
峠の詩
峠の詩
山にのぼり
山をくだる
そこに峠がある
生に喜び
生を悲しむ
そこに人生がある
峠に挑み
人生に立ち向かう
そこにサイクリストがある
サイクル調随想 – 文学部教授 清原会長
サイクル調随想
文学部教授 清原会長
このごろサイケ調ということばが流行しているようだ。サイコ(心)のサイクルが狂っている状態を意味しているらしいが、ここではそれはどうでもよい。考えたいことは、心のサイクルやサイクリックな心の動きということを考えてみたい。
理性的なあたまの働きや感情的な状態が周期的に、しかし、現実では変動するという事実は広く知られている。環境の変化や偶然的な出来事が変則的におきてくるので、これに対応する知的な活動や感情の動きの変則的な面が目立ってきて、周期的なものはあまりはっきりとみることができないものだ。だからこそ、心のサイクリックな働きかたが大切だともいえるわけで、生命活動の基調になるものこそ、サイクル調であるといえよう。
この大切なサイクル調が狂っているのがサイケ調というものだとすれば、これはもはや精神病院ゆきというべきであろう。
正常な人のあたりまえの生活についていえば、サイクル調の効用は目にみえない意外なところに潜在している。たとえば、独りだけでなにかの行動をとるというような場合、なにもしないでほんやりしていると、除々に単調なサイクルが心身の全体をカバーし、ついには眠ってしまう。きまった行動にとりかかると、いつかしら一定の調子をとるようになり、仕事がうまくいくか、いかないかのけじめは、内容もさることながら、むしろその調子がうまくとれるかどうかにかかってくる。
孤独の心理などというとえらく意味深重になるが、この心理が充実するためには心のサイクルをつかまえることが大切だと思う。
逆に、にぎやかな集団のなかで行動するときでも、たくさんの人の異ったサイクルが雑然と働いているときは、なにかちぐはぐな心理状態になってしまう。そこで、集団全体の統一サイクル、同調サイクルが必要になり、みんなでそれをつくり出そうとする。
大衆化の現象そのものは複雑な内容をもっているが、現実には、そのサイクル調がものをいう場合がかなり多い。
とにかくわれわれの日常生活にとって、ひどく無視されていながら、実際に縁の下の力もちとしてなくてならないものがこのサイクル調であるといえよう。
「充実した健康なサイクル調をわがサイクリング・クラブで」などとCMの1つも謳いたくなるではないか。
67年度夏季合宿記録 – 一法1年 篠原
67年度夏季合宿記録
一法1年 篠原
8月13日 正午福井駅集合
僕が着いた時は、参加者のほとんどがきていた。藤瀬さんも4年生を代表して参加。合宿参加予定者のうち、15名が参加。テント、機材は無事着いていた。
初めは、駅周辺でキャンプする予定だったが、雨のためできず。付近の小学校をあたってみたが、丁重に断わられ、そのすぐそばの西別院というお寺に泊まる。6時半まで自由行動。各自、食事や市内見物をする。夜、ミーティングをやり、7月に各自が行ったプライベート、ランの話などをする。
品田さん、井口さん、板橋さんが東京から、加藤さん、中村さんが松江から、井上が神戸、山陰を経て、小島と篠原が大阪から、それぞれ福井まで自転車でやってきた。明日から合宿が始まる。無事に終るといいが!
8月14日雨のち曇 福井(西別院) – 金津町44キロ
リーダー井口、加藤 (以下敬称略)
5時半起床。今日は朝から雨。合宿初日からまったくついていない。
この寺の宿泊規定により6時から30分間、本堂で礼拝。トレーニングの後、昨夜買ったパンで朝食とす。8時、西別院を発つ。
永平寺に向う途中、大雨のため30分以上雨宿り。松岡町より永平寺に至るまでの7キロは完全舗装になっていた。10時、永平寺着。12時過ぎまで自由行動。永平寺に参拝する予定であったが、短パンは入門を許可されず。数名を除いて門前でたむろする。「服装の乱れは、心の乱れ」だそうである。
12時半、永平寺を発つ。この頃より雨がやむ。丸岡町まで整然と走る。なかなか壮観なものだ。1時に丸岡町に着き、ここで小休止。丸岡城を見に行く。その後、丸岡町を出て、芦原温泉へ向う。
雨のためキャンプできないので、芦原温泉より2、3キロ手前の金津中央公民館で1泊させてもらう。合宿での最初の食事を作る。6時半夕食、仲々の出来ばえであった。少々かたずけに手こずったが、8時半より反省会を行ない、就寝。今日は、まことに楽だった。
8月15日雨のち曇 金津町 – 粟津温泉62キロ
リーダー板橋、小島
5時起床。8時出発。公民館を出てすぐ雨が降り出す。そのため、しばしば雨宿り。
9時半に東尋坊に着く。10時過ぎに東尋坊を出て、芦原温泉へもどり、吉崎に着くまでに、全員完全にびしょぬれ。ここで昼食をとり那谷寺へ向う。
この頃、雨は1時的に止んだが、ふたたび降りだす。2時前に那谷寺につく。この寺は実によかった。雨が降っていなければ、ゆっくり見学ができたものを!那谷寺を出て、粟津温泉に着く頃には、雨が止んだ。雨のため今日もテントを張れないので、粟津町公民館で1泊させてもらう。
夕食後反省会で、宿泊の事について話し合う。天候もさることながら、合宿が初まって、まだ1度もテントを張っていない。他人の好意に甘えて公民館などに、宿泊を乞うのは、大学生らしからぬなどの意見が出た。この公民館についているお寺に、早大の先輩がおられて、夕食後ビールを御馳走してもらう。先輩を囲んで、早稲田の事に話がはずみ、9時半に就寝。
8月16日曇 粟津温泉 – 押水町今浜海水浴場74キロ
リーダー井上、小川
5時起床。連日の5時起床であるが、全員協力する。8時、公民館を出発する前に、先輩を囲んで記念撮影。公民館を後にして、30分後、小松市に入り小休止。小松市を出てからは、リーダーが、かなりなスピードでとばしたため後続の者は、追いつくのに苦労した。もう少し後続者への配慮がほしかった。
10時、金沢、兼六園に着く。ここで3時間自由行動。兼六園を出てからも朝の様にとばしたため、班別に走っていたのが、乱れてきた。2時に津幡町に入るこれより能登半島に突入。
3時過ぎ。本日の目的地押水町に着く。今浜海水浴場でキャンプ。町が小さいため食料買い出しに手こずり、夕食は大分遅くなった。8時半より反省会。今日はリーダーがとばしすぎた様な気がしたが、合宿に入って初めて予定の日程を終える事ができた。今日も無事に終ったかに思えたが!
8月17日雨のち晴 押水町 – 能登金剛45キロ
リーダー中村、荒井
昨夜、前線が通過したらしく午前1時頃から激しい風雨にみまわれ、藤瀬さん等不良のテントに寝ていた4人が避難。残りの者も風雨のためあまり眠れなかった。そのため起床がそろわず6時頃になった。朝はまだ雨が降っていたので朝食を作れず、羽咋市でとることにしてまず出発する。
羽咋市で朝食をとった後、千里浜海水浴場の渚ドライブウェイを各自思いのまま走る。
9時半。妙成寺着。この妙成寺はいままでの寺ほど観光ずれしてなくて、寺らしい静寂さに包まれ、かなりよかった。10時半にここを出て、能登金剛へ向う。志賀町を通過してからは、合宿で最初といっていいほどの本格的な地道に入る。かなりな距離のために荷物を落としたりして、遅れる者がでた。しかも全員が食事出来るような所もないために、目的地まで空腹のまま走る。
1時、能登金剛着。付近に店がないために、買い出しには次の町まで行かなければならなかった。まったくごくろうさま。
買い出しの都合上、今晩はかなりな食事ができた。夕食後、反省会で坂を下るスピードについて活発な意見がでた。結局は萬全を期すということで、ブレーキをきかしながら下るということになった。
8月18日晴 能登金剛 – 輪島46キロ
リーダー加藤、辻山
6時起床。昨晩の食事の関係上、朝食なし。富来町について朝食をとる。門前町へ向う途中、道はもちろん地道だがかなり起伏に富んでいる。門前町剣地で小休止。ジャリ道のためか、腰が非常に痛い。来たるべき時に支障がなければいいが!
正午総持寺着。本日の前半を終えたところで、輪島までのフリー・ランの提案ががでた。リーダーの判断でフリー・ランとなった。が、結果的にみるとこれが悪かったようだ。輪島までに3キロほどの峠?がある。この下り坂で、荒井がとばしすぎて転倒。あごを切り肩を強く打った。彼はそのまま輪島まできたが数針ぬった。
夕食後、反省会でフリー・ランについて話し合った。その結果、下り坂では絶対にフリー・ランをやらないということになった。明日は休息日のためビールを買ってきたが、全員意気あがらず。特に品田さんは大分気にされているようだった。
8月19日晴 休憩日
昨夜、反省会で討論された事が、荒井の事故という形で結論がでた。これはやはり個人で気をつけるより防ぎようがない。なんとか残りの合宿を無事故でいきたいものだが!
8月20日晴のち曇 輪島 – 珠洲市飯田港70キロ
リーダー井口、篠原
起床4時。今日は飯田港から一日1便の船に乗るため、合宿初めての4時起きであったが全員が協力してくれた。朝食もそのような理由で昨夜買っておいたパンですます。
5時、輪島発。予想以上に舗装路が長かったので、その分だけがでスピードアップされた、曾々木に着いて時国家を見る。普段は8時からというのに僕等のためにわざわざ起きて説明して下さった。大谷で第2朝食をとり、祿剛崎へ向う。
1時には絶対に飯田港へ行かなければならないのと、能登半島の最先端まで行きたいのと両方で、得体の知れぬ大谷峠を越すのをやめる。途中、パンクやその他のマシン・トラブルのため大分遅れて気が気でならなかった。11時に狼煙についたが、予定よりかなり遅れたので、十分見物できなかった。気がかりだった飯田巻には12時半に着いた。
6時、七尾港着、ここで近くの公園でテントを張った。今日は何はともあれ、船に乗れてよかった。やはり自力でこがなくても目的地まで行ける船はありがたいものだ。
8月21日晴ときどき曇 七尾 – 富山県朝日町130キロ
リーダー中村、斎藤
6時起床。七尾市内は舗装できていたが、すぐ砂利道に入った。9時15分、石川県と富山県の県境を通過。あたかも船員が赤道を渡る時のように心がはずむ。永見市に着いてから舗装路を通るか、海岸線の砂利道を通るかでまよったが、リーダーの判断で砂利を選んだ。このあたりより、明日の予定をかなり楽にするために、今日の走行距離をのばすことに決定。
全員力走する。国道8号線に入ってからは久しぶりの舗装路のためか、かなりなスピードでとばした。結局、今日一日は、ただ走ったという感じだけである。今日のリーダーのお陰で明日は大分楽になるだろう。
夕食もかなり遅れた。後かたずけは明朝にすることにして、ともかく就寝。
8月22日晴 富山県朝日町 – 長野県南小谷70キロ
リーダー井上、滝野
昨晩のかたずけが残っていたので、係りの者がかたずける。そのため大分時間がかかり出発が遅れた。出発してすぐ新潟県に入る。舗装路ではあるが、昨日の疲労が残っているために、かなり苦しかった。しかし、景色は抜群。日本海がかすみ、空と海との区別がつかない。
糸魚川に着いて少し休んだ後、葛葉峠をめざして出発。平岩までの道路が今合宿で最高にひどかった。葛葉峠を登りきった処で露天風呂があったので、全員入りに行ったが、湯が少なくてしかも、熱かったので入れなかった。これから下りだと思っていたが、そんな甘いもんやなかった。
2時5分、長野県に突入。しかし道の悪さは変らず。結局、悪戦苦闘して南小谷で宿泊することになった。台風18号が今夜、長野県を通過するということなので、地元の人の好意によって集会所に泊めてもらった。全員疲労の色が濃い。何のために走っているのか疑問を持つ者もでてきた。
8月23日晴 長野県南小谷 – 明科町61キロ
リーダー板橋、小泉
6時起床。疲労のため起きづらい。台風が来るというのにいい天気だ。どうなってるのかネ。
朝食後、しまりなくだらだらとしたムードで、出発が予定より1時間半ほど遅れる。結局出発は10時になった。道路工事中のため、押していかなければならない所もあった。右に白馬岳を見ながら舗装路を快適に走る。大町市に着くまで、まったく快調にとばした。昼食後、松川村まで、これまた下り坂。
しかし明日の地蔵峠の事を考えると下るのがいやになる。舗装された下り坂をいやだと思ったのは、これが最初で最後ではないだろうか?松川村で辻山君が松本市の親戚?の家へ行くためにここでぬける。これから明科までまたも下り。今日はどちらかというと走ってなかったのではなかろうか!!
夕食後、合宿最後の晩さんということで、ビールで乾杯。いろエロな歌を大声でガナル。藤瀬さんと3人ほどが、何処とも知れざるところえ2次会え。明日はいよいよ地蔵峠である。期待してまーす?
8月24日最終日、快晴 明科町 – 上田市60キロ
リーダー小島、篠原
起床は5時ということであったが、品田さん怒鳴られてとび起きた。30分超過。
7時出発。目前に地蔵峠があるので気が重い。藤瀬さんの話を聞いて、全くファイト喪失。頂上までの5キロを3時間で登るという事で登り出したが、意外にも、嬉しい誤算だったが、坂がゆるく、難なく登ったという感じがした。もうこれで合宿も終ったに等しい。解放感と、無事に終ったという気持が交叉する後は上田市まで下りだけ。
12時半。上田駅前着。ついに合宿は終った。1年で初めて合宿に参加したが、後半はやはりきつかった。しかしそれにも増して今は楽しかったという気持でいっぱいだ。
夏季合宿後記 (1法3年)品田
ついに合宿も無事終った。荒井君が事故を起こしたのは残念だったが、その他はすべてうまくいった。今年は例年より班別行動の分業制を明確にし、その班内における一般的権限を班長に委任したが、その班長となった井口、加藤、板橋がまことに精力的に行動してくれたので班ごとにまとまりができ、引いてはそれが全体としての統一を形づくった。
それに全員に割り当てたリーダーは、どのリーダーも大きな責任を抱いて、事に当たってくれた。連日、その日のリーダーが頑張り、班別行動がテキパキとうまくいったということは、まさに参加者全員が合宿成功に向けて努力したということである。今後もこの意気で頑張ろう。
昭和42年9月11日
主将としての1年間 – 1法3年 品田
主将としての1年間
1法3年 品田
雨に沐し風にくしけずった1年間も、とうとう過ぎ去った。主将としての責任を強く自覚しての1年間は、重荷を背負うて、高山を登るより辛く、自分の今までの浅薄な人生経験のうちで最も厳しいものであったし、それだけにまたやりがいのあるものだった。山添主将の代にクラブの体制も整い、鈴村主将の代に外交的に大いに発展した我がクラブが、それを維持しつつ、補足強化しなければならぬ点は、内部関係の充実にあった。立候補演説で「人間関係緊密化政策」などと大言を吐いた由縁はここにあり、合同サイクリング、月例コンパなどの公約は、その具体的顕現のつもりであった。
さて主将公選の翌年4月、新入生の入学式も終わり、各サークルの新人獲得合戦が幕を切って落とされた。前年度に成立したもう1つのサイクリングクラブ「ワンダーサイクリング」との初の対決が予想され、精神的葛藤は以前から始まっていた。あの時は、現在のように我がクラブに学校公認という有利な条件はなく、客観的条係は全く同じであった。それだけに、彼らより長い伝統という形に現われない好条件をいかにして生かそうかと思い悩み、夜もなかなか寝つかれない日が続いた。
しかしいくら考えても、それを新入生に知らせるには、基本的には宣伝しかないので、タンデムを飾ったり。板橋君の作った写真入看板で人目を引いたりしたが、前半は最も重大な要素が欠けていたためにワンダーサイクリングにリードされた。それは一言にしてクラブ員の志気であった。敵はさすがに新進気鋭らしく、ほとんど全員が、新人獲得のため説得にまわっていたが、我々のクラブは、私の他は、責任感の強い中村、落海、板橋の3名の後輩がいるのみであった。我がクラブのマンネリ化の現状にやる方なき債を感じたが、事態はそれどころではなかった。その夜、模造紙を5枚買って細かく切り、合計60枚ほどの字だけのポスターを書き、翌日それを学内学外のあらゆる場所にベタベタとはりつけたのを覚えている。
それは効果があったか、どうかは、わからないが、その後のある雨の日に続行した勧誘は、はっきりと効果が現われた。他に店を出しているサークルは非常に少なかったが、後輩と共に頑張った。何とその日は13名も集めることができ、翌日、翌々日と順調な伸びを見せて結局ワンダーサイクリングに圧勝した。主将となってしょっぱなからこんな辛い思いをするとは思っていなかったが、それを乗り越えたことが1つの自信となってその後の活動に大きく響いたと思う。
第1回クラブランは狭山湖であった。しめるべきところは徹底的にしめようと考えていたので、時間厳守をしなかった者は、最初のランであるのにマラソンさせたが、サイクリングそのものの内容は柔らかいものであった。第2回クラブランも順調にいったが、そろそろ具体的公約を実行に移す必要を感じた。厳粛にして、神聖なる我がクラブ総会における発言が、現代社会の政治屋の意識的に公約倒れにする、それと同一視されてはたまらない気がしたからである。
5月後半、6月前半に行なった2回の合同サイクリングは、人数や場所の選定も不備な点もないではなかったし、その背景とする目的にその結果が、合致したかどうかも疑問ではあったが、とにかく公約を実践に移して気持に安らぎを覚えた。6月後半、7月前半は合宿準備のために1泊ランを行なった。今年は前半1泊ランをやれなかったせいか、この2回の計画が雨で中止されないようにと祈っていたが、天気もまあまあで助かった。
クラブ最大の行事である夏季合宿は、本年度は、北陸地方で行なった。集合地福井には、参加者全員が定刻前に集まり、驚く程であった。それからの2週間は、とにかくしまりある生活であったと感じている。全員が責任をもって行動してくれて、私が一々口をさしはさむ余地がなかった。
後期になってまず対外的行事として早慶親睦サイクリングを行なった。ライバル慶応との深い交流によりクラブ員の視野が広ま、るとともに、将来互いに何かを得られると感じたからであった。
11月の早同交歓会は、今年は同志社が主催であったが、両校合わせて約60名が参加し、相変わらず盛大に行なわれた。我がクラブ員は皆、秋の奈良方面の景観に魅せられて帰ってきたようであった。オープンサイクリングも後輩の努力で事故もなく終わり11月後半の都内サイクリングを以って年間行事をほぼ完了した。
都内サイクリングの終わりに胴揚された時は、1年の苦労が1ペんに宙に吹き飛んだようでうれしかった。年間を通じ、ほぼ毎月公約通りコンパを強行してきたが、それがクラブ員同志の意思疏通に貢献している面もあることを知り、ホッとしている。「人間関係緊密化政策」などという大ぼらも徹底的には行き届かなかったが、手前味噌も手伝ってまずは成功ということにしておいてもらいたい。
最後に重大なことは、本年度(42年度)6月より、我がクラブは同好会ではなく、学校公認団体の「学生の会」に昇格したということである。我がクラブの歴史に残る1大事実なので、功名を竹帛(はく)に垂るためにも鈴村先輩の名を挙げておく。この事実を考えるにつけ、我がクラブが、現役の主将以下の者のみによって動いているのでないことを、一層深く思い致さねばならない。過去の努力により実体面をもたらしめたOB諸先輩と、それを具体的な形に表わすよう努力された鈴村先輩に対し、クラブ員全員にかわり深く感謝の意を表しつつ、私の年間回想録を終わる。
車輪の下の台湾 – 一法3年 井口
車輪の下の台湾
一法3年 井口
昨年の暮のコンパの時であったか、高田、栗原両先輩から台湾自転車旅行について聞かされたのは。外国旅行など夢にも思わなかった小生も、台湾を走っている自分の姿が浮かぶ様になり、すぐ手続をし、あわただしく日本を出発した。だれがいったか忘れたが、『若者は自ら危険を求めなければならない』という言葉が好きである。これの影響か、或種のくだらないが、ヒロイックな感じのするこの旅にとびこんだ。旅の最大公約数的であり又、最も大切な目的は、未知の世界を見、見聞を広めることであろうが、これは海外旅行とて同じである。小生はこの目的の他に、自分を、鍛えたかった。この旅行が終った時、自分が1まわり大きくなれる。これが、小生の旅に対する刺激となる。以後、日を追って旅行記を書く。願わくば、これが将来、台湾を走る人の参考になれば、幸いである。
昭和43年(1968) 2月15日
朝、起きたら雪が降っている。気にせず出発。新幹線が遅れ、接続列車にようやくのれる。混んでいる。例によって、夜行列車では良くねむれない。
2月16日晴
港で、加藤・新間・木村3君に会う。出発を祝してか、快晴。桜島が煙を上げている。
2月17日晴
那覇港に入ると、軍需物資が目に入る。戦争を感じる。米軍用船優先で5時間港外で待ち、昼すぎ入港。すぐ自転車を組み立て始めるが、黒山の人だかりになる。あせっていつもより時間がかかる。YHに泊るが、900円近くとられる。早大のワンダーサイクリングクラブの3人と会う。彼らの1人は自転車を盗まれたそうだ。用心しよう。
2月18日雨
船の出航が一日延びたので南部を3君と走る事にする。流球大学に行くが、日曜の為、学生は居ず、ものたりない感がする。
守礼の門を見、激しい雨と風の中、南部へ向う。非常に急な坂がある。始めから終りまで蛇行して登る。砂糖きび畑の間の地道を走り、砂糖きびを少々失礼して、ガリリとかむが、予想していたよりは味が落ちる。
激戦地への道を聞くと、はるかかなたの山の上だと、教えられガックリきたが走り出す。島守之塔につく。ここに、歌が書いてあるが、これにはなかされた。『雄々しくも責をおひつつ、この山に果てにし君のいさをたたへむ。』牛島中将自害の地へ。後は断涯絶壁。退路を絶たれ多くの兵が死んだそうだ。不発弾が多い為、今でも遺品や遺体が手を付けられないでいるらしい。花を添え冥福を祈る。健児の塔へ。洞穴の中で多くの少年が自害したそうだ。血の跡の残る穴は、かわいそうで見れず。暗くなったので急ぎ、糸満の公民館に泊めてもらう。戦争に対する怒りと寒さの為寝れず。
2月19日曇り30キロ
ひめゆりの塔へ。物売りが多く不愉快。泊港へ帰り乗船。面倒臭くなって自転車をそのままつむ。台湾坊主というシケで、すごく揺れる。つらい。寝ていても体がゴロゴロ転がって眠れない。
2月20日曇り10キロ
食事は、食欲がなく、とらない。昼、石垣島につき、大浜元総長の生家へ行く。先生の妹さんと従弟に会う。少し話をして町に出る。体がまだ揺れている。石垣島は、米人も少なく、変に観光ずれしてなく、素朴な南の島の感がして好感が持てた。海の水がすばらしい色である。いわゆる南国美人が多い。
2月21日雨30キロ
9時に基隆に着いたが、時差で1時間もどす。手続を終り、1時下船。3君とはここで別れる。彼らは、変なオヤジにつれられて行く。税関と銀行に行きたいのだが、日本語も英語もだめで苦労する。おまけに雨が降り出し心細くなる。税関では、保証金として日本円で5000円出せといわれるが、たのみこんで誓約書を書き、無料にしてもらう。地図もなく、雨の中、小さな峠を3つ越え、金山に行き、反共救国青年活動センターに泊る。ここの主任は英語が話せ、色々面倒を見てもらう。風邪をひき咳が激しい。
2月22日雨70キロ
又雨である。ひたすら走る。通りすぎる町々の家は赤レンガ。貧しそうである。久々の表情も暗い感じがして無気味。台北に通じる淡水河には巡視艇が走り、いたる所にトーチカが1つ目でにらんでいる。台北の入口には検門所がもうけてあった。台北はさすがに1国の首都らしく、小さなビルが建ち並び、車も多い。しかしほとんどが赤いタクシーか、軍ナンバーの車である。YHを捜すが、ないので、日本航空で紹介してもらう。国際学舎。外国人専用の、安価なホテルである。4人1室の1番安い室にとまる。
英国人、オックスフォードを出、中国語の勉強をしている。ホソコンの中国人。何をしているかわからないが、親しそうに話しかけてくる。中国人。真夜中に帰ってくる。一言も話さなかった。英国人の話す英語は、半分しかわからない。台湾の新聞にのる。食堂の小姐(娘)と仲良くなり、土産としてもって来た人形などやってしまった。
2月23日、雨80キロ
又雨。うんざり。新竹に向け出発。日本との合弁合社が並んでいる。風が強いが、横風なのでつらくはない。昼前に新竹に着き、警察で紹介された旅社にとまる。主人は日本語がわかり、新聞を見たといって親切にしてくれる。昼食は孔子廟の中の屋台で食べる。5元(45円)で腹一杯になった。台中に、巨人軍が合宿していて、選手とまちがえられる。廟なので、祈っている人が多い。
台湾式の祈り方は面白い。まず、かなえてほしい事を一心に思いながら、竹のおみくじを引く。このおみくじが真の神の意志であるかを確める為に、2つの木片を投げる。これが表と裏になると神の意思である、ということになる。表表か裏裏であったら、又おみくじを引きなおし、木片を投げる。木片が表裏の組になるまで続ける。日本だと祈ればすべて神は聞いてくれるのである。神に対する無条件の信頼である。良い意味で素直で素朴なのである。しかし台湾では、祈っただけではだめで、聞いてくれたかを確めなければいられない。或面では非常に人間的であり、面白く感じた。
2月24日曇り後晴155キロ
朝飯がパンとミルクだけでは力が出ない。咳が激しく出る。途中、重装備の歩兵約1000名の中に入る。いやな気がする。士気は随分低い様に感じた。東海大学に寄る。キリスト教関係の学校らしい。校舎・校庭はすばらしく、早稲田など問題でない。台中には2時頃つく。金山の反共救国青年団の脹さんの実家に泊めてもらう。ここの息子で19才の青年に町を案内してもらう。巨人軍が昨日まで合宿していたが、今日はすでに台北に向ったそうだ。感冒薬を買いに薬屋に行くが、ほとんど日本製であった。夕食に台湾料理を御馳走になる。料理屋の中華料理と異なり、別のおいしさがあるが、にんにくにはまいった。
夜、ボーリングに行く。非常に旧式で、中に子供が入って居て、ピンが倒れると立て、ボールをころがしてよこす。日本人がボーリングをやっているというので、人だかりが出来てしまう。その為か、113点と不本意な成績であった。
2月25日曇り90キロ
出発の時、記念写真をとると言うと、全員正装して出て来たので、ボロを着ている小生はアセってしまった。中興新村に行く。
ここは省都。台湾のおかれている政治的状況が理解出来た。大陸は中華民国のもので、今は、毛沢東という鬼が反乱を起こし、紅衛兵を使って、経済・文化を破壊している生地獄だそうだ。台湾は自らを自由中国と呼んでいるが、小生には決して自由には見えなかった。
15キロ急な道を上ると日月潭。警戒がものすごいと思ったら、ロールスロイス5台で蔣介石が日月潭にある別荘にきた。もうかなりの年である。独裁者も住民の評判は良くない。隣りの室は新婚さんらしい。夜、憲兵が来て色々調べられた。隣りの室が気になって、なかなか寝付けない。
2月26日雨90キロ
湖見物の船を待っていると約5人の娘をつれた男がきて、この中から1人嫁につれてゆけと、しつこく言われる。その内の1人は、すごい美人で、生唾を飲む程だったが、ことわった。大阪外語の?君の様にはいかない。湖遊覧は米人の団体にまぎれこみ無料ですませた。日月潭は有名な所だが、たいしたことなかった。
台湾中心碑のある補里で、自転車の調子がおかしくなる。後のギアが空まわりする。中の歯がおれたらしいがどうしようもない。ひっかかる所を捜してこぐ。台湾の自転車屋ではなおせない。精神的疲労が激しい。彰化には夕方つき旅社にとまる。自転車の事が気になる。
2月27日曇り90キロ
霧の中を出発。八卦山の大仏を見るが霧でかすんでる。コンクリート製らしい。嘉義に昼つく。宿を紹介してもらおうと警察へ行くと、ピストルをいきなり向けられてびっくりした。夜、街へ出ると結婚式をやっていた。金持の式らしい。道にテープルを沢山ならべ多くの人を招待し、バンドと歌手をよんでドンチャンやる。歌手の歌うものは、ほとんど日本の歌で、特に「骨まで愛して」が人気があった。花嫁はすばらしい美人であった。咳がひどく、なおらない。
2月28日晴
台湾に来てはじめて晴れる。日本が作った軌道の上を三菱製の小さなジーゼルカーに乗って阿里山へ。女子乗務員が又、美人であったが言葉がわからない。たがいに笑って顔を見合わすだけ。彼女の顔ばかり見ていただけではなく外の景色も見たが、これが又すばらしく、台湾旅行中最も印象に残っている景色の内の1つである。雲海、台湾海峡、雪をかぶった新高山、赤い山桜。終点の博物館で明治神宮の鳥居にする為切ってしまった木の切口を見たが、1300年の年輪が刻まれていた。
2月29日晴82キロ
5時に起き日の出を拝む。空にこれ程の星を見たのは、生まれてこのかたはじめてである。つららを見て台湾人は喜んでいる。台湾は南国だなー。新高山の横から太陽が出る。すばらしい。嘉義にもどり、着換えて出発。北回帰線を越え亜熱帯に入る。ハイペースで走り台南に夕方つく。同じ年令の憲兵と友達になり、旅社を紹介してもらう。夜、憲兵が来て話をし寝る。日本人に好意を抱いている。
3月1日晴
朝起きたら、激しい下痢。昨晩食べた肉にあたったらしい。何の肉だかわからない妙な味だったが。本日高雄へ行く予定を変えもう1泊する。食事はまったくとらない。台南は日本の京都・奈良に当る所で見物する所が多い。鄭成功という民族的英雄の城のあった所で、彼に関する遺跡が多い。下痢が激しく元気ない。
3月2日晴70キロ
昨日は何も食べてない。今日の朝も抜いた。憲兵に礼を言って走りだす。すきっ腹がこたえて力が入らない。蓮池潭の美しい春秋塔を見ていると、同志社サイクリングクラブの伊藤先輩に会い、ビックリした。先輩は自転車ではなかった。昼も抜く。高雄郊外の澄清湖へ行く。いかにも作った感のする湖。自転車の乗り入れは禁止されているが、日本人ということでOK。小生、自転車こぐ力はあったが、歩く力はもうない。高雄に入り駅前の旅社にとまる。パンを買って来て食べる。女中が女はいらないかとしつこい。こちらはそれどころではない。空腹で力が全然入らないというのに。
3月3日晴110キロ
腹の調子がよくなる。昼食を竹田国民学校の校長宅で御馳走になる。非常においしい。短パンは台湾ではめずらしいらしく、子供達が皆笑う。なかには、小生のすね毛を抜くやつもいてマイッタ。バナナを庭から採って来てくれるが、持ちきれず閉口する。国道の両側には、南国の木が植えてあるが、これは見習うべきであろう。
今晩は四重溪温泉に泊まる。夜、台湾大学商学院4年の1人と友達になり、彼らのグループに紹介される。約30名で、その内20名が女性。女性に弱い小生はコマッてしまった。彼らと英語でゲームをしたり、ベトナム戦争について話し合ったが、思想教育の為か皆同じ返事である。早稲田大学について彼らは知っていたが、彼らの認識では、有名な学校で、共産主義者の多い学校とのことだった。校歌を歌い別れる。
3月4日晴120キロ
途中、戦車部隊を見る。16台並んでいる。向い風でくるしい。最南端の鷲鑾鼻に行く。燈台だけのつまらない所だが、蔣介石の銅像がうらめしそうに大陸の方を見ている。同じ道を帰り、20キロの寿峠を越えて、東海岸に出る。太平洋が見えた時のうれしさ。夕方大武に着く。この町は電気がない。ローソクで食事をし、風呂に入り、友と話をする。
西海岸に比し、平地がなく、交通の便もなく、非常に貧しい。麻か何かの植物が山の急斜面に植えられている。
3月5日晴70キロ
1時間程走ると青山2人、武蔵2人の4人の自転車旅行グループと会う。彼らは台湾を逆まわりしている。写真を取り別れる。その直後、道の上を流れている川の水草にタイヤをとられ転倒。水あびをする。クランクがまがってしまった。5分程押して、高砂族の家でかなずちを借りなおす。濡れた物も強い日射しですぐ乾く。東海岸は高砂族が多い。昼頃、高砂族の人と話をしたが、興奮していて、唾をとばす。娘を嫁にしろとか、アメリカに敵を討てとか、日本人は優秀だとか、次から次へ話しかけるのを、やっとかわして、逃げ出す。台東に泊まる。ここは日本語が非常に良く通じ、日本語で話している人々も居た。
3月6日晴100キロ
すぐジャリ道となる。車が通るたびに埃に悩まされる。1号なのであるが、川に橋のかかっていない所が多く、あっても鉄道と共用であったりして、日本の様な橋はない。玉里でとまる。今日は汗と埃のみ。夜店でパイナップルを買う。女中さんに皮を剣いでもらう。うまい。食べきれず残す。パイナップルを食べた後で湯を飲んではいけないそうだ。飲むと下痢をすると忠告してくれる。下痢には苦労したので忠告に従う。台南の下痢以来生物と肉は全然食べていない。
3月7日晴110キロ
朝、コックが来て日本で職を見付けてくれないかと言う。必死になってたのむので、一応聞いてやると、朝食をおごってくれ、土産までくれた。又ジャリ道が100キロ以上続く。今日も汗と埃。花蓮に泊まる。夜、アミ族の踊りを見に行く。踊子はツプがそろっていて変に観光ずれしてないところが気に入る。美人が居て、その女ばかり見ていたら、からかわれた。そして、変な女につかまってしまう。彼女小生の手を握りはなさない。彼女につれられて、村を見たり、一緒に踊ったり。多少、鼻の下が長くなっていた様だ。
3月8日曇り70キロ
大理石工場へ行き、見学してから、1000元程大理石を買う。工場を出ると向い風。ギァを1番大きいのにしてようやく進む。疲れる。大理石の峡谷に沿って天祥に行こうとするが2キロ手前で崖崩れ。しかたなくひき返えし。太魯閣でとまる。ひどい宿であった。
3月9日曇り100キロ
今日は台湾での最大の難所。朝7時に出発。いきなり登りになる。海からそそり立つ絶壁の中腹を道が走る。1番高い所は、海抜800米。道幅は狭く、時間をきめての一方通行である。トンネルも多い。10%、11%の登りが多く、何度も押したくなる。1時間登りで1時間下りの峠を4つ越え、目的地藻澳に着いたのは夕方であった。駅前の旅社に泊まる。スポーク1本折れていた。ここの女中は小生の顔を見ると『風呂わいた、風呂わいた』と言うが、それしか日本語をしらない。面白い女中だ。
3月10日曇り110キロ
昨日の疲れの為、アスファルト道であったが40キロつらい。峠の入口からジャリ道。峠はもうあきたが、自然は、小生に過酷な試練の時を与える。峠は1つかと思ったら、幾つもある。メーターがついにこわれる。台北まで10キロの所で山から出る。台北はやはり小さな町である。ついに終った。見おぼえのある街を走り友達の泊まっている宿をたづねた。
3月11日 – 17日晴約150キロ
船の出航まで日数があるので、台北附近の名所はすべてまわる。それでも時間があまったりで歌聴へ行ったり、映画も2回見た。
それでも時間をもてあます。台湾は新しい国で文化的遺産は少なく、ただ、大陸から持って来た工芸品、絵画のみである。台湾は文化的にも、経済的にも、政治的にも非常に貧しく、国家予算の8割を占める国事費があらゆる国民生活に重くのしかかっている。大陸反抗を第1目標にし、臨戦体制をとっている限り将来の飛躍的発展は望めない。ただ1つの救いは、日本時代に完備された教育である。今日でも就学率は高い。台湾の次期総統と見られている蔣介石の息子の蔣経国はソ連で教育を受けたと言われている。又国民も現政府に不満で、政府が変ってくれたらと思っている様である。国民が真の世界状勢、真の大陸の事を知った時どうなるか。この様な状況にある隣国に対し、無感心であってはならない。これが小生、台北で感じたことである。感じた事はまだあるが、今回はこのくらいで。
なおゼミ論の待っている自宅へ帰ったのは、3月21日の夜であった。
ルート・ワン – 政経3年 守谷
ルート・ワン
政経3年 守谷
サイクリングを始めて、3年目になった。しかし、国道1号を完走したことがなかった。1年の早同交歓会の時に、その機会があったのだが、2年生グループ(古川、鈴村、栗原、各先輩)と一緒に走りたいと言ったら、君はまだ経験が浅いから、危険だとか、ていよく断られてしまった。仕方なく、渋谷(今はクラブにいないが、2年の時、会計をやっていた)と一緒に、奴の知っている自転車屋に行ってダンボールの箱を50円で売ってもらい、自転車屋のある自由ガ丘から奴のアパートのある中目黒までかついで歩いた。途中、都立大の駅の近くのボーリング場が火事になって、休みがてら見物したものだ。そして自転車をダンボールの箱につめ、チッキはだめだったので、小荷物で安く送り、普通列車で京都へ向かった。閑話休題。
今年もまた関西側で早同交歓会が行われる。今年こそは走って行こうと思った。
以下は、その時のメモである。
10月31日
T(ツーリング)、時間不詳(4時 – 7時)?、ルート(自宅 – (目白通り、環7経由〕 – 多摩川大橋 – 〔国道1号経由〕 – 静岡)、走行距離198・2km(総走行距離3243.2km)
早同交歓会に参加する為、加藤、井上と東海道を行く。朝、まだ星が空にキラめき、はく息は白い。手先や足がしびれてくる。
環7を走っている内に夜明けになる。東の空が赤く美しかった。夜明け前にトラックレーサーで走っている姿をみかけた。ランプもつけず、走りにくいことであろう。多摩川大橋6・05頃着く。加藤ともう1人、見馴れない男がいる。井上という奴が一緒に行くのだと思い出した。一同出発。1時間前に出発したであろう板橋達のグループをできるだけ早く追い抜くことを胸に秘めつつ。
茅ヶ崎で小休止。この時は10kmも走らぬ内にまた休めるとは思っていなかった。というのは、井上が平塚と大磯の間でパンクしたのである。むすびを食いながら、パンクは簡単に修理した。その間、井上の車をゆっくりと見ることができた。さっきの小休止の時、8萬円したと聞いたが、それだけの値段がする位の、高価なパーツで組み上っていた。たとえば、ストロングライトのコッタレスのチェンホイール、531のパイプにサンプレのエンド、サンプレのクリテリューム、カンパのラージ・クイックハブ、etc。
さて、パンクがなおって空気を入れることになった。バルブがフレンチだったので、インフレーターを貸した。これはアドホックのもので、ホースやアダプターを使わず、バルブ受けがポンプ本体と一体になっており、太くて長いので、空気を入れやすく、愛用している。ところが、このインフレーターで空気を入れたのが加藤だったので、井上のフレンチバルブは加藤の大馬力と、この丈夫なインフレーターに耐えきれず、折れてしまった。タイヤのスペアは沢山持ってきたが、フレンチバルブのスペアなど用意してこなかったので、お手上げである。手を上げて車を止めることにしたが成功しない。そこで加藤が、近くの横断歩道に用意してある黄色い旗を持ってきた。今度は成功。ちょうどダットサントラックで、商店の名が書いてあり、運転しているのが50位のオッサンだったので、頼みやすかった。これで井上は愛車と共に、小田原まで快適なドライブを楽しむこととなった。しかし、我々は井上を懸命に追うこととなった。
喪章をつけた紳士が門に立っている吉田邸を左にチラッと眺めながら、下り坂を飛ばして来たら、道の左の茶店で「オーイ」という声(加藤が気づいた)。引き返すと、板橋と伊藤が休んでいた。彼らは海岸沿いのバイパスを走ってきたのだ。急いでいるにもかかわらず、小休止。井上が小田原の駅前で待っているはずなので、話もそこそこに出発。
なぜなら、この日、武道館で、故吉田元首相の葬式があった。会場を飾る為に、東京中の菊が買い占られた。我々が通過した時はまだ、吉田氏は大磯にいた。(もち論冷たくなって)
小田原駅まで来てみると、井上が見当らない。加藤の話では、夏合宿の時も、時々姿をくらましたと言う。加藤が町中を捜している間、駅前で立ちん坊。レーサーキャップに黒タイツは人目を引く。みんなジロジロ見る。負けずに見返す。目が合うと向こうはそらす。野郎や婆さんなんか見返しても面白くないから、20才位から30才位の女性、それもカワイイコちゃんか美人に的を絞る。その結果、小田原には、カワイくて愛敬のある娘や若奥さんが多いことを知る。井上は見つかったが、フレンチバルブのある自転車屋が見つからない。電話帳を見て聞く。小田原にはたしか競輪があるから、レーサーを扱っている店も1軒位あるだろう。遠藤自転車商会(小田原、栄1 – 17)のオヤジはレースに熱心だから、フレンチバルブもあるだろうと聞きこむ。
行ってみると、そこのオヤジ、背広を着て出かける所であったが、親切にもバスを1台遅らせて、バルブの交換をやってくれた。しかも井上の後車のリムのスポークの頭がでっぱっているのを見て、ヤスってくれた。そしてタイヤをはめるのまでやってくれた。以上の作業を、オッサンはキレイな服のままでやった。井上の支払った金額は、普通の自転車屋でやってもらう額より、かなり安かった。態度ではもち論、心の中で何度もオッサンに感謝した。
2時間位ロスしたので、早速出発。湯本で小休止。井上は「こんな所で何故休むんだ」と言っている。タイツを脱ぎ、ユニフォームになり、トイレに行って準備完了。加藤達はむすびや何かを食べていたが、胃に血液が行っては疲労が早いと思ってやめる。この前(9月2日)登った時は55分かかった。今度は十分位短縮しようと勢いこんで、箱根峠にチャレンジ。45×18で走破しようとしたが、後から地図で調べた所によると、小涌園から標高にして、200m位登った辺りから、ハンガーノック気味になって、21に落し、それでも空腹に耐えられず、降りてしまった。
1度休むと立上る気がせず、むすび、チーズ、ゆで卵、レモンなど次々に食い、遂にはゴロンと横になってしまった。30分位休んでも、加藤と井上は来ないので、また登り始めた。右手に芦之湯の見えるちょっと下りになる地点まで来ると、向い風がガクンとキビしくなる。最高点にたどりつくと、そのまま15分位、道路のわきに寝てしまった。観光バスのカワイイガイドが見たって、イカス女の子の乗った車が通り過ぎたって、一向気にならなかった。寒くなったので、元箱根まで走り、売店でコーラの大ピンを買って、ガッポ、ガッポ飲み、そのまま店の前のベンチで昼寝をした。風もなくなっていて、日射しは暖かく、時計などもう関係なかった。ふと目を覚すと、加藤がカーブに来るのが見えた。箱根町の方向から来たのだが、そんな事は気がつかず、大声で呼んだ。加藤達は一気に箱根まで降りたが、見当らないので、元箱根まで引返したとの事だ。どうも御苦労さん。
今後箱根にアタックする諸君は、登る前に充分燃料を補給しておく事。湯本でちょっと食べても、加藤達のように宮の下で御弁当とか、あるいは君だったら、もっと手前で、ランチタイムになるかもしれない。
こうして飯抜き箱根チャレンジは、全員見事途中でダウン、板橋達のグループももはや追抜き不可能。意気消沈して山を下る。
箱根峠の下りは、上りに比べ、舗装がデコボコで、ハンドリング、ブレーキングに苦労した。沼津4時半頃着。今日は静岡まで行こうということになった。
そう決めた時はまだ明るかったのだが、富士川附近で日没。薄暗くなったのを良いことに、加藤、井上は橋のたもとで放水。由比興津は真暗がりの中をおそるおそる進む。先導の井上はたびたび海側に突進した。昼間は私が常にトップだったので、後の2人は安心して走れた?しかしトップが誰であろうと、この区間位恐かった所はない。長距離輸送トラックの追い越し競走は我々を道路のはじのギリギリに押しつけ、時にはストップさせた。
清水以後は道は広く照明もよく、ナイトランを楽しんだ。静岡に着くと、安宿捜しが面倒になり、加藤が以前泊った「いなば」に行く。3人で素泊り2000円。外食を済ませ風呂に入ってしまうと、寝るだけだ。ここで井上がパチンコをしに2人を引張り出したが、戦果なし。眠くて仕方がなかった。本日の支出1113円(宿泊料を含む。)
なお総走行距離は今乗っている車に関してであり、前の車からの、即ち1年の時からの総走行距離は不明である。
11月1日
T、(静岡 – 〔国道1号経由〕 – 名古屋)、179・0km(3422・2km)
静岡6時頃出発。素泊りの為、朝食抜きで走りだす。11月ともなれば、早朝の空気も相当冷たい。手袋のない加藤と井上は通りすがりの雑貨屋で買う。井上は皮の手袋を昨日のごたごたの時置き忘れてしまったそうだ。全くついていない男だ。
静岡市内をでるとまもなく、宇津谷峠という峠がある。峠と言うほどの勾配も距離もないが、なにしろ飯抜きなのでキビシイ。藤枝まで、食堂を探しながら、走った。ところが、国道は国鉄藤枝駅のかなり北を通っていて、国道附近は店もあまりない。食堂を求めてウロチョロしていると、通勤や通学で通りかかる人々がジロジロ。あきらめて、もう少し先まで行くことにする。かなり走ってから食堂発見。たらふく食い、トイレに行って十分出し、タタミがあったので、しばらくゴロリとなって休んでから出発。こんな調子では板橋達を追い越すのは無理と思った。
昨夜はどこに泊ったのだろうか。今どの位離されているのだろうか。そんな事を考えている内に大井川を通過した。ちょっと走ると急坂にかかる。いよいよ佐夜の中山だ。勢い込んで登ったが、昨日の箱根が頭にあるせいか、それほどの峠ではないように思えた。金谷峠は楽勝だったが、ここでまたツイていない。茶店のガラスに加藤の自転車が倒れかかり、ガラスは景気のよい音をたてて割れ、我々のフトコロは不景気となった。加藤の車をそのガラス戸の前に持っていったのは私だった。スタンドのついている車を持っている諸君は絶対にガラス戸の前に諸君の車を立てないように私は忠告します。
昨日と言い、今日と言い、全くツイていない。ツイているのは昨日も今日も秋晴れの良い天気だと言う事位だ。ドロヨケのない車に乗っている者にとって雨ほど嫌なものはない。
さて、その後は快走につぐ快走と言いたい所だが、浜松に近づくにつれ、井上のバテがはっきりしてきた。なにしろこのランは飯と事故以外はストップしない(峠は別)予定だったから、井上がバテてくれたおかげで浜松で休むことができた。今日は気温が高く、駅前の売店でアイスクリームを買って食べた程だ。井上は船で鳥羽へ行きたいと言うので、彼を残して我々は出発した。(彼は自分のペースで豊橋まで走り、豊橋からは車を拾って伊良湖まで乗せてもらい、なんとか間に合った最終の船で鳥羽に渡ったそうだ)
我々は快調に飛ばして豊橋で昼食(実際には、豊橋市内に入る直前でハンガーノックの為加藤にトップをゆずったのだから、快調だったとは必ずしも言えない)。加藤が以前東海道を走った時に寄ったトンカツ屋に入る。食事をとると元気がでた。気温も高い。
タイツを脱いで走る。かなり快調に走ったつもりだが、途中で抜いた個人ツァーのサイクリストが後につき、そのまま岡崎市内に入る。岡崎公園入口横の店で間食。孤独のサイクリストはそのまま走り過ぎていった。別れのあいさつを交した時、彼の笑顔が日に焼けて黒くひかっているのに気づいた。この季節に日焼けをしているとは、彼は日本1周の途中かもしれないと思った。彼にはそれきり追いつけなかった。というのは、パンを食べながら車を点検していてパンクを発見したからだ。リア・タイヤに3角形の金属板が浅い角度でささっていた。まだちょっとしかチューブに達していないのかあまり空気が抜けていない。急いで、それを抜きタイヤを交換した。リヤ・タイヤは344・7km走って初のパンクだ。
岡崎から名古屋までは軽く走破した。名古屋市街に近づくと、自動車の数が多くなってきた。信号待ちの車の列をイライラしながらぬい進む。やっと車のラッシュから脱出して、ホッとしながらある横断道にさしかかった。車が1台、1時停止している。道の左側から人が渡って行ったので、スッと出ると、反対側の歩道から渡ってくる人がいる。まだ道の向うだし、かまわないと思って進もうと前を見ると、横断歩道の先の角にポリスが1人、こちらをニラんで立っている。目が合ってしまったので、思わず急ブレーキをかけてストップしてしまった。
トップが急停止したので後について来た加藤はブレーキをかけたが、勢いあまって後輪が浮き、自転車ごと空中回転をしてしまった。驚いたことに加藤はケガーつせずに着地したが、ポリスには呼止められて、小言を言われるし、加藤はユニフォームの胸ポケットにバラでいれていた金の内500円札を落してしまった。今日は金谷峠と言い、全くツイていない。普段は横断歩道の前では必ず除行するのに、この時に限ってヒョイと飛び出してしまうとは、全くどうかしている。
サイクリング・トロフィーだったら大巾な減点だろうなとフッと思った。今回のツァーで初めての落車だが、気をとり直して、進む。クヨクヨしながら走っては、また事故に会うかもしれない。気のせいか名古屋市内は、走っても走っても同じ町並のように見える。加藤は駅前まで行きたそうだったが、走るのがいやになってきた。安宿捜しもおっくうになり、恒川屋という加藤が前の東海道ランで治った旅館に落着く。2人で素泊り各々700円。この宿に決まる前に、連れ込み旅館に行こうかと相談したのだが、止めた。後になって、気がめいっていなければ、行ったのにと後悔した。きっと隣の部屋から興味ある音声が聞こえたであろうに。
この様に2日とも普通の旅館に泊ったので、予算は大巾に狂った。予定ではモーテルとか仮眠所のある食堂に泊まるはずだった。しかし、風呂と静かな部屋の寝床は、疲労回復に大いに役立った。
その夜、岡崎でパンクしたタイヤの修理をした。本日の支出2130円(金谷峠でのガラスの弁償、宿泊料を含む)。
11月2日
T、(名古屋 – 〔国道1号経由〕 – 京都 – 〔国道24号経由〕 – 橿原)、202km(3624・2km)。
名古屋発6時頃。今朝も朝食抜きで走り出す。人通りのない市街を通り抜け、競馬場を右に見ながら、名四道路へと進む。埋立地を突っ走るコンクリートのベルトという表現がピッタリする単調な道路だった。東海道を走った方が、危険ではあるが、楽しかったろうと後悔した。名四道路の終点、四日市は曇りのためか、スモッグもはっきりしない。
1号線と23号線との分岐点の少し先の食堂で朝食。その名も采女(うねめ)レストハウスという店。ウェートレスはかなりキレイな娘が多く、畳もあり、今度は夜来たいものだ。後続の自動車組が8時に、名古屋通過の予定というので、自転車を目だつ所に置き、ユニフォームをかけておく。気づかずに通り過ぎられては大変なので、目はいつも外を向いていた。ブルーのコロナはたびたび通り過ぎて、ハッとさせられたが、オレンジ(というか、落海カラーというか)のベレットは遂に1台も目にしなかった。
もっとも40km位、何も食わずに走って来たので、飯を食っている時は、外など見ていられなかった。また食い終ってからも、女の子に目がいって、外どころではなかったのが事実である。
そこから、しばらく走ると、亀山に着いてしまった。亀山で待つ事、1時間半位。体が冷えるので、走りだす。少し走ると、名阪道路との分岐点に来てしまった。名阪道路への進入路のわきに、自転車通行禁止のカンバンが立っている。仕方なく、ここでまた長時間待つ。後から思うに、自動車を待たなければ、橿原には、1時から2時頃には着いただろう(ちょっとオーバーかな)。
やっと来た自動車組にナップサックを預け、タイツを脱ぎ、ユニフォーム姿になり、タイヤ2本をタスキがけして、京都廻りで櫃原を目指す(名阪道路が通れれば、距離はかせげるし、車をペーサーにして、ファストランができたのだが)。
橿原にぜひとも4時までには着かなくてはという気持があるせいか、バンバン飛ばす。加藤はゆっくりしてから出発すると言って、後にはついていない。自分のペースで走れる。鈴鹿峠は楽に登る。峠のトンネルは照明も明るく、空気も良かった。下りは猛スピードでとばす。名阪道路との分岐点から京都まで約83・5kmを2時間かからずに走破。50×14で足りないはずだ。
京都市内に入ると、道は狭いし、交通は激しいしで、スピードは出ずイライラの連続。車の流れについて走っている内に、大阪方面に向かって走っていた。24号線への案内標識を見落したらしい。サイクリングトロフィーなら、これも減点だ。ガックリきて、ノン・ストップはあきらめ、売店でコーラを飲みながら、道を聞く。
京都脱出12時半頃。宇治市に入ってしばらく走ると、トイレのある売店を発見。用を足し、昼食がわりに、パンやコーラを腹につめ込む。売店の前にはバスの停留所があり、附近に女子短大があり、そこの女子大生がバスを待って立っている。かなりのカワイ子ちゃんもいる。ちょうど来たバスの後について出発。バスはちょくちょく停まるので、さっきのカワイ子ちゃんが降りると、追い抜いて、独走する。
奈良坂過ぎる頃からノドがかわく。今日は三重県では曇りだったが、滋賀県に入り、琵琶湖を見る頃には、快晴となっていた。レモンをかじりながら力走。観光バスのガイドが、面白そうに見ているが、そんなことは気にせず、レモンをかじり、必死にペダルを踏む。景色など全く記憶していない。ただバスの停留所の黄色いプレートに「田原本町」と書かれてあったのを思い出すだけであった。
橿原市着4時。市内に入って信号待ちの時、かたわらのスクーターに乗ったオッサンに橿原公苑への道を聞くと、自分も通るのか、先導してくれた。懸命にスクーターを追っかける。
橿原公苑の宿泊所の前まで来ると、オッサンは「ここだよ」と指さしながら、走り去って行った。「有難とう」と大声で言ったが、オッサンの耳に入ったかどうかはわからない。スクーターはエンジンの音を響かせながら走り去っていったから。
宿泊所の門の所に、鈴村、藤瀬、高田各先輩がレーサー・バッグをかついでやって来たのが見えた。こちらは元気にアイサツしたが、3人の先輩はサエない顔つきであった。その原因はずっと後になってわかったが、ここには記さない。
先輩はともかく、私の心はサエていた。東京 – 橿原間、579・2kmを3日で走破し、5分の誤差で到着できたのだから。こんな気持は昨年の合宿帰りの日光 – 東京間のファスト・ラン以来である。この時も帰宅予定時間の5分前に帰宅することができた。本日の支出365円
このようにして、ルート・ワン・ツァーは終った。今度は日本橋から大阪駅までのパーフェクト、ルート、ワン、ツアーを是非やってみたい。
山陰若狭ツアー – 政経2年 中村
山陰若狭ツアー
政経2年 中村
8月4日(金)晴 東京駅 – 松江駅
昭和42年度夏季合宿は、福井市から長野県上田市までと決まった。当初は、島根県松江市から富山市までと大筋決まっていたのだが、いろいろなトラブルが重なって、変更されてしまったのだ。こんなチャンスでもなければ、山陰などには、行けないと思った加藤と中村の2人は、守谷さんのたてた計画をそのまま拝借して、山陰ツアーへ旅立ったのである。
この原稿は、昨年11月、加藤と中村の共同執筆により、1度完成したのですが、編集委員であるこの私が、原稿を紛失するという不祥事を起し、それ以後原稿は書かれないままとなっていました。もう1年近くも前のことであり、記憶もかなり不確なものとは、なってきましたが、わがクラブ員諸君は、あまり山陰・若狭方面に出かけられないようなので、こんな駄文でも何かの参考にでもなればと思って、再び筆を執った次第です。
なお文中にでてくる走行キロは、あまり正確でないことを、あらかじめ御承知下さい。
東京から山陰方面への直通列車には、急行「出雲」がある。しかし、この列車は、我々が走るコースとダブルところがあるので、我々は京都発伯備線経由「だいせん」を松江入りの列車として選んだ。
宍道湖は、あまり期待しないほうがよい。年々底が浅くなり、かなり水は汚い。ただ、そこに落ちる夕日だけは、一見の価値がある。
自転車は、1週間ほど前に汐留から送った。1台700円ぐらいだったと思う。「ひかり」で新大阪まで行き、そこで「だいせん」に乗り換える。新大阪から松江までの長いこと。夕方の6時にやっと到着した。
日通で自転車を受け取り、本日の寝場所を探しにかかる。いい所が見つかった。宍道湖岸の白潟公園である。そこ、ここの茂みではアベックが肩を並べ、適当に草も生えているという、まさに絶好のキャンプ地であった。
ここで、九州を実用車で回りこれから帰路に着くという鳥取の少年と、松江市に住む世話好きなおじさんの2人と合った。このおじさん、松江市雑賀町に住む、前田(慶)さんという方だ。松江に行った時は、是非たち寄ってみたまえ。きっと歓迎してくれるゾ。
8月5日(土)晴 松江市 – 大山59キロ
本日は、松江見物から始める。昨日の前田さんに連れられて、松江城と小泉八雲の家とを見た。すすけた荒けずりの住、何人もの足に磨かれ、丸くなり、艶の出た階段など、昔の城建築を残す松江城は、コンクリート製の城しか見たことのない我々には、逆に目新しいものに映った。ここで、お茶をごちそうになり、さてこれから出発である。
中海を右に見て、島根半島を美保関を目指して走る。フェリーで対岸の境港へ渡り、12時頃米子に着いた。暑さのため、両名とも食欲なく、ざるそば一杯と、あとは水をたら腹飲んだ。しかし今にして思えば、これが本日の敗因につながったのである。
米子を出て間もなく大山有料道路の上りにかかった。この道路は全長12・1kmで800mのところまで登っている。平均勾配6・6%であるから、この数字を眺めただけでは、いかにも楽勝ムードである。ところがこの数字には自然条件というものが考慮されていない。上りにかかると当然スピードは落ち、風がなくなり、エネルギーも平地の時よりもはるかに多く使うから、その暑さたるや、まるで頭上に虫めがねでも置かれて、太陽の熱がわが身1点に集まっているがごとき感がした。これにはたまらず、6kmほど行ったところで、涼しくなるまで待つことにした。
30分も休んでいたろうか。にわかに雲がでて、パラパラと雨が落ちてきた。目を下に転じてみると、サァーたいへん。道路一面、ドライアイスをぶちまけたように白い煙が漂っている。しばらくは、一体これが何物なのか見当もつかなかったが、路面に手を触れてみて、やっとこの正体がわかった。それは、降った雨が、廃けきったアスファルト路面にあたり、瞬間的に蒸発して白い湯気となって漂っていたというわけである。
この雨のおかげで少しは暑さが和らいだようだが、こんどは空腹に悩まされた。昼飯のざるそば一杯は、この坂を上るには、いかにも少なすぎた。そのため、1kmほど進んでは30分休むというまことに、なさけないペースとなった。
あと2kmというところで我輩(中村)は、ついにペダルを踏む活力・気力ともに消失し、自転車を降りた。加藤は、道路幅一杯に蛇行しながら、フロントもないのにがんばった。
目的地に着いたのは6時過ぎ。実に4時間の苦闘であった。初日のランにしては少々酷だ。頂上の食堂で加藤の健闘を祝し、乾杯!このビールはうまかった。今夜は、下山キャンプ場にテントを張った。
8月6日(日)雨後晴 大山 – 鳥取浜坂砂丘102キロ
朝、キャンプ場は霧雨に包まれ、けむっている。昨日の疲れもあり、雨のあがるまで、テントの中でゴロゴロし、10時に山を降りる。下りは、往きとはちがう地道を通ることにした。予定では、赤崎町へ降りることになっていたが、道がないということなので、大山口の方へ降りた。
大山を下ってきたところで大阪の高校生と出会った。彼は、これから大山に登ると言ったが、我々に「キビシイゾ」と言われると、即座にハンドルを180度回して、我々と一緒に走り出した。
大山口から少し鳥取方面に走ったところで駒沢大学サイクリング・クラブの1行に出会った。彼らは米子をめざして走っているのだが、フリーランをやっているため、先頭とビリとは、およそ1時間余りも離れていた。
もうこの頃は、昨日のように太陽がギラギラと照りつける。それでも2人は加藤を先頭にし、快適な舗装のなされた9号線を、平均時速25km以上でふっとばす。
我輩は、昨日まで、ポロシャツなどを羽織っていたが、本日からは、これを脱ぎ捨て、木綿のアンダーシャツ1枚という、かなり破廉恥な格好で走ることにした。―旅の恥はかき捨て、かき捨て―
6時過ぎに鳥取に着いたが、市街には行かず、浜坂砂丘にテントを張った。すぐ隣りに多鯰ヶ池キャンプ場があったが、1張り200円ということなので砂丘の中にテントを張ってしまった。しかし、ここは、アブや蚊が多くて閉口した。
我々は、テントに針金で蚊取線香をつって寝ていたが、これで、虫はかなり防ぐことができる。ただし、絶対にグランド・シートの上に蚊取線香を置いてはいけない。寝ている間に、けとばし、グラシを焦がし、最悪の場合はテントごとまる焼けになることがあるからだ。我々は、第一日目にこの失敗をやり、グラシを焦がしてしまった。
我々は、もっと後に井上君から教えられたのだが、モスパーという体に吹きつけるだけで虫を寄せつけない便利な薬があることを、ここに紹介しておく。これならば、テントの外に足が出ても虫に襲われる心配はない。
8月7日(月)晴 鳥取浜坂砂丘 – 香住町76キロ
朝飯前に、まだ夜の冷たさが残っている砂丘を、裸足で歩いた。鳥取の砂丘といえば、全国に名が通っているが、「月の砂漠」の唄に出てくるようなイメージを持っていくと必らず失望する。そんなロマンチックなとこやおまへんでー。
大岩の手前で9号線を左に折れて、浦富の方へ向う。このあたりから、山陰海岸国立公園の本格的海岸美が始まる。道は、地道で、上り下りが激しいが、それだけ通る車も少く、真青な日本海を十分に堪能できる。諸君は日本海・裏日本というと、すぐに「暗い」という感を持つことと思うが、8月の日本海は、そういう先入観が、まちがっていることを見事に証明してくれる。我々が走った中では島取と兵庫の県境付近で、特にその感が強かった。人それぞれの好みがあるだろうが、小生としては、九州の日南海岸などより、この付近の海岸線の方がずっとすばらしいと思う。
浜坂町から、桃観峠を越え、さらに海岸線を走ろうとしたが、通行不能ということなので、温泉町から9号線を通り178号線経由で香住町へ行くという、とてつもない回り道をしなければならなくなってしまった。
ここで2人の走り方について少し記しておこう。普通の道では、加藤がトップにたち、10m位離れて、小生、中村が走る。この暑さゆえ、1時間半ほど走っては店に入り、氷を食べ、ファンタを飲んで30分ほど休むというペースである。上りにかかると、当然加藤が小生をぐっと引き離し、小さな峠であれば一気に、大物であれば2度3度休みながら登っていく。そして、頂上で必らず会うことにしていた。そこで、汗をぬぐい、タバコを一服し、今、上ってきた道を想い出し、鋭気を養ってから一気に下っていくのである。
途中、土地の警官によると9号線の中で最も厳しいという春来峠(いい名だなぁー)があった。歌長のあたりから上りにかかり、湯谷から勾配がきつくなる。しかし、大山を経験した2人には、それほどきついとも感じられなかったようだ。
この春来峠の下りも実に快適だった。自動車レースのように、アウト・イン・アウトとコースをとりながら、ブレーキをほとんど使わずに下っていく、その爽快感は自転車ならではのものであろう。ただし初心者は、このような真似をせずにブレーキを使って左端をユルユルと降りていくこと。-アッ!危い。そのスピードが死を招く―
本日は香住町の砂浜で、テントを張る。久しぶりに風呂に入りサッパリした気持で夢路についた。
8月8日(火)晴 香住町 – 天の橋立・江尻90キロ
本日は、徹底的に地道と峠に痛めつけられ、背中・腕・尻と体中が痛くなった。「ああ、これぞサイクリングの真髄と見つけたり。」
2人は、いつも6時頃に目を覚ますのだが、出発は、どうも9時か10時頃になってしまう。本日もペダルを踏みだしたのは、9時過ぎとなってしまった。178号線を豊岡に向って進む。すぐに地道となり、途中峠らしきものが2つあった。
豊岡市と久美浜町の間に横たわる河梨(こうなし)峠は、これぞ酷道の決定版ともいうべきヒドイ道であった。まだ峠があった。久美浜町と峰山町の間にあるのは菱山峠という。これは、あまりたいしたことはなかった。
峰山町の手前で、やっと舗装路にありつけた。加藤は、その喜びからか、下り坂ではあったが、自動車と競争を始めた。決局、引き分けとなったようだ。
6時頃、天の橋立の見える岩滝口へ着いたが、この辺は砂浜がないので、天の橋立の、つけ根の江尻へ行き、ここに今日の安住の地を見つける。風呂がわりに海に入った。なま温く実によい湯加減であった。それに観光地として名高い天の橋立の海水が、これほど、きれいだとは、我々を少なからず驚かせた。加藤は、このショックからか、詩などを作ったようだ。
8月9日(水)晴 天の橋立 – 高浜町56キロ
パンと牛乳で腹ごしらえをしてから、傘松公園に登る。自転車で登るのは少々無理なようだ。我々はリフトで登った。ここからは、天の橋立を一望のもとに見下せる。
山を降りてきたのが、もう昼近く。天の橋立の中を通り(橋立と対岸には橋が、かかっている)。178号線に出て、舞鶴へ向う。向い風がきつい。西舞鶴で昼食を取ったが、大きな割には、静かな町だ。少々気味が悪い。
高浜町に入って間もなく、我々は例によって、海岸に面したドライブイン兼民宿に入って、氷などを食べているうちに「目の前には海がある。ここの姉ちゃんは親切だ。外は暑い。今日の予定小浜までは、もうどれだけもない。それならば今日はここに泊ろう」ということに2人は意見が一致した。本日は、自転車に乗っていたのは、3時間、56kmと、まことに楽なものであった。
道路下の砂浜にテントを張り、さっそく泳ぎ始める。御丁寧にも、2人ともクラゲに噛みつかれた。泳ぎ終った後は、そこの風呂に入れてもらった。姉ちゃんに「男湯は、ぬるいから、女湯の方に入ってください」といわれ、何やら落着かぬ気持で、湯につかっていると、脱衣場の方で何やら音がする。加藤は、あわてて、ドアを押えて「入ってます」と叫んだ。結局、何も起らなかったのだが、今でもその姿を想い出すと、おかしくなってくる。
8月10日(木)晴 高浜町 – 美浜町久々子海岸65キロ
10時高浜町スタート。この少し先に、同志社大学のキャンプストアーがあるというので、そちらの方にハンドルを向けた。この海岸は、今までの海岸とちがい、都会的センスが少々感じられる海水浴場であった。しかし、どうも我々の求めているものとは、ちがうような気がして、そうそうに立ち去る。
今日は、4時に美浜で、小島・篠原の両君と、落ち合うことになっているので、約束の時間に遅れまじと、ペダルを踏む足にも、力が入ってくる。
小浜を過ぎて、10kmほど行ったところで、加藤が「アー!」と言って急停車した。我輩は、マシントラブルでも起したのかなと思っていると、彼は「金。金を忘れた」と意外に落ち着いた口調で言った。先ほど氷を喰った。小浜の店に6000なんぼか入った、メガネ入れを忘れてきたというのである。さっそく荷物を全部降し、彼は、小浜へと引き返した。この暑い中を20kmも余計に走るとは、御苦労なことである。それでも幸い6000円は無事、加藤の手に戻ったから、まずは、めでたし、めでたし。旅行中、金を落すことほど、みじめなことはない。諸君!死んでも金を落さないようにしてくれたまえ。
4時頃美浜に着き、駅で待っていると、高らかにクラクションを魯らし、水着姿で自転車に乗った3人がやってきた。「おや?1人多いではないか。」小島と篠原の他に、もう1人神戸から走ってきた井上が加わり、一挙に仲間が5人に増えた。その夜は、再会を祝し、満天、星の輝やく砂浜で、乾杯におよんだ。
8月11日(金)曇 休息日
あいにくの曇り。今日は、たっぷり泳ぎ、たっぷり日に焼けようと思っていたが、洗濯をしたり、昼寝をしたり、泳いだり、名々気ままに過す。
午後からは全員、水中メガネを借りて、魚つきに興じた。が、戦果は加藤が、しとめた小さなフグが1匹であった。つかめそうで、つかめなかった。
8月12(土)晴のち曇1時雨 美浜町 – 越前町厨70キロ
新しいメンバーが入ってからは、我々の出発時間も早くなった。全員ユニホームを着て、8時には出発する。信じられないことだ。
敦賀道路からの日本海・敦賀湾の眺めもすばらしい。やはりサイクリングは好天に恵まれないと、つまらないようだ。同じ景色でも、その時の天候によってその印象は、かなりちがうようだ。幸い、今回のツアーは、天候に恵まれ、雨らしい雨は1度も降っていない。
予定では、武生トンネルを通って、武生から越前へ行くことになっていたが、土地の人に聞くと、河内から越前へ抜ける道が通行可ということなので、当然その道の方が近道であるから即座に予定を変更した。
ところが、この道はヒドイ。ガタガタなんだぁ。でも、いなかの漁村を結ぶこの道、適当に潮臭く、なかなか、おもむきがあった。目的地、厨には3時頃着く。海岸は石がゴロゴロしていて、寝心地は悪そうだが、他に適当な場所がないので、ここにテントを張る。
時間が早いので、泳ぎにとりかかる。水中メガネで見ると岩場のところは、まるで水族館だ。きれいな魚が、たくさん泳いでいる。しかし昨日の経験から魚の方は、あきらめて、もっぱら逃げる心配のないサザエ取りの方に精を出す。
海から出て、さっそく焼いて食べた。なかなかオツな味であった。夕飯はサシミを食べた。やはり漁村に来たらサシミを食べると良い。生きの良いのを、安く、たくさん食べることができる。
サイクリングの楽しみは、こんなところにもある。郷に入っては、郷に従え。こんな所でカツ丼などを食べるのは、愚の骨頂である。
8月13日(日)晴後1時雨 越前町廚 – 福井市35キロ
越前町を出ると、すぐ地道の上りにかかる。山中峠である。久しぶりの峠なので、とても苦しく感じる。あまり暑いのでユニホームを脱いでみたが、アブが、たかってかなわない。再びユニホームを着てヨタヨタと登る。この暑さで、ついに、加藤も感が狂ったのか、横転し、親指をついて、片腕が使えなくなった。そこで片手運転をすることになったのだが、こんな悪路では、はたで見ていて危なかしくってしょうがなかった。
峠の頂上には、冷い水があり、それで体の汗をふきとったが、なかなか汗がとまらなかった。これを越えると後はずっと下りである。
朝日町からは、舗装路となり、皆、快調にとばす。福井市内に入ると、一刻も早く皆の顔が見たくなったのか、スピードもぐんと上がる。俺も、力の限りペダルを踏んだ。12時ちょうどに福井駅に着いた。いるいる。ヒョロッとした藤瀬さん。真っ黒に日焼けした品田さんや井口さん。皆、元気そうだ。
小生は、さっそく家族や彼女に無事に着いた事を知らせた。
「さあー。これから合宿だ。まだまだ家には帰れないゾ。」
東海道一人旅 – 1法1年 小泉
東海道一人旅
1法1年 小泉
しだいに世間も慌しくなってきた42年12月の初め、生協食堂の最高級料理を食い終った3人の美青年が、行き違う女人に珍しく目も呉れず、盛んに何やら会話をしながら歩いていた。
その3人の美青年の名は、言わずと知れた小川と滝野と、そしてアッシでありました。
「今度の春休みに鹿児島へ行こうぜ。」
「うん。行くべェ。」
2・3度、3人が集まって計画を立てる。先輩の藤瀬さんがアドバイスをしてくれる。まとまらない。小川と滝野が計画する。少しまとまってくる。滝野1人でやる。やっと計画に近いものになる。ユース・ホステルの予約をする。アッシは湯河原から京都まで、残りを小川と滝野が分担して予約する。さあ、あとは旅行を待つばかり!
兎に角、学業を第1と考える3人である。冬休み後では、学年末試験のためのノート借りの手配や、それをうつすことで、忙しいだろうから、旅行のことは全て冬休み前にやってしまっておこう。ということだった。ところが、どっこい。この首相もビックリするような殊勝な心掛も、ついに報いられなかったのである。湯河原と三保のYHの予約日が間違って受理されている。変更のハガキを出す。京都までの予約日を、どういう訳か全て一日早めなければならなくなる。小川がアルバイトの都合で京都で合流することになる。そのために変更のハガキを出す。
そして、出発を3・4日後に控えた朝・・・突然ノアッシの邸宅(低宅ではナイ!)の電話のベルがシリリンリンと鳴ったね。滝野の田舎(アッシはこの言葉をあまり好かん。それ自体の意味は「都会から離れた田野の多いところ」で何ら、僕の好かない理由はない。しかしながら、今の都会人の使う、この、イナカという言葉の内には、都会の優位を誇っているような、そういうニュアンスが感じられてならない。これは僕が都会人でないから自らの僻みかも知らないが・・・。)兎に角、滝野のおかあさんの実家の、茨城のおばあさんにあたる人がなくなられたのだそうで、そのために1週間位、家をあけなければならないという。それから学校の都合で、早く旅行を切り上げなければならないという。だから今度の旅行は、九州の博多で合流して、日南で別れる、という。
一瞬間耳が遠くなった。それではアッシ1人で京都まで行けって言うのかい。あまりにも残酷な。アッシはツアーサイクリングを1人でやったことがないんだぜ。小川と一緒に京都から走ろうか。
でも折角、自転車も整備して、荷物も整えた。京都まで自転車を輸送してもらったら、また、どこかがイカレちまうかも知れない。それに友人達にも、小田原から走るんだ、と自慢気に話をしてしまった。
予約も何度か変更したし…これで誰も行かないとなったら・・・YHでも気分が悪かろう。でも1人か、事故を起したらどうしょう。病気になったら・・でも、1人でやってみる必要もあろう。YHで何かおもしろいことがあるかも・・・けど、パンクしたら、道に迷って暗くなったら、そして雨が降ったら、
滝野がいろいろそのあと、俺に話を続けていても生返事をするだけであった。「1人で行こうか、行くまいか。それが問題だ。」てなことを考えていた。
それから3人は学校に集合、早速、変更のハガキを出す。小川が、アルバイトをやめて一緒に東京を出発してくれることを密かに願いながら、例の最高級料理を食った。結局、アッシ1人で京都まで行くことになってしまった。
家に帰って綿密な計画を立てる。昼食はどこでするか。上り坂はどこにあるか。写真はどことどこで撮ろうか。兎に角、1人だもんな。計画をよく練らなきぁ。
2月29日
いよいよ出発の日である。曇り気味である。午後から小雨がパラつくという。今日は、湯河原の城山々荘YHであるから、走行距離は家から10kmだ。東京から出発するということを前提に計画を立てたから、こういう具合になった。
曇り天気に、俺の心も曇って何か憂うつだった。母や姉はやめろという。小川と一緒に行けという。何の為に金と日数をかけて、そんなことをするんだという。勉強でもしてろと言う。
そんな時に小川から電話があった。「気をつけて行けよ。」「ありがとう。小川。」そんな気持になった。本心、心細かったのだ。皆がやめろという内で、1人だけが励ましてくれた。小川だけが、、、
兎に角、誰が何と言おうと、この旅行が何の役にも立たなかろうと、マイナスにさえなったとしても、今日、今時に至っては出発せねばならない。これが西部劇の流れ者の現代版、サイクリストの宿命よ!なんて1人で勇ましい映画の主人公に自分を仕立上げていた。
14時20分。義姉に写真を撮ってもらい出発。雨が降りそうだから、はやく出ることにしたのだ。
「酔狂で行くんだからしょうがないねえ。わざわざ鹿児島まで。雨具を持っているのか。ビニールのカッパがあるよ。持っていくか?お金をなくすなよ。お前ていてい(=非常に)薄鈍(うすのろ)だから。」
サドルに腰を置いた時、母が言った。わかりきったことなのに、何の反撥もなく「カッパなんか着ても濡れちゃうよ。アノラック持ってんからいいよ。」俺が言った。母と義姉と姪のなつきに見送られて俺はゆっくりとペダルを踏んだ。
上はセーター。下は短パンとハイソックス、それに赤茶の登山帽をかぶっている。まだ少し肌寒い。でも明日から3月だ。春だ。暖かくなるだろう。久し振りに自転車に乗ったから足を慣らす意味でゆっくり走った。しかし1時間ほどで城山々荘に着いてしまっった。
以前、湯河原の大工さんのところに手伝いに行った時、YHのことを話したら、
「ペアレントてえのはなんだあ?おお、主人のことを言うのか。それじゃ安さんだな。あれはケチで、家を建ててくれって、俺んとこに頼みに来たけど断わったよ。カカアを貰わねえでいんだっぞゥ。いい年をしてよ。そこの家で働いていた人と、夫婦同様の生活をしてんだけど、籍に入れてねえんだ。その人は入れてくれ、入れてくれって言っても、俺は安田の血が流れているんだ。あの安田財閥のよ。あの血統だなんて言って、籍に入れてねえんだそうだ。変り者よ。」
とのことだ。
案内書によると「全国でも最も人気のあるペアレントの安っさんのYH」とある。ケチはどうでもよい。人に迷惑はかからんし、それに俺もケチだからいい。
しかし、夫婦同様の生活をしておりながら婚姻届をしてないなんて。曲りなりにも法律を学んでいる俺だ。届出なしで事実上の婚姻をしていること、すなわち内縁は、いざという場合、いろいろな問題が出てくる。最近は準婚関係として、しだいに婚姻と同等に扱うようになってきているが、それでも、問題が起って傷つくのは大抵女の人だ。はやく家庭裁判所で調停をしてもらうなり、裁判をしてもらって、きまりをつけたらよいのに。
「しかし、考えてみれば、その女の人にとっては、そう簡単にそんなことはできないのだろう。今のままなら、不安定ながらも、静かに暮らしていける。それをなまじっか、調停を頼んだばっかりに、今までの生活が破壊されてしまうかもしれない。女としてどっちが幸福か。賠償などがあるかもしれないが、人間の心なんて、そんな単純なものではない。人生のクモの巣のような複雑さと学問の純粋性。これは、どの程度までからみ合えるのか。
とにかく15時30分に城山々荘に着いてしまったのだ。雨は降るどころか晴れ間さえ見えて来た。
「早いなあ。それじゃちょっと手伝いをしてもらおうか。その材・木を運ぶのを手伝ってくれや。」
YHの会則の内に「規律あるグループの行動及び日常生活の良習慣を体得し云々」。とある。安い料金で泊めてもらうには、こういうこともしなくてはならないのかな。
着いたばかりのオレは、少々イヤだったが、笑いを作って「ハイッ」と返事をし、長ぐつを借りて手伝った。ヘルパーが男女1人づついたけれど、その2人もやっていた。俺はこれでもスタミナはある方だからざっと3時間、バリバリと働いた。18時頃、もう暗い。風呂にはいって、1人飯を食った。疲れ過ぎて食欲もわかない。でもおかずだけはみんな食った。
20時頃、既に眠気を催す。でも布団がどこにあるのかわからない。と2人の女性の声が玄関でする。ドキッとして、髪を少々手で整える。俺1人と思っていたのに、案外、こんなところにも、ホステラーは来るんだな。ハイカーらしき2人。香川の人だそうだ。1人は良、1人は可。理解できない?うそをつくな!
それからまた女性2人。沖縄と東京の人。大学は神奈川の相模にあるのだそうだ。2人とも良と可の中間。5人とも、今、同じ部屋にはいっている。そこへ男のヘルパーがはいって来て、ギターなんてひく。家は横浜で、ペアレントの手伝いをして、材木運びやおつかいをするんだという。「あしたは安さんのつかいで自転車で熱海まで行ってくるんだ。」なんて言いながら、ブッンプツンとギターを鳴らし、時々女性の方に目をやっている。それから女子のヘルパーの方が金を請求に来る。
何だカンだして22時頃、俺と男子のヘルパーは、残念ながら隣の座敷へ移されて、床を敷く。それからミーティングをやると聞いて驚ろいた。会則には原則として22時消燈とある。もっとも原則だから…。
安さんの部屋へ行って炬燵にあたりながらやる。早大出身のためか俺の計画を全て聞きアドバイスをしてくれた。全国1の人気者だけに、家庭的雰囲気のなかで楽しいものだった。
「まあ、このパンでも食えよ。」と言って傍らから袋詰の菓子パンを出してくれた。例の男のヘルパーが真先にパクついた。そしてこう言った。「安さん。これ固くて、咬めないですよ。」
「そうか。2週間位前に、拓大のYH研究会の奴にもらったもんだからなあ。食べるのを忘れてたんだ。まあ、遠慮せずに食えよ。」「アハハハハ」俺1人だけ笑って、女の人たちは真面目な顔をしている。俺は笑うのを途中でやめた。結局そのヘルパーが1個食っただけだった。ミーティングは0時まで続いた。
3月1日
我ら5人が床についても、ヘルパー2人と安さんは何やら話をしているのが、寝付けないオレの耳に聞こえた。時計の2つ鳴り終ったころからやっと寝付いたらしい。雨が降って風が強いのも何となく聞こえていた。
7時起床、目のまわりがきつい。明らかに寝不足だ。排便はが口。食事だけはちゃんとした。
8時、写真を撮ってもらって出発。昨夜の雨が上って、今日は上天気。箱根を越える。安さんが、水筒に牛乳と卵と、砂糖を入れておけば自然と混ざってミルクセーキが出来ると言ったので店で買った。もっとも、店で買わないで手に入れられる訳がなく(それができるのを泥棒と言う)断わる必要はないのだが…。その店のアンチャンが「汝、何処に行くや?」ときいたから「鹿児島だ。」と答えたら「ああ、湯河原の隣りのか」だってよ。少しは驚くかと思ったのに・・・。つまんなくなって箱根に上んのが馬鹿らしくなっちゃった。
最初の2・30分は非常なる快調さでグングン上ったのである。しかしまだ足が慣れんのだろう。風が強いということもあろう。ペースが落ちた。汗が胸の辺で感じられる。顔が下向きになってくる。ギヤはどんどん落とされて、いまや落ちるところがない。休む。上る。休む。上る。
11時、越え終った。以前越えた時よりもペースは1段と下がっていた。それからは1号線を下るだけだ。富士山は絶景であった。三島への途中の畑の中へ自転車をかついで、富士山と自転車だけを写真に撮ってやった。それから、ついでに小便をしておいた。真黄だった。疲れているのだろう。
ダンプが激しい。時々、自転車スレスレに突走っていく。クラクションをパアパアと鳴らす車も多い。俺はパアじゃないのに。パアが大学にはいれるかってんだ。しゃくだから中央分離線に出ていってゆっくり走った。そしたらダンプのアンチャンが「バカヤロー!」。とどなって、またしてもパアパアと、今度は激しくやらかした。でも俺は悠々と真中を走っていた。自動車が後につながった。我れの前方を走る車はない。てな具合になったら、どんなにか気分がよかろうと考えながら、車の尻から出す、あの真黒い排気ガスにまみれながら、なお、路肩いっぱいに肩をすくめて走った。
腹が減って菓子屋をさがしながら走っていたらパンとあった。タカラパンなどは知っているが、この辺は、シャレた名前の製パン会社があるものだ。はたして、どんなパンを作っているのかな。チョコレートでもはいっているのかしらんと考えながら、店の前までくると「皮服とGパン」と看板に書いてあった。ゲンナリ。…
エッチラ、オッチラたどりついた店で200円飲んだり食ったりしたらガムをおまけしてくれた。
16時30分。三保YHに到着。公営であるから施設は良いが、規則が厳し過ぎ、ミーティングも至って形式的、かつ幼児的でつまらなかった。関西の大学生4・5人と福島のオートバイ旅行のヤローと同室だったが、大学生の方はきにくわなかったから、1言も話もせず、もっぱら「ヤッカラョ」「ウンダベ」のヤローの方と話をした。22時きっかりに就寝した。
3月2日
8時10分、三保YH出発、久能山、石垣イチゴを右手に眺めながら登呂遺跡へ。
彌生式時代の住居や高床式倉庫等が復元されてあった。現在にみられる炭焼小屋みたいな感じである。キャンピングの時のテントよりも上等なものだ。一体、キャンプをしたがるというのは、古代生活への憧れがあるのかもしれない。
資料館があった。「入場料」という文字が私の視覚中枢を刺激したから即座にやめた。
10時30分、静岡市内にはいり、再び1号線へ。ミヤコノーセイホクなどと、いい調子で鼻歌を歌い、平担な国道を走って大井川を渡り終えたら、スゲー登り坂が延々山の上まで続いているのが見えたのには驚いたね。
「オイ、シッカリ走れ!」ダンプに声をかけられてハッスルしたけれど。
昼食後、眠気を催しながら走っていると、「○○○の香水」がギクリッと臭覚を刺激して目が覚めた。
そんなわけで、ペースがよすぎて、浜松にはやく到着しそうなので、途中、ちょいちょい止まって田んぼに栄養を与えたりしながら、ゆっくり走ったりした。しかし、15時には丸松旅館に着いてしまった。10時から15時まではホステル内にはいれないから、ちょうどきっかりというわけだ。
「コンニチワー」と青春ドラマの主人公みたいに明るい御声で戸を開けると、ブスッとしたおばさんが、口をとがらして、ヂロッと俺を睨んで「会員証とお金を出して。」「シーツは持ってるっ?」それでも性格の明るいトクヨシ君は「ハイッ」と笑顔で答えて、フロントバッグから両方を取り出して、ペアレントにさし出した。
部屋に案内される。さいころみたいなチイサーイ炬燵がある。これが暖房施設らしい。なるほど、これならすぐに取り付けられる。たいした施設だことよ。
自転車の整備をする。湯河原の安さんに言われて、一日走った後、必ず整備をすることにしているのだ。可愛い俺の自転車、その名はマミー。由来はここでは言えない。
と1人の女性が来る。同じホステラーだ。リュックをつけている。評価は可。かわいそうに、何も知らんと「コンニチワー」とはいっていった。そのあとの声がきこえない・・・。少々疲れた。着換えてねっころがる。
30分もたったろう。威勢のいいのが2人。1人はメガネに丸帽、太り気味。もう1人はゴツゴツとした、ちょっと2枚目。東京と横浜の住人だという。話によると、東京から、歩いて京都まで行く予定だった。テントから食料から全てを持って歩き出した。1食30円で、一日300円でやっていく。食パンを買って、2人で罐詰をおかずに食う。3日に1回ぐらいYHに泊まる。その時は、バリバリ、詰め込めるだけ食う。ところが考えは甘かった。荷物が重くて重くて、しだいに路面ばっかり睨むようになる。ところが、その様子が見すぼらしいのか、トラックがよくとまってくれる。断わったが、何度となくとまってくれるから、好意を無にしてはいけないと考え乗ってやった。歩き始めて5日目のことだった。その運チャンに大阪まで乗せてやる。と言われたが一日で、そんなところまで、フットンで行ったらつまらないから、清水の辺で降ろしてもらった。それが昨日だ。あそこの久能山YHはいい。飯は食い放題で、ニワトリのモモの肉まで、でた。食いきれないほどだった。
それで、こうなったらヒッチハイクに切りかえることにした。テントも何も、大体家に送って、今はこれだけだ。と言ってヒョロ長い厚ぎれの袋を見せてくれた。太い東京のが言う。「おい、あしたから、なるべく見すぼらしく下を向いて歩こうぜ。足をひきずってよ。やせた横浜が「ウン。」
太いのが
「でも、車を選ばねえとな。止まってくれた車の中にスゲェ運転士がいたなあ。サングラスなんかかけててよ。あんなんに乗ったら、金も命もなくなったかも知れないぞ。」
「…….」
「お前、運転士と少しは話をしろよ。俺ばっかだったぞ。御機嫌とんのに苦労したよ。」
「うん、わかったよ。」
「だけど、この分だと、九州まで行けるかも知れないな。君は九州まで行くんだったな。」
知らぬ間に2人は俺のねころんでいる炬燵に足をつっこんでいる。2人とも暖房料金はおろか、朝飯も食わないからと言って支払ってないのに・・・。
「ええ、そうです。」俺は寝ながら答えた。
太いのが「でも、ここのおばさん、いやババア、感じ悪いなあ。なあ。」と言って細いのに同意を求める。そして続ける。「何だ、この炬燵、チッコイなあ。足を入れたら外に出ちゃうぜ。よう、これ電気はいってんの?馬鹿に涼しいなあ。スウスウするぜ。」
俺は「本当ですねえ。僕は50円も払ったんですよ。」と言った。太ったのは少し間をおいて「そうか」と言っただけだった。細いのが「飯はまだかねえ。」と言った。
それから30分もたったろう。「夕食をとりに来てください。」と下で声がする。3人はやりかけたことを一斉にストップ。階下へ。もってきたものをじっと眺めて「よう、これが夕食か。食費代いくらだっけ。250円か?それにしてもひでえなあ。ひょっとすんと毒がはいっているかも知れないぜ。あのババアのことだから・・・。」勿論太いのだ。細いのと俺はもう食い始めている。
俺も早いが細いのはもっと早い。口は機械的に1秒に2回の割合でパクパク動く。そこにはしで食物を放り込む。それも絶えず放り込む。そして言った。「おい、飯はこれだけか。足りねえなあ。おかわり貰ってこようぜ。」細いのが言ったのではない。太いのだ。ああ、天は人の上に人をつくれり。3人でジャンケンをする。負けたのは太いのだ。階下へ行く。
残りの2人は、再び機械を動かして、各々残りの飯を食い尽くす。階下が騒がしい。やがて、例のおばさんがくる。「あの量で、丁度、どんぶり一杯なんですがねえ。どこのユースでもそれくらいなんですよ。冷飯なら少しありますが、それでもいいですか。」嫌だと言うはずがない。それを食う。
食器は自分で洗えという。台所でだ。ペアレントは居間にいるらしく。台所には3人の外にいない。細いのと俺が食器を洗っていると「おい食えよ。」と、こうこうの大きく切ったのを2つ、俺達の前に差出す者がいる。太いのだ。みると大根の形のまま、沢庵こうこうが、まないたにおいてあった。勿論食う。コリコリ食う。おつな味でした。
「風呂が湧いた。」と言う。3人一緒にはいれるという。素直に3人一緒に風呂場へいく。なるほど、3人が立ってはいれば、はいれないことはない、しかし、いくら満員電車のすし詰めに慣れてはいても、これでは・・・床を敷く。太い奴の名案で炬燵を真中にして、そこに放射状に寝る。炬燵をつけ放しにしておいたことは言うまでもない。
3月3日
「朝飯は向かいの部屋の女性としてくれ。」という。見ると4人分の支度がしてある。細いのと太いのがニヤリとする。3人でおかずをとりに階下へ行く。と例のおばさんが2人を見て、思い出したように言った。「あなた方2人は朝食を予約してなかったね?」「えっ?何ですか?」「いやなに、朝食代は貰っていませんよね?2人分は」「え?ええ。」もう少しで只食いできるところだったのに。2人ともニヤニヤニヤニヤしていたばっかりに、到頭感付かれてしまった。
それでも2人は俺とあの「可」の女性が食っている傍らにチョコンと座っている。しょうがないから半分、わけてやった。
「ああ俺達もついに乞食になってしまったぜ。」と言いながら、2人はきれいに食った。ついでに湯呑茶腕を1個ずつ、断わりなしに、例の西洋式ナンキン袋におしまいになったようである。
2人に写真を撮ってもらい、5・6分一緒に進んだが、歩くよりも自転車の方が速いという大結論に到達し、お先に失礼した。
今日は中休みのかたちで、走行距離は60kmである。それで、ごくごくゆっくり走っていた。折から向い風も激しかったこともある。と浜名湖の辺を悠々と、よそ見しながら走っていると、大胆にも俺の横をヒョコヒョコ走り抜いていく輩が2人おる。しゃくだから後について走った。走りながら話をした。ヤカラ
「どこから?」「千葉から。おたくは?」「神奈川、小田原」「いつ出たんです?」これは俺。すると答は「1日。3月1日」
と返ってくる。「千葉を3月1日に?」「ええ。一日目で元箱根まで。そして昨日が浜松。」「それできょうは?」「名古屋まで」
「最終的にはどこまで行くの?」「九州を1周して、山陰を通って千葉まで。」「いく日で?」「30日」「30日?」「好きでやっているもので、今度が初めてなんですよ。自転車旅行は。それで一日に走れるだけ走っていくんです。だから嫌になったら明日にでも帰ります。」「そう。俺なんか、今日で4日目なんですよ。チンタラ、チンタラ走っているけど。しかも30日で鹿児島まで片道するだけなんだ。」
この2人のようなサイクリングの方法もあろう。自己の体を酷使して精神力を養う。しかし博多のYHのペアレントの言葉を借りれば、いつも、単に走っているだけなら、そして、一日に何100キロ走ったと自慢するだけなら、それは、自己の体力と自転車の性能とを試すだけに他ならぬのではなかろうか。と言ってその走り方が悪いと言うのではない。それはそれなりに楽しみがあろう。前にも述べたように、第1に苦しみに打ち勝つという強い精神力を養える。また距離に対する克服感等もあろう。しかし、このような走り方を、年中して、九州1周をして何になる。「九州はどうだった?」ときかれて「坂が多かった。ジャリ道が多かった。」としか答えられなかったらどうだろう。そんなのは道路公団に任せれば良い。こういう1号線のような殺風景な国道はいざ知らず、見るべき所がたくさんある九州を含めたコースを30日で行って帰ってくるなんて!
豊橋の市街にはいった。と後から「おーい!」と叫ぶ奴がいる。例の太いのと細いのだ。大型トラックに乗ってスイスイと俺を抜いていく。窓から振り返って手を振っている。思わず「おーい」と言って手を振ってしまった。たった一日の同宿だけなのに・・・。
ここで俺は247号線にはいって蒲郡へ向かう。2人は1号線を突走るのだから、学問的見地からいっても、おわかれすることになる。それで「さよなら」をした。
車の数はグンと減り、両側には田んぼが見えはじめてきた。もちろんお天道様は朝から顔を出している。11時半だ。
12時半、既に秒読みの地点まで来てしまった。コースからはずれるが御津の町中にはいって週刊誌を買った。そして、山荘へ行く陽の当る坂道で読書に耽った。
薄茶色の草も所々に緑を見せはじめてきている。その上に寝ころび、和らかい日射しを浴びた。目を閉じた。遠くで耕耘機の音がする。登り坂はきびしかった。景色はいいが・・・。
3時に愛知県立青年の家、相楽山荘に到着した。頭が小々痛い。ペアレントが俺の会員証を見て、「君は、ここで何か奉仕活動をしたのかい?うんなかなか感心だ。」と誉めてくれた。例の湯河原の丸太運びだ。安さんが会員証のスタンプの横に「到着早々、材木運びありがとう。安さん。」と記しておいてくれたのだ。手伝いを始めた俺の動機は、この際どうでもよい。兎に角、誉めてくれるのを拒否しては誉める方も気分が悪かろう。素直に「ありがとうございます。」と礼を言った。こうなると、このYHでは俺はいい子になっていなければならない。普段使わなかったホステルシーツをカバンの奥底から引張り出す。くつやスリッパはきちんと整える。部屋では静かにペンをとる。もっともこれはハガキを書くためだけど。
同宿者は愛知県立大の「地域社会問題研究会」の合宿者で男1人、女3人である。奴らは俺の来る前に来ていて、隣りの部屋で、学生運動がどうのこうのと議論していた。
夕食後、トランプに誘ってくれた。19時から研究会があるから、それまでの時間だという。話してみれば、1人の女性を除いて、残りの3人は今度2年生だそうな。てっきり年上だと思って敬語を使っていたのだが・・・。
地域社会にはまだ、いろいろな問題が残っているという。非人道的慣習、政治的貧困等々(もっと重要な事柄を、具体的に話してくれたのだが、今の時点となっては思い出せない。兎に角、これまで俺の知らなかった様々の問題が地域社会には残っているのだ。)
それをいろいろ研究し、学生なりに運動してその問題を解明していこうとしていくのだそうだ。なかなかすばらしいクラブだ。それにしても女3人に男1人の合宿とは・・・ああ、神よ、何故にあなたは、世の中をこうも不公平にお造りなされたのですか?
3月4日
ペアレントのおくさんが料理をつくる。自転車ではおなかがすくでしょうと言って、4人よりも多く御飯を盛ってくれた。国道に出る近道を「右に曲って、そこを左に折れて、その橋を・・・。」なんて5分位、話し続けて教えてくれた。俺は、神妙な顔をして「ハイ、ハイ」と言って、もと来た、国道への遠まわりの道をひき返してしまった。5分はやく出発してしまった。というのは、出発にはわざわざ6人で寒風の中を外へ出て、見送ってくれたのだ。本当は自転車に油をさしたかったのだが・・・。
まだ頭が重い。1号線にはいった時には、手足がだるくてだるくて。向い風も冷たい。近くのハラッパで寝てしまった。体全体がジーンとしている。40分位そのままだったろう。
12時半、名古屋市内にはいる。広くてきれいな道だが、自転車にとって、交差点はいやだった。途中で信号が変わりそうで・・・。
名古屋城に寄った。久し振りにみかんを食う。水気がなくてまずかった。やはり、みかんは片浦みかんが1番だ。金はかからないし…。
最悪の事態が、その後に、俺を待っているとは、世界中の誰が予想だにしたでありましょう。それは….何度も何度も・・。私は気がすすまないのに、呼び止めるものがおこったのです。その度に私の気持は揺らぎました。それでペダルの回転数をはやめました。でも、しつこく呼ぶのです。さかんに呼ぶのです。誰がと申せば、それは、自然です。
自然が僕を呼ぶのです。自然の生理が僕を呼ぶのです。ウンチがしたくなっちゃったの。ところが処理するところがない。まさか、この天下の国道、1号線の上では、天皇陛下ならいざ知らず、俺にはできない。
交番があった。「あのー、便所を借してください。」小さい声で言った。キョトンとした顔をして「えっ?何ですか?」」とお巡りさん。「催してんですけど。」「何が。」「大便」「あのねえ。ここには便所がついてないですわ。」奴らは、勤務中に催したらどうするつもりなんだろう。ひょっとすると路上で・・・。いや、まさか。お巡りさんが・・・。ガソリンスタンドでやらせてもらった。御礼にウンチと紙は、そこに残しておいてやった。
16時、岐阜に到着。YHへの登り坂で、さっき買った菓子とみかんを食って一服した。その後、少し上がると燃えている。火だ。
男が上からおりてくる。おかしいな。男は近道をして俺とはすれ違わなかった。例の草焼きかな。でも草など生えていない。枯草と枯木だ。と「火気厳禁」とある!放火だ!3・4ヶ所燃えている。まだ火勢は弱い。消せるかな。でも消し切れないで大火事になったら。夢我夢中で上へ登りついて、タクシーの運チャンに知らせる。運チャンから無線で消防署へ。煙が立ち上っている。急いでひき返す。2・3人がいる。枝を折ってタタく。枯草を夕夕く。煙が鼻にくる。涙が出る。下の方ではサイレンの音が聞こえる。騒がしくなる。早くきてくれ。大事にはいたらなかった。
あの男だ。一見サラリーマン風の角刈のあの男だ。何も動揺した態度も見せずに、平静を装って、おりてきやがった。俺は何か、イヤーな感じがした。恐くもあった。どうして、俺が、こんな目に合わなければならないんだ。せっかくの旅行中なのに。消防暑の人が、その時の様子をきく。警察官がきく。新聞社の人がきく。みんな同じことをきく。同じことを答える。試験勉強も、この位繰り返せば、いつも満点だったろう。
あの男。いまいましい。しかし、もし、俺とあいつがすれ違ったら・・・。やつは俺をどうしたか・・・。放火とわかって、俺はあの男を追いかけただろうか。俺はそんなことをしなかったろう。恐くてできなかったろう。また、どうして俺はもと来た道をくだらなかったのか。上がるよりもくだった方がいいのに決まっている。くだらない話だなんて言っておれない。
テレビの警察物などをみている時は、どうしてあの人は、もっと勇気をもって、こうしないのだろうとかああしないのだろう。ダメな奴だ、と思う。しかし、それは、あくまで第三者的立場におるからなのであって、その当事者となると、思い通りにはいかないものだとわかった。しかし、つくづく自分を、なさけなく思った。愛想がつきた。ああ、はやくYHに行って、ゆっくりしたい。こんなことから、はやくかけ離れたい。そんな気持になった。
17時。YHに着く。岐阜市営YHである。ペアレントは体格のいい若い男の人だ。ふくよかな顔をしている。ホステラーは男4人女1人だった。女性は受験のために宿泊しているのだそうだ。なまじっかの旅館に泊まるよりはいいかもしれない。
「ホステラーの皆様に御案内申し上げます。御風呂の用意ができましたので、どうぞ御利用下さい。御風呂の用意ができております。おーい、風呂が湧いたゾー。風呂ダヨーン。」「ホステラーの皆様に、お知らせいたします。夕食の用意ができましたので、どうぞ階下の食堂で御召上がりください。夕食の用意ができました。オーイ、ミンナ、メシタゾー。ハヤク食えェ。」てな調子の場内アナウンスをする。フザけたペアレントであった。もうさっきの火事の時も、いそいで消火器をひっかついで、大きい体をしてあの道をトコトコ下っていったのだそうだ。
「この辺1帯は公園になっててなー。岐阜城もあるじゃろ。アベックが多くて多くて。つい最近も、タバコの吸殻で火事になってなあ。そん時も、これをかついでいったよ。ウワハッハッハッ。ひどいもんだ。ウワッハッハッ。」ペアレントの弁である。
と電話がかかってくる。新聞社だ。「君のおかげで大火事にならなくてたすかった。丁度、火災予防週間も、今日から始まっているんです。市民も感謝していると思う。ところで、その男の・・・。」以下は先ほどの復習となる。俺は「いや、当然のことです。たいしたことはないです。だれでも、あの場にいたらすることをしたんです。」とは言ったものの、しだいに何か、俺も偉いことをしたのかな、と思うようになってしまった。この気持はしだいに大きくなっていった。
3月5日
ひょっとすると俺のことが新聞に出ているかも知れない。「鹿児島まで、自転車旅行中の早大生..。」
俺は自分の、心持の変化が恐ろしくなった。自分でその変化がわかっていながら、どうにもできない。人間などという考える葦は、結局、こんなものかも知れない。これが普通の人間なのだろう。と自慰した。
関ヶ原から今日の宿泊地、滋賀県賤ヶ岳YHまでは寒かった。手袋を2枚しても冷たい。しかし景色は抜群であった。国道はまっすぐに続き、その両側には白綿のままのじゅうたんが一面に広がっている。目指す前方は、これまた真白な雪を被った山々がそびえている。
13時半、YHに到着。15時までいれてくれないから、そこの道端で自転車整備をした。同宿者はプロレスラーみたいな女性2人と大阪の高校2年生1人。学年末試験が今日終って、そのまますぐに旅に立ったのだそうな。大阪っ子も気が早いねえ。ボタモチ食いねェ
3月6日
雨が降っている。それでも私は行かねばならぬ。行かねばならぬのだ。なんて気取っていて、出発は9時になってしまった。今日はいよいよ都入りというのに、雨とは…。
しかし、琵琶湖の西側の景色は最高である。進行方向右から、山々野原、桜木、道路、桜木、砂浜、打ち寄せるさざなみ、湖面に浮かぶ小島。所々には大岩をくり抜いたトンネルがある。そんな景色を楽しんでいると、いつしか空も雲が切れて、晴れ間を見せた。
走りながら考えた。何故に大金を使い、日数をかけ、苦しい思いをしてまでサイクリングをするのか。相楽山荘の時の「地域社会研究会」の活動などは、そのまま、その地域の人々の役に立つ。野球部にはいっていて、1流になれば、テレビに出て、もてはやされ、本人次第で職業にもできる。
しかし、サイクリングは何になる?自転車屋になるためのものか?これはサイクリストなら、1度は考えるであろう。そして「俺は走っていて矛盾を感じるよ。」とよく言う。そして、また、すぐにその矛盾を忘れるのだ。忘れる時は、サイクリングが楽しい時だ。そうなんだ。まずサイクリングは楽しむためのものなんだ。誰だって遊ぶ。遊ばない人はいない。それを我々サイクリストは自転車を媒介として、大規模な遊び方をしているんだ。
しかし、それだけの理由では満足できない。サイクリングが楽しむだけだなんて…。何かないか・・・。ある。まだある。
現代の機械化された大衆生活の中で、人々は無力感、絶望感に襲われ、不安と孤独は人々の理性を奪い、次第に各種の娯楽に走らせていこうとしている。いや、そうなっている。そんな生活を打破するには?学問にうち込む。いいでしょう。スポーツをやる。いいでしょう。ヨットで大平洋横断をする。いいでしょう。
しかし、もっと身近なものがありはしないか。何かあるだろう。そうサイクリングだ。我らが会長、清原先生のおっしゃったように、歩くのでは行動範囲が決められている。自動車では自分の力とは言えない。サイクリング、サイクリングだ。
自らの足で、自らの力で、日本中を走り、世界中を走り抜き、眼を大きく、広く見開く。有意義なことではないか!
15時、山科着。いよいよ都入りだ。髪を整えて、手と顔を洗う。16時、京都宇多野YHに到着。なつかしき友、小川が部屋で、何やら書き物をしていた。金の計算らしい。
合宿エレジー – 政経3年 守谷
合宿エレジー
政経3年 守谷
私は行かねばならない
空っぽの胃袋 真暗な目の前
貧しい脚力 スタミナなどというものは
ひとっかけらも持たぬのに
合宿などという代物に 追いたてられて
私は1人 摩周湖へとペダルをこぐ
何の因果か今日もまた
峠目ざしてただひたすら
摩周湖という未知の地に
何が待つのか知りもしないで
仲間のあとからトコトコと
私はそれでもついて行く
参加してしまったばっかりに
ああ私は行かねばならない
「合宿エレジー」附録
上の詩は、石油ストーブ火災の消火法について、消防庁と「水かけ論争」をやった「暮しの手帖」の93号の114頁「雑記帳」という読者からの投稿欄に掲載されていた樋渡さんの「受験エレジー」という詩を母体にしたものです。流行歌で云えば「替え歌」です。他人の詩に手を加えて、自分が創作したかのように公表すれば、盗作したことになるでしょう。そこで私は、この詩は自分が創作したのではないこと、そしてあくまでも樋渡さんの「受験エレジー」の替え歌にとどまることを強調します。
さてこの詩ができた動機は、先の樋渡さんの「受験エレジー」を読んで、自分の高校(両国またの名を牢獄と云う)の頃、浪人の頃、そして合宿で征服(?)したいくつかの峠を登った時に浮んだ事と似たようなものを彼女も感じていると思ったからです。
ここで書かれている合宿は、私が1年の時、つまり65年度の夏季北海道合宿のことです。自分にとってこの合宿は、最初の本格的長距離ツアーでした。それだけに色々な想い出があります。摩周湖もその1つで、雨の悪路と戦って展望台まで登った時、何が待っていたが。知りたい後輩諸君はこの合宿のB班の人達(内藤、中野、服部、山添、山口、荒井、小川、藤瀬、各先輩、及び上杉、小林、村上、諸君)に聞いて下さい。
できればOB会で上記の先輩達に聞いてみて下さい。彼はきっと喜んで自分自身も想い出に浸りながら、語ってくれるに違いありません。
九州横断道路 – 政経1年 小川
九州横断道路
政経1年 小川
国道57号線、山なみハイウェー、人呼んでこれらを九州横断道路と称す。産業振興と観光の目的のために作られたそうだが、雲仙・阿蘇の2大山塊を横断するこの道路程、起伏に富み、我々の心を魅了するものはないであろう。
この道路の出発点、長崎 – キリシタンの町鎖国時代の外国文化移入地・出島、原爆 – 人々はこの名前を聞いていろいろなイメージを心に浮かべるであろう。僕もしかり、凡人の抱くイメージを携え、この町にはいった。異国的な情緒を求めてだ。長崎文化資料館・グラバー邸・大浦天主堂・異人館、ありし日を思い出させるのはこれらの館(やかた)に展示されている記念品だけ。原爆をうけたその日から長崎という町は変わってしまったのだ。 – そしてそれにつづく近代化によって。平和公園・原爆中心地・老若男女・ハト原爆 – あまりにも次元の違いが大きいので、これらをどう説明してよいか分らない。我々は原爆という1対象をどう考えたらよいのであろう。
3月14日。前日に続き快晴、まったくよい天気だ。今日の予定は雲仙YHまで、初の登りだ。どうも我々はユースホステルをでるのが早くなってしまう。今日も8時に出発するようになってしまった。途中諫早(いさはや)公園によった。重要文化財の眼鏡橋があるというのでいってみたら、なんのことはない。2重橋の方がズッーと良かった。この公園には城跡があり昔、西郷氏の居城であったらしい。天気が良いとサイクリングは非常にさえる。ただ我々が半ズボンで走っているのを土地の人々が好奇な目で見るのが気になった。
お昼前に小浜町に着いた。いよいよここから雲仙道路登りである。我々は体力の差を知っていたので、ここからフリーランにすることを決めた。いよいよ出発、料金所をすぎたあたりから登りがキビしくなる。道路が良いのがせめてものなぐさみだ。周りの景色はすばらしい。遠くに見える東シナ海、反対側にはまだまだ続く山の斜面、このコントラスト、海を見るとずい分上ったナアという満足感、山の方を見るとまだ登るのかといった虚無感、これらは青春時代にしか味わえないものであろう。しかし、もくもくとペダルをこいでいる内に、いつしか小地獄についてしまった。人間の体力の偉大さをここで再認識した。
翌日我々は熊本に向けて出発した。今日の行程は70キロ程ある。それに島原から谷津までフェリーだ。はたして熊本まで行けるかどうか心配した。しかしどうしても行かなくてはならない。途中ちょっと登りだっただけであとは下りとなった。この下り、魔の下り、僕はこの下り道路で転倒してしまった。落石注意、カーブの所だった。小石に乗り上げたらしい。頭を打った。島原県立病院で診察、異常ナシ・・・ああ良かった。しかしこの時の友の態度、普段はバラバラでもナニカのきっかけでまとまり、お互いに友情以上のものを示してくれた友達、僕はこれらの友を大切にしたい。
前日はどうやらうまくいって無事熊本までこれた。- もちろん僕の事故を除いてだが。今日はいよいよ阿蘇行きだ。全行程50キロ弱なので我々は水前寺公園と熊本城を見ることにした。東海道を形造ったという水前寺公園の庭園は、自然の雄大さとうって変ってこじんまりしたまとまりを示していた。人間の自然に対するはかない抵抗であろう。
熊本城、 – コンクリートの城 – その魂は微塵もない。残っているのは虚構を装う外観だけだ。これらとは余りにも対称的なもの – 人間の手を加えることのできないもの、それが阿蘇の山々である。視界に広がるのは丘のみ、我々の他誰もいない。山の丘陵、新芽をまだ出していない草木、なんとすばらしいんだろう。噴火口からのぼる煙 – 噴煙、やがては大地にもどる人間、煙、大自然の輪廻、人間がどうあがいても到達できない自然の力、こここそが我々人間の存在を認め、それ故人間のたよりなさを教えてくれる所のように思えた。機械なしには生きていけない人間、自転車で一日走ってもまだ続く久住の高原、人間のはかない抵抗、ほんの小さな小石にも敗けてしまう人間、 – 人間とはこんなものなんであろう。
いよいよこの横断道路の最終地別府に向け出発した。天気は連日よく、阿蘇の山なみが非常に美しく見えた。周りの草原の黄色があたかも砂漠であるかの如く見えた。とにかくすばらしい。自然に溶けあった人間程幸福なものはない。しかし我々を待っていたのは視界の端から端まで連なる山々だ。ああ我々はあの山を越さなければならないのか。突然、又人間の無力感が心の中によみがえった。楽しかった旅、僕はあのこせこせした東京 – 人間社会を離れて、又どこか知らない処へ行きたい。
コンピューターの戯言 – 政経3年 守谷
コンピューターの戯言
政経3年 守谷
普通、我々は男子と女子の生れる確率は各々1/2であると考えている。人間には男と女の2種類の性があるからである。もっとも最近は染色体の研究が発達し、スポーツ界におけるセックス・チェックの結果で御存知のように、性を明確に決定することのできない人間の存在が明らかになった。余談であるが、女子クラブ員を拒否する我がWCCにおいてもセックス・チェックは必要ではないだろうか。さて医学的には、上のように性識別不能人間の存在が認められるが、法律的、統計的には、人間には2種の性のみ認められている。従って人間の出生を統計的に考えると、事象Aの生起を女子の出生と考えれば、Aの余事象の生起は男子の出生と考えられる。
次の1文には、事象Aの確率つまり女子出生の確率について興味ある数字が記されている。
確率概念の大部分の例は、伝統的には、貨幣投げ、偶然遊戯、壺からの球の抽出、等々に関係していた。人口統計からの例を指摘することによって、われわれ自身の経験により一層近くなる。
実験を出生と考え、そして事象Aの生起を女子の出生と考える。
毎年この実験の幾千もの実験結果を観察するならば、事象Aが全体の半分より僅かに少く起ること、すなわち
0.49=P(A)
であることを見いだす。
出生のある短い系列においては、女子が全体の40%よりもはるかに多く生れていることも、あるいは、はるかに少く生れていることもあるであろう。しかしランダムにとられた何千回もの観察の反復においては、決してそのようにはならない。多数回の出生を記録しようとしている統計家の、非個人的な観点からは、女子出生の確率は0・49である。両親の心の中にある主観的な確率は別個のものである。なんとなれば、彼等は彼等の実験を幾千回も繰返そうとはしていないからである。
要約すると、毎年、幾千もの出生を観察するならば、女子出生の確率は 0.49であることが認められる。但し少数の組の夫婦に関する出生を観察しても、女子出生の確率は 0.49になるとは限らない。何故なら、彼らは 幾千回もの出生結果を提供しようとはしていないし、またできないからである。
もし人間が、出生を可能にする行動の回数と等しい位の出生回数を提供することが可能なら、我々はより小規模の観察で、女子出生の確率が0・49であることを確認できるであろう。
さて次の1文に注目しょう。
ある人が次のような確率を伴うゲームを行うと仮定しよう。彼はサイコロを振り、サイコロの目が1または2のときは、相手は彼に900円を支払う。それ以外の時には、彼は相手に300円を支払う。したがってこのゲームに勝つ確率は1/3であり、ゲームに負ける確率は2/3である。このゲームを行うとき、平均すれば、彼は、1ゲームにつき、
1/3×900+2/3×(-300)=100(円)
だけ獲得すると期待される。いま確率Pと1-Pの割合でおこる2つの事態の貨幣価値を、それぞれAとBとするとき、このゲームの数学的期望値、あるいは期待される獲得額は、
PA+(1-P)B
である。
ここで君が次のような賭をするとしよう。君はなるべく多数の出生数を記録した出生人口統計について(つまりある年度の統計よりは何年、何10年、何100年に渡る統計を。ある1国の統計よりは、何ヶ国かの、あるいは国連の全世界に関する統計を)、男子の出生数の多いときは、相手が君にx円を支払い、女子の出生数の多いときは、君は相手にy円を支払う。但し
y < 0.51/0.49x であること。 また相手は君より多く支払うことを好まないだろうから、 y >= xであること。
ところで、先に、多数回の出生の観察によると、女子出生の確率は 0.49であることが判明している。また先のゲームの数学的期望価の定義より、君は、平均すれば、1ゲームにつき、
(1-0.49)x – 0.49y (円)
だけ獲得できる。
y < 0.51/0.49x
より君の獲得高は常に正である、つまり損をすることはない。
どうです。君も彼女とこんな賭をしませんか。但し君達の知人であるA夫婦の次の子供が男か女かという賭では、君の勝ちを保証できません。A夫婦が出生という実験を 幾千回も繰返さない限りは。
また、君が勝ったら、このような実験を可能にする行為を行うことを彼女が承知する、といったような約束事の責任は負いません。そして、彼女がそのような実験に成功する確率は計算不可能です。
私のサイクリングノートより – 一商2年 板橋
私のサイクリングノートより
一商2年 板橋
私のサイクリングノートも4冊目に入った。おもにクラブランの記録だ。机の上に4冊重ねてみるとその分厚さに思わずニンマリしたくなる。眠い目をこすりながらその日のうちにつけたページもある。後でつけようと2ページほど空けておいて、今だにそのままになっている所もある。その空白さえ、なつかしい懐古の対象になる。人間とは思い出が好きだなあ!
以下に1冊目のサイノリングノートから抜き書きして、1年生の板橋を再現したい。そうすれば6年目(たぶん6年目になると思う)の早稲田大学サイクリングクラブも再現されるだろう。「峠」4号の鈴村さいの「想輪の記」と読みあわせると面白いと思う。
まずクラブランは14回行なわれた。5月=府中周辺・相模湖泊。6月=成田山・長瀞1泊・3浦半島1周1泊。7月=秋川関谷・名栗川溪谷。8月=秋田→日光夏合宿・日光エスカ夏ラリ1。10月=軽井沢秋合宿。11月=早同交歓会・ワンダーサイクリングとの合同ラン・オープンサイクリング。12月=鴻巣渓谷。
- 府中周辺ラン・16人
5月15日、始めてのクラブラン。当時の日記を見たら、5月7日の所に「商学部の出入口はまだバリケードでふさがれている」と記してあった。5月15日といえば、さしもの早大紛争も解決のきざしが見えて来た頃である。新人のほとんどは、自転車がまにあわず、代々木の青少年スポーツセンターで借りた。私はどうしても、自分の自転車で行きたかったので、このランには出なかった。企画の古川さんは「レンゲのお花畑でねっころがったりして、とても面白かったよなーあ。」と木村(淳)と話し合っていた。今から考えるとこれは古川さん独得のデモンストレーションだった。私はこれにつられて、古川さんとたった2人で走った「鳩ノ巣渓谷ラン」まで、せっせと参加することになった。此頃、古川さんの個性味が思いだされてならない。 - 相模潮1泊ラン・22人
このランには、学年順に言うと、1・6・7・8人の参加者があった。完全なるピラミッド型である。私は新人として初めてクラブランに参加し、先輩に接した訳だ。この時の、第1印象は3年生の結束が非常に固いということだった。だから3年生と話す時には、一種の緊張を感じた。つまり、なんとなく怖かった。その反面、3年生について行けば絶対大丈夫だという安心感があった。この時感じた第1印象は、まちがっていなかった。3年生の結束は、1年間ずっと崩れなかった。クラブランの出席率は、2年生よりはるかに良かったし、総会やコンパとなると、ほとんど全ての3年生が参加した。私達1年生は、そのまとまりを美しいとさえ感じ、又ほほえましく思った。
このランで忘れられないのは、夕食が9時過ぎになったことだ。献立ては、豚汁だったが、口に入れてみないと何を食べているのかわからない位暗かった。シャモジはなく、蒔を火で消毒してかきまわした。地面に落ちた肉もポイポイと汁の中に入れた。それで灰分もミネラルも入ったバランスのとれた栄養を探ろうという訳である。
1年生は、夕食を早くしてもらいたいと全員文句を言った。それに対して2、3年生は全然弁解しなかったので、 WCCが1泊ランなどめったにしないことなど、1年も終りになる頃まで気がつかなかった。
私は、1年中でこのランが最も印象深い。というのは、昼飯を食わずに出発したため、大垂水でハンガーノックを起こしたのだ。足が動かないどころか目まで霞んで来て、完全グロッキーになってしまった。この時は栗原さんに随分お世話になった。栗原さんは、ほとんどベソをかかんばかりの私を「いい子だから、10分走って5分休もうね。」とか言って励ましてくだった。前後ともローに落とし、よろよろと走る私の後ろから「オイッチニ、オイッチニ」とかけ声をかけてくれた。この話は、大垂水をサードでスイスイと?越える今の私を知っている諸君には想像もつかない事だろう。
2日目。4年生の岩瀬さん(当時最強)と中津川の上りで競走したというのが、木村(淳)の自慢話の1つになっている。 - 成田山ラン・12人
成田まで往復したのだから150キロはあった。サイクリングを始めて1ヶ月足らずで、よくもそんなに走れたと思う。このランの出発前には、距離の事など全く考えていなかった。1年生の良さは、何も考えないで、ただ走る事に専念できることだ。1年生のうちから、あまり考えすぎると2年、3年になってから飽きがくる。
このランには、4年生の山添さんが参加した。今でも覚えているのは、昼飯の時の山添さんだ。成田不動尊に到る急坂の下り口の食堂で、親子丼を食べたのだが、山添さんは開口1番。「おねえさん、これ何丼?親が入っとらへん。」大阪人らしい快活さで、皆を笑いころげさせた。 - 長瀞1泊ラン・9人
先週にひき続き、政経学部は試験(前学年の)のため、多くの人が参加できなかった。長瀞は、有名な割に規模が小さいので、がっかりした。それに参加者が少ないという事が興味を半減した。2日目の定峰峠も濃いガスで何も見えなかった。ヤマ場のないランだった。 - 三浦半島1泊・16人
このランも楽しかった。特に夕食後から就寝までが良かった。カレーライスを食い終ってから、キャンプファイアーをしようということになった。薪木(たきぎ)は、そこいらに流木がいくらでもあった。燃えさかるファイアーを中心に、皆は WCCにふさわしい高尚な歌を合唱した。例えば「東京おんど」「ツンツン節」「かぞえ歌」「すずめの学校」など民謡から童謡まで、そのレパートリーの広さには感心した。ただし、歌詩は、一般のものとは少しちがってはいたが、すぐに慣れた。そのうち、歌も底をつき、観音崎の夏の夜を満喫しようと、海に入る者も出てきた。中でも、1番発らつとしていたのが、1年生のs(本人の名誉のために特に名を伏せる)という男である。さっさと裸になり、生まれたままの姿で海の中に入って行った。あまつさえ、「暗いから平気だよ。」と正面を向いてスクッと立つのであった。この勇敢な行為に皆は拍手喝采して喜んだ。この好評にこたえて、sは2度3度と立ちあがった。何度目かの時、強烈な閃光がひらめいた。誰かがフラッシュをたたいたのだ。この突然のできごとに皆の歓喜は最高に達し、息ができなしに笑いころげた。その数日後、撮影者の先輩が「おい、どうする?黒々と写っているぞ。」と言っていた。sは別に気にもせず、笑っていた。 - 秋川渓谷ラン・9人
五日市から十里木を経て、養沢鍾乳洞に向ったが、時間切れで引き返す。 - 名栗川渓谷ラン
- 合宿15人
8月13日、秋田駅集合。8月23日、日光でエスカ夏ラリーに合流。詳細は「峠」4号。私は、自転車を盛岡に送り、そこから秋田まで3泊4日のプライベートランをした。初めての1人旅だった。今でこそ、私がプライベートランに出かけると言うと、母は、せいせいするといった顔つきをするが、この時は随分ひきとめたものだった。 - エスカ日光夏ラリー13人
このラリーは、早稲田大学の主管だった。栗原さん、品田さんが計画、実行に当った。私は、このラリーで、「イロハ坂」と「金精峠」を征服した。この2つの大物の征服により、体力に自信をつけた。又、帰りは東京まで190キロを一気に走った。この走行距離は1年生時代のレコードである。高校生の時は、体力には全く自信がなかったが,この3日間で。人並み以上になった。という確信を得た。 - 秋合宿20人
この合宿は、会長の清原先生の軽井沢のお宅を借り、2泊3日(10月8日→10日)の日程で行なわれた。私は8日まで試験があったので、予め自転車を送り、8日の夜遅く、信濃追分駅に着いた。先生宅に電話すると、4年生の菅間さんと中野さんが、クルマで向えに来て下さった。高原の寒気が肌を差し、向えに会うまでは、実に心細かった。
9日は鬼押出しに楽しいポタリング。その夜は、先生のお宅の離れでドンチャン騒ぎ。主屋の先生には、この騒ぎは筒抜けだったろう。御迷惑をおかけしたと知っていても、楽しい事はやっぱり楽しかった。10日は、東京まで走って帰った。 - 早同交歓会26人
第3回早稲田・同志社交歓会は、11月3日→6日、伊豆で行なわれた。藤瀬さんが立案者であり、下見調査には鈴村、栗原、小川さんが同行された。この交歓会にかける3年生の熱意は大変なものだった。それだけに、本番でぶつかりあう両校の情熱は、すざまじいものがある。1年生も十分にその雰囲気を体得し、自分が3年生になった時には、交歓会をきっと成功させようと、早くも決意するようになる。私はこの真剣な交歓が大好きである。日程は、修善寺・湯ヶ野・子浦に1泊、沼津でコンパ後解散、というものであった。 - ワンダーサイクリングとの合同ラン8人+3人
お見合の意味を含めたランであったが、その後、合併の話は起らなかった。 - オープンサイクリング19人
早稲田祭期間中に行なわれたこのオープンは、鈴村さん品田さんの努力により50人以上の参加者を集め、大成功であった。私は市場調査のアルバイトに専念し、全く協力しなかった。オープンの終った後は、うらさびしかった。 - 鳩ノ巣渓谷ラン2人
参加者が徹底的に少なかったが、それなりの面白さはあった。
自然をにらみつけよう – 政経2年 伊藤
自然をにらみつけよう
政経2年 伊藤
僕のサイクリング歴は短かい。本格的に乗り始めたのは、このクラブに入部した昨年の11月、早同交歓会へ、板橋に導びかれて、走ってからである。従って、この「峠の詩」に載っている諸氏の様な、豊富な経験はないし、まして、紀行文を書く程の余裕ない。けれども走る事は人1倍好きである。以下は僕個人のサイクリングに対する考えであり、他人に強制するつもりでも、同感を呼び起こしたいのでもない。ただ、この小文が新しく入った。その中でも特に、今まで経験のなかった1年生にとって、今後、サイクリングを考える時の、考えるきっかけにでもなってくれたならば幸いと思う。この故に、紀行文の間にこんな文があっても良いと考えた。
第1部
私はサイクリングに一定の姿勢を持っている。自然と対座し、みつめる事である。とはいっても、今のところ、いくらみつめても、何もわからない。苛だつばかりである。しかし、人間は自然の産物である。同じ自然界にあるのに、人間だけが、草木鳥獣、等とは別個であるとは考えられない。必ず関連があるはずである。何故、人間は花を植えるのか、何故、自然の美しさに引かれ、土が恋しくなるのか。人間を考える場合、我々は頭の中で論理を働らかせるばかりで、しかも、それが発達するばかりで、ちっとも、自然に対座し、みつめようとしない。その為の時間も余裕も、自覚もないのである。私自身、自然をみつめれば、人間は何であるかが分る、分かりかけるという確信はない。そうではないかと思うだけである。過去の思想家、宗教家、哲人の中に、又、いわゆる、名も知られず死んで行った人々の中に「人間」を悟った人がいるだろうし、この様な面倒な事を考えずとも生きていける、
事実、生きていった者が、大多数である。人間は様々であり、何を考えるのも、どの様に生きようとも、自由である。従って、「人間」を悟ったといわれる人々の著作を読んでも、感動する事はあれ、我々に真に受け入れられるのは、極く稀れである。要は個人の人生への姿勢であり、思考の自己満足の度合いである。私には、丁度、自転車が与えられており、自然がある。この2つによる方が、他の如何なる手段によるよりも、人間を考えられそうである。
私にとっては、今後、死ぬ事も生き延びて行く事も、どちらも、全く容易な事である。一体、何故、難かしいのか、何が苦しいのか。将来、平凡に生きるか、非凡に生きるか、いわゆる辛苦に満ちた生活をするか、楽しい裕福な生活をするか、解らない。そんな事は、どうでも良い事柄である。私という人間は一体、何なのか。この文を書いている人間は何者なのか。これが解らぬのでは、真の生活目標はあり得ない。自転車を用いて、自然をもっと、にらみつけてやろう。そして、人間を考えよう。クラブランは非常に楽しいものである。対人関係の複雑さ等、吹き飛んでしまうのは、共通の目的である。身体を動かす、楽しさ、快ろ良さ、満足感が生じるからである。
しかし、クラブランは、例えれば、大学授業であり、授業における、皆(多)出席の為の、皆(多)出席が、無意味であると同様に、クラブランにおける参加もそうである。時には自分の個性、更には、自然と対座する為にも、プライベートランに出かけよう。それも、プライベートランには、可能な限り1人で。私も、このランには、今後も、自然と人間を考えていくつもりだ。一日の走行の内の、何秒でも何分でもいい、この姿勢を保ちたい。
第2部
高校3年間と大学1年間のスポーツの結果、腰を痛め、その後の治療の甲斐もなく、それがほとんど、持病になった様子である。ともかく、現在は、自転車に魅せられている訳で、きびしい峠にさしかかると、腰が耐えられぬ程、痛んで来る。無性に、人1倍に、車から降りたくなる。箱根峠、赤城山はその最たるもので、情けない気持と、あきらめの気持で、黙々と、遅れを少しでも、縮める為に、押すのである。
そのせいか、健脚者でも、自転車に乗って行けぬ所に来ると、「貴方、出番です」となるのは、この日頃?の努力の表われである。当クラブは、速さより、持久力が大切であると思う。たとえ、平均時速が15kmでも、20kmでも、一日中走れるとか、一日400km走れるとか、そんな諸君の出現を期待する。それこそがサイクリングである。スピードは体育部の諸君に任せるべきである。それでも尚、スピードに魅せられた諸君は、守谷氏の様に、スケジュールをもって、毎日練習すべきである。いたずらに、唯、軽くなるという事で丸タイヤを使用する事は、スポーツ精神に、全く、はずれていると考える。
編集後記
編集後記
昭和43年2月15日は、東京には珍らしい大雪となった。その日は、ちょうど第2回目の追い出しコンパが開らかれ、思わぬ雪見酒に、参加者一同大いに喜んだ。コンパが終り、雪合戦をしながら、高田馬場に向う途中で、これから麻雀をしようということに話が決り、鈴村、脇、板橋、落海そして小生、中村が残った。場所は、鈴村さんの家と決り、井の頭線に乗り、西永福で降りたのが、もう12時近く。おりからの大雪で、ダイヤは乱れ、乗っている客は、まばらであった。
改札口を出て数歩行ったところで、小生は「右手がいやに軽いなあー」と思った瞬間、原稿を入れたカバンを車内に置き忘れたことに気づいた。さっそく、駅にもどり、連絡してもらったが、答えは「ノー」であった。
翌日から、渋谷駅へ行ったり、警察へ行ったり、新聞に投書したり、できるだけのことはしてみたが、原稿は、もどってこなかった。
第5号は、品田主将の命により「より多くの人から、より多くの原稿を」という方針で原稿が集められ、栗原・鈴村・藤瀬・古川・松下・高田・久世・井口・品田・田北・伊藤・板橋・加藤・木村(淳)・中村・木村(治)・小泉・小島・斎藤・篠原・滝野の方々に深くおわびする次第です!!
1時は、どうしようかと大いに迷いましたが、鈴村さん、品田さんなどから、暖いお言葉をいただき、再び気をとり直し、最初から始めて、今日、完成を目前にひかえ、何ともいえない気持ちです。ただ、私の失敗のために、4年生の原稿が誌面から消えてしまったことが残念でなりません。
最後に、広告集めにとび回ってくれた、斎藤・滝野の両君に心から、お礼を申し上げると共に、御迷惑をおかけしながらも、最後まで暖かく御援助の手をさしのべてくださった、藤田・日東・中村・高橋・唐沢・アルプス・サンノーの各社に対して、感謝の意を表します。(中村)
峠第5号
昭和43年7月20日発行
編集責任者 中村
発行 早稲田大学サイクリングクラブ
Editor’s Note
1967年の出来事。昭和42年。
第9回日本レコード大賞 1967年 ブルー・シャトウ ジャッキー吉川とブルーコメッツ
1月。US LAで第一回のスーパーボウル開催。
2月。森永製菓がチョコボールを発売。
3月。高見山が外国人初の関取に昇進。
4月。美濃部都知事誕生。
5月。東洋工業が、ロータリーエンジン搭載のコスモスポーツを発売。
7月。JET STREAM放送開始。
タカラ、リカちゃん人形を発売。
9月。上越線、新清水トンネルが開通。
10月。オールナイトニッポン放送開始。
12月。餃子の王将、京都1号店がオープン。
映画、007は2度死ぬ。
WCC夏合宿は、「 能登半島 : 福井市から – 長野県上田市まで」でした。
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こんにちは。WCC OB IT局藤原です。
峠5号は、原稿紛失事件があり、紆余曲折を経て出版に漕ぎつけたことを知りました。井口先輩の「車輪の下の台湾」は、峠6号に掲載されている旅行記を井口さんの視点から見たものです。
当時の文章をWEB化するにあたり、できるだけ当時の「雰囲気」を尊重するよう心掛けたつもりです。
文章と挿絵はPDF版より抜粋しました。レイアウト変更の都合で、半角英数字、漢数字表記等を変換していますが、全ての誤字脱字の責任は、編集担当の当方にあります。もし誤りありましたら、ご指摘をお願いします。
2025年3月、藤原
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