峠_13号_1978_ひととき

「1977年夏」 – 小辻

三年 小辻 

クラブランには必ずと云っていい程に参加している小生ではあるが、プライベートランとなるとほとんど経験のないところである。

今年の合宿は青森集合である。なんとしても青森まで走りたい。合宿前の小生はこの願望にとりこになっていた。はたせるかな、吉川、張替、桑谷、松下、岸野、というとんでもない連中が賛同してくれたのである。かくして、どうしょうもない1行のとほうもない旅が始まったのである。しかし、その計画はあまりにずさんであった。
(ことに日時の計画があまりにいい加減で、あまりに甘かった)ため後に、後悔を残すことになるのだが..。まずはあの楽しき日々をふり返ってみよう。

7月21日晴
吉川の最後の試験が終るのを待って、明日出発が決っていた。

その日、小生はS君に以前からたのまれていれ極秘の件をすませて、S君はニコニコしながら帰っていった。(その後、クラブ内でことに有名になった事件の、そもそものはじまりだったのだが・・。)

午後3時頃、吉川がY嬢を伴って我下宿を訪ずれた。明日から、1ヶ月近くのお別れをするためであった。

夕方彼は一旦自転車をとりに青梅に帰った。小生は最後の準備に余念がなかった。

7月22日快晴
午前1時、吉川が下宿に来る。こんなに遅くに来るとは思わなかったヨー。しばらく談笑の後、さて彼の自転車を組み始めると、ブレーキに欠ける物あり、前ブレーキの小物がないのである。今日の集合は午前5時、青梅に帰って取って来るには、青梅はあまりに遠い、集合は遅らせる事とが不可、しかたない道々、行きながらさがそうということになりまがりなりにも一件落着、まあ、何とかなるということになる。

このあたり我々の体質を如実に表わしていると云えよう。1年生にはこの件は極秘とする。案の定、彼等はちっとも気付かなかった。

こんなごたごたでとうとう一睡もせずに、午前4時、吉川持参のハムのかんずめ、パン等で朝食を取り、午前5時下宿を出発。ピーンと緊張した空気の中を早稲田へ向った。

朝霧の中、大隈講堂前にはすでに1年生が集まっていた。いざ出発、青森までの長く遠い距離を考えるとピンピンになる。

松戸で桑谷じいさんをひろって全員集合、新歓ランのコースどおり土浦へ、快調そのもの、のはずがCLをつとめた小生が、我孫子で休めばいいのに、ガッツで土浦まで走り通したため、のどはカラカラ、ハラペコチャリン、またその日の暑さはポッポッと頭がフットウするほどであったのだ。

汗も出ない程にカラカラに日干しになって土浦到着、もう元も云えぬほどのバテよう。ミットもないことこの上ない。この先はいったいどうなるの?お先まっ暗、顔はマッ青。やさしい吉川が持って来てくれたボトルの水をおかわりしてやっと一息ついた。グデングデンのまま昼を食って駅前で2時間以上の休憩をとる。

気をとりなおして一同車にまたがり、地獄の1丁目への旅をはじめる。気温は30度を軽く越えていると思われる国道6号を北上。

バイパスの平坦な道は、まことにたいくつ、それにこの暑さ水戸までなんとかがんばったが茶店へ急行して涼をとるしかなすすべがなかった。その店で一同グッスリと昼寝。
店のおばさんがあきれ顔。涼しくなるのを待って出発、日立まで単調な道をひた走る。
東京まで145kmの標識が苦難をものがたる。日立駅近くで休み、ここを1泊目とすることに決定。
ねぐらをさがし、結局、助川城跡公園とする。市街から少し登った小高い丘の上の人里はなれたさびしい、うすきみ悪い城跡であった。

疲れのためか、皆、口もきかず、いやーなムードが漂うが吉川持参のビール券で疲れをいやすことができた。

7月23日快晴
さわやかな朝であった。予定より少々遅れて起床。昨夜、蚊になやまされた体は赤くハレて見苦しかった。

今日も走るぞ!!!そんな気にさせる朝であった。午前中に福島県に入る。
勿来の関に、ほど近い勿来駅で休憩、海岸線には海水浴客の波。
「泳ぎたいヨー。」「こんなクソ暑い中走るのはイヤダー。」の声しきり。

そうこうしていると平駅に到着。ここでサイクルショップを見つけ吉川のブレーキ小物を買う。
1年はパチンコを楽しみ、小生等が今後の予定を立ている間、彼等はみっともなくも、駅前でヨダレをタラしながらぐっすり眠っていた。

この日も暑さにまけて、午後4時すぎ出発、初のナイトランとなる。夜はさすがに快適であった。
気温は走りごろであり、空には星。道路に車はなく、ただ一面のヤミ。そばを飛びかうホタル数匹。
途中の商店でパンや飲み物を買いおまけにプラムをもらって皆ゴキゲン。
10時近く、もう一息で宮城県という相馬駅着、やっと余裕の出て来た我々は紅茶をわかし、ホッと一服。今日は昨夜とちがい、みななごやかな空気につつまれていた。

7月24日晴
朝起きると松下が何やらブックサ云っている。なんでも駅のキャンペーン用の横断模にシャツをかけていたところ駅員にとがめられたらしい。

「住所も名前もウソバッカリ云ってやったから平気スヨ。」と言葉は強気であったが、その顔も声もビビッていた。

快調にとばして午前10時仙台着。小生の叔母にさし入れをたのみ、昼メシ代わりとする。
久しぶりに茶店に入った気がした。

今後の日程、行程を再検討し、思案の末、日本海側の海岸線を走りたいという希望を入れて、秋田まで輪行することに決定する。

夕方の仙台発、秋田行き急行に乗り込み、車窓からのケシキを楽しむと共に、体を休ませる。真夜中、秋田到着、メシ屋を探すが駅前には1軒も見当たらない。
適当に走ってタクシーの運ちゃんにメシ屋を聞いた。ここで初めて本物の秋田弁を耳にしたのである。有名な「川端通り」でラーメンを食べて、ドーナツ屋に寄って寝る。

7月25日晴
日本食堂が開業するのを待ってカレーを食べ、出発。駅前の混雑をぬけると、日本一の穀物地帯、秋田平野が広がっている。その中を走る道路を各自好き勝手に走る。そうこうしていると、巨大な八郎潟が姿を表わした。その広大な姿は、我々を大きな感動のルツボへと落し入れた。
広がる緑と1本のアスファルトの道と青い空とその向こうの海と。あまりの快適さに距離は信じられない程に延びて、午前中だけで100kmを軽く越えていた。そして、我あこがれの五能線沿線へ。

「五能線」半年前NHK、TV、「新日本紀行」で見た雪につつまれた、その姿、ひたすらに走るSL。
あの時の感動が小生をして、このプライベートランへとかりたてたといっても決して過言ではない。
自然は小生の期待をうらぎらなかった。季節は変わっても、そのすばらしさは、見た者にしか理解し難いものであろう。

午後、ドライブインでメシを食って、近くの岩場へ行き海水浴をする。満足感も手伝って、はじめてのんびりした感あり。海水浴は松下の1人舞台であった。

ドライブインのバイトの女の子を吉川が見染め、スキ!スキ!を連発。

パンツで泳いでしまった、「えーいメンドウダ」と裸にジーパンをはいたところ、日常強くない部分がすれて赤くなり、その痛みが2日間とれなかった。(余談)

この日の夕暮は、このランのすべてを表わしていた。感動のすべてを文字に表わせたら・・。まさにこの世の中の美であった。

「船作」(へなー)という無人駅まで、右は山、左は海の真暗な1本道を走る。
吉川は皆におくれてヤミの中で「コワイナー」を連発。この夜は、ビール、紅茶とぜいたくを尽した。ビールに顔を赤らめた、ちょうどその頃、パトカーが1台スーッと我々のいる駅に近づく、その時の酔いもフッ飛ぶほどの背すじの冷えは今も忘れられない。
なんと岸野を先頭に1年は皆未成年だったのだから。しかし、天は小生にめんじて加護を与えて下さった。な、なんとパトカーは我々の前をすんなりと通りすぎてくれたのである。

もう1つ小生を感激させたのは、能代でふと立寄った菓子屋でのできごとであった。
あの店のおばさんの親切を小生はこの一日の海岸線の美しさの感動と共に忘れることはないだろう。

7月26日晴
ふと目をさますと近くで意味不明の声が聞こえる。汽車を待つおばさん達の声で小生達は目を覚ました。しかし、その人たちがいったい何を話しているのか小生には皆目見当がつかなかった。単語そのものがまったく異質のものであった。日本も広いなあ。

午前中に、今度は小さな海水浴場で水遊び砂遊びに打ち興じ、その後クーラーのきいた店でラーメン・ライスを食べる。

小生等が進んで行く1本道の両側をりんごの木がおい繁るりんご畑が広がる。
花の時期にはいかばかりか美しからむ。いよいよ青森近し。トラックの運ちゃんが岸野をからかったのか、はたまたその逆なのか、なにしろ言葉が不自由な土地での事件だけに「人間じゃない」という一言のみでは、なんとも判断し難い。

夕暮れ、皆、必死にとばす。青森の街の明かりが、はかに見渡せる。
その光がしだいに我々の目前にせまってくる。

「もう何人か駅前に集まっているかなあ。」などと、云いながらもペダルは軽くしかも速やかに回転している。市地に入り、車、人の混雑で、ずいぶん走りにくくなる。今まで通って来た田舎道が自転車にはピッタリくるナ。

青森駅前到着。その時街は夕やみ、から夜のとばりが、降りた頃であった。街は輝いているかのように感じられた。

ケガ人ナシ。大メカトラナシ。天候スベテ晴レ。非常に幸運にも、大した疲れも感じることなく我々はここ青森の地に立つことができた。東京を離れて5日目のことだった。
1大イベントを完遂した時、その感激と、満足とで、人は疲れなどものともしないのであろう。
駅前にて記念撮影の後、久しぶりにゆっくりと茶店に入った。今日は旅館にしようということになり、近くの旅館を決めるが、なんと不幸なことにその旅館の風呂は電燈がつかない状態であった。ビールで乾杯。遂に終った。無事だった。さあ翌々日20日からはいよいよ合宿だ。

その夜我々は深い眠りをむさぼったのであった。

46日間のフリーダム – 黒田

46日間のフリーダム 法学部3年 黒田
=ゴメンネからの逃避行=

序章
「ゴメンネ。」あいつが別れ際に言った一言が、私に襲いかかる。私は黙々とペタルを踏み続ける。
限りなく長い道程を。

早稲田の杜をS君の伴走で発ち、甲州街道で彼と別れる。10日後の青森駅での再会を誓って私は走り出していた。1杯の別れのコーラが私の胸を焦がす。前途多難を暗示するかの様に、北の空はどんよりと曇り雨滴が私の眼鏡を打始めていた。

1977年、夏。私は最初であり、また最後でもあろう長い旅に出た。東北紀行、夏合宿、そして帰省の旅へ。太宰治の生地をこの目で確かめようとして。そして、サイクリストとしての自分を、また一塊の人間としての自分を見つめ直す良き機会の為に。

第1章 第1の旅 7月18日 – 7月27日
早稲田 – 青森駅(1,001km)

とにかく走ろうと思った。北へ向けて。

出発に際して、ランへの期待と不安が交錯している。あいつが話しかける。
「ね。何故走るの?」「貴方は一度、自転車を捨てた人間じゃない。私はちゃんと知ってるのよ。
ねえ。どうして、そんなに走ろうとするの?」
あいつの問いを避ける様に、私はひたすら走る。焼けつく太陽の下を大粒の汗を流しながら。

国道6号線を北上し、距離を稼ぐ。キャンピング・フル装備をし、42Bで足廻りを固めた愛車は流石に重たい。軽いアップヒルでも、脚の回転が落ち、顎から滴り落ちる汗がトップチューブを濡らす。

奥の細道で読んだ覚えのある、勿来の関を訪れ一時の憩を求める。いわき市からは49号線に入り、郡山を目指す。雨が落ちてきた。急に冷え込んでくる。昨日の疲れの為か、苦しく、何度も足を着く。郡山駅では2人のサイクリストと出会い、宿泊する。

郡山から猪苗湖へ向けて発つ。今日は休息日である。湖畔では、Tシャツを脱捨て、大の字になって、小1時間程、昼寝する。太陽が眩しい。燃える様な陽光が私を幻想の世界へと導く。

そこは、一切の虚偽、不正、醜悪、そして、権力が存在しないユートピア。これこそがサイクリングに
求めているものではないだろうかと云う考えが、遠去かる意識の中で浮ぶ。
ただ在るのは、太陽と羽毛の様に柔らかなそよ風、静かに打寄せる波の音。ああ、何もかもが限りなく平和なのである。

眼を醒ました時、私はその桃源境から抜出せずに、暫くの間、放心状態にあった。
自己の存在すら確認できなかったのである。そんな私を、会津磐梯山はチョビリ恥らうか
の如く、その頂をほんの少し雲に隠して見守っていてくれた。

磐梯山の裾野を反時計廻りに走り、五色沼を経て、檜原湖国民休暇村にテントを張る。
隣りのグループの人達が差入れをしてくれる。私の様な一日1,000円の貧乏サイクリストにとって、旅先で受けた好意は忘れ得ぬものであり、世人が皆好い人に思えてきて、「世界は一家、人類は皆兄弟」という、某悪徳代議士の実父であり、原理研の元締めでもある人物が登場するCFの台詞を思ず口にする事がある。

私は右翼は嫌いであるが、素直な気持として、単純に、皆んな仲良くすれば、戦争も無くなり、平和な世の中が訪れるだろう・・と思っている。博識な方々には「何と馬鹿な事を。」とお叱りを受けるとは思うが、私はヒューマニズムを愛し、平和を愛し、冷たいリアリズムよりも、暖かいロマンティシズムを愛したい。

そして、一般社会の中では(特に日本では)成就し得ない、真の革命を自分のサイクリングの中に求めるのである。それは、一種の現実逃避であるかもしれない、しかし、私は「走り」の中に「男のロマン」を追求すべく、走り続けているのである。ヒューメインな革命を求めて。

翌日、檜原湖畔を軽く流し、地道の小さな峠を越えて喜多方駅に辿り着く。昨日、猪苗代駅でお会いした、横浜のI氏に遭遇する。氏の御好意に甘え、駅前の洒落た喫茶店で、久々のコーヒーを御馳走になる。クーラーからの冷気が心地良い。

氏に別れを告げ、一路北上して大峠を目指したのは、午後2時を少し廻った頃であった。
炎天下のさ中、「男のロマン」を追求すべき大きな峠(その名も大峠)を越える事になったのである。
大峠、1,150m、標高差850m。夏休み前に、或るクラブ員と東北のコースに就て話し合った際、余りの九十九折の多さによって、恰も人間の腑の如き様相を地図上に呈している、この峠を発見した時に、私の内に秘めた挑戦への闘志が燃え上がり、胸が異様に締め付けられるのを感じたのであった。

この胸のときめきは、私の想い出であるUの事を回想する時のそれにも似たものであった。
Uと言っても、読者諸氏(You)ではないし、ましてや、日産のブルーバードUの事でもない。それは、私の想い出の女。大学に入った今でも、しばしば、あの「ゴメンネ。」で私を悩ませる「あいつ」。

灼熱の太陽は容赦なく私を焦がし、2年間使用した、ウォルバーの赤タイヤを痛めつける。
地道の登場だ。幅員は狭く、おい茂った木々の枝が、それをより一層狭く感じさせる。
「国道121号」と云う標識を認める。

「やっぱり道は間違えていないぞ。」と云う安堵感と不思議な異和感が私を襲う。
峠の九十九折が美しい。私の体から激しく汗が流れ出し、フレームをバーテープをサドルを、そして大地を濡らす。心臓は激しくビートし、呼吸は乱れる。苦しい。目が翳む。

私はこの瞬間がたまらなく好きだ。それは限りなき若さの昇華、そして生命の躍動を直に感じる時であるから。Uが私にきかける。「ねェ。どうしてそんなに苦しんでまで走るの?もう1度植物園に行こうよ。S予備校へ戻ろうよ・・・。」

私は叫ぶ。「福島県の馬鹿野郎/何でこんな道作ったんだよォ!!!」苦悶する私を嘲笑するかの様に、木霊が空しく響き渡り、私を萎えさせる。ボトルの水は既に飲み尽くしてしまった。
側溝の水を飲む。足がふらつく。しかし、決して押してはいけない。たとえ歩くより遅くとも。
そこに道がある限り、私は乗り切らなければならない。それが、頂上での、一種の虚無感さえも伴う、あの満足感をもたらしてくれる限り。

午後4時、苦闘は終わった。私は勝ったのだ。湧水で茶を沸かす。1本のチェリーの充足感が私の体の隅々にまで拡がって行く。そして、「俺はサイクリストなんだ。」と改めて認識する。ニュー・サイ誌に「峠とは事物を止揚する空間である。」と書いてあった。
止揚とは?今度、WCCにも「止揚ノート」というのを作ろうか。いけない、少しクロダチックになってきたので元に戻ることにしよう。

会津と陸奥を隔てる峠の上で、私は2時間余り、自己を甘美な夢の世界に遊ばせた。
山の端に陽が近づくのを見て、私はようやく重い腰を上げ愛車に股がった。
ダウンヒルである。100箇所を超すヘアピンカーブ。地道。フル装備ときている。

スピードを上げる。最初のカーブは見事に通過。勾配が急になってきた、右、左、右、左・・。
よーし、その調子だ。オットト、危い/リヤブレーキを作動させる。ザザーッ/後輪ドリフトだ。フロントバッグ一箇の軽装備の時とは幾分勝手が違う。

オッ、あのコーナーは砂利が深いぞ。よし、2輪ドリフト/激しい横G。愛車をスライドさせる。
よし。クリアー/私と愛車は完全に一体となっている。母体と胎児の様に。ヘソの緒は、左右の足にシッカリと締められたビンダのストラップ。ビンダは本当に締まりが良い。
「女とストラップは締まりが肝腎」とは良く言ったものだ。実際、緩いストラップほど危険なものはない。まるで太平洋である。ダウンヒルに於て、私は無機的なメカニズムの集合体である自転車に血を通わせる。100%の信頼という絆でもって。
その途端、マシンは愛車に変わる。私は駈け降りる。そして、私は風..。

舗装路に入る。しかし、まだ地道を走っている様に激しく車体が揺れる。後輪に異常をきたしたらしい。「随分と減っていたからな」と思い乍らも、スピードを緩めずに、強いGに引かれて駈け降りる。美しい夕陽を背に孤独なサイクリストは走る。

宿泊予定の米沢駅を目指して。翌日、心地良い疲労感とともに目醒め、国道13号線を避けて二井宿峠へと向かう。峠の登りにさしかかった時、前輪が激しい音とともにバースト。

猛暑の中、自棄になって修理する。暑い!何もかもが狂っている。二井宿峠、金谷峠と2つの峠を越え上山に入る。突然、バキンと云う音と供に車体が揺れ出した。
なんと、5,000円も出して買ってきたノートンのリヤキャリアが見事に折れているではないか。
フロントサイドと同様に東叡社にオーダーすべきだったと後悔するが、今となってはもう遅い。何もかもが狂っているんだ!!!

猛暑と度重なるマシントラブルは、旅の不安を募らせる許りであった。3時間程、上山駅のベンチで休み、気温の下がるのを待つ。まだ東京に居るS君に電話をかけ、青森までタイヤを持って来て貰う事にする。幾分気が楽になるのを感じながら、私は熱風の中を山形駅へ向かって走り出していた。もう日没も近い、どこかに寝所を捜さなければならない。

予定では、新圧にある、G君の親類のお宅に泊めて貰う筈だったが、猛暑とマシントラブルが私の肉体のみならず、精神をも侵していた。「ああ、もう走れない/今日はここに寝よう。」山形駅のベンチの上で、私は空しくチェリーを吸う、煙草のみ人形に化身していた。

G君に電話をかけて事情を説明する。新圧で御馳走を用意して待っているという。
彼の声を聞いて、私のサイクリスト魂が再び燃え上がった。
「10時頃になるかもしれないけど、新圧まで走る。」と言って受話器を置く。

途端に後悔する。ああ、どうして「走る」なんて言ってしまったのだろうと。
彼に電話をかけ、新圧まで走ると伝えた。時刻は午後6時5分。山形から新圧までは63キロの距離。
自分の身体は昨日の大峠、今日の二井宿峠、金谷峠の為に極度に疲労している。

愛車にはキャンピングのフル装備がしてある。あと1時間もすれば、暗い夜道を走らなければならない。これらの紛れもない事実が一瞬にして私の眼前に現われたからである。
芥川龍之介の「トロッコ」の少年の様な切迫感を私は受話器を置くと同時に感じたのであった。
闇のベールが、この陸奥の地を被いつくす前に、少しでも距離を稼がなければならない。
私は追われる様に山形駅を発ち、北上していた。焦る気持が私にトップギヤーを踏ませる。
努力も虚しく遂に日没。バーストの危険がますます、私の気持を焦立たせる。

私は疾走していた。私はフェラーリ12気筒エンジン。マシンとの同化。そして私は風。

8時40分、新庄駅に着く。G君に電話する。彼が迎えに来るまでの間、私は愛車の傍に佇み頬が緩んでくるのをどう仕様もできないでいた。それは、Nと大隈銅像前で待合わせする時の悦びとは、また少し違っていた。

私は今、合宿の集合地である、青森駅に居る。G君の厚い餐応を受けたのは言うまでもない。酒田市郊外のG君の家を出てから3日目のことである。あれから何度もバースしたが、辛うじて走り抜く事が出来た。

駅に着いて、WCCの黄色い人ゴミの中に、真新しいユッチンソン42Bのワンペアを見つけた時、私は一種の解放感さえ感じたのであった。

この旅に出てから、10回目の夜の帳がおりようとする頃、太陽が透けて見える程までに薄くなった、ウォルバーの赤タイヤに労いの辞を書込み、青森港に葬ったのであった。
拡がり行く波紋を見つめながら、私は、一切の権力の否定に依ってもたらされた、この自由で解放された、そして、自己との闘いであった10日間を想い出していた。
これがサイクリングなのだ、と。夕闇の中、連絡船の銅鑼の音が妙に哀しげに響き渡った。

第2章 夏合宿 7月28日 – 8月10日
青森駅 – 仙台駅(836キロ)

2週間に渡っての夏合宿に関する記述は、また別の機会にしたいと思う。
合宿中の私の言動なり走り方を思い出して戴ければ、ある程度の推測は可能だと思う。

ただ、私の求めるサイクリングとクラブランとの差異(ギャップ)がある事は明らかであり、そのギャップが広がりつつあるのも事実である。しかし、ここで結論を出す事は敢て避けようと思う。
何故なら、結論を出す事によって、自分のクラブ生命が絶たれる危険性があるからです。

第3章 再びソロへ 8月11日 – 9月1日
仙台 – 札幌(1,500キロ)

昨日の合宿の解散式が終わると、大多数のクラブ員は輪行を開始し帰路についた。
私はこの夏の旅のパートIIIに突入しなければならなかった。今度こそ本当の意味での「北帰行」であり、最も辛い旅になる事は、プランニングの段階に於ても予測はしていた。

朝から、それを裏付けるかの様に、雨が降り続いている。私はたまらなく不安になり出していた。
今日走るのはよそう。一緒に蔵王にアタックする筈であった、M君・K君・F君には悪いが..。
三年のM氏・N氏に、完走の前祝いとして、お茶と昼飯を奢って戴く。
さあ走ろう。どんなに辛くとも。それがサイクリストの宿命さ。

翌日は、私の旅の前途を祝福してくれている様な、絶好のサイクリング日和であった。
仙台のYHを発ち、蔵王・刈田峠にアタックする事にした。のどかな東北の道を私は走る。
前方に連なる山並を見やりながら、刈田峠への思いを募らせて。
遠刈田温泉で、腹ごしらえの後、刈田峠へ戦いを挑んだ。ゲートまでがとてもきつく、私の黄金の足をもってしても、容易ではなかった。

激しく滴り落ちる汗が愛車のトップチューブの色を変色させていた。この苦しみの報酬として用意されている、上山までの長いダウンヒルの事許りが、私の脳裡に浮かぶ。エコーラインから、お釜に通じるハイラインを登り詰め、刈田岳頂上まで行く。生憎ガスがかかって視界が効かない。
しかし、お釜を霞の彼方にでも、見遺る事ができたのは、幸いであった。

ダウンヒルを満喫した後、私は、3週間前に座り、途方に暮れていた上山駅の同じベンチの上で、一足先に刈田峠を越えていた、K君の伝言を見つめながら、前日に、同じルートを辿ったであろう、M君、F君の事を思い浮かべていた。久々の充足感が、私を深い眠りに就かせた。

激しい雨降り続いているが、今日は村上の友人宅まで走ろう。南陽、小国を経て村上のT君宅まで。激しい雨を物ともせず、サイクリストをゴボウ抜きにして突走る。
もちろん、「お先に失礼!」の一言は忘れない。このサイクリスト同志の挨拶は、サイクリングの自由な世界の中で唯一のルールである。

否、ルールと言うよりも、本当に走る悦びを知っている人間ならば、自然に手を振り、声を掛けてしまうのではないだろうか。それは、革命を志す同志の連帯感の絆としての役割を、立派に果たしてくれるのだ。

雨の中、無事にT君宅に辿り着いた。夜になってから、彼が気を効かせて、Nに電話してくれた。約1か月振りに聞くNの声はとても懐しく、Nに会いたいと思った。しかし私は走らなければならない。私はサイクリスト。

T君宅に3晩お世話になり、私は日本海沿いに北上した。合宿前にもお世話になった、山形県遊佐町のG君宅を目指して。すっかり秋の色に染まった空に、独立峰として聳える鳥海山は美しく、また、このあたり一帯を支配しているかの様に、力強く私の眼に映った。

高校時代、山岳部で活躍していた彼に、シェルパ兼ポーターをお願いし、鳥海山を登るのだ。
サイクリストである私が、5合目までは鳥海ブルーラインを走ったのは当然である。

私のサイクリングの中に、担ぎや押しは認めていない。自転車は、あくまでも、乗り物であり、決して、押したり、担いだりする物ではないと固く信じているからである。
あの不安定な2輪の上で、ふらつきながらも走っている時が、サイクリストにとって1番幸せな時なのだから。良くニューサイ誌などに、首からカメラをぶら下げ、ニッカ・ポッカに身を固め、登山道を押したり、担いだりしている写真が載っている。

そういう「自称」サイクリストほど、ユーレがどうの、サンプレがどうのこうの..と言いたがる様であるが、その様な記事を見る度に、私は、乗らない自転車に、何故カンパやサンプレやユーレやTAが必要なのだろうか、という素朴な疑問を思い浮かべる。
自転車が泣いている。たとえ、どんなに安い自転車に乗っていても、走り続ける限り、その人はサイクリストであり、高価な壁掛け自転車の所有者よりも、立派なサイクリストであると私は思う。

結局、ブルーラインの終わる5合目の山小屋に愛車を預G君とともに、徒歩で山頂を征服したのであった。雲海に沈む夕陽の美しさは、筆舌に尽くし難く、夢中になって、カメラのシャッターを押したのを覚えている。

G君の家族の御厚意に、甘え過ぎる程甘えた後、私は再び距離を稼いだ。
今度こそ、北帰行である。男鹿半島、寒風山、能代を経て海岸線の美しい、五能線沿いを走った。
体調は申し分ないが、精神的に1番辛い頃である。

海の美しさに助けられて、深浦駅に着く。駅員に訊ねると、夜間は待合室を締切る、という事なので、駅舎の横にシュラフを拡げる。軽い夕食の後、海岸へ行き、コーヒーを沸かす。私は夕陽を見つめていた。

「何故、こんなに惨めな姿で走らなければならないのか」という、憤りにも似た疑問が、私を掠めた。暮色に染まった日本海は、私の問いに答えようとはしなかった。
聞こえるのは、単調な波の音。突然、波間にUが現われ、ひとこと「ゴメンネ。」と言って消えた。
それは、惨めな私を嘲笑する様でもあり、また励ましてくれる様でもあった。
ただ明らかなのは、その一言が私の孤独感と寂の念を募らせたという事だけである。
最終列車が静かに遠去かって行った。

寒気さえも帯びた、激しい北風とともに、昨日の幻想も去っていった。これから、太宰治を育んだ津軽半島の始へと向けて、ペダルを踏むのである。強風をついて、私は黙々と走る。風との闘いに疲れ果てた頃、私は太宰の生地、金木を訪れ、斜陽館でミルクティーをすすっていた。

隣りのテーブルでは、太宰に心酔していると思われる美少女が、白い便箋に何か書きつけていた。
きっと恋人への手紙かななどと思いながら、私は、約1,000km離れた地に居るNの事を思い出していた。

斜陽館での憩の後は、再び激しい逆風との闘いである。芦野公園で太宰の碑を見てから中里へと向かう。鉄道はもう無い。太宰が、人に捨てられた孤独の水たまり、と著書「津軽」に書いた、十三湖を左手に見ながら私は走る。

なる程、人の臭いがしない。あまりの強風がインハビタントのルーツを吹飛ばしてしまっているのだ、きっと。北国に育った私には、この津軽地方の冬の厳しさを想像する事はたやすかった。
それは、ノスタルジー。私に襲いかかる一切のものを振払うように、私は走る。そう、私は風。

北は竜飛崎、南は権現崎に挟まれた漁師町、小泊に着く。風が無い。人間の臭いがする。
今までの、走りと野宿の疲れが、いっぺんに出てきたので、駐在所に駆込む。
春洞寺という禅寺を紹介して貰う。私の他の宿泊者は、西海岸伝いに竜飛崎を目指す、という横浜からのカップル。これで、3度目の挑戦だと言う。

そして、私も北への旅を続けなければならない。たとえ目的は異なっていても、全力でぶつかる事の大切さを、あの2人の異状なまでの、竜飛崎への執念に見た様な気がする。

この夜、この寺の住職が、中学時代、太宰の2級下で、弟礼治と同級であった事を知り、太宰に就て色々な事を話し合った。昭和19年の春、津軽風土記(津軽)を書く為に帰郷した太宰を、乳母の「たけ」に会わせたのは、「たけ」の娘ではなく、私の目の前に座っている、この住職である、と知った時の私の驚きは大変なものであった。夜が更けるのも忘れて、話し合ったのは言うまでもない。

翌日、住職に「絶対に降りて押さねばいげね。」と言われた、西海岸の小泊から東海岸の増川に抜ける、日本3大美林の中に作られた増泊林道を、余裕たっぷりに走っていた。

うっそうと茂った、ひば林の中の細い道を。増泊峠からは、例によって豪快なダウンヒルを楽しんだ後、左折して竜飛崎を目指した。私は風と化し、予定よりかなり早く竜飛崎に着いたのであった。吹きすさぶ北国の風、その憂いさえも含んだ様な海の青さ。

遠く北海道が望まれる。何もかもが、北国のそれなのだった。私は思った。
少しずつではあるが確かに北上しているのだ、とそそんな私が青森まで、一気に走ろう、と決心するのは容易であった。激しい逆風の中、波しぶきを浴びながら、私は走った。青森駅めざして。

約1か月前には、あんなにも沢山の黄色いユニフォーム姿で埋尽くされていた青森駅にも、もうサイクリストは、私独りしかいない。その対比が私の孤独感を更に深めた。
駅の待合室を追出された私は、軒下にシュラフを拡げ、あまりの惨めさに泣き出したくなるのを堪えながら眠りについた。

「北帰行」という、この3文字の為だけに私は青森を発ち、下北半島を北上した。
北端の大間からフェリーで、待望の北海道に渡る為に。

北海道上陸、第一日目は冷たい雨。一目散にYHに駆込む。

翌日、市内見物と酒落こみ、駅で少し休む。350ミリリットル入りのコーラが、北海道に帰って来たんだと云う印象を強くした。と同時に、一刻も早く両親の待つ、札幌へ帰ろうと思った。

そして最終日。46日間のこの旅の最後のページを飾るにふさわしく、中2の時初めて登った峠らしい峠、想い出の中山峠を登っている。
「これが最後の峠だ。休むなよ!」と言いきかせながら。早稲田の杜を発ったのが、つい昨日の様に思え、中学、高校時代のサイクリングの想い出が次から次へと駆け巡る。
革命が必要なんだ、という漠然とした考えが浮かんでくる。そうさ、サイクリングの世界には権力なんてないのさ。
46日間のフリーダムをかみしめ、私は風になって峠を下る。

あとがき
46日間、3,300kmの旅も無事終える事ができた。この場をかりて、お世話になった方々に心から御礼申し上げたい。

机上で、この拙文を書いている最中にも、「やっぱり走り抜いてよかった!」という感動がこみ上げてきて、思わず目を閉じてしまう。手を伸ばして、Uからプレゼントされたのと同じ、純ブラックチョコレートを頬張る。

私をさんざん悩ませた、あの「ゴメンネ」はもう聞こえない。すべてが終わったんだ。あの時に。
心地良いほろ苦さが口の中に拡がって行く。そっと目を開けると、愛車がその美しい褐色の肢体を惜し気もなく晒して佇んでいる。

東北プライベート夏景色 – 奥山

東北プライベート夏景色 法学部3年 奥山

「重い。重い。」
輪行袋が肩に食い込む。こんな重い輪行袋を今まで持ったことがあっただろうか、やはりこれから始まる20日間の非人間的な生活への恐怖のためだろうか。

1977年7月22日私は「男鹿」というプラカードがつるされている上野駅の、とあるホームにたたずみ煙草を吸っていた。28日から始まる合宿の前に、秋田から青森までプライベートランをするためだった。同行者はというと、ヤーさん風の黒メガネに、派手なオレンジ色のTシャツを着た岩城。スラッと伸びた白い脚、同志社の新谷さんにオカマを掘られかけたケツの持ち主の青木、必死に若く見せようと、数日前御茶水で買い求めた、BCR(ベイシティーローラーズ)のマーク入りの帽子をかぶった、長老神塚の3人である。皆、未知の地、東北への期待に胸はずませ意気揚々としてとは決して言えない、沈うつな表情であった。

さて翌朝、10余時間の長旅を経て我々は秋田駅に着いた。自転車を組み、前のデパートで腹ごしらえをし、持ってきたEテンをボール、ペグ、フライシート、本体の4つに分解して積み、いよいよ我々のブライベートランの幕は切って落された。

この日は、「これが本当に東北か」と疑いたくなるような猛暑の中、一路男鹿半島へと向かった。
地図で見ると高い山もなく、我々は今日中に男鹿半島を一周し、寒風山を越えようなどと言っていたのだが、ところがどっこい、有料道路に入るや否や、あるわあるわ、すごいアップダウンが。

「こんな道つくったん誰や、いっぺん殺したろか。」などと思いながら、やっとこさ登りきると、また目の前におぞましきアップダウンが。「もうあかん」と思い、わずかな影を岩城と青木と私の3人でわかちあって休憩していると、神塚が来ないではないか。
「神塚どうしたんだろう。と言いながら、やっぱり誰も引き返さずにいた。しばらくして彼が登ってきた。「もうひとこぎしたら吐くと思って駐車場で休憩してた。」というのが彼の言いわけだった。

そうこうしてやっとそのアップダウンを越え、○×温泉というところまで行こうということになって、30分程度走ると、後ろで神塚がわめき出した。
「あそこでテント張ろう。海辺でよさそうだ。○×温泉へ行ってもテント張れるかどうかわからんぞ。そうしよう。」

結局残りの3人もしぶしぶ(内心ほっとして)ここで泊まることにし、世間の皆様が海水浴を楽しんでいらっしゃる端の方でひっそりとテントを張り、束の間の水浴びを楽しんだ。

風呂にはいり、メシを食い、花火を見ながら紅茶をわかしている時、私はふとあることに気がついた。
「たしか岩城はいびきがすごかったな。まあ仕方ないな。そうだ!神塚は歯ぎしりするんだ。
ああ何でこんな連中と一緒にブライベートをすることになったんだろう。」

そんな私の不安を知ってか知らずか、青木が「そろそろ寝ようか。」恐怖のためちびりそうになるのをこらえながらシュラフにくるまった。
「とにかく早く寝るんだ。」

と考えるや否やもう寝息が聞こえた。誰だろうと見ると青木である。「寝つきの早い奴だ。」
とびっくりして見ると、何と目があいているではないか。青木は目をあけたまま寝るのだ。
「青木、お前もか。」と私はシーザーの心境で天を仰いだのだった。

「おい奥山。起きろ。いつまで寝てるんだ。」と3人は私の苦悩も知らず、無情にも6時に私をたたき起こした。

「てめえら人間じゃねえ。たたっ殺してやる。」

24日は前日に勝るとも劣らない酷暑だった。皆、疲労の色がありありと見え、寒風山は避けようという意見が某長老から出た。しかし、このときこそ昨晩の歯ぎしりのかたきとばかり、私は登ることを主張し、行くことになった。
寒風山、妻恋峠は、それ程高い山ではないけれど、眺めはすばらしく、4人ともしばし疲れを忘れたようだった。

この日は、例によって神塚が見つけた八森のキャンプ場でテントを張った。
夕食をとって炊事場の方へ行くと、十和田高校の生徒さん達が、夕食の準備をしていた。
「かわいい子だなあ。」と思ってある女生徒を見ているとその子が包丁の手を止めて一言のたまわった。
「おらあ、カップヌードルでもいいわ。」やはり、花も恥じらうような乙女に「おらあ」と言われるとちょっとついていけないですなあ。

翌25日は、これまた快晴の中、五能線に沿って鰺ヶ沢まで走った。この海岸線は実にすばらしかった。真青な海に真青な空。これぞ東北、これぞ日本海である。
2時間で鯵ヶ沢に着き、せっかく海水浴場があるのだからということで、この日はここで泊まることにし、全員海には躍った。

夜になり、ビールを飲みながら海を眺めていると、変なオッサンが話しかけてきた。
本人は、一生懸命ヒョウズン語を話しているのだろうが、西日本出身ばかりの我々は全然何を言っているのかわからない。しかしそこはさすが年の功、神塚先生だけは意味がわかったらしい。親しげにお話をなさっていた。伊達に2年も狼人していないなと一同感心!

明けて26日、またまた快晴。この日は津軽半島を横断、十三湖から津軽やまなみラインを経て蟹田町へと向った。途中昼食のため食堂に立ち寄った。かき氷でも食おうかと思ってメニューを見ると、かき氷の欄の最初にでかでかと書いてあるのは、「氷イツゴ」さすが東北。

この日、神塚は鰺ヶ沢で帽子を買った。例のBCRの帽子をなくしたのである。
彼は若さの象徴であるBCRをなくし、意気消沈。

蟹田町には午後3時頃着いた。合宿の集合場所である青森へはあと30km。
しかし青森で皆と雑魚寝はいやだということで意見が一致、ここでキャンピングすることになった。
小高い丘のような神社がキャンプ場で、キャンバーは我々以外になかった。
ただ高校生らしきアベックがうさんくさそうにこちらを見て逃げて行ったが・・。
眼下に陸奥湾が広がり、はるかかなたを連絡船が夕焼けを浴びて行き来し、右手には青森の街並みを、遠くに見ることができた。青森に直行しなくて大正解だった。

夕方、テン張りをしようとテントを広げると、何と中から例のBCRの帽子が出てきた。そうです。
この日の朝帽子を中に入れたままテントをたたんだのだった。神塚は喜ぶやら、くやしがるやら大騒ぎだった。帽子を2つ持って合宿に出たのは彼ぐらいであっただろう。

27日。いよいよ青森入りだ。そろそろ黄色い汚いWCCの連中が集まっているだろう。
我々は、ジャンケンで勝った岩城を先頭に、真っ黒になった顔を誇らしげにして、なつかしい顔が待つであろう青森へとペダルを踏んで行くのだった。

「心のやすらぎ」 – 小山

「心のやすらぎ」 政経学部3年 小山

  • あるプライベート・ランの思い出

燈色の光を弱々しく放ちながら、西の山々に沈もうとしている太陽を前方に、3人の男がゆっくりとペダルを踏んでいる。彼らは、WCCの一員としての使命から解放されたかのごとく、競うことなくのんびりと、しかし着実に地道の峠を上っている。
都会とは別世界としか思えない静けさ、車の行きかう所では絶対味わえないうまい空気、地面から自転車を通して体に伝わる小きざみな振動、そして自分達以外には誰もいないんだという、征服感にも似た孤独感、こういった快感をひしひしと味わいながら、それほど急でない地道をゆっくり上る事ほど、自分の心の緊張を解きほぐしてくれるものはない。

いつものクラブ・ランだと、上りの時は「峠はまだか峠はまだか」と、一刻も早くその苦しみから逃げ出したい一心でペダルをこぐ。ところが今はずっとこのまま上り続けたい気分だ。

東京の様に人間の多い所で生活していると、特に早稲田大学の様に、砂糖に群がる蟻のごとく学生の密集する中で生きていると、人のいない所に行きたいという衝動にかられて、旅に出たくなるのは自分だけだろうか。
今回の旅は、この意味で、孤独をこよなく愛する自分にとって、他のランではあまり味わえない心のやすらぎとなった。

たいてい、どこかにサイクリングに行こうとする場合、まず行きたい地方名、具体的地名をまず思い浮かべるのではないだろうか。ところが今回は、「温泉につかりたいなあ。」という、極めて年寄り臭い発想から始まった。そして、一泊で楽に行ける所、日の短かい冬の事なので、あまりきつくないコース設定である事などを条件に検討したところ、群馬県の、とある温泉がいいという事になった。

昭和52年12月13日午前9時45分、3人は高崎線、倉賀野駅の人気のないホームに降り立つ。
もちろん肩には輪行袋。高崎まで行かず、その1つ手前で降りるところが実に憎い。
既に5年への御進級が決定されており、その名を聞いただけでも臭ってくる様なT氏、酒屋の御用聞きが持っているみたいな銭入れを肌身離さないほどしっかりと金を持っているが、その割には早同の前夜、新小岩駅で大金をポロリとなくし、泣いて家に帰ったというK、そして拙者がメンバーである。

倉賀野駅から出発し、途中上州電鉄下仁田駅でにぎり飯だけの昼食をすませ、塩野沢峠へ通じる上り坂にさしかかったのは、1時を過ぎた頃だったか。記録がないのでよく判らない。

そこまでは車の多い道で、多少うんざりしていたのだが、その後上り始めると車はもちろん、人にも全く会わない山道となった。静かだ。勾配はそれほど急ではない。
ごくありふれた林道である。3人はなかよく並んで走った。と、どうしても最年長のT氏が遅れがちになる。Kと拙者は、T氏にさびしい思いをさせまいと、気づかれない様にペースを落して走るのに苦労したものだった。先輩思いの後輩を持ったT氏は何という幸福者だろう。

静かだった。全く人に会わなかった。上りながらどんな話をしたのか覚えていない。
どのくらいの時間、どのくらいの距離を上ったのかも判らない。ただ、西に傾きかけた冬の太陽の光を浴びて、名もない山々がゆったりとその体を横たえていた事、まれに民家も見えたのだが、人の姿を全く見なかった事がとても印象的だ。

峠に着いてしまったのは何時頃だったか。もう日も暮れかかっていたように思う。
このあたりは、左側の岩壁の、ほとんど一日中日影になっているらしく、入口の上方から太いつららが何本かたれ下がっているこの塩ノ沢隧道はひどく寒々としている。

つらら・・そうだった。今は12月だったのだ。もともとその日はかなり暖かく、峠上りで体がホカホカになっていたせいもあって、季節感覚が麻痺していたらしい。T氏などは、上半身シャツ1枚だった。クリスマスも近いというのに。

3人は思い思いに下腹にたまっていたものを放出して、枯れ草の上にしとやかに降りているきらびやかに美しい霜を無惨にもとかしてしまうと、トンネルをくぐって峠を下り始める。

と、まもなく道の左手に今晩の宿が見えてきた。群馬県上野村営国民宿舎「やまびこ荘」である。
ここにもまた、誰もいなかった。120人を収容できる大きくて新しい国民宿舎だったが、その日の客はこの3人だけ。宿でかわゆい女の子に会ったらうまくやろうとたくらんで、セーター、ジーパンなどいろいろ自転車にくくり付けてきたT氏などは、失望のあまり青ざめていた。考えてみれば、こんな時期のウィークディに、こんな名もない山奥に来る女の子なんてまずいない。

実際ここは「名もない山奥」だった。その日の朝、輪行袋を肩にして家を出る時、近所のおばさんに、「今日はどこへ?」と聞かれた時、何と答えていいのかとまどった。
「群馬県!」では広すぎるし、「上州!」と言うのも時代錯誤である。その時はたしか、「軽井沢のもっと下のほう!」などと言ってしまった気がする。

部屋でひと休みするとすぐ、今回の旅の大目的である温泉につかる。
広々とした浴場にたった3人なので、楽々手足を延ばせた。T氏などは泳いだもんだ。
人はなぜ、風呂にはいると身も心も安らぐのか。単に、分子活動の活発な水につかるに過ぎないのに。もっともこの場合、単なる水ではない。含重曹食塩泉といって、いろいろな病に良いとのこと。××きん、痔と、2重苦に悩むT氏にとってはありがたい薬の筈だが、果してその効果はあったのか。

風呂あがりによく冷えたビールで乾杯。全くこたえられない。拙者などは、この一杯の為に生きてる様なものだ。タ食には、名物の「いのぶた」のすき焼きをつついた。
このあたりがュースでは味わえない楽しみである。いのぶたとは文字通り、猪と豚のあいのこだ。
味は牛肉の様な豚肉の様な、どっちともちがう様な珍味である。

その顔を見た事はないが、なんとなくKと似ている様な気がする。また、新会計局長として部費の値上げをほのめかすKの口ぐせがそのまま「ブヒ!ブヒ!」という、いのぶたのなき声と一致するのではないか。とにかく、拙者には、Kがいのぶたの肉を口に入れるのを見ると、「友(共)食い」としか思われなかった。

夜も静かで、怖いくらいだ。建物が広ければ広いほど、夜、その中にいる時、恐怖も大きいものだ。そこもまた、ひどく大きな建物で、夜中の学校の校舎を思わすほど不気味で、とても1人ではトイレに行けなかった。
特にKなどは、みんなが寝静まった頃、「壁から変な声が聞こえる!さっき食ったいのぶたのおばけだ!たすけてえ!」
などと突然わけのわからない事もわめき出し、べそをかきながら拙者のふとんにとび込んで来たのだった。拙者とT氏はおもしろくなって、こわい話をあれこれと始めると、最初はふとんをかぶってふるえていたKが、しだいに泣きながら怒り出し、しまいには半狂乱になってしまった。なんという醜態!これが21才の男か。そしてWCCの一員か。

2日目のコースについては何も決めてなかったので、翌朝かなりもめたが、結局志賀坂峠経由、秩父終着という事になった。これもまた、秩父に出るまでほとんど人のいない道である。空が絵の具の様に青々とした日で、実に気分爽快だった。
志賀坂峠から見た秩父の山々はすばらしい。石炭岩を産出するためか、白く削られた山肌が時々見える。これらの山々を眺めながら、これが秩父だ、これが自分が生れ育った埼玉県の山なんだと、ガラにもなく郷土愛の心がわき起こってきたものだった。生まれて初めての経験である。

名もない温泉への時期はずれのサイクリング。これといった出来事はなかったのだが、この旅の静かな思い出は、いつまでも拙者の心の中に残る様な気がする。またいつか、こんなのんびりした旅がしたいなあ。

THE END!

すばらしい文章でしょう!これで将来小説家になる自信と決心がつきました。

尚、悪文乱筆多謝!去年もやはり「峠」に書いたんですが、
載らなかったんです。今度は載せてほしいですナァ。よろしく!

小山

「雑感」- 野口

「雑感」 教育学部4年 野口

東京は新宿、早稲田の杜の傍らに僑居有り。室内はと1歩足を踏み込んでみる。
南向きの明るい陽射しの差し込む窓の下にフロリダグリーンのランドナーが鎮座している。
ただでさえ狭いのに、1等良い場所を占拠している彼女。

この春私は目出たく4年に進級することが出来た。成績発表、科目登録も終え、キャンバスに新人勧誘の声が溢れているこの時期は、今の私にとって最も優雅であり、最高学年となった心境をみつめるに適している。

昭和50年4月、九州は熊本から上京した私は、早稲田の、そしてWCCの門を叩いた。
当時の私は大学生になれたということと、高校時代から親しんでいたサイクリングが存分に楽しめるという喜びで満腔に春の息吹きを感じていた。それから3年を経て、今年は特に往時をしのび、新人諸君が眩しく見えてならない。

私が本格的に自転車に取り憑かれた様になったのは、高校のサイクリングクラブに入部してからのことである。初めて自転車に乗れる様になったのは小学校2年の時だった。
その時の喜びを何といって表現したら良いのであろう。しかし、これが自転車に対する関心の第1歩であったとしても、決してそれ以上のものとはなり得なかったことも事実である。

やがて私は剣道を習いはじめた。これは中学校卒業までの約5年続けた。この間、自転車はと言うと、置き去りにした訳ではなく通学に、他の用事にと完全に私にとってなくてはならないものとなっていた。

私は元来無器用な人間で、いわゆる下手の横好きに位置している。球技や格闘技等に於いてもその特性は発揮され続けた。こんな私にも人並みに惻隠の情だけは備えているつもりだ。
10歳の春に5段変速の少年スポーツ車を買ってもらって以来、ボロ布片手に油差しに余念のない日々が続いた。この自転車も4年余り乗るとさすがに疲れが見えはじめた。

私が通っていたサイクル・ショップの御主人は県のサイクリング協会の理事で、あれこれと、自転車を見に来た私に説明してくれたりで、そろそろ剣道に関して才能の限界を感じはじめていた私はついついそちらの方に傾き、俗にいうペーパーサイクリストの仲間入りを果たしたのだ。

浅はかにも自転車だったら人並みに乗れるなどと考え、ついぞ真理探究の深淵など考えもしなかった。しかしそこは盲蛇におじずで3台目のアダルトサイクルを改造(といってもドロップハンドルにしただけであるが)した自転車で高校のユニフォームなど着て1人前になったつもりで大小のツーリングを経験し、多少なりともメカニカルな面にも興味を抱きはじめた。この頃になると、自転車は私にとってかけがえのない存在となっていた。

そして、生来の旅行好きもあって自転車旅行の計画をたてるのに余念がなかった。
地方のサイクリング愛好者だった私にとって1つの壁となったのはメカの問題である。
鉄リム鉄クランクが常識だった当時は、専門誌上をにぎわす内外の高級パーツは正しく垂延の代物だった。

それらの殆どが架空のものであった。例え入手可能であっても経済的にも無理であったろう。
そうした環境内に置かれていた私にとって取るべき手段は、手持ちのパーツを利用しての改造の連続と走りに徹することだった。

ランドナー、キャンピングに憧れていた私は、専門誌から得た知識を基本にして、高級部品ばかりが能じゃないと信じ、ひたすら廉価な品を用いて自分だけのムードを持ったバランス良いモデル作りに専念した。

今でこそオーダメイドのランドナーに乗ってはいるが、当時の私にとって以前の彼女程、素晴しいものはなかった。大きなトラブルもなく本当に乗り心地の良い自転車だった。

以上の経緯を経てWCCに入部した私は、クラブに慣れるにしたがって、今まで得てきた経験は無駄ではなかったと信ずる様になった。そして、今まで以上の前途が大きく開かれているのを見て、感激さえした。一歩進んだメカの技術、更なるものはサイクリングに於ける峠の存在だった。

峠を目指して全員が力をふり絞って登る姿、頂上での爽快感、解散後の満足、それらは私を虜にした。峠はつらい。

だがそれは個人のつらさであって全員で登ればそれも四散する。ここにクラブサイクリングの真骨頂を見る様な気がする。今までに私が経験したことのないものであるともいえる。
自画自賛的ではあるが、WCC程4年間過ごすのに適したクラブはないのではあるまいか。

又、裏をかえせば、それだけ部員諸氏のクラブに対する真剣さと15年余の伝統の重みを感じない訳にはいかぬ筈だ。私は単細胞なので小難しい論は吐けない。中学高校と通してクラブマンだった私にとって、その良し悪しの面は何度も経験しているつもりだ。

WCCに於いても例外ではないことは諸者諸氏の方が良く御存知であろう。
いささか短絡的ではあるが、学窓を巣立ってゆこうとする私は4年間、在部活動出来たことを誇りに思うし、幸せでもあったと答えることだろう。

それは、私なりにクラブ内に於けるある位置を確保し、諸経験を積ませてもらったことに由来する。
言葉は言の葉と書く。私自身がそうである様に多くの先輩や同輩の諸君も媒体である自転車によって何かしらのものを得たと思う。定義公式の様に形となって表わされるものではなく、共通体験を通して人それぞれの形で表現されていってしかるべきものであろう。私はWCCが好きである。それ故、万感胸に去来し、止むことを知らぬのである。

50年7月末日早朝、私は東京駅で合宿前のプライベートに出掛けるべくひかり号を待っていた。その時胸に浮んだのは惨敗を喫したプレ合宿のことだった。本格的に峠の持つ魅力に取り憑れた私は、1年らしく気負っていた。

中部山岳合宿は並大抵の規模ではないと聞かされたことが、その1つの動機である。
敦賀を起点にして金沢を経て能登輪島まで足をのばしたプライベートの成果によってか、合宿もどうにか乗り切ることが出来たのは、私のクラブ体験の中でも実に有意義なことであった。
それによって成る程度あ自信というものが湧いてきたのはいうまでもない。
また、同じ釜の飯を食べることや其の他の体験を共にすることによってクラブ員同志の共通の基盤が生れてきたとも確信している。

苦しくも想い出深い1年の合宿を終えた私にとって最早、WCC無しの生活は考えられなかった。
日に日にクラブに没頭していく自分が楽しくさえあった。しかし、何もわからなかった1年を終え、2年生として局活動等、実務にたずさわる様になると責任の重大さをひしと感ずる様になった。
2年から3年にかけてのクラブ生活はランもそうだが、必然的に日常の活動に比重が移ったともいえるだろう。

2年次、私は技術指導局に属し、主に新車購入を担当とし。49年度までの新車購入は三田のS自転車をその主流としていたが、U氏の決断により現在の早大モデルを製作している調布のJ自転車商会に変更して、その2年目に担当となった。

クラブモデルの製作は、その規準をどうするかを考えねばならず、非常に苦心させられるものである。
単に4年間の活動に際して、最低限の機能を発揮すれば良いということもいえるであろう。
全くの初心者を対象にして製作する訳だから、余計に気を遣わざるを得ない。
早大モデル初期設計はU氏、T氏によるのだが、その意図というのを私なりに解釈して仕事にとりくんだ。

自転車、あるいはサイクリングというものは、元来が個性的であるものである。
故に、自分自身の好みにより自転車をつくり上げ、自分なりのサイクリニグ観をもつべきものであろう。しかし、それは或る程度の経験を積むことによってはじめて可能になることであるが、入部者は全くの素人である。

その様な基本的な概念を持ってて、より良いモデル作りは進めねばならないのである。
次の段階でまた苦労することが生ずる。それは、個性を尊重すべき自転車に於いて、クラブモデルという全く異質な要素を乞含せねばならない。

そこで考えたのが、マスプロメーカーの標準よりも多少高いレベルのモデルを設計し、改造の余地を残し、個人の趣味によって高級モデルとなり得る様な自転車をということなのである。自転車で最も肝要なのはフレームとフレーム工作である。
決して美麗なフォルムを持つということばかりではなく、先ず賢牢であらねばならない。

其の点に於いて現在のモデルは充足している筈だ。オーダーモデルの良さとは一体何かを考えて欲しい。パーツアッセンブルの自由等の利点よりもモデル全体のムードを作りだす基本となるフレーム工作に於ける確実性がオーダーの最良の長所ではなかろうか。

フレームの精度の高いものは、パーツを取り付ける際にもフィットするものなのである。
フレームの精度が低ければ、自転車本体に、不調をきたし易くなるのも亦明日である。

早大モデルは今年で4期目となった。各担当者により多少の変更はあるが、年々実際に使用した見地からみた改良が加えられてきている。そして、その本来の目的から離れることなく活用されているのは喜ばしい限りである。

しかし、近年とみにバーツの高級化がすすみ、充分な自転車経験なくして、部品を交換する傾向も無い訳ではない。思うに、個々のパーツの集合体であり、それらが上手く調和されていなければならない自転車を取り扱う場合、先ず個々の性格を熟知してやらねばならない筈だ。物事には何事にも段階があるのではなかろうか。

基礎を完全に修めてから上に行くのが常道であろう。自転車にもそれは言える筈だ。
何も最初から高級バーツに飛びつく必要はない。さもなくば折角の機能を無駄にしてしまいかねない。いわんや、その為のモデル作りに専念しているのだから。

しかし、これは何も早大モデルにばかり言えることとは限らないことは賢明なる読者諸氏には御理解いただけることと思う。以上の事は私が今までかけて得た経験に基づくものであり、少なからずその信念は自分の自転車観と早大モデル考案に一対をなしている。

WCCの部員はメカに弱いという評価があった。しかし一般的に使われるメカの強弱とは何なのであろうか。新いパーツや個々の名称をそらんずることが出来るというがメカを知っているという代名詞に使われ勝ちな御時世ある。

確かに高級パーツの名称は知っていても損にはなこないだろう。問題は、その知識がそれだけのものに終わりてしまっている場合である。自転車というトータル・バランス要素を持ち、かつ走る為のものであるという事実がある以上は、実証的な裏付けのないメカ談義は机上の空論となってしまうのではなかろうか。

矛盾する様であるが、私は何もペーパーサイクリストの存在を否定しているのではない。
それはそれで1つの楽しみであることには違いはない。話が大分横道に入ってしまった様である。

3年になって、技術指導局を任せられる様になって先ず私が苦心したのは、メカ知識の普及についてであった。私はクラブサイクリングに於けるメカの問題を考え直してみることにしたのだった。多くのランを円滑に行なう為に必要な事に、メカトラを未然に防ぐことが出来れば、という願望が存在した。パンクや転倒等の偶発的事故は或る程度諦められるが、整備不良によるトラブルは許されるべきものではなく笑い話ではすまされない。

WCCは余りメカに強くないと前述したが、それはあくまでも誌紙からの知識の乏しさであって、実際的な注油や不良部品交換にあたっての知識は標準的には身につけていたと思う。

話は変わるが、人馬一体という言葉がある。駿馬も伯楽あらざれば馬にも劣るのである。
愛情をもって接しなければ心と心は通じ合わないだろう。

自転車にもこのことは通じるのではなかろうか。無機物の集合体でしかない自転車ではあるが、毎日の点険調整怠らざれば、決してトラブル等起こすものではない。

反対に、いくら内外の高級パーツを取り付け、高尚なるメカ談義を交わしてみても、基本的な手入れ作業にはかなわないのである。

話を元に戻すが、今、余談の如く述べた箇所が、私のクラブに於けるメカ指導方針の大原則であるのだ。繰り返す様ではあるが、人馬一体の如く、人車一体とならざれば、我々は苛酷なクラブランに耐える為に、必須の自転車の安全性への信頼はかち得られないのである。

自転車の取り扱いに関する程度は、人一人がそれぞれの個性を持っている様に、それぞれ違っているものなのである。したがって、技術を指導する場合に於いてもそれぞれへの対応の仕方が存在する。確かに、それは困難なことではあるが、WCCに於ける指導では、最低限のメインテナンスさえ確実にマスターすることを浸透させればよいと確信するに至ったのである。

我がクラブ員諸氏においては、標準的な整備の知識は持っていると前述したが、これにも限度があった筈で、まだまだ部員間の程度の較差は存在していた。
その空白を少しでも埋めていこうとして、私は、誰にでも出来る最低限の確実な整備調整の励行を目標にしたのだった。

52年11月下旬、晩秋というより、遙か彼方より落ちくる雨は、まさに冬のものであった。
その日は、執行部改選の当日でもあった。この日を境に、私はごく個人的な感傷かもしれないが、現役を離れ、今までのクラブ生活を振り返る時間を与えられた。2度と戻らぬこれまでの体験は一体私に何を与えてくれたのか。その答は永久に疑問であろう。

私は恐らく自転車との関わりをこれからも持ち続けることだろう。しかし、WCCでの様なサイクリングには、もう出逢えないのである。

こうして原稿を書いている部屋の外は雨である。雨と言えばクラブランにつきものであり、3年間の主要なランは全てたたられている。私の傍らには間近に控えた新款ランの為に半日掛けて磨き上げた、粗の目立ち始めた彼女が居る。そう言えば今回のランは2年の時と同じ奥多摩松姫峠方面なのである。また雨に降られるんじゃないだろうか。

人間50年、『化天の内にくらぶれば夢幻のごとくなり』という1節を私は好む。
悠久の宇宙から見れば人の一生など介にも等しかろう。

私のサイクリングあるいはWCCでの体験も微々たるものであるかもしれないが、それが時の流れに埋没することなく事実として残ることを願っている。

大菩薩峠へのプライベート – 黒沢

大菩薩峠へのプライベート 政経学部4年 黒沢

大菩薩峠は、サイクリスト仲間では、名の通った峠である。一般的にも、中里介山の小説でよく知られているし、また、10年ほど前に、赤軍派が実戦訓練をしていた場所としても有名である。

さて、そのような峠へ何故にこの私が出かけて行くはめとなったのか。
私とてサイクリストの端くれ、サイクリングが決して嫌いなわけではない。
しかし生来、面倒臭い事は好まず、面倒な事から逃げてばかりいた私が、何故あのような峠へと行ってしまったのか。それは、小林C君と田中氏の無理強いのためであったと言えよう。
生来気の弱い僕は、彼らの熱心な要請を断わり切れず、1977年5月29日の日曜日、日帰りの予定で、大菩薩峠へ行くこととなってしまったのだった。

熱心さだけが取柄の小林君は、その前日、単身東京から柳沢峠を越えて、塩山へ向っていた。
彼は、塩山駅で夜を明かし、そこで我々と合流する予定だった。

5月29日、嫌々ながら、朝早く起き出し、新宿駅へ行った。少し遅れて、田中氏と物好きにも布施田君がやってきた。そこで、私は、田中氏から、小林君は、前日、自転車の不調を口実に、東京へ逃げ返ってしまったということを聞かされた。

私は一瞬、「しまった。だまされた。」と思った。無理もなかろう、小林君は自ら計画を立て、あの顔で無理やり私を誘っておいて、何の話もなく(田中氏には電話を入れたが)、さっさと家に帰ってしまったのだ。我々が新宿駅で困り果てているというのに、彼は暖い布団の中で、ぐっすり眠りこけているのだと思うと、増々、一層、腹立たしくなってきた。しかし今さら、引き返すわけにも行かないので、仕方なく、塩山へと向った。

塩山駅では、布施田君が、ヘッドの小物をなくしてしまったことに気づいて、少しもたもたしてしまい、結局塩山駅前を出発したのは、10時を回っていた。塩山という町は盆地の1番底にあるようで、走り始めてから、すぐに延々と上り道となった。しかもこの日は、久し振りに太陽が顔を出し、気温もぐんぐん上昇していた。そんなわけで、体調不十分な我々は、大分まいってしまった。

特に、この私は、朝方から風邪気味で気分も良くなかったため、ついに道路わきにしばらく座り込むことになってしまった。増々私は嫌な気がした。小林君が逃げ帰ったため、CLは、前輪のブレーキを持たない布施田君がなっていた。前輪のブレーキがないということは、上りは良いが、下りはどうなるのか。そう思うと、増々嫌になった。

途中、裂石で休憩した後、フリーランとなった。布施田君と僕のペースが少しばかり違うため、結果的にそうなった。田中氏も、何故かうれしそうに私についてくる。私は大分疲れ果てていた。それでも、愚痴をこぼしながらも何とか、長兵衛小屋まで行きついた。「ここまで来れば、峠はもうすぐ。楽なランだった。」と言いたかったが、あまりに白々しいので黙っていた。が、何と、話はこれからだった。

長兵衛小屋の横の急勾配の道を、ハイカーの目を意識して、布施田君と田中氏は自転車に乗って頑張って上り始めた。私は、「どうせ誰も見てやしない。」と思い、半分意識しつつも、自分を納得させて押しながら上った。

ハイカーが見えなくなる地点までいくと、予想通り田中氏は、自転車から降りていた。しかも、ズーズーしくも私にこう言った。「待っててやったんだから、早くしろよ。」と。
そんなアホな。「峠はまだか、峠はまだか。」と思いつつ、しばらく行くと、何と、小屋に道がぶつかって消えているではないか。そこで、ハイカーの1人に聞いてみると、小屋の横の登山道が峠への道らしい。かつぎがあるとは聞いていたので、諦めて、自転車を肩に担って、歩き始めた。疲れてはいたが、ここさえ過ぎれば終わりだ。最後の踏ん張りとばかり、むきになって、地面にしがみつきながら、先を急いだ。

峠の茶店、介山荘に着いたのは、すでに2時半近かった。朝方、あんなに晴れて暑いほどだった天気も、今は雲が多くなって、今にも雨が降り出しそうだった。しかし、もう下るだけの道なので、奥多摩駅までは、1時間、いくらかかったとしても2時間程度で到着できると思ってのんびりしていた。あたりは、増々暗くなり、ハイカーの姿もまばらとなってきた。我々3人は、これからが地獄とも知らず帰りを急いだ。

下り道は自転車に乗ることができず、押し、否、引きっ放しだった。しかし、ある程度我慢して下っていれば、自転車に乗れるような道に出られると思っていた。
道は、ハイカーが通るような山道であり、片側が山で、片側は谷?である。おまけに、道は、石や木の根っこが、デコボコしていて、歩きにくい。
その上、布施田君は、前ブレーキがないために、急勾配の坂をころげ落ちていく。

が、今は人のことより、自分のこと。こちらも、ブレーキのかけっ放しで、両手は真赤、足はガタが来て、ちょっと緊張がゆるむと、今にも倒れてしまいそうだった。
こんな下りが延々いつ果てるともない下り坂が、我々の前にあった。
もはや、自転車をいたわってやる余裕などなかった。後輪が、岩や木の根にぶつかっても、気にもせず、3人無言のまま先を急いだ。3人とも大分焦って来た。
この道は、どこまで続くのか、一体、道路に出ることができるのだろうか、下っているのだから、大きく間違ってないとは思うがひょっとして道を間違ってしまったのではないのか、こんな計画を立てた小林君が恨めしい、等々考えながらも、自転車を抑えつけるのに精一杯だった。

ブレーキをかけすぎれば、自転車は動かないし、といって、ゆるめすぎれば、先に走っていってしまい、足の弱っている当方としては、いちいち、必死に自転車にしがみついて止めなければならなかった。

あまりに果てがないので、途中、休憩をとったが、深山幽谷、遠くに谷川のせせらぎの音が聞こえるだけであり、それがまた、一層、周囲の静けさを印象づけた。林の中であるため、周囲は一層、暗く、縮こまったナニをやっとみつけ出し、小便をしたが、周囲の不気味さに圧倒されてか、どうもちびりがちだった。

こんな所なら、赤軍派が隠れ住んだとしても、不思議ではないと思い、思わず周囲を見回し、急いでナニをしまいこんだ。3人とも、どうも道を間違えたようだとは気づいたが、下に下っているのだから心配ないと、無理やり自分を納得させた。

呼吸を整えると、再び、自転車の「引き」にとりかかった。
「小林君は、さすが生き方がうまい。さすが商人の息子だ。逃げ帰ったのは正確だった。」などと、取り止めもないことを考えながら下って行った。すでに峠から、1時間も下ったろうか。
道は、一層急勾配となった。「これは登山道だ。」ふとそんなことを思った。仕方なく、1歩1歩注意して下っていく。福崎氏の話だと、もっとましな道があったはずである。

途中、道が2つに分れていたが、反対側の道だったか、などとも考えた。
今さら、引き返すこともできない。雨も、ポツリポツリと降り出した。自転車は勝手にすべり落ちて行く。こちらは、増々、必死の形相で、自転車を離すまいとしがみつく。

そんな時、僕の前を行く布施田君が、足をとられて、自転車ごとこけてしまった。
それを見て、僕は何故か笑いが止らなくなってしまった。それにつられて、田中氏までが笑い始めた。布施田君は、気分を害してしまったようで、ふくれていた。
が、僕が笑ったのは、何も布施田君個人を笑ったのではなかった。確かに布施田君がこけたのがきっかけだったが、何で、わしがこんなに苦労しなければならないのか、と思うと、半分やけ気味の、自嘲的な笑いがこみ上げて来たのだった。もはや我慢も限界だった。

が、そんな時、やっと下方に道路が見えてきた。その時の喜びたるや、何しろ、道路を見つけた時に、思わず坂道に寝ころんでしまったほどであった。
こけたと同時に、また、喜びの笑いも止まらなくなった。時計は、4時半を回っていた。
私は、生きて、下界に戻れたことを神に感謝し、合わせて、計画を立てながら、無責任にも逃げ帰った小林君に対して新たなる憎悪の炎を燃やした。
彼は、以後、クラブにおいて、無能扱いされることになった。彼は、今や大学の授業以外、何ものにも相手にされず、大菩薩行きから1年ほどたったある日、何を血迷ったのか、何と剃髪して、お寺の茶坊主、ちんぴらやくざの下っぱとなったのであった。

今だから言えるが、大菩薩峠は、それほど困難な峠ではない。塩山駅から、奥多摩駅までは、都合、8時間程度であった。しかし、相当の押しを覚悟して行かないと、期待外れのものとなるだろう。また、下りにおける危険性も考慮しておかねばならないだろう。
途中、決して焦ってはならない。上り続ければ、いつかは峠へ着き、下り続ければいつかは、下界に行き着くものだ。山道から抜け出して、舗装道路の途中で飲んだ、冷たい湧水の味を、私は一生忘れることはないだろう。

私にとって大菩薩峠は、苦労しただけに思い出深い峠である。

モクモクと煙 – 高橋

モクモクと煙 政経学部4年 高橋

最近僕もタバコを吸う。時々欲しくなるのだ。ストレスが増えたのだろうか。

そうでもなさそうである。21という年齢がそれを許すようになったからか、半分はカッコつけであろう。カッコでタバコを吸うなどというと高校生のイキガリのようだといって、バカにする向きもあろうかと思うが、どうせタバコなど実益のない葉っぱの紙巻きなのだからカッコで吸わないで何で吸うというのだ。

タバコは雰囲気であり、ファッションである。そしてその次に刺激物なのであって、栄養源と勘違いして3度3度きちんと吸わなければならないものではない。くれぐれも間違わない方がいい。

そういうわけで、僕はタバコのもつファッション性にまず魅力を感じる。
最近少しばかり大それたステレオを買ったのでこの文章にも登場させようと思うのだが、たとえば小さな電燈を1つつけただけの部屋で、ロッキングチェアに深々とはまりこんでモダンジャズなどを聞くわけだ。

これはもう完全に大人のフィーリングなどであって、タバコの煙は欠かせないエレメントなのだ。

こういう場合は、ハイライトやマイルドセブンなどの俗なタバコはだめで、ダンヒルとかケントなんかがカッコイイ。パイプならなおいい。

次に僕はタバコが最も手軽で飽きない暇つぶしであるという点に惹かれる。
実際タバコほど飽きられもせず、いつまでも楽しまれ続けているレジャーはないだろう。
同じように生理的に神経を刺激する娯楽として、このあいだスライムを買って来たが一日いじっていたらもう完璧に飽きてしまってちっとも楽しくなくなってしまった。
(注・スライムとはネバネバベトベト冷たい不思議な物質であって、にぎにぎしたり、ちぎったりして遊ぶと500円ほどかかるのだ。)

その点タバコは150円ぐらいあれば20回も遊べて、しかもちゃんと飽きずに欲しくなる。
この辺はもうメシを毎日食っても飽きないのと同じで、このためにタバコを栄養源と間違えてバリバリとむさぼり食うやつが出てくるのである。

タバコと並んで飽きのこないレジャーにSEXがあるが、これもタバコの敵ではない。タバコの方が100倍ぐらい手軽だしどんな醜男でもやれるし、妊娠もしないのだ。

それからご存知の向きもあろうかと思うがタバコには害があるのだ。完璧に毒物なのだ。そしてそれは大きな魅力でもあるのだ。それは人間の自虐的な快感を刺激し、またスリルを味あわせてくれる。

タバコを吸うとガンになる。しかしみんながガンになるわけじゃなく、たいていの人はピンピンしている。だからタバコを吸うのは、その1回1回がギャンブルのようなもので、1発だけ弾丸を入れたピストルを額にあてて引き金を引くようなスリルがある。

またタバコの害は即効性ではなく毒素がじわ〜と蓄積して、改心した時はすでに手遅れになっている時が多い。その上慣れるに従って禁断症状が激しくなってぬけられなくなっていく。

これがまたたまらないのだ。ぷかしと一服して、ああ、またじわ〜と毒が体に浸透していくな、ガンになるかな、まだだいじょうぶかな、でもあまり吸いすぎると、脳が溶けてしまわないかしら、そういえば最近物覚えが..などと考えるととても楽しい。
いけない。いけない。と思いながらついやってしまう自慰の快感、あの罪悪感と壮快感、不安と克服感の入りまじった身もだえするようなあの感覚である。

そしてこの感覚こそタバコの真髄であり、また価値である。そのため愛煙家の間では、害の多いタバコほど位が高く、本数の多いほどいばれるのである。日本ではやはりショートピースが最も上位にあって、「あの人はいつも罐ピースを持っている」などと聞くと、「へへーといって頭が下がる。セブンスターを週に1箱ぐらいしか吸わない僕なんぞは愛煙家の間ではチンピラヤクザのたぐいに違いない。

人間をタバコで分類すると、吸わない人間、吸わずにはいられない人間、そして僕を含めて少数存在する吸ったり吸わなかったりする両生類である。

この両生類がタバコをたまに持って歩くとみじめなものである。僕は週に1、2箱だから一日に4本ぐらい吸うとかなり満足する。しかしたいていの人はこれではすまないからサ店などに入って相手がタバコをきらすと大変である。

「ある?」と聞かれると引きつってしまう。なにしろ相手のヤツは僕の一日分を数十分でむさぼり食ってしまう。僕が一日分の楽しみにと思ってちびちびと小出しにしていると、かえって相手のヤツの方が3倍ぐらい吸ってしまう。

部室で「タバコぉー」などと言われ出すと、同輩が「ゴロニャン」と言って寄ってくる。
先輩が「ガハハハ」と言って持って行く。後輩までも「われもわれも」と言ってたかってくる。
こちらもみみっちいところを見られたくないし、いつもは他人にばかりたかっていて借りがあるので徴笑みなどを浮かべて「どんどん吸ってくれや」などと言ってはみるものの3日かかって半分吸ったタバコが空になるのを見ると自分がかわいそうになってくる。

それから僕などはハイライトが限度でピースやホープは吸えないのに、上級者は僕の主食であるセブンスターやマイルドセブンなどの初心者タバコも吸えるというのは理不尽である。彼等から一方的に、たかり返せないのがつらいことこの上ない。

要するに僕にとってのタバコはカッコつけであり暇つぶしであり、自虐的快感であり理不尽である。
そして僕はこういうバカなことを考えながら一服つけるのが大好きである。
バックにロック音楽でもかかっていると最高である。実は今も1人で悦に入っている。
紫色の自虐的な煙がカッコ良くモクモクと流れている。垂直上昇した煙は、
途中で水平飛行に移り、部屋のすみずみにヤニをぬりつけている。

編集後記

編集後記

(武藤)
E: 今年の「峠」の編集は、例年聞いているより楽でしたよ。
S: そのせいかな、今1つ工夫の足りなさも感じるね。原稿の羅列という感じもする。
E: それは、今年は記録を主とする方針だったからです。一方では、こまめに各ランの後に原稿を集めた努力は認めていただけると思います。
S: しかし、クラブランの記述のストックばかりでなく、オリジナルの他の原稿を精力的に集めて欲しかった。復刊3年目にもなり、加えて創立15周年ではあるし、もっとユニークな編集も期待していたよ。
E: それは申しわけないと思っています。月刊誌へ全力を注いでしまって、余力を失ってしまい・・・。
S: 「峠」は年刊誌、活字印刷物である以上、対外的にもメインであるのだから、もっとおもしろく、充実させるべきだったと思うよ。
対内的にも、最近は部員相互のコミュニケートの場という「峠」の本質が薄らいだ感じがしてしまう。
E: それは月刊のフロントバッグの方で10分果たされていると思いますが。
S: 何だかんだ言っても、みられるデキの「峠」ができたわけで、まずはよかった。こりゃ印刷やさんのおかげだよ。
S: しかし、青春期の記録の1つとして、かなりの間、残るものを作るわけだから、そこには、ガリとは違う所があるよ。また、それゆえに、部員の心情を多く取材して欲しかった。クラブ行事にしても、プライベートにしても、少しランの記述一辺倒のようだ。
E: そうですが・・。
S: それには、部員間でもっと「峠」の意義を確認、論議して、十分にもり上げ、その場を利用していく気運が欲しいと思う。
E: おおせの通りで。

(本原)
先日、私は会社訪問という離れ技を演じた。まあ、結果は、着地に失敗して尻もちをつくといった体だったが、会社の人事の人は、私に「君は大学4年間に何をやってきたの?」と聞く。私に言えたことはただひとつ、「山岳サイクリングをやってきました。」

色々とカッコをつけて、あることないこと言ってはみたものの、力不足は否めなく、人事の人の口元に浮んだ薄笑が頭にこびりついて離れない。誰がみても、人間というものはたいして変りばえのしないものだ。企業という組織が私を必要としなかったのと同様、私がクラブから多々のものを享受したわりには、クラブは私をさほど求めはしなかったであろう。

そんな私が、この『峠』を制作するにあたっても、たいした役割を担えなかったはずである。
もしこの『峠』が優れていると思ってくれる部員、あるいはOBがいるならば、それは少なくとも、武藤氏や協栄印刷の一戸氏の御蔭である。

『峠』制作に協力を頂いた各位に心から御礼が言いたい。どうも、みんな、ありがとうございました!!
又、よくここまで部員諸君が我慢して、我々制作委員を見守ってくれた事に私は感謝の意を表明する。

最後に、次代の制作委員には、我々以上のものを創り出してもらう事を期待してペンを置こう。

Editor’s Note

1977年の出来事。昭和52年。

第19回日本レコード大賞 1977年 勝手にしやがれ 沢田研二

1月。アメリカでジミー・カーター大統領就任。
7月。ニューヨーク大停電。日本の衛星ひまわり1号打ち上げ。
9月。ボイジャー1,2号が打ち上げられる。
11月。横田めぐみさん、新潟市で拉致される。

中野浩一が日本人として初の自転車世界選手権の優勝を果たす。

ホテル・カリフォルニア(イーグルス)
ダンシング・クイーン(ABBA)

WCC夏合宿は、「 東北 : 青森から – 仙台まで」でした。

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こんにちは。WCC OB IT局藤原です。

この年、自分はまだ入学してはおらず、一つ上の先輩達が大学一年生だった時の生々しい文章を、意外な気持ちで
眺めています。やはり「1年=テント運び役」は相当なハンディと、精神的苦痛だったようです。

当時の文章をWEB化するにあたり、できるだけ当時の「雰囲気」を尊重するよう心掛けたつもりです。
文章と挿絵はPDF版より抜粋しました。レイアウト変更の都合で、半角英数字、漢数字表記等を変換していますが、全ての誤字脱字の責任は、編集担当の当方にあります。もし誤りありましたら、ご指摘をお願いします。

2024年冬、藤原

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