峠の詩
白い峠に降る雪は
過ぎしあの日のささやきか
峠の上を渡り鳥
流れていくは東か西か
東へ行かば友に伝えよ
夏の日の汗は凍てつかむ
西へ行かば友に伝えよ
秋の日の汗は凍てつかむ
白い峠に降る雪は
過ぎしあの日のささやきか
友よ
春が来たらば共に走らん、共に走らん
「早大100周年に思う」 – 会長 上田
「早大100周年に思う」 会長 体育局助教授 上田
4年後には、早稲田大学は創立100周年を迎えることになる。そこで大学は、100周年記念事業計画委員会を設置して、100周年記念にふさわしい事業計画の作成をおこなっている。
たまたま私もその委員の1人として参加しているのであるが、早稲田大学の過去の実績をふまえ、将来の発展につらなる事業を考えるとなると本当に難かしい。
早稲田大学は、受験生にとっては、入試の最高難度にランクされる大学の1つであるらしい。
しかし入試が難かしいことと、教育・研究機関としてすぐれていることとは直接つながらない。
現在世間的に得ている評価は、早稲田大学100年の歴史の中でみれば、入試制度の歪みから生じている一時的な、私にいわせれば異常な評価でしかない。
これまでのところ、大学を卒業することは立身出世の機会をもたらすことが多かった。
そのことが、子供に高等教育を受けさせようとする要求を育てて来た。現在の入試問題が、単に入試制度の技術的な欠陥だけから生じているのではなく、国民の要求にも関係していることも見落してはならない。
しかし、一般的にみて、大学に進学することが、社会的な階層移動の手段としては、それ程役立たなくなりつつある。現在、子供の教育の役割を荷っている親達の世代までは、そのことを十分に認識していないが、いづれそのことに気付く時が来るにちがいない。
その時は大学に求められるものも変化するとみなければならない。そうなった時に早稲田大学が私立大学であり得る条件とは何かを考えることが、100周年記念事業の基礎となるものと思う。
それから今1つ、7月2一日付東京新聞に、「早大、悲願の医学部門進出へ」という記事があった。
確かに、早稲田大学が医学部を設置しようとして努力したことは何度かあった。
その意味で悲願といえるかも知れない。今やわが国は、1県1医学部時代を迎えようとしている時に、従来の概念に基づく医学部の設置には疑問がある。そもそも早稲田大学が医学部に関心をもったのは、国民の健康を願うからであった。とすれば、医学自体が変ったこの時点では、いたずらに治療医学にこだわることなく、より高度の健康状態を創造するための活動分野を考えるべきではなかろうか。
それには、早大がスポーツ界で果して来た過去の実績を生かした健康学部を指向するのも1つの路ではなかろうか。
主将ノート – 吉川
主将ノート 法学部4年 吉川
1年間、クラブの最高責任者であり、又、「顔」となる主将を務めるに際し、私が部員の前に差し出したものは、それまでの2年間に練りあげてきた自分なりのサークルに対する考え、すなわちクラブ観であった。実際の運営面においては、主将といえども一個人、執行部における一運営委員である。
しかし、その執行部を代表する者として、確固たるクラブ観なり、信念なりを持つこと -持っていることが最も大切な核となり得ると考えたからである。
皆、それぞれの思いを抱きサークルという流れの中に飛びこんでくる。マンモスと称される大学の中で自分の「場」を手にし、流れの中で自己の水を得るため。体制を整えたクラブは、15年という伝統の力も加わり、黙っていても流れてくれる。心地良いのだ。ただ流れに身をまかせは、後は野となれ山となれ – 。
だがサークル活動においては、頭数をそろえ、流れに乗り、流されることだけでは何も生じ得ない。我がクラブには独特の「自由」がある。強制もない。昔からの諸先輩方の言にも見られるように、「選手権を取る」とか「優勝する」とかの具体的目標も存在しない。
それだけに、その流れを如何に生かし発展させていくかは個人の参加の仕方ひとつなのである。自分の力で流れの一部となること。同じ流れてゆくにも、自分で手足を動かすこと。目に見えぬ充実感となってそれぞれの胸に迫まるものがあるはずである。
そして、個性を尊重することだ。WCC自体がひとつの大きな特色として、実に多種多様な人間を容認している。それぞれ、独自の考えなり、行動の仕方が存在するであろう。
思うままにのびのびと動くことだ。十人十色の個性のぶつけ合いこそがクラブ全体の充実、発展へと連なっていくものだと感じる。しかし、ここで必要なのは、クラブ員としての自覚、ひとつの流れを持つクラブの構成員としての自覚 – である。
自分がクラブの土台を支えている1人の人間である、という気迫は忘れないで欲しいし、勝手な甘えは押えて欲しいと願う。自分で選び、流れに加わった以上、それは最低限のマナー のようなものであるはずである。1人あるいは少数の人間の力だけでは理想的なサークルは生まれ得ない。
全員の努力と個性のぶつけ合いがあってこそ、大学におけるひとつのサークルの存在価値がある、と思うのである。
1人1人がそれぞれの個性でもってひとつの大きな流れに加わる。思い切って泳いでみる。
流れそのものは大きく、目に見えぬ漠然たるものであっても、クラブ員1人1人がサークルにおける自己をみつめ、その存在を自覚した時、その流れの密度の濃さは、はかり知れぬものがあるだろう。
私は全体として把握し、かつ個人にまで及ぶこと、さらに再び全体を – 。
そして「クラブの流れ」を作ること。それが主将の、又、執行部の任務であると思う。
以上が大ざっぱかつ漠然としたものではあるが、私が「主将」という役を前にし、自分自身の中に育ててきたWCCにおける理想像だった訳である。そして1年間主将を務める私がクラブに対してこのような考えを持っている、ということをクラブ員に知っておいて欲しかったのである。
そのため私は機会あるごとにミーティングでロにし、「フロントバッグ」に筆をとり、と常に気をつけてきたつもりである。クラブ員の増加、又、幽霊部員の存在等、泉のごとく湧き出してきていた種々 の問題に、私なりのやり方で如何に対処してゆくか、ということを考えた場合、こうした訴えのもとで、個人のクラブへの積極参加を望んだ訳であるし、又それによってひとつの大きな和を得ようとしたのである。このことは具体的には執行部の運営方針である「局活動の充実化」という案となって現われた。
大人数の和を得るためにまず局単位の小さな和から、という案である。
私なりの考えを一応頭の中におさめてもらった上で、あとは主将として当然のことではあるが、1年間いつでもクラブと心中できる覚悟 – というより、気迫を持って臨んできたつもりである。
結果については、それなりの反省はあるし、やり方として「甘い」という指摘や、「実を結ばぬ」という批判も耳にした。だが今言えることは、それが私の性格でもあり、やり方であったということなのである。
さて、初めての試みである春季ランによって新執行部はスタートを切った訳だが、そのひとつひとつのラン、及びクラブ運営又、公的諸問題の対処等に関しては、副将の佐々木君の記録に一切を委ねることとし、ここでは1年間主将として考え、又気がついた点について自分なりに総括してみたいと思う。
執行部として、クラブ運営に最も力を入れることはいまさら強調するもおかしいが、それ以外に我々 に与えられた使命というものは、今までに受け継いできたものを、いうなればWCCの精神 – とはいかぬまでも伝統、雰囲気といったものを、如何に下の者、特に新人に伝えてゆくかにあると思う。我々が右も左もわからず地下へ顔を出してから、いつの間にかこうして指導する立場に立たされた時、1年の時に先輩方から御指導を受け、公私に渡って伝えられたものというのは、今になってはっきりと自分自身の核を築くための最大の栄養源になり得ていることに気づいたからである。執行部は1年きりであっても、
クラブはこの先まだまだ発展し、流れてゆくのである。如何に後輩、新人に我々の伝統を伝え残すか。このことを十分に行ない得た執行部というものは後々評価を受けるのではないだろうか。
自分自身、納得のいくものではなかったが、新人諸君に対し、私の中に貯えてきたWCCの伝統、自己の体験などはできる限り話をしてきたつもりではある。
自分自身の考え又、我々の執行部のやり方をそのまま押しつけたり、引き継いでもらおうとは思わない。それぞれの個性があるのだから – 。
事実をそのまま手渡し、あとは彼らがそれらを如何に消化し、自分達の糧としてゆくかを見守るのみであると思う。そして如何にそれが伝わったかは、まだ先になってみなければわからないことなのである。
又私はクラブ員に自分なりのテーマや目標を掲げることを勧めてきた。
ことに我クラブにおいて最大の行事である夏合宿に臨むに当っては、毎日自分自身の中に何かを残せるような、そんな気がまえを望んだ。ただ漠然と日々を送るのではあまりに惜しいのだ。
合宿を終えた時、なんらかのものを土産に東京へ戻って欲しいと強く願ったのである。
特に2年生に対しては執行部と初めての長期ランで不安な1年生の間で雰囲気作りを、1年生には自由にのびのびとWCCの実態を焼きつけ、WCCの一員であることを全身で感じとって欲しいと願った。私は主将として、自転車で峠を走り、共に生活し、その中で”何か”をつかみとる、そのきっかけをアドバイスすることができたら – と感じたのである。
執行部の1人として、というより私個人の内に生じ、そして感じ入った問題もあった。
それは2年時より、あるいは後期から、といった遅れて入部した者への対処である。
「来る者は拒まず」というWCCの性格上、いつでもどんな人間をも受け入れている。しかし、それらの人にはかなりの気遅れ、抵抗感、あるいは遠慮が感じられる。その学年で面倒をみることが1番ではある。が、やはり性格的にとけ込めず、残念なことだが、この流れの中から去っていく者もある。
又、我クラブは運動をするクラブであるが、大学入学まで体を動かすことから無縁であった者も多い。
逆に中学、高校と純粋運動部人間も存在する。そこにはかなりの精神的構造の違いや、体力差といったものが生じてくるのである。強い者の一方的行動に弱い者の不満は積り重なってゆく。
以上2つのケ – スに関して如何に対処していくかを考えた時、最も大切だと思われることがあった。
それは「思いやり」である。相手の立場に立って考え接することである。
立ち止まり、腰かけ、深呼吸をしてもう1人の人間を見る。自分とは合わぬ点、情況の異なる所が多々見えてくる。
1度、彼の立っている所で考えてみる。むずかしいことである。しかし、その「思いやり」を忘れた時、
サークルというものも又、わずか一握の人間の私物と化してしまうのではないだろうか。
人間は様々な不満や悩みをかかえ、生きている。我がクラブにしても個人的、あるいは学年ごとに気に入らぬ点、不満な点がゴロゴロしているはずだ。それをぶつけあい、クラブの流れは一層力強いものになっていく。しかし、そのぶつけ合いの中にも、1歩退いた「思いやり」は決して忘れてはならぬことだと痛感した。1つの大きな和を得るために、この1年間で私が学んだものは、耐えることと思いやりを持って接することであったような気がする。
全ての部員と徹底して話をすることができた訳ではない。自宅通学のこともあり、その点ではまどろこしい思いを何度したことか。足らぬ点は、私は得意の「血液型」で(部員の性格に)ある程度の目安を立てた。とにかく全てを見渡す努力を忘れぬようにといいきかせてきた。
公平にである。まず心を開け。クラブ員を知らぬ主将であってはならない。が、全てを知ることなど不可能である。要は、クラブ員を知ろうとする主将であろうと思ったのである。色々なクラブ員を前にし、それぞれの性格、特色を想い、彼の眼でもう1度見つめ直そう、そしてさらにあたりに眼を向けてみる。私はそんな方法で1年間、クラブを、クラブ員を見つめてきたつもりである。
色々な批判を受けながらも、こうして1年間無事故で執行部を終えることができた時、つくづく私は幸福であったと思える。役員改選を前に皆がみせた異常なまでの情熱が、ものすごい迫力をもって再び脳裏に蘇ってくる。
新執行部方針作りのため、我々次期執行部を荷う人間がほぼ全員顔をそろえ、徹夜で14時間ぶっ通しの討論をしたこと。
恐ろしい程の情熱であった。我々の執行部としてのまとまりはあの時に半ばできあがったといっても過言ではあるまい。
雪が降ってあわてた春季ラン、多くの新人を迎えての新歓ラン、土砂降りの雨の中でテントを張り寒さに震えたこと。城ガ島でのオープンサイクリング。4班制をしき不手際の連続だったプレ合宿。
そして夏合宿。初の3班制、好天に恵まれながらも最後の雨にハイライトの蔵王を断念したこと。
事故はその状況を考えれば考える程、その恐ろしさに身が縮む思いだ。解散地仙台へあと30キロ、最後の峠を下る時1人1人全員に声をかけ、自らの安全をも固く誓い、風切る中でふと胸に迫まりくるものに私は何を感じとったのだろうか。仙台で1人の脱落者もなぐ満面に笑みをたたえたクラブ員の顔を見渡した時、そして「都の西北」を唄う時、私には、確かにひとつの大きな峠を越えた実感があった。
例年通り、合宿を終えると後期の活動の主動権は少しずつ2年生に移っていく。ただ、気をゆるめがちな
自分に幾度もハッとさせられる思いであった。しかし1、2年生が実によく動いてくれたと思う。
こうしてざっと1年間を振り返ってみてまず思うのは、私は本当に良きスタッフである仲間に恵まれたということである。おだてられ調子に乗りやすく、かなりいい加減なところのあるB型の私をバックアップしてくれた執行部の面々は、強力な目的邁進型かつスクラムの強さを見せるO型と細かな所にまで気を配ってくれるA型によって構成され、私にとっては、まさに理想的な形組織だった訳である。
「お前は何もしなくていい。」と事務処理から憎まれ役まで全て面倒で嫌な仕事を引き受けてくれた
副将の佐々木木君(O型)。彼の管理、事務処理の前に私はただもう頭を下げて感謝するばかりだ。
私の性格を理解してくれた上での彼の存在は、どれだけ心強かったことか、とても言葉で言い尽くせるものではない。そして、先へ先へとランの企画を立ててくれた深井君(O型)。
我々の主軸であるランそのものを企画する存在だけに、様々な波をかぶりきつかったことであろう。
合宿における蔵王断念を1番心残りに思うのは彼なのだ。
メカの野口君(A型)。彼の義理を欠かさぬ人柄で他の人達がどれだけ楽をしたことか。地の利をフルに生かして下級生の面倒を1手に引き受けてくれた感あり、先輩後輩とのよきパイプ役的存在であったこと、どんなに助けられているかしれません。
又、クラブ運営の財布を握り、的確に予算をコントロールしてくれた会計の中野君(O型)。
精力的にクラブ機関誌「フロントバッグ」を始め、名簿、各種パンフレットを発行し、もうひとつの眼でしっかりクラブを見つめ続けていてくれた出版の武藤君(?型)、本原君(B型)。ボロになったテントの修理、人数の増大と共に当然の様に増えていったナベ、テントの管理と地味な目だたぬ仕事ながら着実にこなしてくれた機材の穂苅君(O型)、緑川君(A型)。
合宿用荷物を小さな車に押し込み、豊坂をあえぎ登ったこと思い出します。そして、その抜群の人あたりの良さを12分に生かし、コンパ、合ハイ等クラブ員に憩いの時を提供してくれ、又保険の手続き、宿の確保に奔走してくれた渉外の小辻君(O型)。彼の笑顔に隠された苦労は大変なものだったと思う。
私の気づかぬ点、目をつぶりがちな事に対して鋭い意見をぶつけてくれ、目を開かせてくれた健脚の石橋君(B型)。種々の事情から積極参加はしてもらえなかったものの、暖かい眼で我々を見守ってくれ、又運営委員会のまとめ役をしてくれた山村君(O型)。
色々に言われながらも決して怒らず冷静に動いてくれた資料の黒沢君(A型)。復部してOB会関係の事務をこなしてくれた島田君(O型)。そして最後に、オープン委員長、合宿C班リーダーと重役をひょうひょうと受け取め、又確固たる独自のユニークな意見を持ち、実に頼りになる存在として常に中心に居てくれた高橋君(O型)。
皆、本当に素晴らしい仲間達だった。私が「無能無能」と言われながらも、こうして1年間WCCの主将としてやってこれたのも、全て彼らの強力な、一致致団結したまとまりと、バックアップがあったからこそである。そして我々執行部の手となり足となり動いてくれ、協力してくれた1、2年生の力があったからこそである。又、暖かな励ましのお言葉、アドバイスを頂いたOB諸兄、4、5年生の皆様には、あらためて誌上を借りて心からお礼申しあげます。
11月26日、役員改選総会。1年前の自分達の姿が重なり新執行部発足祝いのコンパの席、無事大任を務め終えた安堵感と流れ去った日ーを想う心との一瞬の交錯。いやな事もあった。
投げ出したくなる時もあった。カーッときて机をたたきたくなる時もあった。
楽観的な私でも決して満足のいく事ばかりではなかった。反省すべき点は山程あった。
こみあげてくるいいも知れぬ感動は、そんな全てのものをおおいかぶしてしまうものだった。
とにかく全力でやり終えた満足感と、素晴らしい仲間達に囲まれた幸福感。グイグイとこみあげてくる
熱いものはもう止めようもなかった。皆の涙でくしゃくしゃになった顔が、恥ずかしそうでもあり、
誇らし気でもあり。あちらこちらで見られるその光景は、私の脳裏に強烈な印象を残し、生涯決して離れることはないであろう。そんな時、1人の後輩が私のそばへ来て言った。
「いいですね。ボク今までクラブがこんないいものだとは知りませんでした。感激です。」
私は、とてもつかみきれぬ大きな宝を手にしたと思った。
1年間、全てにクラブを優先させてきた。サイクリングクラブに全ての情熱を注いできた。
今、この事こそが私が1つの大きな流れの中で持ち得た「場」であり、宝である、と言いきることができるのである。
私はサイクリングクラブが大好きである。
副将回顧録 – 佐々木
副将回顧録 商学部4年 佐々木
1年間の副将という仕事を終えた小生の手元には1冊のすり切れたノートが残っている。
このノートには、WCCの様々な活動が記されてある。今、このノートをもう1度、開いてみよう。
76年度の北海道夏合宿も無事に終り、部室の中にも何かしら山場を乗り越えたという安堵感が漂っていた。そんな弛緩した雰囲気とは裏腹に、深く潜行した所で序々にではあるが―新執行部結成への足音が聞こえ始めていた。誰からともなく投げ込まれた小石の波紋は、加速度的に広まりを強め、いやおうなく2年生会の存在を強調した。10月に入り、我々2年生会の新企画第1弾である「軽井沢タイムトライアル」が一応の成功を納めた頃からは、その余勢もあってか、当時の執行部や4年生を手当たりしだいに捉えては稚拙な意見を、(本人達はそう思っていなかったのであるが・・・・・・。)意気揚揚と捲くし立てたのであった。
そして、その未熟な熱の固まりは、11月3日からの「早同交歓会」に於ける学年別ミーティングによって、火に油を注いだ如く燃え上った。我々の枝葉を見落としがちな、猪突猛進的考察法に比べ、同志社のそれは冷静な判断力と分析力に基づいている様に思われたのである。
(今に思えば、それ程の事はないのである。)しかしながら、これに起因する、不安・焦燥は我々をして、落胆せしめるものでは無く、むしろより一層の討論の必要を感じさせ、結束の強化を推めたように思われる。
この様な経過を経て、11月10日、水曜日に一応の結論を得たと言えるだろう。その日は、めったに盃を交すことの無い我々が、2年生会と称し、高田馬場の養老の滝に於いて、最終的な意見調整を行ったのである。討論は、執行部の基本的運営方針に始まり、具体的な局活動の内容、各クラブランの持つ意味の定義と再確認に至るまで詳細に互った。
店が看板になろうという時間になっても熱弁、停る所を知らず、荻窪の小生宅へと場所を移し、11日朝まで、徹夜で話し合ったのである。
この討論会に限らず、我々の討論の最大の焦点は、いつも膨張しつつある部員数にあった。サイクリング・ブームの余波を被むり、増大する部員を抱え、従来のサークル活動の形を維持しながら、メンバー全員の安全と快適なサイクリングを確保する事は至難の技であると思われた。昔から良く言われていた、WCCならではの、体育系のクラブでもなく、同好会でもないという雰囲気を大切にしたかったのは我々も同じである。しかし、そういったものはWCCが少人数で構成され、相互に理解しあう事が可能で、各自の自主性の確認の上において、成り立っていたものではなかっただろうか。
それが、昨今の様に、70数名に及ぶ部員が名簿に名前を連ねる様になって来ると、相互理解はおろか、名前すら思い出せない者同志が同じ部室の椅子に座っているのである。
これらの事を考慮した上で、我々は、局活動のより一層の充実と全員参加、学年会の強化、パートランの充実、合宿の多班化、等の具体的な運営方針を決定した。
又、例年執行部の課題となっているトレーニングの問題に関しても賛否両論あった。しかし、実際に行うとなると、かなりの強制力を必要とする事、執行部がその持てる力のかなりの部分を注がねばならない事、等を考え、トレーニングによって得られるメリットと比較すると、それなりの評価をしながらも踏み切るだけの必要条件を満たすには至らなかった。
後進の諸君には、充分な時間をかけ検討して欲しい。猶、我々が考えたトレーニングというものは、
体力増強の為というのが主眼ではない。あくまでも、部員相互のコミュニケーションの場が、
ラン以外にも必要であるという考えからであった事を付記しておく。
11月27日の役員改選総会に於いて、名実共に、WCC15代執行部が誕生した。これから1年間、幾つかの新企画を含めた年間行事を消化していくという長い道のりに第1歩を踏み出したのである。「保革連合政権」を自負する我々としては、15年の歴史の重みに支えられるWCCの伝統を守りながらも、新しい時流への対応を計るという大目標を掲げての出発である。困難が目の前にぶら下がっているのがはっきりと判った。しかし、やらなければならないのである。どの様な批難を受けようとも、試金石となって・・。
以下、我々の苦闘を年間の行事に沿って説明したい。
まず、最初に特筆したいのは、何といっても「春季ラン」であろう。従来、WCCに於いては、春季休暇は長期プライベートに使用してもらおうという事で、ランを組み込んだ事は無かった。
しかしながら、昨今、長期プライベートを組む部員が減少している様である。というよりも、部員が増加している為に、嘗てと同じ割合でプライベートランを行っているとしても、走らない部員の絶対数は大きくなっているのである。
そうなると、春季休暇中に走らない部員の中には、11月の「追い出しラン」が終ると、5月の「新歓ラン」まで、丸5ヶ月、自転車に乗らない者もいるという事になる。
又、「新歓ラン」からは、新2年がCLを、新3年が班長を担当するのが通例であるが、その際、互いが未だ慣れていないという事で充分に役割を果たせないといった状況がしばしば見られたのである。これでは、団体サイクリングに対して殆んど素人である新人を迎えるには、体力的にも、技術的にも、あまりに体制が不充分の様に思う。
以上の点を考慮して、我々は、体力の調整、走行法の再確認という事に焦点を絞った「春季ラン」を企画したのである。
初めての企画でもあり、かなり慎重に事を運んだつもりだったが、未だ各局とも仕事に慣れておらず、当初、予定していた御殿場YHに、休みに入ってから断わられ、あわてて東京に残っている者が集まり、再検討するという有様であった。当日、小田原駅に集合した部員諸君には、少なからず不安を抱かせる結果になり、申し訳無い限りである。「春季ラン」の企画に関しては、長い春季休暇を間にしている事、参加人数の確認が難かしい事、等の問題があり、余程慎重に、且つ、充分な時間をかけて行わないとスムーズな運営は困難に思える。
さて、初日のコースは、小田原から松田経由で御殿場へ行き、籠坂峠を越えて、山中湖へ下ったのであるが、全舗装にもかかわらず、標高差で1,000m以上あり、暫く走っていない部員にはかなりきつかったようであった。その上、1晩中降り続いた雨の為に、2日目のコースは変更を余儀なくされ、富士吉田・都留を経て、道坂峠を越え、道志に向かうというコースに変った。しかし、道坂峠は、小さいながらも、地道の峠のノウハウを知る事が出来、結果的には、コース変更のおかげで、ランにバリエーションが持てたといえるだろう。3日目は相模湖、大垂水峠を経て、八王子で解散という御馴染みのコースであった。にもかかわらず、某班がコースを間違い、とんでもない方向に行ってしまうというアクシデントがあり、連絡方法の再確認の必要を迫られた。
猶、私事であるが、この班には、小生を含めて、何と3人も3年がいながら、こういう結果になり、今思い出しても顔から火が出そうである。
以上の様に、事故もなく、全員が完走したものの、予想通り、「春季ラン」は、執行部の甘さを指摘し、「新歓ラン」までの修正事項を多く与えてくれた。そういう意味に於いては「春季ラン」は成功し、今後も継続して企画される地位を得たと言えるだろう。猶、今回の参加者は34名であった。
4月に入り、キャンパスも、初々しい新入生が姿を現わし、活気を帯びて来る。
WCCも新入部員を迎え、執行部、2年生共に、それぞれ新たな意欲に燃え始めた様子であった。
4月16日、恒例の「新歓コンパ」が金城庵に於いて開かれた。こう部員が多くなると、早稲田周辺でも、仲々宴会場が見つからず、渉外局の小辻君もかなり苦労していた様であった。
昔の様に、1度、WCCがコンバをやった店は2度と受付けてくれないというのでは、その内、早稲田から出て行かねばならないという事にもなりかねない。
それ故、最近のコンパでは裸で走り回ったり、ソースやビールが宙を舞うという事もなくなり、随分と大人しいものになって来たようである。このコンパも50名余りの参加者があり、歌あり踊ありの仲々楽しい盛り上ったコンパであった。新人の諸君も、例によって、力一杯飲まされたらしく、自力で歩いて帰った者は数える程しかいなかったとの事で、まずは、目出たし、目出たし。
4月23日、第1回の総会に於いて年間行事予定の承認を得る事が出来た。
そして、いよいよ29日~5月1日まで「新歓ラン」が行なわれた。今年の「新歓ラン」は、そのランの持つ意味を再検討した結果、新人をむやみにハードなコースに挑戦させ、威するのではなく、市街地の走行法、峠の登り方、下り方、キャンピングの仕方、等を指導し、WCCの雰囲気に慣れさす事に最重点を置く事にした。
又、今回は、企画局の深井君の提案で、過去、あまりクラブランで取り上げた事のない東関東、特に筑波を中心に走る事になった。初日は、早稲田から土浦を経て筑波までのコースで、これといった峠もないアップダウンであった。にもかかわらず、2年生の自転車に常識では考えられないようなメカトラが続出し、驚いたり困ったりだった。幸い、事故現場の近くに設備の整ったショップがあり、部品交換をし、何とか走れるようになったものの、普段からのメインテナンスが如何に重要であるかを充分に知らされたといえよう。又、柏のケルビムサイクルの方々には親身になって修理を手伝っていただき、感謝に絶えない。
常陸北条を過ぎた頃から降り出した雨の為に、初日の自炊は取りやめにし、外食に切り替えたが、雨への対処はいつも問題になるようである。2日目であるが、昨夜の土砂降りが嘘の様に晴れ上がり、絶好のサイクリング日和りとなった。
この日は、今回の目玉商品とも言えるパートランであった。「新歓ラン」にパートランを取り入れたのは、少人数で走る面白さも知ってもらいたかったし、こちらとしても人数が少ない方が細かな指導が行き届くと考えたからである。各班とも仲々バラエティーに飛んだコースばかりだったらしく、充分に楽しんでもらえた様であった。
その夜は、やっと水戸のキャンプ場で、例のWCCの一員としての自覚を新たにしたようだった。最終日は水戸から、霞ヶ浦を経て、佐原までというコースで全員、無事にランを終える事が出来た。
ここで雨について考える所を、少し述べておきたい。我々が、自転車という手段を用いて活動する以上、雨について充分に考慮しなければならない事は周知の通りである。
雨中を走行する事は何処まで安全なのだろうか。勿論、どんなに雨が降ろうと、ペダルを回す限り自転車は進むのであるから、ランを続ける事は可能である。
しかし、我々がサイクリング愛好者の集団であるという事を考えれば、がむしゃらに走る事が良いとは思えない。集団で行動する以上、緊急の場合には、最も体力の無い者、技術の無い者を中心とし、最大限の安全を確保する事が絶対ではないかと思う。
小生が1年の時の「新歓ラン」は、朝から雨が降っているというので中止になった。
ところが、午後から晴れ上がり、当時の執行部の方々は多いに悩まれた様であった。
それとは対照的に、翌年の「新歓ラン」は小雨の中を強行し、2日目、3日目と晴天に恵まれ、無事、ランを終える事が出来た。
どちらが適切な処置であったかという事は、我々には判断出来ない。唯、その年の執行部は、雨に対する統一した見解を持っていなければならないと思う。別の状況を考えてみよう。
キャンピングに於いて、雨に降られた為に自炊をやめ、外食に変更するのはどうだろうか。
テントに寝るのを止めて、バンガローを使用したり、公民館を借りたりするのはどうだろうか。
短期のツアーに於いては可能な限り、強行するのもいいだろう。それが後になって良き想い出となる事もあるだろうから。
しかし長期ツアーに於いて、例えば、2年の時の北海道合宿の様に、全行程の半分以上雨に
降られ、精神的・肉体的に極度の疲労状態にある時には、考えられる限りの安全策を取る事は
妥当であると判断される。コース変更についても同様だと思う。標高差や走行距離にむやみに
固執する事は許されるべきではないだろう。雨による体温放出は想像以上の疲労を呼ぶものである。
執行部は、メンバーの状態を迅速且つ適確につかみ、対処しなければならないであろう。
以上は私見であるが、我々執行部としても雨に関しては、出来得る限り、安全性を追求するという事で1年間を通したつもりである。これに関しては、軟弱と批難されるかもしれないが、異論のある方とは、ゆっくり話し合いたいものである。
ここまで書くと、かなり書いているにもかかわらず、未だ「新歓ラン」である。
「峰」に火をつけ、さて、一服。今でこそ、生意気にこんな文章を書いているけど、昔、そう、もう2年半程も前、小生が1年だった頃の事である。6月の半ば頃から考える所があってぷっつりと部室への出入りを断った時期があった。
様々な期待を持ち早稲田に入り、さて何から手をつけようかと考え、まあ人並みにサークルにでも
入ろうと「学生の手帳」を開いてみた。いくつかのサークルをリストアップしたところで、当時、浪人中であった愚弟に相談したのであるが、彼はそのリストの中になかった
サイクリングクラブなるものを指したのである。弟思いの小生としては無下に拒む事も出来ず、それを承諾してしまったのである。こうして入ったWCCもそれ程、居心地の悪い所でもなく、パート・ラン・オーブン・ランと参加し、一応の満足があった。
しかしながら、5月病と言う訳ではないが、自分の内面に新たなる欲望の出現を否定出来ず、沈んでしまったのである。そうこう悩んでいる
小生の許に、6月下旬だったか野口君から1年生会代表と記し、サークル復帰を促す手紙が届いた。追い討ちをかけるように当時、卓球の授業を一緒に取っていた島田君からも、色々と暖かい励ましを受け小生の心も復帰へと動いていった。
(この時の御礼というのではないが、後に、休部中の島田君に暖かい愛情あふれる電話を掛け、島田君をして涙させたのは何を隠そう小生なのである。)
そんなある日、吉川君より電話があり翌日「ABC」で会った。同じ予備校出身でもあり、当時、野口・吉川・佐々木の新人3馬鹿トリオと物笑いの種になっていた事もあって、単なる同期の入部者という以上の物を感じてはいた。が、いざ話し合ってみると同様の悩みを持っている事に少なからずショックを受け、互いに励まし合って行こうなどと、顔の赤くなる様な事をぬかし、復帰の決心をしたのであった。もう忘れかけている昔話である。
それから1年、同じ「ABC」の同じ椅子に座って杉本B氏に副将出馬の意志表明をしようとは・・。
何かの巡り合わせだろうか。
閑話休題、5月15日には、我々、執行部が力を入れたランの1つである「パート・ラン」があった。
全体ランとは違い、「パート・ラン」は少人数で走るという事で互いの意志も通じ易く、機動力も発揮出来るという事で、かなりの期待を寄せていたのである。
その執行部の意向を反映してか、実に59名の参加希望者があり、班割りをする小生や、企画の深井君は嬉しい悲鳴を上げていたのである。が、このランも又、雨の為に8つのパートのほとんど中止せざるを得ず、わずかに2つの班と数名のプライベート・ランのみが行なわれただけに終わり、残念な限りであった。
5月28日,29日は早慶戦があり、WCCも、最近クラブ行事化しつつある神宮の泊り込みを行った。
1年から3年まで20名以上の参加があり、近来にない驚異的な盛り上がりを見せたが、盛り上がり過ぎて、早慶戦を見る事が出来ない状態になり、帰宅した者が多くいた事には複雑な心境であった。
又、前夜に、異常なまでの燃え方をした為に、28日の「早慶戦観戦コンパ」では、二日酔の部員が多く、座に盛り上がりがもう1つ欠けたのは残念であった。
(尤も、盛り上がったか、どうかなど小生には知る由もなかった。小生は某1年と飲み比べをし、その場は相手が吐き潰れ、何とか勝ったものの、その後、記憶を失なってしまったのである。人の話によると、焼酎のピンを片手に、新宿を彷徨していたらしいが・・。)
6月に入り、いよいよ待望の「オープンサイクリング」が4日、5日に城ヶ島に於いて行なわれた。
この、「オーブンサイクリング」は46年に第1回が催されて以来、代々の執行部が試行錯誤を繰り返して来た、企画である。
我々も又、例外ではなく、この企画の価値について充分に検討したつもりである。
ここ数年、オーブンには、春のオープンと秋のオープンの2つの型があった。
春のオープンは、クラブ会則の第2条に於ける『サイクリングの一般普及と発展に貢献する・・』という条文を、有形無実にしない為に考え出されたものではないかと思う。事実、過去のオープンをきっかけとして、それまで自転車に乗る事も出来なかった人が、乗る喜こびを知ったり、某女子大学に新たにサイクリングクラブが出来たりしているのである。そういった意味では、かなりの功績を残していると言えるだろう。しかし、本音と立て前は、現実に於いて、かなり食い違いを見せているのではないだろうか。
もう1つ、秋のオーブンについてであるが、これは、昭和49年から始められたもので、一般のベテラン・初心者を問わず『走れるサイクリスト』を中心に募集し、春のオープンとは逆に、本格的なサイクリングを共に楽しもうという目的で始められたものである。
それだけに、コースもかなりハードな物を企画するというのが通例であった。
これらの事を踏まえた上で、オープンについて再考を加えた結果、オープンとしての存在価値は、秋のオーブンの方が大きいという結論に達した。春のオープンは、サイクリングの一般普及云々という題目はあるにせよ、実際には、部員も参加者も、サイクリングという手段を借りた、「合ハイ」の親戚の様に捉えている事は、否定出来ない事実なのである。
それに比べ、秋のオープンでは、ベテランサイクリストの方々が、客観的な視点で、我々のサイクリングのメリット・デメリットを鋭く指摘してくれ、得るものが多かったのである。
ところが、実際に企画運営するとなると、今度は逆になる。春のオーブンの方が企画も募集も、はるかに簡単なのである。(勿論、危険性は増加するが・・。)
募集方法が悪い所以かもしれないが、秋のオーブンの参加者は年々、減少傾向にあったのは事実である。これらの事から、秋のオープンの価値を認めながらも、開催は難かしいと判断し、見送ることにした。春のオープンに関しては、題目を掲げず、『御祭り』と割り切って行うことにした。
今年の「オープンサイクリング」は企画段階からオーブン委員会を設置し、総ての運営をまかす事にした。委員長の高橋君の努力の御陰で、参加希望者が殺到し、予定を軽くオーバーし、多数の方にお断わりする事になった。当日は好天に恵まれ、城ヶ島YHを中心とした、オリエンテーリングも変化のあるコースに楽しんでいただけた様であった。
「オープンサイクリング」は、今、過渡期にある様に思う。我々の意図した、オープンを続けていくのでは無く、今後の執行部がそれぞれに検討し、新らしいオープンを企画して欲しい。
6月も半ばを過ぎると、運営委員会に於いても合宿の話題が中心となり、部室の中にもそれらしい機運が流れ始めて来た。そんな中、18日、19日とかけて「プレ合宿」が行なわれた。今年の「プレ合宿」は「合宿」を強く意識し、出来る限り「合宿」に近い状態で行なおうという事にした。つまり、初日、4ヶ所の出発地点を設け、それぞれのコースを走りキャンプ場に集合し、2日目は全体ランを行うという物である。
生憎、当日は朝から今にも泣き出しそうな空模様で、又、頭が痛くなりそうだった。予想通り、午後からは土砂降りになり、各班とも相当苦しんだ様子であった。
A班は長野から鳥居峠を、B班は小諸から地蔵峠を、C班は小諸から車坂峠、D班は高崎から二度上峠と、それぞれアタックし、北軽井沢の照月湖キャンプ場に集合した。その夜も雨は降り続き、疲労の見える1年生は、バンガローで休ませる様にして2日目に備えた。2日目は天候も何とか持ち直し、予定通りのコースを走る事に決定した。この日は長野原を経て、暮坂峠を越え、中之条で解散というコースだった。
標高差は、それ程でもなかったが、前日の雨による疲労と睡眠不足、雨を吸い込んで一層重たくなった装備、等が重圧となって苦しい一日となった。
一応、ランは無事に終了したものの、そこには、執行部として多くの反省すべき点があった。我々は、運営委員会に於いて、それらを討論し、「合宿」への教訓とした。
「合宿」は、何といっても「早同交歓会」と共に、年間行事のメインとなる物である。
それだけに可能な限りの詳細検討と、参加者全員の心理的な統一がないと成功は困難である。
その意味で、今年の「合宿」は企画段階から波乱に富んだ物であったといえるだろう。
コースの原案に関しては、企画局に一任し、それに若干の修正を運営委員会に於いてなすという形を
取った。執行部の基本的な構想としては、「プレ合宿」で試行したように、全体ランとパートランの組み合わせで行くという事で、パートランは4つのコースに分割する事にした。これは「合宿」の参加予定者が途中参加も含め、史上最高の60名に及び、2週間のロングツアーに於いて完全な部員の掌握が困難であるという事が最大の理由であった。
6月に入り、細かな検討の段階に入った時、1つの問題が起った。2年生会の中で「合宿」への
不安感が高まっているというのである。言うまでもなく「合宿」に於いて、執行部は全体の指揮、統制といった仕事が中心となり、具体的な運営、1年生の指導等、2年生に負う所が多い。
それだけに、3年生と2年生のコミュニケーションは何よりも大切なものである。事態を重要視した我々は、その後、何回かの合同討論会を開き、意見の調整を進めた。
2年生の意見の中心は、部員の体力、特に1年の中で、未だ峠登りに慣れていない者がいる事から
考えて、コースがハードなのではないかという事、4コース制に対して不安が多い事、等であった。
一時は険悪な雰囲気になった事もあったが、互いの意見をぶつけ合う内に、我々も2年生のクラブに対する情熱が理解出来、2年生も我々の方針を判ってくれた。最終的には、4コースを3コースに減らし、若干のコース変更を行うという事で双方の同意を得る事が出来た。
この様なブロセスにかなりの時間と労力を費やしたものの、この意見調整によって、2年生の協力を全面的に得る事が可能となり、万全の体制を持って合宿に臨める様になったといえよう。我々の取った処置については、様々な意見があるだろう。勿論、こういった下からの意見を一喝し、執行部に従がわせる事も必要だろうし、それだけの力を持つ事も必要である。しかし、我々は、こうしたのである。兎も角も・・。
7月27日、青森駅頭に集合した黄色い集団を前に小生は震えた。ランの出発の時に得も知れぬ興奮を感じるのはいつもの事であるが、合宿の時は、又違った要素が加味される様である。14日間の「合宿」がスタートしたのである。今年の合宿は比較的天候に恵まれ、全行程の内で雨に降られたのは、わずかに2日間だけであった。
(コースの詳細は誰かが書いてくれるだろうから、そちらに譲る事にする。)
28日・29日と全体ランを行い、30日から、主将の吉川君の卒いるA班が大沼へと別れて行った。8月1日からは、高橋君を隊長とするC班と、小生のB班が別れ、8月7日、尾花沢での再会を楽しみにそれぞれのコースを走る事になった。
コースにより、条件が違い、A班は寝る場所に困ったらしく、下見の出来ない合宿企画の難しさが判った。別れて走っている間も、一日一度は互いに連絡を取り合い、疲労状況・コース・事故・メカトラ、等について情報交換に努めた。
夜のミーティングの時に他班の報告を聞くのも楽しみの1つとなった様であった。
尾花沢への集合は遅れる班もなく全班2時頃には集合した。いつもながら、別れていた仲間と久し振りに会うというのは何とも言えず良いものである。どんなに苦しい思いをして来たかなど、言葉を交さずとも、互いの真黒に陽焼けした顔を見るだけで充分なのである。
7日の夜から降り出した雨は、8日の朝になっても止まなかった。蔵王という最後にして最大のハイライトを残している為に、コース選択は極めて微妙であった。雨は全く上がる気配を見せず、なお激しくなる一方だった。山形を目指して出発してはみたものの、遅々として距離はかせげなかった。事故を心配して休憩を多く取ったが、長旅の上、大雨による疲労で、茫然と座り込んだり、うたた寝する部員が続出した。
執行部としては、出来るならば、蔵王にアタックしたかったが、部員の状態も悪く、予定の半分も走っていない事、雨も一向に止みそうにない事、等を考えて、断念する事にした。
早速、天童市、山形市を中心とするキャンプ場に連絡を取ってみたが、何処も不可との事で、止む無く東根の公民館に宿泊する事にした。
9日は昨日の雨がまるで嘘の様に確れ上り、合宿の最終日にふさわしい日となった。
我々は最後の峠である関山峠を難無く登り越し、解散地仙台へとまっしぐらに下って行った。
8月9日の夜、一息で飲み干したビールは塩っぽい味がした。ひたすら平静を保とうとするのであろうが、どうしようも無く熱い物がこみ上げて来て、胸が一杯になった。皆の歌う声がしだいに遠ざかり、踊る姿が霞んで見えなくなってしまった。
頭の中を14日間が去来する。嬉しかった。重いテントを持って頑張ってくれた1年、我々を助け、
先頭に立って動いてくれた2年、一生懸命老体に鞭打ちながらも盛り上げて下さった4年生、又家庭の事情で参加は出来なかったものの、数度に渡り激励の手紙をくれた本原君、仙台の旅館へ完走祝いの電話をくれた山村君。皆に対して感謝で一杯だった。そして何よりも、参加者全員が1人も抜ける事無く無事故で走破出来た事が最高に嬉しかった。
合宿について、もう1つ、どうしても言っておきたい事がある。但し、これは副将という立場を離れての意見である。それは、今回の合宿に於いて、小生が隊長を努めたB班が、平泉で行った連泊である。これは、当日のコースがビストンコースであった事と、班員がかなり疲れていた事が直接的な理由であったが、その裏には、最近の合宿への警鐘を含めたつもりである。
長い歴史に支えられた合宿形態を継続するのもいい事である。しかし、ここ数年来のクラブ体質の
変化にも拘ず、やみくもに期間を長くし、ハードになって行く合宿を見るにつけ、何らかの変革を期待するのは誤りだろうか。10日以上のランになると、それは最早、単なるサイクリングに留まらず生活そのものなのである。
一生懸命走る日もあれば、休みの日もあるべきだと思う。逆にハードなランを追求したいのならば、
同志社の様に、買い食い等、一切私的な事を許さない5・6日の合宿にするのがいいかも知れない。
兎に角、唯、流されて中途半端になってはいけない。これからの執行部の諸君。馬鹿な先輩の戯言と
思わず、立ち止まり再考して欲しい。WCCの為に..。
9月例年の事であるが、「合宿」が終ったという事で、何となく虚脱する時期である。
そんな中の25日、荒川の河川敷に於いて、2年生会「ソフトボール大会」が催された。
当初、パートランを予定していたのであるが、夏季休暇が終って間も無く、準備が充分に出来ないという事で「ソフトボール大会」に変更になったらしい。当日は快晴とまでは行かなかったが、秋空の下、広い河川敷でビールを飲みながら、楽しい一日を過ごした。ランだけでなく、こういった企画を取り入れる事は非常に面白いと思う。最後には各賞の表賞式もあり、かくいう小生も「敬老賞」などを頂き、感涙にむせんだ一日だった。
10月9日、10日に予定されていた「軽井沢TT」は、前夜からの雨の為に中止となった。
普通のランであれば何とかなりそうな程度の小雨であったが、TTという事を考えれば、企画した2年生会の決定は賢明であったと言えるだろう。しかし、せっかく再開したランであり、WCCで唯一のコンペティションでもあるので、来年からも安全性の確保される限り続けて行って欲しいものである。
再開2回目の「早慶合同ラン」は10月22日・23日の両日に渡って、笹子峠・柳沢峠を舞台に行なわれた。天候に恵まれ、コースも地道あり、舗装ありで仲々面白いランであった。しかし、何といっても「早慶ラン」のメインはコンパであった。
(個人的には、ちっとも良い想い出ではないが・・)
それは、今思い出しても寒気のする程、凄まじいコンパだった。いったい、どんなコンパかという事については、小生が元凶だけに詳しい事は省略させて頂きたい。唯、酒には少々自信のある小生をして、翌日の朝食が米1粒として喉を通らず、終始、吐き気を催しながら柳沢峠を登ったという事から想像して頂ければ充分であると思う。しかしながら、部屋の隅っこで見ていた諸君には、小生の醜態は、さぞや面白い見世物だったと信じる。
本当に、ひどい連中である。一生、恨み続けてやろうと決心しているので、心当りのある向きは気を付けて頂きたい。尚、後期初のランにも拘ず、参加者が22名と少なかったのは残念であった。
「早同交歓会」もWCCの歴史と共に歩み続け、今年で早、14回、を数える事になった。
今回は、10月30日から11月2日にかけて、同志社の庭とも言える、京都は北山・西山を中心に走る事になった。伝統の重みとはいいものである。「早慶合同ラン」には無い年輪が、そこにある。この時程、自分が早稲田の学生である事を自覚し、誇りに思う機会も少ないのではなかろうか。
コースは全体を通して非常にハードなもので、実行委員の新谷君達の苦労が判るようであった。
下見も充分に行ってあった様子で、さすが関西の雄と我々を唸らせた。WCCも人数では、おそらく日本一のサイクリングクラブであろう。
しかし、実体は、まだまだ甘さを残している様である。こういった機会を充分に利用し、吸収出来る所はどんどん取り入れ、切磋琢磨に努めたいものである。しかし京都市内から、わずか1・2時間の所に北山・東山・西山といった最高の環境があるというのは、うらやましい限りである。
恒例のタイムトライアルは6キロ程の舗装路で行なわれたが、WCCは、期待のルーキー、神保君を欠いた事もあり、予想通りの大敗を喫し、来年の奮起が期待される。
(個人的には、驚異的な成績を上げる事が出来、内心、気も狂わんばかりの喜こびであったが、落胆の高橋君・吉川君が気の毒で、気の毒で、こみ上げて来る笑いを押し殺し、極力平静を装っていたのである。)
今年は、早稲田側が53名、同志社側が36名参加し、総勢で90名に及ぶ大交歓会となった。益々、発展して行く様相を呈しているのは嬉しい限りである。東西両雄相譲らぬといった、初心を忘れる事なく、心の通った交歓会が半永久的に続けられる事を願って止まない。
「早同交歓会」の興奮未だ冷めやらぬ11月3日、「1年生企画ラン」が行なわれた。
例年の事ながら、この時期はランの数が多いせいか、参加者が次第に減って来る様である。
今回のランも例外ではなく、特に次期執行部を担う2年生の参加が少なかったのは残念であった。
当日は朝から生憎の霧雨模様であったが、1年生諸君の慎重な企画が功を奏し、無事、完走する事が出来た。下見を充分にしてあった様子で、かなり安心して見ている事が出来た。細かな点で未だ物足りないのはしかたないだろうが、2コースに分けるなど新しい企画も盛り込まれ、今後が楽しみである。初めての1年生だけの企画と云う事で、色々と、戸惑った事もあろうかと思うが、よくぞここまでやってくれたと目を細めたのは小生だけではなかったと思う。これからも、WCCの中心となって頑張って欲しい。
恒例の「追い出しラン」、別名、「いびり出しラン」は晩秋の11月19日・20日の両日、ヤビツ峠をメインに行なわれた。今年は例年になく参加者が多く、総勢47名を数え、盛り上ったものであった。コースも、企画担当の芥川君らしい、仲々凝ったもので、4年生の方々にも、久し振りでサイクリングらしいサイクリングを満喫して頂けたのではないかと思う。初日は、大奏野からヒゴノ沢を通り、ヤビツ峠を登るというコースであった。
御待ちかねの4年生TTは、峠の最後、わずかばかりの舗装路で行ったが、先輩諸兄には、手ごたえ充分と云った様子で、白熱のレースとなった様であった。その夜は、札掛の丹沢ホームに宿を取り、例年通りのにぎやかなコンパとなった。ほとんどの4年生には久し振りのランであり、その疲労は一通りではないはずであった。にも拘らず、皆、一様に感じる所があると見え、一晩中はしゃぎ回っていた様子であった。翌日は、例によって、所定の起床時間をはるかに過ぎても、起きる事の出来ない部員が多く、「追い出しラン」という雰囲気もあって、コース変更をし、無事、高尾で解散する事が出来た。4年生の方々、本当に長い間、御苦労様でした。
11月26日、7号館、112教室に於いて、第4回総会・役員改選が行なわれた。
新執行部が誕生したのである。司会を務めながら、小生の頭の中を2つの言葉が巡った。
―やっと終った。もう終った。どちらが本当か、判らなかった。しかし、兎に角・・。終ったのであ」る。
ここで小生のノートは終りである。他には、15周年記念の「OB総会パーティ」について少し書いてあるだけである。あとは真白・・。
野望を抱き、俺達こそはと意気込んでスタートした我々ではあるが、総てが終った今、振り帰って見ると、あれもこれもと後悔がある。細かな反省は、吉川君を始め、各局長が「フロント・バッグ」の第20号に寄せているのでそちらに譲り、ここでは省略する。何も失敗ばかりであった訳では無いが、人間という物体は不思議な物で、何故か、良い事よりも悪い事の方が先に浮かんで来るのである。
唯、これだけは、何と言われようとも、声を大きくして言える。この1年間、無事故であった事である。
この一見して簡単そうであり、当然である事を実現する為にはどんなに労苦を必要とするかは、終ってみないと判らないと思う。小生の知る限り、ここ数年、事故の無い年はない様である。
安全性を最優先して来た我々の方向に誤ちはなかったと信じる。快適なサイクリングは安全という基盤の上にあってこそ、本物に成り得るのではないだろうか。後進の諸君に、クラブ観も違うだろうし、それぞれの方向もあるだろう。しかし、WCCがサイクリングクラブである限り、根底はここにあると思う。この事を充分に考えた上で、我々の出来なかった事をやって欲しいし、新しいWCCという物を創って行って欲しい。
15年の歴史に支えられたWCCは、これからも続いていくだろう。省資源が叫ばれている今日、自転車は又、見直され始めている。我々は、そんな大きな流れの中の一部に過ぎなかった様である。しかし、その大きな流れを、ほんの少しではあるが、変える事が出来た様に思う。
最後に、未熟な小生を見捨てる事無く、認め、助けてくれた、主将の吉川君を始めとする、執行部の仲間達に深く感謝して終りとしたい。
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