとられるごとに、久光氏、古閑氏の表情は硬くなり、無言…。

遂に、早稲田はみじめな敗退、早同交歓会に花を添えたのでありました。

そしてこの夜、同志社3ヒーロー達は、別れ涙をふきつつ、 ハンカチを振りながら、車中の人となった。

わずか、1週間の早同交歓会を通してのつきあいで、また新しい仲間を得た…サイクリストというかけがえのない友である。
様々な喜びと想い出を残して、第15回早同交歓会は終わったが、私にとって非常に有意義な日々であった。そしてみんなにもそうであったに違いない。

来年は京都で再会し肩を抱き合い、そして十分にもてなしを受けてこようと、もう今から楽しみにしている。早同バンザイ!

編集後記 – 井上

編集後記
桜の花びらと、爽やかな春の陽差しの中、思い切りとばしたあの峠の下り。

夏の炎天下、重いテントを積んで、ベグルをきしませたあの峠。
紅葉のカーペットを踏みしめながら、声をかけ合いながら走った林道の峠。

粉雪が舞い、スリップに注意しながら、しっかリハンドルを握って通った峠。

ページを一枚めくると、そこには、私たちのたどったサイクリングの、青春の一コマが確かに存在している。そんな「峠」を目標にして、編集に取り組んできました。

予算の関係で、 一時「峠」の発行が危ぶまれたのですが、会費の値上げ、OBの御援助等により従来通りの「峠」が、遅ればせながら発行できることとなりました。

発行の遅れをお詫びするとともに、この「峠」第14号に多額の援助をして下さった、46年度卒業の吉田氏(西武蔵学院)、保泉氏、並びに、神金自転車商会、原サイクル、オギワラ、沢田屋、つるや、永田スポーツ、ABABの各社の方に深く感謝いたします。

「峠」第14号編集長
井上

Editor’s Note

1978年の出来事。昭和53年。

3月。東洋工業が、サバンナRX-7を発売。
4月。キャンディーズが後楽園球場でのコンサートをもって解散。
東池袋に60階建の超高層ビル「サンシャイン60」が開館。
5月。成田市に新東京国際空港(現・成田国際空港)開港。
6月。 日本航空115便しりもち事故。この機体(JA8119)は後の1985年8月12日に発生する日本航空123便墜落事故と同一機である。
サザンオールスターズが『勝手にシンドバッド』でメジャーデビュー。
7月。沖縄交通ルールの変更を実施。米軍統治時代の自動車右側通行から、本土と同じ自動車左側通行に変更。
8月。「マルちゃん赤いきつねうどん」発売。
9月。東急ハンズ一号店が東京・渋谷区に開店。
音声多重TV放送を開始。
11月。江川卓がドラフト会議前日に巨人と入団契約を結ぶ。

アーケードゲーム
スペースインベーダー、タイトーから発売される。

第20回日本レコード大賞 1978年 UFO ピンク・レディー 都倉俊一

WCC夏合宿は、「山陰 – 鳥取から広島まで」でした。

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こんにちは。WCC OB IT局藤原です。自分は、1978年4月に早稲田大学に入学し、すぐにWCCの仲間となりました。
峠14号に寄稿していただいた文章は、皆自分が個人的に面識のある人たちばかり。それから45年経った今でも仲良くしていただいています。

当時の文章をWEB化するにあたり、できるだけ当時の「雰囲気」を尊重するよう心掛けたつもりです。
文章と挿絵はPDF版より抜粋しました。レイアウト変更の都合で、半角英数字、漢数字表記等を変換していますが、全ての誤字脱字の責任は、編集担当の当方にあります。もし誤りありましたら、ご指摘をお願いします。

文章は作者のヒトトナリを伝えています。今回の作業で、それが意外なほど変わっていないことを再認識させられました。

2024年冬、藤原

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