峠の詩
おいらは早稲田の 自転車乗り
朝もはよから ペダルこいで
何がいいのか 峠越える
疲れる遊びと 人は言うが
釜炊き飯炊き ススかぶり
汗かき風呂なし 酒もなし
疲れた時には あの娘想い
峠のひとつも 越えちまう
天下に名高い あの峠
俺しか知らない この峠
頭は軽いが 重いギヤ
忘れちゃならない 峠道
「校歌」に想う – 会長 上田
「校歌」に想う 上田会長
これまでも「都の西北」をどれだけ歌ったことだろうか。私は、たまたま、体育局に関係していることもあつて、校歌を歌う機会は特に多い。私は、校歌が好きであり、歌う度に、早稲田の一員としての感概をあらたにするのである。
早稲田に学んだ者の多くは、私と同じ想いで校歌を歌っているのではないだろうか。
ところが、ある時、今年で卒業だという学生が、早稲田に入学以来、 一度も「都の西北」を歌ったことがないと話してくれた。4年間どうしても、校歌が歌えなかったのだという。
その学生の話を聞いて、私は、驚き、悲しくなった。昨今の進学状況では、必ずしも、自分の希望した大学に入学できるとは限らないだろう。むしろ、希望どうりに進学できる人の方が少いかも知れない。
しかし、健康な若者の多くは、講義を聴き、研究を行ない、サークル活動に熱中するうちに、大学と自己の一体感を感じるようになるものである。自然と、母校の校歌も歌うようになるのである。
早稲田で4年間を過して、 一人の師にもめぐり会えず、 一人の友も得ず、遂に早稲田を自分の大学と感じることもなく卒業して行く学生は哀れでさえある。
それにひきかえ、コンパに出席する度に、声高らかに校歌を歌う、わがサイクリング・クラプの健全さを想わずにはいられない。
主将ノート – 後藤
主将ノート 17代 主将後藤
「5段変速は無理だなあ、新しく買わないと。」
「峠って知ってるだろう。あそこを走ることが多いんだ。そうそう女の子は居無いから。」
ランドナーの「ラ」の字も知らなかった私は部室の間を叩いた時の先輩の一言一言に驚かされていた。私達の代はそんな人間が、何人か居る。それは経験者と出発点から異なることを意味し、特にフリーで走っていた者と運動部出身者とでは考え方の根本からして違っていた。私達初心者はクラブ人としての行動、考え方を白紙の上に教えられた。
毎年何人かの新人が退部する。その理由は様々だが、私もそうしようとした1人であった。日常トレーニングが無く、ランが土日に集中していたためであり、他の色々なクラプを考えた。理工ボート部、野球部、ラグビー部、本学のスキーetc。しかし結局このクラブに落ち着いた。
それはクラプの雰囲気や世話をしてくれた3年生達の御陰であった。私は当時内気で1年の中でも最も扱いにくい者の1人であったろう。また自転車で走ることも長い間他のスポーツ程のおもしろさを感じず、結局1年を通じて参加率はよいとは言えなかった。しかし来やすい部室、くつろげる部室にはよく足を運んだ。
我々の代はニツ上の代に似ているように思う。血液型でいえば、B型的。騒しい連中が多く興味本位の行動、寄れば皆仲間、物事にこだわれない…。一方でナアナアですます甘さもあったが。
そんな私達はエピソードには困らなかった。またちょっとしたことでも酒の肴、茶の菓子となって話を盛り上げる。私のようなB型的、A型人間には慣れるまで時間がかかった。私達は合コンには消極的だがコンパとなると目の色が変わった。電線マン、白黒ショー、応援合戦、UFO、物まね、あげくはマジな格闘に火吹きなど積極的に芸に取り組む姿はいじらしく、1ツ上の代の芸人とともに芸の黄金時代を作り上げ春歌を歌う暇も無かった。それなのにそれなのに女のウワサは今1つ。
執行部となった時、吉川氏、神塚氏と対称的な2つの執行部を見て来た私達はその長所部分を取っていこうとした。しかし不思議なもので、先代とまた違った体質の私達は長所を取ったつもりでもそれが短所となったり、先代の失敗等を生かし切れない所があったりでなかなか当初考えた程うまく行かなかった。先代に対しての批判にしても自分達もまた同じことを犯していることが多かった。考えの甘さを思い知った。
私が主将となった時、私なりの青写真を作った。私達の代の厳しさの足りない部分を補なおうと自らに言い聞かせ、厳しい主将になろうと決心した。青写真は3本の柱を持ち、「春の新人の世話、プレをハードに、後期も息長く」ということを心がけた。合宿自体は、クラブ員が最も真剣になる時なので、
私自身の柱とはしなかった。全体を通せば青写真通りであったが、最大のミスは、春の新人の世話であった。4月から5月初旬の最も大切な時期に新人への積極的交流が思うように行かず、5月も中旬になってやっと本格的に、となってしまったこと。
これがために失なった部員もいたであろうし、この影響は当時の1年にも残り、彼らが執行部になったときの新人の世話に表われる恐れもある。正直なところ、自分達が新人の時に面倒を見てもらっていないと、執行部になったとき新人に面倒を見てやることはなかなか難しい。
これは到底1人や2人の3年でできる問題では無く、執行部全員が真剣に積極的に取り組まねばならぬ問題であるためで新人たちの代の本質にも大きな影響を及ぼす最重要課題である。後輩達には是非とも気をつけてもらいたいし、そのためには行動力の強い、強力な執行部の体質を持っていなければ難しいだろう。
我々は慢性金欠病であることだし。ただ5月中旬以降は新人との接触を満足いくレベルまで取っていたように思う。これはやはり私達が吉川氏達の代に面倒見てもらっていた御陰である部分が強いように思う。
随分執行部の恥をさらけ出してしまったが、組織としての能力としては優れていたと思う。主将は別として? 私の大雑把な部分をよく補って問題を処理してくれた副将神保。
近年最大の財政危機だったクラプを良く支え建て直した会計下沢、
地獄のプレ赤城山では企画した責任を取り?自ら15テンを積んで昔ながらの重ギヤで登リシんでいた企画岸野、
のんびり屋さんだが字のキタナさを局員に書かせることによって補い、エスカニュースも編集した遠藤、
今まで影の薄かった資料局を映画の大作を作り、アッと言わせ、さらに古い資料の公開など積極的方針で花形局に仕立て上げた張替、
合コンは少なかったが独自の雰囲気で場を盛り上げ、OBとの交流も密にしようとしている渉外薄葉(後に顧間)、
その天才的な器用さとテクニックで以前の局長にまさるとも劣らない名テクニシヤン技術指導松村、
キヤンピングとなれば最重要物資となる機材を管理した磯谷、
楽天的で雰囲気作りに光ったオープン橋本、
色々な局に関係し局長の手となり頭となってくれた桑谷、ナルシストと自他ともに認めながらもまだ新しいトレーニングにあって頑張ってくれた松下、
よく雰囲気も盛り上げてくれた浜崎、川村、
数年来のWCC理事の恥部イメージを破った異端児久光、
何もしないままという感じで一生を終えた顧問神塚氏、
そしてある時は局長の上に、あるときは局長のこま使いをしていた私と、人材には恵まれていた。
執行部はどうしても毎年同じ失敗を操り返してしまうものである。しかし執行部時代の経験は忘れず人生の1ページにしっかりととどめたい。
私は最後まで真のサイクリストではなかったように思う。しかし真のクラブ人であったことに充分満足している。
新歓ラン・レポート – 岸野
新歓ラン・レポート 岸野
新歓ランは基本的にはエンタテインメントだと思う。WCCのいろんな要素を盛り込んで楽しく走れれば、そしてそれを上手に演出して盛り上げていけばそれに越したことはないだろう。それを自分の中でどう受けとめていくかは全く自由である。
初日は大隈講堂前から調布、橋本を抜けて道志(青根)に至る70km余まりの道程である。いわゆる市街地走行の日でコース自体はほとんどツマラないのであるが、やはり、講堂に集結し一団となって都心を離れていく気分は妙に開放的で、新生WCCの出発にいかにもふさわしい感じがする。この日はキヤンプ場での飯炊き、釜炊き、 1人1言も含め兎に角、WCCの持っている雰囲気を大切にしたい1日であった。別に難しいことではない。
いつものとうり、例えば休憩の時、発包スチロールのポールと木切れのパツトで野球をしたり、昔話に打ち興じてみたり…。と同時に新人もしっかり新しい昔話をつくってくれる。誰じゃ?A獣医大のキャンパーにナンパしに行ったんは…おもろいけど。
2日日は道志街道から山伏峠を越えて山中湖畔に至る一汗コース。フリーランで峠に登り山中湖側で待つという設定。実はこの部分は企画局長の心憎い演出で(まあまあ、お怒りもありましようが)全力でひと仕事おえたあと、リラツクスしてトンネルを抜けると富士の威様と山中湖という1大パノラマを用意したのであります。で、よかった? その後、湖畔まで一気に下り降り昼食。
テニスウエアの女の子にむかえられて…オレああいうのって、好き!ミーハーやし。飯食ってからは班別パートラン。ちゃんと三国峠まで登り返して、例の調子で得意になって話をするY氏(当時5年)の班みたいな優秀なとこもあったし、ホテルMT富士の玄関まで登って追い帰されたモノ好キ班もいたし…、あのなあ、 「茶店でも行って1服つけようや」班の諸君!あんたら大したもんや。頭が下がりますわ。湖畔のキャンプ場で、「モット、モット」しか芸ができないと思っていたU君が新しいゴルフの芸を完成させたことも記憶に新しいし、不肖私も生まれて初めて山中湖のワカサギをつかみ取り。記念に焼いて食った。全然生焼けでうまくなかったのだが、くやしかったのでうまそうな顔をしてみたものの、後楽園(こら食えん←ショーモナイしゃれ言うのがおったなあ。)。夜はWCC名物の怪談話に花が咲き、まずまずの1日でした。
3日め、朝から雨。私は思わず膝をたたいて喜んだ。といいますのも、どこかで1日降ってもらって、しっぽり濡れていただきたかったからだ。これをなくしてWCCは語れないから。想い返せば4年前、雷雨の中で神社の境内にテントを張り、川の中で寝た新歓ランは衝撃的で、ゾーーツとした憶えがある。
以後、同輩のM氏(病気で止めてしまったが)とWCCを
「ダブル・コンデイション・カウンターズ」の略と考え、雨と峠の2つに挑戦する徒と考えた。若き日の想い出である。
この日の雨は普通の雨ではなく、まさに「雨矢」。痛いの痛くないのってたまったもんじゃない。ガキの頃、近所の山の滝に打たれて、修業ごっこをしたものだが、ああいうパチンコ玉をぶつけられるような痛みはない。竃坂峠を御殿場へ下ると普通気持ちいいものだが、顔は痛いはプレーキは効かんは、あの経験をともにした方々は無事であったことをまず神に感謝しなければならないだろう。
ゴルフ場の横をすりぬけて駿河小山の駅に着いた頃はまだ陽は高かった。が依然として雨は降り続いていた。足柄峠を断念し、万感の思いをこめ解散としたのがつい昨日のように思える。
ああプレ合宿
ああプレ合宿
1979年6月16日・17日
1979年のプレ合宿は赤城、榛名両山であった。別に交通費をケチったわけではないが、本庄集合、高崎解散の身近なコースということで幾分、この赤城を甘く見たのかも知れない。しかし、それにしても何と悲惨なランだったことか…。
6月16日晴れ、時々曇り、コースはまず本庄から大胡までの平坦路。ここで1年U氏、そして2年K氏が次々と何もない所で転倒し、負傷する。
それが最初の悲劇であった。この日、早くも標高200m余りの赤城山神社のあたりで皆に疲労の色が見えていたが、地道に入ると深いバラスの急勾配となり、さらに水場が無いため乾きが襲いかかる。そして道端には転倒したままの黄色いユニフオームが点々と転がっている。そんなハードな登りで最後の者がキャンプ場に着いた時、陽はとっぷり暮れていたのだった。
翌朝はまずまっすぐなダウンヒル。そして榛名山へも快調に登り切り、初夏の榛名湖を堪能して、午後3時過ぎには全班が高崎駅へ到着。とにかくこのハードなランを乗り切った1年生の顔には自信が…というところで最後尾のメカと主将が来ない。誰もが主将が道でも間違えたと思っていた。しかし、大方の予想に反し、あのメカM氏が病院にかつぎ込まれて、この悲惨なランの幕が閉じられたのでありました。
このイラストはその最も想い出深い、M氏にお願いしました。
夏合宿行程
夏合宿行程
7月30日 金沢-金沢市青年の家キヤンプ場、 17km、45Om、
各方面から黄色いユニフォームが金沢駅に集結。初日は軽いジャプ。
7月31日 金沢市青年の家ー見上峠、プナオ峠ー菅沼、40km、940m、
伝統のプナオ峠もフリーランで無事越える。
キャンプ予定の菅沼では先方の手違いで場所が無く、YHに世話になる。
8月1日
A班 菅沼-白川、天生峠、保峠-稲越、52km、 1330m、
最初のヤマ場。腐ったバンを食べたT氏が下痢。しかし、同じバンを食べたI氏は無事。
B班 菅沼-白川-白山白水湖、54km、970m、
白山中復の山深い湖への折返しコース。
8月2日
A班 稲越-湯峰峠、高山-美女高原、42km、440m、
休養日。
B班 自水湖-新軽岡峠、松ノ木峠、保峠-稲越、70km、700m、
森茂峠が崖崩れの為、う回。
8月3日
A班 美女高原-大谷、旗鉾-殿下平、33km、850m、
乗鞍山復で高度をかせぐ。
B班 稲越-湯峰峠、高山-大谷、42km、340m、やっと休養日。
8月4日
A班 殿下平-平湯峠、安房峠-上高地。31km、 1100m、
ダイナミックなコース。しかし疲労がジワジワと…。
B班 大谷-平湯峠-平湯、26km、990m、
久々の風呂。しかし買い出し班は50Om下った町まで。ご苦労様でした。
8月5日
A班 上高地-乗鞍上高地スーパー林道-一の瀬。38km、960m。
B班 平湯-安房峠、乗鞍上高地スーパー林道-一の瀬。34km、 1110m、
中日。明日の乗鞍を控え、再び全員顔を揃える。
8月6日 A ・B班 一の瀬-乗鞍岳肩ノ小屋往復、46km、1330m、
ハイライト。山頂まで自転車を持ち上げた者も。しかし、台風が接近。下る頃から大雨に。
8月7日
A班 一の瀬-自樺峠、境峠-木曽福島、57km、85O m、午前日は雨。
出発は遅れたが、舗装路を木曽福島へ。
B班 一の瀬-自樺峠、寄合度、野麦峠-野麦、40km、900m、
出発の遅れのため宿泊地を野麦の分校に変更。
8月8日
A班 木曽福島-3ッ屋、菅沢ー開田高原。27km、600m、
後半のヤマ場、御岳へのアプローチ。
B班 野麦-留野原-胡挑島(濁河)、29km、900m、
朝食は前日、非常用に買ったラーメンをみそ汁にぶち込んで食べる。
キャンプ場近くでI氏メカトラ。R ・デイレイラーがフリーの上までひっくり返る。以後氏は5段しばりで走る。
8月9日 A班 開田高原-長峰峠、留野原-胡挑島(濁川)、28km、910m、
B班より1日遅れで走る。こちらはトラブルなし。
B班 挑胡島(濁河) -小坂、日和田峠-弓掛、64km、420m、
御岳からのダウンヒルを楽しむはずが裏切られる。
10%位の下り坂で自転車を押す程の地道だとは誰も予想しなかった。
8月10日
A班 9日のB班に同じ。
B班 弓掛-小川峠-中河原、37km、480m、
ここまで来ると部員に生気が蘇える。
8月11日
A班、弓掛-金山、袋坂峠‐上麻生、52km、15O m、
合宿中3度も胴上げされ見送られた4年M氏、再び栃木の家より上麻生のキャンプ場に舞い戻る。
B班 中河原-堀越峠、野々倉-上麻生、48km、690m、
再びA班と、合流。
8月12日 上麻生-美濃加茂-岐阜、47km、O m、
最終日。コンパ、そして夜の柳ケ瀬へ。
夏合宿奮戦記 – 高橋
夏合宿奮戦記 高橋
今日は皆の顔が見える、そう思うと長いプライベートで疲れた身体に何か新しい力がみなぎって来るようだ。プライベートの1日1日が走馬燈の様に脳裏に浮かんで来る。
パースト寸前になったタイヤを交換する為に、中津川から茅野までL特急に乗って買いに行った事、御岳山で転落したおじいさんを助けて4,000円もらった事、あの時は御岳の頂上付近が雷雨で、おじいさんと一緒に救急車に自転車をつんで木曽福島の駅まで行ったっけ。こんな事ばかり考えていると今まで重かった足も軽くなる。
最後の峠を登り、快適な下りを楽しんだ時だった。今走って来た道が金沢へとのびる国道とぶつかる所の店に、数人のサイクリストが休んでいるのが見えた。今まで山の中ばかり走っていたのでめったにサイクリストにも会う事がなかった。何かなつかしい感じがして近づいて行くと、どこかで見た事がある様な気がした。
向うもこっちに気付いたのかオレの方を見ている。なおも近づいて行くと、あっ永山やないか、岸野さんも橋本さんもおる、向うも気がついたらしく、立ち上がって、お―とか何とか言っている。劇的な既知との遭遇であった。見知らぬ土地で不意に会ったクラブ員の顔は何にもましてうれしく、そして感激した。
金沢駅に着くと、他の部員も多勢集まっていた。これだけ集まると何か異様な感じさえする。しかし、皆と会って話をしていると、これから始まる初めての夏合宿に対する期待と不安が胸にこみあげて来た。
合宿開始後2日め、楽勝の昨日とうって変わり、皆多少なりと緊張があるもよう。なぜなら、数年前の夏合宿で、最悪のコンデイションとなり、車に拾ってもらったという伝説のプナオ峠が待ちかまえているからだ。当時、雨は降り、ハラはヘリ、プヨはおそってくるという三重苦にさいなまれたブナオ峠がオレ達の行くのを今か今かと待ちかまえている、そう思うと心配になるのもしょうがない。
キャンプ場を出発してからオレ達は快調にコースを進んで行った。いつしか刀利ダムを過ぎ、中河内を通り、もう地道に入っていた。ブナオ峠へのアプローチは始まっている、そう思うと憂鬱な気分になって来た。また少し進むと、深ジャリのエグイ道となった。タイヤがジャリにめりこんで思うように進まない。10mも行くとすぐ足をついてしまう。
こういう道はえらく体力を消耗する。しかし、以前の時とは違ってえらくいい天気だし、この分だとどうにか越えられるかもしれない。そう思って先輩達の後を登って行った。休憩の後、悪戦苦闘1時間余りのすえやっとフリーラン地点まで着いた。
ここまで、まわりの景色を見る余裕さえないままだった。長いプライベートの疲れがたまっているのかもしれない。フリーランは1年から順に出発して行った。オレは小便をしていた為に出遅れてしまった。いつも思うのだが、フリーランというのはいつも競争になってしまう。手を抜いて走ろうと思っていてもいつしか熱くなって来て、必死になって走っている。
今度も例にもれずそうなった。ブナオの伝説もすっかり忘れ、峠の頂上を目指し、一心不乱にペダルをこいだ。まわりの景色などとても見る余裕などなく、日に入るのは遠々と続く坂道と自転車の前輪だけだ。前を走る連中を1人、2人とかわして行く、しかしまだ先は長そうだ。もういい加減しんどくなって来た時、頂上に先に着いているやつらの声が聞こえて来た。あと少しだと思うと、もう必死だった。峠の頂上に着いてみるとなんのことはなかった。伝説のプナオ峠はやっぱり伝説に過ぎなかったのだ。
ここにたどり着くまではえらく心配したのがバカみたいに思えて来た。まあ、このぶんでは合宿も楽勝で乗り切れるだろうなどと考えた。しかし、この甘い考えが本当に甘いと解ったのもそう遠くない日の事だった。
3日めには、A ・B両班に別れることになる。白川で紺碧を歌ってからA班は天生峠へと、B班は白水湖へとそれぞれ散って行った。ところで我々A班は天生峠へと向ったわけなのだが、峠の頂上であの恐怖の田中さんと出っくわすとは思ってもみなかったのである。
班別フリーでギンギンになって頂上までたどりつくと、先に着いた班が、どこかの汚ないサイクリストと話をしているのが目に入った。どんな奴だろうと目をこらすと、いつかどこかで見たことのある風体である。半袖と半ズボンからによっきり伸びた黒い手足、それに「ヨオ!ヨオ!」と言って右手を上げる仕草、もう間違いはない、田中さんである。
そして田中さんはうちの班に配属され、これで我が精鋭2班は、田中さん、神塚さん、張替さん、磯谷さん、河越さん、内田、そして私という、今合宿きっての騒々しくも愉快な班となり得たのだ。
この日は、天生峠の後、標高差140mの保峠を越えることになっていた。我々は天生峠を下り、R360に別れをつげる分岐点の村、天生に着いた。ここで休憩となった訳だが、あの誰も、いや巻きこまれた当人でさえも予想にもしなかった惨劇へのプロローグがとうとう幕を開けたのである。
この時私は、少し腹がへっていた。近くの店に入り先づジュースを買った。そして、何かうまそうなバンでもないかと思い、なぜかふっと店の外に目をやった時である。あの磯谷さんがさもうまそうにバンを食っているではないか、「あっ、おれも食っちゃろう。」と思うが早いか、バンの置いてあるガラス戸棚の中から、食バンを3角に切って重ね、中に何かはさんでころもを付けて揚げたバンを2個取り出した。
その時、夏の暑さのせいか、バンが汗をかき、包んであるビニールの袋に水滴がついていたのだが、まあ大丈夫だろう、そんなにいたんでいないだろうと思ってそれを買ってしまった。店を出て道の向う側にある石垣に腰をかけ、先程買ったパンにかぶりついた。「ウゲツ」なっ、なんとマズイバンであろうか。今までこんなマズイバンは食べたことが無い。すえているのだろうかと思ったが、背に腹は変えられぬ、ともかく、2個とも食べてしまった。
腹もふくれた所で出発となった。しかし、保峠は最初考えていた様な軽いジャブ程度のしろものではなかった。「山椒は小粒でもピリリと辛い」という言葉があるが、正にその通りであった。短い峠にありがちの、うねうね登りの急勾配、その上、田中さんが後から煽るものだから、たまったもんじゃない。登り始めた最初から最後まで声の出しっ放しだった。僕も峠を登る時、かけ声をかけるのは好きだが、この時ばかりはもう出したくないと思った。
やたらと汗が出て、トツプチュープにしたたり落ちたのを記憶している。それにこの日は、この合宿が悲惨な合宿となるプロローグでもあったのだ。この日、昼飯に食べた、揚バンが以下の峠においての不幸の元凶となってしまった。
次の日あたりから飯がうまくなくなって、少し下痢気味になってきた。そしてそのピークが来たのが、平湯と安房の両峠であった。この日は、朝から天気が悪く、気分も最高に悪かった。今までランに出て病気になったことなぞついぞなく、この日の空の様に今にも泣き出したい思いだった。人間、病気になると、やたら気が弱くなる。それが旅先となるとなおさらだ。
先ず平湯峠へのアプローチが始まった。悪いことに朝からくずれそうであった天気がとうとう雨になってしまった。まだこの頃は腹具合がそれ程ではなかったのだが、雨に濡れた為か、チクチク痛んで来た。腹が痛いとペダルを踏む足にも力が入らない、入れようと思うと、ほやほやのカレーが今にも湯気をたてて出て来そうになる。クサイ話で申し訳ないが、この時ばかりは、もうそこらにしやがんでケツをまくりたくてならなかった。肛間がヒクヒクして今にも出るでという様に信号を送っている。あの気分は、誰にでも解るものじゃ無い、あの瞬間を味わった者にだけ理解できるのだ。
どうにか平湯峠は、みんなに遅れずピークまでたどり着けたが、安房峠では1時間近くも遅れてしまった。この下痢は、合宿のメインである乗鞍を越えるまで続いた。
汗と涙と下痢は、その長い幕を閉じた。これからも続いて行くだろう長いサイクリング人生においても、キラリと光る1ページを飾るだろう。
私と早稲田同志社交歓会 – 伊藤
私と早稲田同志社交歓会 伊藤
今年度(1979年)の早稲田大学サイクリングクラブと同志社大学サイクリングクラプの第16回交歓会は晩秋の11月3日から7日までの5日間にわたって、同志社大学側の企画によって行なわれました。
コースはDCCの地元である近畿地方-舞鶴・天橋立。奥丹後半島-福知山・山辺そして京都の御所まででした。日玉商品であるタイムトライアルは3ステージあり、それは普甲峠。与謝峠・紅葉峠の3ケ所でとり行なわれました。
参加人員は60名余であり、DCCのクラブ員はほぼ全員、そして当方の我がWCCのクラブ員もかなり全員に近いという参加率でした。結果的にはWCCとDCCの両方がガップリと組みあって、和気あいあいと行なわれたということはなかなか喜ばしいことであると思われました。
早同交歓会は秋も終わり、もうすぐ冬というような季節に開催される。率直にいって、開催地やその年の天候によっては雪が降ることも考えられるのである。
すなわち我々が得意(?)とするテントによるキャンピングツアーは不可能に近い(まあ我々の仲間のある者達にとっては可能であるかもしれないが)ということで、どうしても宿泊はュースホステル・民宿・国民宿舎等というものを使わねばならなくなってしまうのである。
そのような宿泊施設を利用するということは、食事やテントの準備が不用であり、入浴が一応毎日可能であり、そして布団というすばらしいもの(シュラフと比較した場合)の上で寝ることができるという大きな利点を持っているのである。
しかし、これらのことは我々の信条に反して金銭的負担がかかってしまうということである。しかし、どうしても季節的にアツプヒル以外は肌寒く身体が硬ばってしまう。そうなると事故等が起こる可能性が大きくなってしまうだろう。だから、やはり、しっかり入浴して布団の上でゆっくり寝て、疲労をできる限り解消しようとすることは必要であると思う。
ちなみに、どうしたわけなのか早同交歓会では事故・不注意による負傷、持病の再発等というものが跡を絶たないようである。持病の再発というものはまあ別であると思うが、ダウンヒル等で普段のランでは、まずないような転倒・接触ということが起っているのである。ちなみに私自身もダウンヒルの緩いカープに於て電信柱に接触し、リタイヤという恥ずかしい事故を起こしてしまっている。
原因はサイクリストとしてはあってはならない居眠り運転によるものであった。しかし、居眠り運転というものはあってはならないが、かなりの人が事故を起こさないまでも経験していることであると思う。私の場合、緩いカープを曲がった所で状況判断ができず、電信柱に接触し転倒、頭頂部を負傷。即、伴走車で病院へ直行。本当にランの途中で事故等をおこして負傷してしまったりすると、本人がそのランがおもしろくなくなってしまうばかりか、また他のメンパーにも多大な心配・迷惑をかけてしまうのである。
そして、もし、あのカープで対行車が来ていたりしたら、私は今頃、生きていないというような事もあったかもしれない。事故というものは冗談ではなく、「注意1秒けが一生」なのである。自転車は誰にでも身近で手軽な乗物である。が、しかし、そうであるだけに逆に気をつけて乗らねばならないものと心から思われるのである。
早同交歓会のような2クラブ合同の大人数で行なわれるようなランは伴走車が必要であるとつくづく思われたのである。
さて、何といっても早同交歓会のメインエベント、花はといえばタイムトライアル(TT)であるだろう。
これは我がWCCがいつもランに於いて行なっているフリーランをもっとシビアにタイムまで計測して順位を競うものである。フリーランでは個人的な解釈によって、速く峠等を走るためとか、全体ランではできない自分のマイベースで走るためとか、いろいろなされ方が変わってくるのであるが、タイムトライアルは競争なのである。
WCCにもDCCにも、どちらにも今回の早同交歓会では花形スターの存在があるようである。
WCCでは神保氏、DCCでは瀬戸君。まあ他にも多数、ダークホース的な人達はいたのではあるけれど、やはりこの2人が目玉であったようである。走りに於て、華麗、不気味な速さという相違はあってもこのようであったのである。
ちなみに瀬戸君は今回の交歓会の1泊日、松尾寺ユースを出発する朝まで驚異のホイールをはいていたのである。タイヤとチュープの間にポロチュープを入れてバンク予防としていたのである。
タイムトライアルは今回、合計3ステージ、普甲峠、与謝峠、紅葉峠で行なわれたのである。まあ、結果はやはり大方の予想通りではあったのではあるけれど、両方とも回転力でギンギンであったのはスゴイと言わざるを得ない。
私がまだ1回だけではあるが、早同交歓会という他の大学のサイクリングクラブとシビアにある程度の日数、自転車を手段に(当然か)交流をもつという機会に参加したことは大変良かったと思われる。
今回1年生であった私が、上級生同志が集合地に於て、本当になつかしそうに話をしている、WCCとDCCとしてではなく、まるで同一のクラブでいつもいっしよにいる仲間であるかのように話をしている。やはり同じ釜のめしを食ちた仲間達である、これは本当にうらやましくもあり、また次回からは、いや次の日からは仲間だと思うようになるということをつくづくと感じたのである。
両クラプが企画でカラーを出しながら魅力をもって、これからもずっと早同交歓会はあり続けるだろう。
南ア冬期越え – 岩城
南ア冬期越え 理工学部 岩城
Prologue 弁慶にて
Prologue 弁慶にて
そもそも、間違いの元は、弁慶である。9月末のとある晩、例によって例の如く、黒田氏と2人、カウンターに座り、八重梅をなめながら、執行部を取っていた頃の思い出にふけっていた。どちらともなく、2年前の夜叉神峠の話が出た。あの頃は、まだ2人共、お互いに相手が酒乱であるとは、つゆ知らず、唯、単純に「走り」に行き、南アの雄大さに感動したのである。
「あの夜叉神はよかったな―。」
「あ―。」
「また行ってみてえな―。」
「そうだな、また2人でどっか行くとしたら、夜叉神だな。」
「行かね―か?」
「….」
「行こうか!」
ここまでは、まだ酔っ払いの冗談ですんだ。酒の量が進むにつれ、話がまじになって来た。
「やだね、酔っ払いは!」
そうこうしているうちに、話はくだをまき始め、ちどり足でよたついて、いつの間にか伝付峠を越え、大井川林道を走り去り、静岡市まで行ってしまった。企画と脚力の差は、歴然であったが、そこはさすが酔っ払い。当然の事のように、我等は、伝付峠の頂上に立つ、我雄姿を思い描いていた。
一夜明けてみれば、顔面蒼白。秘密裏に準備を始めたが、いつしか話が部室に広まって、引っ込みがつかなくなったのが、我等の運のつきであった。
1979年12月6日、夜。準備を整え、焼肉とビールで前祝い。新宿駅東口で輪行する。重い荷物に閉口しながら、よたよたホームに登る。酒を買い、すべて準備完了。23時55分発長野行鈍行。発車のベルが止み、悲情にもドアが閉った。サイはふられた。
第一章 いざ、夜叉神へ!
第一章 いざ、夜叉神へ!
12月7日、午前2時過ぎ、甲府に着き、シュラフを広げる。背中からの底冷えに、ほんの数10分まどろんだだけであろうか。駅前を足早に往く通勤、通学の人々の表情が、何故か平和な、別世界の物のように思えた。陽が登り、遠く南ア連峰は、雪を冠っている。快晴!8時。いざ出発……?
甲府の地図を持っていない2人は、そく、道に迷う。
「ああ、前途多難!」
背の荷が重いせいか、はたまた体力の衰えか、峠の登り口に着いた時には、2人共ぐったりであった。また30分程走り、ダウン。何かいい案は無いかと、無い知恵をしばり、結局、背中の荷を減らしてみる事にする。キャラバンシューズをテントにくくりつけ、再び重い腰を上げる。これで少々楽になり、2人の表情にも幾分光が差して来た。
また10分程走り、芦安鉱泉に着く。ここからが、本当の登りである。充分に休憩を取り、肺にニコチンを満たし、出発!
「お―い! 夜叉神て、こんなにきつかったっけ?」
互いに互いの足を引っ張り合い、何とか自分のペースをつかんだ頃、「冬期期間中通行止」の看板に出会う。我々としては、何としても、ここを通過しなければならない。そこの番をしていたおっさんと、押し問答の末、
「押して行くならいい。」と言われる。
「上の方は雪かな?」
「どうする?」
「……」 ・
関所が見えなくなると、また自転車にまたがる。確実に、不安はふくれ上がっていく。
スローペースの為、峠の途中でめしとなる。峠に着いたのは、2時頃であった。さいわい雪は無かった。 1・5キロの夜叉神逐道を抜け、自根三山が、雄姿を現わした。しばし感動にふけり、写真を撮って、野呂川林道を広河原に向かう。
当初の予定では、今日は、奈良田を通り、新倉あたりの湯泉で、湯舟にとっくり浮かべて1杯のはずであったが、時間も時間だと云う事で、広河原小屋に、泊まる事にする。
左に野呂川渓谷をながめながら、相変わらずのスローペースで、広河原に着いたのは、4時頃であった。すでに陽は、北岳の向こうに落ちていた。ロッヂの自動販買機で、ビールを買い、 1日の無事を、酒の神「パッカス」に感謝する。なんのこっちゃ?夕食は、ひじき、もち入リラーメンであった。
シュラフに入るやいなや、そく、寝りに落ちる。しかし、さすが標高1600mを越えるせいか、寒さで夜中に目が醒め、テントのフライシートをかけぶとんにして寝る。
第2章 しばし休息の日を……
第2章 しばし休息の日を……
翌朝、6時半起床。朝の散歩としゃれこむ。陽の光が、自根三山の雪渓を、赤く輝らしているが、まだ、我々の居る谷底までは、届かない。さすが、寒さが身を切る。
今日は、新倉までと云う事になり、比較的余裕がある。水道の水が凍っていた為、ポトルの水で、味噌汁を作る。
9時頃、下り始め、奈良田ダムにて昼食を取り、新倉に着いたのは、3時頃であった。全くの下りに、よくもまあ、こんなに時間をかけられるものだと、2人、感心する程、のんびり走った。明日のハイライトに備えて、栄養を付けようと云う事で、新倉の部落で、ひじき、もち、にんじん、それと「甲斐の地酒」と云う銘柄の酒を買いたす。
少しでも明日の行程を、楽にしようと云う事で、行ける所まで行こうと云う事になり、ガイドプックには、 「今はもう廃道」となっている川添いの道を登る。完全に10%UPの急坂の連続に、悪戦苦闘。なかなかテントの張れそうな場所を見つけられないまま、へとへとになりながらも、 1時間後には、道の終点の発電所に着いてしまっていた。
「やれば、出来るじゃない!」
橋の下のちょっとしたスペースに、急いでテントを張り、川の水をくんで来て、食事の支度にかかる。献立ては、ひじき・もち・にんじん、なっとう入りめん吉である。下界では、とても食えそうにないような代物が、山中では格別にうまい。
めしも終わって、テントの中で、ラジウスで湯をわかし、例の、「甲斐の地酒」なる物を、ポトルでお爛する。
「ウッ、キクー!」
ろうそくの炎の薄暗い光の中、秘境に食む酒は、また格別であった。
第三章 押し、かつぎ、すて、伝付峠
第三章 押し、かつぎ、すて、伝付峠
翌9日、7時起床。今日も快晴である。
「ウ、ウ、ウ、サ、サムイ……」
ボトルの水が、凍っていた。テントを張ったまま朝食を取る。リュックに、フロントパツクから何から、みんな詰め込んで、9時半、なんとか発電所を後にした。
「お、お、重い!」
コンパクトにまとまった、黒田氏のリュックと違い、小生のリュックは、小なべがはみ出し、インフレーターの突き刺さったシュラフと、輪行袋がぶらぶら、ぶら下がった、ぶさいくな物となった。
歩く度に、それらの物が、上下左右にゆれ、重心を失なう。
しかたなく、シュラフと輸行袋は、自転車に付け換える。この日は、しょっばなから、押し、かつぎである。当然靴は、キャラバンシューズにはき替える。
まず、しょっばなに待ち受けるは、標高差100m、距離250mと云う壁であった。
「おい!あの道、冗談だろ…」
「…」
崖崩れの後のようなガレ場に、けもの道のような物が、ついている。どこか近くに、別の、本当の道がある筈だと思い、しばしあたりを探しまわるも、徒労に終わる。
「いや、まじみたいだぜ…」
「…」
しかたなく、その崖っぶちにいどむ。黒田氏は、なんとか自転車をかつぎ上げたようであるが、小生、すぐあきらめて、まず荷物だけかつぎ上げ、後から自転車を取りにもどる。さすがに、この時だけは、いざとなったら、自転車を捨てる覚悟が出来ていた。
(小生が、まだピッカピカの1年生であった頃、自転車をかばって鎖骨を折った等と云う美談を作ったような、古い記憶があるが、命と引き替えでは、今は無き、酒井天皇の後は、誰が継げばよいのか?そう!・芳原の淳大臣しか居なくなってしまうのである。)
何度となく、自転車を捨てたろうと思い始めたのも、この頃からであったろうか?こんな所に来た、自分が悪いくせに、やたら、道に腹を立てる。
「何ちゆう道や!くそ―!」
小生、ここで完壁にバテ、黒田氏に遅れをとる。約2時間、やっと八丁峠と云う所に出て、大休止とする。まだ、4分の1も登っていない。
ここからは、また川添いの道を行く為、坂は、少しゆるやかになったが、やはり、そこはサイクリスト。歩くのは苦手である。後ろから登って来たおじさんにぬかれる。
「若いうちはいいね!」
などと言われて、何がいいのか良く考えもせず、また、道に腹を立て、うっぶんを晴らす。
唯々、惰性で歩き続ける。また一服。
そうこうしているうちに、小生、情性と云う名のペースに、快感を感じ始め、自分のベースとしてしまう。今度は、黒田氏が遅れ始めた。何でも、靴づれで、まめがつぶれて、アキレスケンが張り、吐き気がするとか云う重症であった。黒田氏も、さかんに道に悪態をついている。氏、曰く、
「俺、もう、絶対にこの峠、来ないからな!」
道が川節から別れるあたりで、昼にする。八丁峠からは、約1時間で、けっこういいペースであった。
午後1時、引き攣った顔も、疲れでふやけた両名、いやいや、重い腰を上げる。今度は、川から尾根に登る為、また急坂である。
ジグザグ道を、何十、何百とくり返し、大分登ったかなと後ろをふり返ると、さっき出発した所が、日と鼻の先に見えて、どっと疲れが出て、また休憩となる。
はたして、峠には、陽のあるうちに着けるのだろうか。冬の陽は、秋のつるべ落としなどと悠長な事を言っていられない。井戸の中に、勢いをつけて、漬物石を投げ込むようなものだ。峠を越えなければ宿は無い。あせりがあせりを呼び、しかたなく足を急がせる。しかし一向にペースは上がらない。
また何回か休憩し、やっと尾根に出た。ここまで来て、やっと、はるか尾根の終点に、峠が見えて来た。このくそのような道である。気の遠くなりそうな距離であるが、それでも、峠が見えて来た事で、幾分、気が楽になった。
「ここからは、尾根づたいに、峠に行ける!」
また幾分、勾配がゆるやかになった。しかし、決して勾配の無くなる事は無い。
峠の向こうに沈みそうになる陽を、追い続ける。また、何度となく休憩し、気の遠くなるであろうジグザグを登り、峠に着いたのは、3時半頃であった。シルエツトになる寸前の、赤石山塊が、日前に現われた。後をふり返ると、今朝出て来た発電所の放水管が、はるか下方にうっすらとかすみ、遠くは、富士山も、夕陽で赤く浮かんでいる。
休憩の回数だけ、本数の減った、くしゃくしゃになった煙草の箱を、ポケットから取り出し、 1本抜き取り、火をつける。煙の行方を、うつろな日で追う。2人共、しばし無言であった。
1杯の紅茶で暖を取り、4時、山の端に落ちて行く陽を追って、急いで下りにかかる。登りよりは、大分楽であったが、心配していたとおり、途中で暮れてしまった。真下に、二軒小屋の暖かそうな灯がある。自然と足が動いた。
約1時間半、二軒小屋に着いた時は、真っ暗であった。東海パルプとか云う会社が、まだ木を切っているらしく、飯場には、けっこう人が居た。小屋に泊めてもらう事にする。厚さ5センチはあろうか、すべて木で出来た銭湯のようにばかでかい風呂にも、ありつけた。
ストープをたかせてもらう。まきは、いくら使ってもいいと言われたので遠慮無く使わせてもらう。腰をおちつけ、うち上げの酒盛り。と云っても、非常用のウイスキーポケットびんである。しかし疲れ切った2人を酔わせるには、充分な量であった。
第4章 そして下界へ
第4章 そして下界へ
12月10日。7時半起床。体の節々が、ぎしぎし鳴っている。今日は距離110キロ、標高差700mだが、待望の下り、そして人間の生息する文明社会に復帰出来る。昨夜ちらついたのだろうか、道には、雪がうっすらと積もっていた。今日も快晴である。
この大井川林道、下りだと云うのに、風が強く、今日もまた地獄を見た小生であった。
畑薙第ニダムまで来た所で、少々早い昼にする。ダムの水をくんで来て、缶詰を暖めようとしていると、発電所の管理人さんが、「中に入って食べたらええ。外は寒いら!」
と呼んでくれた。やはり、 1人山奥深く生活していると、人恋しくなるのだろう。3,000ワットとかいう、とてつもない、バケモノ電熱器で、湯は1発でわいた。お礼の言葉を残し、帰路を急ぐ。
12時半、やっと井川ダムに着く。道も、やつと舗装となり、いよいよ最後の登り、富士見峠に向かう。途中、風に邪魔されたが、峠からは、富士がよく見えた。約1200mのダウンヒルを、 一気に下る。
Epilogue
Epilogue
午後6時、静岡駅に到着する。ビールで幹杯し、車中でワンカップを飲み、どろのような眠りに落ちて行った。夢も見なかった。早稲田着、午前1時。2人で弁慶に向かう。祝杯!
2人共、無言で飲んでいた。
END
駄部流史誌氏のつぶやき – 松村
駄部流史誌氏のつぶやき 政経経済 松村
「私ですか。そう、もう18年になりますな。いろんな若者がおりました。」
「昔はね、自転車だって今から較べりゃ粗末なもんでしたよ。変速機だってまともに動くのが珍しいくらいで、その上みんな不精ときとる。手入れも悪かった。ここじゃアウターで走るのが不文律だとか言っとるが、ありゃ何のこたあない、インナーが使えなかったからかも知れませんな。」
「最近は道具も良うなった。着るもんだって今の連中は立派なもんを使うとりますよ。実に羨ましい。」
「ただね、そりゃ今のもんも良う走っとるようだし、昔のようなパカ騒ぎも変っちゃいない。でもね、ずいぶんとまあ変ちてきたこともある。時代ですかな。」
「昔は人も少なかったし、何とかなるちゅうんで、行くだけ行ってみようてなとこがあった。それでやっぱり何とかなったもんですよ。でもね、今はちゃ―んと初めから按配して、緻密ちゅうんですかな。やることがスマートですがな。それに昔は新米ちゅうと、それこさ弟子入りみたいなもんで、上のもんも新入りには有無を言わさんようなとこがあった。でも今じゃちゃ―んと教えてやって、こうだからこうだと、みんなが納得せんといかんようになった。下のもんも役目を持っとって先輩といっしよにようやっとる。和気あいあいでね。4年になった連中は毎年そんな事を考えるようですな。クラプが大きゅうなったせいですかな。そうでない気もするんだが。」
「でもね、そこはそれ、 1本通るとこは通っとる。それは変らんね。」
「だいたい自転車で峠を登るなんざ、 一文の得にもなりゃしない。疲れるし、汚いし。夏なんざひどいもんだ。だがそれをあんなに夢中になって。変らんね、まだやっとる。毎年毎年。実に一生懸命だ。何もせんとポヶーっとしとる学生もずいぶん増えてきとるのに、ここじやみんな、自分の色というものを出してよう動いとる。そりゃ盛んなものですがな。ここの伝統ですかな。」
「私はね、変るとこは変ってもいいと思うとるんです。ただ要は、その変ったというか、新しく出てきたものが、ここの伝統につながってみんなが生き生きできるように、生かせるかどうかだと思うとるんです。」
「そう言えば、最近はずいぶんきつい峠へも大勢して平気で行っとるようだ。これなんざ前もって良う按配するからこそできる訳ですからな。」
「今もそんなふうだし、だからこれから先もずらと、みんなそこのところはちやんとやっていってくれるんじゃないかと、そう思うとるんです。」
僕の自転車史 – 加藤
僕の自転車史 加藤
僕と自転車とのつき合いについて話そう。
誰でも3輪車に乗っていた頃には、自転車は光り輝いて見えたんじゃないだろうか。その頃、自転車に乗るという事は、今、自動車の免許をとる事よりもっと恐ろしく、同時にもつと夢に満ちた事だったように思う。乗れれば大人になれるような気がした。
苦闘の末、小学校に上るまでには、何とか乗れるようになった。うれしくてしょうがない。毎日、暗くなるまで自転車で探険する。すぐ近くなのに、今まで見た事のない家並。そんな自分だけの新たな発見に胸をときめかせていた。
ある時、近所の同級生が、「自転車から煙を出してバイクにしよう。」と言い出した。計画はすぐまとまった。まず、荷台に海苔のカンを取りつける。その中に砂を入れる。カンには穴をあけ、管を突っ込んで砂を外に導く。自転車が走り出すと、砂はそのスピードで舞い上がり、モウモウと砂煙が立ってパイクみたい…となるはずだった。だが、試運転の日、砂はただボテボテと地面に落ちるだけだった。暗くなる頃には、海苔のカンは縁の下に投げ出され、この計画は終った。
小学校4年の時、担任の先生が自転車のパンクの修理の仕方を教えてくれた。自転車屋でカン入りのゴムのりを買って来た。もうそれだけで自転車屋になったような得意な気分だ。人のパンクは好んで修理した。その頃、偶然にも図書室で「自転車の整備」とかいう本を見つけた。早速借りて帰り、母親の自転車を解体し始めた。理屈では、すんなりと全部バラバラになるはずだったが、何分工具らしい工具がないものだから、悪戦苦闘。無理矢理ライト、荷台、前輸、サドル、ハンドル、クランクを取りはずした。
特にハンドルとクランクは難しかつた。ハンマーやベンチでガンガンやっているうちに、ねじ山はつぶれ、外したねじがなくなり、結局、母親の自転車は前のめりになって庭の片すみで眠りについた。そのうち、屑屋が持って行き、自転車熱もさめて行った。
スピードメーターつき、ウィンカーつき、5段変速、自由自在に変化するハンドルつき、色んな自転車が現れた。でも、 1度もそれを欲しがる事もなく小学校を卒業し、中学校を卒業した。高校進学が決まり、外は春。桜が満開で陽差は温かい。幸せな気分だ。田舎のじいちゃんは、好きなもん買ってくれると言ってる。そこで再び、自転車への夢がモクモクと湧いて来た。幸せな気分の中で夢はどんどんとふくらみ、そしてついに、ドロツプハンドルで10段変速の自転車が自分のものになった。
同じ頃、駅前の本屋で10,000円札をくずす為に200円の雑誌を買った事があった。急いでいたものだから、何でもよかった。その時は、競輪の専門誌だろうと思ったが、とても読む気はなかった。一見難しそうな本を買ってみたいという心理もあったのだろう。
随分たって、本棚の整理をしながら、ふと読み返してみた時の感激は忘れられない。自分が知りたいと思っていた事が沢山書いてあった。これが、サイスポとの出会いであり、サイクリングとの出会いだった。
そして高校2年の夏、これまでの夢は爆発した。サイスポを通じて神金を知り、高校入学の時買った自転車にトークリップをつけ、ボトルキャリヤをつけ、パーテープを巻き換え、マッドガードを交換し、色を塗り替えた。そしてサイドバツグを下げて、東京と静岡の生れ故郷との間を往復する1週間程のツアーに出た。
自分では大満足だった。最高にカツコイイなと我ながら思った。同級生達がバイクに夢中になっている頃、僕はサイスポを読んで胸をワクワクさせていたのだから、今こうしてWCCにいるのもまんざら偶然ではなかったのだなあと卒業を間近に控えて思っている。最近は、さすがに自転車に乗っている自分をカッコイイとは思わなくなったが、以前にもまして自転車に夢を託しているのではないかとフロリダグリーンの愛車に目を細めながら思う。
磯谷の隠れた自転歴 – 磯谷
磯谷の隠れた自転歴 磯谷
自転車に乗れるようになったのは、人並みに幼稚園時代であったと思われる。初めてあの補助ぐるまというやつをはずして乗った時、うれしくてずっと外を走り回り、どういうわけか止まらないですむところばかり走っていたのか、大通りを横切る時も止まり方がわからず、そのままつっばしったところ、やはり車がきており、あわやその車は急ブレーキ、急ハンドルで難をのりきったのでありました。
(今考えるとその自転車にはプレーキ機能がなかったのかもしれない。)
高校時代に、通学用の自転車を買おうとしていると、自転車好きの笹木という男が現われ、サイクルスポーツなどを見せてくれ、ついにはプリジストンのダイヤモンドシリーズなる自転車を70,000円も出して買ってしまった。初めてのドロツプハンドルの乗りにくさをなんとなくおぼえてます。
せっかくいい自転車を買ったのだから、どつかサイクリングに行こうと思い、ある日曜日の朝、めしも食べずにふと出かけた。当時札幌にいた僕は支笏湖をめざして走った。距離にして30kmぐらい。市街地をすぎるといちおう峠がまっている。もちろん地図などもたず、標高も知らなかったけど、なにしろ初めて自転車でのぼる峠であつた。たしか天気は快晴、体力も当時スポーツ少年であったのでバツチリであった。
しかし致命的なことは、朝めしも食わず、食料もなに1つ持たなかったことである。峠を半分ぐらい登ったところで完全にハンガーノックという状態になり、引き返す力もなくなった。
人間、おいこまれるとなんでもできる。走っている車をとめて物ごいをしはじめた。親切な人はいるもので、止まってはくれるが食べ物などはあまり持ってない。3台目ぐらいの車でようやっとにぎりめしにありつけ、力を取りもどして走って帰ったのです。
これが始めてのサイクリングの経験であり、第1回目の支笏湖ヘのトライであった。2回目は友達3人といっしよにいったのであるが、3/4ぐらい登ったところで大雨になり、もちろん雨具など持たなかった我々は、体も心もびしよびしよになり、その中を引き返して帰ってきて、2回目のトライも成功しなかった。3回目は土曜の午後から別の友達2人ととまりがけででかけることになった。
ところが出発の1週間ぐらい前に部室(当時弓道部であった)の前で、自転車をひろったのが悪かった。しめしめと思い、通学用に使っていたところ、その土曜日にいそいで家に帰ろうとすると、警官が忍びより、署に連行されてしまった。
なんやかんや説教され、始末書を書かされ、釈放されたのは夕方であった。それでもめげず出発し、夜のサイクリングを敢行し、ついには支笏湖へついたのでありました。
後輩達ヘ – 桑谷
後輩達ヘ 桑谷
私は、WCCの同期の連中と比べると、かなり不真面目な、というより不熱心なサイクリストであったと思う。4年も終りに近い今、思い返してみると、クラブランはサポルは、コンパには金がなくて行けず、 一時期は借金取りの顔が恐くて部室に行けなかった時期もあつたように思う。
圧巻は、知っている人は知ってようが、 1年秋頃からの、体の(1部)の変調で、2年の夏合宿には、途中退場を余儀なくされたりもしたのだった。そう。こういうふうに考えて行くと、ひょつとしたら、私は、参加したクラブ行事よりも、不参加だった方が多くなるんじゃなかろうか?
私は、考えがここに至った時、本当に愕然とした。マサカ!で、ざっと数を勘定してみた。細い計算は省略するが、「クラブ行事」の数え方を回数ではなく、日数で勘定すれば、合宿の分が上積みされて、かろうじて、私のクラブ行事参加率は50%を越えた。
しかし、単純に回数で計算すると、恐るべき事に…!更に、トレーニングなども含めると、これは確実に「片手で数えられる%」以内に納まる事が判明。
(ちなみに私は3年間の「トレーニング実施期間」中に参加したのはたぶん3回であります。)
全く、真理というものは、実に意外な側面を持っているものだ。私は、今、すなわち4年の2月に至るまでこの事を全く意識せずに、部室に我物顔で出入りし、後輩をしてコーヒーを買いにやり、デカイ顔して、ソフアーにふんぞり返っておったのです。全く、穴があったら、入りたいとはこの事。(建前では)。
でも、実際はこの文章が後輩たちの目に触れるのが、卒業後だと判っているので、それまでは、今まで通リデカイ顔してよう。(本音)
4年生は、あくまで、威厳につつまれ、後光を放つ存在でなければならない。(と思う。)
技術指導局 メカトラ係の一言 – 浜崎
技術指導局 メカトラ係の一言 浜崎
月日のたつのは早いもので、パールオレンジのフレームを輝かせて、初めて新歓ランヘ出てから4年近くたった。あの時のフレームはすでに無く、入学以来残っているパーツと言えば、ハンドルバー、バーステム、ペダル、クランク位で、後はいつの間にか姿を消して新しいものに替っている。
別段酷使したわけでもないし、自転車を踏みこわすほどの怪力でもないし、メンテナンスを怠つていたわけでもないのに今から考えてみると、あちこちがボロボロと毀れたものだ。そうしたことからいつの間にか「メカトラの王者」としてWCCに君臨(?)するようになったが、致命的なメカトラを起すのはいつも1人で走っている時で、クラブランではしばしば起こる小メカトラを自分でこそこそ修理して努めて目立たないように振舞っていたので、ぶざまな姿をさらすことはなかったはずなのに、
それでも「メカトラの王者」になっているのが自分でも不思議でならない。中部山岳合宿で、B班メカ担当になった時も、自分のメカトラを直すためのメカだという陰口がまことしやかにささやかれたのが非常に不本意だったが、実際に自分のメカトラを直すことが1番多かったのも事実だった。
今から振り返って思うに、 1度決定的なメカトラでみんなの足を引っ張って「メカトラの王者として華々しい活躍」をしてみたかった。
ところで4年間のクラブランの思い出の中で圧巻だったのは、やはり中部山岳合宿の元主将後藤と走った14日間だ。あの時は頻発するバンクで2人だけで置き去りにされたり、「こっちでいいんか?」「いいんじゃない」の会話であっさり道を間違えたりしながらも、何食わぬ顔で追いついて、辻棲を合わすことがしばしばだった。
CL会議にも出ずに、前方に黄色いユニフォームが全く見えないまま走ることがあったにも拘らず、メカ班行方不明の事態が起こらなかったのは不思議な事だった。今から思えば、後藤と2人で気ままに走り抜いたという印象が強い。
野営地に着くや否や飛び出した主将の決まり文句、「もっとびしっとしろ、びしっと」という叱吃の声の裏には、実はメカとの妥協に満ちた走りが隠されていたのであり、みんなの前で見せる顔とのギャップに少なからずとまどいを覚えたものである。
今こそ明かす元主将のおぞましき恥部であるが、これ以上の暴露は慎しんで、後は「美しい思い出」としてしまっておくことにする。
それはさておき、WCCに出会うまでは、サイクリングは1人で走るものと決めこんでいた自分だったが、WCCでは新たにクラプランの魅力を知ることができ感謝している。そして、クラブランではついに1度も華々しい活躍をすることもなく、また全くの下戸故に腹を割って話し合うこともなく、存在感が薄くて、クラプにあまり報いることがなかったことを勘弁してもらいたい。
恐らく卒業後も、知る人ぞ知るあの16インチミニサイクルなんぞひっさげて、ひょっこリランにまぎれこむことがあると思うので、その時には邪魔にしないで仲良く走ってやってください。
最後に – 下沢
最後に 下沢
卒業生は皆峠に一筆寄せなければならないというので前々からいろいろネタを温めておいたつもりなのだが、いざ書く段になってみると一向に出てこないので唖然とする。
書きたいことがありすぎるからなのか、それともなんにも無いからなのか。短かかったとも長かったとも思わないがこの4年間、思い出はいっぱいある。初めて部室に行ったときの異和感!わけのわかんなかった早慶戦、初めてのクラブランのときの緊張と恐怖? 空しかった合コン・オープン・etc、数多いランもアルバムを開いてみるとよく覚えているものだ。
とにかく人並みに走れるようになりたい一心だったころもあれば、峠を前にして(どちらかといえばだが)ワクワクした時期も短いけれどあったような気もする。
いろんな奴と夜を明かして語ったこと、連日の如く先輩の下宿におしかけていたころのこと、食欲も起こらない程に思いつめていたときもあったこと。
真剣に夢中になっていたときもあれば、ふてくされて努めてハスに構えていたころもあった。けれども今気付くのは、もうそれらの思い出に「鮮かな」実感が伴わなくて、あんなことがあつた、こんなこともあったと、一言でいえば漠然と「まあ、いろんなことがありましたナ」ということになってしまう。
むしろ今ではそれらがひとかたまりとなって、僕はWCCに4年間いたんだ、という極めて抽象的な事実に結局落ち着いてしまうような気がする。
思えば4年になってから出たランはたったの3つ、しかも全出席はオープンだけたった。部室には毎日のように行っても、それはマージヤンのメンツの加わる(やっばり集めるかな)ためという体たらく。無器用なタチなもので、4年になって突然、今まで「忘れていた」いろんなことにも色気を覚えたし、それに何といっても就職というインパクトもあった。
けれども、4年目がいちばんパワーがなくて停滞していた。4年になるとバカになるというが、僕はその典型だったと思う。走らなくなると、日がたつにつれて元気な現役の連中との間に言いようのない
スキ間が出来てくる。寂しかった。バカになった4年としては部室に居ても、当たりさわりのないところを選んでニコニコしているより他に手がないから、それなりにむずかしいものだ。
本当の年寄りになったときに役に立つかもしれないけど。自転車や走ること自体が好きなわけではないのだけれど、追い出しランで久し振りに走ったときの爽快感は、1年のとき初めて走ったときの感激にも勝るものだった。走ってみなければなんにも始まらないという当り前のことを、走らなくなってから実感するというのも皮肉なものだが、これから先、自転車で走るということがもう僕の習性になってしまっているということを知るときがもし来てくれるなら、どんなにうれしいことかと思う。
何を書こうかとさぐっているうちに、つまらない前書きのようなもので終わってしまうことになってしまったけど、鈍感で呑気な僕はやっばりこんなところなのだろう。
最後に気力を振り絞って元会計局長として一言、
みなさんOB会費よろしくお願いします!
Good Company – WCC – 岸野
Good Company – WCC 岸野
私は自転車の事をほとんど知らない。メカオンチはとうとう治らなかったし、「サイクリングとは何ぞや」といった本源的な問いも、ほとんど自分に向けたことはない。
私にとってサイクリングとは走り方を問わず、ただ「がむしやらに走ること」だった。
何か具体的なものをはっきりと期待して走ったことは1度もない。何も期待できないなどとシラケていたわけでは断じてない。それどころか、想いかえすと、感動的な風景・体験が止めどなく溢れ出てくる。ただ、魂を感動させ空にするために、サイクリングを使った憶えがないということだ。
私はサイクリングというものを、もっと直観的にとらえていた。私に期待していたものがあるとすれば、何も考えずにがむしゃらに走っている時、それにもかかわらず、恐しい迫力でせまってくる容赦ない「思い」だろう。
それは「苦しい」とかいう原始的な肉体的苦痛であったり、熱い頬を流れ落ちる汗の皮膚感覚の快感もしくは不快感であったり、迫りくる日没の前に1人バッテリィを持たず走り続ける林道の恐怖であったり、雨やどりするすべもなく濡れっばなしでバンク修理をモクモクと続けるみじめさであったりした。
容赦ない「思い」とは、これだけのものである。これで全てである。私はこの思いに、これ以上の形容を与えようとは思わないし、これ以上を叫べば叫ぶ程、それを茶化し、日常をとりまく絵空事に埋ずもれそうになってしまうような気がする。
何故なら、「がむしゃらに走る」ことを通じて、魂と肉体の両方を揺すぶって得られたこの「思い」に、私は自分にとって絶対否定できない「真実」を感じていたからだ。そして、その前で私は確実に自分に素直になれた。
実を言うと、こういった実感はサイクリングを初めた4年前以前に「山」を通じて知っていた。大自然の驚異の前に、ほとんど 無防備の状態で生身の人間が置かれる状況はよく似ている。
ひょっとして、メカオンチというメカアレルギーの私には、山屋を続けていた方が似合っていたかもしれない。
しかし、サイクリングと山は全然違う。ペダルを踏むのと歩くことは全然違うのだから、何が違うと重箱のスミをつっついても全然ちがう。だから、山でなく自転車を選んだ理由は、「自転車にのってがむしゃらに走りたかった。」と、ただそれだけで十分だと思う。
がむしやらに走ることの良さは、WCCのメンパーなら誰でも知っている。何も言わなくても1人1人が実感し、理解していると思う。何も言わなくていいではないか、「今度、奥武蔵へ行こうぜ」の一言で、
今までの「思い」のすべてが共有できるのだから。それが、女を排し、個人的趣向を制限し、黄色がつるんで走る良さじゃないか。
みんな走ろうぜ!
また、みんなで言いたい放題あくたいつきながら走ろうぜ!
天竺見聞録 ラジギール(RAJGIR) – 張替
天竺見聞録 ラジギール(RAJGIR) 張替
ラジギールは仏教と深いかかわりを持つ所である。紀元前4世紀、悟りを開いた仏陀が説法活動を始め、教団を作り、その本拠地を当時インド随一の国、マガタ国の首都ラージャグリハ(王舎城)に置いた。これが現在のラジギールである。私は暑い盛りの10時半にここに辿り着いた。
北インドとしては珍しく山(丘?)があって景色に起伏のある所である。熱風吹きすさぶ中を日本寺へ行く。そこの坊さんと少し話をする。松下・遠藤両氏と別れてまだ2週間しか経っていないが、どうも日本語が流暢に話せない。
不思議なものだ。今はもうここで旅行者の世話をしていないらしく、ここで面倒を見てもらおうという計画は流れ、近くのツーリスト・バンガローの4ルピー(120円)の部室を借りる。
このラジギールは、観光地ではあるが、ここから60キロ先のプッダガヤなどに比べると人も家も少ないし、落ちつける所である。ただ、観光客目当てのみやげ物屋の並ぶ一軒だけは、英語や日本語などを使って、アレを売れ、コレを買えとうるさい。これさえ無ければ、インドには珍しいという温泉もあるし、過ごし易い所なのである。
この温泉は、珍しいだけあって建物がすこぶる大袈裟で、大きなヒンドウー教の寺院の中に風呂がある。中は真暗で天丼がぶち抜いてあり、月や星の光で入るというわけである。
日本風に湯につかってタオルを頭にのせ、鼻歌の1つも歌おうなどといい気分になっていると、インドの子供たちが、こっちの思惑などは無視して次々に飛び込んでは、水しぶきをあげ、奇声を発し、プールの如くに利用している。鼻歌どころのさわぎでは無い。全くインドである。
翌日の午前中、この町の南の山にあるサンテイ・ストウパヘ行った。サンテイ・ストウパとは、日本山妙法寺が建てた仏塔である。仏陀がこの地にきて弟子や民衆に教えを説いたといわれる霊鷲山の隣の丘に、それはある。ふもとからリフトで上がる。インド人の間でもかなり有名な場所らしく、私が行ったときもたくさんの金持ちそうなインド人がリフトに乗るべく並んでいた。行列の後に並ぼうとしたら、日本人は優先的に乗れるらしく、係の人が、私を先にしてくれた。ありがたい事だ。
上へ上ると、まず仏塔を見てから、お坊さんがタイコをたたいている建物を見にいった。ここではインド人たちもちやんと正座をしておとなしくしている。
私は後ろの方であぐらをかいて見ていると、坊さんがタイコをたたき終え、一しきりお勤めがすむと、私を見て、
「いらっしやい。どうぞゆつくりしていって下さい。すぐ来ますから」
と丁重な挨拶をされ、恐縮した。
この坊さん、顔はりりしく、やさしく、体つきもがっちりしていて足も太い。心なしか後光がさしているようにも見え、責道心の賜物とは、かくの如くに表面に出るものなりしかと驚く。
少し経つと、もう1人の坊さんが、小ダイコをたたいて歩きまわり、私のところへ来て後10分ぐらい待ってくれといって今度は大ダイコをたたく。これが終って、下の部屋へ通してもらい、先の坊さんと2人でインドの菓子を食べながら、いろいろ話をする。案外、先程の印象とは違い、人間臭さのある人達であった。(あたりまえか)
小ダイコをたたいていた方の先輩格の坊さんは学生時代、インドに旅行に来て、ズームの8ミリで世界一豊富と言われるインドの鳥たちを撮りながら歩き回っていたらしい。
ところがインド人の生活に慣れるに従い、ファインダーを覗くのが恥ずかしくなり、ついに8ミリを売り、所持品もだんだんと売って歩き、この日本寺に辿り着いたという。
そして半年世話になっているうちに出家の生活に魅かれ、この道に入るに至ったという。その後も小ダイコ1つもって、各国を点々として、実に50ケ国は回ったという旅慣れた人である。
大学はどこだということになり、早稲田ですと答えると、
「あそこはアフリカだのインドだのによく旅行するのが多いようだが、そういう校風なのか」という。
「まあ、そうです」と答えておいた。
ヨーロツパ人の話をしているうちに、あそこは日本人を蔑視していると云う。責道心の賜物の若い方の坊さんが、
「でもドイツは違うでしょ」というと、
「ああ、あそこは日本びいきだよ。」
「今度はイタリア抜きでやろうや」というのは有名な日本人に対する冗句だよという。
私が1年間ぐらい、インドを中心に走るドイツのサイクリストにネパールで会ったというと、
「ああ、ドイツの若者は、でかいことをやるのが好きだ。丁度、早稲田の人間と似ているが、ドイツの奴等の方が論理的だ。早稲田の人間は、何か足りないところを精神力でこなそうとするが、ドイツ人たちは自分なりによく考えて計画する。言語も、英語、仏語と堪能だ。」といわれる。
私も全くその通りのことを感じていたので、この坊さんの広い見識に驚く。しばらく話をした後、先輩格の坊さんと2人で荒い山肌をジグザグに降りる。暑い。もう11時である。途中霊鷲山の中復の仏跡を指さして、あれがシャカが民衆や弟子に教えを説いていた建物だと説明してくれた。眼下に広がる灌木を敷きつめた盆地は、マガタ国旺盛なりしころの都であったという。山々の稜線にはところどころ城壁が残っていて、現存する世界最古の城壁だそうである。
この盆地は現在家1つ無い。何でもここは千数百年間誰も住むことを許されていないそうである。当時は木々がはえ、気温も5-6度低かったらしい。
「気温が変われば人の考え方も変わる」と坊さんはつぶやいた。インドにおける仏教の碩廃を意味した言葉であったろうか。坊さんも自転車で来ていたので暑いさかり、2人で自転車を並べて帰る。
「いやァー、私も子供のころから自転車で世界1周というものにあこがれていましてね。いいですね。」
と私の自転車を見つめる。
建築中の寺を見せてもらう。大地がそのままサウナになったような熱さの中で、重労働をしている人夫たちを見る。これで1日たったの6ルピー(180円)だそうだ。家族の5人もいれば、それで本当に喰うだけの生活しかできないそうで、病気かケガをしたらそれで終りだという。
坊さんの家へ入ると、そこは40度を指そうとしている。涼しく感じられるところでこの温度である。まさに厳しい自然である。頑固な自然があのインドの千年一日の如く同じ物を喰い、同じような精神に表われていると云い、日本の移り気な天候が日本人の精神を形づくっていると云われた。
窓の外は熱風が音を立てて吹き荒れている。厳しい自然環境、ゆるがぬカースト制度。
なんと日本と違うことだろう。インド人に比べれば我々は裕福に暮らしている。大体のものは何不自由なく手に入る。それでもかつ、常に不満は生じる。人間の幸福とは、一体何なのだろうか?
坊さんはこうも云っていた。
「これだけ貧しいインドでも自殺者というものはほとんど居ない。コジキでさえ、いじけずに堂々とコジキをやっている。それだけ精神が健全なんだ、インドは。」と。
※
昨年の秋の事。ゼミ合宿で榛名山へ行き、レンタサイクルで仲間達と遊んだ時、私が1人無邪気に自転車を乗りまわして楽しんでいたら、ゼミの女の子が、
「張替さんて、自転車にさえ乗っていれば満足みたいね。それにお酒があれば、あとは申し分無いんじゃないの。」
とからかわれた。私は(成程。)と思った。この言葉に私の学生生活4年間がすべて云いつくされている気がしたからである。何かもっと他にやる事があったのでは無いかとも思うが、自分なりにやりたいことはやった方なので悔いはない。特に昨年春のインドヘのサイクリングは自分でも好い経験をしたと思っている。お世話になった松下・遠藤両氏、出発にあたって激励して下さった皆様にこの場を借りて感謝致したいと思います。
了
インド・ネパール自転車思索行 – 松下
インド・ネパール自転車思索行 松下
I ことの成りゆき
I ことの成りゆき
「インドヘ…」このとりとめも無い想いが私の頭に居座り始めたのは高校時代、梅樟忠夫の「文明の生態観」のインドのくだりを読んだ時だった。3年経ち、私はWCCの部員となり、同時に早稲田の学生にも成り、そして果たせるかな、6年目にそれは現実の事となってしまった。あのヒンドスタン大平原を自転車で駆け、ネパールでは自転車を降り山岳装備で5,545mの峰、カラ=パタルを攀じる。
文化、人種、宗教、言語、社会制度、自然、etc、全ての環境が日本と決定的相違を呈し、しかもインド・ヨーロツパ系のコーカソイドの文化圏から我等モンゴロイドが主勢を成すネパール高山地帯の交化圏まで「てめえの両脚」で旅する。この貪欲で無謀とも言える構想は3年の冬、遠藤、張替両同志を得、計画は3人の分業で着々と進んだ。
II ヒロシマからインドヘ
II ヒロシマからインドヘ
「そう、私は風」
サイクリストがインドに来て絶体に吐けない言葉のひとつである。風、と言うよりは、下痢、高熱、頭痛、慢性疲労、諸々の病を背負った人間が、1日わずか100km前後を悪戦苦闘して移動する、言わば「点」にしかすぎない。
インドは大陸である。1ケ月も走っても、日本国内を1日走った環境の変化の10分の1も自然は変化しない。「インドだきや、行ったもんじゃなきゃ、理解らん」とはよく言ったものだ。ひたすら茫漠無限、ひたすら慌削りの自然は、そんなインドの多様性を形創る1ファクターにしか過ぎない。
ある日、高熱即ブッ倒れの病気のローテーションが張サンに廻って来た。道の両脇に乾木類のプッシュが点々と群生を作っているだけの途方も無い「インド的」いなかの真中である。ドス黒い(としか思えなかった)太陽が容赦なく真上から上半身を焼く。
それでもやっとの事で、地図にも無いような村、ジャラウリにたどり着き、ほっ建て小屋の茶店に転がり込み、私達は村の人々に助けられた。
例によって老若男女の村人300人余りの人垣=好奇心と驚嘆の群集の大歓迎に会い、それから村長さん、警察官等、村の要人が、農家の1部屋を我々に1晩提供してくれる事になった。
たぶん中東、西アジア、東ヨーロツパの1部を除いたら、どの国でも田合の人程、情厚く親切だろう。今のところ、日本とインド、ネパールの田合しか知らないが、インドのそれは温厚と云う域を超えて鮮烈とでも言った方が合っていそうだ。
夜になり、暗い土間のランプに火がともり、村の人達と車座になり長いこと話をした。1通りよもやま話が済んだ時、果たして長老とおぼしき老人が目HIROSHIMAを口にした。流石、デリーの学生や中産階級? に属する人々はしばしばヒロシマを口にしたが、この時だけは、正言、ギョツとたじろいでしまった。
「日本はアメリカに原爆で惨々いためつけられたが、今の繁栄ぶりはすごいではないか。日本はアジアの灯台だ。」
通訳をしてくれた青年のヒンデイー訛りの英語がにわかに大声になった。
電気、ガスはおろか水道、下水、etc何も無いこのヒンドスタンの小さな村でも、日本人はヒロシマについて、第2次大戦、戦後の繁栄について、今尚、多くを語らねばならないのか!
軍国主義日本は2発の原爆により事実上とどめを刺されて降服した。
「アメリカが悪いんじゃない、戦争がいけないんだ。」
日本的平和教育を素直にうけて来た者なら皆こう言うだろう。その通りだ。でも今、日本人がその言葉を言うのなら、それは殺す側、支配する側の論理(前のいくさではアメリカ、連合国側にその論理が当正化された)を反復しているに過ぎないのではないだろうか。
何故なら片や戦争を糾弾しておきながら、戦争によって再生成された戦後の体制は明らかにアメリカ帝国主義の論理が根底に流れ込み、今日の日本の経済的優位(≠発展)は、第三世界に対する搾取構造の上に立って来たものだから。
搾取の程度については議論の余地は在ろうが、戦争を批判しておきながら無言のうちに、あの戦争によってもたらされた体制の恩恵にすがり、何の問題意識も持とうとしないのは、事のどんづまりに於て、
あの戦争を認める態度とそう変わらないのではないのではなかろうか。
断言はしない。明言出来る程まだ知らないし「自分のこと」にもなっていないから。
ただ、自分のぐるりの環境(家族、クラブ、友人、学校、会社、国……)を、見えない所で取り巻いている構造について何の問題意識も持たない程、幸せな鈍感にはなりたくないと思う。それこそ、本当の「ナルシスト」に身を墜とす事だろう。
老人が語る国HIROSHIMAと私の口から出るヒロシマとの間には正反対の意味のズレが在った。それは、そのまま「南」の国インドと「北」の国日本とのギャップだと言ったら大胆過ぎるだろうか。
ヒロシマを口にする時、2年前中国合宿終了の際に訪れた原爆ドーム、平和資料館の情景、資料館出口に山積みされた夥しい数のノートに記された原爆、戦争を糾弾する言葉の洪水が頭裡をかすめ、私はただただ言葉に窮するばかりだった。
III 事のおわりに
III 事のおわりに
ネパールのレポートはESCA NEWSに書き下ろしたので、悪文に耐えられる諸氏はそちらを読んで下さい。インドネパール自転車ドサ回りとヒマラヤヘの山旅で、最悪時には10kg以上も肉が削げてしまった。家族、友人はやつれ果てた小生の顔、身体を見て驚き、小生は何故か、たかが3ヶ月ばかりなのに囲りの者が以前と同じで居る事に新鮮な感動を覚えた。
スタミナは激減したものの、今では体重も元に戻り、もう新宿に出ても、カウンター・カルチュアル・ショックも何の戸惑も無くなった。今回の旅の話も一緒に走った2人か、余程の友人と話す時でない限り、茶化した馬鹿話の種くらいになっている。
でも全身で受けとめた今回の旅の経験は今後、相変らずアホで居る小生を多少なりとも活性化してくれるだろう。張替、遠藤の御両人、応援してくれたクラプの友達、有難う。
終
ナガルコットの丘 – 遠藤
ナガルコットの丘 遠藤
4月7日、 一通りの帰国の準備を終えた私は、カトマンズ近郊のエベレストの展望台の1つ、ナガルコットの丘への日帰リツアーに出た。ニューデリーからポカラまでの1,000kmの距離を走り 終え、荷物はカトマンズのホテルに残し、フロンドバツグ1つの気軽なランだつた。
1時間程でバグタプールに着く。昔、王朝のあった町で、何世紀もの時が逆戻りしたような家並みの前で機織りをする人々や、遊びまわる子供たちを見かける。
町はずれからは登りにかかる。5%-10%の勾配の道が続く。杉の一種であろう、真直ぐな林や、段々畑の間を少しずつ高度を上げる。サイドバッグを下ろした自転車は私の心と同様に軽かった。
私はもう再び重い荷を持つことはないという解放感と同時に、日本へ帰れるという安堵感に浸っていた。日本を出て、わずかに1ヶ月半というこの旅はそれ程私には大きな旅だった。
その理由を1つ1つ自問してみた。どこまでも続く大地、麦畑、押しつける太陽、その暑さ、そこに住む人、人、人。飢え、乾き、群がるハエ、蚊。子供たちの瞳、笑い、叫び声、そして人々のずるさと測り知れないやさしさ…。
言葉にしようとしてもその瞬間にその本当の姿がかき消えてしまうような出合いと別れのくり返しの旅。その中で確かに私は疲れていた。私にとってインド・ネパールは余りにも大きかった。カトマンズに着き、日本料理店で出された1杯の日本茶を飲んだ時、私のそれまでのランは過去のものとなっていた。
標高2,000m余りのナガルコットの丘には昼前に着いた。案の定、エペレストは霞んで見えない。ただ柔らかな日差しの下で低い山並みが続いているだけであった。足元の斜面には農家が点在し、
家畜が放されている。私は草の上に腰を下ろし、ヒマラヤ山脈の方を見つめた。ここから100km余り先に国境があり、その向こうはチベットである。
もうあの広大な中国大陸はすぐ日の前の所まで来たのだ。ユーラシア大陸の全体から見ればほんのわずかな距離であったが、しかし私にとって大きな旅がそこで終わった。翌々日、私はポーイング737のシートに座り、新たな旅を想いながらカトマンズを飛びたった。
Editor’s Note
1979年の出来事。昭和54年。
1月。米中が国交樹立。
3月。米スリーマイル島原発で放射能漏れ事故。
7月。ソニー、ウォークマン発売。
11月。イランアメリカ大使館人質事件。
12月。ソビエト連邦、アフガニスタン侵攻。
映画「エイリアン」公開。
第21回日本レコード大賞 1979年 魅せられて ジュディ・オング
WCC夏合宿は、「中部山岳 : 金沢 – 岐阜まで」でした。
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こんにちは。WCC OB IT局藤原です。この時、2年生だったのですが、乗鞍高原線はまだ未舗装路でした。
後に「マウンテンサイクリング乗鞍」が開催される林道です。8月の乗鞍大雪渓は道路にまで達していて
多くのサマースキーヤ―が楽しんでいたことを思い出しました。
乗鞍高原キャンプ場に荷物を置き、畳平まで自転車、その後山頂まで登山したことが昨日のように思いだされます。
当時の文章をWEB化するにあたり、できるだけ当時の「雰囲気」を尊重するよう心掛けたつもりです。
文章と挿絵はPDF版より抜粋しました。レイアウト変更の都合で、半角英数字、漢数字表記等を変換していますが、全ての誤字脱字の責任は、編集担当の当方にあります。もし誤りありましたら、ご指摘をお願いします。
2024年冬、藤原