
- 主将の言葉 – 郡山
- WCCと私 – 会長 人間科学部教授 宮内
- 第36代の輪跡
- 春合宿「台湾」(3月12日 – 18日)
- プレ新歓 (4月中旬-下旬)
- 新歓合宿 (5月3日- 5日)
- 二年企画 (5月中旬 – 下旬)
- プレ合宿 (6月20 – 21日)
- 夏合宿「中国地方」(7月28日 – 8月11日)
- 7月27日・集合日 – 紙浦
- 7月28日・初日 – 山取
- 7月29日・2日目 – 河瀬
- 7月30日・3日目 – 熱海
- 7月31日・4日目 – 江川
- 8月1日・5日目 – 山取
- 8月2日・6日目 – 錺
- 8月2日・6日目 – 金
- 8月3日・7日目 – 堀江
- 8月3日・7日目 – 日々
- 8月4日・8日目 – 平井
- 8月4日・8日目 – 長濱
- 8月5日・9日目 – 森山
- 8月5日・9日目 – 勝野
- 8月6日・10日目 – 郡山
- 8月6日・10日目 – 紙浦
- 8月7日・11日目 – 河瀬
- 8月7日・11日目 – 杉山
- 8月8日・12日目 – 錺
- 8月8日・12日目 – 日比
- 8月9日・13日目 – 横路
- 8月9日・13日目 – 大野
- 8月10日・14日目 – 熱海
- 8月11日・最終日 – 横路
- 耐久ラン
- 一年企画 (10月25日)
- 早稲田大学・同志社大学交歓会 (10月31日 – 11月3日)
- 追い出しラン (11月22日)
- 特別寄稿
- 編集後記
- Editor’s Note
主将の言葉 – 郡山
主将の言葉
第36代主将・郡山
夏合宿も途中脱落者や大きな事故もなく、姫路にて無事終了できた。スタート地点の下関の時点では下見において江川がトラックとの衝突により自転車を大破、紙浦は下りの最中に転倒しフォークを破損しており、今後の合宿に不安を感じざるを得なかった。しかしこのクラブのすごいところは決してめげないことである。江川は1年に自転車を借り下見を続行させ、合宿も鳥居さんから自転車を貸してもらうことによって参加できた。紙浦は同じ1年の勝野に自転車屋まで2台の自転車をバイクロープで結んでひっぱってもらい、また東京からはフォークを送ってもらい合宿には間に合った。
合宿中は暑さにまいることはあっても、コースそのものはそれほどきついものではなかったので、そつなくこなせた。だが私のいた比婆班は距離が長くナイトランになることが多かった。そのせいか、キャンプ場ではやる事はきっちりこなしていたが、動きはいまいちではあった。決して好ましい光景ではないが、1年のうちはこれでもいいと思う。私はラン中やキャンプ場でだれろといっているわけではない。必死にこいでキャンプ場につき、着いたと同時に飯の準備、テントの中に入ったのもつかの間、気づいたら「起床!」。ワケのも分からず終わった1年も多いと思う。だが、これで次回からは、何をすべきなのか分かるまた2年も合宿の何が良かったのか、何が悪かったのか、自分たちには何が足りなかったのかが分かってくるはずだ。今年は安全意識が高かった、ヘルメットをつけるのが面倒くさいと感じる人間はいても、装着する理由は分かっていた。声出し、手信号を怠ることは後ろの班員の命を脅かすものであることを知っていた。この事にもしかして気づいていない人がいるかもしれない、だがこのような共通の認識が自然にできるのも合宿である。1人で動いているものではなく、全員で動かしていくものなのである。
私はクラブランにいつも「泥臭さ」を求めていた。決してスマートな走りではないがひたすらこぎ続ける、一心不乱になれるWCCの走りが好きだ。それは走る面においてだけではなくキャンプ場においてもである。なんかすまして突っ立てるのでなく、自分から進んで動く。ぜひともワセジャーをまとっている理由を考えてほしい。それは軽いものでもいい、また重くてもいい、しかし常に同じ黄色いジャージの輪の中にいることを忘れないでほしい。これから後輩たちの多くは執行部につく事になるであろう。そのときに自分の狭いテリトリーだけを守るのではなく積極的に動きまわってもらいたい。確かにただ突っ立ているだけということは実に楽なことである、しかしそれと同時にそれは実につまらない事で、また悔いの残ることである。
確かにこの1年を振り返ると私も多くの事をやり残した、やり損ねたが、やってみたかった事もそれ以上にこなした。自分なりの36代を作り出し事に満足している。私が主将として最後に言いたい、「WCCよ泥臭くあれ」
WCCと私 – 会長 人間科学部教授 宮内
WCCと私
人間科学部教授・宮内会長
私がWCCの会長を上田雅夫教授から引き継いで何年が過ぎたのだろうか。ファイルを紐解いてみると、29代執行部の斎藤主将の時代からであるから、36代執行部の今年まで8年ということになる。歳月の流れの速さを、つくづくと実感するし、その速さは歳とともに増すようでもある。
就任早々のコンパで、40歳代のうちに一緒に走る機会をつくりたい、と挨拶したことを今でも覚えている。これは今でも判らないことではあるが、クラブの会長とはどのような役割をもつのか、自分なりに知ろうと思ったからに違いない。しかしながら、走るという機会はこれまでなかった。50代半ばになってしまった今では、それはもう無理だろう。
しかし、会長として、クラブを理解しようとする気持ちは、今でも変わらない。したがって、総会やコンパにはできるだけ出たいと思っている。これも今はままならない。渉外の担当者から聞くだけとなってしまっている。残念且つ情けない。走りは無理でも、夏合宿最終日の飲み会には、1度出てみたい。その雰囲気を味わってみたい。男だけの、若さ溢れる集団にあこがれるから・・・。
それがWCCと私の関係だと思うから・・・。
第36代の輪跡


春合宿「台湾」(3月12日 – 18日)
3月11日・集合日 – 錺
3月11日・集合日
「あーっ、もう早く日本に帰りたいーーっ!!」
2年·錺
飛行機で台湾に着いてから早くも数時間後、私はマジでそう思ったのだった。私と金ちゃんと大崎の3人は、空港からホテルの客引きのおっちゃん(たぶん)に連れられてリムジンに乗り込み、台北の街に着いた。そしてまずホテルでチェックインし、とりあえず真夜中の台北駅前をぶらついた。だが・・・、その後ホテルに帰りついた頃、3人は既にホームシックに陥ってしまっていたのだった。
ほこりっぽい空気、何しゃべってるかわからない人々、くさいコンビニのにおい、夜の街をうろつくのら犬たち、変なテレビ番組、などなど、あらゆる要素が、これまでは当たり前だった日本がいかにすばらしい国であったかを思い知らせてくれるのに充分であった。しかも私がコンビニで買った「楊桃汁」(おそらく日本名スターフルーツという果物のジュース)は、思わず吐きそうになるほどまずく、台湾人の味覚を疑ってしまった。(それでもなぜか全部飲んだのだったが・・・。)そして私たち3人は、口をそろえて冒頭の言葉をほざいていたのである。だが、重たい自転車をかついできた私たちはやはり疲れてヘトヘトだったようで、そうした愚痴もどこへやら、いつの間にか深い眠りについていたのだった。
次の日の朝、明るい太陽の光に包まれた台北の町は、やはりほこりっぽかったものの、高層ビルが林立し、人々や車がせわしなく行き交う、とてもエネルギッシュで近代的な感じの街であった。うーん、これぞアジアン・パワー。(なんじゃそりゃ)その後、私たちは列車で瑞穂まで行き、今夜は瑞穂温泉に泊まり、次の日台東へ向かって走れるだけ走る、というプランを考えた。自強号(東部幹線の)はディーゼルではあったものの、予想をはるかに超える快適さで、列車の旅が大好きな私ももう大満足であった。また、瑞穂温泉も昔ながらのひなびた温泉宿といった感じで、ゆったりと湯につかって長旅の疲れをすっかりと落とすことができた。
その翌日は国道9号を南下、途中で国道23号に入って約1000mアップの山越えをし、その後海沿いの国道11号をまたひたすら南下した。途中、おりしも雨が降りだしたものの、私たちはなんとかその日のうちに台東の街に着くことができたのだった。台東の街は想像以上にでかく、「おーっ、セブンイレブンや!!」「うわっ、マクドもあるっ!!」などと、思わずハシャいでしまった。(まるで田舎モン)そしてホテルでチエックインし、台東名物・刀削麺や水餃子を食べたり、夜の街をぶらついたりして、私たちはしっかり台東ナイトをエンジョイしたのだった。
そう、いつの間にやら私は、まるで自分がすっかり台湾人になったような(?)気分になっていたのである。2日前はあれほど日本に帰りたかったのに、である。やっぱり台湾はすばらしい!!トロピカルな気候、雄大な自然、おいしい食べ物、心やさしい人々、エキゾチックな文化・・・。それらすべてが、すっかり私を魅了して離さなくなったのだ。いつの間にか私は、台湾マニアへの道を歩み始めていたのであった・・・。
そしていよいよ集合日。(前置きが長くなってスイマセン。)遅い朝食を豆乳と油条(揚げパン)で済ませた私たちは、自転車に乗って集合場所の台東駅前へ。すると・・・、おおっ、皆さん、いますいます!ほどなく堀江も到着し、私たちは無事の再会を喜び合ったのだった。その後マクドで昼食をとり、それぞれ台東の街を再びぶらつき、買い出しを済ませて宿に帰った。
その夜の晩餐はステーキだったのだが、なぜか注文したものと違うのが出てくるわ、ステーキはしいたけの味がするわ、パンと紅茶は甘ったるいわで、日本のようなステーキハウスを想像していた私は少なからずびっくりしてしまったのであった。だが、とりあえずおいしかったので、明日からの過酷な合宿に備えるべく、エネルギーを蓄えることができたと思う。その夜は板敷きの間にザコ寝で、しかも蒸し暑く、ふとんも何かにおうので、なかなか寝つけなかった。そして、浅い眠りを繰り返しているうちに、目覚ましの音が耳をつんざくように、頭の中に鳴り響きました・・・。
3月11日・集合日 – 堀江
3月11日・集合日
2年・堀江
僕が台北火車站前でリムジンバスを降りた時は既に12時を回っていた。飛行機の大幅な遅れのせいで、こんな真夜中に見知らぬ海外の街を輪行袋を担いで1人さまようめにあった。その夜は雨も降っていて、初海外の僕は大変心細かった。車の排ガスは日本では考えられない程ひどく、歩道はボロくて、水たまりだらけで気が滅入った。それに、小学生の時噛まれて以来、大キライな犬がたくさんウロウロしているので発狂した。
そんなピンチの中、ガイドブックにのっている安宿「快楽家庭」を探して、30分位さまよった。そしてついに、「快楽~」の看板が見えてきた。それは安宿という感じだった。ようやく休めると思って近寄ってみると、それは「快楽家庭」ではなく、「快楽池」と書かれてあった。そして近くに高級車が2台位とまっていた。その時、僕はやばいと思った。そこからすぐに退散したが、もうホテルを探す気力は完全になくなった。僕はたまたま目にとまったファミリーマートで、ジュースを買った。それが激マズで歯みがき粉の味がする炭酸だった。メーカーは「黒松」というやつだった。
進退極まった僕は、ファミマの前でうずくまり仮眠をとることにした。時刻は1時位で駅では変なおやじが近寄ってきたので、明るいコンビニの前で夜を明かした方がましだと考えたからだ。4時位になったら駅に行ってみようと、うつらうつらしていたら、3時半位だったであろうか、変なおやじが近寄ってきて、まるで怒鳴るように話しかけてきた。やつは中国語でまくしたてるように話していたので、何を言っているのか全くわからなかった。だがジェスチャーで、「そこに座ってるな俺に付いてこい」という意味がつかめた。僕は「やだなー、こいつ絶対ボッタクリだ」と思い無視したが、そのおやじは店員を呼んだり、果てには、警察まで呼んだ。そのおやじはどうやらバスの運転手らしく、待合所につれていかれて、僕は警察にいろいろと取調べを受けた。「お前はどこへ行くんだ」と聞かれ、僕は「台東です」と答えた。「台東での知人の住所と電話番号を教えろ」といったが「そんなのないです」と答えた。
警察にあきれられて、パスポートを調べられた後、僕はパトカーに乗せられて台北駅派出所に連行された。そこで「汽車がくるまで寝ていなさい。」と言われたので、寝た。そしたら5時頃、1人の女が警察官に身柄を拘束され派出所にきた。僕の中国語パワーで、警官と女のやりとりを聞いてみると、女は窃盗を犯したらしく、職業は無職みたいだった。6時になり、僕は警官につれられて、プラットホームに降りた。そこで釈放された。僕は台北駅派出所のデカたちに感謝した。
気を取りなおして自強号に乗り込み約6時間、台東までの汽車旅に臨んだ。汽車は、薄汚れた市街地を通り、やがてトロピカルゾーンに突入した。だがくもっていたので、全然トロピカル気分じゃなかった。そんなことより、僕は眠かった。だが僕を眠らせないのが台湾だ。車中には大声で話す老人軍団がいて結局、台東まで一緒だった。それによく「へ」をこいていた。台湾では「へ」はオッケーなのかなとカルチャーショックを受けた。
台東駅につき皆の顔を見て何とか合流出来たと思うのもつかのま、自転車を組み立てる時、僕そして皆が冷や汗をかいた。マイ連行バックは空港のやつらにデストロイされ、デンヂャーな状態で輪行してきた僕は中身は大丈夫かと思い、袋から出して組み立てかかった。そしたらどうだろう。ハンドルのヘッドパーツが1コないではないか!みんな「これヤベーよ。」と言いビニールテープでぐるぐる巻きにした。そして組み立った自転車を見て思った。
「これはマジでヤバい。走ってる時絶対ハンドルがどっかに飛んでゆく。そして俺も飛んでゆくだろう。」
半ばあきらめに近い気持ちで、チャリに乗ってみた。そしたら全く後輪が動かない。
「畜生!おもいっきりシューがすっていやがる!もう台湾いややわ。」
と思って見てみると、ヘッドパーツがポロリと出てきて
「あれ見つかっちゃった?ゴメンね―」
と言った。僕は急に全身の力がぬけた。
凄絶なドラマを経て、ようやく宿についた。台東市街をぶらりとした後、みんなで行ったステーキ屋で、ステーキかしいたけか分からない味の肉をたべた。本当に台湾は変だ!こんな調子じゃいったいこれから先どんなことがあるんだろうと思った。その夜は爆睡した。
3月12日・初日 – 大野
3月12日・初日
3年・大野
今日は3年になって初めての合宿。合宿を作るというのは不安と期待が入り混っているものだ。これから何が起こるんだろう?はっきり言って不安の方が大きかった。とにかく走り切ることができるのかどうか、それが頭をよぎっていた。全員完走することを目指し出発を待った。
自分は副将として合宿を成功させることが出きるのか、そればかり考えていたわけではないがそれも思った。「さあ、これから出発だっ」
と思った矢先に錺がパンクした。パンクとは自分も長い付き合いだが、こればかりはしょうがない。不慮の事故とは突発的に起こるものだ。
話はとんでもうすぐ宿だというころ、突如がけ崩れが起こった。もうすぐで死ぬというところだった。マジでやばかった。
死の寸前というのを垣間見た。これを書いているということは今も無事です。
3月12日・初日 – 杉山
3月12日・初日
「台東、不可再見」・されど犬
2年・杉山
自転車にまたがり、台東站を後にしようとすると、何やら薄汚れた1匹の犬が僕らの後をついてくる。しかし、のら犬とはいえ、彼女はどこかしら品があり、また、さびしげな感もある。どうも赤の他人とは思えず、しきりにうしろを、ついてきているか気にしながら走る。とうとう彼女は市街地を完全に抜けるまで、僕らに伴走してくれた。ありがとう。
・ノスタルジック利稲(リトウ)
坂を下り、霧の中から利稲の町並みが見えてくると、突然、郷愁感がこみ上げる。
―狭い路地をはさみ、不器用に並ぶ家屋。
―小学校の教室から流れてくるふぞろいなリコーダーの音色。
―決して活気があるとは言えない商店街。
―どこそこから自然と集まってくるのら人達。
にぎやかではないが、そこはかとなく人間の営みをかもしだしている村の様子は、日本の片田舎ならば、どこででも見られそうな風景。もちろん僕の郷里でも。
・飯屋の少女
小さな軽食屋を、おかみの右腕としてテキパキときりもりしていたのは、「お嬢ちゃん」と呼ぶにふさわしい小さな女の子。彼女はさらに小さな弟の世話をしながら、いじらしいくらいに、しっかりとしていた。
就寝前、ロフトからぼんやりと広場を眺めていると、飯屋の少女が自転車をこいでいた。広場の中をぐるぐるぐるぐる。自分は子どもだ、ということを思い出しているように思えた。
3月13日・2日目 – 江川
3月13日・2日目
3年・江川
朝4時起き。小雨まじり。泊まった『利稲山荘』で朝4時のめしを食べて5時に出発した。この日は台湾合宿の1番最初の峠で標高はなんと2,700mだ。私はここの下見をしていてここのつらさを痛いほど知っていた。もう1人の下見をした人、某Y取君は、
「もう、ここらへんで○△×☆×△・・・・・・せえへん。」
くわしく書くとあとがこわいんで書きませんがとにかくつらかったです。ここを2度も走るなんて。これも1番上の学年になったうれしい苦痛なのかもしれない。
この日にとまった山荘でオーナーの子供2人と仲良くなった。「チ○コ、マ○コ」と言うと異常によろこんだので、そればかりを連呼していた。日本人が見たら変態青年だったのだろう。
まぁー、そうこうしているうちに2日目の夜が更けていった。
3月13日・2日目 – 金
3月13日・2日目
2年・金
さあ、2日目、今日のコースは、利稲(リーラオ)-2,700米地点-梅蘭-甲仙。
全Cは僕のはずなのに、なぜか堀江に起床コールを先にかけられ、朝からムカつく。宿で朝めしを食う。なにげに既にナエショボ状態になっている私。そう、それは昨日の、落石目撃ドキュン!のため。
「10秒遅かったら死んでたなぁ。」しかも、外はまだ真っ暗。「なえるなぁ。」
落石の危険を恐れて、ヘルメットを着用して出発。僕の肩に緊張感がのしかかる。最初の1発目、我々国民党軍は皆、無口。しかし、後ろから共産党軍の声が僕の耳にまとわりつく。もちろん1番声がデかいのは、Nハマさん。今日も、ハマラジオは快調のようだ。
2発目の途中から、太陽が顔を出し始める。「助かった。」昨日とうって変わって、快晴になりそうな予感。
6発で2,700地点まで登る。いつのまにか、雲が下に見えている。「のぼってますねえ~。」
国民党合唱団のライヴの始まり。みなさん、声を弾ませます。みんなで男呼闘組「TIMEZONE」の練習。
11時過ぎにピークに到着。景色は最高。でもゴミ多すぎ。
「ここから超絶ダウンヒルだぜ~。」
下り途中にて、カザリンがメカトラー=ノック状態に陥る。なんとか昼めしポイントに着くものの、前班の姿は無し。メニューは、白飯、マーボドーフ、貝のスープ。なかなか美味でござりました。
記憶に残らないようなUP・DOWNをウダウダとくりかえし、甲仙にGOAL。
空気が悪く、肺が痛いのは私だけかと思うのだが、錺、大崎も痛かったらしい。
自助餐にて、夕めしを食い、激ペコ状態を脱出。宿屋にてしばしの自由時間。宿の子供たちとたわむれたあと、就寝。「おやすみなさいませませ。」
3月14日・3日目 – 大崎
3月14日・3日目
つらかった
2年・大崎
3日目。早朝4時に起きた。普段、僕はいつもこのぐらいの時間に寝るので、こんな時間に起きるのは不思議だ。起きたと同時にカップラーメンを食う。起きてすぐのカップラーメンは、ほろにがく、くさかった。何度もゲロを吐きそうになりながら無理やり食った。
5時に出発。CLは杉山だった。杉山のCLで走るのは初めてだったが、普段の言動を見てるかぎりでは、あまりとばさずに、ゆっくり走る奴だと僕は思いこんでいた。しかしそれはもうビックリだった。ビックリしすぎて屁が何度かでた。いや、何度もでた。それぐらい豪快な走りを杉山はあの太い足で演じてみせた。そんな杉山が途中、台湾の1人暴走族に好かれて、併走され出した。その1人暴走族は杉山に自分と同じものを感じたのだろう。最初は僕もおもしろがっていたが、排気ガスがすごくて、途中からムカムカしてきた。
どなりたくなったが、やはりどなれなかった。なぜなら僕は小心者だからである。そんな小心者の僕が、杉山にペースが速いとは言えるわけがない。1人暴走族に刺激されてか、杉山はすさまじく恐ろしいペースでガンガンのぼっていく。幸い僕の自転車のチェーンの調子が悪くて何度かはずれた。そのたびに、「すいません」と口では言いながら、「しめしめ」と心の中では思っていた。それぐらいつらい一日だったので、記憶があまりない。しかし、これだけは鮮明に覚えている。CL杉山のおそろしさだけは・・・。
3月14日・3日目 – 横路
3月14日・3日目
3年・横路
やけに人なつっこい子供たちがいた、温泉のでる風呂がある宿を、まだ暗いうちに出発した。ヘッドランプが無いと何も見えない。注意して走っていたのだが何かやわらかいものにつまづいて転倒してしまった。泥の山でもあったのかと思いヘッドランで照らしてみると台湾での最大の敵、犬ではないか。それもかなりでかい。こうなってしまうとやつらもかわいそうに思えてくる。
思えば大野との下見でも犬とのバトルの連続であった。初め僕と大野を比べれば大野の方が犬に対する恐怖心が大きかった。なぜなら彼は1年生の夏合宿から犬との激しいバトルを経験していたからである。一方僕の方といえば、犬が恐いなんて全く考えたこともなかった。実は僕の弟は犬にアゴをかまれて大ケガをしているのだが、人間やはり自分自身に害が及ばないと真剣に考えないということがよくわかった。初めて犬におそわれたのはなんと警察署の前の犬どもだと思ったがそれ以来、大野と僕の立場は逆転し、犬を見たらとりあえずどんな急な坂でもギアを重くし、逃げる態勢を整えることとなった。しかし犬とのバトルを経験していくうちに我々も成長し、ついに大野氏の革期的発明、「とりあえず大声を出して犬をビビらせその間に逃げきる作戦」が完成し、僕ら2人は犬を見たら奇声をあげ、地元民に白い目で見られながら下見をしたのであった。
3日目のことに話を戻すと、この日は翌日こえる峠のアプローチということらしく、でかい国道に出るまでひたすらに登った。国道に出たところでのみんなのつかれ具合はかなりのものだったが、予想外に到着時間だけは早くあと2時間は走れそうだったので、急きょ寝る場所を変更しあと2発延長し国道わきの広場でテン張った。今思い出すとこれが台湾で最初のテント寝であったのだが、疲労でそんなことを考える余力もなく眠りに入っていった。
3月15日・4日目 – 錺
3月15日・4日目
「起床―っ!!」
2年・錺
全Cさんの声が響きわたるとともに、まだ暗い中、皆起き出してテントをたたみ、朝食の準備。そう、ここはキャンプ場・・・ではなく、なっ、なんと、国道脇の小さな広場なのだ!!まさか台湾でまで野宿することになろうとは・・・。しかもここは標高2,000mはあろうかという高地なのである!最初のうちは少しためらいもあったものの、昨日のキツいアップによる疲労のためにもうどうでもよくなってしまったのだ。うーむ、さすがWCC。
こんなトンデモないことをいともあっさりとやってのけてしまうのだから。これほど貴重な体験ができるWCCに入部した私はやはり先見の明があったとしか言いようがない(!?)。さて、その後まだ暗いうちに私たちは阿里山へ向けて出発。昨日の疲れがまだ残っているためか、ペダルをこぐ足もなんとなく重いが、なんとか踏ん張ってようやくピークへ。
だが、ここは駐車場やガソリンスタンド、公衆トイレなどがあるだけで全然観光地っぽくない。また、辺りは霧に包まれており、折角の景色も全く見えない。少なからず残念ではあったが、美人のお姉さんが売っていた野菜まんがうまかったので、まあいいとしましょう。そして1行は少しアップダウンしたのだが、その後にはとてつもない下りが待ち受けていた。折りしも雨が降っており、霧のため視界も悪く、いつもなら楽しいはずの下りも、今回はかなりドキドキものであった。
最初のうち、私はブレーキシューが少し軽いかな?などとも思ったのであるが、まあ大丈夫だろう、と思ってそのまま下りだした。だが、途中から、「ヤバイ・・・。」そう、ほとんどブレーキが効かなくなってきてしまったのである!それでも私は次の休憩でシュー交換しようなどと甘いことを考えていたのだったが・・・。と、突然、CLの金ちゃんの、「徐行―っ!!ストップーッ!!」の声が!!前を見ると、土砂崩れで工事中になっており、でっかい車が止まっていたのだった。「ゲゲッ、うそっ!!止っ、止まらんー―っ!!」私はもう全力でブレーキをかけたのだったが、足の摩擦をもってしても自転車は止まらず、な、なんと、金ちゃんと大野さんを追い越し、反対車線を横切って、道の脇にあった砂利の山に乗り上げて、ようやく止まることができたのである・・・。
私はもう死ぬかと思った。もし前から対向車が来ていたとしたら・・・。そう思っただけで背筋がゾッとするようである。本当に下りでブレーキシューの交換を怠るととんでもないことになる、ということを、私は本当に身をもって痛感した。これからはちゃんと気を付けていきたいと思う。さて、そこで私を始め、皆さんもブレーキの総点検をすることに。かなり時間がかかり、前の班とはまた大きく離された格好になった。またしばらく下ると、ようやく雨も止み、霧も晴れ、少し気持ちよくなってきた。更に下ると、今度は暑いくらいの晴天である。全く山というのは天候不順なものである。そうこうしているうちに、私たちは昼飯休憩ポイントである同富の町へ。そこでなんとか前の班に追いつくことができ、とりあえずひと安心。
そして昼飯は、うちの班+ボスメカはいつも通りに焼そば&チャーハンのダブルを注文!!また今回も無視されんのとちゃうか?などと思っていた私だったが、なぜかちゃんと出てきてしまった。食うのが遅い私(山取さんが2品食べる間に私はやっと1品)はちょっと困ってしまったが、残ったチャーハンをコへ弁にするというナイスアイディーア(?)を思いつき、見事実行。そのおかげでその後の道のりでもハンガーにならずにすいすいと飛ばし、間もなく私たちは台湾の代表的なリゾート・日月潭に到着。
だが、さすがWCC、リゾートをエンジョイする人々を横目に、美しい風景の湖畔をもうすっとばすのなんの。ウェディングドレス姿で記念撮影していた新婚さんたちもきっと、「何じゃありゃ?」と思ったことでしょう。さてさて、あっ、と言う間に日月潭を通過してしまった私たち。本日のゴール・埔里はもう目の前。噂によると埔里はなかなかの都会らしい。
ナルホド、街に近づくにつれて車やバイクがビュンビュン飛ばしている。そして実際に台東以来の都会・埔里の中心を抜け、1行は夕飯ポイントへ。ここでは、みそ汁が激ウマイ、とのことで、長濱さんはとても御満悦のようでした。さて、夕食後少し走って、私たちは台湾地理中心碑のある公園に到着。だが、イキナリ驚愕の新事実が!!なんと、今夜はこの公園でテン張るというのだ。こんな街のド真ん中の公園で、である。しかし、昨日台湾初野宿を経験した私には、もうどうってことなかった。物珍しそうに見てくる人々の視線もなんのその、私たちはテントを張り、トイレの洗面所で髪や顔を洗い、久々の都会の夜を楽しみ、次の日に待ち受けているとされる地獄のアップに憂鬱になりながらも、いつしか深い眠りについていたのだった。
3月15日・4日目 – 長濱
3月15日・4日目
3年・長濱
自分自身の下見担当日であったことと、昨日犯してしまった大チョンボのこともあって緊張感をもって迎えた朝。この日の行程はさほどきつくもなく、下見時の記憶もハッキリしていたのだが、昨日から続く体調不良が非常に不安であった。重度の便秘から来る下半身のだるさに、ものすごいダメージを受けていたのだ。昨夜、大野からもらった下剤がきいて、3回ほど野糞をしたのだが、いかんせん下剤ビギナーであったため、朝になっても腹の緩い状態が続いていた。皆からとてもいたわってもらったのだが、1人主将の郡山のみ、理不尽な精神論をを唱え私の体調にケチをつけていた。確かにこういう合宿中に、たとえ本当に調子が悪かったとしても3年たる者、士気に関わる言動はせず、やせ我慢すべきなのかもしれない。
しかし、それにしてもこの件も含め、郡山の(ほとんど特に私に対する)反感を強く感じる程の言動に、私は「ああ、こいつと夏合宿は同じ班になりたくないなあ。せめて一緒のテントは嫌だなぁ」と感じた。尤も、今となっては奴の性格をかなり受容するようにはなって、そうは思わなくはなったのだが。食欲激細。ハンガーノックをかじっていつも通り5時発。2発後阿里山(アーリーシャン)着。
ここは本当の阿里山頂ではなく、国道と阿里山道の分岐にすぎない、つまらない所だ。その次に私と郡山の下見時に素晴らしい雲海を見た上東埔につくも、雨の為、ただくそ寒いだけであった。ここから先は激下り。雨が降り見通しが悪く、マジで寒く怖い下りだった。途中地すべりで足止め。重機が現場に入り作業をしている間、1班はブレーキシューの交換をしていた。私たち2班は、現場を押しで脱出した後、ブレーキシューの交換をした。下りが終る頃には天気もすっかり回復し、今日初めて見る集落の大衆食堂で昼飯。メシを喰っていると、BMWに乗った爺ィが檳榔(びんろう)のカスを私のチャリぎりぎりのところに吐き捨て、かなりトサカにきた。暑くなってきてワセジャで走る。
この次の休憩ポイントでは、商店で日本語堪能の爺さんに「アンタアソビニキタノ?」と聞かれ、江川が「旅行(ルーシン)」と、マニアックなチャイ単語で答え、自らのエスプリを誇示していた。ちょっとしたupを経て日月潭(リーユエタン)へ。前の休憩から35分程だったが余りにも美しい湖に班員一同心を奪われ、早攻で班長判断を入れる。そうこうしているうちに1班に追いつかれる。彼らは休憩しなかったようだ。本当にストイックにペダルを踏んでいるなあ。やはりボスメカ班だからかな?と、妙な関心を覚えた。この日のゴールは南投県の中心、そして台湾地理的中心の埔里(ブーリー)である。
廣末涼子の輸入版まではびこるこの大都会での主将の判断は、《野営》。さすが亜熱帯、蚊の量は今合宿最大で杉山は哀しげな瞳で夜空を見上げ「何で宿じゃないのさ・・・」萎えるな杉山、ほら江川を見よ近くのセブン‐イレブンで買ってきた$28のホットドッグで満足しているじゃあないか本当に安上がりな男よ江川君。それにしても嘆くな杉山、明日があるさ2,800upの明日が、地獄日の明日が・・・。
3月16日・5日 – 杉山
3月16日・5日
白い、一日
2年・杉山
人間は、これから先に、困難や、苦痛が待ち受けていることを知ると、そのショックに備え、無意識的に心の準備をするものです。そして大抵の場合、それが激しい動きや、発汗を伴う緊張という形で表れるのです。
しかし、その心の準備にも限界があるのです。受け入れられる以上の運命、一切の希望さえ持つことが許されない状況に置かれると・・・。
第2次大戦末期、ソ連軍により解放されたアウシュヴィッツのユダヤ人たちの中には、解放されたというのに、喜び、といった人間的な表情をほとんど失ってしまった人が、かなりいたそうです。
彼らは白かったのです。
僕も、白かったのです。
このような精神状態にあったせいか、この日の僕は実に淡々としたペースで、動きました。
・1発目終了時
長濱さん「杉山、少しペース早いよ」(→大変申し訳ありません。)
僕「・・・(なんで?)」
・3発目あたり
班員「おう、ここが霧社か。」
僕「・・・(うん、うん)」
・「斜度9%・15公里」という標示を前に
江川さん「えっ!マジで?」(怒る)(→お許し下さい)
僕「・・・(クックックッ・・・)」(笑う)
・昼食後、いいよいよ霧は深くなり、雨と強風が加わる
長濱FM「”オッ!!」(電波、切れる)(→お許し下さい)
僕「・・・(ブッ・・・)」(切れる)
・そして頂上。
班員「△口☆※○!!!」(歓声)
・そして僕は、
「ああ、嬉しくなっちゃた。」
・・・という訳です。(おしまい)
※なお、詳しい道程を知りたい、という方は金の日記をどうぞ。
3月16日・5日目 – 金
3月16日・5日目
2年・金
5日目、修行日である今日の行程は、プーリー – 武嶺(標高3,275公尺) – 大禹嶺(ターウーリン)。9発登ってピークに到着予定。標高3,275米、驚異的な数字である。私は一抹の不安を感じていた。
「標高3,275、可能なのか?」
話は飛ぶが、いきなり昼めしポイントに到着。そこまでは、まあある程度スムーズにいけたといっていいだろう。この時点、登りはあと3発。ここで、「もうあと3発か。楽勝じゃん。」と考えるか、「えーまだ3発あんの〜。」と考えるかである。私は後者であり、まだまだ自分の未熟さを感じるのである
9発あるうち、どこが1番キツかったって言えば、個人的に8発目である。私の記憶では急勾配が続いた記憶がある。
「いや~あの8発目はマジ死んでたなあ。」(回顧)
やべえと思いながら、休憩を待つ。班長判断の休憩というのは、精神的にキツい。時計を何度も見る。私はもうかなりイっちゃってて、頭が朦朧としていた。
「やっぱ、空気がうすいってことなのか。」
10分休憩では、自転車を降りることができるのだが、寒い、寒すぎる。自転車こいでるほうがいいと思うほど寒い。残りあと1発。
「耐えられるのか。」
自問自答を繰り返す。
9発目、スーパーCL錺、何を思ったのか、次の発言。「歌、歌ってもいいですか?」
爆笑。錺の「Driveに連れてって」。妙に心に響く。錺の歌と強さに感服。
武嶺に到着。みんなで記念撮影。今でこそ、「3,275だぜ~。」だが、その時には、あまりの寒さに感慨にふける余裕はなかった。霧が濃い、雪が残ってる。集中力が要求される下りだ。途中にて、前班メカトラ、うちの班もブレーキシュー交換。「もうLXだめだなあ。」と感じる。
ターウーリンに無事到着。「おめでとう。」WCCらしいポイントにてテン張り。メシ食った後、EPIガスで体をあっためる。今日は早く、就寝モード。錺と足の臭いを競い合ってシュラフイン。「おやすみなさい。」
翌日、一日目に感じた「死の恐怖」をまた体感することになるのだが・・・・・・。
これで私の全員日記も終了。そこで台湾について感じたことを書いてみよう。台湾で嫌だったこと
- 空気悪すぎ
ちょっと大気汚染ひどいんとちゃうん? - 落石、土砂崩れ多すぎ
ちょっと地盤ゆるすぎるんとちゃうん?
後は台湾は最高だった。シーメーもうまいし台湾人もやさしく接してくれた。車の中から「食油(チャイオー)(がんばれ!!!)」とよく声をかけられました。
以上。

3月17日・6日目 – 山取
3月17日・6日目
3年・山取
朝、目が覚めた。皆、沈んだ様子であったようだった。昨夜就寝時、激しい雨が降っていたのだ。更に3,000m近い標高でコンロで暖をとらねばならぬほど寒かったのだ。そして何よりもここは台湾なのだ。それなのに天皇郡山の鶴の一言で廃屋の前でテン張ることになったのだった。
大部分のクラブ員もそうであると信じたいが、私は合宿中はとにかく楽しい夢を見る。合宿中あまりにキツい毎日を過ごしている私に、神様がせめて夢の中は、との配慮をして下さるのではないかと私は考えている。そして例にもれず昨夜も楽しい夢を見ていた。というか、入学以来最も楽しい夢だった。昨日、標高3,400mまで上がったごほうびなのだろう。そしてその夢とはスピードの夢だ。江川と高雄でCD屋の下見をしてスピードのアルバムに目をつけて以来、私はこの合宿中スピードにはまっていた。いや、この際はっきり言うとスピードというよりは上原多香子の夢だ。私と多香子は夜の六本木で飲んでいた。
オレ「お前まだ高1なんだからあんまり飲むなよ。それに人にバレたらどーすんだ」
多香「大丈夫」
オレ「明日も朝から仕事だろ」
多香「いいのいいの。次はカシスソーダにしようかな」
オレ「こいつう」と言いながら多香子の頭をこづく。すると、
多香「起床~っ」
オレ「ええ~っ。何やねん」となり冒頭へ。つまり私は超ブルーだったのだ。半ば目を閉じてテントから這い出し、ボー然と朝食のプリングルスを食い、夢遊病の様にパッキングし、死人の様に出発した。しかし行く手には本当の地獄の谷が待っていた
私たちはフル装備で下る。下りといっても下り気味の平地という感じで、ペダルを踏み込まなければ減速してしまう。30分程下った頃、道の真ん中にゴミバケツが置いてあり、見知らぬ台湾人男性が何か叫んできた。「何言ってんだ」と当然無視してさらに下る。更に10分程下った頃だろうか。「ストーップ」という金の叫び声が、ようやく白みはじめていた周囲に響き渡った。慌てて急ブレーキする私たち。何と昨夜の激しい雨のせいか、崖がくずれているのだ。土砂が山積みになっているだけでなく、道自体崖下へくずれ落ち、20m近く道がなかったのだ。よく理解できない描写だが、とにかく私たちは仰天した。
後続班を待って引き返し、安全な所まで行ってから話し合った。因みに安全な所というのは地面が安定している所ではなく、上から土砂が落ちて来そうにない所だ。実は初日にも岩が頭上から落ちて来て、3秒遅ければボス・メカはやられていただろうというくらい危機一髪な状況があったのだ。とにかく人に聞いたりして、東西橫貫公路を70キロ下って花連まで行き、最終日を前にして花連で合宿終了ということに決定した。台北まで行きたいという気持ちがあったが致し方なかった。
気を取り直して1行は下り始めた。2発で50キロ先の天祥まで行くのだが、雨とものすごい霧で本当に厳しかった。合宿中の長い下りと頻繁に降った雨のせいでブレーキシューがメチヤ早く擦り切れて行く。今回もブレーキシューのことを考えながら下っていると、突然対向から車が突っこんで来る。いつもなら怒る場面だが、この道はまだ通行不能ということが明らかになり、ホッともした。標高もかなり低くなり、霧が晴れてから結構経った頃、又も目の前で土砂が山積みになっていた。あと200mで天祥だぜ。台湾公路局頼むよ。今度は余裕だった。
台湾公路局のショベルカーが早くも土砂の除去を始めていたからだ。周りの気象状況などに影響されず冷静でいることは大切だ、と考えながらハンガーを食っていると、ものの10分くらいで通行可能になった。天祥に着いて飯を食って再出発。帰国後パンフレットを見ると結構台湾ツアーで訪れるらしい太魯閣峡谷を私達は下った。因みにこの太魯閣峽谷とは北海道の層雲峡のような崖と川だが、こちらの方がはるかに素晴らしかった。ツアー客が観光バスから見る風景を私たちは自転車に乗りながら見るのだ。下りで。しかも20キロ。良くないわけがなく、とても気分が良かった。さて平地に出て花連まで後30キロというところまで来た。
ここまで来ると金はもう壊れていた。平地に入った途端、彼は猛然とペダルを踏み出したのだ。着いて行きながらサイクルコンピュータを見ると31キロ。班長の大野はちぎれていた。「マジで着いて行けなかった」本人談。
というわけであっという間に花連に着いた。駅前で乾杯。私・金・錺の乾杯シーンをカメラにおさめるべく、大野が持っていたコーラを花壇に置くとそれを、男か女かわからないくらい怪しい人間が飲もうとした。大野は切れていた。全員揃った後、自強号台北までの切符を予め皆で買い、駅前の青葉大飯店へ。1泊1,500円位だったかな。たいしたことのないホテルである。だが私は、ホテルの廊下を歩いていた錺の独り言を聞いた。
「何てええホテルなんや」
私はこう思った。
「何てええヤツなんや」
3月17日・6日目 – 大崎
3月17日・6日目
くさかった
2年・大崎
6日目。今まで生きてきた中で3本の指に入るぐらい、不快な目覚めだった。と言うかほとんど眠れなかった。なぜなら、野宿した場所が高度2,000mを超えていて、背がちぢむほど寒く、雨もどしゃぶりだったので、シュラフがグチョグチョになって手足がふやけるほどだった。本当に狂いそうになった。なぜ僕はこんなことをしているのかと本気で思った。サイクリングの厳しさを、改めて知った朝だった。でも僕はCLだったので、気を取りなおして走った。
そんな時、すさまじい崖くずれ跡に出会った。本当にすごかった。前Cが金ちゃんだったので、誰も事故なくすんだと思う。僕が前Cだったら、危なかっただろう。そう思うと今でもゾッとする。この崖くずれのため、コース変更をしなければならず、事実上この日でゴールすることとなった。CLは僕なので、自分のペースで走れるので雄大な台湾の景色に涙しながら、順調に進み、ゴールした。あっという間の6日間だった。ゴールして座りこんだ時、足からはげしい刺激臭が鼻をついた。夏合宿よりくさかった。あまりのくささに目にしみて涙が出てきた。いや、この涙はゴールしたよろこびで出た感動の涙だったのだ。無感動な奴だと思われていた僕の目に感動の涙が流れたのだ。こんな涙を流せたのだから、今回の春合宿は僕にとって、大成功だったと思う。

3月18日・最終日 – 堀江
3月18日・最終日
~奇跡の生還~
2年・堀江
前日の「土砂崩れによるルート変更」のため、自転車による走行は花連で打ちきられ、台北までは汽車による移動となった。ラッキー!なんて全く思っていない。俺はまだまだ台湾を攻め足りていない。俺のダチだって同感だ。奴は輪行袋の中でこう悲鳴をあげた。「俺をはやくここから出しやがれ!はやくエサをよこせ!」俺は奴にこう言ってやったさ。「まあ待てよ。もう少ししたら最南端にでも行って日焼けでもしようぜ。」
ダチをなだめているうちに汽車は台北についた。今日はメーリー大飯店に御宿泊。5つ梅ホテールに、こんなみすぼらしい身なりで行くなんて、おらあこっぱずかしいだあと思った。
ホテルに着く。昨日の花連のホテルでさえ、夏合宿の宿以上なのに、このホテルときたら、ホテルの皆さんと僕たち両者困惑顔での御対面をして、部屋に行った。
6時までフリータイムなので、1年同士で台北駅までタクシーに乗って見物に出掛けた。タクシーの運転は過激だった。まさにこの道は俺が通る道だ!そこの原チャリどきやがれ!どかないとひいちゃうよ。という感じだった。きっとあのタクシーのおやじは、タクシー仲間の間で「殺しの陳」とか呼ばれて一目置かれているに違いない。
台北駅前でタクシーをおりて、マクドに入った。久々のファーストフードに舌つづみをうつ。日本と味は同じだったが、ポテトにケチャップをつけて食うのに感動した。その後、僕は金さんと一緒に高島屋に行った。なんかショボいなーと思って1時間位見たが、それは高島屋ではなかった!そのとなりにある別のデパートだった。気を取り直して高島屋に入る。売っているものは日本製が多く、ここは日本かと思ってしまうほどだった。
そして6時になって、みんなで白木屋にいった。そこで久々にビールをのんだ。台湾ピーチューをのみながら僕は郷愁にふけった。ああ・・・やはりビールはキリンラガーの方がいい。早く日本に帰りたい。
程々に酔って(しこたま酔いたかったが、外国だったので)ホテルに帰った。そして夜景を見ながらウーロン茶を飲み、台湾に来てから色々あったなあとしみじみと感じ(ウソ)明日からの後プラの英気を養うべくベッドにもぐり込んだ。
3月18日・最終日 – 郡山
3月18日・最終日
3年・郡山
電車の中でゆられての台北IN。前日にガケ崩れのためしかたなく自強号に乗っているのだ。大崎が合宿中最高の笑顔ではしゃいでいる。考えてみたら、1週間のうち3回もガケ崩れにあうこと自体、異常なのである。
ところ変わって、場所は台北駅。駅がでかすぎるため、写真ポイントがみつからない。けっきょく、歩道橋の上で撮ることになった。みんなはずかしそうに集まったが無理もない。東京駅で写真をとるようなものだ。しかし信じられないことに歩道橋のどまん中に、バカシューが寝そべって写真をとろうとしているではないか。洪水のように押しよせる人なみの中で私はN氏を強引におこすことになった。
その次に大変なのが、美麗華大飯店までの車の多さである。しかし着いてからの喜びもひとしおである。本当に汚しがいのあるホテルだ。
ラストの打ち上げ、当たりハズレのない「白木屋」になったが、江川や杉山がウエイター相手にタフなことおどろいた。
杉「ネーちゃんネーちゃん。」
江「えっと、これ下さい。」
形だけの打ち上げも終わり、大野が風俗班を引きつれたが、後日談では単なるマッサージにおわったとか・・・。

プレ新歓 (4月中旬-下旬)
鬼軍曹物語 – 郡山
鬼軍曹物語
3年・郡山
1998年4月28日大月駅に集合せよ、との招集を受けた。俗にいう赤紙である。私は29日の午前1時11分に到着した。改札口を抜けるとそこには、軍曹、大崎と紙浦が待機しており、小隊に合流することができた。新米の日比と勝野は早朝の作戦に備えてすでに寝ているとのことであった。駅からすぐに前線基地があるらしく、歩いて5分くらいのところの駐車場に移動させられた。駐車場にはテントが1ハリ張られていた。
私をはじめ、軍曹、大崎、紙浦は外で寝ることになった。しかし大崎はシュラフを忘れたらしく、ゴアのみでの挑戦となり、夜の冷え込みは尋常でなく寒さは大崎を容赦なくおそった。私はこのまま大崎が動かなくなるのではないかと心配したが、ときおり見せるわずかな動きが、私を安心させた。朝になると寒さのあまり、起床の5時半を前もって起きることになった。大崎の姿はすでになく、辺りをようやく見わたすとフェンス際のところで体育ずわりになって放心状態となっていた。どうやら彼は夜中、駅などの方に行ったが一睡もできなかったらしい。
そういう私も満足に睡眠をとれたわけではない。しかし今になってみると、これも全て軍曹の思惑のうちだったのかもしれない。
朝食をとった後、一行は富士急線で河口湖駅に向かった。駅到着後、早速自転車の組み立て作業に入った。さすがに1年は初めてのことだけに何をしていいかわからない様子だった。時は過ぎ出発予定を大幅にこえていた。しかも紙浦が自転車の設定にこだわる始末。明らかに軍曹の顔が不機嫌であった。私は恐かった、ただ恐かった。
軍曹のたてた企画は実に練りこまれていて、もう何度も哨戒しているお気にいりの行軍コースらしい。富士山、山中湖と次々にすばらしい風景が目の中にはいりこむ。そして、走った。50分走った、70分走った、80分走った?軍曹そろそろいいんじゃないかと思いつつ、気付いたら2時間近く走っていた。
つぎは400mup程あるらしかったが、ペースは決して変わることがなかった。しかし実はピークが100mupしないうちにきてしまい、ここぞとばかり大崎はこの未曾有の400mに大はしゃぎしていた。この時ばかり軍曹は苦笑い。上下軍手を装着している際、1台の車がとまった。さしづめ私がホネホネ男なら、車からでてきた男はコンニャク男だった。彼もどうやらサイクリング歴があるらしく懐かしそうに話しかけてきたが、軍曹も負けていない。行きもしないヤビツ峠に行くと言ったり、決して敵には正確な情報を渡さない姿勢はさすがである。
この後ダウンが続き休憩を1回はさみ昼飯ポイントまでこいだ。途中アップにあったがもちろん軍曹は来たる決戦のために決してペースを落すことはなかった。私や大崎も何とかくらいついていたが、1年はつらそうであった。日比はひたすら立ちこぎで自転車をゆらしながら上り坂を登っていた。昼飯ポイントに着いた時は、みんなへばっていた。午後のために腹ごしらえをするために店にはいるが、カップラーメンしか店内にはなかった。やはり携帯食しか許されないのだろうか。疲れきった表情で日比は聞いた。
日「今どれくらいアップをしたのですか?」
軍「エッ、今アップしたっけ」
日「…。」
参りました、軍曹。しかしそれは1年にはきつすぎるんじゃないですか。
軍「ぼくー、日比に合わせてましたよ(ペースを)」
一同、唖然とするしかなかった。
何やかんやで、本厚木に4時半に到着した。駅周辺になると、ローカルな小さい道を走りはじめた。左へ右へ途中、私はこのまま誘拐されるんじゃないかと勘違いした。本厚木駅での整理体操の時に私は1つの提案をした。
郡「ここ地元でしょ、みんなでS山、K吾、K吾、K吾とさけぼうか?」
軍「首をヘシ折っていきますよ。」
私はこの時、世の中言っていいことと、悪いことがあることを学んだ。

新歓合宿 (5月3日- 5日)
新歓合宿 – 河瀬
新歓合宿
1年·河瀬
◎5月3日(日)
前日、戸山公園ではじめてテントで寝た。思ったよりよく寝れたが、せいぜい2時間程度であった。緊張しつつ、大熊講堂前に行き、早稲田ジャージにそでを通した。しかし雨が降ってきてしまい、ゴアをきてスタートした。出発した当初は「クルマ」とか「障害」などと叫ぶのは恥ずかしかったが、そのうちに気持ちよくなってきた。都心をぬけ、埼玉県に入り、くさい茶畑のわきを通り、山道を登り出したが、この日のメインイベントは子の権現であった。これには驚いた。なにしろ、これほど急な坂は見たことがなかったからだ。実際、こぎ出すと前輪が何度となく浮いた。おまけに坂の中ほどで転んでしまった。最後の力を振りしぼり登りきったら、情けないことに貧血気味になってしまい、その時僕はとんでもないところに来てしまったと思った。その後、何とか回復してキャンプ場についたが夕食のカレーはとてもおいしかった。新鮮というものを通りこしショッキングな一日だった。
◎5月4日(月)
2日目をむかえ、班もだいぶ雰囲気がよくなってきた気がした。上りがつづいたが、昨日のことを思うと心なしか緩やかに感じ、「何とかなるぞ」と思えた。そして下りもいくぶん要領が分かってきて、怖いという感情がうすれ、爽快感を多少味わうことができた。何といってもこの日は休憩中に食べるチョコレートがおいしかった。また、ぬれている前の日にはいたくつ下を、はいた時に自分の中の何かが崩れていった気がした。
◎5月5日(火)
最終日であるが、朝からフリーランのことが気に掛かっていた。そして急遽フリーランの距離が7キロに延びた。僕は不安な気持ちを抱えてスタートしたが、班で走っているときと違ってとても苦しかった。途中からは抜かれてもついて行こうという気力も失せてしまった。でもゴールするととてもホッとした。そして次回は気力がなえないように頑張ろうと思った。その後、無事に全行程を走り抜け、西武秩父駅に到着した。
◎合宿を終えて
わずか3日だったけれど、今までの自分のつまらないこだわりをぶち壊すには十分でした。そういった意味でも、とても有意義だったし、まさにゴールデン・ウィークを過ごすことができたと思い満足しています。ただ余分な肉がつきすぎていることを痛感したので、長丁場に耐えうるよう落としていきたいと思います。
(おわり)

二年企画 (5月中旬 – 下旬)
Mt.FUJI – 長濱
Mt.FUJI
3年・長濱
富士山攻めの企画は山に登る前日の駅寝から始まりました。御殿場駅:超イケイケのポイントだったが、地元民気性荒すぎ。寝ている堀江にゴミを投げてる奴がいた。大野と俺がそいつを見ると、そいつは俺らの方に食いかかってきそうになり、仲間に止められていた。堀江も寝ている時、「あいつらヤっちまおうぜ」という声を聞いたと言っていた。
朝:6時起、7時ちょい前出発。儂(ワシ)と大野、きんちゃんペースに殺される。自衛隊東富士演習場をつき抜け、スカイラインに入る。朝、出発時には激萎えの大雨だったが、このころには雨も上がり、結構楽しくなってきた。だがわしと大野がきんちゃんペースに殺されている事実に変わりはなく、まるで逆学年別フリー状態。我々は互いをけん制しあいながらのぼる。奴ら何(3年のふがいなさ)を語りながら登っていたのであろうか。そうこうしているうちに目標の新5合目に到着。売店&食堂ではカレーライスが1,000円で売られていた。高田牧舎よりも高い。ムーエルでは氷入り¥0の一杯の水も、ここでは20円。一体ココは何(ナニ)國だ?登山道でふざけて自転車にまたがって走ってみたりしているうちに天気がよくなってきた。下りは爽快。雲海をバックに写真をとったり、マッチョな自衛官のランニングを観たりして、もと来た道をピストン。
しょぼい路線には似つかわぬ激BIG・STATION御殿場で乾杯。その後ミニマックで胃を満たす。いい一日であった。
プレ合宿 (6月20 – 21日)
6月20日・1日目 – 勝野
6月20日・1日目
1年・勝野
プレ合宿、ここに僕が新歓合宿で経験したサイクリングはなかった。あるのはただ絶望のみだった。サイクリングについて、サークルについて、そして大学生活について、いろいろ考えていたが、ついにそんな余裕もなくなった。ダートの最終形態が現れたのだ。大弛峠である。
幾らペダルを踏んでも進まない河原の様な道、曲がっても曲がってもさらに前方に曲がり角を見せる果てしなく続く坂、長浜さんの声も遥か彼方に感じられる。絶望感はいつしか生命への危機感に変わっていた。「明日も又、こんなのがあるのか、いやむしろ夏合宿ではこんなのが30日間あるのに大丈夫なのか、」
既に腰、膝を通り越してふくらはぎまで痛くなった足で必死にこぎながら思った。先輩たちは時折楽しそうに資料走りをしている。僕はそのわきでひたすら死霊走りを続けた。
6月21日・2日目 – 平井
6月21日・2日目
1年・平井
キャンプ場を出発し、しばらくすると、チャリではのぼれそうもないダート道に入った。何度も足をつかざるをえなかった。同じ班であった河瀬と堀江さんは先に行ってしまい、僕と大野さんと江川さんは一緒に走った。あまりのつらさに僕はふてくされ、殺気だっていた。1時間ぐらい走っただろうか、ボロい小屋の前についた。そこからフリーラン。道というよりは溝といった感じの道が最初にあり、スタートした後、先輩の視野からはずれるとすぐにチャリを押した。それでも前日の雨でむかるんだ道はすすみにくかった。舗装なしのオールダート、しかも傾斜はきつい。そんなフリーランを終えた後にのこったものは達成感ではなく、怒りに似た感情であった。
同じコースを下り、麦草峠に向かった。僕はダメージが大きく、ちぎれるという屈辱を味わっていた。そして萎えていた。思えばこれがWCCでいう死であったのかもしれない。ちぎれつつも付いていき、雨が強くなったころ峠についた。そして下った。メルヘン街道という名ではあったが、この雨の寒さの中では皮肉としか思えなかった。途中セブンイレブンで休憩し、駅に着いた。つらかったがこの合宿で得たものは大きかった。まずダートに強くなった。そして、必ず走りきれるという自信もついたような気がした。

夏合宿「中国地方」(7月28日 – 8月11日)
7月27日・集合日 – 紙浦
7月27日・集合日
1年・紙浦
集合日、そう、あれは確か7月の27日、我々は下関駅の隣に寝ていた。そこは暗くて湿っぽくて、我々にはふさわしい寝床だった。こういう場所にはもちろん奴等がいる・・・・大量のゴキブリが。ここで寝ているとき、彼らが責めてきたので、おれはすべてK君の方へ追い払った。
この日の前日、ほとんどの顔がそろっていた。しかしE先輩とその代わり果てたチャリを見たのは、後のことだったと記管している。
みんな楽しそうに旅話をしていたが、食当の4人は腐っていた。勝野なんか、「超訳ワカンネー」と「やってランネーよ」を連発していた。・・・たしかにやってらんねえ気分だった。何せ8000円もテレカ代に費やしたのである。切れない訳がない。
ところで僕まだ領収書もってますよ、山取さん。
―コレって、「必要経費」ですよね、山取サン。
池田はなくしたらしいンですけど。
7月28日・初日 – 山取
7月28日・初日
3年・山取
まずは小言から。おい錺。オレは去年も全員日記初日だったぞ。初日はだいたいそれなりに大きい地方中核都市を出発して、2ケタから100番台くらいの国道を走って比較的早くにキャンプ場に着くというのがパターンだ。しかも今日はオレの下見。ホント書くことないんだよね。そして今日も例にもれず、下関駅で写真撮影のあと、日本海沿いに北上し、その後東進。ほどなく海に背を向け山を登り、俵山温泉へ。いきなりの入浴の後、湯冷めもせぬままキャンプ場へ。順調すぎるくらいの晩メシの準備。晩メシ完了。
初日についてオレが1番印象に残っているのはサッカーだ。郡山、大野両主将をキャプテンにHIBA V.S. HIRUZEN。2人のあまりのあつくなる姿に、今後の合宿の激しさを予感した者も多かっただろう。そしてこの試合で1番頑張った奴は誰か?それはおそらく日比だろう。アーセナルのオーフェルマウスのように左サイドを突破する姿を見て、皆は「さすが九州男児、さすが政令指定都市」と叫んでいた。風呂に入った気持ちよさもつかの間、汗まみれになってオレを含む1部の人間はテントに入った。おやすみ。
7月29日・2日目 – 河瀬
7月29日・2日目
1年・河瀬
今日は秋芳洞、秋吉台と観光名所に恵まれ、キャンプ地はあの萩ということ、更にコースも比較的楽ということなので、朝が何だかとても清々しかった。まだ2日目ということもあり気合乗りも満点で走り出し、しばらく行くと本日1つ目の観光ポイントである秋芳洞に着いた。少々割高の入場料に始めは不満でしたが、いざ中に入りその壮大なスケールを目の当たりにした途端、僕の目は釘付けになりました。おまけに洞窟の中にこうもりがいたこともよかったです。初めの不満はどこかに消え去り、出てきた時には満足感に溢れていました。
それからまたしばらく行って次は2つ目の観光ポイントの秋吉台、あたり1面に広がるカルスト地形を見て再び感動といきたかったのですが、「まぁ、こんな感じか」という程度で通り過ぎ、萩に向かってもうひとっ走り、そして無事到着。予定よりいくらか早く着いたようで、約30分のフリータイム。僕は平井と髪を洗いにちょっと離れた海水浴場の簡易シャワーへ行ったのですが、これが運のつき。数日後には、髪の毛を2日や3日洗わなかったところで大した問題ではないとたかをくくるようになってしまうなんてことを、知る由もない僕は時が経つのを忘れ、丁寧にリンスまでして、あえなく遅刻。そして大野さんのカミナリ。時間厳守。時間厳守。時間厳守。
夕食後、再度フリータイム。反省というよりもむしろびびっていた小心者の僕の頭の中は、時間厳守。時間厳守。時間厳守。そして、いざ松下村塾へ向かう途中で前プラ中に寄ったコンビニと野宿した、東萩の駅前を通りなんとも言えない感慨があった。松下村塾はとりあえず見たことで話しのたねにはなるので2分だけ見てよしとした。そして時間に余裕を持ってキャンプ場に戻った。このようにして、僕の合宿2日目は終わりを告げた。時間厳守。

7月30日・3日目 – 熱海
7月30日・3日目
1年・熱海
今日は3日目。朝食はワカメのみそ汁と、飯であった。初めから海岸走りですばらしかった。でも曇りだったのは残念だった。日本海の少し青みがかった海に、見とれていると、隣で何か雑音がしていた。それは紙袋のつぶやきであった。紙袋は朝のうちはまだちょうせいちゅうのスピーカーなので、1人でぶつぶつと独り言を言うことしかできないのだった。だから俺がなにをいっても、「・・・@・・・」。と話が通じなかった。
今日は平地中心なので、地獄の杉山さん走りなのである。紙袋の野郎はついていったが、ぼくは時速25キロでかっとばされて撃沈したのである。萎えてふてくされているぼくに、SPEEDばなしをもちかけて励ましてくれたのは山取さんだった。
本当に山取さんにはぷれ合宿・夏合宿とお世話になり、僕を見捨てずにいてくれたことには感謝しております。そこからはつーまーなどは見ずに、フロントバックの寛子ちゃんと見つめ合いながら、2人だけのサイクリングになっていった。そんな事を言っているうちに、11時にふれあい広場に到着。
ふれあい広場から見た海はまるで南の島の海のようにマリンブルーから濃い青へと変わっていて、隣りにいるのが紙袋だということも忘れてロマンチックなムードにひたっていた。
買い出しはとてもでかいスーパで、受付のお姉さんは鈴木さりな似の黒いひとでかわいかった。木材屋で薪をもらいキャンプ場へ。
中須キャンプ場は海へ歩いて30秒ぐらいで、みんなで波乗りをしたその後、堀江さんと2人で浜辺で寝ていたら、堀さんが萎え萎えの顔で明日以降のための心の洗濯だ、と言っていたのでとてもブルーになった。
夕食はキムチ鍋、河瀬が隣りで狂喜している。目の前で中学生らしき女の子たちがソフトボールをしているのを眺めつつ、7時にねる。
7月31日・4日目 – 江川
7月31日・4日目
3年・江川
この日は、もともときつい日だったのだが、ある事がきっかけで、とても悲惨な極悪な最低な地獄日になってしまった。私が3年間このクラブをやってきて初めてのことであった。ひっぱるのはこの辺にしておいて、実は、当初走る予定であった道が工事で通れなかったのだ。そういうことになると下見は何をやっていたんだ、ということになるが、実は私で下見をしたときは何もなく普通に通ることができた。しかも、この日の1週間前に下見したばっかりだったのだ。ああ~おそろしや~。さらに悪いことに前にも書いたように、とてもきつく時間的にいっぱいいっぱいの日だった。そして、その通れない場所が、その日とまるキャンプ場の目の前。そして道は、その工事の道か、危険な遊歩道か、それともだいぶ戻ってもう1つ峠を登っていくかだった。私達の選んだ道は、もう1つ峠を登っていく方法を選んだ。その時の時刻はもう6時を回っていた。しかもそこの道を行くと、キャンプ場とはまったく別の道へ出てしまう。だからその日は、下の町の神社で泊まった。
食事は作れるわけもなく買い出しで補った。しかも悪いことに、神社の近くにトイレがあったのだが、そこの水をのんだクラブ員のほとんどが腹をこわした。どうやら近くの川からくみあげているものらしい。ちなみに私は常識人なのでトイレの水など決してのまないので助かった。(うっそで〜す。その日の道中にあったわき水を飲んで、すでに腹をこわしていた。)しかし、こんな日でもこの言葉を忘れずに。
明るく、仲良く、元気良く
鍛えよ、体。磨けよ、心。
今日もみんなでがんばろう。
(私が小学生の時にやっていたスイミングスクールより)
8月1日・5日目 – 山取
8月1日・5日目
3年・山取
目が覚めた。シュラフをたたみ、いや丸め、それと銀マットを持ってテントから出た。コンマ数秒の空白の後、ここはキャンプ場では無かったことを思い出す。ここは河原沿いの神社の境内だ。昨日、超長~い下りの後で道が通行止めになっていた。「おまえらには通行止めでも、オレたちには関係ねーよ」と強行突破するも、2kmくらい行った所で数100本もの木が伐採されていて進めず、エスケープの途中で日が暮れ・・・(前日のベージを参照)。
バナナやらドーナツやらスナックやらで、各自腹を少々満たし出発。前回(初日)同様今日も単調な道であった為、さほど書くことがない。走った道が日本海と瀬戸内海を結ぶ幹線道路であったため、北上していた我々を、沢山の広島ナンバーの車が追い越していったことくらいしか印象がない。中国山地らしき高地でアップダウンを繰り返し、宇野温泉付近で昼メシ。それぞれハンガーを昼メシに充てるが、ノーハンガー系の私は、当然何も食べるものがなく、ただ空を見ていた。「あのおばさんが全員にジュースくれるらしいっすよ。」の声で我にかえった。
おばさんの息子もチャリをしていたとかで、オレたちを応援したいということらしい。サンキュ。こころざしを一気に飲み干し出発。国民宿舎のフロに入る。5日目というのに更衣室はもう臭い。その後買い出しをして、ちょびっと国道を走ってキャンプ場へ。えっ?ここは普通のキャンプ場じゃないか。車が何百台もあり、警備員までいるよ。けっこう早くに着いたつもりだったが、テン張れる場所は便所の横やゴミ捨て場の前しかなかった。OBの高松さんの訪問を受け、比婆19時、蒜山21時に就寝。明日から離れ離れになる。
8月2日・6日目 – 錺
8月2日・6日目(比婆班)
2年・錺
本日の全Cは私である。私は起床コールをかけるべく、皆よりも30分早く目を覚ました。あたりはまだ真っ暗である。それもそのはず、只今の時間は朝の2時半なのですから・・・。へ?に、2時半?それって朝と言うんでしょうか?丑3つ時ですよね・・・。少なくとも普通の人間が起きる時間ではないということは確かである・・・。などということをつらつら考えても、全く無意味だということもまた事実。私はごそごそと起き出して、テントを畳み始めた。ぼろぼろになっている全Cテンを見ると、昨日の悪夢(?)が脳裏に鮮やかによみがえる・・・。
昨日の夕方、OBの高松さんが、島根県は浜田にあるこのキャンプ場に見えられて、翌日の全Cである私と杉山の全Cテンを建てられることに。杉山氏のテントはどなたかの赤いBMの上に(…)建てられていた。そして、私のテントはというと…、上下軍ヘルという重装備に身を固め、体に突き刺さりそうなほどに生い茂る藪をかき分けて急斜面をずんずんずんずん登っていったところにあった(低い)木の上に(!!)建っていた。
私は、よくもまあこのような所にテントを建てることができましたなあ・・・と、思わず感慨に更けらざるを得ず、まるですばらしい芸術的なオブジェを仰ぎ見るかのような心持ちでそれを見上げた。しかも、その直前に降ったとんでもない夕立のおかげで、テントには水が溜まって、たっぷんたっぷんと音を立てる。ポールもボキボキに折れてしまっており、それは見るも無残な(?)状態でもあった。まあ、私は気を取り直し、助太刀について来てくれた堀江氏の力を借りて分解を終え、その1式を抱えてなんとか下山。だが、いざ下界にて組み立てようとするも、金具が1つ足りないことに気付き、愕然とする。とりあえずもう1度藪の中に潜入し、決死の捜索の結果、何とか発見。折れたポールを修繕して、びしゃびしゃになったテントを頑張って建て直したのだった・・・。
だが不幸にも、その日の全Cテンは最初下界に建てられるはずであったため、私のテントは「高千穂」という少し良いテントだったのだが、それがまさかこのような目に遭ってしまうとは。機材局長の金氏はさすがに動揺を隠せない様子でした。とは言え、私はこの日、初めて本当の全Cテンというべきものを目にし、そしてその障害を何とか突破することができて、何か人間的に少し大きくなることができたような気がしたのであった。今回の夏合宿では、OBの皆さんの参加が少なく、私は全Cが5回あったにも関わらず、本当にOBの方に全Cテンを建てられたのは、これが最初で最後であったのだが、このような真の全Cテンに遭遇することができて、本当に良かったと、今は思っています。高松さん、本当にすばらしい全Cテンを建てて下さいまして、どうもありがとうございました。私もOBになった暁には、後輩たちにこのような素晴らしい全Cテンを建ててやりたいと思っております。
とにもかくにも、どうにかさんざんな一夜を終えて、今はただテントを畳んでいる私であった。(ここから本題。前置き長くてスイマセン。)夜中の2時半だというのに、すぐ近くでは、地元の若者らしい一団がペチャクチャ喋っている。どうやらこれからやきそばを作ろうとしているらしい。おそらく彼らは、今はまだ夜だと思っているのだろう。だが、私達にとっては既に朝・・・、朝の2時半なのだーっ!!(意味不明?)
などというわけのわからんことはたぶん思っていなかったであろう、まだぼーっとした頭で、私がテントを畳み終えてトイレの方へ行くと、既に我らが比婆班の何人かの方々は起きられていた。どうにもあのジモティ夜更かしグループの喋り声がうるさくて眠れなかったようだ。一方、対する蒜山班の皆さんは、この日の起床は5時であるために、今はまだお休み中であった。
この6日目から私達は2班になり、8日間、しばしの別れなのである。人数が半分になり、少し寂しいような気がするものの、蒜山班に負けないように、やる気を出してこの8日間、頑張らなければならない。さて、そうこうするうちに3時になり、蒜山班の皆さんの眠りを妨げないよう、起床コールを掛け、体操をし、テントを撤収して、朝飯の準備。朝飯をかっ込んだら、荷物をまとめ、いよいよ出発。私達が出発しようとする5時には、蒜山班の皆さんも起き出してきて、私達を見送って下さいました。この8日間、しっかりやるぞー、と心に誓いながら、私達は日本海に臨む浜辺のキャンプ場を後にしたのであった。
ようやく明けてゆこうとする空を眺めながら、爽やかな朝の空気の中を走る私達。今日はなんと日本海の海辺から中国山地を越えて広島の佐伯町という所まで走るために、コースはとても長いわけでして、ただでさえ全Cの私は少し緊張気味。だが、早くも1度目の10分休憩で後の班が来ない。特に私のペースが速いというわけでもなかったようだ。何もなければよいがと思いつつ、先を急ぐ。この日はなんか工事中の道や新道などがやったらめったら多くて、途中から古い5万図は全く役立たずになり、今走ってる所が全くわからん状態に。私も3度ほど道を間違えそうになったが、うちの班にはこの日の下見をされた江川さんがおられたので助かったのであった。
さてさて、昼飯まだかー、とちょい疲れ始めていた時、ある休憩場所で、すばらしい(?)おじいちゃんが現れた。なんとそのおじいちゃんは、見ず知らずの私達に、ナゾな(?)栄養ドリンクを下さったのだ。ああ、本当にありがたいことである。だが、私は栄養ドリンクなどという物を飲むのは生まれて初めてのことで。しかもその茶色の小瓶のラベルに書かれた商品名も全く聞いたことがなく、どこかミステリアスな雰囲気。これって、おじいちゃんが精力をつけるために飲む薬とちゃうんかー?などと、少なからずバチ当たりな疑問を感じながらも、人の親切には真心をもって応えなければ、と思い、おじいちゃんに感謝しつつ、私達はそれをもうぐいっ、とやりましたよ。それはどこかとても不思議な味で、飲むとすぐになんかからだの中が熱くなり、どこかからか力がむんむんと湧き上がってくるような感覚に。
1年生達は、もうハッスルしまくっていた。このビンビン来るパワーを一体どーしてくれるーっ!!ってな感じで(?)。どうやら、皆すっかり力を取り戻したようだった。本当にあのおじいちゃんには感謝です。どうもありがとうございました。さて、またしばらくすると、峠にさしかかった。皆頑張ってペダルをこいでいる。だが、次第に空が掻き曇り、怪しい風が吹きつけてきたかと思うと、急にとんっでもない暴風雨がっっ!!どっしぇーっ!!と思いながら、もうみんな奇声発しまくり。
1年生達はゴアを着ようとする気配もない。す、すごい気迫だ・・・。私はそんな突然の雨にも風にも動じない1年生達をとても頼もしく思った。ピークに着き、トンネルの中で装備して、雨も少し小止みになってきたところで下る。下り終える頃には、あの暴風雨は一体何?というくらい、すっかり晴れ上がっていた。全く、どういう天気やねん、と思いながらも、雨上がりの後のすばらしい晴れ間に気分も上々。だが、コへ弁を食いつつ40分待っても後ろの班はまだ来ない。
これは一体どうしたことだ?と一抹の不安を感じながらも、とりあえずは気を取り直して出発。この1発は、匹見峡沿いの緩やかな下りで、なんかいい雰囲気である。雨上がりの木々に眩しい光がきらめき、爽やかな渓流沿いの風が濡れたワセジャーにそよいで、気持ちいいこと限りない。私はもうすっかりいい気分になっていた。そのうちにも下り切って少し行くと、なんか見覚えのある道に出た。そう、この道は私達がおとつい走った道なのである!ルート変更のために、今日は1部、おとついと全く同じ道を走らなければならなくなったのだった!
こ、これはまた初めての経験である。やがて、休憩場所の「レストパーク」に到着。「レストパーク」?なんか聞き覚えが・・・。紛れもない、それは私達が2日前に休んだのと全く同じ、あの「レストパーク」なのである。なんかとても懐かしい。すべてが全く変わっていない。それもそのはず、私達はおとついもここに来たのだから・・・。あの時は、まさかもう2度とここに来ることはないだろう・・・、と思っていたのだが。まあ、とりあえず先に進もう。見覚えのある懐かしい風景の中、地獄の500m up(しかも2度目)のスタートである。だが、しんどくもあるが、木陰の中の涼しい道なので、なかなか悪くない。皆ひーこら言いながらも元気に登ったのであった。そして、2発でピークに到着。そこからガーっと下って、国道に出る。もう日は傾き始めているが、ゴールはもうすぐである。だらだらとした上りを頑張って、ピーク。
あとはもう下るだけだ。ずんずんずんずんと下っていき、買い出しを済ませ、つ、ついにキャンプ場に到着―っ!!な、長かった・・・。あたりはもう暗くなろうとしている。後の班は大丈夫か?と心配しながらも、皆テントを建てて夕飯の準備。もうとっぷりと日が暮れた。まだかまだかと待ち続け、夕飯のカレーもすっかりできあがった。これはただごとではない、と思い始めていた、そ、その時・・・!ついに来ましたーっ!!「お疲れさまー!」と皆声を掛ける。いやはや、全員無事で本当によかったよかった。ひとまず安堵感に胸をなで下ろした。
その時既に、私達前の班が到着してから2時間ほど経っていた。どうやらパッキング崩れやら、道間違いやらで、すっかり遅くなってしまったらしい。工事中や新道だらけの、5万図にも載ってないようなあの道では道間違いは無理もない。私達の班は江川さんがいたからよかったのだが・・・。やはり工事中や新道などがあった場合の対処は、非常に重要だということがわかったのだった。とにもかくにも、その夜、全員揃って食ったカレーはむちゃくちゃうまかった。さあ、明日は待ちに待った広島フリータイムだっっ!!それだけを楽しみにしながら、この日は皆もうぐっすりと眠りこけたのでありました・・・。
8月2日・6日目 – 金
8月2日・6日目(蒜山班)
2年・金
早いもので夏合宿が終わって2ヶ月がたとうとしている。「夏合宿」は、僕自信にとって1年間においてメインイベントであり、「踏み絵」のようなものである。絶対に踏むことはできない。しかし、「時間」と言う魔物は、時として記憶を溶解してしまう。つまり、夏合宿の記憶が溶解しつつある。もちろん溶解しない記憶もある。例えば、それはフリーランや登山、合流日、1年生の1発芸等などだ。だが、6日目は僕の中で溶解してしまう記憶の部類に、どうやら入りつつあるようだ。だからと言って、6日目のことを何も書かない訳には行かない。とりあえず、5万図を参照しながら、喚起してきた事柄を書いていこうと思う。
俳優・松田優作生誕の地、下関を離れて早6日目。別離の日である。今日から比婆班と蒜山班は別々の行程を進み、それぞれのカラーをむき出しにしながら進む。僕は一抹の不安を感じていた。というのは、現2年生は4人であり、別れてしまえば、2人になるということである。毎日CLはもちろんのことながら、一日おきに全Cテンである。その事実に煩悶しながらも、「余裕でしょ。」と軽く開き直った。やっぱりこういう時は開き直るのが肝心ですよね。
僕が所属する蒜山班は、5時起床7時出発。それに対して比婆班、3時起床5時出発。早くもヒバにストイック・ポイントで差をつけられた。5分前に起き、比婆班を見送る。彼らはきっと、幻の妖怪「ヒバゴン」を見つけるだろう。
6日目にもなると手慣れてくるもので、朝の2時間出発は確実に守られた。初日に比べるとナベパッキングもかなり上手くなったと思う。全Cは杉山。第2工場のオーダーは、僕{金}、勝野、喜多さん、日比、大野さん・長濱さん{ボス・メカ]。
俗化された海岸沿いのキャンプ場を出発し、これから山岳ステージへと入っていく。それにしても朝1発目はいつも体が重い。目は覚めてても体は起きてないのだろうか。この現象は走っていくうちに徐々に消えるのだが。
蒜山班の2年は杉山と僕だ。杉山が全Cの時は必ず差をつけられる。休憩ポイントに第2工場がつくと同時に第1工場が出るか、或いは、既にいない時もある。僕のペースも悪くはないと思うし、班長さんからも特に注意は受けないので問題はないと思うのだが。杉山は耐久ランでも超絶な速さを見せつけていた。まさに「杉山の前に杉山なし、杉山の後に杉山なし。」といったところか。{わけわかんねー}
2発目の休憩後に痛恨の地図読み間違いをしてしまった。このミスはとりかえしのつくものであったが。7日目にしてしまったミスは、今でも悔やんでも悔やみ切れない。ここで少し脱線して7日目のことについて書く。旧道の便坂峠へアプローチするはずが、ミスって新道の方へ行ってしまい、峠をカットしてしまったのだ。僕は合宿前に5万図とツーリングマップルを照らし合わせて、予習した。国道や県道の番号をチェックし、学校や郵便局の記号に印をつけた。しかしそれだけではおろそかであった。新道と旧道のチェックもするべきだった。5万図には、「明治30年測量、昭和45年編集、平成2年修正」と記されてある。ということは平成2年以降にできた新道は、もちろん5万図に載っているはずはない。
「しまったー。そこまでチェックしてなかったよ。」
勝野と日比は僕の事をどう思っているのだろう。ストイック派の喜多さんや山取さんに申し訳ない。僕のつたない地図読みのせいで、班は暗いムードに取りつかれていた。動揺を隠しきれない自分がいた。「チキショー」と何度も呟く。後で後続班に聞くところによると、便坂峠はキツかったらしい。峠の苦しみを第1工場員と共有できなかった事に対して悔しく、第1工場員に羨望の念を抱かずにはいられなかった。
「くそー、奴ら「第1工場員】だけ苦しむ事ができて羨ましいぜ。便坂峠だけに、峠で大便を垂らそうと思っていたのに・・・」
脱線しすぎたので、6日目に話を戻そう。6日目のメインはヘビが多い千丈渓のダートだ。荒いダートではなかった。僕はダートが嫌いだ。しかし蒜山班はダートの多い行程をたどるとのこと。僕は合宿に備え、前ブラで四国の剣山スーパー林道にアタックし、その後もダートのある道を選んだ。そのことが合宿中において、ある程度の自信につながった。剣山スーパー林道より長いダートはそうあるものではない。長いダートに対する抵抗力はついたものの、奥山林道や伝説の甲子林道ほどの荒いダートとなったらどうなるだろう。やばいかもしんない。そんな心配をしてても仕方ないのでまた開き直って前進。
お次はイノシシが出没するという大利峠へアタック。5ヴァギ図をみると「峠」に「タオ」というフリガナがついている。深田久弥著「日本100名山」によれば、中国地方では、「峠」を「夕オ」と呼ぶらしい。同じく「山」を「セン」と呼ぶそうだ。
結局イノシシは現れず、買い出しポイントのAコープに到着。買い出し中に、猛烈な通り雨、束の間の雨だ。それにしても、中国地方は暑い。雨もほとんど降らない。去年の東北合宿は雨ばっかりだったのに。
順調に進みキャンプ場に到着。第6ステージ終了。フリータイムをもらってまったり。
夏合宿について書きたい事は山ほどある。例えば、僕は景色というものに感動できるほどの、感受性を持ち得ない人間であることを悟ったことや、現1年生が皆強いので、僕はストイック路線をやめて、オシャレ路線に変えたことや、「特機の日比の持ってきたエロ本じゃ、ヌけないよー」など。6日目に関係しない事を書くわけにはいかんし、さっきから結構脱線してるのでここらへんで終わります。6日目を要約すれば、ドラマチックな出来事はなかったということです。よって6日目の記憶は溶解してしまうのでしょう・・・。
8月3日・7日目 – 堀江
8月3日・7日目(比婆班)
2年・堀江
今日は広島でのフリータイムだ。昨日はナイトランだったせいか、疲れが抜けなくペダルが重い。おまけに山陽にはいったとたんに車が多くなり、気温もアスファルトの照り返しで、体感温度が50度位あった。フリータイムの日なのに、僕が1番死んだ日だった。
なんとか広島に到着。あの原爆ドームを見ても何ら感慨も浮かんでこない。既に僕の頭は被爆していた。しかしフリータイムが始まるや、奇跡の生還を研げた。去年と同じパターンで、風呂や洗濯には目もくれず餓鬼と化した。お好み焼きを食らい、食品売り場を荒らした。腹も満たされフリータイム終了。
キャンプ場へ向かう途中も車の多さには辟易した。そして、さらに僕はKOされるに足るヘビー級パンチをお見舞いされるのであった。それは闇鍋である。僕が入れたのはドックフードである。こいつが行けなかった。これさえ入れなければまともに食える鍋だったのだ。僕は責任を感じ、わんこ盛りのをすべて平らげた。だが闇鍋はこうあるべきである。うまい闇鍋などつまらぬ。誰かが犠牲となって味をぶち壊さねばならぬ。僕は良いことをしたのだ。
その晩は、きれいな満月だった。私は犬になり月に向かって「ワオーン。」と吠えた。
8月3日・7日目 – 日々
8月3日・7日目(蒜山班)
1年・日比
今日は、本当に暑い一日だった。最初は、裸走りなどみっともなくてやってられないと思っていたが、今日みたいな暑さのなかではそんな事はどうでもよくなってしまった。長い長い坂を汗まみれになりながら上っていく途中、どこかのサイクリング集団が気持ちよさそうに坂を下っていた。「がんばってください。」と声をかけられたが、返事をする気力もなかった。もしできることならば自分も、どさくさに紛れてあの集団に加わりたいと思った。しかし、そんな風にして上っている途中、1台の車が僕らの前で止まった。何かとおもっていると、中から、おじさんがでてきて桃をいくつかくれた。努力をすれば必ず報われるという事を実感して、後で食べるのを楽しみにしていたが考えがあまかった。キャンプ場につくころには誰かの胃袋におさまっていた。世の中そんなにあまくない。
キャンプ場につく前に、スコラ湯というちょっと怪しげな温泉にたちよった。なかなかいい温泉だった。しかし風呂からあがって荷物を整理しているときに、ある重大な事件にきづいた。ワセジャーがなくなっていたのだ。いくらさがしてもみつからず、blueな気持ちでキャンプ場にむかった。ワセジャーはすでに山取さんにひろわれていて、さっそくいのこをうけることになった。1回目は何とか逃れることができたが、今回は、さすがにそうはいかなかった。これが最初で最後だとおもった。このあとまたさらに2回いのこをくらうとは、その時予想だにしなかった。
8月4日・8日目 – 平井
8月4日・8日目(比婆班)
1年・平井
僕ら比婆班は広島を後にし、仏通寺キャンプ場へ向かった。この日は、スタートしてから1発目ぐらいで、山陽のやばい暑さに気づいた。しばらく走り、野呂山に到着。この時点で気温は30度後半をマークしていたに違いない。走り出してすぐに顎から汗が滴り落ちてきた。まさにこれぞ夏って感じであった。わずかな日陰をみつけて休憩をしながら2発ぐらいで頂上に着いたと思う。
暑いのにゴアを着て下ってすさんだ町を抜け、蚊無峠に向った。何時ごろだったかおぼえてないが、気温は全く下がらずクソ暑かった。傾斜がちょいキツめの道が長々と続いた。奇声を発っして気を紛らわしながら進んだ。そうしているうちに峠についた。気温も下がり始め、日も暮れていた。これを下ってキャンプ地かとホッと息をついて下った。しかし無情にも激キャンプアップが待っていた。しかもナイトラン。ナエナエでした。インナーローでシャカシャカこいだ。キャンプ場についたころには8時ぐらいだった。飯を作って食った。マーボー豆腐はうまかった。この日は中国地方のあつさを体感できた貴重な一日であった。
8月4日・8日目 – 長濱
8月4日・8日目(蒜山班)
3年・長濱
爽快なキャンプ・ダウンから始まったこの日、一説によると修行日であるとのことであったが・・・帝釈峡を出て、少し上ってガーと下り、東城の鄙びた街をぬけ、芸備線沿いに国道をアップダウン。この間、製材所で廃材をただで分けてもらう。ここのおじさん(社長)から僕は下見のとき、焼酎とラーメン5人前を頂いた。お茶菓子も食わせてもらった。ボスは気前のいい広島男児であった。
国道を外れ、いよいよやば堕悪途(ダート)に没入。道後山林道である。途中、結構ガレていて、日比はちょっと遅れていたが、勝野はサクサク登っていた。堕悪途に入って3発目で峠に辿り着いた。空に向かって真っ直ぐになだらかな道がのびている、その峠の雰囲気は、どこか北海道によくある名もなき峠に通じたものがあり、僕をノスタルジックな気分にさせた。東北を主としていろいろな中央分水嶺の峠を訪れたが、ここはその中でも印象に残るものであった。
峠を過ぎると、あとは下りオンリーであった。何だ楽じゃん。ここから米子まではずっと下りということもあって、班員一同、気分はショボCITY“Yonago”に向いていたに違いない。途中、石霞渓で写真。伯備線が美渓すれすれに縫い、まさにサイクリストというよりも鉄研冥利に尽きる風景だった。この日のキャンプはダム湖畔の「南さいはく自然休暇村」、米子の少し手前である。どうやら少し気分を米子に飛ばしすぎた日比君、忘れ物により?回目のイノコ。僕は日比の亀頭めがけてキムチを発射!日比はその後、大切にしていたヘルメットを蹴っ飛ばしてしまうくらい逆切れしていた。わははははははははは・・・余りにも時間が余ったため、全ての作業、調理の下ごしらえを終えた時点でフリーをとった。湖畔のレストハウス(こんなところでデートがしたいよ、てなとこ)でクリームソーダを飲みながらプレーボーイを閲覧しつつ、今って、合宿だったっけ・・・と少し不安になったりもした一日でした・・・(END)
8月5日・9日目 – 森山
8月5日・9日目(比婆班)
1年・森山
機材の仕事も慣れて、朝の忙しい中でも、「今日はいい天気だ。」などと思える余裕もでてきた9日目の朝、「何かいいことあるんじゃねえか今日は。」と、あやしい期待を持ちながら自転車にまたがり、こぎはじめた。だが、その期待を早くも裏切るかのように、昨日のキャンプアップの疲れがよみがえってきた。朝からこんなにだるくて今日一日体がもつかなあ、とかったるそうにこいでいると、H江氏から、「15分くらいで着く滝(名前は忘れてしまった)で、記念写真をとるからそこで止まるゾ。」という言葉が発せられた。出発して15分で休めるとは何てラブリーな日なんだ。心なしか疲れもやわらいできた。班員の人達との会話もはずんでいた、が、どこまで行っても案内の看板は見えないし、妙にアップばかりしていて疲労度が高い。何かいやな予感がする。E川氏から、「アップばっかりしているなあ。」という言葉が発せられ、いやな予感に拍車がかかったそのとき、看板が見つかり、ほっと安心した。自転車から降りて滝へ下りてゆく道を探しはじめた、が、どこを探してもそれらしい道が見つからず、またもやいやな予感がしてきた。全員で途方に暮れていると、I田君が、「道ありましたよー」
と言いながらみんなを呼びにきた。さすが山道に関して彼はエキスパートである。自ら先頭に立ち、道をふさぐ蜘蛛の巣をものともせずに突き進んでいった。ようやく滝壷のそばに到着して、落ちてくる水のしぶきと音を堪能していると、H江氏が、
「ちょっと修行してきます。」と言い残して、滝にうたれに行ってしまった。
朝っぱらからあの溝臭い滝にうたれたり、滝壷で泳いではしゃいでいる姿に圧倒されながら眺めていると、川の向こう側から物音がした。他の班の人達であった。K山氏「おまえら何処からきたんだよ?」、H江氏「こっち側の道です。」、K氏「へえ、そっちにも道あったんだ。」、H氏「えっ、違うんですか???」・・・ショックだった。無駄アップだったことが発覚した。無駄アップと雨の日ほどブルーになることはない。自転車にまたがってからH氏の第1声、「おまえら1年を鍛えるためにわざと間違えたんだ。ああ、いいアップだったぜ。」殺すしかない。早く手をうたねば自分が殺されてしまう!!!僕は殺意を抱きながらH氏の背中を追いかけ必死にペダルをこいだ。
そんなことをしているうちに昼に近づき、殺意もおさまり和気あいあいと走っていると、急に目の前に軽トラックが止まった。運転してたオヤジが近寄ってきて、「コレ、コンビニでもらったものだが、みんなで食えよ!」と言って、お弁当とおにぎりを人数分渡すと、車に乗って立ち去ってしまった。もらったもの・・・?その言葉が気にかかったが、僕らはありがたくそれらをバックにしまい、ペダルをこぎはじめた。しばらくすると、湖が見えてきた。その湖にかかっている吊り橋を渡り終わると昼飯休憩になった。早速さっきもらったお弁当とおにぎりを取り出した。・・・!?何と、そのお弁当とおにぎりの賞味期限は、今日の朝5時と書いてあった。普段なら「賞味期限が切れたモノを渡すなんて」と、思ってしまうところだが、さすが夏合宿は勢いが違う。「ウメー」「揚げ物なんていつ以来だろう」「メチャクチャ美味いッス」等と、久しぶりに自分達以外の人が作った料理、文明の香りのする料理をかっ食らった。ただ、唯一の弱点は、もう米がかたくなっていたことだった。
昼も終わり、自転車をこいでいると、岩の上から川に飛び込んでいる子供達をみかけた。水しぶきをあげてはしゃいでいる。とても楽しそうにみえる。「太陽の1番ごきげんな真夏の午後2時など、自転車に乗ってはいけないよなー。やっぱ夏は水と戯れなきゃ。楽しそうだぜ、ちくしょう!」と、思いながら羨ましそうに眺めていた。他の人も同じような目で眺めていた。今日の行程もほぼ終わり、日が沈みかけたその時、今日最後にして最大の試練が襲いかかってきた。E川氏から「これから食材取り行くからそこを右。」との発言。・・・右?右になんて道がないじゃないか!と、思って振り向くと、車1台がやっと通れるかどうかくらいの山道があった。「マ、マジっすか?」
「遭難しちゃいますよ!」そんな言葉も飛び交ったが、行かないわけにはいかない。意を決して暗くなった森の中にとびこんだ。ライトをつけても周りは全然見えず、夏なのに心なしか肌寒い。何だか恐くなってきて、皆のペダルが早くなる。やっと店にたどりついてほっとした、が、考えてみればまたあの山道を戻らなければならない。食材を自転車にくくりつけ、もと来た道を戻りはじめた。さっきよりも上りが長いような気がする。誰ともなしに全員で歌を歌いはじめる。しかし、歌を歌ったって恐いものは恐い。何とか山道を抜け出すと、後続班が、待っていた。「はあー、いいよナー、後続班は。あの山道行かなくていいんだから。」全員そんなこと言いたげな目をしていた。今日は、そんな一日だった。
8月5日・9日目 – 勝野
8月5日・9日目(蒜山班)
1年・勝野
合宿出発前、高校の友人に「俺は山陰にサイクリングをしに行ってくる」と言うと「出雲大社とか、松江城とか見るのか。いいなあ」と言われた。しかし9日目、もう既に9日が経っているというのに僕の見たものというと赤間神社と長府城跡くらい。やばい、マジでやばい、帰って何と言おう。
だがついに念願の日は訪れた、フリータイムである。何を見よう、期待を膨らませてやってきた米子にはしかし何もなかった。(有名なものは) とりあえず米子城に行く、殆ど期待していなっかたが中海、米子市街、そして遥か彼方に日本海を望む眺望は抜群だった。その後行った井上靖記念館はさすが「るるぶ山陰50選」に選ばれるだけのことはあって非常に面白く、館内にあった郷土料理屋の食事はコへ弁に慣れた自分には信じられないほど少なく、信じられないほど旨かった。
結局どこに行っても知らない街にはそれぞれ独特の良いものがあるんだな、と思い、けっこう満足して米子駅に戻ると川野さんが言った。「お前、1発芸は考えてあるのか」
やばい、マジでやばい。人間の悩みとは尽きないものだとしみじみ思った。
8月6日・10日目 – 郡山
8月6日・10日目(比婆班)
3年・郡山
昨夜はこの合宿恒例の「ナイトラン」となり、江川をはじめ横路は、この区間の下見をしている私に、痛烈な批判をしてきた。憤りは至極当然のものであり、私も甘んじて受けた。さて今日は調整日を兼ねた登山日である。そう、今日はヒバゴン狩りの決行日である。朝から登山の支度をし、荷物をデイバッグにしまう。ところが、1年どもはデイバッグを持ってきておらず、準備の悪さを罵ると、何が悪かったのかしまいには「卑怯者」呼ばわりされてしまった。年中無休、世界各国、時と場所を選ばずに私は嫌われ者のようだ。
まあ、結局自分さえ快適であれば私自身も不満もないので、1年の醜態はさておき我々は山へと向かった。天気の悪さは相変わらずで、小雨の中の行軍となった。下見のときは激しい雨にもかかわらず、PaperBagと「ウポ」を引き連れて午後3時に入山した。PaperBagは濡れた斜面を、つるんつるんと滑っては転げ落ち、それはそれは見る方は愉快であった。山を下ったころにはPaperBagは「ウポ」と遜色ないほど黒かった。
山頂付近になると不思議によく晴れて、なかなかの景色で皆のどもにも評判であった。途中、捕獲した堀江が奇声を上げて痛み始めた。最初はそのあまりにも痛がる姿から陣痛と思ったが、その痛みが次々と他の隊員に広がっていくのを見て私は隊にダッシュの指示を出した。まさにその時である、ひとつの黒い物体が猛然と前を駆け抜けて行った。目を凝らしてみると、そこには誰よりも速く逃げ出していた池田の姿を見ることができた。決してバトルや合宿中には見れない迅速な行動であった。
下山すると屈伸するたびに膝が悲鳴をあげ、サイクリングと山岳はまったく違う畑であることを強く感じた。この日も当然買い出しがあるのだが、買い出しポイントに行くには勾配だけは和田峠並みの小さな峠を越えていかねばならない。幸い?私は、翌日以降の予定を横路氏と組み直さなければならず、キャンプ場に残って話し合うことになった。普段はつけている装備をはずして行ったため、思ったよりかなり早い時間で帰ってきた。するとE川が●●のために東京に明日発たねばならないと言いはじめた。E川がこの合宿を途中からいなくなることは前もって話し合っていたことだったが、しかし予定より2日早いことに驚きを隠さずにはいられなかった。おそるべし広瀬●●!
こうして、今日という一日も終わり、合宿も残り5日となった。平井の寝顔を見つつ就寝。
ジーク・ジオン

8月6日・10日目 – 紙浦
8月6日・10日目(蒜山班)
1年・紙浦
この日は、夏合宿における最大upの日である。そう、今日は登山日。みんな朝からハイテンション――そんな訳ねェだろ。もっとも、N先輩は俺の眼鏡を拾って異様にはしゃいでいたけど。
登った山は、大山。標高は2,000mくらい。結構有名なんじゃあないかな、多分。中国地方最大の山である。登る道は意外と険しく、頂上付近は風が強く、そのうえ寒かった。そう、凄まじくさむかった。そんな寒い中で俺は・・・。あん時の勝野の嬉しそうな顔を、俺は一生忘れないだろう。
そういえば、後の話になるが、僕の敬愛するS先輩も、ついにWCCの毒牙にかかった。彼だけは逃げ切ってくれると信じていたのに。この恐ろしい話を、大崎さんはどう感じただろう?―そして池田は?井上は?
・きっと腹を抱えて笑ってんだろーなあ・・。
『おっっかしいヨ、絶対。』
『ちょー訳ワカンネェよ。』
(K野君の亥の子の折に聞きける言)
ちなみに1年会に於ける被・イノコランキングは3回のH君がダントツでトップです。
以上
8月7日・11日目 – 河瀬
8月7日・11日目(比婆班)
1年・河瀬
夏合宿もはや11日目を迎えた。不思議なもので折り返しの8日目を過ぎたあたりから、時が経つのを早く感じるようになった。明後日は合流日であり、比婆班として走るのは残すところ2日となった。連日のナイトランなどで自転車に乗ることに嫌気がさしはじめていたのですが、前日の登山が僕にやっぱりサイクリングはいいな、ということを再認識させてくれたことで、リフレッシュできたというか、また前向きな気持ちで朝を迎えることができた。
楽しくきつく自転車をこいでいき、紙浦が前プラ時に転倒したというあの内海峠を通り、この辺からあいにくの雨模様になってしまったのであるが、昼食場所の道の駅「蒜山高原」に着いた。ここではなぜかFMヨコハマがかかっていたことが印象的であった。そしてまた走り出し、いざ人形峠へ。道中雨足が強まったりもしたが、人形峠へのアプローチに入るあたりで雨は止んでくれた。人形峠への登りでの僕はどうかしてました。田舎のにーちゃんが運転するダサイ車が坂道を猛スピードでバカみたいに3往復もしたことに触発されてしまったのか、班を100m後方に置き去りにし、暴走するという暴挙に出てしまいました。それから無事キャンプ場に着き、例によって例のように一日が終わるはずだったのですが、アクシデント発生。なんとバトルの際に、森山がメガネをなくしてしまったのである。あんなに取り乱した森山を見たのは初めてであったが、翌朝には何事もなかったようにちゃんとメガネをかけていたのでよかった。よかった。このように僕の合宿11日目は終わりを告げた。もう一頑張りだ。
それにしても、3ヶ月前の出来事の記憶をたぐりよせるのは難しい。なにしろ、内海峠のことを何1つおぼえていないのだから。「春は日記つけよーっと」
8月7日・11日目 – 杉山
8月7日・11日目(蒜山班)
2年・杉山
8月8日、この日も夏合宿は4時起床、6時キャンプ場出発、といつも通り順調にスタートした。
ある不幸な1年生を除いて・・・。
?・日比、行方不明に?・
明日は1年CLの日であった。私は連日のCLからようやく解放されるという安堵感もあってか、夕食時に私の目の前で好物であるカレーが徐々にその姿をファンタスティックなオブジエ(ヤミ鍋とも言う)へと形を変えてゆくという、とても堪え難い光景もなんとか乗り越えることができ、なおかつ全Cテンのことで気を病む必要もなかったので、あとは安らかなる睡眠を楽しむばかりの状況であった。が、まさに眠りにつかんとしていたその時、森の中から弱々しいながらも幽かに人間の叫び声が聞こえてくるではないか!。
「・輩、テ・・が見つ・りません!」
か細く、弱々しいとはいえその声は明らかに怒りの調子を帯びていた。私はただ事でない雰囲気を感じジッと耳を澄ませ聞いた。
「テントなんてどこにもネエよ!」
もはやその声は絶望と人間不信に満ち満ちており、その怒りはキャンプ場を覆い尽くさんとしていた。声の主は日比だった。私は【日比を助けに行く】という選択肢を全力で否定しながら心の中で呟いた。
(「ごめんよ、日比、ごめんよ・・・」)
哀れ全C日比、私は彼の今後を強く案じながら浅い眠りに落ちていった。

8月8日・12日目 – 錺
8月8日・12日目(比婆班)
2年・錺
さわやかな朝。ここは岡山県の北の端にある、恩原高原のキャンプ場である。今日はなんとお楽しみ!の(私だけ?)輪行デーなのだ!鳥取駅から豊岡駅まで、2時間ほどの列車の旅である。自転車の旅に負けず劣らず列車の旅も大好きな私は、この日がとても待ち遠しかったのだが、輪行大嫌いの堀江君は「いやだなー」と言って浮かない顔をしている。「まあええやんかー」とテキトーな慰めの言葉を掛けながら朝飯を食っている間に出発である。
今日は私が全Cだ。1発目、ちょっとした峠があるが、いかにも高原!といった感じの道なので気分はさわやかである。だが、後もうちょっとで辰巳峠っ、という所でいきなりメカトラが!どうやら河瀬の自転車のギアの調子が悪くて、チェーンがクランクの間に挟まってしまった(!?)らしい。どぅーなってるの!?ってことで、しばらく後班のメカの横路さんを待つ。ボスメカが交代して、とりあえず後の班に先に行ってもらうことに。さすがの横路さんもどーしたらいいのかわからんようで、これはもう力ずくでチェーンを引っ張るしかなかろう、ということになり、横路さんと河瀬はチェーンを引っ張って悪戦苦闘。
ふんっっ!!と全力をかけてもなかなか外れない。私達が止まってから40分ほど経っただろうか。ようやく、「外れたーっ・・・!」どうもお疲れ様でございました。この不意のアクシデントのため、私達は乗るべき列車の時間を1時間遅らすしかないだろうということになった。まあ、焦らず行きましょう、と峠を上り詰め、後はもう鳥取駅まではほとんど下りである。ずんずんずーんっと勢いよく下って、国道にぶつかる。次の休憩場所は自販コーナーなのだが、それがなかなかない。見落としたんだろう、ということで、適当に休憩を取って、出発。そしてしばらく行くと、ありました、自販コーナー。まあいいか、ってことで無視して素通り。
鳥取駅はもうすぐだ!さすがに国道は車が多く、だんだん疲れてきたが、もーちょっとで輪行やっ!と自分に言い聞かせて頑張った。ぐんぐんぐんと走って、鳥取駅まで後1キロ!という辺り、「ポプラ」という中国ローカルのコンビニの前で、先に行った班の皆に遭遇。どうやら、1年の池田が、前の休憩地点であった自販コーナーで財布を落としてしまったらしい。こりゃまずいっ!!となり、とりあえず警察やその自販コーナーに電話をして探してもらったものの、結局見つからず。私達がその自販コーナーで休まなかったのが今となると少し悔やまれるが、それも仕方ない。その財布に入ってたのはどうやら現金だけだったようなので、まあこういうこともあるさ、と池田を慰めて、出発することにした。
一行は程なく鳥取駅前に到着。私達にとっては久々に見るビッグシティーだ。とりあえず輪行を済ませると、まだ少し時間があったのでフリータイムに。駅前には言わずと知れた私の大好物、ミスタードーナツがあったが、私は夏合宿中、合宿の成功を祈ってミスド断ちをしていたので、今回は涙を飲んで我慢した。姫路に着いたら、好きなだけドーナツ食べたるーっと胸に誓って、私はもうひとつの大好物、焼き立てパンの店に入ったのだった。おしゃれなその店に薄汚れた格好で入るのはなんとなく気が引けたが、うまそうなパンの数々を前にちょっとコーフン、3つほどパンを買った。そして集合場所に戻ると、なんとそこには4年生の川野さんと斎藤さんが!!どうやら川野さんはしばらく蒜山班と行動を共にして別れてから、偶然東京から来た斎藤さんに出会ったらしい。そして今さっき2人で鳥取駅前のミスドにいた時に、また偶然にも我々を見かけたらしい。どうもわざわざお越しくださってありがとうございます。やはり4年生の方々が来られると心強いですねえ。
さて、しばし再会を喜び合って、いざ、列車に乗り込もうということになった。輪行袋を担ぎ、フロントバックを肩に掛け、片手でサイドバックを2個持って・・・、さっ、さらに鍋まであるーーっっ!!こっ、こりゃもう拷問じゃー、生殺しじゃー、と死にそーになりながらも何とか改札を突破し、階段を上ってプラットホームへ・・・。はーーっ・・・、やっと着いた・・・。後はもう列車に乗り込んで楽しい列車の旅を満喫するだけである。そうこうするうちにも、出発!早くも皆列車の中だというのに人の目も気にせずコへ弁を食ったりしている。列車などという近代的な文明に接するのがあまりにも久し振りなのはわかるが。まあ、それでもここはのどかな田舎だからいいでしょう。
あー、それにしても列車というのはなんて快適なんだーっ!!これまで自分達はクソ暑い日も、どしゃ降りの日も、どんな日でもかまわずただひたすら自転車をこぎ続けてきた。だがひとたび列車に乗ると、外はどんなだろうが一切関係なく、しかも時速何10キロという速さで私達を目的地まで運んでくれる。私達は列車の中でただうだうだしてるだけで良いのだ。それはそれでとてもすばらしいことではあるのだが、やはり、いつもただそうしているだけだと、そのすばらしさにも気付かなくなり、やがては飽きてしまう。私が今、こうして列車に乗る幸せをしみじみ感じることができるのは、これまでずっと自転車に乗るこ、とが当たり前の生活を送ってきたからである。
そう考えると、私に列車に乗ることの楽しみを教えてくれているのは、自転車による合宿なのかもしれない。サイクリングは本当に私に色々なことを教えてくれる。ああ、サイクリングって本当にすばらしいですねーっ!!などとちょっと哲学(どこが)してしまった私。車窓の景色を眺めながらさっき買ったパンを食べ、堀江としゃべくっていると、程なくこの列車の終点・浜坂に到着。めんどくさいがここで乗り換えである。えっちらおっちらと荷物を運び、まだ少し時間があったので売店でアイスを買い、列車の中で食した。あー・・・、極楽ゴクラク。あと1時間、ちょっとした楽しみを満喫することにしよう。列車は進み、日本一の高さの餘部鉄橋を越える時には、皆下界を見下ろして歓声をあげる。列車は既に夏合宿のゴール地点・姫路のある兵庫県に入っていたのだった。とはいえ、ここは県の北の端で、姫路は県の南の端(淡路島除く)。こんな日本海沿いのひなびた漁村も兵庫県、私の大好きなロマンティックシティ、かつ山取さんと桜井さんの地元である神戸も兵庫県なのだから。つまり兵庫県というのはとても広いのである。でも、やはりなんとなく胸は高鳴る。ゴールがもうかなり近くなっているのは事実なのだ。
そうこうしてるうちに、まもなく列車は終点・豊岡に到着。ちよっと残念な気もするが、ここでまた輪行である。なんだかんだ言いながらも皆輪行を済ませ、パッキングを終えたら、駅前のショッピングセンターで買い出し。そしていざ、出発!!
もうだいぶ夕暮れも近くなってきた。だが、新しく川野さんと斎藤さんが班に加わって下さったことで、なんか活気が出てきたようで、皆さん話も弾んでいる。1つ目の峠の番屋峠を上っていると、おりしも小雨がぱらついてきたが、皆まだ明るい表情。ピークに着き、ちょっと下ると、もう1つの峠である水山峠にさしかかる。こちらの方はなかなか傾斜がきつく、皆結構疲れが見え出してきた。「ぎゃーっ、まだあんな所に道がっっ!!」とわめいてると、川野さんと斎藤さんはお2人でフリーランをされている。うーむ、さすがだ・・・。
そのうちにも何とかピークに着き、またガーッと下り、後はキャンプ場までもう少し。だらだらとした上りを上っている間に、次第にあたりはすっかり暗くなってきた。しかも雨も降り続いている。実はこの日のキャンプ場は、ルート変更のあったために下見されておらず、正確な場所がわからない。「キャンプ場は一体どこなんやーっ!?」と、探そうとしても、すっかり夕闇に包まれていて皆目見当がつかない。どうしようかと途方に暮れていると、ふと付近の案内図の看板を発見!それを見ると・・・、ありました、「神鍋高原キャンプ場」!!そこはもう目と鼻の先であった。そして、皆喜び勇んでキャンプ場に到着っ!!だが、どうしたことか後の班がなかなか来ない。やはり道に迷っているのか?心配した郡山さんが探しに行ったが、まだ来ない。すると、来ました来ました、後ろの班が。しかし、彼らは郡山さんには会わなかったらしい。こりゃどうやら、行き違いになってしまった。今日は、本当にばてばての日だった。
パンフレットに載っていた林道だらけの怪しい絵を見て少しは辛いことを覚悟していたが、合宿の疲れがピークに近かったせいだろう、体が重く精神的にもかなり萎えていた。昼食の休憩のときも食欲がなく、食べることよりも眠りたいという願望のほうがつよかった。その休憩もあっという間に過ぎ、ほとんど眠ったという気持ちもしないうちにまた出発することになった。すこしは疲れもとれただろうと思っていたが、出発するや否やまた疲れがどっと襲ってきた。そのうちにペースも落ち、何度も班員との差をあけたようだ。
でも程なく郡山さんも戻って、皆で食事の準備。今日の晩飯は麻婆豆腐である。そりゃもう、とってもうまかったですぜ。その後、私は明日の全Cである堀江と一緒に川野さんと斎藤さんが建てた全Cテンを探しに行った。するとそれは、キャンプ場の外にある畑のそばの、ぬかるんだ沼地の上みたいなとこに建っていた。それでも堀江サンはその夜、爆睡したそうである。うーむ、さすがだ・・・。何はともあれ、明日はいよいよ合流日!!1週間ぶりに蒜山班の皆と会えるのを楽しみにしながら、この夏もあと残り3回となったテントの中での夜は更けていったのでありました。
8月8日・12日目 – 日比
8月8日・12日目(蒜山班)
1年・日比
苦しみながらもなんとか本日の買い出しポイントであるチコマートについた。今日もこれで終わりだと安心してジュースを飲んだ。しかし地獄はまだ終わっていなかった。いや、むしろこれからが本当の地獄だった。キャンプ場まで300upもあり、激しい雨がさらに疲れにおいうちをかけた。ペースは大幅におち、班員がみえなくなるほど差が開いてしまった。そしてついには足が地について自転車を何度かおしながらのぼってしまった。こうしてキャンプ場につくころには、心身ともに疲れ果てていた。
しかし、苦しんだぶん、晩飯は最高にうまかった。
8月9日・13日目 – 横路
8月9日・13日目(比婆班)
3年・横路
いよいよ合流日である。この日は本当は天橋立からのスタートということになっていたが、あまりに距離がありすぎて走りきることは無理と判断し、キャンプ場を変更し神鍋高原キャンプ場からのスタートとなった。下見をしたのは私だが、今考えてもこの判断は正しかったと自信をもって言うことができる。天橋立から走ったらキャンプ場に着くのは夜の9時か10時位にはなっていたことだろう。
さてこの日は1発めでダートに入り、2発めでまず最初の峠を超える。後はひたすらハチ北高原キャンプ場までUPをするという行程である。
最初の峠で早くも井上が激しくちぎられる。「こんなの無理だよ」合宿中何度このセリフを聞いたことか。それでも励ましつつ何とか登りきった。この時点で前の郡山の班とは1時間ぐらい離れたのではないか。ダートを下り、少し国道を走り、いよいよ本日のメインの峠である野間峠に入る。ここは1発めは舗装だが2発めからダートに入る。登りはじめた時、今まで曇っていたのに、急に日が照ってきたことは今でも鮮明に覚えている。何故なら私が下見をした時はゴアテックスも役に立たないようなどしゃ降りだったからだ。ここで普通の人は晴れてよかったなあと思うかもしれないが、この日はあまりに暑すぎたのであの日の雨が少し懐かしく思えた。最初の峠でタイムテーブルからちょうど1時間遅れたので、登りはじめて1回目の休憩で昼飯をとることにした。運の悪いことに日陰が近くに全くなく皆諦めて思いっきり真夏の日差しを浴びながら飯を食べた。そして出発し、やがてダートに突入。井上がまた遅れかけるが昼飯パワーかなんとか本来昼飯を食う休憩地点にたどり着く。
うーん、ここはやはり下界がよく見えて気持ちが良い。休憩小屋らしきものもあり、昼飯を食うには絶好だろう。別に井上を責めているわけではないが。またひたすらダートを登り、次の休憩地点で上下をし、キャンプ場の分岐まで下った。ここからキャンプ場までは冬にはスキー場になっているらしく急激な下りになっていたのでカザリの代わりに私が先頭で下った。明日あのダートに戻ることを考えると本当にブルーになったほどだ。
下った後にまた激UPが少しありそれを越えてようやくキャンプ場に着いた。「おつかれー」の声とともに倍に増えたクラブ員の笑顔が私たち最終班を迎えてくれた。
8月9日・13日目 – 大野
8月9日・13日目(蒜山班)
3年・大野
今日はついに合流日である。だがそのことよりも今日で自分の下見が終わることにほっとしていた。この日は十二峠、野間峠と2つの峠だけだが決して楽なことはない。本来の旧十二峠はもう完全なる獣道であり、下見で池田と来た時には今にも泣きそうな池田が印象的だった。本当に自転車1台がどうにか通れるスペースで勾配は50%ぐらい、マジで!
自転車をブレーキでとめながら、しかも担いで降りるという超人的な体力を必要とするものだ。この時、もう限界を感じていたが池田いじめでさらに進む。すると今にも崩れ落ちそうな吊り橋が俺の視界に現れた。俺は無理を承知で行ってみた。…
ズドーーーーンという轟音と共に俺の体は落下していった。このときまだ20であった。
「なんと短い人生だったんだろう」「女」「クラブは大丈夫か」「たすけてくれ〜〜」一瞬であった。橋が崩れるよりも早く後ずさりしていてなんと助かったのである。今も健在である。
さてさて、こんなわけで別ルートへ。野間はボロダートであったが、そんなことよりも恐怖のキャンプダウンがすごい。この恐怖は日本で1番高い横浜八景島シーパラダイスのフリーホールに匹敵するだろう。いやそれ以上だ。見た目には99%の勾配はあるだろう。
ここを落下してキャンプ場へ。そして思考回路の壊れた比婆の連中が到着した。俺は洗い途中の髪をすすぎ、彼らを何度も何度も何度も見たが、そこに江川はいなかった。
8月10日・14日目 – 熱海
8月10日・14日目
1年・熱海
この日は、朝からやられることとなった。最初はキャンプ場からのアップでものの30分でDEATH。ここで僕は死ぬまでの最短記録をつくったわけだ。もう頭の中は真っ白で、なぜか頭の中でロッキーのテーマが流れてゴールした。紙袋が珍しく死んで坂の途中でへたばっていたが、僕は紙袋の遥か前に死んでいて沢山足をついてしまっていたのだよ、ゴメンな紙袋。
その後10分休憩の後、だらだらダートで、本日2回目のDEATH。山取さんにまた迷惑をかけてしまいました。やっと下りに入り、なんたら高原でちびっこどもをよけつつ更に下った。そしてついに、フリーランのスタート地点の福定に到着。ここは前プラの際に、僕がもう走れないと駄々をこねて無理矢理、野宿させてもらった場所であり、ついでに初野愚素を残してきた思い出の場所なのである。
そしてフリーラン。もうとにかく頑張って走ったとしかいうことはない。I氏に負けてしまったのはちと悔しかったがまあいい。峠では2人の1年が空を舞った。1人はインフレーター忘れのH氏、もう1人はKINGOFいのこ、びぃひぃ氏である。
その後のボロダートで3回目のDEATH。素晴らしい国道に出てキャンプダウン。キャンプ場も素晴らしい。最後に僕の日記から引用、
オレは変わったのだろうか。芸はもうどうでもいいおわれば。
8月11日・最終日 – 横路
8月11日・最終日
3年・横路
いよいよ現役最後の夏合宿。しかもその最終日。多少感慨深い思いで朝を迎えた。この日はキャンプ場を出て1発めが豪快な下りで、後は平地を4発爆走するという超楽勝日である。ボスメカである私と郡山は、最終班である杉山班についた。しばらく走って見て驚いた。CLの杉山のベースがやたらと速い。平地だというのに熱海は体を揺らしながらついていくのがやっとという感じである。案の定すぐに前のカザリ班においついてしまった。去年の夏合宿からCLのペースについては再三問題にされてきたが、今年はさらにクラブランがスピードアップしたように思える。その原因を考えてみると杜撰なタイムテーブルがまずあげられる。きついタイムテーブルに合わせようとCLがペースを上げてしまうことはよくあることだ。もう1つ、OLが班員をケアしていないこともあげられる。班員(特に1年生)に気を配るのもCLの大事な役目の1つである。
小言はこれくらいにして本筋に戻ると、結局、姫路駅には最終班である我々でさえ、予定より1時間近く早く11時半前に着いた。1、2年の時あんなに待ち焦がれたゴールは案外あっさりと訪れた。私はこの最終日の下見をした時、姫路駅に着いてまず思ったことは「もう1度ここへ来た時にどんな気分なのかな」ということだった。実際に下見も合宿も、走り終わった感覚はよく似ていた。その原因はどちらも全員(下見は私と熱海)が無事に完走できたということがやはり1番大きかったと思う。これは「ホッとした」と言い換えることができるが、とにかくこの目標(全員が無事に完走する)の大切さをゴールの姫路駅に着いて改めて思った。
さて、全班が到着し冷たいジュースで乾杯をしてひとしきりゴールの余韻にひたったあと姫路駅前にて全体写真をとり、昼飯を食べるため姫路城公園まで移動した。姫路城をバックにまた写真をとった後、コへ弁タイムとなった。この日も暑くてみんな日陰でコへ弁を食っていたが、日焼け大好きの大野氏は好んで日向に座って「こっちで日焼けしようぜ」とさかんに誘いかけてくるが誰も行かない。
昼飯を食べ終わった後は今日できることをやろうということになり、いつもは最終日の翌日にやる機材送りをやってしまおうということになった。みんながやってくれている間に宿に確認の電話をしたところ、先方かなりご立腹の様子。どうやら前日に確認の電話をしなかったこと、宿への機材送りをした荷物が邪魔ということでかなり怒っているようだったので、私1人で様子を見に行ってみたところ、貫禄十分の手強そうな女将がでてきた。「あの荷物のせいで1ヶ月間部屋が1個無駄になってしもたわ。その部屋代ももらいたいぐらいやわ」とねちねちといやみを言われむかついたが、こちらが明らかに悪いので平謝りすることで何とか切り抜けた。チェックインまで時間があったのでFreeTimeとなった。
みんな宿に入り、久々の(特に比婆班)風呂に入れることになった。郡山の鶴の一声で3年から順に入ることになった。風呂が狭かったので、山取は近くにあるらしいおばあさんのうちの風呂に入りに行った(←後半の山取氏の飲み屋での暴言の時に思い出してください)。晩飯ではみんなごはんをおかわりしまくっていた。そして、最後の1人一言も終わり大野の弾けた掛け声とともに1発芸がスタート。
私は宿のおばちゃんに早く宴会を終わらせてくれ、とせかされていたので、正直あまり楽しめなかったが、みんな合宿が終わった開放感からか、なんだか楽しそうにやっていた(気がする)。井上も合宿中には見せたことのない嬉々とした顔でビール瓶割り(われなかったが)をやっていた。最後の平井の全身洗濯挟み?でチ○コを出している時に、待ちかねたのかおばちゃんとバイトらしきブスねーちゃんが片付けに入ってきたのに、平井は「まいっか」と言って芸の続きをやっていたのには本当に笑った。
芸が終わり宿を出たところで谷口さんが合流。エールもイノコもおわり風俗班と飲み食い班の2つに分かれた。宿に門限は11時と言われたため風俗班は徹夜覚悟で三ノ宮へとくりだしていった。飲み食い班も急いで店に向かった。みんなで楽しく飲んでいたところ山取氏の表情があやしい。飲んだら真っ赤になるのはいつものことだが、いつもの鋭い目がいっそう鋭さをまして1点を凝視している。
最初は私のことをにらんでるのかなーとビクビクしていたところ、私の後ろに座っている、女の子と楽しそうに飲んでいる男の顔が気に入らないといいだした。そんな楽しそうに合コンをしている人たちに「こんな田舎で合コンなんてすんなよ」と帰り際に捨てぜりふまで吐くし、あんなに柄の悪い山取氏を見たのは初めてだった。
この後宿屋の前で川野さん斎藤さん谷口さんと、別れたのだが今考えてみると風俗班の連中は宿に帰ってこないため3人ぐらい全然泊まれたのだが(先輩方無駄に野宿させてしまってスイマセン)、誰もそれを言い出さなかった事を考えるとみんな相当酔っ払っていたのだろう。翌朝に風俗班の連中の体験談を聞くのを楽しみにしながら、久々の布団で眠りについた。
耐久ラン
耐久ラン – 大野
耐久ラン
3年・大野
耐久ラン、それは恐怖でもあり楽しみでもある。この恐怖に打ち勝った者の楽しそうな顔は忘れられない。俺は幸か不幸か去年、靭帯を痛めていたため欠場した。そしておれは楽しい顔をするために今年は直江津にやってきたのだ。
だが、いきなりつまらなくなった。なんとディレーラーが折れている。こんなことは戦の神である上杉謙信こと長尾景虎でも想像できないだろう。俺は毘沙門天に祈りをささげた。するとそこに現れた熊谷さん、藤田さんの手により再生された。まさに楽しくなってきた。これが耐久ランだ。もう俺の修羅場は始まっていたのだ。
そのあとは楽しかった。熱海と楽しく走ったら第1チェックポイントで、先頭と1時間50分もの差が開いていた。これは恐怖だった。ちょっとは個人賞を狙っていたからだ。そして休憩もそこそこに楽しく前を追っていった。するとものすごい勢いで紙浦に抜かれていった。これは恐怖だった。そして足がつった。しかも2本とも。そこからの走りは恐怖であった。2,3度つった足がまたつるかもしれない。そしてこの遅いペースでは休憩していたら絶対に追いつかない。そして恐怖のノンストップ走法へと変更した。これが楽しかった。狂ったように走る自分が楽しいのである。休まないからペースは上がらないが、休んだらこの楽しさが失われてしまうのが恐怖なのである。
そして狭く、渋滞している恐怖の道路を楽しく走って大隈講堂へ。恐怖と楽しさ、これがまさに耐久ランの醍醐味である。
一年企画 (10月25日)
1年企画 – 森山
1年企画
1年・森山
1年企画の1週間くらい前に、企画書が出来上がったから部室に取りに来い、との電話がかかってきた。その連絡を受けて部室に赴くことにした。僕は実験のため、企画会議にでられなかったので、どこにいくのか知らなかった。だが、多分奥多摩あたりだろうという噂は聞いていた。部室の机の上に置いてある企画書を見たとたん、僕が予想すらしなかった言葉が書いてあった。「千葉」・・・それは神奈川に住んでいる僕にとっては、遠い遠い異国のような響きである。ソコへ行くには、それこそ、替えの下着は持ったか?、歯ブラシも入れたか?と、荷物を念入りにチェックして、「何があっても大丈夫。2,3泊なんて全然ヘッチャラさ。」くらいの覚悟が必要なのである。企画書を手に持って、僕はボー然と立ち尽くしてしまった。目に映っているモノ全ての色が、急に色あせていくのを感じた。何でそんなに遠いのだ。神様、僕がいったい何をしたと言うのですか?
とにかく、朝の集合時間に間に合うかどうかをはっきりさせるために、時刻表を見に、本屋へと駆け込んだ。「えーと、茂原、もばら、モバラ、っと・・・!?」ショックだった。その地名は房総半島の太平洋側、俗にいう外房に記載されていた。学割使える距離である。「何線乗って行きゃあいいんだ?東海道、横須賀、総武に外房かよ!」悪戦苦闘の末に、行けることがはっきりした。気になる出発時間はというと、午前3時30分、発狂である。
1年企画のある日曜日、僕は腹をくくってでかけることにした。眠いはずなのに、その眠たさが吹っ飛ぶくらい自転車が重く感じる。電車に乗り、座りはじめると、急に睡魔が襲ってきた。寝てはいけない、寝てはいけない、と思えば思うほど眠くなってしまう。東京駅で、O野氏と、Y路氏が乗ってきた。これでほっと1安心である。O氏「家からきたの?」、僕「はい。」、O氏「何時に出てきた?」、僕「3時半です。」O氏「・・・・」感心されたというよりは呆れられていた。
電車での長旅を終えて、茂原駅を出ると、駅前のド真ん中に、妙に見慣れたテントが張られていた。まさか、と思って近づいてみる。すると中からK浦が出てきた。「いやー、家からチャリで来ちゃった。東京のナイトランよかったよー。」こいつ尋常じゃない。今日は、僕がボスで彼がメカなので、彼とボス・メカ走りである。さすがに不安は隠し切れなかった。
いざ走りはじめると、のどかな田園風景が続いていた。晴れていて暑くもなく、寒くもなくとても心地よい。久々のさわやかサイクリングである。休憩中、K浦が「俺、食べ物何も持っていないんよー。」と、言い出した。「マジで?昼飯も持ってないの?」「うん。」不安的中、しかたなく僕はパンを彼に渡した。そうこうしているうちに昼飯も終わり、フリーランになった。といっても僕はボスだったので最後の出発であった。今回のフリーランはかなり分岐が多く、K浦と2人で走っていても確信がもてない場所がいくつかあった。始めにH井に会い、つぎにK山氏に会った。その時「俺が最後?」とK山氏が言ったので、僕とK浦は「はい。」と、答えた。何かふにおちない表情をしている。いやな予感がする。そのあと誰とも会うことなく、ゴールした。すると、「まだ全員ゴールしてねえぞ!」と言われた。確かにO野氏とK野の姿が見当たらない。「ボス・メカ、戻って見てこい。」と言われ、戻りはじめた。H江氏も一緒に来てくれた。いったいどこでコースを外れたのだろう。
日がもうかなり傾いている。とにかくひたすら戻っていると、2人が一緒に走ってきた。O野氏は最初の分岐で、K野は中盤の分岐で迷ってしまったらしい。ボスの負っている責任というものが、いかにたいへんなもであるか痛感した。全員が無事フリーランを終え、目的地の鴨川に到着した。
乾杯をして、電車の時刻表を見ると、次の発車まで15分しかなかった。乗り損ねると1時間以上待つことになる。そうすると今日中に家に帰れなく可能性がある。必死こいて輪行した。輪行時間新記録を叩き出し、電車に飛び乗った。自転車の旅が終わっても、家へ帰るまでが旅なのである。僕の旅はまだまだ続くのであった。
早稲田大学・同志社大学交歓会 (10月31日 – 11月3日)
10月31日・初日 – 江川
10月31日・初日
3年・江川
とうとうこの日が来た。僕は、早同合宿実行委員長としてがんばってきて、ついに実を結ぶ時が来た。僕がコースを考え始めたのが7月の初旬で合宿が始まるまでの4ヶ月間、ぼくの頭は早同合宿のことばかりだった。僕が初めて作る企画。それも同志社の人間がくるからいつもの2倍の人間がくる。果たして企画どうりにうまく進むのか僕は不安でいっぱいだった。まさにこの合宿は僕にとっては一世一代の大仕事である。
そしてついに10月31日午前6時。早同合宿は始まってしまったのである。「集合」。僕たち以外は誰もいない松本駅に僕の声が響き渡る。みんながいっせいに集まる。1年ぶりに見た同志社の奴等。大東や森や熊谷やコサック。ホントに懐かしい。そして始めてみる同志社の1年生。こいつらみんなこの合宿に来てると思うと僕はうれしかった。びくびくなんかしてられない。サーやるぞと。
一日目は僕はとても自信があった。観光スポットをたくさん、晴れてれば一日中あの日本一の山「富士山」が見える。
そしてその日の天気はというと「雲1つない晴れ」。モー最高。一日目はビーナスラインをズーっと走って扉峠、和田峠と、白樺湖、と、とてもすばらしかった。ひとつのことをぬかしては。
僕の班が最終班でその日宿についたのがなんと6時30分。ほかの班はというと4時ごろついている。なぜそんなに開いてしまったのかというと僕の班に同志社大学4年生の「森田さん」がいた。このかたが僕たちの班に急ブレーキをかけた。この人はこの日1年ぶりに自転車に乗るという。それが原因で何でもない坂でもついてこれなかった。最初の1発目は普通に来れて休憩した時には、前の班も見えていた。しかし2発めからもー駄目だった。坂を蛇行して上っていた。姿が見えなくなっては止まって、見えたらまた出発するという感じだった。2回目の休憩場所についた頃には前の班はいなかった。無理もない。そこにつくのに50分の予定が75分かかってしまった。そんな事が一日中続いた。それでも次の日からは、その森田さんも往年の頃の足が復活して班についていっていた。来年は僕が4年生として早同合宿に出なければ行けないので今からびくついている。こんな事にならないよう4年生になっても少しは走っておこうと思う。
早同合宿は最初から終わりまで全部晴れていて内容的にも「大成功」と胸を張っていえる。しかしこれも2年生やいろいろな人に手伝ってもらったからだ。本当に感謝している。これからもずっと早同合宿は続いていくわけで、早稲田と同志社の関係もっと深まればうれしい。
最後に僕の好きな言葉を書いておきたい。「木を見て森を見ず。」これは僕のゼミの先生がよく言う言葉である。つまり人間とはよく細かいところを見ようとするが、いったんその場から下がって全体を見てみろ、そうすれば全体のバランスが良く見えてすべてがうまく行くという意味らしいです。それはクラブにもいえることで、自分が今一番しなきゃいけないことは何なのかよく考えて行動してください。では皆さん、また会う日までさようなら。

11月1日・2日目 – 杉山
11月1日・2日目
2年・杉山
先日私の班(同志社の清水さん、森さん、野中くん、安武くん、そして私と金、CLの森山)は5番目に出発した。にもかかわらず宿に着いた時、私の班の前にはだれもおらず、そのまま次の日は全Cを勤めることになっていた。
しかし、こうなるともういけない。私はいつもの悪いクセでつぎのようなことを思ってしまう。
「・・・さて、ちぎるか。」
もともと社交嫌いである私には、走行中は会話を楽しむよりも、ペダルをまわすことに専念してしまう嫌いがある。上級生としてその場の雰囲気を盛り上げることも重要である、という金の意見も理解はできるが、どうも私には難しい。そんな私にとって全Cというポジションはこのうえなく魅力的なものに感じられるのだ。しかしこの日、CLを勤めるのは森山だ。まさか上級生が1年生にクラブの秩序を乱すよう圧力をかけるわけにもいくまい。私は逸る気持ちを押さえ、なんとか森山が私の気持ちを汲み取ってくれることを祈った。
そして森山はやってくれた。彼は私の期待をはるかに上回るペースで走り、1発目の休憩で後続の班から15分以上のアドバンテージを稼ぐという荒技をやってのけた。私は心地よさのあまり小躍りすらした。が、その喜びも発数を重ねるにつれ次第にあせりに変わっていった。
(「ちょっと待て、森山、もういい、もういいんだ。」)
私は自分がマゾヒストではなく、あくまでもサディストであることを忘れていた。これまでクラブ員に対し、ペース配分でさんざん迷惑をかけてきた私が、1年生に向かって自分の体力不足を理由に減速を命じることなどできようはずもない。もはや私にできることといえば同志社の方々と、無理矢理にでも会話を弾ませ、森山にもそれに加わってもらうことで半ば強引にペースを調整させるぐらいのことしかなかった。野中くんは、ばっくれた。
11月2日・3日目 – 金
11月2日・3日目
2年・金
3日目のコースは、甲府 – 太良峠 – 御坂峠 – 河口湖と4日間のうちで最も楽勝だ。実を言うと太良峠ではなくて、大菩薩峠に行くはずだったのが、江川さんの下見の時点で通行止めのため、急きょ太良峠に変更になったのである。僕が下見をした時には通れたのに残念である。それでは3日目の様子を詳しく説明していこう。早稲田1年の勝野が合流、甲府の宿を出発。コンビニ休憩をはさみ、武田神社で記念撮影。それから太良峠にアプローチをかける。太良峠はなかなかの急勾配でいい感じ。班など関係なしのバラバラでカオスな走り。ピークからガツーンと下って山梨市内を抜け昼飯休憩ポイントの「金川の森」に到着。我々を待ち構えていたのはDCCのホーブ{リトル・ジャン・レノ}こと犬飼。早稲田勢はかなり犬飼にびびっていた様子。
飯の後、御坂峠にアタック。言わずもがな、班など関係なしの無法地帯。峠のトンネルを抜けるとMt.Fujiが我々を迎えてくれた。明日は富士山にてT・T。「富士よ、待ってろよー。」
クイッと下って河口湖の宿に到着。飯を食いスタンツ会議などをし、明日のTTに備えました。恒例の「麦踏み」が行われ、1年のなかには眠れない夜を過ごした者もいたとか…。
11月3日・最終日 – 長濱
11月3日・最終日
3年・長濱
いやーホテル山水荘は良かった!畳の上をランドヌーズで走ることが出来たし、いい麦踏みは見られたし、従業員のおばちゃんは激濃いキャラだったし、齋藤さんの分までご飯が食べられたし・・・何しろホテル立派すぎ。え、これ早同?ってマジ思った。(値段もね)
朝、出発するとき、同時泊していたアジア系(国籍未確認)ツアー客が、バスの中からこっちを興味深そうに見ていた。彼らは我々を見て何を思ったであろうか、そんな事を考えながらホテルを出発。即コンビニ買い出し休憩。この間、北村がリム交換をすることになり、僕なんかは待っている間、前方に聳え立つ霊峰富士をバックに写真を撮ったりしていた。
富士へのアプローチは吉田口からであった。このコースは傾斜が緩く、交通量も少なく、そして5合目がチャラく俗化されていて、まさに早同のような走りにはうってつけのなめコースだ。かなり寒かったが、天気もまあまあ。程なくTTスタート地点に到着。
TTについては、個人的には、合宿入って、○東とは反対に2kgも痩せて、これいけるんちゃううん?と思ったが、イケてなかった。○東の背中を、3km地点以降で見ることはなかった。
TTも終り、5合目への堕惡途(滝沢林道)の途中で逆走する齋藤さんに出会う。僕が昨日の晩飯、及び朝飯のことを感謝したら、齋藤さん「おお!食べ物を粗末にしないその態度はえらい!」と言われたのは嘘で、あのクッサいゴム張り軍手で頭を鷲づかみにされた。
5合目から見上げる富士も少々ガスっていたものの、威風堂々としており、次来る時は絶対あの3,776まで、ランドヌーズ共々制覇してやる!!!と決意。
山中湖岸をぬけ、秋好のパンク休憩を1回挟んで篭坂峠にさしかかる頃には、日がもう没しようとしていた。ナイトランに入り、奇声を発しながら県道を激走しこの日の宿「保土沢園」に到着。早稲田4年の方々が出迎えてくださった。
保土沢園・・・不思議な空間であった。とにかく、横浜大洋ホエールズ&力士、その他B級タレントのサイン色紙で埋め尽くされていた。TT順位発表、同志社のスタンツは大変盛り上がった。またエスカルゴで、エガのでかチンポを見てしまった。山取残念だったな。そういえばカザリ&1年諸君は来年「再履」であることは言うまでもない。カザリは史上初の「別格天皇」、1年どもは「将軍」として頑張ってもらおう。アー見てみたい
★最後のエールも妙に頭にこびりついている。香村さんの「うっせーばばぁ」と郡山の、まるで何も気にしてない大声が特に。
追い出しラン (11月22日)
追い出しラン – 堀江
追い出しラン
2年・堀江
追出しランは毎年、御坂峠か笹子峠である。僕はこれらの峠では卒業される4年生の方々にとって楽すぎて、失礼ではなかろうかと考え、満腹コースで学生生活最後のクラブランを飾ってもらうことにした。という訳で、大善寺に近い峠で標高1,650mの湯の沢峠をピストンというコースを企画してみた。1,000アップ、ダート有りのコースである。
フリーランで4年生の方々は死ぬだろう、と考えて4年生と他学年との出走時間を空け過ぎた。4年生を抜くことが出来た人は少なく、かなり不満の声が聞かれた。この点については反省している。とはいえ、35代の方々の強さには改めて感服いたしました。はっきりいってなめていました。
大善寺の夜、宴の司会や宿の会計でヘトヘトになった後、2年会同士のひみつ会議が始まった。話も何とかまとまり、皆綿のように眠った。翌朝、僕は主将と企画に立候補した。
特別寄稿
「雪下ろし」 – 第1期 菅原
「雪下ろし」
第1期・菅原
今年の裏日本は雪が多い。最近は地球温暖化のせいか、暖冬が多く、以前に比べると大分雪が少なくなったと感じていたのだが、今年は特別で、子供の頃を思い出す様な大雪となった。
この週末、久しぶりに屋根の雪下ろしに秋田へ帰った。早朝着いた実家はひっそりと雪に埋もれ、年を取った両親は、そろって風邪で寝込んでいた。家の中は、我々が走り回った頃の賑やかさはもちろん無く、雑然としており、何か寒々としているのは冬のせいだけでは無さそうだ。
「これは長いこと放っておけないな」と一瞬、思う。
ただ、でかいだけの田舎の家の雪かきは、歩く所だけの道をつけるだけでも、東京で鈍ってしまった体には結構きつい。表の道路は市の除雪車がやってくれるが、自分のところは各自がやらなければいけない。米寿を過ぎた親父には、さぞきつい仕事なのだろう。
夜、床に就くと、隙間風が吹き込む家は寒くてなかなか寝付けない。雪の重みで閉まらなくなってしまった襖は開けたままで、外の雪がぼんやり明るく見える。
届けてもらった灯油のポリタンクさえ、部屋までは自分で運べない年寄り。それに引き換え、休日ごとに下手なゴルフに明け暮れている自分、、親をほったらかした、長い東京での生活。隣の部屋で咳き込む親父の声を聞きながら
「そろそろ戻らねば・・・」と思う。この気持は多少の負い目から来るものもあるがそれだけではない。鳥や魚が持っている帰巣本能を同じ生物である自分は他人より少し多めに持っているのかもしれない。
そんな思いが複雑に絡み合い、ますます寝つきを悪くしてしまう。
翌朝、外を見るとせっかくの昨日の仕事も、深夜の雪で、元の木阿弥のように又、降り積もっていた。(1999.2.8)
無題 – 第26期 堀内
第26期・堀内
未だもってなぜだかわからない。自転車は通学や買い物の足としてしか考えたことはなかった。が、軽い気持ちでふらふらと部室に行って、「今日は説明だけ聞こう」とだけ思ったのに、そのままずっーとクラブに居着いてしまった(当時から小生は気が弱かったか、あるいは、その時部室にいらした先輩方の押しが強かったのかもしれない。後者だとすると、ありがたい押しの強さである。)。
卒業したら自然と自転車からは遠のくのかなと思っていたが、いまだに走っていて(むしろ走りの幅は学生時代より広がったかもしれない)、OB会でも企画局を仰せつかっている。我ながら不思議だ。
OB会では、昨年本格的OBランとして、春と秋に2回OBランを企画した。OB会のあり方、OBランのあり方については、OBの中にもいろいろ考えがあるようである。それは極めて自然なことだと思うが、少しばかり、OBランのお手伝いをさせていただいたものとして、小生のOBランに対する考えを述べたい。
小生はこのクラブや広い意味でそれを構成しているクラブ員・OBが好きである。学生時代、クラブやクラブ員の皆さんのおかげでいろいろと得るものがあったので、今は少しばかりの恩返しが出来たらという気持ちがないわけでもないが、それに加えて、やはり、1番は、クラブ、自転車、走ることが好きなのだと思う。それが、現在の小生のOB会での活動の原動力になっている(あと、実際的理由として、比較的可処分時間が多いことも挙げられる)。
その小生がかねてから1つだけ残念に思っていることがある。それは、多くの方が卒業と同時に自転車から離れてしまうことだ。これは、人それぞれに固有の事情、嗜好等があるのだから、本来小生がとやかく言う類のことではないが、学生時代の打ち込み方と比べるとやはり残念である。
そこで、昨年、秋のOBランを企画するに当たっては、僭越ではあるが、「これが自転車再開にとっての何かのきっかけになれば」との気持ちが強かった。幸い多くの参加者の方から好意的お言葉を頂き、それなりに目的は達成できたかと思う。
今後のOBランのあり方については、また皆さんと御相談して探っていきたい。よろしくお願い致します。(何かありましたら、Eメールまで御連絡いただければ幸いです。)
最後に、1サイクリストとしての小生の夢は、アフリカを思いっきり走ることだ。帰りの飛行機の切符など持たずに。
ホームページ―今までとこれから – 第29期 高橋(竜)
ホームページ―今までとこれから
第29期・高橋
文字通り同じ釜の飯を食った仲間同士。心はおおいにありながらも、日常に追われるあまり、それが実際の場を設定することとになかなか結びついてこない。こんなことは、年代を問わずよくあることではないでしょうか。
折しも、会社や個人でメールアドレスなるものを持つことが多くなり、ホームページにて情報を収集する人が増えてきた頃でした。これを仲間との壁を取り払う手段にできないものかと、筆者が「OBのホームページ」と称するものをとりあえず作ってみたのは、97年の6月のことでした。
なにぶん初作成当時の筆者は、近い年代以外のOBの方との交流はまったくなく、そういった方々を閲覧者対象としてはまったく想定できなかったことを告白しなくてはなりません。筆者だけでなく、初期に意見交換に加わっていた同年代の人たちにあったコンセプトといえば、単なる内輪受けのページではなく、サイクリング界全体に寄与するようなページを作ろう、ということくらいだった気がします。
しかしほどなくして、年月を超えて強固に存在するWCCのネットワークの力によって、このページが年代を超えたクラブOBが広く知るところになったことは大きな出来事でした。初代OBの菅原さんや15代の深井さんなどと、いろいろの楽しいお話を聞く機会を持ち、WCCの活動は年代を超えて共感しうるものであることがわかったからです。こういうきっかけで、全OBを対象にしたページを作成しよう、という作成者のモチベーションが大いに高まることになりました。
その後、うれしい展開が相次ぎました。閲覧側が書き込み可能な「私用ノート」を通しての、初代から現役までの数知れぬ皆さまのご参加。深井さんや21代の山本さんが提供して下さった、現役時代の多くの写真や文章。当時の顧問であった谷口君による、全OBへの周知。名古屋にいながらにして、いろいろなサイクリング関係のサイトへの渉外広報によって、サイクリング界への浸透に寄与した名倉君の努力。そして、ここにも原稿をよせておられる堀内さんを中心とした、ランへの呼びかけやご報告。・・・などなど、このページに集まる輪を大きくしていったできごとは、枚挙にいとまがありません。
ちょうどその年は、WCC35周年に当たりました。年末のパーティーは、事前の準備面や盛り上げにおいて、ホームページと大いにリンクしたものになりました。同時に30期の柴田君のハイテク技術により、会場にパソコンを持ち込みホームページを閲覧することが実現しました。
そして翌年(昨年)の秋より、クラブ所有のサーバー(ベージの置き場)に移転し、作成・管理を担当するのも筆者だけでなく複数制になりました。なかでも17期の松村さんが、主としてデザインや技術面を担当するようになったことによって、見た目も大変美しくなり、技術的にも高度なことが可能となったことは画期的でした。内容的にも、この本の編集長でもある錺君の文章などを通して、現役諸君がページの中心に食い込めるようになったことは、大きな前進といえるかと思います。一方、費用面でも全面的にOB会の出資となり、「WCCおよびOB会の公式ページ」の性質をも、名実ともに兼ねたものになりました。この「公式ページ」の性格と、「気軽に参加できるページ」の両立は、今後の課題であるかもしれません。
これまでページの内容は、訪れた延べ2万人の皆さまが、いろいろな形で示して下さったニーズによって変化してきました。そしてこれからも、見る方がその時その時で感じていることに応じて、柔軟に(堀内さんの表現を借りると「自由に形の変わる革袋のように」)変化していくものを目指したいものです。それによって、世界中で活躍するWCCのOBや現役諸君、ひいてはサイクリングを愛するすべての人が、それぞれの興味から「わがもの」と思えるページになっていけばと考えています。そして今後もますます、同じ釜の飯を食った仲間、ひいては年代を超えたOB同士の活動の場を喚起するようなページたりえたら最高なのではないでしょうか。
先行きの見えぬ不確実な世の中ですが、確実なのはそれぞれにとっての「クラブ」の存在です。いつでも好きな時に、そんな自分自身とお互いの顔を確認できる、暖かいページであったらこの上なく素敵です。
今後とも、ホームページにますますのご参加を、心みにしています。どうぞよろしくお願い申し上げます。
就職1年目の想い – 第34期 谷口
就職1年目の想い
第34期・谷口
早稲田大学を卒業してから、はや1年になろうとしています。学生時代の4年間は、これでもかというくらい自転車に乗ったものでしたが、就職後は予想していたとおりそんな機会も激減してしまいました。今では、週末に30キロほど走るのがやっとで、長期のツアーどころか一日中自転車に乗ることもなくなり、この反動にもどかしさを感じています。
学生時代にクラブOBの方から良く聞いたフレーズは、「学生は金がないが時間がある。社会人になると金はあっても時間がない。」というものでした。当時は社会人とはそこまで時間がないものか少々いぶかしく思ったものでしたが、今となってはその言葉を実感しているといったところです。「お金がある」といったレベルではないにしろ、少し余裕の出来た財布から、2ヶ月ほど前にローラー台を買いました。けれども、実にまだ2回しか使ったことがありません。私の怠慢が理由のひとつではあっても、わずかな余暇の時間を自転車にまわす余裕のないのが入社1年目の私の現実です。
短期間にこれだけの変化があると、その反動のためか自転車によく乗っていた学生時代がやけに美化されてくるものです。
それは学生時代にはあまり考えなかったことなのですが、私は自転車を通して本当に貴重な体験をさせてもらいました。勉強に関心を示さず、女の子との関係にも恵まれなかった私でしたが、「学生時代=自転車」ということを、後ろめたい気持ちなしに公言できるというとは幸せなことだと思っています。今後もいろんな局面で自転車を通しての体験が生きてくるでしょうが、そんな体験を錆びつかせない為にも、機会を見つけて自転車に乗ることが今の私の課題でしょうか。
編集後記
編集後記
昨年、「峠」が復刊しました。前出版局長の藤田さんの御尽力により、もう何年も発行されていなかった「峠」が復活したのです。私はその立派な本を手にし、自分達がこれまで走ってきた1年間の軌跡が形になったことにとても深い感銘を覚え、また、現役とOB間のよい橋渡しとして、私達現役部員の活動をOBの皆さんに知っていただくこともできて、とても光栄でした。
そして、今年はなんと、新たに出版局長を引き継いだこの私が、「峠」編集責任者という重大任務を任されることになったのです。まだ2年である私がいきなりそんな責任を担っていいのだろうか、とも思いましたが、36代の先輩方は、私の好きなようにやっていいということで、全権を委ねて下さいました。これはしっかりやらないと・・・、と一念発起。そして昨年の「峠」のスタイルを踏襲しながら、自分なりにイメージを膨らませていくことにしました。
でも、実際に編集作業をやり出してみると、それがなかなか大変で。特に今年は予算も限られており、自分達で原稿をワープロに打ち込み、それをプリントアウトして印刷・製本することにしたので、夏合宿以降の原稿は各自にフロッピーで提出してもらいました。部員の中にはワープロなど触ったことがない人もいましたが、苦労しながらも頑張って打ち込んでくれたようです。しかも私はパソコンを持ってないので、編集には学校のパソコンを使うしかなく、結構手間取りました。それでもどうにか、今年もこうして無事に立派な「峠」を出すことができました。原稿を寄せて下さった現役部員の皆さん、OBの皆さん、そして宮内先生、どうもありがとうございました。
この1年の第36代の活動で、私が一番心に残っているのは、何といっても台湾での春合宿です。それまで海外に行ったこともなかった私が、まさか台湾を縦横無尽に自転車で走ることになるなんて、思ってもみませんでした。台湾で私は本当にすばらしい体験を味わうことができたのですが、ただでさえ難しい合宿をしかも海外において見事に成功させたというのは、とても偉大なことだと思います。36代の皆さんに、心から感謝するとともに、この「峠」を贈りたいと思います。
さて、今年はいよいよ我々第37代が執行部。私も晴れて副将となり、このWCCを引っ張っていく立場に立つことになりました。つい最近入部したばかりだと思っていたのですが、時の経つのは本当に速いものです。そして、この記念すべき年にも、できれば私は「峠」の編集作業に携わりたいと考えております。最終的にどうなるかはまだわかりませんが、今年も私はやる気マンマンです。次号の「峠」にもどうぞ御期待下さい!
「峠」第18号編集長
峠第18号 表紙・錺
発行日1999年4月1日
発行所早稲田大学サイクリングクラブ出版局
編集責任者 錺
Editor’s Note
1998年の出来事。平成10年。
2月。長野冬季オリンピック開催。郵便番号の7桁化。
3月。山一証券が廃業。
4月。アントニオ猪木引退。明石海峡大橋が開通。
5月。若乃花、貴乃花の兄弟横綱誕生。
7月。和歌山毒物カレー事件。
8月。Apple iMac発売。
9月。スカイマークエアラインズが羽田・福岡間で運航開始。
10月。NHKおじゃる丸、放送開始。
11月。広末涼子が早稲田大学文学部に入学。
第40回日本レコード大賞 1998年 wanna Be A Dreammaker globe
WCC夏合宿は、「中国地方: 下関から – 姫路まで」でした。
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こんにちは。WCC OB IT局藤原です。
自分ごとで恐縮ですが、98年は、もう一度サイクリングの世界に復帰するために、日曜日早朝に「大井ふ頭」に出かけていました。ロードバイクです。大井ふ頭には信号が少なく、集団走行しても、まだ見逃してくれる寛容さがありました。今、考えてみると自転車暴走族みたいでしたね。
当時の文章をWEB化するにあたり、できるだけ当時の「雰囲気」を尊重するよう心掛けたつもりです。
文章と挿絵はPDF版より抜粋しました。レイアウト変更の都合で、半角英数字、漢数字表記等を変換していますが、全ての誤字脱字の責任は、編集担当の当方にあります。もし誤りありましたら、ご指摘をお願いします。
2025年新春、藤原
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