主将ノート – 古閑
主将ノート
第18代主将 古閑
就職も決まり、卒業まであと4ヶ月余となった秋の夜になって、やっとこの一文を書き始めた訳なので、私が主将を務めた80年度に限らず、広く、4年間WCCにいて感じた事を書いて行こうと思う。
この4月、3年連中が、今年1年間のクラブ運営に目を輝かせ、又、2年連中は新人獲得に走り回り、余り可愛げのない新入生が入ってくる部室の奥のソファーにイモリながら4年になってしまったオレたちが顔を見合わせて言う事と言ったら、「つまんね―ナー。何か面白い事ね―かナー。」であった。
全く、3年以下と4年以上のクラプ内に於ける帰属意識と言うか、存在意識の落差の大きさに、オレらは4年になって初めて気付いたのだった。もちろん、クラブランには、出ようと思えば参加は出来るのだけれど、しかし、所詮それは参加しているだけで、クラブ運営に携わってきた者にとっては、一抹の寂しさを感じずにはいられない。
4年になってこんな気持ちを持つというのは、3年以下の時は、意識するしないにかかわらず、クラブ内に自己の存在意義を認めていた事の証明だろう。つまり、クラプ内に自分の仕事を見い出せたのである。全く、4年になってクラプに対し、何もする事が無くなって、初めて過去3年間のクラブヘの傾斜度に気付いたのだった。これは又、就職活動での面接でも結局、クラプの事しかまともに話せなかった、という事でも解る。早い話が、3年までは、クラプに入れ込んでいたのである。
私がクラプに入ったのは、 1年の5月の始めだった。済々高の先輩で当時4年だったあの丸顔眼鏡の野口氏を訪ねて行ったのだったが、ま、他に入るサークルもなかったのでそのまま、居ついてしまった。以来、4年間、よくもまあ厭きずに続いたもんだ。
クラプに入って先づ最初に気付いた事は、ランにおける事故、ケガ等は、終わってしまえば全て笑い話とされ、本人には、そのレッテルが貼られる、という事であった。これは、サイクリングでの峠登りに於ての、着いてしまえば楽勝ョという思考と根が同じかもしれない。つまり自転車の場合、峠ヘノロノロと登っている時などというものは、「クソッ、何でオレはこんな事してるんだ。」といつも思うものである。しかし一度着いてしまえば、「ハハハッ、楽勝ョ。」の一声で片付けてしまう。
まあ、多分に見栄もあるのだが。そんな風に、つらかつた事等は、全て笑いに転化してしまうのである。これは大変気楽な話であるけれども、事故等の場合、回りの人間が笑い話としてしまうのは一向に構わないのだが、事故を起こした本人までが、それを笑い話としてしまうのは問題がある。事故を起こした人間は、謙虚に反省し、その原因を考え、再発を防がねばならない。それを一緒になって笑って済ませてしまう傾向がある様に思われる。ここらあたりにも、一向に事故が無くならない一因があるのではないだろうか。
とても、「主将ノート」とは言えない、とりとめの無い事を書いて来たが、ここらで、それらしい事を書いてみよう。
私は改選の時、「主将はクラプの顔である。私は顔になりたい。」と言ったが、この言葉は、今だから書くと、あの時咄嵯に出た文句だった。言ってから我ながら「オー、カツコイイ」と思ったが、そんな訳だから、深い意味なぞ無かった。私の考えた主将は、クラプの先頭に立ってドンドン引っ張る機関車ではなく、運営委員という機関車を御する運転士の様なものだった。だから「クラプの顔」などという派手なものではなかった。
結果的に見れば、この考えは甘かったのであり、やっばりという感じで中途半端に終わってしまった様に思う。やはり、主将ともなると、たとえ演技だとしても、ある程度積極的に皆を引っ張る様なところが必要ではないかと思う。
この点私の場合、常に皆の後ろから中庸ばかり見ていた様に思う。主将という立場上、クラブ全体を見渡す事は不可欠であるが、それでもやはり、前を向いて進んで行かねばならないのである。
1年の任期を終え、最後の総会で次期執行部を担う1、2年生に、私は「保守的になるな。」と言った。これは本当に実感だった。クラブ全体のまとまりばかりに気をとられ、皆にこのクラブを好きになってもらいたいと考えることが、いきおい、新しいクラプの可能性を摘んでしまった様にも思う。
1年間のクラブ運営にあたるに際し、誰もが、自分らのカラーを出したいと思う。オレらの場合、新しい事、という点での色は出なかったが、終わってみれば、冒険をせず、堅実に、というのがそれだったのかもしれない。
WCCも来年で、20才となる。まがりなりにもここまで続いて来たのだから、WCCにはそれなりの有形無形の伝統がある。これらの伝統をどう捉え、どう伝えて行くか。これも大切な事だ。ただ伝統を鵜呑みにする事はない。伝統を自己の中に取り込み、アレンジし、あるいは昇華する事が必要である。
これは、換言すれば、クラブ観という事へもつながるだろう。
人には人それぞれのクラブ観があるだろうが、クラプを運営するものはそれをしっかりと持つ必要があると思う。そして又、それはクラブ員に広く知らしめる事が肝要である。改選の時、立候補者は必ずクラブ観を聞かれるが、これは当然だと思う。しっかりしたクラブ観を持って初めてクラブ運営が出来るものだからである。
僕が持ったクラブ観は次の様なものだった。クラブに入って来る人間は、多種多様である。サイクリングに関しても、経験ゼロのやつから、しっかりしたサイクリング観を持つものまで様々である。そのサイクリングという、人間にとってごく一部の共通事項を通じてクラブ員は知り合って行くのである。
このサイクリングという趣味性の強いスポーツは、色々な、幅の広いものだと思う。車種で言っても、キヤンピングからランドナー、ロードレーサー、クロカン等、また、TPOによっても様々な乗り方、楽しみ方がある。私はこれらのすべてがサイクリングだと思う。そしてこれらの全てが楽しめたらなあと思う。
たまたまWCCではキャンピングの集団ランを主体として山、峠を走っている。これはあくまでサイクリングの一分野に過ぎない。私個人の指向するサイクリングとも多少違うものである。しかしながら人の一生を考えるに、こういうサイクリングという軽い言葉では適切でない様な、言ってみれば、自転車を移動手段とする集団テント生活というものが可能な時期が他にあるだろうか。
学生という社会的にモラトリアムされた時だからこそ、又、肉体的にも一番充実している20前後の今だからこそ出来る、サイクリングだと思う。これが、言ってみればサイクリングを中心としたクラブ観である。私のクラブ観はもう1つある。それは、人と人との出合いの場としてのものだ。うちのクラプは、記録とか、大会というものを皆で目指すクラプでは無い。個々人を初めに結ぶものは、サイクリングだけである。
共に走り、苦しみ、汗を流し、楽しんで徐々に知り合って行く。そして合宿という長時間に渡る、精神的、肉体的試練の中で本音で話し合える様になるのである。この本音で話し合えるヤツと出会えるという事、ここにクラプの意義があると思う。この意味で合宿はキツイほうが良いし、また、常に全力でぶつかって欲しかったのである。
この出合いの場として見た場合には、ラン以外の日常の活動が重要となる。そこで局活動、年次会、トレーニング等が重要となってくるのである。クラブ員をできるだけ日ごろから部室に来させる様にする事が大切なのである。
とまあ、何か解った様な、解らない様な事を書いてしまった様だ。もう少し整理すれば、もっとマシになるかとも思うが、何ぶん自分の中でも十分整理されておらず、また〆切に追われているので勘弁して下さい。
今、振り返ってハッキリと言える事は、この4年間にはやっばりクラブしか無かったのだな、という事だけです。「主将ノート」とはとても言えない、まして80年度の総括なんて1カケラも無い文章になってしまって、河越君の意図に反するかもしれないけど許されて。
(了)
夏合宿A班 – 生田
夏合宿A班 法学部 生田
8月1日 釧路―塘路湖 28km
36時間の長い船旅を終え、憧れの北海道に着いたのは8月1日の朝であった。フェリーを降りて集合地の釧路へ向かう。いる、いる、黄色いュニフォームを着た汚い連中が。上田は日焼けと汚れがひどく土人の子供のようだし、浜田はやせ衰えているし、大山はナンパをしていた。しかし、予想以上に1年生の参加が少なく、班の再編成を行う。
10時に駅を出発。かくして、釧路湿原の中を白鳥ならぬ黄色いアヒル達が、これから始まる長い長ーい合宿に向けて歩き出したのでありました。
8月2日 塘路湖―摩周湖―屈斜路湖 77 km
渋さを追求する私としては、霧の摩周湖も捨て難かったのだが、見る機会が絶対的に少ないというピーカンの摩周湖の全景が見れたのが、何と言っても嬉しかった。その透き通った、まっ青な湖面に、囲りの山々が見事に映り、まるで別世界のようであった。
湖面を凝視していると、何か吸い込まれそうな気がしてくる。筆舌に尽し難いというのはこういう時に使うのであろう。
昼食を済ませ、屈斜路湖への長いダウンヒルを開始。ここで前を走っていた岸氏の重量弾丸走法を目の当たりにして私は驚愕した。彼はあたかも弾丸のように飛び、どんどんと小さくなってしまった。あっという間にダウンヒルが終わり、買い出しを済ませて屈斜路湖砂湯キャンプ場へ。湖丘を堀れば温泉が出るので有名なこのキヤンプ場に期待していたのだが、折悪く土、日にかかったため大変な混雑、他にテントを張る所が無く、ヤブの中に設営した。夜は夜で回りは宴会だらけ、うるさくて眠れなかった。
8月3日 屈斜路湖―網走―サロマ湖 120km
5時。タイムキーパーの「起床―」という声と共に、皆が昨日の仕返しと言わんばかりに、WCCのテントではない回りのテントに向かって「キショー、キショー。」を連呼している。「セコイナァー。」そう呟きながら、渋さを誇る私は彼らを傍観していたのでありました。
今日でB班ともお別れ。盛大に校歌を歌いB班が出発。無事、切り離し成功に終わった。身軽になったところで、A班もギンギンに出発した。洗濯板道の藻琴峠を越え(最高にいい峠でした。)
降り切った所で、私のランドヌゥールのスポークが折れ1時間の遅滞。
ギンギンに飛ばして何とか追いつき網走に突入、しかし、地の果て、荒野の網走を想像していたのに、その駅舎の近代的な造りに少々幻滅を感じつつ、サロマ湖キャンプ場へ。
8月4日 サロマ湖―仁倉峠―北見 60km
砂ボコリの舞い上がる、道の広い、開放的な峠‐ それが今まで感じた北海道の峠の印象であるが、今日の仁倉峠はよく締まった粘土質の道で、回りはうっそうとした木々に囲まれ、信州の峠を思わせた。
さて、今日は3日間寝食を共にした新井氏が一身上の理由により戦線離脱とあいなった。かくして4名と身軽になった我が班は、ギンギンに北見の町を走り抜けて行った。
あ、そうそう、今日風呂へ自転車で行く途中、高橋氏が輪行袋をスポークに使んで空中遊泳、相当の傷を負ってしまった。
8月5日 北見―石北峠―層雲峡 95km
北見から留辺薬へ行く途中で、手負いの熊ならぬ高橋氏が事故ってしまった。開く所によると、馬面の川村氏がその馬力にまかせて猛スピードで走っている時、大きな石に乗り上げ転倒、前日手を負傷している高橋氏がプレーキをかけ切れずそれに突っ込み、走行続行不能。しかし、川村はカスクによって危うく難を逃れたそうだ。
(川村は身をもって愛用のカスクの実用性を示した。皆さん、安全のためにカスクをしましよう。)
夜、下沢氏からスイカやジュースの差し入れがあり、デザート付きの夕食となった。
8月6日 層雲峡―三国峠―糖平湖 65km
今日は今合宿中最高地点、三国峠へのアタックであるのに、私は腰痛、膝痛、おまけに風邪という2重苦。フリーランでは、下りでは重量走法を展開するが上りではカタツムリ走法を行う岸にも敗北し、ドンケツになってしまった。
三国トンネル付近で休息をしていると、ヒョコ、ヒョコと見覚えのある歩き方をする人物が向こうからやって来る。何とそれは金太郎の異名を持つ日野氏であった。そうそう、今日はB班と合体する日であったのだ。で、その後続々、B班の面々が到着し、無事合体成功。無精ヒゲをはやしていた椛沢、紫色に日焼けしていた山崎と、みんなだんだん乞食に近づいてきたようだ。しばし情報交換等をしてから、A班が出発、糖平湖へ向かった。
それにしても、今日の地道は長かった。ケツがじんじん痛むぜ。夜は合宿に入って初めての風呂に入った。
8月7日 糖平湖―幌鹿峠―然別湖―白樺峠―清水町 65km
白樺峠を越えると眼前には十勝平野が広がっていた。ギンギンのヘアピンコースを下り切り、上から見るには雄大であるが、走る分には退屈な平野に突入した。東京では犬か猫と相場が決まっている交通事故死の立体シールが、ここではリスやウサギである。
やっばり北海道に来たんだな―と、左右に広がるジャガイモ畑やサイロを眺めながら思った。
キヤンプ場ではしりとり歌合戦を行い、歌をこよなく愛する上田の活躍で、 1班が優勝した。
8月8日 清水町―日勝峠―日高町 58km
今日は昨日のCL会議で急きょ完全1日全体フリーとなった。これはクラブ設立以来初めての企画であるそうだ。私は1番目に出発し、2時頃には日高に着いてしまった。駅で洗濯をして寝ていると小野氏や他の1年が現れ、氏のおごりで喫茶店へ。リッチな気分を久し振りに味わった1日であった。
8月9日 日高町―苫小牧―ポロト湖 128km
丸山氏が平野走りで向かい風のために風切りに好都合な岸をCLに起用したが、彼の速いこと速いこと、アッという間に苫小牧に着いてしまった。ここでOBの山村氏と合流、ゴミ捨て場のようなポロトキヤンプ場へ向かった。夕方には高橋氏が復帰、続いて張替氏も合流し、 一段とにぎやかになった。
8月10日 ポロト湖―登別―オロフレ峠―洞爺湖 63km
遂にというか、やっぱりというか、とにかく例の超ハリキリ人間松森氏が朝のランニングの時に突如、降って湧いたように出現した。話によると、今年の合宿は忙しくて参加できないはずだったけれど、皆が走っていると思うと矢も盾もたまらず飛行機に飛び乗り、昨日の夜遅く到着したそうだ。本当に松森氏はスーパーマンです。
松森氏の出現によって士気が盛り上がり、合宿中最大の難所と思われるオロフレ峠目指して、皆一丸となって出発した。坂は予想以上に厳しく、おまけに交通量が多いので、峠に着いた時は皆自動車の巻き上げる砂ポコリで全身が真白に染まっていた。しかしながら霧が出てきて峠からの景色はまったく見えず、本当腹ん立つ峠であった。
キャンプ場に着くと、この寒いのに2年生諸氏が水泳を始めた。続いて、水着姿の宇野氏を岸が激写し始めた。後日出来上がった写真を見たが、芸術的な、エロティックな、筆舌に尽くし難い素晴らしい写真でありました。(ウツ)
8月11日 洞爺湖―美笛峠―支笏湖 66km
今日は魔の一日となってしまった。美笛峠でのTTも無事終わり、深砂利の中を下っている時、前から1台の車が来た。それは何なくよけたのだが、その車の巻き上げた砂ボコリの中から10m程前に次の車が現れた。「危ない。」と思った瞬間、石にハンドルを取られて大転倒、右ヒジに大ケガを負ってしまった。
テントを班長の小野氏に持ってもらい、何とかモラツプキャンプ場に到着。後からB班も到着し、残すところ合宿もあと1日と相成った。皆の心はもう札幌へ飛んでいた。高橋氏曰く、「蝦夷ギャルが待ってるぞ。」
8月12日 支笏湖―札幌 68km
いよいよ、長かった合宿も今日が最後である。皆気を引き締め、札幌までのアップダウンも軽くこなし2時に札幌駅着。駅前で校歌を歌う皆の顔には、合宿を乗り切ったという自信と満足が満ち溢れていた。
その後男達はコンパを経て、夜の札幌へ消えて行った。ここで特筆すべき事は、3年の柴田氏と2年の北原氏が夜のスターになったことだろう。
夏合宿B班 – 山崎
夏合宿B班 商学部 山崎
8月1日 釧路―塘路湖 28km
昭和55年8月1日、釧路駅前には、三々五々集まって来る部員が、奇麗ななりをした観光客でごった返す中、その異様な出で立ちでひときわ目立っていた。プライベートランで走り込んだ者が大半で、日焼けし、遅しい肉体美に、一部の輸行、フェリー組は、おののきなしていた。
10時に集合、その後各自パッキングを済ませ、噴水の前で校歌の大合唱と、全体写真をとり、いざ出発、合宿の幕は切って落とされた。国道44号線をしばらく東進して左折。最初は舗装であつたが、地道に変わりゆるい登りとなる。
そのうちに下りの舗装となり、塘路湖畔にある元村キャンプ場に到着。途中仮監峠とかいうのを越えたのであるが、全くもって正体不明であった。
到着後、テン張り、炊事にかかり、やっと合宿の雰囲気になってきた。食事後の一人一言では、各自プライベートランの報告をする。その中で林君のオバケに出合った話は恐ろしく、回りにたくさんいるカラスが、いっそう不気味さを増していた。
8月2日 塘路湖―摩周湖―屈斜路湖 77km
弟子屈までは平担な舗装道路であったが、弟子屈を過ぎたあたりから勾配がきつくなる。摩周湖の展望台まではずっと登りで、班別フリーランである。どうにかアウターで登りきり展望台へ直行。
雲ひとつない空の下に、山に囲まれた青い湖面がひときわ美しかった。写真を撮ったりひと息ついてから出発。爽快な下りを楽しんで、川湯で買い出しを済ませ、少し登った後、屈斜路湖へ。
湖づたいをしばらく走るとキャンプ場へ到着。この日は土曜ということもあって、どこもキャンプを楽しむ人でいっぱいである。
食事をしている時、川村君の家族が表敬訪間にあらわれる。なにやらこの付近に旅行に来たらしく、差し入れをいただき、クラブ員全員感謝で御馳走になる。どうも御馳走様でした。
8月3日 屈斜路湖―阿寒湖―オンネトー 84km
今日からはA班とB班に別れて走る。湖に向かってA班は右へ、B班は左へ向かうのだが、我がB班がA班の声援を背にうけて「涙のお別れ」。「元気デナー」とか、「また会おうナァー」とかありきたりの言葉ではあるが、なぜか心にジーンとくるものがあった。
弟子屈に出てから国道241号に入って阿寒湖へ向かう。途中右手に見える雄阿寒岳が印象的であった。
阿寒湖に着くと、買い出しと温泉街見物でしばらく時間をつぶす。ウワサにきいていたマリモを見たが、汚い池に生えてる緑色をしたコケとたいした変わりはなく、こんなものを金を払ってまで買うやつの顔が見たいものだ。まさかクラプの人で買ちた人はいないでしょうなあ。
買い出しを済ませてオンネトーのキヤンプ場へ向かう。オンネトーの入口に入る国道までは快調であったが、入日からキャンプ場まで2kmはきつかつた。「キヤンプ場よ早くこい」と叫びつつペダルを踏む。
この日、我が班は食当で、メニューはマーボー豆腐。小生空腹に耐えかねて、冷や奴にしようゆをかけて、二口三口を胃の中へ。浜田君も負けじ?と食べていたことは、小生のクラブ員に対する罪悪感をやわらげるのに十分効果的でありました。
このキャンプ場で同志社の前田氏と出会い、仲よくディナータイムとあいなり、前田氏もことのほか満足のご様子でした。その後近くにある宿舎にある風呂に入り、 一同いい気持ちでいたのだが、内田氏のケツに出きた大きなデキモノに、何か悪い夢でも見たような面持ちで、風呂を後にしたのだった。
8月4日 オンネトーーカネラン峠―足寄―上士幌 102km
今日のメインイベントであるカネラン峠を含め、オンネトーから陸別町までの30kmあまりがずっと地道。カネラン峠の全体FR地点に着くまでに、パンクが相次いで起こり、だいぶ遅れていた。
カネラン峠はそう標高差は無い峠であったが、地道で峠の展望はよく、全く観光化されておらず、峠らしい峠であった。
地道の下りを難なくこなし、陸別町へ。ここから足寄まで30kmあるが、ほとんど平担路であることに加え、時間的に遅れていることもあつて、なるべく飛ばして行こうとのこと。我が班CLの日野氏健闘の結果、1時間と少しかかって足寄駅に到着。次に到着した内田氏のCL班は、なんと1時間ジャストであった。
班長の久光氏は、「よくぞ頑張った。」と、CLの内田氏をはじめ班員をほめあげる。それと対照的なのが伊藤氏CLの班。班長の中村氏が走行中、CLの伊藤氏にもっとスピードを出せとハッパをかけたそうだが、伊藤氏は得てしてマイペースを心がけた様子。それにしてもしんどかったなあ―。
上士幌町にある朝陽キャンプ場までの8勧ぐらいは道道33号を走る。この道がまったくの直線の地道。たまに舗装の部分もあるが、砂ぼこりでチェーンはまっ自。キャンプ場について、みな整備に余念がなかった。
8月5日 上士幌―白樺峠―幌鹿峠―糖平湖 65km
朝トレのランニングの時、林君が突然こける。林君は今日まで日に1回は転倒を余儀なくされ、この日は早くもノルマ達成。毎日ご苦労様です。
士幌町から20km余り長い直線道路が続き、北海道のスケールの大きさを十分に堪能する。
直線道路から開放され、白樺峠へと向かう。途中から地道となり、糖平湖までそれが続く。自樺峠、幌鹿峠ともに手応えのある峠であった。
糖平キャンプ場にて柴田氏が合流、なんとジェット機に乗ってきたそうで、跳んでますなあ。また地元の下沢氏から、プリンスメロンの差し入れがあり、 一同ありがたくいただきました。
8月6日 糖平湖―三国峠―層雲峡 65km
本日は夏合宿のメインイベントである三国峠を越える日である。噂によると、国道ではあるが深砂利のひどい地道とかいうことで、緊張の空気の中いざスタート。
この日は層雲峡の手前まで地道で、大きなメカトラもいくつかあった。まず15km位走った所で、林君のキャリアがプレーキ台座のところからポツキリ。針金でなんとか応急処置を施し、戦列に復帰する。
それにしても果てしなく続く地道の登り。ひたすらペダルを回すが、峠らしきものはまだまだという感じで、回りはいつまでたっても針葉樹林の木立が続くのみである。
そのうち浜田君がストツプ。どうしたのかと思いきや、キャリアのエンド部分がこれまたポッキリ。休めるかと思うと浜田さまさまである。アロンアルフアと針金でなんとか走れるようになり、走り出すが峠まではそこから1kmもなかった。
峠には、A班が待っており、最後の意気がりを見せつけ、無事ゴールイン。そこで昼食をとり、A ・B班共に無事再会できたことをしばし喜びあった後、B班は層雲峡へと下っていく。
層雲峡は見応えがあったが、人の多さに閉口する。ただ若いおねえさまが、レンタサイクルで下りの道をローギヤで必死にペダルを回す姿が非常に印象に残ったのでありました。
8月7日 層雲峡―旭川―春日 75km
この日は全くの休息日。旭川までの70km弱を快調にとばす。旭川に着いたのがちょうど昼。ここで1時間半あまりの自由行動となる。久々の都会とあって、みなはやる心を抑えつつ町中ヘと消えて行く。
かわいそうなのは浜田君と林君である。みなは久しぶりの都会生活を楽しんでいる間、彼らはサイクルショップでキャリアを直すのに専念していたのである。
旭川を2時に出発してまもなく、市街地で「バーン」という銃声と思うや後ろを振り向くと、日野氏の後輪はペシャンコ。見事なパーストである。メカの渡辺氏は、見るも無残なユツチンソンの赤タイヤを一目見て、「ユツチン病」と診断をくだす。
その日の渡辺氏の一人一言は、日野氏をはじめ同じくユツチンソンを履いている伊藤氏の心を脅かすに十分でありました。
8月8日 旭川―新城峠―富良野―金山湖 98km
今日のコースで日立つ所といえば新城峠くらいであったが、これはただの坂といった感じで、全く期待外れであった。芦別で休んだ後、空知川沿いを富良野まで30kmと少しを一気に突っ走る。
そこで昼食の後、金山で買い出しをする。買い出しした店の人が親切にも、買い出した物をトラツクでキャンプ場まで運んでくれるとのこと。お言葉に甘えてキャンプ場へ向かう。
買い出しの荷物が無くて喜んでいたのもつかの間、日の前に10%以上はあるかと思われる直登があらわれる。この日最後の力を出し切りどうにかキャンプ場へ。林君と中村氏は物足りなかったのか、遊泳禁上にもかかわらず全山湖水泳教室を開いたのでありました。
8月9日 金山湖―狩勝峠―清水町 57km
狩勝峠は舗装のたらたら登りで、FRをやったのであるが、終始ハイベース。FRをやるにしては物足りない感じもする。しかし峠の展望は最高で、各自思い思いにシャッターをきる。
峠から清水町公園キャンプ場まで約30kmで、2時にはキャンプ場に着く。4時までは自由時間とし、清水町へ風呂に入りに行く者、バンクを直す者、シュラフを干す者と様々である。このキヤンプ場は公園内にあることもあって、 一面芝生が植えてあり、最高であった。
我々の他、高校生と思われる男女グループもテントを張っており、YMOなどかけながら賑やかにやっている。それをうらやましそうに見るWCCの面々。みじめ―。
一人一言で企画の久光氏から明日は日勝峠でTTをやるとのこと。その後の班別ミーテイングでは、峠付近の25,000分の1地図のコピーが1人1人に渡され、班ごとに作戦会議。明日はどうなりますことやら、緊張の中シュラフにもぐる。
8月10日 清水町―日勝峠―日高町 58km
TTスタート地点に着くと、各自ウォーミングアツプに余念がない。
我が班と久光氏の班は、これといった作戦もなく、とにかく全力で登るということ。中村氏の班は、血迷ったかエース中村氏を重視すべく、中村氏の荷物をすべて林君が持つという作戦。林君のキャリアがまたポッキリとならなければと心配しているうち、計時係の佐藤氏と久光氏がスタートする。
その後1年・2年。3年の順で出発。 1年で健脚を誇る浜田君はあっという間に見えなくなる。途中、中村氏、藤原氏、樋口氏に抜かれる。その後内田氏と磯野氏がつるんでやってくる。一時抜かれたが、また抜き返し、しばらく3人でデッドヒートをくり返したが、私はマイベースを守るが故、両氏から離れていく。
トツプはさすがに中村氏がダントツで45分である。続いて我が班のエース藤原氏、次に樋口氏。ドンジリは予想どおり林君で、班別では我が班がトツプ、作戦の奇抜さで注目された中村班は、ダントツのビリであった。
8月11日 日高町―苫小牧―支塘湖 125km
苫小牧までの国道は交通量が多く、各班長さんも隊列の統制に大変である。ただ久しぶりに見た海がなんともいえない。
キヤンプ場にてA班と合流することになっており、我が班CLの磯野氏、苫小牧からキヤンプ場まで猛然とダッシュ。おかげでB班の誰よりも早くA班と再会できたのである。
あと1日だけを残す合宿を戦い抜いてきただけあって、釧路駅集合の時のように白人らしき者は見当たらない。これが合宿最後の夜かと思うと、臭くなったシュラフにも愛着を感じるのでありました。
8月12日 支笏湖―札幌 68km
いよいよオーラス、なぜかしら皆の顔が生き生きとして感じられる。
予定のコースを変更し支笏湖横断道路を走る。有料道路だけあって景色は素晴らしい。有料道路が終わると、かなりのアップダウンが続くが、目指すは札幌で、少々のアップダウンなど問題ではない。
札幌駅には昼過ぎに着く。ああ終わったのかという感じで、しばし解放感に浸る。
駅前で、校歌を歌い、全体写真を撮った後、執行部、4年生、OBの胴上げが始まる。その騒ぎは形容する言葉が見当たらない程である。
旅館で風呂に入った後、お待ちかねのコンパが始まる。ちゃんとした舞台もあり、演出効果には事欠かない。上田君と大山君はえらい災難にあったそうだが、私は死人のまねをして事無きを得たのであります。その後は、すすき野にくり出し、例の如く例のものを見て、すすき野の長い夜を楽しんだのであります。
8月13日 解散
空腹と共に起き出すが、朝食の分も昨日の酒代につぎ込んだとかで、空腹のまま札幌駅前に集合、解散式を行う。
解散式を終えると、輸行する者、また1人サイクリストとして旅立っていく者と様々で、何か一種の寂しさを感じる。とにかく無事合宿を乗り切った満足感を味わい、合宿の幕は降りたのでありました。
「エサシに死す」- 藤原
「エサシに死す」(自転車を折った時の事)理工学部 藤原
サイクリングクラブで多くの経験を積んで来たけれども「峠」に載せる様なクラブ史上に残すべき出来事と言えばやはり昭和55年の夏の北海道プライベート3日目の事だろう。
7月27日曰 晴
猿払(サルフツ)でようやく昨夜見つけたドライブイン前の公園、6テンの中で目を覚ます。何しろオホーツク海岸には町らしい町はたまにしかなく、この種の店も「20kmに1軒」という貴重な物、今は亡き中谷少年と共にまずは浜頓別へと向かう。
今日はここで渡辺と合流する予定、駅前で渡辺君のみならず丸山、同志社の松野とも出会う。松野はこれからデモを求めて九州だか沖縄だかへ行くと言う。気丈な人や。
渡辺の技術力で中谷君のキャリアを直した後、4人でオホーツク海岸を走る。おそらく「仲間」に出会った事で僕は気分的に高揚していたのだろう。
なにしろ数多くのWCCの部員が集合地「釧路」に向けて集結せんとし、東京を遥かに離れた北海の地で志を同じうする者達が集まったのだ。それも無理のない事だったろう。ところで中谷君は合宿でデビュー(するはずだった)から、脚力も私、丸山、渡辺からすればない方だった。
そこで神威岬を過ぎた頃だったろうか、心暖かい私は彼の「後押し」をしてあげようとキャリアに手を掛けたのであった…が…不覚にも、この時理工学部応用物理学科に籍を置く私は、「運動量保存の法則」の事をすっかり忘れていたのだ。恨めしやニュートン、法則に従って私の運動量は全て中谷少年のものとなり、法則に従って私は静上した。
従って回転の止まった角速度を持たぬ我がホイールはもはや角運動量保存則による復元力もなく私はパランスを失って大きく左へ傾いてしまったのだった。さらに無念にもこの間私はせいぜい「あららっ、転んじゃうぞ」程度の事しか考えてなかったのだからまことに不覚としか言いようがない。
さて「後押し」の結果どうなったかと言うと、私は道路をはずれてlm程下のやぶの中にガガガと突っ込んで行ったのだ。やぶの中で1回転。不思議にも怪我1つしなかった。失敗で最も恐ろしいのは「証拠写真」であるから皆がカメラを出す間も有らばこそ私はすでに愛車と共に道路に戻っていた、、、が、、、
その時愛車なるものはもはや存在せずただ「愛すべき鉄くず」が存するのみだったのだ。無残にも我がヘツドチユープとダウンチュープは離れ、どうやらさすがにこの状態を表わす言葉はさすがのメカ局長をしてさえ「壊れた」の3文字以外にはなかった。
人間としての真価はその窮迫した時にこそ計られるという。私がこの時採るべき道は2つしかなかったはずである。すなわち「行く」か「帰る」かだ。
もし「行く」と決断すれば全力で旅を続ける努力をし、「帰る」ならば全力でバスなり鉄道なりに飛び乗るだろう。私がこの時選んだのは「行く」であった。執行部の一員であった私にはプライベート3日目にして敗退する様なみじめな行動は許せなかったのだろうか…はたまた学生時代にやり抜こうとしていた日本縦断線つなぎに燃えていたと言うべきか。
ともかく私は「行く」と決めてしまったのだ。ではどの様にすれば「行ける」か?ここは北海の果てしなき荒野の直線路である。
討議の結果、私はフレームをハリガネで縛ってもらい、曲る事も止まる事もままならぬ自転車にまたがり、10km程先の北見枝幸という町まで行く事に成ったのである。道中怪我なく無事着いたとだけ記して置く。
エサシにて…
日曜で鉄工所は休み、サイクルショップのありそうな旭川、札幌まで行って帰って来るのは交通費と時間がかかり過ぎる。旭川でフレームを買ってそこから走り出すのは「線」がつながらないからいや
(私も意地になっていた。いわゆるゴンジ状態)。
そこで私が採った方策とは… その小さな町でただ1軒しかないスポーツ店「新田スポーツ」と言っても田舎町によく有るビーチポールとかトレーニングウェアとかプラモデルとかを売っている店、の片すみにほこりをかぶっていた(正確にはつるされていた)その町にただ1台しかないスポーツサイクルを購入したのだ。おそらく20年のクラブ史上、自転車を現地調達したのは私唯1人であろう。
中谷、丸山を先にやって、渡辺と2人でパーツを全て取り換える。余りの部品は輪行袋に入れて東京に送る。この間わずかに3時間、こうして今の私の愛車、丸石エンペラー改造ランドナーは出来上がったのである。やればできるのである。折れたフレームは店の前に置いて来た。今頃オホーツクの潮風に吹かれて朽ち果ててしまったろうか。可哀想な僕のフレーム…。尚、この場を借りて55年度メカ局長渡辺君と永遠のサイクルショップ「新田スポーツ」に御礼を申し上げます。
新田スポーツに幸有れ!
この日は4時から8時まで100km走って長い1日を終えた。折から紋別の町に上がる花火はこの夏の旅の前途と、サイクリングに懸けた我が青春を祝福するがごとく、その刹那の美しき閃光を冷夏と言われたこの夏の夜夏に、鮮やかに放ったのであった。
付録
今まで色々な所を走ったけれどもここは行くべきだという場所を列挙して見る。
〔北海道〕宗谷岬(最北端) ・サロベツ原野・オホーツク海岸・知床(カムイワッカヘ行きたかった) ・釧路平原・大雪山系(三国峠)
〔東北〕恐山(絶対の御勧め品) ・八幡平・吾妻小富士
〔関東〕山王峠(日光) ・安ケ森林道・清水峠(景色最高)
〔中部〕大弛峠(秋) 。乗鞍岳(最高地) ・野麦峠
〔近畿〕 小浜湾(キャンプ)
〔中国四国〕鳥取砂丘・大山・出雲大社・足摺岬(台風時)
〔九州〕高千穂(宮崎県) 。国見峠・椎葉。霧島・佐多岬(最南端)
早同交歓会 – 川村
早同交歓会 政治経済学部 川村
11月5日の小出駅に第17回早同交歓会は始まった。 1年にとって、初対面である同志社の先輩方は、2年以上の方々にとっては、同じクラプの人間であった。同志社の1回も、彼等同志かたまっていたが、集合がかかり、班別に分かれると、同志社の人人は、やはり旧知のような気分にさせてくれた。
私のいた3班は私がCLであった。勿論普段のランと差があるはずはなかった。距離10kmは楽勝で宿についた。
同志社の1回と、本当に知り会ったのは、この日の夕食からであった。早稲田も同志社も、相方の胃拡張の度合を競い合った。本当に皆がよく食べた。おかわりの列は途切れることなく続いた。どのような形であろうと、競うことは、仲間意識を呼ぶのである。この腹のふくれた1年は、次に卓球の対抗戦をした。名を確認しつつ1人づつ試合をするこの卓球で、名もおぼえた。全体ミーテイングではDOSHISHA COLLEGE SONG の追力にも接した。
翌6日から本格的に登りが始まる。六十里越でフリーランもやった。実際、同志社の走りも、半端なところは全くなかった。本当に目いっぱい走っていた。前を走る者のギシギシとしたからだのゆれ、抜いていく者の息づかい。早稲田の走りと本当に差は無かった。峠には雪があった。当然風は冷たかったのであろうに、走り屋たちの胸は熱かった。
残念なことにこの日の下り、浜田と私がころんだ。浜田は足の骨を折ってリタイアし、私の顔の傷は、今もかすかに残っている。ただし、この日の只見の宿は、そんなことおかまいなしに、昨日に増してにぎやかであった。ひろしと高橋さんのカラオケのレパートリーはすごかった。テープが全てなくなるまで、歌はおわりそうもなかった。
田代山スーパー林道も上部は雪道であった。そしてその下りはトラブルの連続であった。瀬戸さんはプレーキをなくすし、パンクは何人いたのか数えきれない。いつか日は暮れ、宿についた時は真暗であった。
さて、8日は最終日でTTである。それぞれが秘策を練り、互いに腹をさぐり合い、ギンギンに燃えてスタートした。経過は良く知らないが、とにかく皆はやかった。全員が好調ではなかったようだが、それでも気分が入っていた。私は少し遅れてしまったが、チエーンを切ってしまってリタイヤの瀬戸さんに
かつを入れられた「コリャー」という声が忘れられない。
結局TTは丸山さんが優勝した。下りは班別フリーで戦場ケ原、いろは坂を通って今市までおりた。TTとはちがって平和な走りであった。
天気は良かったし、道はおだやかだった。今市は落着いた町だったし、木村屋旅館は立派な宿であった。そしてコンパも盛大であった。たしかに気色の悪さで早稲田は同志社に劣っていた。彼等のそれは天下一品であろう。いずれにしろ木村屋にはもう二度と泊ることはないだろう。
このランは本当に寒かった。寒さに弱い私としては、全く良い所無しであったが、しかし、皆の心の内は熱かったはずだ。それが今もあたたかいものとして残っているはずだ。
それにしても、同志社とはなんとすばらしいサイクリングクラプを持ったことだろう。そしてこのクラブと、我々が合同ランを持てるとはなんとありがたいことであろう。この伝統をつくり、伝えた先輩方には大感謝である。
パートラン尾瀬 – 久光
パートラン尾瀬 久光
私用ノートの5月27日付の朝1番に丸山が「尾瀬はすばらしかった!」と書いたのを御覧になっただろうか。今回のパートランはこの一言に尽きた。
尾瀬へ自転車で入ってみたい。それも、まだ雪が残っていて、ミズバショウの1番きれいな季節に…というのは去年の今頃から頭の中で思い描いていたことであった。
そして今年、その絶好とも言える5月下旬にパートランが入り、私は満を持して計画に入った。パートランの企画募集当初から同様の計画を持っていた丸山と共に話し合って出来上がったコースは、
沼田‐ 鳩待峠‐ 尾瀬ケ原‐ 尾瀬沼‐沼山峠‐檜枝岐‐田代山林道‐霧降高原道路- 日光、という2泊3日に及ぶ、パートランとしては稀に見る、と言うか前代未関の長大なものとなった。
それと言うのも、私の頭の中には今秋の早同のコースの試案があるし、また新緑の素晴らしいこの季節に、秘境の奥日光を走らずに帰って来る手はない、という考えも2人共に頭にあって、結局、金曜か月躍の授業をサポってでも行くしかない、ということになったのである。その結果、1年生の参加は得られず、2人だけのパートランになってしまったというのも当然と言われれば確かに当然の成り行きではあった。
5月23日(金)午後8時、我々は例によって例の如く澤田屋に群れている人々の「頑張ってこいよ。」の声を背にして、パートランの先頭を切って上野駅に向かった。この時点で初日のコースは沼田- 鳩待峠では面白くないということで、丸山の提案で水上- 藤原湖‐湯の小屋 坤六(こんろく)峠‐鳩待峠
ということになり、10時11分発の長岡行の夜行で出発、今夜は水上駅で寝ることとなった。
途中、竃原でこちらの車両に移ってきた樋口にも別れを告げ、水上に到着したのが午前2時38分。駅の待合室で数人のハイカーと共に寝た。
5月24日(土) 2間程度の睡眠で5時過ぎには起床、6時前に水上駅をスタート、今日の目的地、尾瀬へ向かう。最初から少しづつ登っており、睡眠時間が短かったせいもあって結構足にこたえる。
途中の店で朝食代りにパンを牛乳で流し込み、藤原湖を通過、8時頃に藤原の集落に着いた。これより先に買い出し場所は 無いと思われたので、開いている店で今夕と明朝の分の食糧を買ったが、肝心の米屋が開いていない。
仕方なく待っていると運よく10数分後には店を開けてくれた。買い出しを終え、荷物を割りふって積み込んだ。2人共、フロントパッグ、シュラフ、輸行袋の上、更に丸山は2人用テント、私はラジウスと燃料に、それぞれ食糧をザックに詰めて背負うという大変な装備で、特にこの日は峠の登りでの腰にかかる負担に悩まされた。
湯の小屋温泉を過ぎると地道に変わり、尾瀬奥利根林道に入る。この林道、勾配は余り無いように見えるのだが、路面の窪みと大きな砂利が非常に多く、タイヤをとられてなかなか自転車が進まない。しかし空は見事に晴れわたり、新緑が本当に美しく、また林道の横を流れる湯ノ小屋沢も、雪溶け水で見事なばかりの豊かな水量をたたえて流れており、景色は最高であった。
沢のすぐ横に出るたび毎に自転車を降りて顔を洗い、写真を撮りつつ進んで行ったが、自動車もめったに通らず、本当に秘境に入って来たという感じで、その景色・雰囲気という点では今まで走ってきたコースの中でも最高の部類に入るのではないかと思う。
そうするうちに沢から離れてさんざん苦労したあげく、坤六峠にやっと昼前に着いた。腰の痛みに耐えかねて、しばし昼寝をする。その後、鳩待峠方面へ下り始めたが、こちら側の路面は湯の小屋側より更にひどく、その上、所々で残雪が道の中央を占領しており、しばしば自転車から降りなければならなかった。
この途中で数時間前に湯の小屋付近で抜かれたはずの東大地震観測所のジープが、雪に車輪をとられて僅か20mばかりの残雪のまん中で立ち往生しているのに出会ったが、あっさり見捨てて下った。
鳩待峠への道と合流する手前の沢で紅茶を沸かして昼食。ゆっくり休息をとってから出発し、戸倉からの道と合流して鳩待峠ヘの道を登る。合流点からの標高差が300m位だったが、坤六峠のことを思えばかなり楽であった。
鳩待峠に着くと左手には雪をいただいた至仏山がそびえており、これを下れば尾瀬なんだ、とうとう来たんだな、という喜びでいっぱいであった。鳩待峠からの100mばかりの下りも登山道なのでそう楽ではなかったが、ミズバショウの咲いている所まで来るともう感激で、押しも大した苦痛ではなかった。
尾瀬ケ原まで下り、至仏山荘のある山ノ鼻のキヤンプ場に4時半頃着き、すぐにテントを張って自炊を始めた。飯と缶詰めの他に、「キャベツとコンピーフのみそ汁」という恐るべきメニューであったが、
今日1日のきついコースでぐったり疲れ、腹も減っていたので十分うまかった。
尾瀬は早朝の朝もやの中を歩くのが最高だというので、明朝は4時起床ということにして、まわりでテントを張っているハイカー達と共に7時頃にはテントに入り、すぐに寝てしまった。
5月25日(日)、予定通り4時起床。回りのハイカーは皆出発の準備にとりかかっている。急いでテントをたたみ炊事にとりかかるが、気温が低く、ラジウスのプレヒートにも、湯を沸かすのにも、かなり時間がかかってしまった。4時半頃になると前日の夜行で沼田まで来てそこからまた夜行のパスで来たのであろうハイカー達が、鳩待峠の方から次々と姿を現わし始めた。
そのうちにバスでやって来たらしい団体さんまで姿を見せ始め、5時を過ぎると至仏山荘の前は人でいっぱいになってきた。急いで準備をして、その人々が休憩をとっている間に出発した。
木道を押し始めると、人はかなり少なくなった。今日も天は我我を見捨てず見事に晴れてくれた。
尾瀬ケ原の風景はやはり我々の期待を裏切らなかった。と言うより、期待以上の素晴らしい眺めを見せてくれた、と言っても過言でないと思う。
早朝の尾瀬ケ原は朝もやがかかって、背景には雪の至仏山が雄大にそびえ立ち、湿原にはミズバショウがきれいな白い花を咲かせ、沼からは白い湯気のようなものが立ちのぼっている。2人ともこの光景に大感激して、「やっぱり来て良かった。」という充実感に浸りきっていた。
序々に日が昇り、ハイカーの数も増え、だんだんと暑くなってきた。2時間半程木道を歩いて東電小屋に到着。更に1時間位歩いて温泉小屋まで行き、ここに自転車を置き、身軽になって平滑の滝、三条の滝へ向かった。ここも雪溶け水で凄まじいばかりの水量で、物凄い迫力であった。一緒に歩いているハイカーに較べると運動靴の我々は相当身軽で、予定時間をかなり短縮して温泉小屋に戻ってくることができた。
更に木道を押して見晴へ、そしてここから尾瀬沼へ抜ける尾瀬ケ原林道へ入ることになる。間に峠が1つある林道であるが、林道とは言っても登山道で、乗って走ることはできない。おまけに残雪が溶けて地面がぬかるんでおり、押し上げはまさに地獄のようであった。
尾瀬沼側から下ってくるハイカー達は皆、我々の自転車を驚異の目で眺めつつ通り過ぎて行ったが、休息をとりつつだんだん登って行くにつれて、「上の方は雪の急斜面があるから自転車じゃ無理だ。」ということを言う人が増えてきた。
果たして、暫くすると土の道はぷっつりと途絶え、そこから先は全く雪の上に足跡がついているだけの道となった。暫くはそれでも押していたが、滑って思うように進まず、遂に雪上の担ぎが出たのであった。
やっとのことで峠を越え、下りは雪の上を自転車と一緒に滑って、沼尻にたどり着いた時には昼を過ぎていた。予定時間を多少遅れたので、少し急いで尾瀬沼の北側を回り、長蔵小屋には寄らずに少し休息をとって沼山峠へ向かった。ミズバショウの群れもこれで見納めかと思いつつ木道を押し、比較的歩き易い道を一気に沼山峠まで押し上げて、暫く峠からの尾瀬沼の眺めを楽しんだ後、再び雪の上を滑って沼山峠休憩所に着いた。
朝5時半に歩き始めて10時間以上ずっと自転車を押して来たのである。よく来たものだと思いつつ尾瀬を後にし、沼山峠を下り始めた。初めのうちは砂利の多い道だったが、暫くすると舗装になり、更に御池から檜枝岐への下りは、道は良いし交通量もほとんどないと言ってよく、見事な緑に囲まれ横には川が流れていて爽快そのものであった。もう少し行きたかったのだが、キャンプ場が見つかったので今夜は檜枝岐に泊まることにする。
テントを張って炊事をし夕食を始めたが、沼山峠あたりからどうも怪しかった空から、食事を終える頃ついに雨が落ちてきた。本降りになりそうだったのでテントをすぐに片付け、スキー場の受付所の軒下で寝る事にした。
雨がひどいので、明日の田代山林道は道路状況に不安があるという事で断念し、明朝晴れていれば只見‐ 六十里越 – 小出というコースを取ることにして、7時頃までに起きるということで就寝した。
5月26日(月)、起きてみると雨は見事にあがっていた。空は曇ってはいるが、何とかもちそうな気配であった。小出まで走る事を目標にしてスタートし、時々細かい雨の降る中を走って昼前に只見駅着。六十里越の道路状況を聞いたところ、5月末までは積雪の為に通行止ということになっているが、自転車であれば平気であるという事なので行ってみることにする。
ここで食糧の買い出しをして出発しようとしたところ、近所のおばちゃんが出て来て、まあ少し休んでお茶でも飲んでいきなさいと呼び止められた。時間に多少不安はあったがせっかくだからということで、新茶をいただいているうちに、料理や、ついには御飯までが次々に出てきて、結局、昼食をいただいて出かけることになってしまった。
田子倉湖を横に見ながら登って行くうちに「雪崩のため通行不能」という看板があり、そこを通過して行った車も引き返して来た。工事をしている人に聞くと、500m程道が埋まっているが自転車を担げば行けるという事なのでそのまま登って行った。
雪崩の跡は多数あったが、そのうちの大抵は切通し状にして通れるようにしてあり、問題の箇所は六十里越トンネルの目の前にあった。しかしそう苦労する事もなく、ガードレールの外側の雪の無い部分を通って峠に着くことができた。
峠道の途中からの田子倉湖や、それをとり巻く山々の景色はなかなか良かったが、峠はコンクリートのトンネルだけで余り面白いものではなかった。
雨が降りそうでもあつたので早いうちに下り始め、只見線沿いに最終目的地小出に向かった。ずっと細かい雨が降ったり止んだりしていたが、越後須原駅で小休止のあとスタートすると、最後の最後に来てとうとう夕立ちのような物凄い雨が降り始めた。小出までそう距離も無いので雨具を着ることもなく、土砂降りの中のランとなった。20分程の力走でとうとう小出駅到着。急行「佐渡6号」に乗るには1時間以上の余裕があった。
こうして3日間に渡るパートランはやつと終わった。この3日間、周囲の景色は天気の影響も受けて目まぐるしく変わったが、全てが新鮮で、3日間がこれ程充実したランは無かったというくらいの満足感を持つて、帰りの電車に乗ることができた。
早明ランの思い出 – 小野
早明ランの思い出 商学部 小野
1980年2月10日は、僕にとって大変思い出深い日である。今まで対外交流の比較的少なかった我がクラブであるが、この日、初めて明大のサイクリングクラブとの合同ランが行われたのであった。相手方はMCTC。当時はESCAの中でもきっての軟弱クラプであった。
そもそもこの早明ラン、前年度主将で、大の明治フアンである後藤氏(氏はそのため、クラプの中でも常に白眼視されていたのである)が、たまたま明治の連中との酒宴の際、冗談半分にほのめかしたのを明治側がマジに受け取って、わけの わからぬ間に実現してしまったのだ。期日は2月10日、場所は奥多摩鋸山林道ということであった。
当日早朝、奥多摩駅集合。僕は輪行で行った。つい2日前の追い出しコンパの酒がまだ抜けきっていないらしく、何やらけだるい気分だ。もともと冗談から始まったこのラン、時期が時期だけに参加者も少ない。ま、来たいヤツは来るがいいさ、という雰囲気であった。
よって早稲田側はわずか9名。後藤氏、古閑、藤原、僕、駅まで見送りに来た伊藤、樋日、山田、この日がデビューの新人日野、そしてミニサイクルで来た浜崎氏と、多彩な顔ぶれだ。
ところが、どういうわけか集合時刻になっても全然人が集まらない。特に明治側がひどい。主催者のくせに定時に来たのはわずか2人。やはりMCTCもマジでやるとは思っていなかったのかもしれない。
予定を2時間近くオーバーして、ようやく出発の運びとなる。総員10数名。
女の子はゼロ。誠に小じんまりとしたランになった。思うに、最初からしてこのランにはケチがついていたのだ。僕はこの時点で不吉の前兆を感じるべきであったのだ…。
奥多摩駅を出発する時、 1応の班分けをしたが、わずか5分ぐらい走るともう鋸山林道入口、フリーラン地点に到着だ。ここから頂上までは6キロ、標高差600m。距離は短いけれども、かなりしんどい登りだと聞いている。前年11月の追い出し以来、しばらく走っていないので、脚力も萎えているかもしれない。これは結構苦しむことになるな、と覚悟をした。
数分の休憩後、フリーランのスタート。WCCの1年がまず飛び出していった。僕らもすぐ後から出発する。とっ、いきなり勾配10パーセント以上の坂。それを乗り切ると早くも地道となった。
しばらく平担な道が続いたが、それも束の間、橋を渡って道が大きく左へ折れると、再び10パーセント以上の坂道となった。しかも岩のごろごろしたひどい悪路だ。ギヤは既にロー・ロー。それでもタイヤが空回りし、ハンドルは石にとられる。しばらく忘れていた峠の苦しみが戻ってきた。
確かこの日がデビュー戦であったはずの新入、日野君が、僕を置いてどんどん登っていってしまう。彼の脚力にはびっくりした。次いで後藤氏が後から追いついて、すんなりと先へ行ってしまった。
すぐ後からはミニサイクルの浜崎氏がついてくる。意地でもミニサイクルだけには負けたくない、と必死にこいだ。前を走るのは早稲田のみ。明治ははるか後ろだ。勾配は依然としてきつい。
前方100m先で道が右上りになっており、山の中腹を走っている先頭グループがちらっと見えた。思えば、彼らを見かけたのは、その時が最後だったのだ。体中がほてってきて汗が腕から額からにじみでてくる。苦しいので日の前の路面ばかりを見て走っていた。
やがて前方を走っていた1年の山田にしだいに近づいてきた。こうなると欲が出る。よし、抜いてやれ。少し踏んばって横に並ぶことができた。彼もかなり疲れている様子。 一声かけて先へ行こうと思ったが、こちらもへばっているので、ただ黙々と前へ出た。
本当はここでちょっと踏んばって引き離したいところだが、僕の脚力ではここまでが精一杯。案の条、しばらくしてまた、彼に追い抜かれてしまった。浜崎氏はいつのまにか大分後方に遅れてしまっていた。
3分の1程走ると、ようやく勾配もなだらかになり、路面も比較的良くなってきた。ほっとしてギヤを8段まで戻す。しばらくは今までの疲れをとるべく、楽にペダルをこいでいた。ふと前を見ると、さっき抜かれた山田君が止まってボトルの水を飲んでいるではないか。ここぞとばかり、側を通り越していった。この辺から視界が急に開け、はるか前方に頂上らしきものが見えた。
もう前の方には誰も見えない。道は山の斜面に沿って右へ左へとくねくね曲がりながら続いていく。僕はかなり路肩の方を走っていたが、まだ1mくらい崖側からは余裕があったので安心していた。景色がとてもきれいだった。
と、突然、前輪がコッヘル大の石ころに乗り上げてしまい、ハンドルをとられた。不意に自転車が左の崖側へくずれていくので、あっと思って体を右側へ倒そうとしたが、その時は既に前輪が道からはみ出していた。まるでスローモーションでも見るように、自転車は僕を乗せたまま、ゆっくりと崖の方へ落ちていった。下の方に木の切り株があって、岩がごろごろしているのがはっきりと目に映った。ああ、しまったと思った次の瞬間、僕の体は自転車を離れて宙を舞った。 一瞬、何が何だかわからないまま、体中ににぶい衝撃が走り、僕の体はごろごろと急な斜面をころがり落ちていった。
10mはころがっただろうか、ようやく1本の杉の若木に激しくぶつかってその根元でストップした。しばらくは「う―ん」と言ったまま、動くこともできない。腰をしこたまぶったらしく、ズキズキと痛んだ。両手首もしびれて動かすことができない。数秒経って、やっと思考が自由に働くようになった。
「ああ、生きているんだなあ。」と、まずはほっとした。
「ああ、ひどい事故を起こしちゃったなあ。これでリタイヤか。」
などと色々と考えめぐらしていたら、上の方で「小野さ―ん。大丈夫ですかあ。」と山田の声。
「う―ん、大丈夫だあ。」と答えた。遅れてきた浜崎氏も、心配そうに、しかし、なぜかおもしろそうに見下ろしていた。それから浜崎氏が後から来る人達に事故のことを大声で知らせるのが聞こえた。「お―い。小野が崖から落ちた―。」
数分経って、後から登ってきた人達も皆、現場に集まってきた。僕は手がしびれてうまくはい上がれないので、手を貸してもらつて上の道路まで登った。
我が自転車は、藤原君、山田君等が引き上げてくれた。幸い、タイヤがバンクしてはいるが、フレームが無事だったので、何とか走れそうであった。
明治の人達が心配して寄ってきたが、僕も自転車も意外とピンピンしているので、「ヘえ―、WCC ってやっばり強いんだなあ。」と変な所で感心していた。
結局、僕はリタイヤが決定し、奥多摩駅まで戻ることになった。主将になってまだ日の浅い古閑君が、立場上、しぶしぶと自転車を持ってつきそってくれ、輸行までしてくれた。せっかく半分くらいまで登ったのに、リタイヤなんて口惜しい気がしたが、まあ仕方ない。
生命に支障なかっただけ幸いと思わねば。実際、もしあの時、岩にでも頭をぶつけていたら、と思うと冷やっとした。古閑君は御苦労にも、皆の後を追ってまた林道を登っていった。
こうして僕は、うまく動かない手で苦労して切符を買い、輸行袋を肩でつって、苦心惨惜して家まで帰ったのであった。運の悪いことにその日は日曜日で医者は休み。
家で姉に応急手当をしてもらった。腰の方の痛みはすぐに直ちたが、夕方になって両手首 が激しくうずき出して、 一晩中痛くて全く眠ることができなかった。翌日医者に診てもらったところ、左手首が不完全骨折、右手首が捻挫ということであった。
このようにして、僕にとって楽しみにしていた早明ラン、鋸山挑戦は、見るも無惨な結果に終わってしまった。僕の事故の子細については、春休み中に、様々な尾ひれがついて、クラブ員全員に知れわたったようである。
それから後、ランで地道の登りになるたびに、僕は皆から冷やかし半分に
「崖に気をつけろよ。」と言われるのであった。
鋸山については、後々になって見事に雪辱を果たしたのであるが、一度身についたレッテルだけは容易に取れそうもない。今でも酒の席では、格好のさかな。となるようであの事故のことが話題になるたび、僕は照れくさいようなこそばゆい気持になるのである。
(終わり)
春季プライベート沖縄へ – 水野&河越
春季プライベート沖縄へ
エメラルドグリーンの海に囲まれて
商学部 水野 河越
(ズノミ編)
見渡す限り雲海の中、あいにくどんよりと曇っていて、下界の様相は何ひとつわからない。あと数10分で南国沖縄へ足を踏み入れるというのに、何か晴れ晴れとしない気分だった。正直言ってどうしても沖縄へ行きたい気持ちなどあまりなかった。長い休みがあるのだから、大袈裟に言えば貴重な青春時代を無駄にしたくなかったし、またバイトをする訳でもない。
ましてや勉強してる訳でもなく、家でゴロゴロしている(しかし生来の怠け者である僕にとっては郷里でプラプラしている時がいちばん楽しい時間なのだが…)
自分に対する何か後めたい気持ちを、走りに出かける事によって打ち消したいということもあつた。
とにかく走っていれば、つまらない事を少しは考えないでいられるだろうと思った。
まあ一種の現実逃避ですな。サイクリング(なんかサイクリングというとニューファミリーがお決まりの官営のサイクリング道路をミニサイクルでランランしている情景が脳裏に浮かんできて、安っぱい感じがする。シクロツーリズムとでも言おうか。)
すれば有意義な日々という訳でもないのだが、他に特殊な技能も高尚な趣味も持ち合わせていない自分にとっては走るぐらいしか無かったのだ。
空港の玄関を出ると初夏のような日ざしがたちまち玉のような汗となって、シャツがべっとり張りついた。那覇市内をポタリングしながら僕はどぎまぎしていた。まるで外国へ来たような気分だ。いまだ残っていると言われる沖縄戦の戦禍=ヤマトンチユーに対する特殊意識。戦争を知らない世代、ましてや一旅行者に過ぎない自分が何を考えているんだ。
「ここは日本だ。同じ日本人じゃないか。ばかじゃなかろか。何を訳のわからない、安っぽいセンチメンタリズムに浸っているのだ。」
初日は抜群に安いステーキを充分味わったあと、ユースヘ行って相棒Gyuを待った。2日目から走り始めた。どうせ海洋国、信州のような豪快な走 りっぷりは望むべくもない。南国の優しく包み込むような涼風をたっぷり吸い込んで、海岸線そして岬をたくさん見て回ろうということになった。
(ここでバトンタツチ Gyu 編)
春のプライベートは誰もが皆、南へ南へとなびく。そこで私も考えた。さてどうしよう。九州あたりでも…などとワイワイやっているうちに、どうせ九州まで行くなら沖縄まで行ってみるかという事で、
何となく水野氏と話がまとまってしまった。スキーを充分楽しんだ後、3月7日、一転して南の地へと、何の予備知識も持たずに1人羽田を飛び立った。
僅か2時間余りでもう夏だった。驚異・感動・緊張・不安・期待、そして何故か追い立てられるような焦りでポーッとしていた。
水野氏と合流。2日日は那覇‐首里‐知念崎‐喜屋武岬 – 糸満 – 那覇という南回リコース、面白くなくいたずらに疲れるだけの観光めぐりの中で、知念崎に至るワシントンヤシとやらを等間隔に植え込んである南国ムードいっぱいの道路が唯一印象に残った。
3日目は那覇‐残波岬- 真栄田岬- 海中公園と北上。岬めぐり、ガイコツ岩と濃紺の海、自い波、風。人間が立ち向かえない大自然がそこにあった。こんな所で何時間もじつと海を見ていたいものだ。
4日日は海中公園‐名護‐辺戸岬‐安田と北部西回リコース。北部へは観光客もほとんど来ない。部落も実にひっそり、小ぢんまりしていて、人々の顔もその雰囲気そのものである。さらに小さな安田(あだ)という部落に旅館(らしきもの。とてもそんなものはあると思わなかった)を見つけホツとした。
5日日は安田‐北部東海岸- 名護と最もキツイと考えていたコース。北部道路は一部未舗装で大小のアツプダウンをこなし、海岸を少し離れ内陸へ。沖縄のチベットという事だが相像していたよりは大して景色もよくない。ただ出来る限りあたりを見回し、特有の風景を目に焼きつけておこうとしていた。何かもう来ないかも知れない、見ることもないかもしれないと思うと何だかこのままサッとやり過ごしてしまうのが寂しいような気がしたから…。嘉陽ピーチの水はまだ少し冷たかったけれど日射しは強く、腕はもうヒリヒリだった。
(再びズノミ編)
6日日、あの沖縄にインフレをおみやげに置いていっただけという評判悪かった海洋博公園を訪ねた。予想どおり特に見るべきものは無く、だだっ広い亜熱帯公園と穏やかな透きとおったサンゴの海の中に少々錆びついた異様な鉄の塊「アクアポリス」がポツンと浮かんでいた。
旅も1週間が過ぎていい加減飽きてきた。どうも飽きっぱくて困る。今までの経験でも1週間を過ぎるともうつまらなくなってくる。
(これも少年時に鼻を患って以来、現在でも完治していないのが多分に影響していると思うのだが…。)
確かに海は内地とは較べものにならない美しさだったが、それも食傷気味。海は意外に冷たくてまだ泳げなかったし、何かあまり見るべきものは無かったようだ。だいたい感受性が鈍いんですよね。Gyuのタイヤ がパンク・パーストを繰り返してもう使えなくなってるし、土砂降りには見舞われるし…。
いっそのこと帰ろうとも思ったが、「何万も運賃を出し南国まで来たんだ。今帰ってしまってはもったいない。」という気持ちが、僕たちを石垣行のフェリーヘ押しやった。
15時間近くも揺られてやっと石垣島に到着。わざわざ愛車もパラして連れて来たものの、走れるのは石垣島くらい。それにGyu氏の1/2タイヤを市内で探したが見つからず、あえなく自転車は捨てとなった。帰りの船が5日後と10日後。
せっかく最果ての地までやって来たのだからのんびり楽しみたいとも思ったが、5日後の便をのがすと春季ランにひっかかるので、愛部心が人1倍強いのGyu氏が反対した。
(実は「やっばり出ないとヤパイよ」とか言っていたが…)そんな訳で、西表と与那国に絞って回ることにした。
(またまたGyu編)
西表島…島の大部分が亜熱帯ジャングル、 一周道路さえ出来ていないという、そしてそんな秘境に生きるイリオモテヤマネコ…。
高校の頃知ったそんな島へ、まさか自分が足を踏み入れるとは。だが現実にこの日で確かめ体全体で触れ合ったのだ。だが高速船「マリーンスター」を降りると、それまで抱いていたイメージとは多少かけ離れたものであった。その時点では…。若い人が多い。
ユース・民宿の車と共に港にあふれていた。しかし自然はそのありのままの姿を私に見せてくれた。7色に輝く遠浅の海、独特の植物群、そしてジヤングル。10日目あたりで何をするにもかつたるくなっていた私は、それら雄大で神秘的とも言える大自然を目のあたりにして、心が呼びさまされたような気がした。海につかり、甲羅干しをし、星砂を手にし、そしてユースのみんなでジャングルを分け入って「ピナイサーラの滝」 へ登った。
ジャングルの中を一筋、真っすぐに落ちて行く水の流れ、あたり一面のジャングル..そして彼方に広がる7色の海。沖縄に来て最も感動した瞬間であった。
与那国島へ渡る予定にしていた私たちは後髪を引かれる思いで西表島をあとにした。ユースで知り合った人たちが、船が出るまで見送ってくれた。何だかこのまま行ってしまうのがたまらなく寂しい気がした。
たった2日ばかりの西表への旅で、人々にそして大自然に魅せられ、できたらもう1度訪れてみたいという想いを私に植えつけた。またあの人たちに会えるかも知れない…。
そしてあの大自然に触れることができる。今度はジャングルの奥でイリオモテヤマネコに顔を合わせるんだ!
西表から石垣に戻った翌日の船で日本最西の島、与那国へと渡った。この島では現地の人々の生活が肌で感じとれた。特有の造りの家々、やはり南国の人だと感じさせる人々の黒い顔、顔…。
東京では、そして田舎でも到底考えられない、のんびりとした簡素な生活がそこにはあった。欲しい物は何でも手に入るという私達の生活が、ぜいたく以外の何物でもないということをひしひしと感じた。
そして高い金を出してこんな所までやって来る観光者の自分を顧みて、何かとても無駄な事、その上に悪い事でもしているかのような気分になってしまった。
そんな気持ちで島の東の岬へと歩いた。ちょっと登るとそこは一面の牧場。牛や馬があちこちで草を食んでいる。そんな景色を眺めていると、自然と心も和んでくるようであった。ペダルを踏めなくなって5日程過ぎて、やっばり自転車に乗りたいという気持ちが日増しに強くなってきた。
いくら峠なんか無いとはいえ、やはりあの自転車の感触が忘れられない…、一応私も人並みのサイクリストであった。
西表にしろ与那国にしろ、もう何ヵ月もいる人や何度も訪れている人が多い。
一体何が彼らをそうさせるのか。そんなに魅力のある所なのか…、
たった2日やそこらの私たちにはまだよく解らない。自分の足で肌で、少しづつ、「離れられない何か」を感じとっていくものなんだろう。とても素晴らしい、そして私なんかにとっては羨しいことであつた。
(最後にズノミ編)
確かに沖縄は美しかったし、本土には無いエキゾチツクな情景がかもし出す生あったかいムードにはいたく満足した。それに始終僕らのそばを通り過ぎる米軍の姿にも、ある複雑な緊張感を呼びさまされた。が、ペダルを回して何かつまらなかった。
それは日本の屋根地帯の圧倒されるような豪快さの中でサイクリングをする事に慣れきっているからかも知れない。
やはり今では自転車を持ち込んだ事を少々悔やんでいる。沖縄という小さなハコの中では、サイクリングの持つ醍醐味を充分消化しきれないのではないかと思う。今後沖縄へ行く人がいるなら、本島を3日ぐらいレンタカーなどで回りきって、後は離島に渡って、自分の足でその異国情緒を満喫されるようお勧めします。
峠に寄せて – 渡辺
峠に寄せて 第2文学部 渡邊
我々はよく自転車で峠に登る。でも、なぜ一生懸命、峠に登ろうとするのか。それを考えたことがあるだろうか。目的地に通じる道がその峠を通っているから、というのならそれでもいい。峠は征服感を味わえる所。確かにそうかも知れない。
峠に対する考え方は人それぞれであろう。ただ、どんな場合でも、峠に登りつめようと努力することに変わりない。
人は何ゆえに峠に登るのか、という問いに対して、私は新しい世界を切り開くためだと答えよう。峠を登っている時、人は峠の 向こう側の世界を見ることはできない。見ることができるのは峠のこちら側の世界だけ。でも、峠に立てば、峠の向こう側の世界を見渡すことができるのだ。そのために努力するのだ。
苦しかった峠への登りの道は、峠に立った時、爽やかな思い出となり、新しく開けた世界、ダウンヒルに希望を懐かしてくれるに違いない。期待外れの時もあろう。例えば、碓氷峠を横川から登ると、下りは無いに等しい。それでも、峠に立てば、必ず新しい世界が開けるのだ。
こうして登った峠とは、どんな所であろうか。真壁仁が「峠」という詩の最初に、次のように書いている。「峠は決定を強いる所だ。」今まで苦労して登ってきた道に別れを告げ、新しく開けた下りの道を進んで行く決定を強いられる場所だ、と言っている。
なぜなら、下り始めたら、今までの登ってきた道は見えなくなってしまうからである。その意味で、峠は頂点であろう。 1つの道を極めたと言える場所、そこが峠だと思う。
だからこそ、人は峠に登る努力をするのである。私の場合、前にも述べたように、新しく開けたダウンヒルに期待して峠に登る。しかし、何も私のようにダウンヒルに期待する必要はない。その目的は何でもいい。大切なのは、峠に登ろうとすることではなかろうか。地図に画かれた実際にある峠が、峠のすべてではない。
サイクリングで峠に登るだけでなく、人生という大きな地図に載っている峠に登りつめようではないか。もしかしたら、その地図は白地図かも知れない。白地図なら、そこに自分で峠を書き込んで登ればいいのだ。人生という長い道程には、いくつかの峠があり、峠があるからこそ、人生は楽しいものになるのではなかろうか。
岬 – 内田
岬 教育学部 内田
逆光の中から燈台の姿が浮かび上つて来た。岬である。何年か前に歌にも歌われたこともあるこの岬は、短い夏の間だけ多くの人々で賑わいをみせる。
燈台のそばに設けられた駐車場では、ひっきりなしに車が出入りし、またバスから出てくる観光客も後を絶たない。
彼は、冬の間は閉ざされるであろう簡易な土産品物屋の前に自転車を置き、観光客に交じって燈台の方へと歩き出した。付近には、白い観測所の舎と百葉箱などがあり、また小道の傍には、岬についての説明が書かれた碑が立っていた。
その前でじっと碑文を読む者もおれば、家族で記念写真を撮る者もいる。あたりに木は見あたらず、岩とその囲りに風になびく草々があるだけである。
向こうから戻ってくる観光客の中に友人の姿を見つけた時、彼は、タベの出来事のためか気まずさを感じたが、その中にも形容しがたい情感がわき上ってくるのを感じた。
「まだ、ここにいたのか。遅れてすまなかったな。」
「随分と遅かったな。長く待ったぜ。行ってしまおうと思ったが、お前が来ないと写真を撮ってもらえないからな。それにしても遅かったな。あれからずつと寝ていたのかよ。どうしょうもない奴だな。」
「まぁ、そう言うなよ。ところで、もう向こうへ行って見たのか。」
「ああ、別に何もないけど岬の向こうは、物湊い絶壁だぜ。まぁ、道に沿ってかなり下まで行けるけどな。」
「そうか。とにかく向こうへ行って写真でも撮ろうや。」
昨日の朝早く彼等は苫小牧港へ着いた。港の付近は臨海工業地域らしく、石油のタンクなどが、速度をゆるめたフェリーの船室の窓から見えた。フェリーを降りた彼等を迎えた北海道の空は厚く雲が垂れ込め、夏だというのに膚に感じられる空気は予想よりもかなり冷たかった。
国道に出ると、まず車の速さに驚く。路は、広く、どこまでも1直線に延びている。路の端のパラスや、不規則に圧し潰された空罐が、ハンドルを握る手に緊張感をもたらす。囲りは大古の昔から人間の侵入を許さなかった大湿原である。永遠と瞬間、静寂と騒音、自然と文明、これらの対照を何の異和感もなく包み込んでしまう広大な大地。この地において人間ほど小さな存在はない。
「しかし、広いなあ。なぁ―、おい。」
「ああ。でも、車が、特にダンプが多くてやりきれん。それにスピードがありすぎるぜ。」
たわいもない言葉の交わし合いも、車の騒音にかき消されてしまう。
1日目の夜は様似であった。岬への鉄道終点の地である。ここからは、パスに乗り継いで岬へと旅人は向かう。下りの列車が着くごとに車内から降りてくるのは、華やかな服装の少女達であった。
彼女達は、改札口を出ると駅の玄関で、ちょっと立ち止まってあたりを見わたしたかと思うと、バス停の方へはじゃぎながら走って行った。プラットホームに足を降ろした時から、 いや、車内放送の
「次は終点、様似です。どなた様もお忘れ物のないようお気をつけてお降りください。尚、お出口は右側です。次は終点様似です。」
という声を聞いた時から、彼女達が憧れのスターに初めて会う時のような軽薄な緊張と陶酔にも似た一種の胸さわぎが、パスのフロントに「襟裳岬」という文字を見つけ出させていた。
列車の到着時間に合わせて既に待っていたバスに彼女等が乗り込むと、運転手は緩かにハンドルを左にきり、それほど広くもない駅前通りを300mほど走らせ、信号が変わるのを待って、再び左折し国道へとバスを入れた。バスの姿が角の雑貨屋の影に消えた時、後に残ったのは、静寂と嫌悪感だけであった。
「ふん、ミーハーなんてあんなものよ。」と、何時か、何年、何10年先、自分では決してミーハーとは認めない虚偽に満ちた輝かしい青春時代の思い出の中に、この町は決して現れることはないだろうと彼は思った。彼女等だけではない。「旅」というよりも「旅行」という響きの方が似合っているのが、多数派であろう。
意識的でないにしても、大方の場合、旅行は、風光名媚。景勝地・史跡などのたぐいを目的にし、それらを観賞すること自体に重きが置かれ、それだけで満足してしまうものである。彼女等にしても、旅行は襟裳岬であって、この町はその範疇にははいらない。彼にとっての「旅」とは、生々しいものであり、息吹が通い合うものでなければならなかった。
日に入ってくる構内の様子、匂い、膚に感じられる空気の微動、売店のおばさんの言葉等々。目的地ばかりでなく、そこへの過程における全ての体験が、訪れた土地について豊かな人間性や知識を与えてくれるとともに、自分の日常の生活空間についての新しい認識をも与えてくれる。そういうものが「旅」であると彼は信じていた。
裸電球の下には、どこの町にもあるように、駅を中心にしてその町周辺の観光案内板が寂しく立っていた。弱々しい光のもとでも認めることのできる、朽色の錆が雨垂れの跡を残しているところを見ると、立てられてから1度も塗り替えられていないのだろう。そう思いながら、彼は岬までの道を目で追った。
イデアル80に夜霧が感ぜられるようになると、夏と言えども空気の冷たさが身にしみてくる。構内の待合室に戻り、煙草に火をつける。
柔かい白線を描きながら立ち昇る煙が、彼の後頭部に快い苦痛を広げた。
ホームの向こう側からは暗闇がこちらをじっと見つめているだけで、虫の声以外に何も聞こえてこない。列車の入線の時刻なのだろうか。
虫の音をかき消す、レールの上を走ってくる比較的周波数の高い金属音が、規則的にそして加速度的に速くなり高くなって彼の耳に入って来た。
普段なら喧しく聞えるデイーゼル列車の音も、北国においては、寂しさを一層増してくれる。
日まぐるしく変化する都会の夜とも違い、この土地においては、夜は、沈黙であり、静寂であり、何の変化もなく、すべての活動が止まり、他律的に朝へと導かれる。そんな夜だ。
翌朝、日覚めの悪い彼を残し友人は先に立った。昨夜の些細な識いが、2人して一緒に出発することを強要しなかったのである。岬で待っているとの声をまどろみの中で聞きながら、彼は安眠を貪り続けた。ようやく寝袋の中から這い出し、軽い朝食を済ませ出発の準備を終えた時は、既に9時をまわっていた。
様似から襟裳町へと向かう海岸線は、日高山脈がそのまま太平洋に没しているため、非常に厳しい。所々に点在する民家も、路の脇に岩壁にへばりつくようにして立っている。
太平洋から吹きつける冬の荒波のためか、どの家も破損が日立つ。僅かばかりの浜辺では、漁師がコンプ採りの最中であった。漁師と言っても、女子供の姿が多い。中には彼と同じ年頃の娘もいる。
厚化粧と有名プランドに身を包み、キヤンパスを闊歩している女子大生に比べ、誤魔化しの跡もなく作業着で黙々と仕事をする彼女達の姿は、大自然の中で生きぬく素朴な退しさを感じさせた。
北海道の冬は厳しい。本州の人間の想像を絶するほど、海は荒れ狂うと聞く。毎年、何件もの遭難事故が報道されるが、実際に起こった事故は、その何倍もの数であるという。
彼女達の中にも、漁に出たまま帰らない夫や恋人を待つ者もいるだろう。男まさりの仕事をしている彼女達の背中が淋しく感ぜられたのは、彼だけであろうか。
襟裳町から先、延々と続く台地状でなだらかな起伏の先に岬はある。潮風が強いためか樹木はなく、ササや1年草があたりを覆っている。所々に咲くアザミの紫色が、緑の中で映えて美しい。
通り過ぎる車の足どりも軽く、エンジンの音も風の中に消えて行く。重く厚かった空は、自い雲と青空に変わっていた。緑の台地と青い空と海。そして、まばゆいばかりに光る太陽。そんな中を岬へと路は続く。
日高山脈が太平洋に没するこの岬は、60余mの断崖がそびえ、沖合数キロまで岩礁に荒い波が砕けている。波が岩壁に激しくぶちあたるたび、勇壮な音とともに、紺碧の海水の中に薄緑した、
ちょうどソーダのような無数の泡の群が広がる。
また、この岬は濃霧のかかり易いことでも知られている。5月から7月にかけては霧が多いため、光よりも燈台で鳴らす霧笛が役立つという。
岬で待っていてくれた友人と写真を撮り終えた彼は、地図を手に日高山脈の方へ振り返った。今、走って来た台地の背後に、オキシマップ山、豊似岳、観音岳の連峰が、その中腹に自雲をまつわりつかせながら威風堂々と得え立っていた。
その紫色に染まる山ひだを辿っていけば、白波寄せる百人浜へと続く。赤茶色の土砂、荒涼とした草原以外は何も見当たらないその浜に、かつてこの沖で遭難した南部藩の御用船の乗組員百余名が泳ぎ着いたが、寒さと飢えのため生き残れなかったという。
その後、心ある村人が供養のため石碑を建て、その石碑に様似のある和尚が、一石に一字ずつ経文を刻んだ。それを一石一字の塔と呼ぶらしい、今も変わらずこの浜に打ち寄せる白波は、そんな昔の悲哀話を少しも感じさせない。すべては、まぶしい夏の光のためであろうか。
波の白さと空の青さが交り薄く消えて行く果てに、
「さいはての駅に下り立ち雪あかり、さみしき町にあゆみ入りにき」
と啄木に謳われた町、釧路がある。本年度夏季合宿集合の地でもある。彼は、退しく赤黒に輝く部員達の顔を思い浮かべながら岬を後にした。
Editor’s Note
1980年の出来事。昭和55年。
2月。レークプラシッドオリンピック。
5月。TVゲーム、パックマン発売。
7月。モスクワオリンピック。西側67か国がボイコット。
10月。WHOが天然痘根絶を宣言。
11月。ロナルドレーガン大統領就任。
12月。ジョンレノン銃殺事件。
第22回日本レコード大賞 1980年 雨の慕情 八代亜紀
WCC夏合宿は、「北海道 : 釧路 – 札幌まで」でした。
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こんにちは。WCC OB IT局藤原です。この時、3年生でした。45年前に自分が書いた文章を読み返し、
顔から火が出る思いですが、それなりには「面白いじゃん」。皆様もくれぐれも事故には
お気をつけください。
当時の文章をWEB化するにあたり、できるだけ当時の「雰囲気」を尊重するよう心掛けたつもりです。
文章と挿絵はPDF版より抜粋しました。レイアウト変更の都合で、半角英数字、漢数字表記等を変換していますが、全ての誤字脱字の責任は、編集担当の当方にあります。もし誤りありましたら、ご指摘をお願いします。
2024年冬、藤原