


自転車雑感 – 体育局教授 上田会長
自転車雑感
体育局教授-上田会長
グルノーブルに滞在していた頃の事である。自転車競技会があるというので、誘われるままについて行った。冬期オリンピック会場跡を改装した室内競技場は、満員の人であった。その熱狂ぶりに驚かされた。
わが国では、自転車競技などほとんど話題にもならない。もっとも、車券を買ってみる、競輪は別である。さすがに昨年は不況のためかいくらか収益が減ったというが、相変わらず、地方自治体の大きな財源になっているようである。
何年か前に、東村山駅で、異様な大集団に出会って、恐怖にも似た感情におそわれた事がある。それは西武園競輪へ向う人々の群れであった。今でもその時の何とも言えぬ、黙々と行く、ゆとりの無い顔を思い出す事がある。
グルノーブルでの経験も、自転車競争を見に集まった群衆であったし、大いに興奮していた。しかし、東村山で出会った群衆とは、明らかに違っていた。スポーツとギャンブルの違いであろうか。
それにしても、これだけ自転車が普及しているわが国で、スポーツとして自転車競争が盛んにならないのは不思議である。早稲田大学の場合も、わがサイクリングクラブは、多数のクラブ員がいて盛んに活動しているのに、自転車部には、ほんの数人の部員しかいない。サイクリングの他は競輪というのではなく、もっと健全なスポーツとしての自転車競技が育って欲しいものである。
新歓ランによせて – 中山
新歓ランによせて
政経学部4年 中山
僕はこうして、早稲田界隅の喫茶店のスプリングのきかない椅子に腰かけて、コーヒーをす丶りながら、煙草をくゆらせていると、ふと僕の意識が現在の時間を飛び越えて、1年前のあの頃をさまよっているのを発見することがある。
長かった浪人生活を終えて、僕の心は解放されたという安堵感と、とて4年間をあこがれの早稲田で過せるという期待で地面に強く、たたきつけられたゴムマリのように大きくバウンドしていたのだ。何か出来る、何かやりたいという、自分の体内からわき出てくるものに、押出されるように、僕はサークルを捜して早稲田の構内を歩き回った。そして僕が数多くのサークルを一見してかなり疲労し、そしてたいした物が見あたらなかったという失望感をいだき出した頃に、目に入ったのがサイクリングクラブの出店なのである。こうして僕は、4年間に渡る早稲田での橋頭堡たる場所を捜したのだ。
新入生歓迎コンバでは、今ではもうすっかり慣れてしまった、そのエゲッなさに多少驚きながらも、このクラブに入って良かったと思いつ、盃を重ねているうちにしたたか酔ってしまったのを覚えている。そして5月の初めには、あの忘れもしない新歓ランがあったのだ。その頃の僕は、自転車の事は何も知らなかったのだ、「たとえばギヤの変速の仕方など」今考えてみると、よく出来たなと感心することばかりなのである。
その日は晴れていた、空が5月の訪れを、初夏の訪れを待ち切れないといった風の快よい休日であった。僕の処女サイクリングは、快調かのように見えた。たゞし早稲田迄の道で散々迷ったのを除けばであるが。何しろ自転車は、三田の山王スポーツで、出来たばかりの新車で、おまけに荷物は、フロント1つという軽装備であったからだ。烏山で集結した40名にものぼるWCCのサイクル野郎達は、甲州街道を渋帯で遅れがちな自動車を尻目に快調に、そう少なくとも八王子迄は飛ばしていたのだ。僕の心の内では漠とした不安感というものが消え、日本中どこへでも行けるという、期待が生まれてきた矢先である。
僕はあの悪夢のような、そして高校時代以来の苦しい目に会ったのだ。そしてこの苦しみ(楽しみ)は今でも続き、ある者をして絶望の淵に立たせ、ある者をして興奮におののかせ、またある者をして快楽にひたらせるものなのである。その名は「峠」別名「バスハンティング」たのである。僕らがこの日越えた峠は、大垂水峠とい、標高500米足らずの高尾から相模湖へ抜ける初歩的な峠の1つであって、我がクラブとしては、その年の新人の力だめしとして、ここ数年来採ってきたコースだそうである。先頭を切って出発した、僕ら1年生たちは、次第に疲労を重ね、次々に抜かれ、額から流す大粒の汗で目をつぶし、口はだらしなくハアハアとあえぐ、足はまるで鉄製のゲタをはいて、砂地を歩く様に重く感覚を失う。4キロ余りの行程を1時間余り費やして登りつめた所が峠であった。
そこはもう神奈川県、眼下に相模湖を見下し、遠く富士を眺めることができた。初めて僕は、サイクリングの底の深さに、おどろき、それがどれくらいのものであるのか測り切れず困惑してしまったものである。
このとまどいは、サイクリングとは何かという問題だけにとどまらず、僕の考え方の根本をめさぶるものとして、この1年間存在してきたのである。そして今、僕は心の中でおぼろげながらも、しかし確固たる地盤をもっている言葉として、ラン一日目に、上村さんが言った「自転車は速くてもよい」という一言をかみしめているのである。
少しデレデレと思い出すままに、1年前の頃を九州ソロランを終えて帰って来た、今現在とを比較して書いてみたが、最後にこの新歓ランが、キャンプ場の親爺が酒に酔ぱらい、真夜中に拡声機で、深夜放送を流し、警官を呼ぶやらの騒ぎを引きおこし、その結果として、翌日全員が睡眠不足におちいり、また、折りからの悪天候も加わって、ヤビツ峠へ行けなかったという、痛恨のランであったことを記して、筆を置くことにする。
回顧73年度夏合宿 – 中山
回顧73年度夏合宿
政経学部4年 – 中山
遠い地平線を1人の男が走っている。その男の残した轍の跡は、その男の生きざまを語る。青春。言い古るされ、使い古るされた言葉、しかし何と甘美で優しい響のする言葉。あの頃を語ること、それは青春といえるべき時を持ったことのあかし。失敗をくり返しても、決っしてそれは後悔につながらなかった。すべての記憶が、想い出という名の忘却の湖の中に沈もうとしている。書き残しておこう。自らの過去を捨てて、もう1つの青春を見つけるために。
孤独の中に走り続けるサイクリストに捧ぐ!
プロローグ
1973年の夏合宿は、S字型を逆にしたようなコースをとり、岩手県一の関から青森県弘前まで、800キロ12日間を走破するという、前代未聞のハードな合宿であると言われた。
『我々は今、あえて何かを求めようとすれば、すべて可能です。しかしその困難を避けて通ろうとすれば、これ又可能なわけです。こう言う状況の中で、我々はややもすれば怠惰に日々を送りがちなものです。こんな中で、いやこんな状況におかれていればこそ、この合宿という、アンチ日常生活的な場を大いに有意義ならしめようと考える訳です。…陸奥・峠・炎天下・そして汗、すべて条件は満たされた。さあ、頑張ろう!』
という酒井主将の言葉は、ずっしりと我々の胸にこたえたものでした。
この記録は、1年生サイクリストが合宿に臨んでの失販と体験を、テントの中、休けい時間、夕食後の1時に暇をみつけては書き続けた私的合宿体験談である。みなさんをあの東北合宿に御招待しましょう。
7月31日、一の関
暑い真夏の太陽が照りつける駅前に、何やら得体の知れぬ動物どもがうごめいている。
「あっ。上村さん、伊藤さん。お元気ですか」「おう、お前らも元気に着いたか」。
合宿開始一日前の、一の関駅前は、続々と集結する我WCCのサイクリストたちに占領された。久し振りに洗たくを便所でし、下着を駅のサクで干す者、「ボクチャン太陽の子」と言って歩道の上で昼寝をむさぼる者、時ならぬ無法者の出現に平泉中尊寺を擁する静かなる東北の都市は迷惑顔である。
WCC伝統の薄汚さを、体中から発散させているベスト5を選んでみよう。第1位、上村氏(3年)前年度タワシゴジラとの異名をとった豪傑ぶりは今も健在。第2位、伊藤氏(3年)あのこすれば赤茶けたサビが出る自転車と一体化しているのはさすが。第3位、大岩氏(2年)胃病に悩まされながらも合宿が始まれば治るというガッッは立派。第4位、関口氏(OB)。言わずと知れた名踊り子。ヨレヨレの短パンに荒縄をしばりつけたその姿は貫録十分。第5位、増永氏(2年)武生から走りつづけて来たというその皮膚は、水ぶくれと皮がむけ、あのスケべたらしいロヒゲだけが異様に女をねらう。次点小野氏(3年)後年、ヨーロッパに出かけパリでそのセンスをみがき、某服装メーカーで活躍をするが、この時はその片鱗もみせない。
そんな皆んなを横目で見ながら、僕は荷造りをする。何しろ重い、サイドバッグ1個分の荷物が不用なのである。ここに来るまで、2年生の牛田・及川・石川さんと石沢・酒井・斉トくんと、山形からプライベートをしてきたけれど常に足をひっぱったのは僕だった。
余分な荷物と生来の鈍足、おまけに極度の整備不良によるメカトラの続出、修平にはバカにされるし、これからの合宿をあたかも暗示しているようであった。ともかく自己の負担重量を1グラムでも減らそうというはかない試み。
午後、中尊寺でろくに見物もせず昼寝をしていると夕立にあった。早々に退散して駅前に戻ってくると蔵王を登ってきた杉本、岩崎、吉田、堀くんがいた。何となく精稈そうな顔つき。チンタラ走ってきた僕らとは一味違いそう。
夜は2晩続けてステーションホテルに宿泊と相なる。
8月1日、一ノ関 – 槻木平 – 須川温泉(票駒岳)
無愛想な駅員に5時にたたきおこされた。輪行でやってきた戸田君、正木君、飯塚さんがつき、総勢37名が集合した。4年生の平川さんの顔も見える。
日通で送ってあったテント、ナベ、などを機材管理の石沢君と分ける。A班は岩崎君の機材と修平の食当、B班は僕の食当と、1年生の仕事の分担が決まっている。石沢は僕の鈍足をかばってか、心なしか軽そうなテントを割り合ててくれる。感謝。
あわただしい出発準備のあとでトレーニング、ミーティングと進むうちに、合宿一日目という緊張感の中に何となく普段の余裕が、生まれる。
出発である。12日間に渡る地獄の始まりか。厳美渓を過ぎる頃から舗装が切れる。須川温泉までは42キロ、標高差900mの上りぱなしである。最初の日にしてはハードなコースである。
しかし、そんなことは、分からない。何しろ僕は新歓ランから数えて5回目のサイクリング、それも初めての長期ランというド素人であるから地図もろくに読めない。初めから地図が読めるとキツサがわかって戦意を喪失するが、コワイもの知らずということは、どんなコース予定をみても驚かない。
僕の班は、石井Bさん、伊藤さんの3年生、及川さん、新名さんの2年生の計5人である。1年生は僕1人であるということで、何となく僕に気をつかってくれる。蔭に日なたに、バテ気味の僕をかわるがわる励げましてくれる。
槻木平を過ぎる頃、ボトルの水をガブ飲みしようとすると、及川さんがあまり飲むなと注意してくれる。そのせいか少し足が張り気みだったが、その日は皆についてゆくことができた。
東北は少し山の中に入ると何もなくなる。予定の休けい地点に店が何もないということが多々あった。この日も食糧補給がうまくいかず、須川温泉のロッヂで米をわけてもらうという仕末であった。関口氏、平氏のスポークがバリバリ折れたり、輪行で来た人たちの中にグロッキーになる人などがいて、全員キャンプ場についたのは6時過ぎであった。最初の班の修平が平川氏のアドバイスをうけて、足りない食糧を買い集めておいてくれたおかげで、どうにかカレーライスをつくることができた。食べ終ったのは8時過ぎあった。
明日はA・B班がわかれて前後して走り出す日である。僕は新名さんとリーダーテントにねる。
8月2日、須川温泉 – 椿台 – 横手
朝、テントを打つ雨の音で目をさます。鬼のトレマネと異名をとった牛田さんの「トレーニング中止!」の声に、一せいに拍手がわきおこる。それにしても大雨である。薪がすっかり漏れてしまい、食事の用意に手間どる。
9時出発の頃には、小降りになったが地道はものすごくぬかるんで、下りはとても危険になった。ワッパとドロヨケの間に赤土がはさまり、黙っていてもブレーキはきかなくなり、倒れる。転倒の中山と異名を頂だいする程よくころび、それが少しもこわくなかった僕であったが、この日以来下りが特におそろしくなる。
転倒すれば被害を被むるのは当然の理。東京を出る時に生協で買ったサングラスは割るし、右側のペダルとクランクをつぶしてしまう。横手で1000円のミカシマのペダルに替え、300ミリのモンキーでクランクを石井・Bさんに直してもらう。(これでその年の早同までもたせてしまうのだから、いかにメカに無頓着に乗っていたかがわかってしまうのだが・・・)
もう1人甚大な被害を受けた人がいる。A班の高橋さんに鉄化面と理名をつけられた岩崎君である。タワシも真青になる程の剛毛でおおわれた、顔の中ほどのぶ厚いクチビルに真赤な赤チンをつけて下ってきたのである。聞けば地道が舗装に変わるところで、ごていねいに舗装路の方へたおれ込み、イヤというほどクチビルをすりむいとか。イヤハヤ災難なことで。
雨・メカトラ・事故の続出、おまけにA班が行くべき道がない。A・B両班は、別れることができなくなり、もう一日行動を共にすことになる。吉田君は10キロ位の間の平地で10数回もパンクをくり返したとかいう、バンク新記録をつくる。横手の町に入ってきたじきには全員疲労因應。平川さんが平川さんが昔来たことがあるというキャンプ場に寝ぐらを定める。
メシは合宿生活の最大の楽しみである。メシのお代りに関して1年生と上級生の間には、熾烈な争いが演ぜられる。先輩たちに少なく自分たちにより多く盛りつけようとする1年生、1年生が盛りつけている間におかずをさまし、より早くお代りをしようとねらう上級生、虚々実々のかけひきがくり広げられるのである。それだけに合宿のメシはうまいし、ウマイと言われれば食当は何となく気持がよくなるものである。前年度の担当者の藤山さんから、引きついだメニューに親子丼をつけ加えたのが案外好評だったのである。
夜、銭湯へ行く。番台が低いので女湯が入口の所でまる見えである。ワイワイ騒いでなかなか入ろうとしない。しかし、時間帯がずれていたせいか、子供とおばあちゃんしかいなかったのは残念である。
8月3日、横手 – 角館 – 田沢湖町
テントの中を川が流れている。川?気がついた時はもう遅かった。明け方に降り出した土砂降りの雨水が斜面を伝わり、テントの中を流れているのだ。寝袋とエアーマットと荷物をもって近くのロッヂの床下にもぐり込む。2日続けて雨で目がさめた。東北地方は僕らが行く前まで、記録的な日照りで1ヵ月近くも雨がなく、早魃が心配されていたのに。ガッデーム!ついてない。朝食はバンと牛乳に左る。雨の中でテントをたたみ、A班とB班は十和田での再会を期して別れる。
降りしきる雨の中を、田沢湖目指して走る。何度目かのスコールが通り過ぎた頃であろうか、休けいのために道路ぞいの「いすずモータース」の販売所へ避難する。その時、僕の燦然と輝くサイクリング歴上に、1点の汚点を書き込むような、そして目を疑うような事故が起きたのである。もともと、合宿では信じられないような事故やメカトラが起こるのが伝統である。フリーの3枚目の歯が抜けおちたり、おれたペダルの替わりに木の枝をつかったとか、曲ったフォークを荒縄で引っぱって元にもどしたとか、先輩諸氏の珍談、奇談は数多く後輩たちの間で語りつがれているのである。その中に、僕も加わりそうである。
いすずの前に低くなった舗道があった。僕はスリップしてそこでコケたのである。その時、「パッーン!」という破裂音がした。牛田さん曰く、「自動車のタイヤがパンクしたのかと思った」のではなく、何と僕の後輪のフィラメのリムが割れてチューブが引きちぎられたようにバーストした音だったのである。石井Bさんにたすけおこされ、サイドバックをはずしてみると、円形がくずれた無残なリムが表われたという次第である。
他の班員の人たちに先に行ってもらい、僕は小野さん、石井Bさんと共に修理をしておいかけることになった。運よくというか、不幸中の幸いというか、いすずモータースの所長さんが心配して見に来てくれたのだが、昭和21年に法学部を卒業された方で、心よく自転車屋まで僕らをクルマに乗せていくように手配してくれたのである。自転車屋は、大曲市の中通町にある有坂商会といい、そこの親爺さんは秋田県の自転車競技の専問指導員をしているそうである。フリーをはずし、スポークを組み直して手際よくリムを変えてくれた。1時はどうなるかと思った合宿も何とか続けることができそうである。唯難点は、軽合リムが鉄リムになって重くなったということか。
一段と激しくなった雨の中を3人で追う。角館であと一歩の所で皆に追いつきそこなう。それでも6時45分には合流することができた。夜は田沢湖の第1公民館に泊ることになる。シュラフから何までビショ漏れになってしまっていたので、先輩諸氏からマットやジャージを借り、久しぶりの屋根つきの所でねる。それにしても、今日ほど人の親切を身にしみて感じたことはない。昼間のいすずの所長さん、自転車屋の親爺さん、チラシ寿司のおかわりとみそ汁をサービスしてくれた早稲田ファンのお寿司屋さん、それにクラブ員諸氏、ありがとう。おやすみなさい。
8月4日、田沢湖町 – 仙岩峠 – 小岩井農場
前日までの雨がウソのように晴れた。しかし、それだけに久し振りの夏の日ざしがきびしく感じる。仙岩峠へ通じる道は、土砂崩れで通行不能となっていた。それでも、9時頃にはブルドーザーが地ならしをしたあとをついて登りはじめた。川床とも形容できる道がつづくが、フリーランなのでみんな頑張って登っている。いつのまにか小野さんと一緒に走っている。これはどういう意味か、言わなくても分ると思うのだが・・・
それでも途中から舗装道路が出現し、この頃から調子が出てきた。途中ノドが渇わき、石沢と雨水を飲む。うまい。峠付近では、牛田さんがイモっていて、僕がカーブを曲った所から走り始めて抜くと宣言。峠手前30m位の所でもう安心と思っていると、うしろからものすごい勢いで走って来て、あっというまに抜かれてしまった。なんという馬力か。恐れ入谷の鬼子母神。
峠を下ると雫石である。あの全日空の墜落事故のあった町である。死んだ時間というものがあるとするなら、あの町の人影のないシーンとした光景がビッタリとするのではないか。聞けば、前日の豪雨の中雫石に着いたA班の連中が泊めてもらった公民館は、その当時の死体安置所であったという。A班の中に夜中に白い物がフッと動くのを目撃したとか・・・
無気味な雰囲気に恐れをなして、早々に退散する。キャンブを小岩井農場に張る。しめったテントとショラフを全員で干す。僕らの横で、東京から来たという芳子チャン、順子チャンという2人連れの女の子たちがテントを張ろうとしているが、なかなかうまく張れない。そこで名だたる我クラブの(自称)プレーボーイ、上村さん、三沢さん、牛田さんといった連中がそぞろ彼女らを囲み、すわ襲うのかと思ったら親切にもテントを張る手伝いをしてやっている。そろそろみんな人恋しくなってきているのだろう。
晩メシは、野菜イタメだったが、食事をしていないという彼女たちにコゲメシをあげたら「ウマイ、ウマイ」と涙して食べていた。イヤ、ホントの話し。
8月5日、小岩井農場 – 盛岡 – 鳥子岳 – 岩洞
今日はじめて合宿のスケジュールをこなすことができた。朝、5時起床。寝むたそうな顔をした牛が牧草を食べている間を、奇声を発しながらランニングをする。昨日の女の子たちがこちらを見ているので、みなさん張り切ることしきりである。メシの用意も順調に済み、8時15分前には出発。
出発前のあわただしい時、石沢がいない。心持青ざめた顔をして、ビニール袋をつまんでいる。彼は東京を出る時以来、財布というものを持たず、ビニール袋の中に金を入れていた。どうもその袋らしい。よく見るとグッチョリ漏れている。彼は朝の務めを終えて立ち上ろうとした時に、1万1千円入りのビニール袋財布を壺の中へ落下させたのである。慌ててティシュを使うのももどかしく(使っていないというウワサもある)とび出して、棒きれですくい出し水洗いをしてきたのである。何となく黄変した聖徳太子と伊藤博文が水に漏れている。盛岡駅で牛乳と煙草とティシュを買いその1万円札を出したが、キオスクのおばさんがけげんそうな顔をしてニオイを臭ぐのには、「いやまいったね、石沢君。」
この合宿はハブニングが多い。僕のリム割れにしても、ブライベートでガタガタに狂ったリムを、無理矢理直そうと思って修理に出したりしたのが遠因になっている。普段からの整備不良がこれはたたっていたのだろう。今日も、明神岳へ向かう手前で、前日の小岩井ででの藤山さんと同様、上村さんの後輪のシャフトが折れたのである。
またこの日、盛岡を抜けた所で三沢さんと宮内さんが行方不明になった。岩洞の手前の店で待つこと1時間位、何んと表われた両人言によると、運悪く両方とも地図をもっていなく、盛岡を抜けるときに班の連中においてけぼりをくったとか。本屋で地図を立ち読みして猛然と後を追ったが、ミスコース30キロ近く余計に走ってきたとか。イヤハヤ御苦労様でした。
岩洞湖は日照りのためか水位が下っていた。湖畔に買い出しできる店がないということなので、手前の店で買い出しをしてかついでいくことになる。その店の親爺に「コンソメを下さい」と言ったら、「ハルサメですか」と聞き返されたのにはマイッタ。それでも腐りかけたキャベツや、玉ネギを沢山くれた。翌日のミソ汁に入れたが、誰も気づかなかったようだ。腹がイタイと言う者がいないからだいじょうぶだったのだろう。驚異的なWCC諸氏の生命力である。伊藤さんなどは、「昨年の北海道合宿で20日以上も前の腐さった牛乳を一息で飲み干しても大丈夫であった。合宿のメシは生協のメジより美味い。」と豪語している。こと食中毒に関しては、我WCCの諸氏は心配はいらないようなので安心する。
合宿12分の5、そろそろ全員の欲求不満が充満してきたようだ。3年生の異様な目つきが気になる。ギラギラと輝く目で無躾に1年生のピチピチした肢体を見る3年生の熱い視線を感じる。上村さんなどは、10分間でいいから俺にテントを占領させろなどと言っている。どういう意味かな。まだ弱冠18才の戸田くんを守るように我々1年生は団結して、湖畔のロッジのイスの所で固まっている。すると、ついに来た。3年生たちがヨダレをたらしながら、我々は、痴漢におそわれそうになった処女があたかも身を固くするごとく、身をよせあいガタガタとふるえていた。しかし、その時は何もおこらなかった。10時過ぎテントに入ってシュラフにもぐり込む、となりのテントで乱闘の音、石沢が襲われた。必死で逃げた石沢がテントを倒し危く難を逃がれた。ヨカッタス。ヨカッタス。
8月6日、岩洞 – 早坂峠 – 龍泉洞
今日は風がつよい。早坂峠から龍泉洞へと直行となる。上りは軽く、長い下りに少々うんざりする。途中前輪がぶれるので、石井Bさん、宮内さんに見てもらう。どうにかふれが直るが、合宿後、北海道に渡る時には前も鉄リムに変えなければだめかなと心配する。
3時頃には龍泉洞に着く。たまった洗たく物を洗い、シュラフを干す。夜は3日ぶりに風呂に入り、班ごとに茶店に入る。OBへの恒例のお便りをしたためる。何となく人間らしい気分に戻る。
精鋭6班という話しがある。合宿の班別けでは6班というといつも精鋭が集まるという伝統があるらしい。しかし、今年の6班はどうも栄光の重みに耐えかねている。原因は2年生の伊達さんと1年の斉藤君にあるらしい。この2人は合宿途入後、一日おきに交替にパンクをするのだという。茶店でとなりになった両名がしきりに何かしている。よく見ると大きなパッチゴムから10円玉大のゴムを切りとっているのだ。ついに備えのバッチゴムがなくなり、今後のためにたくわえているとのこと。肩を寄せ合い一心に作業を行っている2人の姿は、まるで内職か夜なべをしている夫婦という感じでありました。
8月7日、龍泉洞 – 龍ヶ飲水峠 – 宮古 – 中の浜
今日はパンフの予定では休息日であります。そのせいかトレーニングはキツイのを1発。8時から記念写真に続いて龍泉洞内を見学。東北合宿を終ってみてもう1度行きたいところはと聞かれたら、龍泉洞と答えるでしょう。それほどここは素晴しい所です。日本一透明度の高い水(41・5m)が湧き出る地底湖は、エメラルド色に光りその美しさは自然の驚異とも言うべきものです。その水はあくまでも冷めたく、鐘乳洞内はあたかも自然の冷凍庫。
その興奮さめやらぬうちに出発。中の浜までは宮古を経由して50キロ、楽勝コースということで僕が班のコースリーダーをおおせつかう。誰もが休息日であるということを信じていたし、誰も地図を読んでいない。このことは後で大きな反省点となるのだが、合宿に対する認識の低さが問題となるのである。
岩泉の町を抜ける頃から地道になり、勾配が急になってくる。最初の(そうこの日は峠を6つ走破するのです)龍ヶ飲水峠は、無愛想な峠である。山の南斜面をぐるりと回って道は上に続いており、おまけに強い日差しを遮る木がない。暑い。非情とも思えるほどの暑さ、渇き。2時間近く上り詰めて、峠になる。下って昼食。2つ目の小峠にさしかかった時に、別れ道に『WCCこちら』という矢印がある。前日とを通過したA班がつけておいてくれたのだろう。苦しい中にも何がしかの救いを感じる。
小峠の上で4班の三沢くんが、いかにも口惜しいといった風に言った。「今日は体の調子が良いはずなのに、どうもペダルが重く感じると思ったら、龍泉洞からダイナモをつけっぱなしにして走って来たんだ。」しかし、話す元気がない。吉田くんなどは、峠について班員が停止したのに、黙々とペダルをふみ続けあわてて牛田さん止めに走ったという。吉田君曰く、「心臓の音しか聞えず、休けいの声が聞えなかった。」
3つ目、4つ目と峠を越えるうちに、メカトラが続出する。我班の新名氏の後輪のシャフトが折れた。今合宿3人目の犠牲者である。その日、我々のコースで行きあった唯一台の車に同乗して田老へ向う。6班は、平氏がスポークをポキポキ折り、伊藤さん、斉藤君が例のごとくバンクをくり返す。5つ目の峠を下った所で、6班としてまともに走っていたのはかの石沢君唯一人のみ。
宮古の灯が見えたのは実に6時半を過ぎていた。全員が揃うのを待ち外食となる。キャンプ場の中の浜に着いたのは、9時になった。真暗闇の中でテントを張り、翌日の朝食の薪を確保する。
この日は宮古に連絡所があり、ごく1部の人にレターがとどいていた。及川氏もその幸運から見放されたうちの1人。牛田さんがかの薫子嬢からの手紙をチラつかせると、うらやましそうな目で一言「いいなあ。」僕は連絡所とは緊急連絡以外は使用してはいけないと思い込み、また女性に惑わされてはいけないと思い、一切連絡所を教えてこなかったのに。「よし、来年は彼女に教えるぞ。」しかし、どことなく負け犬の遠吠えの観がするのは何故か。
8月8日、中ノ浜 – 真崎海岸 – 黒崎
今日は、僕にとって最大のピンチの日であった。朝目がさめると体に昨日の疲労が蓄積され、体がだるい。おまけに、今合宿最高のトレーニングが追い打ちをかける。走り出す前から疲れてしまっている。
三陸の海はきれいである。澄きとおるまで紺碧に青く輝き、リアス式海岸の奇観は北の海の厳しさをきわだたせる。しかし、今日の僕にとってはそれがただ苦痛を増すだけのものとなるのは、何という皮肉か。リアス式海岸は、30~40mのアップ・ダウンが最限もなく続く洗たく板のようであり、海ぞいの国道のアスファルトは暑く輝りつける太陽にとろける。目の前がかすんで、道端のラインがくねくねとうねって見えた。ついにドクターストップ。見かねた班長の石井Bさん、新名さんが僕のテントを持ってくれる。とてもすまないと思う。苦しいのは僕だけではないのに。
いくつ目のリアス式のアップ・ダウンを下った時であろうか。急に対抗車線を走っていたタクシーが止まり、カメラを持った人がとびおりてきて、僕らを停止させる。聞くとその人は、岩手放送のカメラマンで我々のことを撮りたいという。4班、6班の連中が今下ったばかりの道を引き返してのぼり、また下ってカメラに収まった。そのあとインタビューを全員でうけた。これが翌日の朝のニュースに放映され、我々WCCは一躍岩手県において、たちまち時の人となったというのは、まぎれもない事実。
松島という小さな島に松の木が3本生えている所を過ぎ、キャンプ地の黒崎につく。買い出しで村に1軒しかない食料品屋まがいの店に行く。カレーライスの肉を注文したところ、店の人曰く、「あんたたち、昨日村中の1週間分の肉を買い占めていたでねえの。」なんと前日のA班が・・・ああ、哀れB班のカレーライスは、魚肉ハムの代用品でまかなわれることになったのである。しかし、唯一の救いは、ジャガ芋が、「ウラの畑で掘ってくるから、ちょっとまってくれや」と新鮮であったことか。
この日の疲労は、キャンプに着くと最高点に達していた。テントの中で少しの間休もうと横になったとたんに、不覚にも寝てしまったのである。おとされてテントの外に出た時には、もうあたりは夕暗みがせまり食事の用意がすっかり整ってしまっていたのだ。食当としての仕事をサボってしまった。皆さんどうもすみません。
8月9日、黒崎 – 久慈
休息日。何と心地よい響の言葉か。平庭行きが中止となる。休息日と言える休息日がほしい。このB班全員の無言の願望が3年生の英断によって実現される。久慈まで40キロ足らずのポタリングとなる
久慈には、我大先輩である砂子氏の生家がある。駅前にそびえ立つ砂子食堂。生憎先輩は外出中でいない。御母堂の休けいしていきなさいという言葉を、迷惑がかかるからと辞退して、挨拶だけしてキャンプ場へ直行する。
キャンプ場のそばに店が1軒あった。そこに女の子(跡見の子が4・5人)がいて、店でアルバイトをしているという。そぞろ我クラブのブレーボーイたちが騒ぎ出す。入れかわり立ちかわり、用もないのに何かを買いに行く。「コーラ下さい。」「あら、あなた3本目ね」と言われては下心をみすかされてしまうようなもの。しかし、向こうもさるもの。「ねえ、キャンプファイヤーするんだったら私たちも入れて。」「入れていいんですか。」と喜こぶ某クラブ員。
夕食が済むと、自動車にスイカを3つ積んで砂子氏が登場する。やはり、女気より食い気。スイカをむさぼり食いながら砂子氏と談笑する。「先輩、久慈は何もなくて良い所ですね。」「エッ!」
8月10日、久慈 – 種市 – 種差
合宿10日目の朝は雷雨で明けた。さしたる支障もなく出発準備にとりかかる。今日も青い海を右手に見ながらリアス式海岸線との苦闘が続く。そんな中でわずかな救いは、久慈溪谷の美しさである。砂子さんに余裕があるなら是非と勧められたコースである。
今日は、ガッマン(ガッチャマンではない)増永氏を先頭に、国道をビュン・ビュン飛ばすファーストラン。70キロの行程をあっという間に消化する。途中種市の駅の踏切りのそばで、またまた僕はチョンボをする。1人下を向いて及川さんのおしりを(2・3日前から痔が痛むといって少々サドルから腰をうかしぎみにしている)ながめながらあらぬ想像をしていると、道が直角に曲っているのに気がつかなかったのだ。全員、右に曲ったのに僕だけ1人直進してそのまま1m以上もあると思われる段差を、2m近くジャンブしてコケたのである。幸い何事もなく無事であったが、車に乗るときは、しっかり道があるかどうかを確認して走れという教訓である。新名さん曰く、「中山が急に視界から消えた。」
3時には種差の海岸でキャンプをする。及川さん、増永さんたちと海水浴をする。30分ばかし泳ぐ。キレイである。引き込まれそうな透明度をもった海で、つま先まで見える。
さて、この日の夕食に特別メニューが加わった。僕たちのとなりでキャンプをしている八戸の高校の女の子たちが、「これ食べて下さい」と2キロ近くのレバーをくれたのである。早速料理をする。正油とコショウで味つけしビーマンと玉ねぎで抄める。即席のレバ野菜抄めである。するとハイエナどもがウジョウジョ寄ってくる。「ハエがたかるといけないから見ててやる。」などと殊勝なことを言って、その実つまみ食いに表われるのである。
夕食後全体ミーティングが持たれた。明日はいよいよAB班合同の日である。それぞれに思いを持った合宿であったようだ。決っしてトントン拍子に予定を消化したわけではないが、それだけに各人考える所が大いにあったようだ。
さて、合宿の難敵といえば昼間のきつさだけではない。暑い夜の寝苦しさと、イビキとカの来襲である。イビキと歯ぎしりの持ち主はどこのテントでも迫害される。しかし、先に寝てしまえば彼らの勝ちである。合宿中真剣に隔離テントをつくることが考えられた。ブラックリスト掲談者(石沢くん、及川さん、藤山さん、伊藤さん)を集合させて対決させて、誰が生き残るかということは話題の的であった。2年の及川さんが東の横綱格、石沢くんが西の横綱、それに藤山さんが西の大関、A班の岩崎君が東の大関、伊達さんは東の小結といった所であろうか。
この日は、暑苦しさに加え及川さんと同じテントであった。これは寝られない。それにここはカが特に多い。カとり線香を夕方からたいているがとても役に立たない。石沢くんのテントでは、カに刺されるのを覚悟でテントを半分まくり、寝た。暑くるしさはまぬがれたらしいが、カの来襲はふせぐことができなかったようだ。石沢君は翌朝、ハレたデコボコの顔をして起きてきたのだ。あっ!もともとそういう顔をしていたんだっけなあ。
8月11日、種差 – 八戸 – 子のロ
今日はついにA班と出会う日であります。結集予定地は十和田湖。漁師の町八戸のどことなくゴミゴミしているが、活気のある町を通り抜けて、十和田の町へ。A班より少し遅れたようだ。子の口のキャンプ場まで行かなければ、合流できない。それから焼山まで20キロ余り、だらだらと眠くなるようなコース。実際、ほとんど寝入ってしまいそうになる。しかし、奥入瀬渓流にはいったとたんに、その渓谷美は眠気なぞをふき飛ばしてしまった。鮮烈なほどに輝きながら、水しぶきをあげて流れ落ちる溪流。ファンタスティックな広葉樹の並木のトンネル。近い。十和田湖はもうま近である。自然と全員のペースが上る。阪大のサイクリングクラブの人々が上流から下ってくる。大きな声で「コンニチワ!」やがてエメラルド色をした大きな湖が視界に入る。
なつかしい顔が出むかえてくれる。石川さん、杉本さん、A班の2年生たちだ。早速、記念撮映を済してキャンプ場へ。いるいる、きたなく、よごれてはいるがなつかしい顔。しかし、皆一段とたくましくなったようなつら魂。途中からA班に加わったという4年生の国友さん、陶山さんの顔もみえる。なつかしさでいっぱいである。
買い出しから帰ると、テントが張られて、メシの準備が進んでいる。しばらくして、修平のいないことに気づく。あのような顔でもしばらく見ていないと見たくなるものである。(まあ、あの手の顔は長時間見るものではないのだが・・・)何と老いの一徹。彼は早く十和田に着いたのを幸いに、湖の回わりを1周してきたとのこと。久し振りに1年生が全員会う。合宿全般に関しては、A班の連中の方が厳しい過し方をしてきたとのこと。A班は予定をきちんと消化して、かなり統制された生活をおくったようだ。我々は少々惰性に流された生活をおくってきてしまったのかも知れない。頑張れば出来た所を最初からやめてしまっていた所があったかも知れない。また、A班内部にもうっ積した問題点が出たようだ。さらに残念なことは、2年の小林さんが八戸で事故に会い、サ骨を折って入院したそうである。事故には気をつけたいものである。また、堀君が合宿に最後まで参加でぎなかったことも心残りなことである。
夜、中々寝つかれない。全員が集合できたということで興奮しているのであろう。
8月12日、十和田 – 御鼻部山 – 弘前
今日は待ちに待った合宿最後の日なのである。12分の12その日である。
朝の定食は、ミソ汁とカン詰。これが我WCCの10年来続いたメニューである。このカン詰は、2人に1つの割り合いでサバのミソ煮か水煮なのである。カン詰はあけるのがもどかしいものである。しかし、今日は異変が1つ。朝、全員車座になった時にはすべてのカン詰が開いている。そうA班の『カンキリおじさん』こと稲垣さんが、1つ10秒たらずで次々にあけてくれておいてくれたからである。これが遠因となってか、出発時間がやたらと早かった。なる程A班の連中は動きがキビキビしている。7時25分には、キャンプ場の掃除を済ませて全班出発。
距離10キロ、標高差600m、標高1,100mの御鼻部山への登りは、班別フリーランである。A班B班交互に出発する。自然と両班の対抗みたいになる。かなりキツイ上りも、これが最後とふんばった。新名さん、及川さん、伊藤さん、石井Bさん5班の全貝が声を出し、僕をはげましてくれる。5分前に出た修平くんたちの班を途中で抜き去り、8時25分には頂上へ。すこし霧がかかり湖はよく見えない。それでも全力を出し切ったという感じに軽い満足感をおぼえる。聞けばB班は、ことごとくA班を抜いたそうな。まずまずこれで1勝1敗といったところか。
あとは弘前までペダルを踏まなくてもよいくらいな、下りが続く。黒石という所で休けいを取る。我々が休んでいると、近くのクリーニング屋さんが我々のためにスイカを3個くれる。大の早稲田びいきであるそうな。遠慮なくというか、全員でむさぼり食う。ごちそうさまです。
12時少し前に終着の地、弘前へ着く。恒例の駅前の校歌の斉唱と胴上げ。やった。やった。どうなるかと思った合宿を乗り切った。満足気な顔、顔。黒く日焼けした顔の中に白い歯がのぞく。ビバ東北!
エピローグ
地獄と思われた合宿も、想い出してみればなぜか懐かしいことばかり。この合宿が僕のサイクリングクラブ生活の中に占める比重は重い。それだけに峠に僕の日記が載るということは大変意味があるように思える。想い出は大切にしたい。でも、それに捉われてしまってはいけない。この記録を印したノートは雨に漏れボロボロになってしまっている。しかし、その思い出は鮮明であり、今にもあの頃のことがよみがえってくるようである。合宿、それに続く北海道のブライベートランは僕の青春そのものであったかもしれない。
もう4年になる。今までのように自転車に乗る機会は少なくなるかも知れない。できるだけ機会を見つけサイクリングを続けていきたいものである。
ああ北海道珍道中 – 石沢
ああ北海道珍道中
法学部4年 石沢
自分はかって自転車に乗ってかなりの地域を走り、いろいろな体験をしてきた。俗に言う「いい思い」をしたことは無かったが、苦しい経験の数々については、思わずひやりとしたり、又逆に思わず笑いがこぼれたりしてしまうなど、記憶の糸をたぐっていくと、結構よい思い出になっていることを実感さずにはいられない。
そこで、クラブでの生活をあと1年残す身となった現在、過去の印象深い体験を残してみたく思って、うまくもない文章なんぞに取組んでいるのである。
即ち、1年生の北海道ブライベートのランについて記したく思っているが、どこまで上記のランの内容が浮刻りにできるかは、自分でも全く計り知れないところである。
北海道ブライベートラン
合宿の話題がそろそろ部員の話題の中心となってきた、6月の初旬頃だったと思うが、自分が途中入部だった為かあまり深い付合いのないN氏(現在氏は顧問なんぞやっている)と、中部地方を走ろうという話をしていた。20万分の1の地図も買い込み、大方のコースも決定していたのだったが、石井A氏の助言をいただき、我々が3年の時に中部を走るであろうから、北海道を走るのがよいだろうとの認識を持つに至る。そこで、再検討の結果、目的地は宗谷岬、宿泊は主としてテント使用という結論に至り、大方のコースと日程も次の様に決定した。函館 – 森 – 洞爺湖 – 札幌 – 旭川 – 層雲峽 – 網走 – 浜頓別 – 稚内、函館はN氏のコネによる旅館、札幌は連泊、旭川は上村氏宅。
1年の夏合宿が岸田鬼画局長により東北地方とされたため、北海道を走るのにわざわざ東北地方を電車で素通りするという愚行は避けられたし、サイクリストの必要条件である体力の充実を1年の時に考えていた事もあって、合宿で峠を上り、北海道で距離をかせげるようになりたいと思う自分の希望にはびったりであった。又、同行者として前期の試験際になり、Nとは既にかなり親しくしていて、Nから「アホ」と呼ばれていたS氏
(彼の事を自分はなぜNが「アホ」と呼ぶのか当初解からなかったが、現在では彼が「アホ」なのではなく、「アホ」こそが彼なのではないかと思っている。現在では彼は頭角を表わし、「オレが学校に来るのは麻雀をする為であり、女に会いに来る為だ」
と豪語するのである。彼の名を酒井(修)と言い、かの酒井(俊)先輩では決してないのである。自分も何時しかSのことを「アホ」と呼ぶようになったが、彼は最初それに少々抵抗を感じたようだが、何を思ってか、いつからか許してくれるようになった)
もはっきりしない態度を大方決めて、我々と行動を共にすることとなった。
初日、2日、3日目と我々は合宿の形式に従って走行した。先頭がコースリーダー、2番目がテントを持ち、3番目は休息日とし、順に後ろに回ることにした。コースは単調であり、国道は飽くまで平らで長く、寝たくなるほどであった。噴火湾の海岸線の単調さは、北海道の雄大さを暗示しているようでもあった。又、大沼付近では時間もあったのでボタリングを楽しんだ。茶色の赤土と草の緑の単純なコントラストがいかにも粗削りで広大な蝦夷地らしさを感じさせた。
我々はひたすらにトッブのギァーを踏み、全員が死んでもそれを通そうとしていて、チェンジなぞ許すべからざる雰囲気が全員を支配していた。愚かしいことではあるが、そうでもしなければ、北海道では距離をかせげないし、のんびり走っているとすぐに睡魔が襲ってくるのですぞ。北海道は、猛烈に走って大休止をとる、これが鉄則なのだ。彼の地を走るサイクリストよ、御注意あれ。
2日目の夜は森に泊る予定であったが、大沼で時間を潰しても更に暇が残ったので、八雲まで行く。海岸にテントを張り、パンを買って食事とする。翌朝私はここで、太平洋の海に向って○○を垂れ、実にスッキリした気分を味わったのだった。写真を見るとN氏曰く、「ビアフラ」の様な有様で、人間の生活の根本に立ち戻ったようであり、又人間から飾りを取ればあのような生活が残るのだろうと実感した。
但し決して忘れてならない事が1つ。即ち、どんな原始的な生活をサイクリング中に体験しても、その総体としての生活は外観に於て人間の本来の生活と共通点があるのみであって、所詮は、消費でしかない、労働を伴わない純然たる消費でしかないという点をくれぐれも意識の底に残しておかなければならないだろう。自分らがいかに苦しい体験をしていても、いかなる困難に出会っていたとしても、それはあくまで趣味の域を出ないものであり、自らの自発的な意欲によって行なわれているものなのであるということである。従って、サイクリングに行くなら、謙虚な気持を忘れてはならないということを念頭に置いておかなければならない。
3日目に洞爺湖で風呂代りに泳ぎ、さっぱりすることができた。4日目の朝、テントの片一方を上げて、ぼんやりと風景なんぞ眺めていると、2人のサイクリストが湖畔を猛烈な勢いで走っていくのに出会う。何と伊達氏と増永氏である。全く縁は異なもの。氏等と記念撮影をし、りんごをもらい、以後の無事を祈って再びお別れした。この日は我々は支笏湖を回って札幌まで行く予定である。
例によって安くはない朝食を食堂で済ませて、我々は一路美笛峠目ざして走る。右へ行けば登別温泉へ行く分岐などでは、どうしてもそっちへ行きたい気持になったかどうか今は忘れたが、ローカル線に沿って3時間も走ると、とある無人駅に着く。確かここで昼食をとったように記憶している。無人駅のはずなのに、駅舎を初めホームなど非常に美しく手入れが行届いており、この辺にも、住民の鉄道を愛する心、鉄道を単なる生活手段、移動手段と考えず、それ以上のもの、即ち広大な北海道に生活する者にとっては欠くことのできない生命線として、単なる公共の福祉、奉仕の対象、などといった気持以上のものを持って鉄道をとらえているような気がしたのである。
無人駅の待合室を占領して昼食をとった後は、少々休み、アイスクリームを食べる。この時には、末だ今日の地獄のことなど知らずにのんびりとしていたのである。
我々は快調に美笛峠目ざして走る。前日、洞爺湖までの上りで千葉大と勝負して(今考えるとアホらしいことだが)ブッチ切り、しかもその内に中山の高校か中学の時の同級生なんぞという女性が1人加わっていて、洞爺湖の展望台でしばし一緒に記念撮影をしたので、今日はいつになくN氏の調子がよいようだ。途中から道路は地道となり、やっと大自然の中をはいつくばって走るというような所へくる。
美笛峠では、変な交通標識を拾い、自分はこれを持って宗谷岬まで行くと主張するが、どのようにしても荷物に付けられそうにないのであきらめて、標識と一緒に記念撮影をして涙のお別れをする。この日もN氏は途中から調子がおかしくなり、前日洞爺湖で出会った千葉大の連中の内、紅一点が遅れて美笛峠へ到着するや否や、「もう着いちゃったね。」などとほざくのとは対象的で、ちょうど動物園のパンダが猛暑で汗をたらたら流してバテてしまったようであった。美笛峠は、先輩の高橋氏などから聞いていたとうり、非常に美して眺望を呈する、今でも忘れられない峠の1つである。
前方に恵庭岳、左側には支笏湖周辺のこんもりとした樹木や真青を空などが、人の少いというより全く居ない所にひっそりと存在していて、このような景色に接することは、やはりサイクリングの酸味であり、楽しさではないかと思ったものだ。
この後、支笏湖で、午後の軽いティータイムなんぞと酒落るつもりで、支笏湖湖畔の某ホテルへ出ち寄る。ところが、そこのレストランはすでに営業を終了したとかで、我々はガッカリして、売店でビスケットを買い、内心は少々不安に思いつつもしばしの休憩をとる。連日あまりに快調に過してきたので、そろそろ何かあるのではないかと思っていたところ、案の定、N氏の自転車から故障発生、休憩が終わり、出発する段になってN氏のディレーラーのレバーがさわりもしないのに動くという。
そんなばかなことがあるわけは無い。自分の所有する最高級のサンプレのレバーだってそんな器用なこと、はできはしないのに、氏のあんな唐ガラシに毛が生えたのと大差のない国産イモレバーがそんなことある訳はないと思って、S氏と一緒によく見ると、何と空転止めのピンが無くなっている。そこで、我々は、今走って来た道を目をサラの様にして、進んで退がり、まるでブルドーザーのように地面をはいつくばりながら、延々と2時間近くもピンを求めて支笏湖の湖畔をウロウロしていた。結局ピンは見つからず、N氏のディレーラーレバーは、テーブかヒモでフレームに縛ばりつけ、以後N氏のフロントディラーは、固定されることとなる。現在、氏の誇るあの鋼の様な足から発揮されるところの、パンダも驚く脚力は、この地点から着々と完成されていったのである。
こんなことがあっても、今日は札幌へ行って、見目麗わしい女性に御対面できるとあって、何となくウキウキしていて、あまり気にもならなかったようだ。しかし、泣き面に蜂とはよく言ったもので、追い討ちをかけるように次のハプニングが待っていたのだ。
支笏湖から札幌へは距離はさほどでもなく、まともに行けば、3時間はかからないはずなのであった。上りも、支笏湖から少々だけで、あとは下りっぱなしなのである。先程触れたが、N氏は少々がっかりしたのか、出発してすぐの上りで、大分遅れをとったのである。地道でしかも勾配はかなりきつく、路面にはブルドーザーが御丁寧にもデコボコを付けてくれていた。まだ三者が一緒に走っていたところでも、N氏は左側の崖下にある、神秘的な碧さを貯えるオコタンペ湖の美しさに目をひかれ、自動車と衝突しそうになったり、その後で起こる事件を暗示させるような事ばかり起こすのである。全くS氏の麻雀と同様に、困ったものだ。
オコタンペの上りは、I氏とS氏は順調に相前後して頂上を極めたのであるが、N氏の衰えはかなりひどく、まるで、去年の合宿でのブナオ峠での程島氏の様であった。何を思ったかI氏は峠の上に着くと、荷物を下して再び峠を下ったのである。かなり下ったところでN氏を見つける。N氏は道路の端に自転車を置いて休んでいたのである。顔は青ざめていたが、声をかけると再び自転車にまたがり走り出す。
しかし、その走り方たるや、左へ行き、右へ行き、フラフラっとしたかと思うと、そのまま道路の真中で石につまづいた訳でもないのに転倒してしまった。そのまま氏は再び先程と同様に道路の端にうずくまってしまった。I氏は氏の荷物を下して、自らの自転車に付け、氏を1人残して再び峠を上って行く。S氏も峠を下ってきて、N氏に水を飲ませたりしたが、S氏が言うには、N氏はビスケットを欲しがっているとか、ダダをこねているとか。全く困ったものだね。現在N氏を含めた我々3人がどのような状況にあるか氏は全く解かっていない。
西の空は真赤赤。夕日は重いの例えあるがごとく、今にも夕日が沈もうとしているのだ。そして、N氏は峠の中程までしか来ていず、満足に峠を上ってしまったのは、氏の荷物だけで、自転車と当人は、未だ、上には来ていないのだ。これから峠を下って、真駒内へ向う道には、何と、昭和51年現在で、我部の有望3年生、久保氏ではなく、熊が出て人を食うというのだ。こんな所でふらふらしていたのでは、肉付きのいいN氏は少し位、熊にかじられたって、別にどうということはないが、早稲田一の美しいマスクを売り物とする、ヤセのI氏や、東日本一の麻雀の腕を自分だけで信じている、夜の帝王ことS氏なんぞは死んでも死にきれない。
そこで賢といS氏とI氏は金魚にエサでもやるように、サーカスの熊にエサをやって芸をしこむ様に、N氏に水とビスケットを食わせ、言葉巧みに氏をだましだまし峠を上り切ったのだった。
夏の日は長いとは言うものの、さすがに7時近くともあるとあたりは、薄墨を流したような、世間では一般に趣きのある風景とされているが、寝食の定まっていない我々にとっては最も恐ろしい時刻がやってきてしまった。
我々は、時間的な点で大きなミスをしたばかりでなく、地形の把握の点でも大きなミスをしていたのだった。オコタンペを上ってしまえば、あとは真駒内まで、サイクリング道路をチンタラ下れば良いと思っていたのだが、何と、この札幌と支笏湖間のサイクリング道路ときたら、所によっては勾配15%位の上りを持つ、鬼の様なコースを持っているのである。前に書いた様に、N氏はすでに5段変速、S氏もぐったりしてしまったし、I氏だけが全く疲れもみせずに元気であったというのは全くウソであるが、とにかく、函館の出発の時に、将来の契りを固く結んだ我々は、体は疲れていたのであるが、精神も本当はものすごく疲れていて、元気だったのは、I氏の持つ、赤いフードのついた強力6ボルトのサーチライトだけで、この急勾配の道を前は、Sのサーチライト、ダイナモはつけず、後はI氏の赤い尾灯だけで走ったのであった。
あたりには人家などは全く見えず、ただただ山と林と白いセンターラインと、前方を行くS氏のバッテリーのみであった。走っても走っても明りはみえず、ほんとに明りが恋しく思えたものだった。下りは猛烈なスピードで、上りになると、今にも倒れそうなスピードになってしまった。我々一行は、函館を出るとき、クワイ河マーチだったか、何だか、ケロット忘れてしまったが、テーマソングを決めていたが、この時は誰言うともなくテーマソングをやろうということになった。熊は大きな音には近づかないということを聞いていたので、熊から身を守るのにはよいだろうと思ったのであった。
しかし、今考えてみれば、そんなことをして、無理に腹をへらすこともなかったのだが、不思議と声を出していたりすると、一定のペースが出来上がって、快調に走れたりするものだ。話は更に飛ぶが、1975年度中部山岳合宿に於いても、我が精鋭4班は、一日のうち4時間以上は声を出し続け、あるときは、わめき、どなり、吠え、又歌なんぞ、がなったりしたが、これは非常によかったと自分では思っているし、他のメンバーにも強引にそう思い込ませたのであった。
話は戻るが、クワイ河マーチは戦勝を誇る景気のよい歌で、今の我々にとっては全くやる気なんぞ、屁の1発で吹飛ぶような歌であることに即座に気付き、再び誰言うともなく、東北合宿で彼のムチャ兵衛こと大岩氏のテーマソングを採用し、エイトマンを歌いつつ、地面をナメクジがはいずるように真駒内をめざして走ったのである。
札幌が目的地であったのに、いつの間にか、どういう訳か、誰が言い出したのか、それが明りの見える、メシの食える所となってしまった。全く人間というのは弱いもので、目的などあってなきが如し、特にS氏とN氏は全く根性がなく、たかがメシに目がくらみ、即座に目的地を変更するとは軟弱もいいところ。I氏なんぞは、我がWCCの硬派の鏡。ハードの神髄。初志貫徹の鬼。ガッツの固まり。絶対に目的の変更を認めず、札幌行きを主張。しかし、しかし、氏とて人の自転車の咳きを耳にしては、まして氏の全財産をつぎこんだ高価愛車が、もう走れないと言うので、鬼の目にも涙。氏はやむなく即座にメッにありつくことを受け入れた。
思うに、この時のI氏の判断は、中部山岳合宿でブナオ峠をやめ、細尾峠へ行き、地獄を見ずにすんだ正木氏の班の班長、正木氏の言を借りれば、「決断の勝利」と言ってもよい程であり、全くI氏の硬軟自在の的確な判断力には、次の日に入った札幌の不二家のネエちゃんなんぞ、思わず目に涙を浮かべる程で、その時にもI氏は、内臓の冷えるコーヒーをやめ、他の2人がアホ面さげて、下品にも皿にこぼれたコーヒーまでススっている姿を横目に、体の暖まるコーチャでなく紅茶を注文したのだった。
話は更にもどるが、真駒内で、当時我々の間で、はやっていた「梅ダ」即ち梅酒ソーダに飛び付き、一気に飲み干し、さらにすぐ繁華街へ出向き、天丼を注文。なんとおどろいたことに、そこの主人ときたらのんびりと目の前でエビの皮をむき、洗い、小麦粉を付け、油で揚げ、だし汁にそれを入れ、丼にメシを盛り、だし汁からエビを出して丼にのせるというように、全く30分以上もかかって、以上の7つの行為をするのだった。我々は全く今にも死にそうで、
「漬け物でもいいから、1切れでもせめて口に入るものを呉れ。」
という気持であった。全く蝦夷という所は広くてスケールはでかいが、この時ばかりは、のんびりとした気風には腹がたったものだった。おまけに、その天丼の代金がべらぼうと高く、いくらだったし忘れたが、おそらく、金城庵の天丼の並位のものだったと思う。
そんな訳で、メシの値段の高いのに少々腹をたてたが、何とか腹の虫はおさまり、こんどは寝倉をさがしださねばならない。全く8時か9時過ぎになって、我々のような者が3人も札幌のベッドタウン、高級住宅地の中を歩き回っていたのだから、見た人は一体何と思っただろう。
我々は、しばしの間、そこいらをブラついたが、彼のジャネット・リン嬢が滑ったという真駒内のアイスアリーナに目をつけた。この施設は、夏は体育館かなにかに使うのだろうか、それともブールにでも使うのだろうかなどと考えながら、その大きな、全く大きな廂の下へ出向くと、警備員氏がこんな所で寝るのはけしからん。だめだ。と言うので、今更他へ行って寝倉を探すのも面倒なので、アイスアリーナの入口の芝生の上にグランドシートを敷き、テントを張るのも面倒なので、そのままシュラフに入り、寝てしまった。夜というのは全く都合の良いもので、こんな所で、こんなことをしている我々に気づく者も皆無であったのは、全く幸いであった。
翌朝目をさますと、3人のシュラフがそろって粗相をしていた。草の上に夜露が降りていて、びっしょりと漏れてしまったのである。我々はこれを戦闘的に乾かし、どうせ今日は一日札幌で、のんびりとつれづれなるままに過ごすことに決めていたので、まず食べるものを食べて、そして結果的に生ずる排棄物を出すことにした。真駒内のアイスアリーナにある公園の便所へ出掛けてびっくり。
こんなりっぱな便所は見たこともなかったのだ。最近になり、11号館の便所も新装なり、たいへん美しく、昔の暗く陰気でじめじめした感じはなくなったが、ここのは全く単に明るく美しいばかりでなく、生活の流れの中に位置づけられる、ある程度社会生活空間の中では隔離された場所としてではなく、全くそこに居ることに不自然さや、被隔離感、疎外感など感じることがない。かえって快活になり、積極的にある行為にはげめる。しかも楽しくなるような、そんな形容がぴったりの便所であったのだ。特に大きな御馳走の方は、黒が基調となっていて、大へん落着いた配色で、何と白いはずの前後に長細い例の○隠しがですよ。みなさん、まん丸なんですぞよ。それでは足の短い人種はどうしてまたがるのか我はこれを見たとき、一瞬どきりとした。
雨の中をがんがん走り、びしょ漏れも苦ともしないが、さすがにあれの中に足を突っ込んで、行為の終るまでそのまま湿り気がしのび寄って来るのを我慢するのはどうも気が進まん。しかし、その円型の○隠しには、ちゃんと足の踏場が2つついているの。全くみなさんがこの施設を使うのにも心配はないのだ。その足場を踏みはずさない限り、極く快適に行為の終了後にやって来る、あの解放感、満足感を得ることができるのである。行為の終了後には、通常の水洗では味わえない楽しい思いをするだろう。
通常は前後あるいは、後方向から水が勢いよく出て、黄色の粘土は前方向へ流れていくのだが、全くこれでは面白くない。一瞬にして、それまんま自分の体内にあった、全く自分の分身とも呼びうる、自分のまさに骨肉を分けた物が、たかだか水と呼ばれる無機物によって流されてしまっては、名残りを惜しむ間もない。全くさびしいのだ。しかし、この便所のは全くその点は充分心して造られている。まず水の出る方向が違う。前後あるいは後方向だけから吹出すというような通り一遍なものではないのだ。円周方向から、接線方向と6分の角度をもった水が流れ出るのだ。従って、何は、即座に見えなくなるのではなく、しばしの間○隠しの中をぐるぐる回り、しだいに円の中心に向って落ちていくのだ。
全くもって画期的な構造だなあ。この便所に接して私はそれに対する考えを改め、全く変わった便所、美しい便所に接すると、楽しく、気分爽快になるようにたった。全く五木寛之も言っているが、今後日本人は便所に対する考えを根本的に改め、家の中に占める重要性をもっと高く評価し、通風性、色彩、彩光、照明、暖房、面積、付属施設などの点を次分に考慮しなければならないだろう。私は真険に今でもそう思うのである。
ところで私は、真駒内で見たのと全く同じ施設を、東京の国立競技場だが、駒沢公園だか、あるいはその他の場所だったか忘れてしまったが、とにかく、ある所で実際に使用したことがあったが、この時には全くうれしくなってしまった。少々興味のある諸氏は、積極的にどこかの公園を探してみてくれ。どこか場所が解かったら、私に教れて欲しいや。
我々は次に何をしたか。我々は全くここが気に入ってしまって、一日中ここに居ることに決めたのである。
我々は、便所の水道に下着類を全てほうり込み、洗剤を振りかけてコシコシやり始めた。公園の管理事務所の人が見回りに来て、変な顔をしていたっけ。そして洗濯が終わると、公園の内の木にひもをしばって、そこに20数枚の下着(主に○○つ)を干した。その景たるや、正に洗剤のCMに出てくるような、あんな感じだった。散策に公園を訪れる人も、何故かしら我々の囲りは避けていったように思ったのは私の気のせいだっただろうか。
我々は今日は札幌で帰りの列車の切符を買うだけしか予定はなかったので、昼寝をすることにした。全く広くて空気は適当に乾燥していて、太陽の光線はやわらかな、そして、いかにも睡気を誘うように、薄雲を通してぼんやりとしている。かなりの永い時間睡ったように思う。
夕方は駅への切符を買いに行く。駅は思ったより混んでいる。待合室はベンチはもちろんのこと、空いている所は通路しかない程に人だらけだった。陽が沈んでしまってからは、かなり激しく雨が降って来た。我々は、稚内からの急行の指定券は買えなかったが、青森からの急行の指定券を手に入れる。あと1週間で本州へ渡るのかと思うと、なつかしくもあり、又時間にもう少し北海道を放浪してみたいような気持にもなる。
切符を買った後、変なサイクリストを3人見かける。
その1、ハンドルにカンテラをさげて走って来た山王製の自転車の男。彼の自転車は確か山王だったと思うが、もしかしたらアルブスだったかもしれない。とにかく、真暗な、しかも雨のどしゃ降りの中をカンテラの光を頼りに走って来た姿は、非常にユーモラスであり、余裕さえ感じられた。最近では、ブレーキレバーに穴をあけたり、フリーを軽合金にしたりして、サイクリングを行う主体としての人間の出し得る力というものを極限にまで合理化して引き出しているという情況、それはそれで意味が有り、決して否定しようというものではないが、「サイクリングなんてどうせこんなもんさ。」といったような、ある程度の水準以上の合理化をせず、自分がサイクリングをしているという情況そのものに非常に満足を感じるような、別な言い方をすれば、自分がどんなにすばらしい装備の自転車に乗り、どんな景色のよい、どんな有名なコースを走るかではなく、どんな所でもよいから、とにかく、自分が自分の力で走っているという実感に満足を感じるような、そんなサイクリングというものを、自分自身が目標としているのではないかとも思った。私は、そのカンテラをさげたサイクリストを見たとき、ふとそんなことを思った。
その2、洞爺湖で会った増永氏。氏は、積丹を船と自分の足を使って回ったという。私はこの時点に於いては増永氏がどんな人かよく解からなかった。ただ1つ、全くよく走る人だなという既成概念のようなものはすでに持っていた。そしてそれが、私自身のサイクリングに対する考え(それほどなものでもないのですがね)を形成する外的な要因となっているような気がする。
増永氏の考え方とは異なっているかもしれないが、私の目から見ていて、私自身が感じたことというのは、早くいっても、遅く言っても大方はこんなものなのだ。何故走るのか。それは力が余るから。
そして、走ったことによって、自分の体を通して、自分が生きて、何かのエネルギー消費をなし得たから、そして、それが記憶にいつまでも残るから。記憶を思い返して、更に次の記憶を残す為に再び走る。要するに、走ることによって、現実からの逃避をし、そういう記憶を残し、記憶の再生によって、再び現実からの逃避を行う。こんなところで、自分としては、今現在の生活が現実で、サイクリングに行っているときが現実逃避としての、少々言い方はおかしいが異常な生活であるという考え方から、現在の混乱した、複雑で、ヘドが出るほどドロドロと悪の蔓延した社会における生活の方が異常で、時折行くサイクリングの期間の生活の方が、短期で、しかも原始的で、時にはみじめで、時には、無性にきびしくなることもあるが、かえってこちらの方の生活が正常であり、意識の底辺には日常や本来あるべき現実の生活なのではないかというような、自分で考えても少々甘い考え方になってきた。
別な言い方をすれば、現実に長い期間を占めている。異常な生活に耐えていくために、清涼剤としてサイクリングをするのではなく、完全に前記の意識のもとに、自らが欲する、サイクリングという正常な生活を断続的にではあるが、自らの生活の中で行っていくための1つの手段(即ち資金を作るという目的)として異常な社会生活を行なっていくというようなものである。
ロマンチスト。時代錯誤。逃避主義。敗北主義。のいずれもの批判があてはまるかもしれない。しかし、私はそんな風に思うんだが。所詮、人間食い物が適当にあればなにもしやしない。仕事に生き甲斐を感じるか何か知らないが、そんなやつは勝手にするといい。私しは怠け者だから、増永氏が、結局怠け者になってしまった。申し訳ない。
その3、次に登場するのは伊達氏である。氏の姓名は、イタチではないのですぞ。これは由緒ある姓字で、あくまでダテと読む。そういえば、私は大分昔に、伊達なる字を、当然のごとくイタチと読んで、動物のイタチがケモノ偏でないのはおかしいのではないか。きっと何か深い理由があるのではないか。例えば、馬や鹿や犬や兎なんかは、動物でもケモノ偏ではないからなあ。本来日本に棲んでいたイタチが、本当は朝鮮から渡って来たので、そんなあたりに理由があって、それでイタチが伊達と書かれるのではないか。そんな風に思ったことがあった。それにしても、イタチはすばしっこいが、彼の伊達氏は、一見したところニコニコしていて、人なつっこくて、どうみてもイタチではないが、氏の活動力の旺盛なのを知る人にとっては、なるほどと思わせるところがあるのである。日本の穴場を知り尽くし、行く所がなくなって、よりによって元亘の日の出を見るために南アルプスにフンドシ一張で出掛け、息子ともども凍死するところを山小屋の花咲じいさんに救けられ、ようやく生きて帰れたという話なんぞ、氏の神出鬼没機動力を物語っていると言えるだろう。伊達氏も、とうとうイタチになってしまった。申し訳ない。
ところで、我々3人は、札幌へ来たところで、寝るところが無いのである。駅は混みすぎているし、当初寝るはずだった大通公園もこの雨では無理だし。ということで、3人で寝倉を探しに出掛けた。結局、私はある銀行の玄関がよいと言ったが、N氏はいかにも日常茶飯時のことのように、地下道入口のシャッターの閉じた階段の入口がよいという。地下のこととて、温度もそれ程低くはないし、しかも廂があるので雨に濡れることもない。そこで3人は、そこを1夜の寝倉とすることにした。しかし、明朝はかなり早く、当然のことながら、入口のシャッターの開く前にそこを立ち退かねばならないのだ。しかし、人間寝る所なんて、本当にどうにでもなるもんだ。全く。身を削る思いで、わざわざ大きな家を建てるやつなんか、白蟻のエサを提供し、国家に税金を納め、火事、地震の到来に身をびくびくさせて生活るために家を塵てるようなものだ。テントの1張もあれば、全く気楽なものさ。
再びところでと書くが、次の話も北海道のブライベートで鮮明に記憶に残っていることの1つだ。支笏湖から真駒内へ来る際のN氏の地獄は前述の通りであるが、そのことに関係がある。N氏はさすがにジャーナリストを目ざすだけあって、誤字、脱字をかなり含みながらも、克明に日記を付けていた。しかし、克明なのは日記の内容即ち、事実の記録ということなのではなく、単に、日付が毎日正しく書かれたにすぎないのである。
この件に関しては、S氏も正確な記録こそないが、身をもって体験した事実というものを、N氏があたかも赤を黒といい、ミソをクソと言い、狼を赤頭巾ちゃんと言い、銀輪部隊をサイクリスツと言い、神奈川県を田舎と言い、カレーライスをライスカレーと言い、インフレを所得倍増と言うがごとく、全くデタラメな記録をもって事実の純潔性、神秘性、完全性までを破壊しくさってしまったという、全く許しがたい行為を氏は知らずにも犯したのである。
この件は、S氏とI氏は立花陸とも談の上、文芸冬夏1月新年号に発表するかどうか目下の所、検討中あり、3年間も大事に心の隅でくすぶらせ、暖めて来たのである。今こそペンの力をもってNに思い知らせてやるのだ。この原稿に載るその時が、君の最後なのだ。覚悟しろ。即ち・・・。オコぺに於ける3人の行動は大方前述のようであり、氏の日記にも、その最初と最後は正確に記録されてあるのである。しかし、その重要な個所が、完全に飛ばされているのだ。正確な記録はN氏が隠匿しているので、ここには発表できないが、大方は次の様だ。
「支笏湖では食料を腹に入れられなかったので、ビスケットを買う。オコタンペの上りはきつそうだ。」「やっと峠に着いた。」我々は、N氏の著しく事実を削除した記録を目にした時、氏に対して徹底的に加筆すること、事実を正確に記録するためには、途中が絶対に必要なことを主張したが、その後、彼は加筆した様子もないし、改めてその日の記録を書き直した様子はなかった。S氏とI氏は北海道を出る前に、N氏には是非とも加筆することを言っておいたが、N氏は例によって、「ハハハハ。」などと言うだけだった。S氏とI氏はこんなことがたび重なって、有る事無い事を書かれて、後になってひどい目に会っては大変と全く心配をした。全くペンというものは、刃物と同じで、使い方次第では、正義の刃ともなり、一方では悪の、うす汚れた匕首(あいくち)ともなるのだ。札幌の話は終わり。
札幌を出発する日の朝はどしゃ降りだった。今日は旭川まで、かなりな距離を走らねばならない。しかし、上村氏の家を訪問する予定であるので、何となく浮き浮きしている。このような時は、同じ雨でも気が迷えることはない。旭川には4時頃着いたと思う。上村氏の父上が迎えに来て下さった。氏の家には、かわいらしい、確かみどりさんという娘さんがいらしたと思う。それから、かわいらしい(S氏にとっては、かわいらしいという形容はあたらないだろうと思うが)犬が1匹居ったと思う。何故S氏にはかわいらしく思えないのか。我々3名は一応乞食のような姿で家に上がったものだから、犬が激しくはえたのである。2階に上がろうとする我々(正確にはN氏とI氏にだが)に対して激しくほえるのだが、何故かS氏にはあんまりほえないのである。
犬は、自らと通じる何かをS氏に感じたのだろう。いかにも道理を知った様な、あの仏頂顔や敵に警戒心を与えない、あのオトボケ調のメガネと口調。何を思ったか、犬はS氏の後にびったりとくっつき、顔をぐいと突張り、鼻をひくひくさせ、S氏の尻のあたりを探るのである。これにはS氏もさすがにまいったらしく、人には嫌われるが、犬になら愛されるということを知り、本人はそれ程いやでもなかったようにも思えたのだった。用があってN氏やI氏が1階へ行くと、あい変らず犬は激しくほえるのだが、S氏が行くと何とコロリと態度を変えてへばりついてくるのだった。全く面白い犬だった。もっとも、おもしろいだけではなく耳のところも白かった。
次の日は昼まで旭川の歓楽街の外観のみを見物するだけで、昼食を御馳走になり、層雲峡までの50キロ余りを、これも小雨の中を走るようになってしまった。
層雲峡、石北峠、綱走を経て、興部(オコッペ)たる所に至る。ここが9日目の宿となる。確かに興部だと思うが、もしかしたら雄武(オウム)だったかもしれない。どちらでも良いのだが、とにかく、我々はこの街へ入ってすぐに、キャンプ場を探すことにしたが、あっちへ行ってもこっちへ行っても、それらしいものはない。たまには変った所へテントを張るもよかんべえと思って、駅前の広場(とは言っても、ただの空地同然なのだが)へテントを張ることにした。テントを袋から出して、ボールを立てて、いざテントを張り、ペグを打とうとしてはたと気づく。この広場は、一見表面は柔かそうだが、実は土の下に石がごっちゃりと埋まっていて、ペグの進行を妨げるのだ。そこで、完全に打ち込めたい数本のペグは、近くの民家にあった石やらレンガやらを代用して、なんとか1夜の寝倉を創り上げた。
テントを張り終えたのは夕方もかなり遅くなっていた。そこへおまわりさんが、トランシーバーを持ってやって来た。「君たち何かね。」と言う。我々は即時退却を宣告されるのかと思い、びくびくしていたが、なんとものんきな所である。「自転車かね。大変だね。気をつけて旅しなさいよ。」それだけ言うと立ち去ってしまうのだった。
空も晴れて、星は、正に正に満天の星という、まっことすばらしいものだった。がしかし、それは、我々が寝入るまでのこと。夜もふけて、ふと我々(正確にはS氏とI氏の2人)は、ある物音に気づく。片やそれが何の音かと気にしているというのに、一方のN氏は全く関知せずを決め込んでいて、高いびき。S氏とI氏は外に出ると、ものすごい風と雨。テントが今にも吹き飛ばされそうで、支柱もグラグラしている。そこで我々2人は、N氏を起こし、大至急テントの保持に努力することにする。S氏とI氏は、重そうな石を探して、あっちへこっちへ行ったり来たりしているというのに、N氏ときたら、シュラフに足を入れたまま、支柱にしがみついて、あっちをおさえろとか、早く石を持って来いとか全くいい気なもんだ。我々はしばらくの間努力して、寝食の保持に全力を尽したが、全く効果がないことであると判断し、避難することにした。
しかし、駅の待合室は閉まったままだし、まわりには家はあるが、まさか戸をたたくわけにはいかないし、見わたしたところ、あるのは便所と電話ボックスだけ。ここで、我々(正確にはS氏とI氏は)3たび下の方の関係の施設に御厄介になることにする。N氏は父親が電々公社に勤めている関係で、電話ボックスへ逃げる。荷物は便所へ全部入れて、目をしょぼしょぼさせて、一夜まんじりともせずに明かすことになった。全く臭いことはもちろん、1晩中立っていなければいけないのはつらいのだ。N氏はもちろんテレフォニングフォームで、一晩中立ちっぱなしだ。全くこの時はつらかった。
翌朝は、朝1番列車が出る前に駅の待合室が開くので、その時に入れてもらう。ここで、テントがびしょ濡れなので、ボール箱に入れて、東京へ送り返すことにする。それから、もう1つショックなことを知った。我々は稚内へ向うのだが、稚内から札幌へ向う宗谷本線は、連日の集中豪雨の為に土砂壊れで不通とのこと。我々は、荷造りして送るテントと共にこのまま、網走の方を通って帰るか、そそれとも、少々金に余裕があるので、このまま当初の目的である宗谷岬まで行くのか決めなければならなくなった。
結局あれこれと考え、意見を出し合った結果、全く合理的、逆に言えば、非人間的メカニカルな手段、即ち多数決という手段によって、このまま宗谷岬まで行くことになった。人間の社会というのは、複雑な社会機構が縦横に多要素関数的に関係していて、そのそれぞれについて、1つの音思決定と実行を行う必要を持っているが、その反面、多数決というあたかも民主主義の理想型と信じられやすい、行使する体制側の音思次第では、非常な危険を生じやすい制度であるからして、常に少飲者への最低限の配慮を忘れてはならないはずである。結局S氏とI氏の裏工作により革新単独連合のN氏は敗れはて、立て前として社会正義の実現である多数派意見に従わざるをえなくなった。
しかし、多数派の埼玉と神奈川の暴走族連合は、少数派の「ゆっくり走ろうよ墨田区連合」に対して、重大な間違いを犯してしまったのだった。実は、我々3人は、今日に至るまで、3食とも必ず丼物と麺類を同時に腹に落とし込んでいたのだが、どういう訳か、丼飯のN、いやバケッ飯のNが、ピタッと食欲をなくしてしまったのだ。当日駅の前の食堂で朝食を食べたのだが、N氏がカレーライスを残すのである。我々は、国会に於ける野党の最後の手段としての牛歩戦術のつもりでやっているのかとも思ったが、あの意地きたないN氏が、更に飯を食うことにしかその能力とやる気を示さないN氏が、まさか、太陽が西から昇っても、酒井(修)が麻雀をやめても、まさか目の前の食物を口の中に入れない訳がないだろうと思い、全く、心のほんの片隅にだけ、ほんのわずかだけN氏の健康を心配したのだった。しかし、我々の予想は、幸いにもではなく、不幸にも的中し、N氏は、S氏とI氏等と一緒に走ることが全く不可能な状態であった。
1時間走っては、N氏を30分待つという、全く時間的な正確さを持って、サイクリングというかウェーティングが進行したのである。あるときは、牛乳の集荷場の前で待ち、ある時には、分かれ道で待ち、ある時は、牧場の中で待ち、ある時は、小学校の校庭で少年野球を見ながら待つという、正に走って追うN氏と、走っては止り、そして待つというS氏とI氏の互いに地獄のような一日であった。
N氏は、そんな訳で30分待つと必ずやって来た。しかし、ある時、我々が小学校の校庭で野球を見ながらバンか何かを食べて待っていると、30分待ってもN氏が現われない、S氏が、「Nは遅いなあ。どこかで○○でもしてるのかなあ。」などと、心にもなく、あたかもN氏を気づかうような言動をするのを聞いていると、I氏は心の底からN氏のことが心配になってきた。N氏は、我々の予想通り、そして、前に何かの文章に正木が書いていたように、体のバランスを、この世に出たときからすでに失っている以上、北海道へ来てたかが2度や3度転倒したところで、何するものぞとは思ったが、やはり、N氏は大転倒をやらかして、1時間も遅れたのだった。
N氏は全く元気を無くし、気力も喪失し、あとは白クマのような肉体を残すのみであった。S氏とI氏は、そんなN氏を口先だけで励まし、それもまるでムチで白クマをしばくようにして、しばしの休憩の後、再び出発した。N氏としてはこんな時には、今すぐに家に帰りたかったことであろう。しかし、今日の朝出発した時点で、N氏の運命は決まっていたのだった。何せ、鉄道はすでになく、バスも通らない、ただそこにあるのは、砂利をいっぱいに敷きつめた、一応名前だけは国道ということになっている。ベチャベチャの広い道路と、灰色の空と、右に見える単調な海岸線だけだったのだ。前進あるのみ。全く、前進又前進。鉄道のある町まで、とにかく行かなければならないのだ。我々は、互いに思惑を胸中に秘めつつ、正に奇数によるツーリングの場合に、必ず生ずる魔擦が我々の場合にもかなりな状態になってきているのを実感しつつ、ただ黙々と走るのみだった。
午後の早いうちに、我々はやっと文明の断片の1つである、2本レールを見つけた。そこには列車の姿はなく、一応鉄道が通っているが、駅という施設だけを申し訳程度に置いている、そんな駅に行きついた。全く田舎を走ると、駅へ行くとほんとうにほっとする。
ここでは、このツーリング中、N氏とS氏が精を出して押していた、スタンプが置いてない。特に元気をなくしているN氏は、なければしかたがないというような様子であったが、S氏は以外としぶとく、駅員に言って、事務室の中からスタンブを出してもらって、地図か何かの裏へうれしそうに押している。この原稿を書いて、このスタンブの件が、この駅、即ち、北見技幸でのでき事かどうかあいまいになってきたが、確かここだと思うんだが・・・。ついでに、宗谷本線が開通したかどうかを聞いてみたところ、何と、開通したと言う。それまで沈滞ぎみだった我々の空気は、1度に明るくなった。
カーブを曲がると、そこに峠の頂上があり、展望がバッと開けたような気分だった。あとはただ、目的地の宗谷岬そして稚内まで、N氏の尻をひっぱたき、あるいはまるで白クマの首に縄をつけて、むちでたたきながら追いたてて、走り抜けばよいのだ。駅でアホな2名が、スタンプを押してから、しばしの休息の後、我々は今日の目的地である浜頓別へ向かって出発した。依然として道は舗装になったり、地道になったりで、全く醍醐味を満喫したというか、げっぷが出る程に走りに走ったという感じであった。何しろ、景色は網走を出てから、ほとんど基本的にはわからないのだ。ただ、時たま花が現れたり、町があったり、ベコが居たりするのみで、ある点では、待つことのんびり、逆に言えば、全くの不安な場所を走ってきたのだ。夕方、浜頓別へ着く。
テントはすでに東京へ送ってしまったので、屋根のある所を見つけなければならないのだ。我々は、駅の荷物置き場が、サイクリスト達の寝倉になっているのを知り、我々も一寝の恩儀を期待して、やっ介になることにする。すでに前着の客がいて、中に1人、早大生のソロサイクリストがいて、風呂屋へ一緒に行き、夜は大衆食堂へ行く。そこにいた客の話では、サイクリストで浜頓別へ来て、1月位バイトをして、金をしこたま溜めこんでから、再び次の目的地へ向って走り、再びバイトをして金をかせいで、そんなことをずっと続けている人がいるとのこと。これにはN氏が感ずるとこ大であったらしい。
又、そこの客の話では、、全く浜頓別というところは、よいところだ、ほんとうによい所だという。何となくよいところらしいことは解かるが、どこがよいのか我々にははっきり解からないのだ。とにかく、土地の人が良い所だというのだから、我々もそういうことにしておいた。再び彼の地を訪れたら、どうして、あそこがほんとによいところなのか、分析してみようかとも思うが、おそらく、再び訪れることはないだろう。
それが流浪の民たるサイクリストの掟なのだ。これはうそだが、浜頓別という町は、北海道の他の町とちがって、旅行者、特に本州方面からやって来た、いわゆる内地者に対して固く門戸を閉ざしてしまって、町の者だけで閉鎖的な共同体を形成しているという雰囲気はなく、開放的で、見知らぬ旅行者の様な者でも、困っていたりすると、ぽんと肩をたたいて、「どうしたんだ」と聞いたりする、そんな町だという印象を持つ町だった。我々がこの町を訪れたのは、8月の下旬だったが、夏といっても日本の北方のしかも、その最北端の町ではさすがに寒く、特に夜などは、シュラフに入っても寒く、荷物にかける雨よけのシートが欲しいところだった。あの、ブナオ峠の様に。
翌日は、日本にも残り少なくなってきたスティームロコモティブと一緒に写真をとり、(今でもこの時の写真を見るといろいろと思い出すのだ。顔じゅうひげでまっ黒け。いかにも疲労の極地であったこと。しかし、今日一日走れば終了するという。心の底からわいてくる、人には言われぬ何とも言えない満足感というか、安堵感というか解放感。)さあ今日一日頑張ろりと出発する。宗谷岬の1キロ手前のパン屋で、ファンタの大を飲み、感情のたかまりを押えつつ、宗谷岬に乗り着けた。
しかし、割合に大きなランの計画を消化すると、緊張が急に解けてしまって、虚脱感を感ずるものだということを、この時に初めて実感する。宗谷岬へ着いた。日本の最北端へ自分の足で立っているという、ただその事実のみを残して、あとは、家へ帰るだけだなあということしか頭になかったことは、その後合度かのランを通して体験し直したが、そのけだるさが消えてしまうと、再び、そのけだるさを体験するのが解かっていながら、ランに出掛けるということを繰り返しながら、今日に至っている。サイクリング、特に年に何度も実行し得ない長期のツーリングに於いては、目的地に着くことではなく、計画する段階における未知のものへの憧れと、コースを走っている、体がエネルギーを消費し、疲労を感ずる、そして、美しい自然を自らの目や耳や肌で実感することが、それが持つすばらしさであって、目的地へ着けば、それらの事柄は記憶となって美化されてしまい、しだいに薄れていき、今ここに記している記憶の断片となっていくのだが、その断片が次のランに足を向かせる原動力となっていくのだ。全く月並みではあるが、大方の人間はそんなものだと思う。又、ソロサイクリングを好む者にとっては、そうではないかと思う。
我々は、宗谷岬で記念撮影をしてから、稚内へ行き、ジンギスカンとビールでコースを事故もなく走破したことを悦び乾杯して、駅の廂の下に寝ることにした。N氏とS氏はシュラフに入ったのだが、I氏は賢こくも愚かにも、シュラフを輪行袋にしまってしまったので、ボール紙をかけ、N氏からセーターを貸りてそれを着て、寒さから身を守った。しかし、このときもそうだが、青森駅のホームで仮眠をとったときも、ほんとに寒かった。神は同じ日本でありながら、南は暑く、北は寒いなどという不平等を与えたのだろう。全能の神というやつが否定され、無神論などがはびこるのも、この辺から理由が想像される。
我々は北海道から帰ってすぐ、次の日にはエスカラリーに出掛けていった。今回の北海道ブライベートは、10日余とそれ程長くはなかったが、美しい自然と、解放的な気分を満喫し得たが、それ以上に、前に少し書いたが、ソロサイクリングでは味わえない、人間関係の断片を身をもって体験したのだ。表面的な人間関係を軽蔑し、それ以上のものを求めた人間が居たが、表面を通過せずして、内面へ侵入することはできない。表面を撫で回し、内面へ侵入するきっかけを探す努力をせずして、内面へ侵入することはできない。
今回北海道へ渡って、最初は精神状態が正常であったから、多少の衝突も、片一方の妥協で上手に解決していたが、次第にそれが体に蓄積されてくる疲労が原因となって困難となってきて、爆発寸前になっていったことは事実だった。人間は、顔がそれぞれ異るように、考え方、欲望の形体、価値観、思考を実行に移す場合の体力など、全てが同一ということはない。従って、それを互いに理解する、ただそれが存在することを理解するだけではなく、実際にどの点で異るのかを理解することによって、表面的な人間関係の域を越えた、内面的なそれに発展させることができるのではないか。
北海道を走って、我々が、終始一貫して呼吸がぴったり合い、意思の疎通が充分に行なわれたというわけではなく、幾度か対立を生じ、倹悪な関係を生じ、前にも書いた様に、3人バーティーの併害を生じつつも、三人三様の考え方を互いに理解することができたのではないか、あるいは、そこまでは行かずとも、理解する内面へ侵入する穴をみつけ出したという点は、おそらく私1人の考えではないと思う。私は少なくとも大学に在学している間はなるべくソロを避けて、多人数、それが無理なら、複数でのランを行っていきたいと思う。諺にある様に、「アフレンドインニード イズ ア フレンドインディード」解かるかなあ。「まさかの時の友こそ真の友」とも言うように、走ることを通して共通の体験を味わい、まさかの事を求めるのではないが、表面的な関係を繰り返す事によって、たとえほんのわずかでも、他の人間を解かっていけるならば、これは、まこと素晴らしいことではないかと思っている。
最後になるが、正にあまりかっこの良いものではないが、同行した他の2氏が、又、クラブの他のメンバーが、更に、先輩諸氏が、将来までも機会を見つけては、私と一緒に走ってくれるように願っている。大学の4年間でサイクリングをやめてしまうのも仕方ないが、それはそれとして、将来も私との関係を続けてくれることを望んで、まこと終始一貫性のない私の文章を終えることにする。
1年生企画ラン – 岩崎
1年生企画ラン
政経学部4年 岩崎
東北での合宿が終ってから1ヵ月余経った9月も彼岸の中日、1年企画ランが行われた。目的地は日原鍾乳洞。東京に住んでいるなら誰でも1度ぐらいは遠足か何かで訪れたことがあるだろう奥多摩。その一角、氷川から約10キロ上ったところにある。途中、五日市へ寄り、ニッ塚峠を越えてから行くという、日帰りとしては楽はない行程だ。
曇り空に、一抹の不安と失望を感じながら家を出て、集合地の善福寺交差点へと向った。運動会なのだろう。小金井街道を走っていると、タイツ姿の中学生が幾人かのグルーブになって歩いているのが目につく。中学の運動会と言えばあまり良い思い出はない。まず走るのが遅い。どうにかどん尻は免れたにしても、いつも羞恥心に悩まされたものだった。その頃もてる奴というのは、運動会でそれはもう華々しい活躍をするのが一般だった。だから僕が現在に於いて、この顔、この男らしい態度等をもってしても、女性に容易に接し得ないというのは、どうもこのへんに根ざしているのではないかと思われる。
そんな事を考え、軽率な懐古にうつつをぬかしているうちに吉祥寺に入った。善福寺交差点は初めてなので、東女辺でかなり迷ったあげく、やっと例の黄色を基調としたユニフォームを見つけることができた。もう大部来ている。時間からして当然なのだが、それにしても数が少いと思った。夏休みが明けてからまだまもないので、皆それぞれ都合があるのだろうけれどもちょっと淋しく又、残念だった。ファーストラン故に、全員、フロントバッグのみの軽装備なのだが、例外というのは、あらゆる場合に存在するのだか、なんと戸田君はシュラフなんぞをりアキャリアに付けているではないか。この機会を利用して奥多摩有料道路のバスハンティングをするとのこと。「それにしてもシュラフではもう寒い。」と、先輩やらに言われている。戸田君、相変らずにこにこしている。
岸田氏はさっそうとロードレーサーで来ている。東叡社のフレームにセンターブルのブレーキが直付けで、ディレーラーはサンブレ、石井A氏は、合宿では紫のフレームのキャンピングだったが、今回はランドナーだ。ブルーメルのマットガードが僕にはめずらしい。他方、立石大先輩の歳月を感じさせられるBSには驚いた。BSと言えば、柴田氏は、よせばいいのに自分でフレームの塗り替えをやったらしく前よりもずっとひどくなった。
例によって例の如く、記念撮影をすませて班毎に出発した。五日市街道を一路西へ。僕は1班で、コースリーダーの杉本、他に石井Bさんと伊藤さんがいる。小金井あたりから漸く車が減り、砂川で休憩となる。武蔵野の面影を残す雑木林がうっそうとしている。福生を過ぎ、多摩川を渡って、秋川市の田園の中、眼前には、薄らと青く奥多摩の山々が見えている。「ああこれが湿気の多い日本ならではの風景なのだな。」と今更感心してみたりする。時折薄陽が、流れる雲から顔を出し、こちらの心も晴々となり、軽快に飛ばしているうちに山間に入ると、もうそこは五日市だった。
小学生の遠足よろしく、それはもう顔を綻せて昼食をとる。時計を見ると、まだ11時半になっていなくて、予定より30分以上も早いのだが、楽観はできない。今年度に入って、クラブランで五日市へ来たのは2度目になる。ほんの3月前、パートランの柳沢峠組は、新緑の奥多摩湖でキャンブした翌日、奥多摩有料道路を越えてここで解散したのだった。またたく間におにぎりを食べ終えて一服していると、いつも元気な高橋さんが神妙な顔で、「サロメチールの類はないか。」と泣訴してくるではないか。なんでも、持病の膝が痛み出したとのこと。これから先の行程を思うと気の毒なのだが、どうすることもできない。
30分総り上げて五日市を出発し、二ッ塚峠の上りへと急いだ。杉本は元気よく上っていくが、とても真似ができず、見るも哀れに50m程も引き離されて、のたのたと進む。「この差が気になる」のだが、一向に追いつけず、ぼやきながら走っていると、「もつべきものは先輩か。」伊藤さんや石井Bさんが慰めてくれた。しかし甘えてばかりもいられないので、がんばってペダルに力を込める。額に汗して、五日市から20分程で峠へ着いた。そのまま下る。石井Bさんが、「峠では休まなくてはいけないのだが。」と後で忠告してくれた。この場合は峠に休む余地が無いので例外としてもらうことにした。
なるほど「例外のない規則はない」忽ちダウンヒルも終り、青梅から吉野街道を走る。この付近には高校時代の親友の家が点在している。帰りにでも寄ろうかなどと呑気に考えていると、しんがりを走っていた僕は皆の姿を見失うはめとなってしまった。アップダウンに悩まされながら、必死でこぐこと実に10分余で、やっと前3人の走っているのが見えた。少しやつれた緑陰の間を、リムが、傾き始めた陽光を受けて鈍く輝いている。御岳山神社の鳥居で一息ついて、氷川へと向う。奥多摩駅で、「さていよいよ目的地は近いた。」と言い合っていると、稲垣氏がしょんぼりとしている。なんでもシャフトを折ってしまったそうだ。氏、意気消沈で皆の帰りを駅で待つこととなった。
地道やらトンネルやらをくり返し、遂に日原鍾乳洞へ着いた。ここでの圧巻(?)は、60%ぐらいの階段だった。洞内は大きいことは大きいが、竜泉洞の方が神秘的だと思った。氷川までのダウンヒルを楽しんで、夕闇迫る奥多摩駅で解散した。時間に追われがちな慌ただしいランではあったが、それなりに充実感溢れる楽しいものだった。
記念すべき第10回早同交歓会 – 岸田
記念すべき第10回早同交歓会
商学部OB 岸田
我WCCの活動において、合宿に次いで重きを置いているのが、愛すべき同志、即ち同志社との交歓会なのである。今年は、同志社の主管により、11月1日~5日に丹後半島にて行なわれた。
早いもので、小生が一種の恐怖心を抱いて参加した1年の時より、既に3年が経ったのである。1年の早同、印象があまりにも強烈だったせいか、未だあの時の一挙一動さえも頭の中に整然と並べることができるのだ。やはり、1年の時の純な自分を懐かしむ気持ちがあるのだろう。思い出す毎に感慨深いものがある。小生よく同志社の連中のことをぼろかすに言うが、いくら同志社が汚ないからと言って別段嫌いというわけではなく、寧ろその逆で同じ関西人、気が合うのは当然。交歓会にしても本当の所、小学生が遠足を待ち侘びる気持ちであった。それでは今年の交歓会が如何様なものであったか、特に汚い酷いところを密にノーカットで報告しよう。特に3年を代表して、真の早同の顔を、私の非常に客観的な主観の鍵穴から覗いてみよう。さあ、見えて来たぞ!この小生の明晰な頭裏をスクリーンに映写機が回り出し、あの興奮が甦って・・・アア、イク・・・
それは正しくあの日だ、3年を中心としたイモ連と伴に、京都まで夜行寝台で直行となった。この列車通の間では、大穴或は処女喪失列車とも言われる曰く付きのもの、要するに女共がうじゃうじゃと蛆虫の如く這い入り、男の糞を待っているそうな。夜這いも列車のガタンコトンの音に守られ旨く出来るとかで、自然体中の血管が開き、精気が張って夜中というのに足取りは軽い。さすが着いて見ると後から後から女、女、女。しかし世の中そんな甘くはない。列車が出るや女共はそそくさと自分の寝台に入って眠ってしまうではないか。小生の下の女も必死にカーテンの隙間から覗いたのではあるが身動きだにせずもうお休みだ。阿呆か。
そんな事より初めての寝台車、喜んでベッドに入り本などを読み、少し目を疲れさせてから、さあ寝ようと横になり目を瞑ったのではあるが騒音、震動、過剰暖房の三悪の抵抗に会い、努力の甲斐なく朝まで一睡も出来なく、その上芋虫の如く転動した為、体がだるい。しかし、悪い事ばかりではない。夜明けを走る寝台列車は格別だ。気障に言えば、夜明けのコーヒー以上だ、空が大部白みかけ、窓を降ろすと、冷たい湿った風が顔に吹き掛かる。落合恵子並みに行けば、自然と歌の1つも口遊み、「これだと顔を洗う必要もないなあ」と窓から外へ身を乗り出しながら呟く。エロイカでもつけようか。
寝起きの顔を見られたいのか、女共が早くも洗顔、熱心に色々とバフなどでボン、チーロンとやり、鏡を見てタンヤオ断公と微笑むところを見ると満更無駄な抵抗でもないらしい。京都に着くと俄然ハッスル。さすが関西人。予想通り天ノ橋立行きの急行に同志社のイモ連も乗り込んできた。互いに口汚く、虚仮に仕合って1年振りの再会を喜び合うのも、早同ならではの光景である。両校とも顔を見合い、この世の無惨さを新たに内心ほくそ笑むのである。「ォォ未だ俺の下にはこうも沢山居るではないか」
このディーゼルカー、何度も転身を繰り返し我々を方向音痴にさせた。舞鶴あたりで初めて海に出食わす。さすが秋の若狭は静かで美しい。丸であべ静江、島田陽子張りだ。イヤもう少し可愛い所もある様で榊原ルミ辺りでどうだろう。
その日は、橋立の直ぐ傍のYHに泊まる丈である。旅館では、例によって例の顔合わせが行われた。私の真の感情を言わせてもらうと、顔をしかめて蛆虫の絞り汁を飲む心境。ゲボブチャー。特に1年(同志社)には強怖を感じる。1人として真面と言える御仁は居ない。何時か、否もう既にと言った方が良いだろうか、その異常さが同志社においては正常として扱われている。これは正に神を冒涜する行為である。又、ダーウィンの「進化論」を根底から覆えすものである。さらに、彼のシェラーの規定するホモ、サピエンスをも否定するものだ。外見上は確かにホモ、サピエンスであるが(中にはそれをも否定するものも居る)喋らせてみると「こら、あかん」てっきり冗談の多い奴だとは思っていたが、その傾向衰退の気配正にない。聞いてみるとそれが地だそうで、この時強く感じたネ、珍奇なものを観賞できて、6500円じゃ安いよ。ここに真の同志社の姿を見い出した感じで背筋に冷たいものを意識した。
2日目、とは言ってもこの日初めて走るのだが、班別バートランが行なわれ、我班は不幸にも正党派ばかりの様で、非常に楽しい時を過した。正に「楽」という漢字の意味を両立させるものであった。コースの名前からいってみよう。「落人と廃村めぐり」は言い過ぎやで、「おこるでえ~」。丹後半島、日本海、素晴しい。乙女の胸の様な広がりを持つ青い空、尻の様な丸みを持つ青い海、青い繁み、ふっくらとした心地よい日差。走っていても、ストリッパーの股座に吸引される時の様に、海が迫って来る。
別段急ぐ旅でなし、所々フリーランを組み入れのんびりと走らしてもらった。なにせ、狭い半島故、各班とコースが重複した所も多く、他の班の中には、きつい所があったそうで、4年生の顔など曲折に耐える風であった。途中、時間潰しに山登り、又、浦島神社にて昼食を済ませた。その横の小学校の分校では、女の先生が10人にも満たない生徒と体育をし、その運動場の向う側には一棟のボロ校舎が建っていて、いかにも丹後地方には相応しい情景である。
話によればと言うより、小生の記憶の覚知している曖昧模糊な推測によれば、この太郎、この地の豪族の御曹子にもかかわらず、地位に甘んじ、酒、女に暮れ、特に場末の飲屋兼女郎屋、「竜宮城」に入浸り、遂には浦島一族、幾ら力があるとは故、極道息子の御陰で一瞬にして海の木屑と化すのである。その時初めて太郎、自我に目覚たが時既に遅く、住民の白眼視に耐え切れず、釣り竿1つ持ち夜逃げするのだが、その噂さ都にも届き、後を追われるが如く中山道を北へ北へと旅をしているうちに、人里離れた木曽川の淵に奇勝の地を見付け、そこで天寿を全うするのである。後に、太郎が、龍宮城より持ち帰った玉手箱をこの地で開け、1辺に300才の翁になった夢を見、驚いて眼がさめたと云うので、寝覚の床と呼ばれ、現在、木會路一の観光地でもある。と言うのが学者の間での大かたの推論でもある。
しかし、この話ここだけの方が良さそう。という風な事を色々と思策しながら、早くも目的地「間人」に着く。この地名「タイザ」と読むのであるが、これは、聖徳太子の母君、間人皇后が、この地にしばらく滞在(タイザイ)されたというのが大かたの学説である。間人のYHでは幸運にも1番風呂に入れる。それも女風呂、一緒に入った御仁も大喜び、小生も捜求の目を目的地に飛び散らせる。しかし何もない。ただ想像に任せ体の中に興奮を甘受し、タイルの上に多量の経血、多数の陰毛を見つけるのである、辺りに生臭い、満腹であれば嘔吐を催しそうな雰囲気に満足する。
その日の夜は、早同両校の痴呆度を決定する芸能大会が催された。恒例にもかかわらず、以外や以外、阿呆のくせに、又、好きなくせに、エログロを極力抑え、TV番組を模倣したものが多く、これを見て実感しました。このマスメディアの現代人、特に頭の弱い者への滲透度の速さ、深さを、恐ろしい。例を掲げよう。「本物は誰だ」「パンチでデート」「笑点」その他、告白的なものである。「本物は誰だ」では、合宿に風呂桶を持ってきた白痴は誰か、「パンチでデート」では「この世界、きっといる筈良い人が・・・・」「浅田美代子と言うよりは、朝立ちみる子は元気な子」「1万円札が把壺に落ちてるのが見えます」なんて全然面白かったワ。皆少しは退廃的ムードドから脱却した様子を評価した嫌いがあるが、野坂先生に叱られるでえ。この交歓会を主題にすれば「早同強姦海蛆虫壺」なんて本が出来そうや。
翌日は、この交歓会において非常に話題と成ったオリエンテーリングという一種の宝探しが行なわれた。この日はもう腹が立って企画者に痰壺を頭から被せて・・・。2人1組で、その地図に指定されたチェックポイントを何十も回るのだが、折角その場に着いても肝心のカードが見つからん。糞ったれ。中には一日中争り回って1個とか、1つも見つけることが出来ない組まで現われる始末。賢明な諸君ならお解りの様に、同志の馬鹿がこんなえぐい事をして、皆をいじけさせたのを徹底的に糾弾すべきであった。小生など折角4個程見つけたのに、その控えを落とすとは、更に時間超過という2段構えの後遺症にやられて最下位に終わり、非常に結構な表彰を受けたのである。このゲーム普通の神経の持ち主では不適任である。何故って入賞した班を見てほしい。参考に小生の班の最下位賞は「天地真理にけとばされ・・・へかまされるで賞」とは如何にも同志社らしい考察、及び恥的を想像力に富んだものである。
尼っちょのアソコに蜘蛛の巣が張っている様に、多分連中の頭にも・・。今日のこの恥辱を胸に密め、着いた所が、日和山の旅館。これ程安く多く旨い飯をタラ復食えたのに気を良くし、非常に満足な一時であった。アノ、例の同志社の底なし胃袋をも充足させた位である。その後、翌日のタイムトライアルの説明。次いで年次会。クラブ以外の話に花を咲かせ、それも馬鹿話ばかりで、アレ以外の話をする頭は持たんのか。小生などうんざりして寝そべり、仕舞には耳に手をやり、良く聞こえる様にと補聴に役立てた。
今日、11月4日、遂に念願のタイムトライアルの日が来る。最近落ち目の小生、一気にクラブでの人気回復、或はクラブ員の士気を高めるため、それも体力ではなく、日和見精神旺盛の時期に、根性、根性のみで頑張ったのです。結果的には運悪く3位に滞まった。実力は未だ未だ・・。ではその日の状況は如何様なものであったか簡単に記そう。
ああ、又してもあの時の興奮が・・・死ぬ。朝は、何日になく冷たい朝で、皆思い思いの厚着を強いられた。一面霧が立ち込め幻想的な世界に魅せられるうち、彼の有名な玄武洞に到着。休憩を兼ね、見学、撮影会と、醜く行なわれたにもかかわらず、和やかな雰囲気であった。自称菊五郎、近藤正臣、原田芳雄、さらには外国の俳優ベルモント、名さえも彼らの口からは差恥心の1かけらだに見せず発せられるのである。従って、写真機の前に立つ時は常に自称に変身。自己陶酔している故、何が何でも写真に写ろうとする。ナルシストもここまで来れば大したものだ。厚顔、鈍感、愚鈍、蛙の顔に小便である。
スタート地点は、豊岡から少し離れた畑の真中、コースは28Km。峠2つで、その登り下りが地道である。勾配はきついそうだ。幸悪く、小生が先発隊に当たる。心の中は「やったるぞ。いやあかん今回は降りよう。」の2本立てである。さあクライマックスの出発の合図だ。アア、更に興奮の、興奮の度合いが高まっていく。アア、もうあかん。(合図と伴に全員団子となって走る。皆、必芝に成って頑張っている様で、当初の計算が狂ったが、小生は楽なもの、皆に悪いと思い、途中店屋に入り一服。峠の登りでは皆をゴボウ抜き、又しても峠で一服。柿などを食っているうちに皆ぞろぞろと下って行く。小生少しもあわてず。15分の昼寝の後、「さあ、出るか。」と余裕たっぷり。しかし、ちょっと休憩を取り過ぎた感もするので全力疾走。又しても皆をゴボウ抜き、次いでにバイク、自動車まで調子に乗って後方に遠ざける。しかし、途中で非常に可愛い子を見つけ、休憩を兼ね時が経つのを忘れたのが癌と成り、その班では1着と成ったものの、時間的に劣性となり惜しくも3位。
「ちょっと遊び過ぎたかな。でも結構楽しかったよ。」と日記には記しておこう。実際、途中で何度死ぬかと思って、ああ苦しかった。もうこんな阿呆な事止めよ。ハイセイコー君、お互いに苦しい立場やな。タイムトライアルも無事終了。峠を下り、幼稚園で昼食を取る。次いでに、その辺りに成っている柿までも盗る。しかし写真は撮らなかった。早稲田のT君など昼間からパンツを取られそうになり、皆、「とらとら」と覗き込み、くすくすと笑っとら。でも、T君真剣に怒っとら。「僕もう帰ります」と言っとら。小生そこで、「そんな悪い事やっとらあかんて言うとら。」一部の者、「とらそうや」と頷く。
幼稚園で、皆楽しく遊び、ブランコ、鉄棒などを使って童心に帰った如く和やかであった。傍を通りかかった子供連れのおばさん曰く、「しっかり勉強せにゃああなるんぞ。」もり1人のおばさん曰く、「あんまり藪の中で遊んで蚊に沢山食われて、ああなっても、おかあちゃん知らんでえ」てな話もなきにしも在らず。今日は、初日と同様、天ノ橋立YHに泊まることになっていた。最後のランを十分楽しみながら、丹後半島の自然に融け込んで行く。特に頂から、阿蘇海、宮津湾を臨む峠からの眺望はすばらしく、さすが日本三景の1つだけあり、股覗きも出来そうであった。
夕日の眩しい阿蘇海を右手に快適なサイクリングの後、無事、全員がYHに到着。今夜は、交歓会最後の締めくくりである大コンバが催された。そして、両校のコンバ係を先頭に大激突となるに到ったのである。我早大側は、T局長の旗の下に結集。その団結は正に、「組織のワゼダ」を象徴するものであり、それに対して、「人の同志社」と言われるものの、所詮は、三菱・三井に見られるが如く、三菱の名のもとに結集する各グルーブの連帯意識のみごとさという歴史的背景から当然、ワセダが圧倒的なコンパの指導権を握ぎるに到ったのである。
特に、我クラブの御家芸として各界において注目されているものに、ホモ性露出強要魔、及び自信過剰ナルミシズミック露出魔がある。当然、彼らの欲望を充足するためには、犠牲者が出、その犠牲者が犠牲者を呼び、ちちくられた者は、目ん玉を皿のようにひんむいて、盛りのついたのように目を血走らせ、先頭に立ち、次の獲物に盛りよる。さすがタカ派の両雄ゆえ、クラブ員のタテの関係は良く教育されている様で、一方的な上級生からの下殺生への継子いじめとなる。特に、可哀相にも拓大流に言えば、乞食に当たる1年生たちが、片端から血祭りにあげられ、小生など「もう許してやれよ」と言いながらも「おい、こいつの1辺立たしたろうや」と恐怖でおののいた亀が甲羅に頭を引っこめた様な奴を揉み味みしてやった。旅館中、逃げ回る1年を追いかけるため、2階などを走っている奴は、今にも天井をつき破って落ちてきそうな勢である。旅館の人も、さすがこれには恐れをなし炬燵の中で丸くなっていたそうな。
1度など、その部屋にまでおしかけた所、その小父さんあわててズボンとパンツを脱ぎ捨てたとか。そして、ちちくりごっこも下火になり平静に戻った所で、希望者を募り、2次会に行とうとしたのではあるが、田舎ゆえ付近には何もなく、天ノ橋立を渡り町まで足を運んだのである。橋立とは言え4キロ以上もある。ただでさえ寒いのに、普通に歩いたんでは面白ない。そこでインテリを地で行く4年生。「さすが」鼻から口から、英知が垂れ流しのO氏、全ストを提案するのである。さすが、この寒いのに全ストをしろとは、何たる発想。我尊敬すべき4年生万歳。山下清みたい。4年生全員は全ストではあるが、小生とI君は下だけ脱いでの参加である。しかし裸は便利やで、歩きながら、それもがに股に歩けば小便も出けるで。大黒様のように皆頭にパンツをかぶり、歌ったり、走ったりで忙しい。途中出合った車、猛スピードで逃げていきよった。
朝を迎え、無事早同交歓会も終るし、一同第2の交歓会のため、京都に急いだのである。特に、早同3年生会の1行20余名は、その名に相応しく、非常に華麗なブレイに時を過したのである。その日の夜は、コンパにて自慢話?に花を咲かせ、気分の良くなった所で、同志を先頭に数班に分れ、夜の京都に迷い込んだのである。小生は、「イヤダ、イヤダ」と言っているのに、夜の手配師K君に挑揆され、仕方なしに皆の前を先へ先へと急いだのだ。後ろには好き者の同志のA君、WのI、K君がいた。しかしだね、折角、あの怪しいネオン「五条楽園」を心をときめかせてくぐったのだが、芋虫よりも、イヤ、蛆虫よりも遅く歩いているのに、一行に声がかからない。「先生、やっぱり時間が遅すぎたんと違いますか」「せやなあ」途中でやっと顔出してくれた小母さん、
「今日はもう遅いから帰った方がええよ」
「ねえ、又明日にしなさい。変なんにつかまったらあかんよってに」
しかし、そんな事では息子が修まらん。「どうしてくれるんだね、K君」行ってくるぞと勇ましく、誓って家を出たからにゃ竿をぶち込まずに帰らりょか。その忠告にも従わず、色町をぶらつき初心を貫徹、貫通したのではあるが、あの小母さんに言われた通りの結果となった。
だからあの時、小生が「もう帰ろう、帰ろう」と言ってるのに。夜遅く、A君の下宿にたどりつく。隣には鰻のH君が住んでるそうな。夜なので気が付かなかったが、さすが同志社。環境は抜群だ。しかし部屋は汚ない。掃除、洗濯はしないそうだ。夜寝る時、敷布を敷いてくれたのだが、下着が汚れるので、寝る時、そっと足で蹴って彼の親切に答えた。
この日は朝から皆を集めてストリップを見に行った。結局、近くの「A級京都」にタクシーで乗りつけ1番乗りを試みる。渉外が団体割引をしてもらい100円ほど得をした。非常にすいていて、うちの団体だけである。皆花道の1番良い噛みつきに陣取る。関西だけあって、その踊り子さんとの会話も面白く、サービスも良く、小生など「イヤ、イヤ」と言っているのに、踊り子さんが両足で小生の頭をはさみ込んで、小生の鼻が、踊り子さんの花にさわる始末である。ここが何で、こっちが・・・・と説明入りである。
ああ、良かった、良かった。その日は奈良にある小生の家にWの3年を向へ入れたのではあるが、それもある下心があったので。つまり、皆も御存知の様に、I君なる者に何と奈良女に行っている妹がいるのだ。そして翌日、I君を何とかいつものようになだめすかし、我々の好奇心を充たそうとしたのである。この兄あってその妹ありと言うぐらいに、大した期待はなかったのだが、次第に未知の女性に会うという心臓の鼓動が激しくなる。女子大に入るだけでもうれしいのに、その上女性に会えるとは、やっとやって来た彼女、我々の期待を裏切らなかった。
よい遺伝子が兄貴には届かなく、それが皆妹の方へ行ったという感がしないでもない。兄貴、蝶から蠅でもいいではないか。気を落とすな、安城の屑、イヤ間違った、安城の星と成る御仁が。その才媛の令子さんと、彼女の友人の2人で付近を案内してもらった。正倉院、二月堂、三月堂、春日野。新たに奈良の素晴しさを認識させられた。2人だけだともっと良いのだが。彼女矢張出来ている。I君を「おにいちゃん」と外見上は慕っている様子だ。しかし話を聞いていると妹の方が主導権を握っているのが解る。
敗けるな寅次郎。その夜、再び、京都に遠征、ゴーゴー大会何んぞをやる。華麗なるブレーをと思ってはいるが、踊る様頗る格好悪い。体じゅうで「俺は何所の田舎から来たんや」と表現している様で恐い。この店「ガロ」と言うんやけど、広いし換気はできているし女は多いしバンドもええことは全然ない。当たってるのは女が多いことだけや。今暗いからええけど、こんなん外へ出たら、ウェーに決まってるやんけ。もう暑くて、タラタラと汗が流れるのである。その花麗なブレーの後、安いサウナがあると言うので汗を流してすっきりとする。その夜は静かに例の下宿へ直行したのだが、タクシーの運ちゃん「植物園の裏へ行ったら女子大生がアルバイトで立っとるで」なんて我々を挑揆するのである。
翌日、残念なのだが、皆帰る時が来たようで、もう少し早く余韻を残して分れたかったのが、残したのは糞丈の様な気もする。最後まで我々の接待をしてくれたH君どうもありがとう。皆さんによろしく。いつも部屋に居るH君、授業ぐらい出えよ。この交歓会がいつまでも続く様に、決して腐れ縁なんかにならん様に頑張ってや。新幹線がゆっくりホームをすべり出し、窓際に座っている筆者の眸から一筋の雨蛙の小便を見た。そして十二指腸虫の泣く様をなか細い声で呟やいた。「阿呆の真似をするのも大変やわ」。
次章、峠11号_1974年度へ
Editor’s Note
1973年の出来事。昭和48年。
第15回日本レコード大賞 1973年 夜空 五木ひろし
2月。1ドル308円の固定相場制から変動相場制に。
3月。ベトナム戦争終結。
4月。ニューヨーク・ワールドトレードセンタービル竣工。オセロ発売。
7月。日本赤軍によるドバイ日航機ハイジャック事件発生。
ブルース、リー死去。
10月。オイルショック、モノ不足。
WCC夏合宿は、「 東北 : 岩手県一関から – 青森県弘前まで」でした。
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こんにちは。WCC OB IT局藤原です。
1973年年度の峠は、なんといっても石井先輩の大作「ああ北海道珍道中」です。原稿用紙30枚以上。ここからデータ化する作業も結構大変でした。
当時の文章をWEB化するにあたり、できるだけ当時の「雰囲気」を尊重するよう心掛けたつもりです。
文章と挿絵はPDF版より抜粋しました。レイアウト変更の都合で、半角英数字、漢数字表記等を変換していますが、全ての誤字脱字の責任は、編集担当の当方にあります。もし誤りありましたら、ご指摘をお願いします。
2025年2月、藤原
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