春風にのって – 井上
春風にのって 法学部3年 井上
3月26日、今日の春季ランのため、昨日は、東京から藤沢までスモッグをくぐりぬけて走った。
今日は天気もよく、昨日とちがって空気も澄んで、実にすがすがしい気持ちである。
集合場所の小田原駅まで、少し余分に時間をみて、6時にはユースを出発した。湘南の海岸ぞいを快走する。春の日差しが目に突き刺さるようだ。海から吹風も幾分暖かさをその中に包み込んでいるようだ。真っすぐな道をビュンビュン気持ちよくとばしているうちにもう小田原。
思っていたより早く着いたので、まだ集まっていないだろうと思ったが、あのみぐるしい、いや、美しい「眩しいばかりの黄色のユニフォームが1つ、2つ、目に飛びこんできた。
パンを買ったり、自転車の調整をしているうちに、だんだんと小田原の駅前が黄色いユニフォームで
いっぱいになってきた。春休みのプライベートで、真黒に日焼けした顔も、あちこちに見られる。
一方、全々日に焼けてない顔も。皆互いに話に花が咲く。
10時頃になって、ようやく全員が揃った。御殿場ユースがとれなかったので、一日目のコースは大幅に変えられこととなる。楽しみにしていた乙女峠を越えることができなくなり、皆様に落胆?の色が隠せないようだ。
班割り、コース説明もおわり、いよいよ、出発であるクラブランでの、この瞬間ほど好きなものはない。なんと言い表わせないような、ドキドキした、ゾクゾクするようなものがある。さあ出発だ!
が、しかし、早くもつまづいてしまった。小田原駅を1キロもいかないうちに、道をまちがえるというトラル、気づかなければ、また藤沢へもどってしまうところだった。
こんなことでは先が、と思いつつ、桜の花がほころんでいを市内をぬけ松田駅につく。ここは第1休憩地であるが、駅への進入路を、はっきり決めてなかったせいもあって、全員がそろったのは、もう12時近くであった。出足からこんなことでは、日暮れまでに民宿に着けるかどうか、心配になってきた。
松田駅を出ると、すぐ、国道246号に入った。土ダンプが土煙を巻き上げて自転車すれすれに、次から次へと走っていった。また強い風のため、追いもどされたり、小さな砂つぶが飛びかい、目もあけられないなど、なかなか思うように走れない有様である。
昼食は、駿河小山という小さな駅で取った。あいにく近くの店がしまっていたので、バンですますこととなった。
駅前の地図を見ながら、目指す籠坂峠はあれだ、などと指さしたり、まだまだ皆、元気にはしゃいでいた。駅を出ると、そこからはずっとゆるやかな上りである。
富士の雄姿を前に、やわらかい春の午後の日差しの中を快適にサイクノングを楽しむ。
日本一の山は、まだ雪化粧。風も心持ち冷たいよ。富士山に見とれ、ペダルをふむのを忘れてしまいそうである。なにせ僕にとって富士山をこんな近くで見るというのは、初めての経験なのだから。
籠坂峠への最後の上りは、一日の疲れからか、たいして急でもないようなのに、ペダルが重く感じられる。久しぶりに走った人も多いようで、峠のドライブインで1休み。峠からは富士の裾野が見渡せる。
この峠を下ると、もうそこは山中湖。1泊目はそこの民宿である。一気に下った。
というよりも、引力にすがって宿までころがり込んだといったほうがいいかも。
翌日、起床の号令がかかる前にトタン屋根をたたく雨の音で目がさめた。
まだ外は明るくなっていないようだ。まだ半分寝ているのだろう、なんだ雨か、トレーニングはないなあ、などとのん気なことを考えながら、この雨の中を走らなければならないとは思いもよらずまたフトンにもぐり込んだ。
7時になっても、まだ外は黒い雲が重くのしかかり、富士の姿もすっぽり隠れたままである。
雪まじりの雨、この中を走るのかと思うと、気が沈んでしまう。
10時まで様子を見ることとなっていたが、9時には、さつきの雨がウソのように晴間がのぞいてきた。
少しばかりコースを変更して、出発。山中湖を半周して少し上ると、都留までは、ずっと下りである。道の端には、まだ雪がかたまってのこっている。それに気をつけながら、自転車を思い切りとばす。昨日とうってかわって冬に逆もどりである。
都留から少し上ったところで、フリーランとなる。道坂峠を上る道は地道で、雨の為に道はぬかるんでいた。泥にハンドルをとられて転倒しそうになるのを、やっとの思いで持ちこたえる。峠はかなり急だったが、2日目であるせいか、段々調子が出てきて、ペダルを踏む足にも力が入る。トンネルをぬけた所で小休止の後、また泥だらけの道を下る。自転車はもう泥まみれでフレームの色が何色だか判別しがたい程である。
それでも下りはいく分ましで、砂利道ではハンドルをしっかり握ってガンガン走る。走るというより飛んでるという感じだが。
それにしても、今度のランは、当日になって急にコース変更があったにもかかわらず、舗装あり、地道あり、その他色々と変化に富んだ楽しいランとなった。ユースに着くと、さっそく愛車の泥を落し化粧直しである。
ユースでは、夕食がいささか足りなかったせいか、夜の自由時間には、ユースをぬけだし買い出しへ。おかげでこの付近の店からは食い物というものはみな姿を消したようだ。
昨日にひき続き、夜のミーティングでは、一人一言をやる。残すところ、あと一日。
3日目も晴れ。相模湖までは、アップダウンの舗装道路。車も少ないので軽やかにペダルをふむ。頬をなでる風が、とてもさわやかである。日連大橋を渡って、20号線へ。相模湖駅で休憩。全員快調に到着。と思いきや1つの班だけ、いつまでたっても姿を現わさない。
どうやらどこかで道をまちがえたらしい。1時間程して駅に電話が入り、道をまちがえたので、八王子に直行するとのことなので、最後の峠である大垂水を越え八王子へ向かわんと、相模湖駅を後にする。
皆、2日間のランで、すっかり調子を取りもどし、遅れる者もなく峠を上りきった。ここは、それぞれに思い出のある峠であろう。あいにくと、かすんでいて遠くまでは見通せなかった。しばらくここで休憩して解散地の八王子駅へと向かった。3日間の春季ランの楽しかった思い出と共に。
新歓ランに参加して – 浜崎
新歓ランに参加して 第1文学部2年 浜埼
中学からサイクリングを続けている僕も、クラブランというものは今度の新歓ランが初めてだった。
そしてそこには楽しさと悲惨さが背中合せになって存在していた。
4月29日、これから3日間いっしょに走る8班は健脚ぞろいだと聞かされていたので一沫の不安を抱きつつ出発した。ペースは遅ったが前に人がいる事と、信号が赤になると止る事が(当然の事だが)単独走行に慣れ、信号無視常習犯の僕を非常に走りづらくした。
その後、柏付近を走行中にCLの先輩がメカトラを起し、ショップに立ち寄った。
するとそこに某先輩が落胆の表情を浮べ自転車に向っていた。聞くところによれば修理不可能で大出費をしたとの事だが、その時僕は思った。「悲惨だ。もう高いバーツを買うのはやめよう。」と。
しかし、悲惨さはすぐに自分の上にもふりかかってきた。朝方の快晴が一転して雨になったのだ。新歓ランのお知らせに「雨具」と書いてあったのを無視してヤッケ1つしか持っていなかったのでテントを張る頃には、ずぶ濡れになっていた。着替えたくともそれさえ持っていない。
結局水びたしのテントの中の冷たいシュラフの中で「明日は晴れてくれ!」と祈ることしかできなかった。僕にとって、これは悲惨さのハイライトであり、サイクリングの認識を改める出来事であった。
4月30日、快晴であった。眠い目をこすり、重い足をひきずりながら出発した。
この日は、峠を2つ越えたが、その1つ目の峠の登りは、何んと直登に近い感じで道が続いていた。
何度もくじけそうになり「休みましょう。」と言いそうになったが声を出すとよけい疲れそうなので
根性を振り絞り登った。
2つ目の峠は、他班と合流してフリーランで登ったが12%の急勾配の前にあっさりくじけてしまった。
この時僕は思った。「ランドナーとはこんなに重いものだったのか。」と。
どうもロードの軽さに堕落してしまったようだ。またこの時、驚くべき大発見をした。
「サイクリングは初めてだ。」と言っていた相棒のゴトー君の強さだ。12%の坂にくじけている僕の横を通りすぎ、またたく間に見えなくなってしまった。来年彼がCLをやれば新入生は地獄を味わう事になるだろうと思った。
ともあれ峠を登り切り、さあダウルヒルだと思ったら、何とそれは雨上がりの地道であることがわかった。地道の下りは初めてだし、その上流水の跡、大石ごろごろ、にちゃにちゃの土、フロントに全ての荷物を積んでいるのでハンドルが僕の意思に逆らい続け悪戦苦闘だった。
ようやく岩間という所に着いた時、集合時間に間に合うはずも無いのに「飛ばせー」の一言で水戸までロード真っ青の突走りとなった。水戸駅北口に着いたのは1時15分だった。着いた時はくじける寸前だった。
この日大洗キャンプ場で初めてWCC特製の食事にありつけた。これで本当にWCCの一員になれたのだと実感した。
5月1日、昨日に引き続き快晴であった。この日は、解散地の佐原までの単調で楽なコースだった。
霞が浦からは凄い向い風だったが、接着走行で切り抜けたのでかなり楽をした。
(と自分ではそう思っている。)
このようにして、3日間の新歓ランも終り、輪行して家に帰ったわけだが、WCCの一端を担わせてもらった非常に楽しく(あるいは悲惨で)有意義なランであったと思う。
また自分自身に対する反省もいくつかあったが、ともかくこれから続くバートラン、プレ合宿、夏合宿とくじけずに頑張ろうと思う。
最後に約2年ぶりに物置から復活し、3日間生死を伴にした愛車は、これを書いている今も、輪行袋に詰められ部屋の片隅で小じんまりとしている。
5月5日 THE END
パートランの記録 – 高橋
パートランの記録 高替だ
5月15日、その日は朝から、夜ふけまで一生けんめい両が降っていた。班長である私は6時半に目を覚ますと、とっさの判断で中止にすべく同班の島田氏に電・誌をした、しかし彼はすでに居所を出た跡がでた)だった。それではといって相模湖まで行て解診にしょうと思っていると、ばたこてつ、し、を予定していた、黒田氏をのぞく全員がとこに集まって来たというわけである。
文章の前後边你しかし、この雨で大越峠はむり血だろうということでだぎダビッ峠に行く先を変えたかったも2時間知らぬ黒田氏な、ちゃんと女ほど遅れてやって来て、ちゃんと犬越峠へ行って、とそだ、うである。10時に松模沾駅を出発3時間ぐういで峠に出たが、すべて地道でそれが川にあえぐぼじゃば流れていた。とちゅうトンネルで雨やどりたくしながらう、ベんとうちし、た。このメリの間におもしろい事があったのでここに加えてあこう。
それは、時20分ごろのことである。ここに穴があいて、
淡々とした両の登りがつづきほとんど前方々注意を払うことなく黙々と走っているとあるカーブを曲がろうとした時に,とっせん
「ボコッピ」というたん・鈍い音がした。私は最後尾を走っていたので読」接見たわけではないが、大きな石(アトルぐらいあろうか)が向こうから下ってくる車のボンネットに直接落下してめりこんだのである。くしの小林氏などはこのじょうてつぶさに因んだと誕生している車の中から見た男がとび出してきてちにやらめめいていたがコーフンして何を言っているのかわからちかった。
この事故のためそれ以降ヤビツ峠は通行止めとるり、我々のあと、反対処からこの峠にアプローチするはずの佐佐木氏らは、うすることになったの峠の下りは、うってかわって適ほ装であったが両のためにブレ(ギがきかなくてこわかった。
しんどいランでした。道もよくまちがった」。まあいいや。乱筆乱文气
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編集より:
WCCの3悪筆の一人が高橋先輩なのですが、このエッセーは、峠「13号」で、唯一活字でない印刷になっています。今回、WEB版の原稿を作成するにあたり、Google Lenseアプリを利用して、文字起こしを行っています。
日本語の印刷物であれば、高確率で正しい文字を見つけてくれるのですが、流石は高橋先輩! 21世紀のAI技術をしても正しく認識するのは困難な模様です。
でも面白いから、AIの解釈をそのまま載せます。(18期、藤原)
グタグタ山登り始末記(プレ合宿) – 後藤
グタグタ山登り始末記(プレ合宿) 理工学部2年 後藤
M氏から原稿を頼まれ、これは我が文才が認められたのかと喜んだのも束の間、氏はグタグタ人に原稿を頼んだと知りがっかりした。罪なM氏の要望にお答えして、1年生中でも最もグタグタになったことは確実という不名誉をさらけ出して、グタグタ人始末記を書いた。これにより、軟弱の声が乱れ飛び、部室にまともに顔を出せなくなるだろう。
その日は金曜日。雨よやんでちょうだいの祈りも通じず、めいっぱい雨が降る中を短パンに雨具をつけて、糀谷村のアバラ屋を上野に向かって勇ましく出発。しかし10分程のち、荷崩れをなおそうと自転車をおりたとたん、ヒクッと足がつった。
ウムムムそれでも荷崩れをなおし、「ウリャー、ウリャー」と叫んでこぎ出した。そばにいたカップルがアホを見る目つきでわしを眺めていた。しかし、そんなもんは無視して走り去った。そのうち雨も小降りになって順調に行けた。雨のため、やたらに手を上げてタクシーをつかまえる富豪が多く、目の前で止まられるため、走りにくかった。
そのうち銀座に突入。明るいライトの下の道は駐車中の車のため狭く、車も多いため危険であり、さらに、ぬれねずみになって、短パンをはいて自転車をこいでいるのはみじめに思われたので他の道に入っていったら道がわからなくなり、適当に走っていたら、うまく東京駅に出た。
また雨が強くなったが、なんとか上野駅にいた。そこには1年が3人いたので輪行を手伝ってもらい、
運がいいわいと思っていたが、これら一連のことが翌日の地獄のオーメンであったとは残念ながら気がつかなかった。
もし、足がつりっぱなしで、とんもない所へ行っていたら、もしバンクしていたら、もし、足がつりっぱなしでセンズリに至っていたら、地獄には会わず、軟弱と呼ばれずにすんだものを・・とにかく久し振りに乗った客車の良さに浸って次の日に至ったのである。
長野到着5時。輪行料を払わずに150万円得したわい、とほくそえんだのも束の間、いざ自転車を組み立てると、あんれまあ、ハンドルバーステムの先っぽにあるはずのウスがない。
ああ、喜びとも悲しみともとれる声を出して先輩に告げた。しかし幸か不幸か、先輩はウスを買ってきてくださった。この時はホントに嬉しかったのだが、ここで予想外の800万円(金、女不足の析、金額に万をつけるのを、お許し願いたい)を喪失してしまった。
とにかくしばらく休んだ後、出発。菅平へ向った。初めてのテント積載のためバランスを取りにくかった。班員は3年生3人、2年生2人、1年生3人の8人だった。
テントもちは登りになってからがたいへんなのは知っていたので、まあ、ゆっくり登っていこうと思っていた。そうこうするうちに別れ道。通りかかったバイクのオネエチャンに道を尋ねると「すごい急斜面よ」と言ったが、まあ、女性だから大げさに言っとるんだろうと思っていた。実際走っていっても、新歓等で登った程度の登りで、テントを積んでいてもこの分なら大丈夫多寡をくくっていた。途中で博学のおっさんがいて背中のWASEDAを見て笑っていた。なな、なんでや、3年生3人はトップで登ったると意気込み盛ん。余裕ありますなあ。
そしてかなり行ったと思われた頃、小休止。ここからはフリーとなった。CLのA氏が地図を開いているのを見る。しかし、よくわからない。
ここからさらにひどい勾配になるようだ。しかし、もうあと半分位で頂上だろう。
なにしろ標高差が他班と比べて小さいので幾分楽だろうと思っていたのだった。
よーし、どうせなら早く出て早く休もうとハリキッて出かけたのだが、これから本当の地獄が現出されることになるとは。
「ウーン、なかなかキッイ勾配だったが、がんばるぞう」と精力、体力ともに充実。
工事のおやじさんに「トップの差が600m位だぞ、がんばれ」と言われて、地方の人は心が暖かいなあと思ったりした。しかしすぐに地道が待っていた。ガタン、ジャリジャリジャリ、ウググ、ジャリにタイヤがすくわれる。途中また舗装になったりもしたが、ほんのわずか距離だけだ。
しかもだんだん勾配がきつくなる。「ウーン、だ、だめだ」ついに足をついてしまった。
今まで登ったこともない急勾配、そしてジャリ道。足がつかれてスピードが落ちるとすぐにジャリにタイヤがすくわれる。テントをもってるから不安定なのがそれに拍車をかけた。
タイヤがすくわれ、バランスを崩すと、倒れる。倒れるとおこすのが大変だ。
「くそったれ、テントめ」と投げ捨てたくなった。しかし状況はさらに悪化していった。
悪戦苦闘しているうち頂上まであと2kmの表示。「よーし、もうすぐだ」と、と、ところがいくら登っても頂上には着きそうもない。勾配はさらに急になり、15%は十分ありそうな感じ。
足はもうガタガタ。「ああ、やっぱりあのネエチャンの言ったことは本当だったんだ。な、なんと前後に見ゆるは道。エッ、あんなとこまであるのかあ、なんと高いことか」」
そうこうしているうち、いつしか殿をつとめている3年生のT&K氏と一緒になっていた。
さきほどまで後ろにいたS氏にも、いつの間にか抜かれて、「うわっはー、どんけつじゃ、どんけつじゃー。」
ランの前、まさかとは思っていたが本当にドンケッになってしまうとは。これからが地獄の本当の本物だった。降りて押すわけにもいかず、こいでは休み、こいでは休みという登りが続いた。
それでもはじめは、頂上に着いたらメシ食おうとか、水飲もうだとか、いろいろ考えもあったが、そのうち、こげる距離が短かくなり、大きく肩が息をつくようになり始め、頭がボーッとなり出した。
もう、この頃には思考力もなくなり、ただペダルを踏むのみだった。
もうバランスを崩して倒れても、何とも感じず、目もトローンとなりかける。
T&K氏の「がんばれ」にも答えられなくなってきた。ついに自転車を変わろうと先輩が言ったが、
それにも応じず、ただ惰性で登った。しかし頂上はまだ遠く、(あの2kmはうそっぱちだろう) 最後には、もう自転車に乗れなくなり、「押していい」といわれて押すことになった。
もう押す力さえも失なわれて来ていた。1歩1歩がとても重い。無限にこの苦痛が続くように思われた。下には谷が見える。このまま、ぶっ倒れるような気がした。不思議にも死が全くこわくなく、このまま死んでも・・という感があった。
大げさのように見えるかも知れないが、わしはホントにこの時思ったのだ。そして1歩1歩あえいでいくうち、上から「あと30mだぞ」と言われた時は、霧のため、ほとんど視界がきかなかった。
30mと言われても、もう喜ぶ力もなかった。「ああ、終わったか」そんだけだった。こんなにバテたのは中1の時以来で、活力全くなし。屋根の下に入ってもしばらくはボケーとしていた。
みなの元気な顔に比べ、我が顔はみじめだった。さすがに疲れる事に快感を覚えるわしも参りまくったが、まったく貴重な経験をしたと思う。他班より多くの金をかけて長野まで来ただけのことはある。
そこである程度休んで元気を取り戻した後、下っていった。そして菅平で昼食。
顔色がちょっと悪かったそうで、食欲もわかず、1人淋しく豚汗メシを食った。わしの状態が良くないので、テントをおろして鳥居峠にのぞむことになった。熱はないし、活力も戻ってきていたので、大丈夫だとは思ったが、不安はあった。
十分そこでストーブにあたり、鋭気を養った後、雨の中を出た。幸いにも鳥居峠は全舗装であり、前の峠より勾配がゆるく、テントもなかったので、かなり楽に登ることができた。
これで肩の荷がおりた感じだった。ここでも店の人の迷惑そうな視線をものともせずストーブにへばりついていた。
鳥居峠からは、下りで、しかもゆるやかだったおかげで、ブレーキもあまり使わず、最高の気分だった。笑う力も出て来た。「フヒ、フヒ、フヒー」
北軽井沢までは道が複雑で、CLのA氏も大変だったのだが、合宿からは1年もCLをやらされると聞き、今から不安になった。(方向音痴のわしがCLの時は十分気をつけて)
幸い暗くなる前にキャンプ場についたが、全班で1番遅かった。メシを食い、先輩のご厚意(?)でバンガローに寝た。客車では十分眠れなかったせいもあってよく眠れた。トタン屋根に当たる雨の音が、小気味良く聞えた。翌日は暮坂峠であった。
プレ合宿随想 – 桑谷
プレ合宿随想 法学部2年 桑谷
生まれて初めての夜行。喜び勇んで飛びのったはいいが、どうにも寝つけず、隣で無邪気な顔をして寝入っている某君を見、さすがは野生人、などと負け惜しみを言う。
午前4時前に小諸に着いた時には、頭が少しフラフラしていて早朝のうまい空気を満喫するどころの
話ではなかった。とにかく眠い。ところが先輩達は駅前の広場、薄明りの中で、皆、一心に自転車を組みたてている。改めて厳しいものだと思う。何か一種悲壮な感じがしてくる。神風突攻隊員が愛機を熱心に整備している姿と、どことなく似ているような・・。
小諸はいやな駅だった。第一、駅前広場からして山に向かって傾斜している。
これが気にくわない。「もしかして、ここから峠まで全部上り坂だったりして」なんて冗談をとばしているところへ「その通り。」と先輩がアッサリ一言。背筋に悪感が走った。
曇天。少し肌寒い中を8時出発。CLを務める岩城さんは不思議なほど急な上りへ、急な上りへと導びいてゆく。たちまち体じゅうが汗をかき、暑いくらいになる。
フリーランになるまでは押え気味にゆこう、という当初の胸算用は出発後わずか10分でモロくも崩れる。後はペースも何もない。
どこから、峠道に入ったのかなと思っていると、料金所らしき建物が建っている。
標高が1,000m強。いつの間にか300mほど上っていたのだ。検門所のような建物の先にブワーッと道が続いている。もちろん、実にシッカリした登り。舗装道路とは言え、バスが1台ようやく通れるほどだ。道は前途の多難を暗示するようないやーな感じだが、周囲は新緑のよく映えた森の中といった感じで、一息ついた体にはすがすがしく感じられた。
小休止の後出発。まだあと標高にして1,000m近くある、などと考えながら、ペダルをこいでいると、
しだいに余裕がなくなっていくのがわかる。再出発してから10分後、早くもハンドルにしがみつき、
惰性でペダルを踏むようになっていた。
こうなると、後から(いつブッ倒れるのかと)暖い目で見守っていて下さる先輩方の声がヤケに大きく聞こえてくる。全く、息使いが乱れてない感じ。僕も、2年、3年となればあんなに余裕をもって上れるようになるのかなあとと不思議な気になる。一方では、早くそうなりたいという渇望にも似た気が起ってくる。
この峠には、路側に標高100mごとの標識が立っていて、これが登るに際して1つの励みとなった。
こうして、この世で最も急で長い坂道(に思えた)を、苦しみ、あえぎながらも、標高1,500mの標識の前で小休止。いよいよフリーランである。
1台のバスが降りてきた。完璧にカラッポなバスの運転手が、変な目でこちらを見る。
それももっともだなと、見られる方もつくづく思う。「全く、何の因果で..。」
バスは、急な下り坂を、今にも転落しそうな感じで視界から消えた。一瞬、あのバスに乗れば..小諸の駅..東京駅急行..我家..暖いベッド。何か一生の判断を誤ったかのような錯覚に襲われた。
小雨を突いて11時ジャストにフリーラン開始。かなり寒いが、こぎ始めてからの事を考えて半袖で出る。この峠道、地図の上でも実にみごとも等高線をブッチ切っているので、出かける前から相当きついとは覚悟していたけど、フリーランになってからは、ますますつらくなってきた。もっとも坂が急になったからか、体力が残り少なくなってきたからかはよくわからなかったけど。
「フリーラン」初めて耳にした時、何となく聞こえがよく、しゃれているなと思ったが、その実体は何のことはない、要するに「競争」競争に勝つ自借はなかったが、けれども完走したかった。
走ってる(というよりはヨタヨタ動いている)間、とても苦しかった。ヘアピンカーブを曲ると、新たに見える道が絶壁のようだった。「あともう少し、あともうちょいと」という意識と「もう降りよう」という意識の2つが心の中で格闘しているうちにも、足が勝手に動いて自転車は上へ。
まるで全く別の「生き物」が腰の下でのたくっている感じ。しかし、かなり時間がたってくると、
こうした意識も頭に浮かばなくなり、ただただ惰性でペダルに体重をかけるようになってくる。
もうただ「こいでいる」だけ。頭カラッポ。思うに、人間の脳も体と同じように萎えるらしい。
自転車がヨロケて転びそうになっても、「ああ、ヨロケたか。」と実に冷静な判断を下せるようになる。峠に着いた時の状態は、正にこの通りだった。
峠の上は、かなりの雨だった。が、ぬれねずみも全く気にかからない。自転車を小屋の屋根下に
置いてから、おもむろに一服つける。とてもうまかった。足も疲れのせいで痛いくらいだったけど
気分は最高。登り終った後はいつもいいものだ。
77年度夏期合宿報告A班 – 松下
77年度夏期合宿報告A班 2年商学部 松下
<プログラム>
失神するかと思った夏油温泉の地道の登りも、部室ではせいぜい笑いの種くらいになり下がっています。そして、あれ程素晴らしかった日本海の夕暮も、たまに写真を整理する時くらいしか話題に上りません。
でもここに、77年度東北合宿で我々が得た断片的な記憶を鮮明な想い出として、もう1度結びつける意味でも、合宿の内容を書き続けて行こうと思います。記録のソースは合宿中に私がつけておいた日記からです。
7月28日
八甲田山込み
今顧るに、精鋭A隊の合宿全道程のハード加減をもってすれば八甲田ごときの登りはジャブである、とは我クラブの某4年長老の言である。しかしながら老化の一途をたどる2班3年以上の長老諸氏、プライベートで余り走っていなかった鈴木Bが若手ばて気味であった。
総じて八甲田登りはA隊々員にとってはほんの足ならし程度?であったととるのが妥当な線であろう。
後は省略、あっさりと、あっさりと..。
7月29日
追良瀬川を遡って十和田湖へ
ここは笠松峠頂上、標高は1,040m。日差しは確かに夏のものではあるがフロントホークを切る風は
快く乾燥し冷気さえ滞びている。空は澄み渡りむしろほの暗い程だ。ボトルに詰めた水がうまい。
やがて追良瀬渓流に続くダウンヒルにはいる。アウトインアウトを繰り返えしスピードに我を忘れかける。気圧差で鼓膜が張り内耳と外耳の連絡が効かなくなるせいだろうか。顔面にぶつかる空気で涙が出る。こういうダウンヒルは初めてだ。
渓流を登りつめるとそこは十和田湖。追良瀬と対照的な平面的な拡がりの閑かさが印象的だ。
湖面の波やや高し。11時半には湖畔のキャンプ場に着く。十和田湖で水泳を楽しむ。
某2年生は冗談抜きで溺れそうになる。彼を助けたのは他ならぬ小生。
7月30日
鳴呼、八幡平に人倒れ・・・
この日は朝っぱらからしこたま登らされた。発荷峠までの標高差は250mだが、A隊はこの後850mも登らねばならん。ゲー!全部で1,100mじゃ。
B・C隊の阿呆1年は「お前らが羨ましいぜ。俺達もその位登ってみたいぜ。アハハー。」などとほえていたが我々A隊の1年面々の顔は不安と緊張のためにヒク、ヒクと引きつっていた。
そんな緊張をぶっ突ばすかの様に、分かれ道の所でおなじみのレパートリーの歌が声高らかに大合唱され、それを気付けにA隊はBC隊から分かれて奈落の底へとひたすら落ちて行ったのだった。
八幡平アスピーテラインは辛かった。昼過ぎから、いつ終るとも知れぬタラタラ登りを這って行く。
このタラタラ登りという奴はイヤミ極まりなく先の先まで見えるのだ。息はたえだえ、顔面真赤。
汗は額から顎、顎からダウンチューブにしたたり落ち、後を見ると道側がメンバー達の汗で1本の直線を描いていた。勾配はさらに辛くなる。だが丁度、疲れがどうしようもなくなった時にうまい具合にチェーンがはずれて助かること数度。
「先輩ー。メカトラです。ハアハア、ギヤーがはずれました。ゲゲー。」
「よしよし、よくはずれてくれたのう。まアゆっくり直せや。ゼエ、ゼエ・・・。」
この日のメカトラは小生に限らなかった。神保の地雷を踏んだかのようなバーストや芥川さんのスポーク折れなど。この時から、ひとりひと言のスパースター穂刈さんとインキンの芥川さんの全く意味無しスポーク折り競争に1段と熾烈さが加わり始めた。
企画局ではA隊はタイムテーブル通りにキャンプ場へは着けず、かなりおくれるだろうと予測しておられたようだが、選りし精鋭のA隊?は見事時間通りに大沼入りを果たしたのであった。
7月31日
つかの間の天国
今日は朝から雲ひとつない超快晴だった。大沼は真に紺碧の空と呼べるであろう、その空色を湖水一面に受けて周囲の水生植物の群生の深緑とよく調和していた。
やはり朝1番から登り始め八幡平の最高点に着いたのは11時前だった。そこにはキンキンに冷えた清水が湧き出ていたので皆で飲んだ。
後は田沢湖まで約50kmダウンヒルのみであった。小生の班の人達はダウンヒルのテクニックの巧者ばかりなのでかなり飛ばして落ちて行った。小生もそのペースに合わせるべく弾丸の如く落ちて行こうと努めたが、あいにくとこの日は転倒することもなかった。
3時50分に田沢湖に着き、皆カイパンになり水泳を楽しんだ。中には一物を日光にさらけ出しインキンを直そうと必死にセコセコやっていた哀れな人もいたとのことである。
夜は食当松村君得意のヲンパターンデザートのひとつ、ドドメ色がんもあえドリンコがうまかった。
7時を回った頃、得体の知れぬ4ツ足がテントの横を走り去った。あれは、キッネかワン公か、はたまたマササビか?
8月1日
田沢湖 – 国見峠 – 盛岡
この日は国見峠(別名仙岩峠)の印象が1番強かった。登りが辛ければ印象も強くなるのは当たり前だろうか。
何故じゃ。他の隊は新道を通って田沢湖へ行ったのに。全体CLのSM趣味にはついて行けんわ。鈴木Bは言っていた、
「男である以上、遠い昔まだ我々がオタマジャクシだった頃の様にトンネルの方へ進むのが道理、男の道じゃ。」
CLの鈴木B君、見事な自己弁護です。
フリーランのスタート地点までの勾配がきつい、きつい。冗談抜きで15~18%が続いた。
あまりの辛さに耐えかねて我班くしの奥山氏は100mばかりスタート地点を低くしたのであった。御英断の一言。
合宿に入ってからの1回目のフリーランはかくして始まった。幸いにも上に行けば行く程、勾配は楽になった。しばらくするとアウターしばりの石橋さんが般若の様な顔を尚、一層、般若の様に引きつらせガンガン登って来る。その石橋さんを風よけにしてラビット布施田さんがスイスイ走り寄って来る。そして御両人は一陣の風となって小生の横をビューンとばかり走り抜けて行った。
「そんなら小生も。」とギヤを御両人と同じ48×18にぶち込みついて行った。布施田さんは何とかつかまえたものの、石橋さんはもう200m手前のコーナーを廻っている。
結局、根性レスの小生は布施田さんに再び追い抜かれ、そのまま頂上へ。それにしても神保は速いのう。幼稚園児みたいな顔なのに脚はメルクスみたいだのう。俺もタバコを止めりゃ、ああなるのかのう。だがタバコがなかったら1人身の俺を慰めてくれる物は無くなっちまうしなア・・などとジメジメ考えながら頂上に着く。
峠の頂上では石橋さんがように叫んでいた。「ちきしょう。神保め。今度のフリーランではぶっちぎって不能者にしたるわい。」その日から何を勘違いしたか神保はタイツの下に前張りを付け始めたとか。
おきまりの記念写真大撮映会が幕を閉じた後、松村は常にあらぬ親切をよそおって小生に水をくれた。
カポカポ飲んだ後、彼はポッリ一言。「実はなあ。その水、そこの沼の便所の横の水じゃ。」小生ガビーン。ゲボー。後日、松村は打上げコンパでバチが当たることになる。
後はダウンヒルと平地だけだった。途中、飛行機が落ちた雫石、岩手飯岡で休みを入れる。3時過ぎ、煙山キャンプ場に着く。盛岡はむし暑かった。
8月2日
国道サウナ風呂
この日は休息日ということになっていた。パンフには距離87.5Km、標高差0とあった。
金沢さんは半泣きになって叫んでいた。「ナ何が休息日じゃ。ワシャもう死ぬ。」
小生も午前中だけでもう、全身汗ぐっしょり、首すじジトジト、両腕は意思とは別に勝手に塩吹きショーを始めていた。
橋本の真赤な顔と銀ブチ眼鏡の奥の死んだマグロのような眼が印象的だった。
そんな彼でも昼飯を食った金ヶ崎の駅では元気で、小生は彼と話をしているうちいつしか昼寝をしてしまった。あまり触れたくない事だが、小生はこの日、CLという大役をつかさどっていた。
幸いコースは国道4号の1本道で違わずに済んだが、もしミスコースしていたらチョウチョになって空を飛んだことだろう。しかし1本道と言ってなめてはならぬ。国4は路肩の舗装状態が悪く大型トラックもめいっぱい走っている。おまけに横道から車がピンピン顔を出す。
班長の高田A太郎さんの御声が何よりの救いでした。後方から接近して来るトラックの類には仲々神経が行き届かぬ1年CLにとっては、「車」という後からの声は本当に助かるものでございました。
平泉金鶏山キャンプ場に着いた後、1年有志で近くの茶店にシケ込んだ。20分も居なかったが、あの時の珈琲の味は我々が忘れかけていた文明の味覚でもあった。
8月3、4日
思い出したくない昇天夏油ラン
とうとう夏油温泉で死に目に合った8月3、4日の記録をせねばならない。地獄に変わりないから3、4日をまとめて書くことにする。パッフの文面を信じる小生達は別にさほど辛いコースではないと読んでいた事実、
「どうって事無いよ。楽ショウ、ラク勝。」
という御声が朝から有った。それに加えて、パンフには「頂上には『天狗の湯舟』と呼ばれる湯留まりがある」と書いてあった。その道に詳しい先輩達はこう言っていた、
「温泉につかりながら天狗ショーを見れるとはいいねェ。」
余談ではあるが、A隊の2年生は後の「川崎の4人組」(イスタンブール巡礼遊び)のメンバー全てが整っていたのは興味深い事実である。これはさらに後々の事になるが、Kさんは「川崎」の勢い余って、本場ヨーロッパにまで高飛し、ハンブルグ、アムステルダムで貴重な円を多量に捨てて来たとか。
夏油にはいる前の昼食の時、4, 50の原住民の男が小生等に話しかけて来た。彼の言葉は翻訳して書くことにする。
「あんた達、どこまで行くのかい?」
「夏油温泉までです」
「あんた達、えっ、自転車で。それゃ無理と言う物だよ。あんた達、気違いだね。」
皆、東北の人は大袈裟だなア、くらい思って、小生もたかをくくっていた。ところが原住民さんが発した言葉は当たっていた。夏油の地道は小生がそれまで走ったどの地道よりも地獄度ははるかに凌駕していた。スイカ位の石が不規則にころがり、道を選ぼうにも駆動方向とフロントホイールが一致しないのでハンドルを切ると失速して転倒してしまう。止まると、走り出すのにまた一苦労。轍の移動は不可能、かと言って直進すれば石と石の間にホイールがはさがってはぶっ倒れる。
おまけにこの日は太陽がドドメ色に容赦なく照りつけ、体はかっかっと熱くなる。
こういう悪循環で体はガクガク、愛車はまるで言うことを聞かなかった。
この夏油温泉に至る地道のラップヒルには皆、苦しみ抜きながらもただひたすらにクランクを廻し続け、猫の額程のキャンプ場に着いた時にはもう皆、黙って地べたに座り込むだけだった。
余りの疲労に小生は飯を食う元気も消え失せ、テントの中でシュラフのチャックを上げた10秒後には、死んだ泥の様に眠っていた。夢の中で小生は微睡んでいた、
「男のロマンもへったくりも無い・・ただ苦しいだけや。何の心の支えも小生には無いくせにようやるわ。それにしても温泉は気持ち良かったなあ・・。」
ふと、隣のテントからある1年が寝ぼけて声を発した、「セ、先輩・・・。が僕もう、やめます。走れません・・・。」
さあ、夜が明けました。今日は登りは余りない。ダウンばかりだぜ。と、思いきや午前中はまた地獄の登り、午後は地獄の下りだった。この日の事は、皆忘れる事がないでしょう。
余りの地道のすごさに、左右1対の腎臓が定位置からはずれ上下に動いているのが分かる程だった。小生の神金パイプキャリアが物の見事に折れたのはこのダウンヒルの時でした。
その日のメカトラは、合宿中最高だった。メンバーの人割がメカトラをやった。
トークリップ破損1、パンク2、スポーク折れ3、キャリア破損3、ビスナット類飛び3、テンカウントを開いた者2名。
夏温を出てからはコースは楽になったが、予定をはるかにオーバーして横手に着いた。
途中、買い食いの際の御菓子屋さんでスイカをいただき、我々の写真は現地きっての有力紙「岩手日報」に掲ることになった。菓子屋のオヤジさんが、どういう訳かそこの記者だったのだ。
横手で、OBの石沢さんと4年の深津さんが合流され、差し入れとしてまたスイカの御馳走にありつく。
天の助けか。この日の夕飯は大幅に遅れたが、食当松村が例によって腕を振るい、ジンギスカン風犬飯がうまかった。
8月5日
横手 – 本庄 – 象潟
さすがの精鋭達の面々も疲労の色は隠し切れず朝は6時起床、1時間記床時刻を延ばした。
この日くらいからであったろうか、「わいらは毎日がハイライトじゃおまへんか。」の声がこだまし始めたのは、明日はいよいよ鳥海山アタック、ハイライト本番である。
「一日以来、ハイライト級のランばかりじゃノで、明日が本当のハイライトだぞ。わしら、どうなるんじゃ。」と走死派4人組の2年生の御面々は途方に暮れていた。
この日もメカトラが続出した。極めつきのコースばかりで自転車もいかれてきたためだろうか。
バーストのため我々2班が1時間以上遅れて象潟へ入いる。その間、逆風を突いてのアップダウンコースのファーストランはとても気持ちが良いものであった。
夜、我々1年は先輩の取りほからいでA隊割合て中最高テント、Eテンで寝させてもらった。
感謝の一言。だが夜の3時頃まで外でロックをガンガンかけて騒ぎ回っているツッパリ野郎がいて余り皆寝られなかった様である。ある1年がたまりかねて外へ出たらナイフで威嚇されたとのことだった。小生の横に寝ていた1年がポツリと言った、「内村さんが居てくれたらなあ。」
8月6日
本番/鳥海山ブルーライン
ここは鳥海山。今日が待ちに待ったA隊のハイライトだ。
上を迎げば鳥海山はガスッていてその頂きはミルク色の霧に包まれている。ただブルーラインがヘアピンカーブを続けながら天に消えてゆくのだけが目にはいり、しばし絶望とも諦観ともつかぬ異様な空気が皆の間に流れる。
前を登る班員のユニホームがブルーラインの真白に映えるガードと美しいコントラストを作る。
しかし頭を上げ前方を見揚げると、汗が目に入いり痛い。ドロップバーを握り、ひたすらクランクを廻す。勾配10%以上、R=300mの標識が続く。苦痛はふくらはぎに始まり、腰に来て、さらに肺に来る。
3年生が後方でどなる。「多少の体の不調は何のそのだ!気合いが入っておれば走れるぞ!」
どなり声を聞くと不思議と脚にも力がはいる。「WASEDA、FIGHT!」「OH!」のコールが響く。
コールを続けていると疲労が声になって大気の中に消えてゆくのか、とふと思った。
5時方向を振り向けば、ガスの流れの間に、日本海の青が目にしみる。遙か沖合には飛島が浮かんでいる。小生は何故か浪人時代読んだとある本の一節を憶い出した。
カミュの「太陽の讃歌」であったろうか。カミュの青年時代の自伝的日記だと思った。
『今、僕に出来ることは何だろうか – そう、大気の奥底に潜むこの密やかな情熱になることだ』。
小生は、ここに来て初めてカミュのこの短いセンテンスが分かった様な気がして、うれしくなった。
さて、3合目位からはフリーランだ。松村、鈴木B、橋本、神保、それに小生の1年5人が続々にスタートする。テントが重い。腰が砕けそうに痛む。1年仲間も必死の形相で駆け揚がって行く。
前を走る神保の荒い息とタイヤ、チェーンのノイズが伝わって来る。しばらくすると芥川さん、大畑さんが追い縋って来た。口を半ば開き、見事な迫力だ。小生の横をかすめ去った時、芥川さんの体臭が風に乗って伝わって来た。「松下!ファイト!」と叫んで、ガンガン登って行ってしまった。
頂上。ヤッケを着込んでも尚、寒感は有る。風に吹かれて顔にぶつかるガスが気持ち良い。次々とメンバーが頂上に着く。皆、すごくいい顔をしている。荒い息と紅潮した顔、はずむ話。皆、満足そうに飯を腹に入れながら苦しかった登りのデッドヒートの話に花を咲かせる。コーヒーと安タバコの煙がおいしい。ハイライト鳥海山を征服した満足感と安堵は、そのまま爽快なダウンヒルを一層快い走りにしてくれた。ヘアピンカーブで視界に飛び込む傾斜した日本海の水平線は、真にダウンヒルの醍醐味を味わわせてくれた。
橋本君はクラブでただひとりブルーラインを両側から極めた人間となり、一人一言でも感慨深げであった。
実感としては、ハイライトはあっと言う間に終ってしまったというのが皆の一致した心持ちであった。
8月7日
平田 – 最上川 – 尾花沢合流
昨日のハイライト鳥海山の余韻を残してか、心無しか朝から軽快なペースでコースを走る。
話には聞いていたものの最上川の渓谷は真夏の緑と深いブルーが見事に調和して素晴らしかった。そのせいが川を逆行するアップヒルも余り苦しくない。
1時に尾花沢着。今日はメカトラが1件もない。約1時間後には他の隊に先んじて徳良湖キャンプ場に入いる。湖水はきたなくて泳げない、残念。しばらくすると懐しいB隊の御面々も尚一層逞しく陽焼けした顔をほころばせながら駄天走でキャンプ場にどっと追し寄せて来た。
夕食の久々に大きくふくらんだ円陣の1人になった時、改めてWCCの大人数を実感しながらも独り、「もう仙台はすぐそこだなあ。」とほくそえみながら、みそ汁を口に流し込んだ。
皆が一拠に集まって元気が出たのか、釜の飯はすぐ無くなってしまった。
その後の学年別ミーティングでは、1年生会の常にあらぬ珍しいパターンで終始、真摯な議論が展開された。
8月8日以降のランの記録はBC隊と重復するから、又紙面割愛のためにも省略させていただく。
8月9日午後8時以降
仙台入城と打ち揚げコンパ、及びコンパの後の背徳行為の一部始終
この副題を見て、ある先輩達とある1年(単数)は一瞬ドキッとしたことであろう。
仙台駅の前で声も張り裂けんばかりの、WCC合唱団によるワンパターン大々合唱の狂宴が終り、いよいよコンパ会場、竹中旅館へ。去年北海道合宿の打ち揚げコンパで生き恥をさらしたKさんの例に見るが如く、一抹の不安はあったものの、旅館へ向かう足取りは軽やかだった。
さて、最後のミーティングもしんみりと終りビールが回されコンパが始まった。
和気藹々とした酒の宴だった。そこでの教訓 – 酒を飲んでも足は切るな、切ったら何処へも行かれない – 。
さて、コンパも無事終り皆は顔を赤らめて千鳥足で仙台の夜の街に消えて行きます。
3年Nさん、2年のIさん、Mさん、Oさんは元気よくイスタンブール巡礼へと旅出ちました。
1年のHは金もないのに先輩の腰ギンチャクとなってパルコに行ったと言います。
それもユニホームを着たままで。何という背徳でしょうか。N、I、M、0の各氏に関しても4月号の
フロントバッグの先輩紹介は真実そのままだったと言う訳でした。
否々、酒の勢いという事でー」。
<エピローグ>
地図と手記をひもときながら、この記録を書いていると小生の脳裡には合宿全過程の記憶が鮮明に甦って来る。
人間の記憶のメカは面白い物で、苦しかったことも時が経っつとあたかも楽しかったことのように感ぜられる。だからこのクラブはやって行けるのか?とにかく今年の夏小生にとっても過去数年間に無い躍動の夏であった。改めてサイクリングを始めてよかったと素朴ではあるが確かな心持ちで居る。これからも走り続けよう。
夏季合宿報告 B班 – 遠藤
夏季合宿報告 B班 六班1年 遠藤
東北地方は前の年とはうって変って激しい暑さに見舞われていた。その暑さの中でWCC最大の行事、
夏合宿は始まろうとしていた。12日間という長い間のキャンピングは自分達に何をもたらすのだろうか。期待と不安の入り混じる中、7月28日、青森にて夏合宿の火蓋は切られた。
7月28日
午前8時、曇り空の下、青森駅に色とりどりの自転車にまたがり、黄色いユニフォームを身にまとった
WCCのメンバー、50数名が集結した。ほとんどの者が数日前からプライベートランをしていたが、
前夜青森駅前の芝生の上で眠った者にはアルコールが抜け切れない面持ちの者もいた。
ねぶた祭りの準備に忙しい駅前でテント、ナベなどの荷物を積み終えた時には、出発時刻が間近に迫っていた。主将吉川さんのリードで「都の西北」を歌う。そして10時、歌声の余韻が残る青森駅をあとに
9つの班に分かれ、八甲田を目指して出発した。
車の多い青森市街を抜けると道はいよいよ登りとなる。運悪くこの頃より雲間から太陽が現われ、強烈な日差が背中を刺す。全身から流れる汗は舗装の上に点々と落ちていった。そして時折すれ違う大型バスが起こす風が唯一の涼しさであった。
標高500mを超える萱野茶屋で約1時間の昼食と休息。ここを過ぎると道は八甲田山の西側の山腹を
巻くようにして高度をかせぐ。最初高原状だった風景からやがて林の中を抜けるようになって、しばらく登るとこの日のキャンプ地、酸ヶ湯に到着した。
温泉地に泊まるからには風呂に入らねばとテントを張った後、連れ立って浴場へ。
混浴というので淡い期待を抱いていたが、やはり女性は皆無であった。
夕食はカレーライス。自分達に多く残しておきたかったが、先輩方のあの厳しい視線の
前ではつい先輩を優先してしまうのでした。
夕食が終わる頃、あたりはすでに暗くなり、涼しささえ感じられる中ミーティングが行なわれ、
予定通りに9時就寝。
7月29日
5時にあの「起床!」の声。そしてすぐトレーニング。しかしトレマネになる人はなぜ朝からあれ程元気があるのでしょう。朝食は例によって御飯、みそ汁とサバ缶詰め。味も何もわからぬまま、朝食を終える。
この日のコースは八甲田山をあとにして、焼山まで下り、そこから奥入瀬川に沿って走り十和田湖に至る下りばかりの道で、豪快なダウンヒルを期待せずにはいられなかった。
キャンプ場から150mの登りで笠松峠。小休止後、視界いっぱいに広がる、八甲田山々頂から続くなだらかな斜面に延びる道へ次々とスタートし、点となり、視界から消えて行った。
僕はCLの井上さんに続きスタート。しかし目の前にはいつの間にか国鉄バスが立ちはだかっていた。
抜こうとするも近寄れば排ガスを浴びせ邪魔をする。停車した隙にやっとの思いでこれを抜くが、井上さんは、はるか前方に見失なってしまう。ペースを上げて下っていく道が正面と右に分かれている。
曲がった事の嫌いな僕としては右へ向かうセンターラインを無視し、正面の道を選んだ。さらに下ると突然、目の前に黄色ユニフォームが現われた。が、それは前を走っているはずの井上さんではなかった。結局、僕の走った道は、まだ地図にも載っていない新道とかで、その頃井上さん達は旧道を必死で僕達を捜していたのでした。
なんとか6班全員焼山に集まった後、十和田湖への道を急ぐ。奥入瀬川は道路のすぐ脇を流れ、走りながらも渓谷美を堪能できた。
途中、銚子大滝で小休止を取り11時前には十和田湖畔の子ノ口に到着。昼食の予定を変更して発荷まで走る事になった。発荷までの湖を半周するコースは楽勝との大方の予想を裏切り、道が湖岸から離れたと思うと突然、急な登りが出現した。空腹のため萎えてしまった足をごまかしながら登ると、脚下に大きな十和田湖を見下す瞰湖台であった。
12時過ぎに発荷の生出キャンプ場に到着。ここで例の朝食の残り飯の昼食。今考えるとよくあんなものが食えたと思うが、確かにその時はうまかった。
3時まで自由時間。湖で泳いだ者もいた。夕食はハヤシライス。しかし山奥の事、ハヤシライスの素がない。仕方なくカレーにソースを混ぜたものを食べる羽目になるが、食当の腕は確かであった。
7月30日
予定通り8時に生出キャンプ場を出るとすぐ発荷峠の登り。250mの標高差を、まだよく目覚めていない体で喘ぎながらも「ワセダー、ファイト」「オー」の叫びで登り切った。
展望台で写真撮影。雄大な十和田湖がバックになるはずが霧のため、どこの写真かわからなくなる。
1時間の下りで中滝着。八幡平、田沢湖へ向かうA隊を「紺碧の空」で送る。これで少しは人目を引かずに走れるようになるだろう。
中滝を出ると単調な道が続く。しかしこのコースも我が6班班長Kさんには違っていた。
1時間も走った頃、道路脇の家から大きな犬が最後尾を走っていたKさんに飛びかかり、噛みつこうとしたので驚いたKさんは必死の形相で犬をぶっちぎったのでありました。
Kさんが最も力走したのはこの時かも知れません。そしてしばらくすると今度はチューブの空気漏れ。Kさんには全くツイていないコースでした。
三戸駅で昼食。ひさびさのテレビは忘れかけていた文明の恩恵に触れた思いがした。
昼食後、交通量の多い道を八戸へ向かう。やがて懐しい海の香りがして来た。
陸奥湊で買い出し後、種差にあるキャンプ場へ。このキャンプ場は国鉄八戸線と海岸の間の緩やかな丘の上にあった。が、その日は運悪く土曜日。近県から集まった人達のテントでキャンプ場は埋まり、
もはやテントを張る場所もない様に思われた。しかしわずかな隙間を見つけては、やっとの思いで
テントを張り食事の準備に取りかかった。
夕食後のミーティングでは楽だったという感想が多かった。平常ではミーティング後は静かに眠るものである。しかしこの日は広場ではフォークダンス。テントの周りではギターを奏くなど、とてもそんな雰囲気ではない。そこで適応力の強いWCCのメンバーのこと、フォークダンスに紛れ込み充分楽しんだ者もいたような。ともあれ9時にはテントに戻り、周りのざわめきを気にしながらも眠りについた。しかし夜の騒ぎは終ったわけではなかった。
頭の上で突然ギターをかき鳴らす音で目が覚める。見るとすぐ隣りのテントで真夜中の弾き語りが
始まったのだった。そこで心優しきWCCのメンバーは文句も言わずにテントを抜け出しファイヤーストームの燃えかすの周りに集まり岩崎宏美などを歌い出した。僕がそこで眠ろうとすると「火に投げ込むぞ!」という先輩の声。地獄の1夜だった。
7月31日
この日から4日間は陸中海岸沿いの道を走る。晴天無風で寝不足のためか皆だるそうな感じである。
国道45号線に入るとやがて、左手に太平洋が見え隠れする。海面は強い夏の日差を受け青く輝き、重い自転車など捨て、泳ぎたいという欲求はつのるばかりだった。
いくつかのアップダウンを繰り返した後、久慈で昼食。そして唯一つ峠の名が付いている野田峠に挑む。が、知らぬ間に峠に着いてしまうという感じで、全員がこの日は楽勝コースだと思い込んだらしく
普代に着いた時はキャンプ場が目の前だという安緒感が漂よっていた。
しかしさすがはWCCの夏合宿。それ程楽なものではなかった。普代の市街を抜けると北部陸中海岸有料道路のゲートに着いた。料金所の人の「自転車では登れないよ」という言葉にドキリとしながらも我々に走れない道はないとばかり急勾配に挑む。
結局10数%の勾配のその道が、本日のハイライトだった。しかし展望から見た脚下に落ち込んだ岩に砕ける波とその先に広がる太平洋は、それまでの疲れを一瞬にして忘れさせてくれた。
夕食はスキヤキ風煮、いやスキヤキ汁。ミーティングには紅茶と4年生からプレゼントのスイカ。ここで4年生を尊敬し直したのだった。
8月1日
この日は予定を変更して有料道路を走る。例のアップダウンではあったが、海に沿った風景の
良い道なので陸中の海岸美をゆっくり楽しむ事が出来た。
有料道路は平井賀までで、ここからは地道の登り。CLの僕はペースを取るのに苦労する。
どうにか10時30分小本着。ここで早坂峠を経て盛岡、田沢湖へ向かうC隊と別れる。
これからまたアップダウンの繰り返しのB隊には、苦しい峠越えも幾分羨ましい。
相変わらずのコースを走り12時20分、田老に着く。
ここで清水さんが帰られるのでフレームのいかれた深井さんの自転車と取り換え、「紺碧の空」と胴上げで見送る。
田老からキャンプ場の沼の浜までは地図によれば目と鼻の先だったが、前日のキャンプ場の手前の急勾配の記憶も新しいので覚悟して走り出す。案の定、12%から15%までの勾配の標識が顔を揃え、
我々の期待に充分応えてくれた。
このキャンプ場は正面を海、背後を山に囲まれ、逃げようとする者はキッい坂を登らねばならないため、蟻地獄キャンプ場と命名されたのだった。しかしこの日は2時過ぎにキャンプ場に着いたため、元気のいい数人が泳ぐ。女性の水着を眺め、やはり男より女がいいと再認識する。
8月2日
そろそろみんなの朝の動きが鈍くなってくる。この日のコースもまたまたアップダウン。
宮古で少しミスがあったがまず順調に山田に着く。ここで宮古の駅から追いかけて来たという、途中参加の武藤さんと岡野さんが加わる。B隊一同、自分達があの武藤さんより色が黒くなっている事に驚く。
大槌を経て根浜のキャンプ場へは2時半に着いたが、このキャンプ場の手前には珍らしく坂がなかった。
夕食は豚肉のビーフシチュー。ミーティングには4年生からのメロンと岸野君特製のヨーグルトらしきものでハイライト前の食卓は飾られた。
しかしハイライトの前夜という事で緊張していた者もいたらしく、あるテントの中では、代々語り継がれるであろう、かのキッブ事件が起ころうとしていた。
8月3日
午前2時半、周りのテントでは皆、寝静まった頃、あるテントの中で起ったキップ事件の模様を3年のAさん、1年のB君(本人の名誉の為、匿者とした)の会話を脚本風に再現してみる事にする。
Aさん、Bに接近していたので寝返りをうってB君に尻を向ける。この頃B君は、夢の中で東京行きのキップを買ったが失くしてしまい探しまわっていた。
Aさんは自分の尻のあたりに何かまさぐっている手の様なものを感じたので目をあけると、目の前にB君が座っていた。
Aさん「何してるんだ?」
B君はまだ目が覚めず「キップを探しているんです」
Aさんはてっきりどこかの入場券でも探していると思い、
「そうか、よく探せよ」そして2人共、すぐ何事もなかったかのように眠りについたのだった。
朝、目が覚めて夜の出来事を思い出したAさんによりこの事実が公けのものとなったのだった。
そしてB君はこの事件を機にまた1歩WCCのスターに近づいたのでありました。
さて笑いもさめ切れぬうちにスタート。この日だけで6つの峠が地図に記されている。
そしてその標高差の合計は1,500mに達する。しかし最高点でも標高400mを超える所のない、いわば数日前からのアップダウンの繰り返しである。
恋っ峠を事もなく過ぎると、また短い登りがあり、トンネルとなった。ナトリウム燈が備えられていたが出入りする時はなかなか目がなじまない。
釜石を過ぎて小さなアップダウンの後、石塚トンネル。そして小白浜で小休止後、今度は鍬台トンネル。峠のうちいくつかはトンネルが掘られていたが、このトンネルは照明がなく自転車のライトで照らされた白線を見失なわないようにするのが精一杯の恐怖のトンネルで、よく全員無事で抜けられたと肩をなでおろした。
その後、三陸町を抜け、本日の最高地点、大峠に挑む。が手前の休息地で2本目のアイスを当てた井上さんだが食べる間もなくスタート。CLだった井上さん、時々スパートして登る。
後で聞くとスパートして引き離してアイスを食べていたという。
峠を越え、下りで4班でメカトラがあったが他は順調に盛駅に着き昼食。薄葉君は洗濯までしていた。そして峠と名の付くものでは最後の通岡峠を越え、陸前高田を過ぎ、只越についたのは3時に近かった。
ここで福崎さんが帰られるので「紺碧の空」を歌い、一所懸命遠慮する本人に構わず高く胴上げして見送った。
只越からしばらく走った唐桑の宿という所で買い出しの後、御崎キャンプ場へ向かう。
本日のコースもキャンプ場の手前までしつこくアップダウンが続いていた。
8月4日
長かった陸中海岸との付き合いも本日で終りである。御崎を出発し、数多くのアップダウンの最後である石割峠を過ぎると気仙沼市に入り、ここで小休止の後、一関へ向かう。それまでのアップダウンとは
うって変わった変化の少ない、みちのくの田園の中を走った。
予定より早いペースで進んだので昼食を千厩から川崎へ変更したが、暑さのため皆少々疲れている様子。川崎からは北上川に沿って走り一関に至り、国道4号線を経て平泉のキャンプ場へは2時前に着いた。
当初の計画では翌日は栗駒山地の一角、駒の湯を目指して地道を600m登り、その次の日には同じ道を下った後、三本木へ向かうはずだった。
しかし、この件について執行部の間では以前から駒の湯での1泊を取りやめ、ここ平泉に連泊しようという意見があり、討論が繰り返されて来た。
やがて出された結論は、平泉に連泊するという事だった。陸中海岸のあたりから暑さのためダレていた者には救いであった。
連泊と決まると急に気が楽になる。その上、近くの温泉旅館の風呂に入れる事になり、久し振りの畳の上で「天国じゃ!」「こんな事していいんだろうか」という声がおこっていた。その後、班ごとの自由行動となり、喫茶店へ行くなど予想外の自由時間を満喫した。
8月5日
1時間遅い6時起床。特別キッいトレーニングの後、朝食。そしてじっくりと愛車の整備を行う。
8時35分キャンプ場出発。昨日は比較的楽なコースだったが、本日はもっと楽なコース。
30分程走ると達谷窟、毘沙門堂。見物の後、さらに少し走ると厳美渓。
皆、童心に返り、河原において水と戯むれた。中でもあのキップ事件の某君は岩を伝って対岸に渡り、ワンマンショーを操り広げた。そして最後には岩からすべって腰まで水につかるという演出も忘れはしなかった。
11時に一関着。そして班別行動。我が6班は七夕で賑う一関市内で昼食をとり、喫茶店に寄った後、平泉へ向かい大金400円を払い中尊寺に入る。とにかく大きいのでただ歩き回るだけで時間が過ぎた感じ。
3時に平泉駅に集合。そこに佐々木さんと神塚さんのコンビは中尊寺の3度笠スタイルで登場。注目を集めていた。この日も風呂に入り、心地良い日が続いた。しかし連泊については、これから考えなければならない問題であろう。
8月6日
駒の湯へのコースが取り止めになったため本日も全く楽なコースとなってしまった。
平泉から宮城県の3本木まで国道4号線を南下するコースである。
キャンプ場を早めの7時45分に出発し、一関を経て金成町で小休止。やはり悪名高い4号線。
道幅が狭いのに大型車が多い。誰もトラックに引っかからなかったのが不思議な位である。
高清水で2度目の小休止後、何と11時37分には三本木に到着してしまった。
河原をキャンプ地として提供してくださる役場へお礼を済ませた後、2時まで自由時間。
昼食を取って雑談などして暇をつぶしているうちに2時になった。が、集合してテントを張ってしまうと
何もやる事がなくなったので再び自由時間である。数日前までは考えも及ばなかった事だがとにかく暇をもて余してしまった。
夕方、加藤さんの親戚の方から、ササニシキ、トウモロコシ、スイカなどなど差し入れがあった。炊事担当の者は、それで食事のしたくにかかったが他の者はやはり暇であった。
これ程暇になると人間は単純な事を始める習性があるのかもしれない。中には河原の砂を掘り、落とし穴をつくった者もいた。そしてその犠牲者第1号はH君だった。彼は落ちた後、穴を埋めようとはしないで次に来た者を落とし入れよう、としてせっせとまた穴を掘り始めたのだった。
さて次なる犠牲者は他の隊と連絡を取りに行っていたSさんだった。「Sさんは穴が好きだから」など
と言って皆笑っていたのだが内心ものすごく反省していたのでしょう。
夕食後にはトウモロコシとスイカが出され、うまい物を食べ切れない苦しみを味わった。
8月7日
この日はひさびさに峠らしき峠がある。WCCは峠を目指してこそWCCと言われているだけに燃えている者も多かった。が、十和田湖以来400mより高い所に行った事がないB隊である。480mという高さに恐怖を感じた者もいた様子である。
小野田まで平坦な道。そこから柳瀞まで山あいの道を進む。10時50分柳瀞到着。
ここからは地道でB隊始まって以来のフリーランである。
出走前の緊張の中、何を思ったかG君が河原へ下りて行った。小便なら近くでやればいいのにと思っている他の者を気にかけず、彼は1m程の草の中にしゃがみ込んだ。用事を済ませ身軽になった彼はフリーランで好成績を残したのだった。
さてフリーランは大上さんをトップに1年、2年、3年の順でスタート。
結果は1位=スタートからゴールまで独走の大上さん。
2位、井上さん。3位、張替君
そして4位は後藤君でした。
佐々木さんと岸野君はパンクに涙をのむ。
その岸野君の話。「E君に抜かれた時は調子が悪いと思ってが、U君に抜かれた時初めて自転車がおかしいと思った。」峠からの地道の下りでは転倒する者もいたが、正午過ぎに鶴巻田につき昼食。コンクリートの上にベタリと座って食べていると、買い食いした店より特大のスイカが差し入れられる。もの珍らしそうに周りで見ていた子供達を呼び寄せて記念撮影後、分けて食べていると、向かいの魚屋からも負けじとスイカが差し入れられた。有難かったが食べ切れずキャンプ場へ持って行く事にする。
昼食後、尾花沢には1時37分に着いた。ここでA隊、C隊と再会。ここ数日楽な行程だったB隊は余裕のあるところを見せようとしたが他の隊も充分元気だった。
8月8日
この日、フライシートに当たる雨の音で眠りからさまされた。コースは蔵王、坊平(標高1,000m)までの予定である。発荷峠以来500mよりも高い所へ登った事がないB隊の中には、中止という期待を抱いてテンドから出て来た者もいた。
8時40分に出発。国道13号線を南下したが雨足は無情にも早くなり、蔵王ははるか遠い存在に思えて来た。10時過ぎに循岡駅に到着。執行部はコースを検討する。そしてしばらくして変更する事に決定。
関山峠を越えて仙台へ向かう事になり、宿泊地は途中の新田の公民館と発表された。
循岡駅で昼食の後、神町駅で小休止。そしてそこから緩い坂を登り、新田の公民館に着いたのは2時40分だった。またまた暇になってしまったので腕相撲やクイズなどの単純な事で時間をつぶし、6時頃近くのドライブインでタ食を取る。
8月9日
前日あれ程激しく降っていた雨も止み、この日の朝は雲間から薄日が差していた。
13日間の合宿もいよいよ本日で終わりである。
パンとソーセージの空しい朝食後、予定を遅らせ9時に出発。交通量はやや多いが路面の状態の良い国道48号線を関山峠への登りにかかった。最後の峠という事で気負って走ったが1時間足らずで頂上のトンネルに着いてしまう、あっけない位の登りであった。
トンネルを過ぎると仙台までは下りのみ。はやる気持ちを抑えながら走る。
作並から仙山線と並行して走り、途中態ヶ根で長い休息をとる。仙台はもう目と鼻の先である。
再び走り始めた道の勾配は次第にゆるやかになり、合宿も終わりに近づいていると実感しながらペダルを踏み続け、12時5分仙台市に入る。
市内は交通量が非常に多く何度もバスのために停車しなければならなかったが、12時43分、とうとう仙台駅に到着した。
到着後、班ごとに昼食を取り、2時に再び集合した。吉川さんのリードで、校歌がすでに秋の気配がする仙台の空に響き渡り、そして3年生、4年生が次々と胴上げされ宙に舞った。
13日間の合宿が無事成功できた喜びと、その夜のコンパの恐れが頭の中で交錯していた。
夏期合宿報告 C班 – 下沢
77年度夏期合宿報告 法学部2年 下沢
7月28日 青森 – 萱野茶屋 – 酸ヶ湯
距離28.8km 標高差900m
泣きたい程不安な朝だった。例外的に輪行の僕は、逃げ帰りたい気持を何とか抑えながら青森までやって来た。77年夏期合宿は、今日からこの青森を起点に仙台を目指して東北を縦横に走る。Cグルーブは海あり山あり湖ありの変化に富んだコース。
先輩達にはもう散々おどろかされたが、ここまできたらどんなものか自分で確かめてみるしかない。駅前に行ってみると皆まだ眠っている。日に焼け、むくみ、そして汚れている変わり果てた姿。一角を圧する異和感に決意も一瞬ぐらついてしまう。
人通りも繁くなった午前8時、にぎやかに総員集合。ブライベート中色々あったらしく、話の種には事欠かないようだ。朝メシ、自転車の整備、悲喜こもごもの機材割りなどひととおり準備が整って出発式。善良な市民の驚愕をよそに、黄色いユニフォームの男達が蛮声をはり上げる。驚かないで下さい、僕だって精一杯はずかしいんです。
そして午前10時、ねぶたの間近い青森をいよいよ出発。
今日の目的地、八甲田中腹の酸ヶ湯までは30kmに満たないが、標高差は900mもある。
初日からなかなかきつそうだ。車の多い市内をひゃひゃしながら抜けると、すぐに登り始める。
市内を抜けても思いのほかゆっくりしたペースなのでほっとするが、それでもペダルはやけに重く息がはずむ。おまけに暑い(当然か)。ユニフォームはたちまちびっしょりになってしまう。
1時間走って雲谷峠下で小休止。このあたりから勾配がグッときつくなってきてテントの重さが身にしみる。今日はずっと登りなのだと思うとなおさらだ。
照り返しの強い舗装道路に汗をたらしながら登り続け、岩木展望所で一息入れてから程無く、12時30分萱野茶屋に到着。待ちに待った昼休み、名物のお茶をガブガブ飲んで生き返った。
1時半、再び酸ヶ湯を目ざして出発、直登交りのきつい坂をゆっくり登り続けて、およそ1時間位経って硫黄の匂いが漂い始め、2時40分酸ヶ湯キャンプ場に到着。
やった。酸ヶ湯は山の中の静かな温泉場、混浴ということで期待をかけたがむなしく、夕食では先輩達の鬼のような変わり様、修羅場を目の当りにして驚いてしまったが、とにかく一日目は何とか終わった。
7月29日 酸ヶ湯 – 焼山・奥入瀬 – 十和田湖
距離51km 標高差400m
疲れていたはずなのに、昨夜はよく眠れなかった。5時起床。トレーニングがきつくて走る前に充分参った。曇ってはいるが、雨の心配はないようだ。
8時過ぎ出発。もう峠の9合目まで来ている。もう一息だ。アップ・ダウン交りの上りで一汗かくと、意外にあっけなく、25分で「笠松峠・1,040m」に着いた。
ここから標高200mの焼山までは一気に下る。もう登りは終わったのだと思うと思わず頬がゆるむ。
ところが今まで経験したことのない重装備。下りの感じが全然違っていて怖くてスピードを出せない。キーキー下りていくと、そろそろ勾配がゆるくなってきたあたりで、地図には出ていない分岐点がある。先行の人達はそれぞれ気に入った道を行ったらしい。どうなることかと思ったが、結局これはバイパスだと判ってチョン。
焼山で小休止してから十和田湖子ノ口までは奥入瀬渓流に添ってダラダラの登り。
景観を期待していたが、車が多いうえに道が狭くてそれどころではなかった。
子ノ口には10時50分着。十和田湖が見えたときには、あ、今日はこれで終ったも同然だ、と思った。ところがキャンプ場までの間には思いもよらない「峠」が待ち構えていた。
優雅な気分で遊覧船を見送ってカラカラと走り出して間もなく、行手に何やらすごい坂がある。
ありゃ何じゃ、と思う間もなく突入。湖に突き出ている半島を越えるのだ。きつい。
インナーに落してもきつい。もうだめだ、と思ったら「瞰湖台」が見えた。湖面から100mはある。参った。「100里の道は99里を以って半ばとせよ」。
休屋は素通りして、湖畔を軽快に走り、昼食前の12時15分、発荷の生出キャンプ場に到着。
自由時間をもてあまして、黒田さんが溺れてみたそうだ。夕食時に雨が降り出したが、大したことはなく、食事は外で出来た。
明日A班と別れるので、1年生会で激励し合って一日を終えた。
7月30日 十和田湖 – 発荷峠 – 八戸 – 種差
距離96km 標高差400m
今日は途中でA班とお別れである。しばらくは吉川さん達とメシを食うこともないんだな、なんて胸を詰らせる訳は勿論なく、1粒でも多く食ってやろうと戦場に切り込む。
時折小雨の降る中を8時過ぎ出発。今日は出だしに発荷峠がバーンと控えている。思った程きつくはなかったが、何しろ走り出してすぐだから足が重い。
景気づけに調子っばずれな歌を、それも頂上まで歌っているのは8班だ。約30分で峠に到着。
峠を下ると雨も上って、分岐点の中滝で元気な再会を約してA班と別れる。
中滝から10kmちょっとジリジリ登って夏坂まで一挙に下り小休止。
段差が多くて後ろの高田さんがにぎやかだったが、快調に田子を通過し正午に三戸着。
でもまたカッと暑くなってきて、三戸に着いたときには完全にバテ気味。
C班最大にして唯一のメカトラらしいメカトラが起きたのは三戸を出てまもなくだった。
1時20分過ぎ、知る人ぞ知るバースト男、某2年生の青木さんが、バーンと乾いた音を立ててやってしまったのだ。9班の1年生がこの時以後空気圧に神経質になったのはいうまでもない。逆上したCL青木さんの恐ろしいペースにフーフー云いながらついていって小休止の後、繁華な八戸市街を通り抜け、ちょっと道に迷ったが3時20分むつみなと駅に到着。買い出し待ちで小1時間休息の後、更に30分程走り、4時半過ぎ目的地の種差国鉄キャンプ場に到着。
やれやれやっと着いたぞ、とキャンプ場に入ってみると何と人の多いこと。
今日は土曜日、平好祭とかいうお祭りを1晩中やるのだそうだ。歌あり踊りあり、明日を気遣わぬ身であればまことに結構なことでございます。景色はすばらしいし設備も整っていて良いキャンプ場なのだが、暑さと騒音で眠れぬ夜を送る破目になってしまった。最後まで大変な一日だった。
7月31日 種差 – 久慈 – 普代村 – 田黒崎
距離72km 標高差200m
昨夜はひどかった。危うく寝過しそうになり佐々木さんにたたき起こされた。スイマセン。
いまいましい思いを残して8時出発。今日は楽勝だということで、僕が初めてCLをやる。
美しい海岸線を左手に少し走ると、455号線「うみねこライン」に入る。幅が広く路面の状態も良好で、快調なペースで走るが、このあたりから陸中名物の際限ないアップ・ダウンが始まる。
おまけに酷暑。頭がクラクラしてきた。玉川での小休止で早速買い食い、一息入れる。
アップ・ダウンを繰り返すうちに走り方もわかって来た。久慈には10時40分に到着。早い昼食を済ませて12時に出発、しばらくは山の中を走り、野田峠という名前ばかりの峠を越える。メカトラも何もなく順調に野田村を通り、また海岸に出て普代村堀内のあたりまで走って小休止。ところが何と僕の前にいたのは7班。追い越していないのに8班がいない。しばらく待っても来ないので普代村まで行くことになる。
どうせまたアップ・ダウンだろうと思っていたら、かなりのアップ・アップ。
野田峠の比ではない。上にはギラギラの太陽が、下には白っぽいアスファルト、上下からの熱線を浴びながら名もなき峠に苦しむ。
2時前、普代駅に到着。地図では鉄道の計画さえないはずなのが、立派な駅が迎えてくれた。
ここでしばらく遅れて8班も到着。久慈を出てすぐ間違ったそうだ。黒崎のキャンプ場まではあと2km、もう何も起こるはずがないと思ったのだが、今思えばこの2kmがある意味ではC班のハイライト
だったのかもしれない。キャンプ場は海抜200mのところにあったのだ。
海岸から「シーサイドライン」という立派な有料道路に入ると、行く手には10%ではきかない
壁がバーンと控えている。もう1こぎ1こぎ全力を込める以外ない。やっとの思いで3時20分到着。
到着後しばらくは立つ気力もなかった。最後が大変な一日だった。
8月1日 黒崎 – 小本(中野) – 竜泉洞
距離約51.9km 標高差500m
A班と別れて以来、食事の輪もひとまわり小さくなってゆったりとしてきたが、いよいよ今日途中でB班とも別れ、Cグルーブ3班だけの単独走行になる。
今日も楽勝、休息日だと聞くが眉唾物。8時、忘れじの黒崎を出発、予定を変更してシーサイドラインをそのまま進む。海の見えかくれする豪快なアップ・ダウンが終わるとこの有料道路も終点で、ここから山の中へ初めての地道を進む。
工事中で路面の状態の悪い所が多く、舗装に慣れきったひ弱な脚はたちまち悲鳴をあげる。
とても先輩達のように地道の感触を楽しむゆとりなどない。それにしても今日初CLの川村の何と速いことか。インナーに落すのも思うにまかせず、やっとの思いでついてゆく。
ちょっとした峠という感じだった。再び快適な145号線に戻り、1回小休止をはさんで1時前、分岐点の田野畑村中野に到着。陸中海岸ともこれでお別れである。B班は45号線を更に進んでいった。
とうとうこれから1週間はC班だけの単独走行である。海岸線に対して直角に右折し竜泉洞を目ざすと、山肌が迫ってきて早くも山峡の趣。道は狭くなったが、ダラダラと上る道を快調に進む。岩泉の町をかすめて竜泉洞青少年旅行村には12時10分着。
時間がたっぷりあるので、日本3大洞のひとつに数えられるという竜泉洞に息を呑み、誰かさんの病気が移るのではないかと心配しながらも温泉につかった。
風呂はたちまちドブと化してしまった。食事になると改めて輪の小ささに驚く。
小山さんや黒田さんが聞くに耐えないシャレを飛ばすかと思えば、孤独な4年生の田中さんは「チェック」を連発、笑いの絶えることがない。食事が大好評である。
桑谷君、ごくろうさん。夜になって小雨が降り出した。朝までに上がって欲しい。
8月2日 竜泉洞 – 早坂峠 – 岩洞湖
距離56.6km 標高差900m
今日は久々の峠、標高916mの早坂峠を越える。出発前、磯谷の発表する機材割りに注目が集まる。
機動力がグンと増し、7時40分出発。ときどき薄雲が出る天気の下、小本街道をまずは名目入まで走る。狭い道や岩をくり抜いただけのトンネルが、もう北上高地なんだと教えてくれる。名目入で小休止のあと、谷あいの道をジワジワと登ってゆく。
山々の間が狭まり勾配がきつくなってきて、峠の近いことがわかる。相変わらず青木さんのペースは早い。10時に権現に到着、小学校で1休み。ここから早坂峠の頂上まで初のフリーランである。
緊張からか気負いからか、初めのうちは相当早いペースで頑張った。先輩を抜くとき、反応によって人柄が偲ばれておもしろい。高田さん、「あ、抜いていいと思ってんの?」、
岩城さん、「早く抜け。」しかしせっかくの頑張りも蛇行が始まるまで。ふと見上げると、はるか上方でユニフォームや洗濯物がチラついている。ゲンナリ。
全て重いテントのせいにしてチンタラ頂上に登り着くと、みんな蛇行が大きくて楽な峠だったと言っている。内心大いにメゲたが、意地を張って僕もそういうことにしておいた。
正午前、峠を出発し、200m程下った 町村で昼休み。更に小一時間走って、2時前岩洞湖に到着。
今日はキャンプ場ではないので、炊事には結構苦労した。 火付け男の田中さんが大活躍。
また楽しい夕食になるはずだったのだが、遂にメシが残ってしまった。
明日は盛岡を 通るのだから、ここでひとつ「わんこめし」といってみよう、ということになってしまい、5人の一年生は地獄の責め苦に会う。閻魔大王はもちろん(?) 野口さん。先輩もたまるものがたまってきたらしい。
8月3日 岩洞湖 – 盛岡 – 煙山
距離49.6km 標高差300m
今日で合宿も中日を迎える。長いと思っていたが、先輩達についていくだけで精一杯、あっという間に過ぎてゆく日々である。そろそろ時間の感覚がなくなってきたし、疲れもたまってきた。
C班だけになってから、心なしか青木さんのトレーニングの時間が短くなってきたようにも思える。
例によって味けないさば缶で朝食を済ませ、7時50発。今日は距離も標高差も少ない。
盛岡だけがポイントである。時折小雨の降る中、一旦最高点の明神山まで地道交りの道をジワジワと登ってゆく。
約1時間で到着。ここから盛岡までおよそ500mを、雨に濡れた路面に注意しながら十人十色の走り方で下る。市街のちょっと手前で4号線に入るとさすがに車が多い。
坂の多い市街を車の列を縫うようにして走り、9時半過ぎ盛岡駅に到着。
曇り時々晴れ。午後1時まで自由行動ということになり、皆文明社会に紛れ込んだ狼人間のような体で市街に吸い込まれていった。
さて、食うことにかけてなら(かけてしか)、人後に落ちないと自負する我WCCの面々は、当然のことながらかなりの人が、わんこそばに挑んだ模様である。その戦果はというと、「負けるが勝ち」の逆をいくようなものだった。
100杯食べた人が3人もいるのはさすがだが、皆今にも吐き出しそうな顔で帰ってきた。
わんこやのおばさんのフェイントに見事にひっかかり、両手をついてやめさせてもらったのだと云う。小辻さんや小林さんなどは天を仰いでいる。あれで自転車に乗れるのかいな。昨日のことを思い出し、僕は精一杯笑ったのである。
1時半、盛岡から参加のOB吉田さんも加わられて出発。隣り町の矢巾町煙山に向って北上盆地の平坦な道を走る。
途中で7班が道を間違えた。岩手盛岡で買い出しの後、3時時20分矢巾町立青年の家に到着。近くに温泉がある。A班松下の書き置きがあった。
8月4日 煙山 – 盛岡 – 仙岩峠 – 田沢湖
距離約74km 標高差900m
今日は国見峠を越えて奥羽山脈を横断し、田沢湖へ向かう。A班が3日前に辿ったコースの逆を行くわけだ。しかりによれば標高差1,000m。
7時45分出発、再び盛岡市街を通る。朝のラッシュと路端のアスファルトの波打ちに冷や冷やする。およそ1時間走って盛岡市郊外の稲荷町で小休止。班の間隔が開きすぎた為、9班は30分休んだ。ときどき晴間がのぞくまずまずの天気の下、行手に山並を見ながら再び46号線秋田街道を走る。大釜を過ぎたあたりからジワジワと登り始め、やがて雫石盆地に入って、10時前雫石駅着。また30分程休んで走り出すと、田沢湖線と別れる赤淵のあたりからだんだん勾配がきつくなってきて、ペダルを踏む足にも力が込もる。こんなときは緑川さんの爽やかとは言い難い鼻歌でも大いに救いとなる。11時20分下荒沢橋に到着。ここから2回目のフリーランであるが、行き先は前々から噂に昇っていた仙岩峠に変更だという。
地図にも出ていない新しい峠なので松井らとセーブしながらゆるい坂をタラタラ登っていくと、たちまち仙岩トンネルに着いてしまった。
全く拍子抜けした気持で昼食を済ませ、田沢湖へ向って下り始める。
2km以上ある立派なトンネルの中で県境を通過し、トンネルを出てみると、かなり上の方に曲がりくねった国見峠らしき道が走っている。やっぱりトンネル経由でよかったと思わず隊長=高橋さんの勇断(?)に感謝したのだが、今思うとその為にA班には末長く負い目を感じなければならなくなってしまったのである。
一気に下って田沢湖駅には1時過ぎに着き、買出しの為1時間程休んでから湖に向かい、2時45分田沢湖春山の国鉄キャンプ場に到着。夏休みの最中とあって人出は多かったが、夕食まで水とたわむれ、夜は浜辺で出身地別のミーティングを行った。
8月5日 田沢湖 – 角館 – 大曲 – 横手
距離80.5km 標高差0m
テントから出てみるとどんより曇り、今にも降り出しそうな天模様だ。7時40分出発。湖畔有料道路を
しばらく走り、黄金色に輝く女像の前で写真を撮って田沢湖とはお別れし、八津のあたりまで走ると横手盆地に入る。
このあと今日はほとんど平担コースだ。105号線はどこまでも平らで変化に乏しく、緊張がゆるみがちになってしまう。そんなときだった。川村がちょっとフラついているな、と思つたらガシャッと路端の反射板にぶつかってしまった。
バッテリーライトをぶつけてフロントキャリアがぐしゃりと曲がり、前輪が回らない。
モンキーでたたいたり引っ張ったりして何とか応急修理。ぶつかって良かったのかもしれない。土手から落ちるよりは。
気持を引締め再出発、角館の手前の西明寺駅で小休止の後相当早いペースで走って1時大曲に到着。
1時間の昼休みのあと、今度は13号線羽州街道へ入ったのであるが、出発してから間もなくとうとう雨が降り出した。今までは雨といってもほんの小雨程度だったが今度は違う。
目も開けられないようなどしゃ降りだ。初の本格的な雨中ランに何度となく冷や汗をかいたが、空は意地の悪いもので横手に入るとピタリと止んでしまった。
青空さえのぞいている。1時15分横手駅に到着し、吉田さんとお別れした。買出しに時間がかかり、3時半横手公園に到着。A班がきのう泊ったところだ。夕食後吉田さん差入れのスイカが出た。
何と2人で1個。簡単に食べられるように思って大喜びで食いついたのだが、誰もが半分も食べないうちに目を白黒させる。1番悲惨だったのは、日皆の労が報われて(?)いの1番に大きなのに飛びついた桑谷だ。
スイカを食べていると、完全に上がったかに思われた雨がまた降り出し、遂に本降りになってしまった。テントが全滅してしまったので、第2大谷地山荘で夜を送ることになった。山荘のおばさん、ありがとうございます。
8月6日 横手 – 横堀 – 鬼首峠 – 吹上温泉
距離79km 標高差750m
昨日、就寝時間が遅くなったので今朝は6時起床。まだ時々弱い雨が降ってくる。
雨でグッショリ濡れたテントをたたんで、7時45分横手公園を後にする。今日はC班のハイライトなのだが、重苦しい雰囲気のうちに一日が始まった。
横手駅で買食いの朝食を済ませ、8時半過ぎ出発。ゆるやかな丘を幾つか越えながら1号線を南下し湯沢駅、横堀駅で小休止。雄物川の両側に山が迫ってきて横手盆地はもう終わりである。
いつしか雨は上がって時折晴間さえのぞき出した。横堀で分岐点を左に進んで108号線に入り、谷あいをダラダラと登って川井で昼休み。朝昼バン食が続くと何となく下っ服に力が入らないような気がする。12時半に出発、これからいよいよC班メインの鬼首越えだ。
抑え気味のペースでアップ・ダウンしながら標高は確実に上がっていく。
45分で赤倉橋に到着、ここからフリーランである。3年生の「早く出ろ」の声にも、今日は調子がいいから後から出ますなどとうそぶいて、悠然とスタートを切ったのだが、何と出だしからインナー落とし。初めがいちばんきつかったのだが、それにしても今までの峠とは違っていた。
それほど蛇行していないのに、走れど走れどなかなか終わる気配がない。頂上かと思われた長く真っ暗なトンネルを抜けてから更にひとこぎしてやっと頂上。
ここから宮城県である。フリーラン中に川村がソーセージをまるごと吐いたそうな。
何かと話題の豊富な彼も、ここに止めを刺した感じ。それにしてもどんな食い方をしたのやら。
2時半に出発し、田野まで下って買出し。ダウンヒル中反対側から登ってくるサイクリストが結構いた。小1時間休んでから更に10分程走って、4時15分吹上高原野営場着。
時間の都合で温泉には入れなかったが、子供がたくさんいて楽しいキャンピングだった。佐藤さんて子供にモテるのネ。そんな中で、アイスクリームにも見捨てられたと嘆く千葉さんの姿が痛々しかった。
8月7日 吹上温泉 – 鳴子 – 山刀伐峠 – 尾花沢 – 徳良湖
距離59.8km 標高差470m
いよいよ今日尾花沢で全班が顔を合わせる。距離的には我班が尾花沢に一番近いのだが、果して一番乗り成るか。 早くみんなの顔を見たいのはもちろんだが、このままもうしばらくC班だけで走りたいような気がする。8時出発。
気持ち良く晴れている。鳴子までは下りっ放しだと聞いていたが、かなりシビアなアップ・ダウン。
途中、鳴子ダムでの記念撮影をはさんで、一時間で鳴子駅。鳴子は典型的な 温泉街だった。
30分程休んで、今度は1号線を西に向かう。鳴子市街から鳴子峡にかけては思いのほか勾配がきつい上に向かい風。損な日にCLになってしまった。更に山形県との県境までダラダラと登り続け、陸羽東線のガードをくぐってからは明神までダラダラと下って左折し、14号線と別れる。山並を真正面に見ながら少し登って丁度一時間で赤倉温泉着。
山刀伐峠はもうすぐである。また30分休憩のあと、真新しい舗装道路を20分程グイグイと登ると、明日開通という山刀伐トンネルがポッカリ口をあけ、向こうの出口もまぶしく光っている。
しかし、もしかすると、また、という期待は見事に裏切られ予定通り旧道を登ることに決定。旧道の入り口でおばちゃん達からイモの煮っころがしをごちそうになってからフリーランで峠にアタック。 峠そのものは、グニャグニャ曲がった地道をちょっと登ると終わりだったが、さっきのトンネルの上を今走っているんだ、と思うと心中は何とも複雑。
峠の頂上で昼休みのあと12時半に出発、下りでは初めての、しかも見事なデコボコ道で緊張したが、舗装道路に戻ってからは快調に飛ばし、 尾花沢には1時25分に到着。
A班がもう着いている。鳥海山を征服してますます意気盛んな様子。我班は少しも気負わず淡々として到着。これに対してB班は何となくシラーッと到着。
また全員そろってにぎやかになった。尾花沢で買出しののち徳良湖に向かった。
8月8日 徳良湖 – 楯岡 – 東根市新田
距離約32km 標高差200m
合宿も残すところ2日+α。20万の地図もあと一枚。しかし、土壇場になって予定を変更することになってしまっ た。いつも通り5時に起きると雨が降っている。
それほど強くはないのだが、いつ頃降り出したのだろう。グランドシートはかなり濡れている。上がりそうにないどころか、 炊事場や木陰で朝飯を食べているうちにいよいよ強くなってきた。
徳良湖の湖面や木の葉に当たる雨音が騒がしくなるにつれて、逆に皆言葉少なになっていく。今日はどうなるのだろう、と不安を感じながら8時40分出発。
再び尾花沢の市街を通って13号線に入り、ゆっくりとしたペースで山形盆地をまっすぐ南下する。横手のときとは比べものにならない位冷たい雨で、体がなかなか暖まらない。車は多いし、かじかんだ手で思い切りブレーキをかけてもなかなか効かない。転んだ人もいるそうだ。10時、徳良湖から約 20㎞の岡駅に到着。
岡の駅前にはジブシールック、おこもさんルック等々、華々しくもおぞましいファッションが花開く。正午前、3年生から正式にコースを変更するとの発表があった。今日は東根市の高崎公民館に泊るそうだ。
こうして標高差1,600mの蔵王越えは中止になってしまった。2時間半以上の大休止の後12時10分に出発、再びほとんど真っすぐで平担な13号線を南下する。
桑谷がこんな ところでパンクしている。お気の毒様。1時半前神町駅に着きここでまた45分休んだのち左に折れて148号線関山街道に入り、40分程ダラダラと登って3時前高崎公民館に到着。今日は30㎞ちょっとしか走らなかった。
夕食は近くのドライブイン。一日早く畳の上で寝ることになったが、こんな 天気だと去年のコンパを思い出すという先輩のつぶやきが僕の小さな胸を締めつけた。
8月9日 東根市 – 関山峠 – 熊ヶ根 – 仙台
距離約50㎞ 標高差400m
今朝は6時起床。天はきのうの雨が信じられない程カラッと晴れ渡っている。今日はいよいよ合宿最後のラン。関山峠を越えて仙台へ向かう。パンと牛乳とみそ汁という奇妙な朝食を済ませて9時10分出発。
公民館の皆さんお世話になりました。峠までは10キロちょっと、関山街道を東に向かって走る。
車の多い道をダラダラと登っていくと、 道が二手に分かれるあたりから勾配が少しきつくなったが それでも大したことはなく、おまけに強い追い風なので重いギアでグイグイ登ってゆく。
フリーランは中止になった。 出発してから50分で頂上のトンネルに到着。あとは仙台まで下るだけである。工事区間が多くて度々数珠つなぎになりながら熊ヶ根駅まで下りて15分の小休止。
熊ヶ根からは 仙山線と平行した道を、めっきり多くなった車につかえながら走り、やがて黄色いユニフォームの列は都会の人と車の洪水の中に巻き込まれてゆく。そしてどこをどう走っているのかわからぬまま市街を走って、12時50分仙台駅に到着。
他の人はどうだったのだろう、新幹線工事の為大改装中 の仙台駅に着いたとき、僕はまるでいつもの小休止か昼休みのような調子で、いやそれ以上に淡々としていた。
いつもと違っていたことといえば、自転車からテントが外されたということだけだった。
それはコンパが終るまでは合宿は終らないという緊張感からだったかもしれないし、あるいは最後に越えた関山峠があまりにあっけなかったからかもしれない。
しかし、きっとそのどちらでもないだろう。ただ僕は、確かに僕自身の足で13日間走り抜いたのだ
という事実を以ってしても、今現在僕が仙台に居るという現実を実感できなかった。
そして13日間の記憶は早くも薄らぎ始めていた。
-脱稿-
誰も書かなかった早慶ラン – 岸野
誰も書かなかった早慶ラン 商学部1年 岸野
それは10月22日でございました。
けたたましい目覚まし時計の音に、まどろむような眠りから私は現実を意識したのでございました。午前6時。大都会東京の空は、もううっすらと赤味を帯びておりました。私は早慶ランの出発の地、大月のことをふと思いました。
「新宿で輪行して・・。11時にはどうころんでも間にあうだろうて。」
私は寝起きのドロドロと澱んだような頭をもたげて愛車をボンヤリと眺めやりました。
「なっ、ない!!リッ、リンコー袋が・・」そう。私のそれは、その頃、高田御殿でうず高く盛られたシュラフの山の一角で静かな朝を迎えていたのでございました。
それで、迷っていた私は大月まで走ることに、いや今回のランを全走する決心をしたのでありました。思いまするとこの冗談のような狂気が早慶ランのすべてを象徴したのであったようでございました。
午後1時半頃でございましたか、絶好の秋晴れの下、駅前広場で簡単な開会式を終えた早慶のメンメンは、隊列を組んで大月をあとにして、笹子峠へと向かったのでありました。
峠の入口新田で小休止、ここから初鹿野へ直接抜ける、新笹子トンネルに熱い視線を送りながらも皆は敢然と、これから越える笹子峠に心を奪われていたわけでございます。
地道の登りで360m。フリーラン。全体CLを務めるはWCCの水色の秘密兵器M氏。
早慶ラン格好の幕あきでありました。次々と黄色のユニフォームがとび出していく。
それにまじってジーパンの慶応がゆく。ああ・・スーパーランドナーをはいたS氏も不気味な笑いを残して。(思えば、このこともその夜のS氏の挙動を暗示していたような・・)
告白いたしまするに、私、地道の経験は極端に乏しいのであります。すぐに「ジャリ石にタイヤとられてかばい足」なのでございます。
それでも何回か倒れるうちに頂上でした。まだまだ地道の風情のわからぬ私でございます。
峠の小休止では短いトンネルを吹きぬけてくる風と夕方のさめた太陽だけが印象的でございました。
その中で、例のY氏の豪快な高笑いが妙にアンバランスで、そのアンバランスが紅葉しかかった山に妙に溶け合ってございました。
爽快なダウンヒルのあと、1行は一路宿泊地勝沼の大善寺へと向かったのでございました。
ああ、かってあれ程、CLを助けた宿泊所がございましたでしょうか。道筋に逆らうことなく、天下の大道脇にそっと寄り添うように位置した大善寺は、「本日より民宿オーブン」の横幕も華やかに(たとえ、あの幕が1週間前から出されていようと)我々を迎えてくれたのでありました。
大善寺での一夜は、誠に人間くさいものでございました。日頃のランにおいてのWCCの宿泊とは客観的に述べまして、必ずしも人間のそれとは言えぬものであることは、周知であろうと存じますが、ただかかる意味においてのみ、つまり、豪華なゆうげ、入浴、柔かい寝床というような意味においてのみ、私の言わんとする「人間くささ」をみなさま方が理解されるのは、私になかば生理的な苦痛を強いるものなのでございます。
むしろ大切なことは、あの夜の早慶コンパにおいて早慶両校が見せた自への、そして他人への「素直さ」なのでございます。それが非常に汗くさく、生ぐさく、人間くさかったと言いたいのでございます。コンバは確かに盛り上がったものでございました。
新旧のエンタティナーがそのパーソナリティーを遺感なく発揮いたしました。
しかし私を燃え上がらせたのは、ジョークでもギャグでも歌でも踊りでもなく、ひとりひとりが見せたその人の「素直さ」でございました。ある者は、ひとくちの酒に倒れました。またある者は自殺行為的飲みっぷりで燃えつき、その美とは程遠い肌をみせました。ああ思い出します、あの夜のことを・・素晴しい酒宴でございました。
1年生企画ラン報告「Aコース」 – 下沢
1年生企画ラン報告「Aコース」(当日) 法学部2年 下沢
Aコースの集合地は東飯能。7時20分、例によって体力温存の法則に従って、西武線の快適な急行で到着。厚く曇っているのに吐く息が白く、たちまち体がキューンと硬直してしまった。こんなに寒いと保温に充分気をつけなければ、ヒザなどを痛めてしまうかもしれない。
おまけにこの天模様だと雨の虞れもあり、良いコンディションとは言い難い状態だ。
約束の8時を回っても来ない人が数人いて、今日はどんなランになるのだろうと心配になり始めた矢先、岸野が準備体操(ラジオ体操)の後のかけ足で足をくじいてしまい、無念の欠場、早くも前途多難を思わせる。
9時40分まで待っても人数は増えなかったので結局13人(事実誤認の真れあり)3班編成で出発。
出発が大幅に遅れた為もあって吾野まではダラダラと登る道を早めのペースで進み、10時半前に到着。
ここで昼食の買出しを済ませてからAコースメインの顔振峠にアタック。
距離約3kmで標高差も300m余、平均10%以上ある時だ。タイムトライアルをやるかどうかが問題になったがフリーランで登ることになり、各自順次出発。前半小さな蛇行を繰り返した急斜面が続いた後半は比較的緩やかな峠だった。
日曜日ということでハイカーや自家用車が多かった。頂上には神保、佐々木さん、井上さんの順で着いた(らしい)。尚、吾野から杉本さんと岩城さんが加わられた。相変わらず気温は低く、汗びっしょりになっていたのに今度はガタガタと歯が合わない。
昼食は刈場坂峠で取ることにして1時30分に出発。刈場坂迄は45分で行けるだろうとの見通しに基づいての決定だ。だが実際には仲々シビアなアップ・ダウンを繰り返しながら少しずつ標高が上がっていくといった感じで(ちなみに峠は5発)、1班が到着したのが12時半すぎ、ドン尻の2班(3班ではない)が到着した時には1時をかなり回っていた。
1班では小林さんが、2班は井口さんが相当調子が悪かったようだ。
そして峠の休憩所で昼飯を食べていると逐に心配していた雨が降り出してしまった。
時間の遅れも考慮して刈場坂からは白石まで行って、そこから越生に向って下るという迂回コースを取ることに決定。正丸から登ってきたA班の数人と会った後、1時45分出発。一旦、858mの最高点まで登り大野峠を通過してからはアップ・ダウンを繰り返し、約30分で白石峠に到着。またもや2班が最後尾。
幸い雨は上がった。ここからは幅が狭くて急カーブが多く、おまけに結構車も通るという道を下り、主要道に入る地点まで走る。本原さんが輪行袋を落としそうになってまたもや3班に抜かれそうになったが、浜崎に泣いて頼んで2班のメンツを保った。
あとは越生まで6km程の平坦な道を走り、3時半到着。予定より少し早い到着だった。一人一言を行ってから解散。
以上全く単調な記録になってしまいましたが、後で1年生の間で話題になった問題点・反省点を掲げておきたいと思います。先ず、多くの先輩から指摘をいただいたTTの是非。
(これはミーティングの段階では発表されていなかったものなので、ご存知ない方も多いかと思います)
前述のように顔振は結局フリーランで登りましたが、TTの妥当(必要)性についてが第1。
次に下見をした者が、3人もいたのに所要時間の見通しの立て方が甘く、昼食が遅くなった事。
それから連絡なしの欠席者がいたこと。これは連絡先が徹底していなかった為かもしれません。
また1年生内での責任分坦が明確でなく、当日の朝も班割りを知らないというお粗末もありました。
個人的にも色々省点はありますが、それでも先輩達からはコースが良く、ペースも適当だったと言って頂き、また事故、メカトラもなかったのでホッとしています。先輩の皆さんとご協力に感謝します。
生の風景 – 本原
生の風景 教育学部 本原
- 第14回早同交歓会を顧みて
早いものだ。もう、あれから半年経ってしまった。今、私の眼の前には、九州の空、梅雨の太陽が燦然と輝いている。うだれるようにしおれている木々の葉。何もかもが燃え盛る太陽に生気を吸い取られてしまう。そして、私の心を吹き抜けてゆくのは、ただ気だるいばかりの6月の風。空が青い、..
どこかで見たことがあるような気がさっきからしているのだが..。
花背!!いや違う、花背の上で大の字になって荒い呼吸をしながら眺めた空には、秋の空だけがもつ特有のすがすがしさが在った。そうだ、時間の基軸を折り曲げて、あの生の空間に、もう1度、旅してみよう。私と私のあの仲間違、あの素晴しきサイクル野郎達が生きている、生の風景のある時間へ – 。
大垣行の車中のざわついた雰囲気は、決して私を喜ばせはしなかった。私の心の比重は早同で占められていたからだ。夜の暗闇の中を、一定のリズムを伴って、後方に飛び去る光の群れを、ただぼんやりと目で追いかけて、自分1人の空想の世界に浸り切っていた。夏合宿に参加できなかった私にとって、このときの早同交歓会は、残されていた唯一の憧憬であった。
それが、あと一日足らずで現実のものとなるのだ。その期待感が、それこそが私に喜びを与え得るのであり、周囲の他愛のない雑談に加わる気が全くしなかった。
夜の暗闇は益々その度合いを深めていった。もう2度と来ないであろう青春の日々の為に..。
列車を降りたのは守山であったろうか。睡眠不足の私にとっては、朝日が眩しく、そして輪行も例の如くはかどらなかった。ただそれでも、電車を降りると、浮き立つ心は押えられず、みんなとはしゃいでいた。
近所の喫茶店で一服した後、一路、集合地である近江舞子へと向って走り始めた。
このとき、3年生(当時の)ばかりだったと記憶している。走り出すと睡魔が私達を襲って来たが、
琵琶湖大橋を越えると、私には活気が戻ってきた。湧き上がってくる小気味良さ、嬉しさは、何年か前に聞いて以来、断えて耳にしなかったマッコイ・イタイナーの「ウォークスピリッツ、オークスピリッツ」を想起させ、又、その強烈なリズムに合わせてペダルを踏むことを命じていた。
思う間もなく、私達は近江舞子に着いてしまった。まだ昼過ぎだった。
国道から右に折れると近江舞子駅だが、そこには、待っていても別段不思議ではなくいDCCの諸君の顔はなく、食堂の類いすらなかった。実に閑散とし真新しいだけが取柄の駅であった。
空腹に耐えかねた我々は国道沿いの小さなマーケットとおぼしき店でパンやあげたてのコロッケを頬張った。そして、いずれ迎えに来るであろうDCCの先鋒隊とWCCの後続 – 学年別に来るであろう – をただぼんやりと空地に腰を降して待っていた。
そうしていると、張り切りボーイの1年部隊がしけた顔(生来のものだが)をひっさげてやって来た。
我々はしばらく彼等をおもちゃにして遊んでいたが、 – もっとも逆に、我々の方が遊ばれていたのかもしれない -やがて、それにも飽き、琵琶湖の湖岸に散策に出向いたのであった。
ところがドジな私は、後の方でタラタラしながら走っていた為、気づいたときには、もう誰も周囲に居なく、必死になって追いかけたが、全然追いつく様子がない。
とうとう何て薄情な奴等だと、いじけてしまった。そして砂浜は走りにくいという冷厳なる客観的事実がそのいじけに拍車をかけ、「フニャラ」の一言を残して、駅へと踵を返してしまった。
そして駅のベンチに横たわりながら、「それにしても同志社の阿呆達をやっとるんじゃ。新谷のアンポンタンめ!」
と呟やいていると、自然とまぶたが落ちてきた。突然のブレーキの音に、目が醒め、起き上がると、
何のことはない、お化けの穂刈がそこにいた。別になんの話をするわけでもなく、2人でいじけて眠ってしまった。そのうちアイツラが来るはずだから。
なつかしい顔、新しい顔、- これがDCC – 。秋の夕暮れの中、近江舞子ロッヂの庭では黄色のユニホームがそれぞれの固まりとなって散らばっていた。私の眼の前には新谷同早委員長をはじめ、他のDCC4回生がいた。そう、私はお前等に会うためそこにいたんだ。
あ~あ、しようがないな、深井と鳥越は、テニスボールでじゃれていやがる、あの2人、年は一体いくつなのかねェ?
開会式が広間で、非常になごやかな雰囲気でもって催された。我々早稲田のド肝を抜くには、あの大津1人で十分であったのに、それに加えて2回生の伊藤が、ダメ押しの「芸」を披露して我々のド肝とともに精気まで抜きさってしまった。
笑い疲れが、早稲田の中に蔓衍してしまう。私は、あの大津とちょこまかとそしてよく走る1回生の大辻、早稲田側では2年生の奥山、1年生は張替、川村という顔ぶれと同じ班になった。御存知のように、私は思索的で冗談の言えない無口な人間であり、気まじめな性質であるから、その班は、あの大津の1人舞台となってしまった。
翌朝、大塚のトレマネで、私にとっては快適な、実に程良いトレーニングを消化し、朝食の後、暫くして近江舞子ロッヂを出発した。曇り空であった。この日の行程は、途中越、百井峠、花背峠、佐々里峠そして最後の「オメノコ」峠なる登りであった。
だが、なんとペースの速かった事か、人の気も知らない馬車馬のような大辻は、とぼけた顔で「ほ、ほんまに速いですか?」と私に聞き返す。私は、息を荒げ、脂汗を出しながら、必死に言訳をする。横からあの大津が「いつもこんなもんじゃで。」と事もなげに言う。
確かに、内心、彼等のペースには舌を巻かされるものがあった。だが、あのくらいのペースの方が、
私は好きである。ただ、足が..。でも北山にはそれが似合うのだろう。風を切って走る私達を、
古風な北山の佇いと藁茸の屋根と北山杉とが包み込んでくれていた。
秋の抜けるような青い空の下を、黄色い紺の動く点が次々と下ってゆくが、すぐに山陰に隠れてしまう。信州のものとは、ずいぶん異っていた。旅情を催す京都の北山、今もきっとあのままだろう。峠を登る私とその仲間達の掛声が北山に響く。そうしている間に、陽は徐々に傾いてゆき、佐々里を越える頃には、だいぶ落ちていた。
そしてオメノコ峠を越え、芦生青年の家に辿り着いたときには、夜の帳(とばり)が降りていた。
ユースでは、もうすでにWCCとDCCの間の気妙な遠慮は、もうなかった。どちらがどれだけバカができるか、バカの競い合いであった。もっともDCCには、あの大津ともの珍しい伊藤がいたが、数で優るWCCも必死になってバカを言っていた。
もっとも、これは、この早同の期間中いつもそうであった。そのバカさ加減に紙数を費やすことを
許してくれる出版局ではないだろうから、割愛したい。
その日の夜、私は疲れとは反比例して、簡単には寝つかれなかった。嬉しくてたまらなかったからであった。目を閉じても自然に喜びがこみ上げてきて、顔が綻んでしまうのを禁じ得なかった。
瞼の裏には、花背の上で見た青い空が焼付いていた。そう、あのとき、全力で登った私は、峠の上に着くと、すぐさま自転車を放り出し、みんなの輪の中に飛び込んでゆき、そして、どおっと大の字に寝転んだのであった。
生きている。そう私は実感した。ドロ沼のような、繰り返すばかりの日常生活には、こういった燃焼感は感じられない。きまりきった毎日の生活の渦の中で、私1人喘いでいるだけなのだ。
私と私の持っている時間を、毎日の暮しが削り取ってゆくだけだ。私は、大学時代という生の執行猶予の期間を、惰情な日々の繰り返しによってむしり取られたくないのである。そう、少なくともこの日は、生きていた。
深い眠りに落ちていた私を起したのは、配繕室の物音だった。虫や部屋の設備のことなど、色々と問題があったと言われたこのユースだが、旅館然としたものよりは、我々には似合っているようだった。何と言っても、前日に較べて飯の量が多いことが決定打となる。
そんなユースを後にしてパートランへと出発した。
とにかく奥山の自転車がメカトラばかり起しているので、何かと最後になりやすい。
御陰でクソがクサるほどでた。この日のパートランは、例の馬車馬の如き大辻のせいで、充分堪能出来た。今では、不思議な事に八丁林道は地道だったという漠然とした記憶しか残っていない。
いや、そう言えば、登り始めと、下り終えて舗装に出る一瞬が、ぼんやりと頭の内を往き来する。
もう他は、想い出したくないのである。それから、昼食をとり、紅葉峠へと向かったわけだが、私にだって3年の意地があった。私はこの道一筋3年間、同志社の1年坊主に、ペロペロキャンディのようにナメられてたまるものか、ただ、あ、足が..。
圧巻と言えるのは、完全にやけのやんばちになって登っていたのは、多分、千歳山の付近だったろう。
私はあのとき、多少大きめな声で、憎くき馬車馬にハッパをかけていた。
そのうち、その坂を登り切る手前で、途中参加の小辻等を加えた吉川、宇根、宮本の班と合流し、休憩をとったのだった。このとき大辻が言った、「さっきは少しペース、お、落したんですわ。」
ふうん、そう。どうもありがと。
紅葉峠を下って、私の班は、八木駅で付近のサテンで一服した。我々はそこで暫くの間、その日の反省と談笑をしたのだが、ここでの休憩は班長のあの大津が私の為に気を遣ってくれたのだろう。もっともそれは私にとっては、入らぬ気遣いだったのだが、彼の気持には感謝しておこうと思った。そう言えば、私の太腿が御主人様の気ちを察してか、自発的に、痙攣という形でもって、モールス信号を送っていたのだが、あの大津には届いただろうか。
亀岡のユースに着くと、みんな、時間が余っていた為、グラウンドで戯れていた。私も、得意とする
テニスで大塚に練習をつけてやったが、彼自身、走り込みが不足しているせいか、私にはついて来れなかった。
風呂から上がると、各自それぞれ楽しんでいた。どうしてこんなにもうち溶け合えるのか不思議なくらいだった。私も2回生の伊藤と一緒に芸の極致を追求していたが、所訟、私は彼に及ぶべきもなかった。ただ私には最後の秘密兵器があったのだが、それとても公衆の面前で、しかも素面とあっては、披露することはできなかった。
仮りにもし、あの場でやっていれば、私は一生、他人から蔑みと好奇の目で見られるであろう。
又、それは、あの大津でさえも2の足を踏むであろうと思われるのだった。
食事が済み、全体ミーティングのとき途中参加者の紹介があった。同志社の3回生、おぞましい梶山と、
私にとっては初対面であった尼木、他、数名の恐しげな下級生であった。大体DCCの1回生は、恐しい顔した者が大勢いたのであった。明日は、TTというので参加したのであろうが、まあ、私に抜かれぬように頑張って欲しいと、心を広く開いて彼等を受け容れてやった、私の気持ちが彼等には理解できたろうか。
この後、学年別のミーティングが持たれ、我々早同の3年回生は、まじめな雰囲気で話を始めていった。だが結局、互いになぐさめ合ったに過ぎなかったのであるが、我々には悔いるべきことはないはずだろう。それよりも、個々の胸中に去来するものは、懺悔ではなく、時の、1年間という一区切の短さに対する無念さ、物口惜しさだったのではなかったろうか。過ぎ去っていった時間は、もう2度とは戻ってこないのだ。
タイムトライアルが始まった。顔から、腕から、そして足からしたたり落ちてゆく汗。
我々の汗は、地球に幾ばくかの熱量を還元しながら、アスファルトの道に点々と続く。
何故斯くも必死に、我々は走るのであろうか。一体、何が我々を燃やしたてるのであろうか。
もう1度、あの状況にならねば、私には解答できない。
それは通り一遍のものではなくて、諸要素が複雑に絡み合っているからだ。
ただ、私がゴールに着いたとき、去年に引き続き1位になったあの大津が、「ナイスフィト!」と言って握手を求めてきた。私は、京都に来てよかったと思った。そして、走ってよかったと思った。
汗が完全にひき、皆が全員揃うと、パートランで御所へと向った。御所は解散地だった。「ちょうちょ」が御所を乱舞した。だがそれは、コンコンパの前奏曲をかなでたに過ぎなかった。
第14回早同交歓会は果てしなく続くのであった。
ボックスの近所の銭湯で、WCC3年生会は演芸会の出し物を考えた。だが、これこそはウケるといった画期的なものは浮ばず、改めて我々3年生会の無芸大食ぶりを自覚する羽目となり、しょうがなく、2番せんじ的な出し物で妥協してしまった。
だが実際にコンパが始まると双方の下級生の白熱迫真の演技とバカッ騒ぎのため、我々のときには時間的な猶予があまりなく、形をなす程度となり又全体的に騒ぎ足りないという欲求不満が昂じて、コンパ会場であるホテル松井の前に陣取って、長々としかも大声で斉唱し始めてしまったのである。
これは、ホテル松井に宿泊していた修学旅行の一行にとっては、- 特に女子生徒にとって -たまらなく恐怖であり、また教育上良くないと判断した一部責任者達が、すぐさま文句を言ってきた。
だが早同ともに、ブレーキのこわれた自転車の如く、ノッているが故に止まりたくとも止まれない、いや、逆にそれで火がついてしまった。そして三々五々に早同入り乱れて肩を組み、大声で放歌しながら、人目などは物ともせず、四条河原(?)へと練り歩き始めたのであった。
総勢70名あまりの恐るべきサイクル軍団はこうして狼と化し、夜の巷に放たれたのであった。
鴨川の河原で秋の夜の風情を悦しむ若い恋人たちが、たまりかねてこそこそとどこかへゆく。また野次馬が火事でも見るように、火の粉のかからぬ場所から、あの馬鹿騒ぎを眺めている。人の迷惑顧ずやってきました。
早同サイクル軍団!枯れた喉を振り絞りあらん限りの声で歌う彼等に、限界という文字があろうはずはない。だが酒が切れ、段々と素面に戻ってゆくとその限りではなかった。そして学年別に別れて、それぞれ夜の京都の町に散っていった。
私の眼に映ったものは水割の入った大きなコップであった。20名ちかくの人数で飲むと端と端ではその話題は異なっていた。ときたま、あの大津がみんなの注目を集めるのだが、また暫くすれば、皆、それぞれの話題へと熱中してゆく。
今の私には一体どういう話題で話がはずんでいたのか、憶えていない。しかし印象深く記憶に残っているのは大田が酔っぱらって、私に絡み始めたことであった。彼は向こうの席でかなり痛飲していたのだが、私のところに来ても又、何回も杯を傾けていた。そして、繰言のように「同志社ボーイは、もっとシャキとしなくちゃ!」と呟くのだった。
何度も杯を重ねるうちにもう店を出ようということになった。だがその寸前、沢田研二が歌う「勝手にしやがれ」が流れてくると、重岡がさかりのついた馬のように踊り始めた。
そして踊るアホウに見るアホウという光景が展開されたのだった。店を出ても彼は、みんなにノセられて店先で踊り始めた。私は、みんなを見ているとこの上もない幸福感がこみ上げてきて、私を包み含んでしまった。
大田は例によって「同志社ボーイ」を連発していた。そして「本原くう〜ん、僕ねぇ・・。」
と力一杯絡んでくるのだが、とても自力では立ってはいられず、誰の手を借りてふらふらしながら立っていた。鳥越で、路上で飛び跳ねていた。もう、みんながみんな満足感で酔っていた。
私も心の底から揺さぶられるような深い感動を胸にしていた。道往く人が恨めしげに、この幸福な連中を横目で見ながら通り過ぎていた。大田が道で揺れていた。
夜の京都を早同の執行部が往く。揺れた足並で。後から見ていると、おかしくもさえあった。
無我夢中で過ぎたこの1年間の最後の締めくくりも、こうして終えようとしていた。
確かに我々の任期はあと1ヶ月ばかり残っていたが、それは頼もしさとたどたどしさを混在させた2、1年生の成長を確認するための期間でしかなく、お守り役の秋なのだった。だがまだ朝までは間があった。
歩いていると、DCCのOBの方と偶然に会った。酔っていたので名前は忘れてしまった。
そしてサテンに行き、混乱した頭をさまそうということになった。サテンで酔った大田はおもしろいというので、彼はとうとうオモチャにされてしまった。そうしてサテンを出ると高瀬川(?)の橋のたもとでOBの方を「ちょうちょ」にして、またもや早同の校歌などを歌い、そしてやっとお開きということになった。
私と大田はあの大津の下宿に泊めてもらうことになった。しかし彼の下宿まで行く間の苦労というのは、並大抵のものではなかった。大田が道路に寝たり、「僕ねえ、吐くときは本原君の..。」と言いながら、私のシャツの胸元をひろげて、そこに顔をうずめて吐く真似をしたりするので、まともに前に進むのが一苦労だったのであった。そしてやっとタクシーに乗り込んで走り出すと又、「僕、吐きそう!」と言って私の後から肩越しに私のシャツをひっぱってみたりして、人を驚かせて喜んでいた。
だが、タクシーが止まり、ドアが開くや否や、彼はゴムまりのように道に飛び出し、そこに全てをぶちまけたのであった。そうして、私とあの大津は、大田を抱えながら音無しの構えで下宿に入り込んだ。そして隣室の浪人さんに大田のことを頼むと、又、2人で深夜の京都に出ていった。
ちんけなドアを開けて店に入ると、人をへだてたむこうの席に、新谷、梶山、梅原、高橋と沈没している吉川の顔が見えた。潜水艦のような梶山は、吉川を沈め、次なるターゲットに高橋に照準を定めているようであった。そのこぎたない店は結構混んでいて、彼等の間に人をはさんで、あの大津とビールを汲み交わし始めた。
我々の間の障害物がなくなり席をつめると、梶山のちっこい目がキラりと光った。
梶山のジトッーとした攻撃に高橋の沈没は時間の問題だった。高橋は梶山や新谷の注意を私にそらすために私にSOSを打ってきたが、私もあの大津と結構飲んでいたので限界に近い状態であった。
だが酒の1滴は血の1滴である。彼等が勧めてくれるビールは彼等の血液に他ならない。
彼等が、我々WCC3年生をもてなすために、かなりの金額を散財しているのは、百も承知していた。
そして後日、彼等が金欠になるのは容易に想像できたのであった。そして敢えてそこまでしてくれる彼等の気持ちが私には嬉しく、ビールを胃袋へと流し込んでいった。
私には、そうすることでしか彼等に対して感謝の意を表明できなかったからだ。
言葉は実にあやふやなものだから。そして心の中で「ありがとう、西の仲間達よ!」と叫ぶより他はなかった。だが、どうして我々は、一体仲間なのであり得るのだろうか。
我々が会えた時間はそれほど長いものでもない。日常的な語らいではなく、年に1回の『七夕』的なものなのに..?
こういった私の頭の混乱は、一緒に走りそして峠を登ったということを想い出すことで解決された。そう、言葉で語り合うよりも、峠を登るという「共同作業」が体で語り合う事を許してくれるのだ。それが故に、時間の長短という問題は意味を持たなくなるのだと思えた。人々が一般にコミュニケーションをひたすら拒み、固有の自我へと引きこもった結果、コミュニケーションとしての本来の言葉は、
本来的意味を喪失してしまっているという状況は、私にも思い当たる節がある。
だが、我々の峠を登るという行為は、それ自体確かにペダルを踏む自分1人の世界であるが、時に、苦しみと闘う自分の他に、同様な苦しみを持った他者の存在を意識せざるを得ない。
別に自分1人ではない、何かに駆られて自分と同じ行為をしている他者の苦しんでいる息づかいが耳に入ってくるときの連帯感、帰属感が、我々にすでに失なわれた共同体的な概念、
それは、今の社会機構には、もう見られることがまれと言ってもよいほど少なくなったものであり、
その崩壊は、都市化によって引き起こされたものであり、それによって人間疎外という現象が噴出している -を呼び起こすのであろう。
(これはきっと1人では生きてゆけない私の、浅薄でセンチメンタルな感情論に過ぎないのだが。)
そして、それが醸し出す安心感が、私に彼等を無条件に受け容れることに対して、何らの疑問と異和感を抱かせないのだろう。
店を出ると、沈没したはずの戦艦吉川が、又、浮上していた。現金(?)な奴だ。しかしそれにしてもひどかったものだ。店を出るとあらん限りの声で歌いながら千鳥足で歩き、あの大津は例の「オ○○、ショーケェー!」を連発するし、道端のホースで水をかけるバカもいたし、立ち小便etc. の大トラ連中となってしまった。
そしてこの大トラ連中が2回生の伊藤の下宿へ押しかけていったのだから、さしもの伊藤もたまらなかったであろう。いやはや、とんでもなく荒れてしまったものだ。
可哀そうに伊藤は、寝入り鼻を押し入られ、ドアを開けると、すぐまた横になったが、下は誰かに○○をギュッと握ぎりしめられ、そして上は閉じたまぶたまであけられ、その上からバッテリーで照らされたり、あの大津が自分の○○○を伊藤の顔面に押しつけたりで、全く悲惨の極致であった。
まあ、これも酔っているうえに、人ごとだからできるのだろうが、我々には罪悪感のカケラもなかった。だが、伊藤もなかなかの役者だから、いやがる素振りをみせながらも本当は喜んでいたのだ。
しかし、こういった悪戯が何のためらいなくできるDCCの3年は悪人ばかりだ!
夜中に騒ぐと、伊藤はともかく、隣室の人に迷惑だろうということで、伊藤イビリをやめにして、我々は、それぞれのねぐらへ帰っていった。
目が醒めると、頭が少し重かった。あの大津の部屋にしてはよく整理されていた。
しかしそれにしても、本の数はかなりあった。よほど小説、特に純文学系統のものが好きなのであろうと、私は思った。そう言えば昨夜、大田を寝かせて4次会に行く途中のタクシーの中で話しているうちに、彼が「頭でっかちにはなりたくない。」と言ったのが、なんとなく理解でき、不思議な男だと思ったのだった。そうして、本棚に目をやっていると「人間として」という廃刊になった季刊紙が、それもほぼ全号揃えてあった。「人間として」…、あ、もしやあの・・、と私はピンと来るものがあり、手にとって見ると、やはりそうであった。
私も、1年の後期から2年の初期にかけてそれを探すために早稲田近辺の古本屋をのぞいたことがあったからだ。読んでいる本によって、その人の「ひととなり」を判断するわけでは毛頭ないが、ただ彼がこういった本までも読破していて、その結果「頭でっかちにはなりたくない。」と言うのであるならば、その言葉には含蓄深いものがあろう。
私には、あの大津の姿が生々しく映り、彼の人間性の、ほんの1部だが、垣間見ることができたことがたまらなく嬉しかった。偉い男だと思った。
そして改めて、私が京都を発ったのは、それから3日後だった。嬉しいことに宇根や大塚、梶山、新谷が
見送りに来てくれた。彼等の手で、私はホームで「ちょうちょ」にされた。周囲の眼が、我々の方に集まっていた。
私は電車に乗り込むと、ホームに立っている彼等と握手を交わしながら、「来年は来いよ!」と言った。
扉が閉じ、電車が動き出すと、彼等は「都の西北」を、挙を振り上げながら歌ってくれた。
雨車の速度が徐々に増してゆき、とうとう、彼等は..視界から消えてしまった。
私は、この間の感動を表わす術を知らない。感傷にも似た想いが私の胸をよぎり去る。
もう時間旅行も終りが近づいてきたようだ。これらの想い出をかき集めて、過去をふりむくのは、あまりにも懐古趣味、少女趣味なのであろうか?いや、人には、1つぐらいは大切にしたいという想い出があってもよいではないか。
ただ言えるのは、そこには、私の青春と呼び得るものが在った。いくつかの生の風景が、私の中に痕跡を残して過ぎ去っていった。今では、みんなの顔が、走馬燈のように浮んでは消え、消えては浮ぶ。第14回早同交歓会が、私にとって生の証しであるならば、彼等は連帯保証人なのだ。
いやそれが生の証しとなるであろう事を私は予想、いや期待して、あの東京発の大垣行きに乗ったのだ。そう、それは真しく、生の証し、生の風景であった。
1年生企画ランB隊 – 張替
1年生企画ランB隊 社会科学部2年 張替
「ハリゲー、5時だぞ。」
と岸野が私を揺り起した。「おお。」と眠気まじりのさえない返答をしたが、何分、昨夜のクラスコンパで飲みすぎ酒がまだ幾分、胃に残っていたありさま。
やっとの想いで半身を起すと、やけに寒さが身にしみた。外へ出ると、途方もない寒気で、2、3歩、歩くと、スーッと風を切り、寒さが骨まで伝わった。
これは後で分った事だが、この日は、この冬1番の冷え込みであったそうな。K-5-10を出て、夏目坂を下るときの寒さと言ったら、それこそ針を指すような寒気で、1ぺんに目を覚まさせられた。数日前入部したばかりの中村さんが、事によったら5時半に、大隈講堂前に来るというので、岸野と2人でまずそこへ行った。
岸野はこの寒さをさして気にしている様子も無くはしゃいでおり、山中で鍛えた肉体というものに敬服せざるを得なかった。5時半まで待ったが中村さん来ず。出がけに吉野屋で牛丼を喰ったが、2日酔の為がまずくて仕方なく、やっとの思いでつめこんだ。
そして田中Bの待つ田無へと我々は向った。2日酔の為か、はたまた2人の肉体の相違かはわからぬが、岸野の速さには付いてゆけず、どんどん引き離されてゆく。
田無の少し手前で、気持が悪くなった私はついに岸野に先に行ってくれと頼む始末。が、しばらくゆくと岸野と田中Bがガソリンスタンドの前に居て、手を振っていた。
そこでしばらく休んでいると「ハリゲー」と誰れか呼ぶものがあった。
振り返ると、同大のユニホームを着て、ロードにまたがったサイクリストが2人こっちを見ている。(なんで同大のサイクリストが、こんなに朝早く、こんなところに来てるのか。)
という疑問が一瞬、浮かんだが、よく見ると、なんのことはない、佐々木さんと本原さんだったではないか。
みんな東飯能組であったので、私1人でやむなく東青梅へ向った。東青梅へ近づくに連れ気分は良くなった。「青梅市」という標識を過ぎた頃は、もうすっかり、気分を気分を回復していて、(田舎の空気はうまい。さすがは、吉川さんの生まれて育ったところだ)と痛感した。駅に着くと、遠藤と橋本が居り、「みんなは南口で待っているから呼んでくる。」
と言って姿を消した。
しばらくすると、深井さん、田中さん、磯谷、それと橋本、遠藤が来た。9時10分くらい前に、吉川さん、小辻さん、高橋さん、後藤が来て計10人となった。8時集合であるのに、9時になっても10人しか集まらず、出発を延期して9時45分まで待ったが、11人以上に増える事はなかった。全体CLの松井も来てないし、第1、2年生が、中村さんを除いて誰も来ていないというのは、今回の責任者である私にとってはショックであった。
「1年生企画だと思って甘くみられているな。」という気はしたが、そういう私自身、甘くみていたことは確かであった。第1、班割表も持ってこなければ、住所録も無いという軽卒さであったではないか。
とにかく、3班編成を2班編成に替え、私が全体CLを勤め、後藤を隊長にして、9時45分出発となった。10人というクラブランとしては少数である。1行は、吹上峠、小沢峠を越え、天目指峠の入口までのコースを予定より早く消化した。
ここからはフリーランであるが、全体CLの私は5分ほどみんなより早めに出発した。
途中で私は後から追いつかれるのではないかという不安の為、何度か振り返り、深緑の木々や紅葉の間から、黄色のユニホームが見あたらないのを確認しては安心する始末であった。
それもそのはず、早同TTを57番という成績に終っている私は、それがいかに51のギアの為であったにしろ、脚力に自信を無くしていたのであるから無理はなかった。順次到着し、そこで昼食をとった。頂上は寒く、汗をかいた後なので、余計に冷え込んだ。が、高橋さんは1人ランニング姿で飯をほおばっていた。何時見ても不思議な人である。そこから地道を下り、名栗川沿の道を正丸峠方面に走り、いよいよ今日のハイライト刈場坂峠の入口に着いた。フリーランは行ったが、今度は吉川さんが先頭に行って
くれたので助かった。そこで私は最後尾から走った。
私の前を走っているゴトーにどんどん差をつけられ、ついに彼は見えなくなってしまった。
(いくら、最後尾から走ったと言っても、これ程差がひらいてしまっては頂上に行ってから、言いわけのしようがない。それに、なんと言っても今日、妙に、大宮か青梅かで、つっかかってくる吉川さんの嘲笑が恐い。)
そこで、私も男の意地を賭け、力を振りしぼって、ゴトーを追いかけた。
が、行けども、行けどもゴトーは見えない。3分の2ほど登ったころだろうか、大きなカーブを曲がると、私は「やったァ」と思わず叫んだ。
ゴトーの奴がありがたくもパンクしてくれたのであった。私は思わず笑いながら「役得、役得。」と言って自転車から降りてゴトーの前に腰をおろした。
しかし、この冬1番の寒さは、ゴトーのパンク修理の間も我々に襲いかかった。
私(もう充分休んだし早く終らねえかなァ。)と思いながらタバコをふかしていた。
ようやくパンクもなおり、2人で頂上に登ると、みんなは寒そうにしていた。
そこでしばらく休んでから、快適な奥武蔵グリーラインを通って顔振峠までたどりついた。
そこで最後の記念写真を撮り、無事4時半、飯能駅に到着したのであった。
今度の企画の反省としては、まず、先程も書いたが、班割表、住所録などを持ってこなかった事。
それと企画を早同ラン以前に既に組んでしまったため、安心しきっていて、今回のランの直前には、1年生会ミーティングを開らかなかった事。
パートランにした場合にはパンフの中に班割を記入して置かねばならない事なども気づいた。
何にしても、私個人としては、今回のランをなんとなく甘く見ていた所があり、責任者としての自覚が足りなかったような気がした。
ただ、「今度のコースは気持ちが良く、楽しかった。」と言って下さった諸先輩方の言葉が非常に嬉しく思い、それだけが今回のランを成功と呼べる唯一の物であったと思っている。
(了)
秋の断章 – 田中
秋の断章 第1文学部5年 田中
77追い出しラン
電車は例年に無く暖い晩秋の郊外を、のどかに走っていく。これから参加するランは短かった私のクラブ生活の総終のものであり、揺られ行く車中にあっても、想いは懐しい昔日の情景に至らずにはいられない。
思えば、大学も2年になり自らの漂々とした存在をたくすべくWCCに入部して、最初のランが、輪行による渋峠へのプレ合宿であった。内気な性格も手伝って当初部室にも滅多に顔を出すことのなかった私には、長野原へ向う車中でも学年を同じくする荻原君と2言、3言の言葉を交わすのがやっとであり、これから数年クラブでやっていけるのか心配したものだった。
そして3年が経った。部室にいても馬鹿にされ、又馬鹿にし合うことのできる仲間もできた。
窓外の景色を見ては不安を覚えた3年前と変わり、今見ている車窓の流れは私に快いやすらぎと、「俺も今回のランでクラブを去る事になるのだ。」と言う胸詰まる懐愁を投げかける。
流れ行く緑の彩りと、時たま目を横ぎる橙の線条が注意を呼びます他は、時の流れすら私を捉えることは無い。30分、1時間と私の意識は緑の林、柔らかな茶に染まるすすきの内にすい込まれ、駅名を告げるアナウンサーの声に吃驚する自らをそこに発見しては、微笑を禁じ得ないでいた。
そんな私の姿を見て、いぶかし気な顔をする人もいたろう。しかし次の瞬間、再たび私はいつか走った路を遠くなぞっている。
1時間半もそうしていたろうか、電車はすでに神奈川の1駅に停車し、ホームのベルは私をせかすかの様にけたたましい響きを上げている。
「大秦野」例年の追い出しランにおける伝統はこの日にあっては全く覆され、秋の寒い空気を貫く日差しは我々の笑顔を一層明るく照らし出している。舞台を照らす光は完全に自らの役を果たすのだが、準備されるべき装置は伝統にのっとり、まだそろわない。
既に自転車を組み終え、雑談に花咲かす2年生に軽く言葉を掛け、私も自転車を組む。組み上げ、他の車の隣りに並べる。すると私はいつもの思いに捉われる、最高のやっと。
フレームは佐々木君の言を借りるならば「この車、大きな事故を1回はしてますね。」
と言う程の代物であり、少々ガタがきている。スポークも1本、それも後輪のフリー側のものが折れているが、去年の早慶ラン以来気にせず乗っている。左側のトゥークリップが無く、右側のペダルはねじ山がつぶれ、輪行の際もはずせない。リテーナー部も疲れが来ていて、前ブレーキをかけて車体を前後するとガタン、ガタンと異音を発する。最近クランクを見たところでは、チェーンをはずして軽く回すとベアリングの当る振動が手に伝わる。サドルは股に当る部分のみが異常にせり上がっている。
タイヤも空気圧の調節、道路状態に拠り説輪することもある。また、大間崎のとある小さな自転屋で買ったものである為、オープンサイド等と言う現代的なものでなく、全生ゴムという異常な重さのもの。前輪と後輪のスポークの組み方が異なる。
等々、数え上げればまだまだ欠点だらけのお世辞にも高級車とは言えない車であるが、矢張り私にとっては最高のものである。メカに詳しい者に言わせると、おそらく危険この上ないものなのだろう。理屈ではわかっているが、私の気持ちがそれを許さないのは、この車が私と共にあり、そのイカレタ1つ1つの部品に苦楽が浸み付いているからであろうか。
私と前後してやって来た深津、大上の両君もそろそろ愛車の組立てを終えたものと思われ、何だかんだ話しているが、どうも表情に晴れ晴れしたところが無い。
これは常時の飲む、打つ、買うの話ではないなと思い尋ねてみると、何の事はない飯の算段である。それまで、今回のランが最後のものになると思い、感慨にふけっていた私ではあったが、彼らの考えるところに早速合流し、自らそのコースリーダーを務めるところとなった。
この大秦野と言う町、駅前から根本的に開発途上市と見え、意気がった割には中味がなく、橋を渡ってすぐ左手に上野のアメ横にもとても追いつけない様な店長屋が連っている。
最初見た時「何だコリャ」程度に眺めたこの長屋も、数分歩いてどこにも開いている店が無いと悟り、しかたなくもぐり込んでいった際には、何かくつろいだものを感じた覚えがある。
20分後、とあるラーメン屋で3人のラーメン食人の姿が見られた。
ラーメンを食って2時間も経った頃であったろうか、私の属する4班は、道を間違えてひたすら長い地道を登っていた。この坂は割とひどい道であったのだが、これまで手ずから峠と親しんでいた私にとっては、特筆すべきものではなかったので、他の班員にとってむしろ過酷であったろう。
途中どれだけか行ったところでコースがそれてしまった事に気付いた班長、CLではあったが、それでも私は燃えていた。地図を見ると途中で予定コースと合しているのに気付き、このまま行く事を主張したのだが、他の班員は全て私の持つガッツに驚き、きっと「このままでは俺達の体がもたない」とでも思ったのだろう、どうしても戻る事に決まってしまったのである。
私は寛大だった。彼ら後輩の体力を気遣い、そして彼らの決定を尊重して己れを殺したのである。瞬時のダウンヒルを半喫した後、我々は再び登山道に対して挑戦していた。
眼前にそびえる丹沢の山景を眺めながらのサイクリングは、私を魅了するはずだった。
ところが、足下に広がる岩のじゅうたんはトップで前進している愛車に大きなる負加を与え、私の意志を打ちくだくべく戦いを試みていた。全エネルギーはペダルに加えられる。
ハンドルを引く腕は、自らの力の存在を知らす様に筋肉の形状を浮き上がらせる。
額から落ちる汗。はじけ飛ぶ岩。きしむハンドル。そして叫び始めるクランク。
今、打ち勝つべき相手はこの路にしき詰められた岩の層ではなかった。自己との戦いだけがそこにあった。(何だかんだ少々気張って書いてみたが、あーシンド。疲れて疲れて、ワシャもうシンドォーてたまらん。)
まァ、どうにかこうにか30分も走っていくと、上の方で黄色軍団がワァー、ワァー喚いでいるのが見えた。「何やってんだあいつら、阿呆はどこに行っても阿呆やな。」等と思ったのだが、ついつられて私もその声に答えてしまった。結局途中で道を間違ってしまったのがたたり、我が班の後、2班を残すのみとなって到着。
流石、4年生ともなると違うものである。自転車に乗っている時は、それこそ顔を引きつらせて親の敵とばかりにふんばっているのが、一端自転車から下りてしまうと天下は俺の手にと言った態度になるのは年の成せる技か。その主人公は誰あろう、池田と深津の両・・君である。
そんな中にあって、1人深刻に考え込んでいるのは高田B君、その人であります。
何をしているのかと思いきや、いっちゅう氏のものを覗いては触り、触っては覗いた後、あれは何だ、これは何だとしきりに尋ねている。何の事は無い、カメラの話である。そうこうする内に、先程我々が散散悪態をつかれていた地点にイモ虫よろしく這ってくる連なりが見えてくる。
明らかに4年の最長老山口氏を加えた班とわかる。なぜなら「非常に遅い」。
この一言で説明は尽きるからだ。彼氏の班に続き、残す1班も無事到着するとここで、昼食の旨伝えられた。昼食と言っても時すでに12時をはるかに過ぎて、日は西に傾きかけている。
参加者中、数少ないバッテリーランプ所持者の1人であった私はこの辺から1人ほくそ笑んでいたものなのだが、(と言うのは、追い出しランにあっては予定があっさりと3、4時間遅れるのは何ら不思議な事では無かったから)後に完全に裏切られてしまった。
さて、ここで出てきたのが『切れば出るの法則』で麻雀横町さわだ屋に華々しくデヴューした松森君である。彼氏フロントバッグから1かかえの荷物を持ってくると、ガサガサ広げ出し、そこにいた者達を衝撃の渦の中にまき込んだものである。
何と固形燃料、紅茶、ビスケット、バナナ、ゆでタマゴ、ハムサンド、エトセトラとまではいかなかったのだが、それに類したものを2、3取り出して紅茶などわかし出したのである。
最初のうち、彼のその姿を見ながら「何ァーにやってんだこいつ、阿呆はどこに行っても阿呆やな。」等と思ったりしていたのだが、(斬捨御免)、そのうち湯がわいてくるのを見て「はよできんのかな、何ァーにやってんだこいつ。」と思い、はやる気持ちをおさえていたのを覚えている。砂糖が無かったのが残念であったが、矢張り山に囲まれた自然の中ですする紅茶はうまかった。紅茶を分けてもらった全ての追い出され人を代表して、ここに感謝する次第である。
昼食の後、各班班別にヤビツ峠への舗装路との合流点に向う事で走り始めたが、余裕の4班は前を行く5つの班を抜く為、最後から出る事にした。4班には私が属しているのである。
誰が余裕かはわかったものでもないが、とにかく結果として最後になってしまったのだ。
路は今まで走ってきた以上に挑戦的で、途中武藤君がチェーンとけんかをする事がなかったとすると、私以外の4名は一体どうなっていた事だろうか。
パイロン走行を駆使する私と、不細工な乗り方でガタゴトやってくる他4名が、それぞれに進んでくると、他3班が休憩している橋に到着。最初コースの変更でもあったのかと思ったのだが、話に拠ると疲れた言う事であり、何の事は無い私1人が、屁の河童でここまで来たのである。
これ以後、合流地点までは比較的平坦な路が続き、私も松森、武藤の両君に麻雀の点数計算法などを教えてもらいながら行くのだが、全く要領を得ない会話はこれから行われるであろう4年生TTに良い影響を与えるとは思えなかったので、即やめてゴテゴテ言いつつ再た走る。走る、走る、ただ走る。その結果、アッと言う間に合流点に着く。
ここからTTが始まるかと思うと、普通多少の緊張があるものなのだが、そういった雰囲気は全く見られない。余裕と言うか、あきらめと言うか、それともこれからTTが始まる事を知らないかのいずれかであった。私はと言えば、このランの出欠が取られた時点で1位をねらっていたのであり、それは確固とした動かないものと思っていた。
『山口、久保は健闘の拍手で迎えられるだろう。一仲はビリになろうがブービーになろうがマイペースで走る男だ。深津は合宿の時以来走っていないし、それに合宿の時の様子からして問題ではない。残るは池田、清水、高田Bの3人だが、池田は亜米利加に行って絵露本を買ってくる程だから、あまりパッとした成果は望めまい。と、すると清水、高田か。高田はこのTTの為にフロントバックを持ってこず、
リュックを担ぐ程だから意気込みだけは十分うかがえる。
だが、今までのあいつの様子からしてあまり熱があるようには見えない。余裕か、それとも・・、恐いところだな。残るは清水か、あいつは常時でも元気ある奴だから、それにテニス部にも所属し、体力の方は充分だ。しかも決定的な事は就職に見事成功して気を良くしている事だ。気分が乗っているから1番の強敵になるだろう。普段から自転車に親しんでいる俺ではあるが、体力では清水にはとてもかなわない。勝負は序盤で決まるだろう。最初に出なければダメだ。よし、一気に飛び出そう。』
私にとって、今回のTTは清水、高田との戦いである事は見えていた。しかし、それでもトップを私が獲得する事はほとんど動かしようのないものだった。
全班集合した後、10数分の休息を取って神塚君から
「4年生だけ残して、他の人は先に峠に行って下さい。」
との発表がされた。かつての追い出しランにおける伝統はここでも再た覆される事となったのである。例年であるならば4年生を先に行かせ、後から卒業生を抜かない程度の速さで追うと言うパターンが採られただろう。
それが今年は参加者一同、衆人の環視の内でゴールを抜けると言う型が採られたのである。
この方法は私を含む極く1部の人間には歓迎されるものだったが、その他多数にとっては何がしかの苦痛を刻み込んだものと思われる。
(とは言ってもそれ程のことがある訳ではなく、私など至極満足している。この理由は後に明らかにされるだろう。)
2年生数人が残り、他の者が全員峠に向かった後、我々は横1列、道一杯に並んだ。
その時まで笑ふざけ、事も無げにしていた我々もこの瞬間ばかりは緊張に包まれる。
これから登っていく路の1点をそれぞれに凝視したまま、時間も更に空気の流れすらも止まり、ただ冷たく硬直した姿だけがそこに見い出された。
「スタート!!」
この一言で、それまで我々を支配していた緊張は破られ、無中の戦いのみが展開される。先ず私が先頭で飛び出す。
後ろでは話し声が聞こえていた様な気もするが、しかしもう私には何も聞こえない。
ペースを考えずに、いきなり初っ鼻から渾身の力を込めてペダルを踏む為か、10mも進まない内から呼吸が苦しくなる。汗も流れ出し、疲労と異常とも思われる興奮状態の中にある事がわかる。左足で踏み込み、右手で引く。
逆に右足と左手との連動。この1つ1つの動きにも筋肉は収縮の極にまで達し、痛みが腕、脚を通して走る。岩壁と断崖に挟まれた路はどれ程の幅があったのか。今ではその記憶すらも忘却の彼方に退き、漠としている。
と、私の右側を1つの体軀が通り過ぎていく。一瞬私は自分の眼を疑った。
私が抜かれると言う事は信じ難い事だった。しかも、スタート後1分も経たない内に抜かれるとは。瞬間、眼に見えない、と言うよりむしろ意識を越えた世界にあって、抽象のかたまりが横を行く様に思えたのも、その時、熱情と興奮と志我の混沌の内に私があった為だろうか。
清水氏の体は踊っている様だった。一踏み毎に弾みが加えられ、さながら一踏み200mの感すら与えるものだった。目を走らせた時には既に2車身もの距離を開けられ、そのまま行けばゴールの時点で分単位の差が出るのは明らかだった。遠くから我々2人の姿を俯瞰した者ならば、そこに兎と亀の姿を見たであろうと、これから後に童話の物語が再度繰り返されるとは考えられなかったに違いない。
「畜生、あのヤロー」悔しさが私を支配し、自然に戦闘的とならざるを得なかった。
私も腰を上げ、弾みを付ける様にして彼を追い始めた。追われる者の疲労は、追うものとそれに増さる事は誰もが知るところであろうが、私には最速そんな暢気な事を言っている余裕など全く無く、有るのは、唯どうしても抜かなければと言うあせりであった。
「ホッ、ホッ、ホッ・・」
と言う彼の軽快な声と
「ハー、ハー、ハー..」
と言う私のにどった苦闘の対象は一層私をいら立たせ、一声毎に距離が開いていくのを相俟って、いよいよあせりに満たされていく。
だが、必死に追おうとすればする程無理な疲労が重なるばかりで、逆に結果は悪くなり易い。
再びサドルに腰を下ろして、一踏みずつ自分のペースを維持して走る事にする。清水との間隔も、しばらくの間ほんのわずかの距離しか開かずにいるところを見ると、彼も途々に疲労してきているのだろう事が察せられる。が、確実に開いていく..。
もう6、7分も走っただろうか。最初の神塚君の話すところでは、全体で10分程度と言う事だったので、今までの速さならもうすぐだろう。今までただ路面のみを見つめて走っていた為、景色とかどの程度の勾配かについて何ら思う事がなかったが、清水氏を追う事をあきらめてからは「前に1人で来た時には霧で見えなかったけれど、この辺はこういう感じのところだったのか」等と、以前の事を想い返す事もできた。とは言っても、後ろを振り返り高田か池田が今にも追い付いて来るのではないかと気遣いながらであり、息せき切って必死である事に変わりは無いのだが。
『ゴールはまだかな』もうそろそろ見えると思うんだが。このままいくと2位か、畜生、悔しいな。清水はもう着いたのかな。高田も池田も見えないが、今頃どの辺を走っているのだろう。ペダルが重いな。息も苦しいし、腕も痛いな。
これらの考えがどれとも無く、次々と湧き上ってきては頭の中に入り込むが、どれも確りと足場を占める事はできない。その時、もう私は清水を抜く事をあきらめていた。彼の姿が全く見えなくなった事もあるが、それ以上に自分の脚力がそれを許さないのを認めていたからである。
残るは確実に2位をものにする事だけで、3位になるのは私のプライドが、意志が、そして事実が許さないところだった。なおも息を切らして唯ペダルを踏み、時折後ろを振り返り誰もいないのを確かめては安心する。しばらくその様に走っていくうちに、左手の木のこんもり繁った辺りから「ワァー」と言う声が聞こえてきた。それが清水の1位を告げるみんなの歓声である事は今や誰にも明らかだった。
と同時に私の脚にも力が込もり、ゴールへの道を急いだ。カーブを1つ左に曲がり残る右カーブを過ぎれば、そこには我々の到着を待ち設けているみんなの顔があると思うと、自然喜びが湧いてくる。左カーブをまわる。
「あと1つ曲がれば終わる。この苦しさも終わる。ゴールだ。さあもう少しだ。」..
「あと5mだ。」これだけの思いが、今までの苦しみを全て隠してしまう程の励みとなる。
「あと4m。」こう思う時、10数分前にあった緊張は自らその存在をくらまし、それまで忘我のうちにあった興奮が再び私を支配する。
「あと3m。」話し声が聞こえてくる。今まで目指してきたゴールは確かにそこにあるのだ。
「あと2m。」話し声が次第に大きくなってきた。脚を走る痛みすらも既に私のものではない。
「あと1m。」終わる、終わる。みんなの顔が見える。
この距離の内には、今までの私の存在を燃やし尽くすだけの全ゆるものがある。
残る右カーブを曲る。と同時に、私の到着を示す歓声が丹沢の山々に霊した。
それまで、唯夢とも現とも信じ難い漠とした観念の内にあった意識が、この瞬間に生々とした現実となって私を取り込む。永遠の時の彼方で行われている様に想われたTTへの挑戦が、この瞬間に終わる。3年生の顔が見られる。2年、1年生が私を見ている。
そして、彼らの内に混ざって、先に着いた清水も笑顔で迎えている。クラブに所属していた事の喜びがこの瞬間に得られる。
それから10分も経ったであろうか、ブービー久保氏、最後の総仕上げ山口氏をもって、77年度追い出しTTは無事終った。それまで全てを支配していた熱狂も姿を消し、何事かを成し得た若者にのみ見られる安堵と倦怠だけが、ヤビツの峠にあった。
タイムトライアルの後、我々はこの日の宿である、丹沢子供の家とか何とか言う国民宿舎へと向かった。途中、私の班は1年生の遠藤君がパンクした他は、何事も無く目的地に着く事ができた。話に拠ると、他班ではこの数キロの間に数度もパンクをする者がいたと言う事だ。追い出しでこの様な荒い地道の下りに合うと、2年前矢張り追い出しランで見せつけられた先輩のライディングテクニックを想い出す。
宿舎はさすがに丹沢の山奥にある、ひなびたものだった。10月も下旬と言う事で、季節ならばアユ釣りの客でにぎわいを見せる土地なのだろうが、宿泊客は我々と他に数組の家族連れのみだった。閑静な土地柄も何よりな事ながら、部屋が離れになっている事は、最近とみに活発化してきた我がクラブ部員が休息する為には、最適な事の1つの条件であった。我々の休息には酒が欠かせない。そこで混破(コンパ)である。
追い出しランにあっては、コンパが何故か穏やかである事が通り相場であるのは、今年までのランに参加した者なら誰も知るところだろう。しかし、それも最早、古の伝統としてその姿を留めるに終ったのだろうか、今年は、大変なものだった。
今年2月9日にあった追いコンを除いて、新歓コンから今日のものまで全てが混破そのものであった。
この混破で、4年の清水、大上、田中の3氏が次期執行部を形作る神塚、杉本、奥山君初め、その他各君を酒まつりに上げたのを記憶している輩も少くあるまい。
しかも、その返礼にと酒の入った薬罐を持ってなぐり込んで来た芥川、その他多勢の各君が悉く返り打ちに会った事も、筆者のみ判然と記憶しているところである。
感極まり、涙する者の姿も見られた。全員で円陣を組み、校歌、応援歌、人生劇場その他諸々いつもの大斉唱を終えた後には、既に私は現から旅立ち、1人布団にくるまり安らかな睡りに着いていたのだが、夢の中でパンツが乱舞していたあの光景は果たして何だったのか。兎にも角にも、一日目全てが良かった。
そして翌日。前日、しこたま体内に蓄積されたアルコール分は全く抜けていなかった。
目覚めと供に、急激に頭痛、筋肉痛、腹痛、心痛が襲ってきて、結局よいよい気分のままランに着く。ちなみに深津氏から発せられた言葉を1つ。
「道がグラグラ揺れていた。」
この日、次期執行委員達によって作案されていたコースは、輝しくもまぶしくも、極めて個性的であり、独自性に富み、創造性あふれるものだった。
おっと1つ大事な事を忘れていた。この日最もあふれていたのはアップダウンと距離と、おまけに地道だったのである。伝統も糞もあったものでは無かった。そこはそれ4年生の無言の圧力(これは嘘・・?)によって、絶対無二の真理予定は未定が適用されたのだった。
山口氏の「コースが変更されないのなら、俺は1人でも右の道を行く(コースは変更され、右側の道を行く事となる)。と言う涙ぐましいまでの思惑も、見事受け入れられる事と相成った。かくして途中から4年の小林氏を加え、結局彼氏は全くの苦労知らずのまま、目的地高尾へと向かった。
高尾での閉会式では、小生ずうずうしくも「来年は今年以上に立派なトロフィーを用意して呉れ。」等
と宣ってしまったが、この真意を解していた者はどれ程いたことだろうか。
つまり今年1回でこりず、来年も追い出される事を今から準備していたのである。
この稿の冒頭「これから参加するランは短かった私のクラブ生活の総終のものであり、云々。」と暴言をはいてしまったが、その分来年も出るので許して頂きたい。
『追い出しランは素晴らしい』この思いを再び味わえる私は全くの幸福者と言う他は無いだろう。
式後、同学年の者達は三々五々に散っていった。ほとんど走って帰ったのだが、千葉の都会、柏まで帰る私には高尾からの道程はあまりにも遠すぎた。
「みんなと付き合いたかった。」私ばかりでなく、輪行にて帰途に着く事を決めた者達のうちにも、又自転車で走って東京まで向かった者達のうちにも、同じくこういった種の思いがあったのではないだろうか。そして、それは
「矢張り、今日のランでもう一緒に走る事は無いのだろうか。」
との思いが成さくめたものなのだろう。最早、私達が銀輪を並べて峠に向かう事はあるまい。
が、今日まで数10回に渡り、供に汗を流し、登渡った青空の下で峠に立ち、風を切ったと言う事実は、いつまでも心に焼き付いて離れる事はないだろう。
卒業と同時に自転車から去る者もあるだろう。各々住む場所も四散し、全員顔を会わせる事すら
ほとんどなくなるかも知れない。しかし、何年の歳月を経ようとも、生活が何如に移り変わろうとも、我々が供に在ったと言う事実は残る。過去は現在を作り、現在は未来を築き上げていく。
将来どの様な生涯を送っていこうとも、我々の内には今日までに育まれた意志と力がいつまでもあるに違いない。
私はクラブを去っても自転車から離れる事は無いと思う。10年後の春、ガタビシ音を立てながら、
ガタのきた自転車を大垂水峠目指して押していく私の横を、隊伍を組んだ黄色いユニホームが抜いていく事があるかも知れない。そんな時、私は息を切らして彼らの後を追っていくのだろう。ちょうど10年前、ヤビツ峠でそうしていたように。
終り
次章、ひとときへ