主将ノート – 樋口
主将ノート 第19代主将商学部 樋口
プロローグ
思えば、あっという間の4年間であった。 1982年、晩秋、学生生活があと数力月となった深夜、住み慣れた鶴巻町の3畳間で目をとじれば、ただ、ただ、ほっとした安堵感が胸の奥底に込み上げ、すぐさまそれが、言いようのない虚無感に変わるのを覚える。
そして、その安堵感とは、まさに峠に着いたときのそれと同じであり、虚無感は、目標を達成してしまった後にくる―それまで、張りつめていた糸が、ぷつんと切れるがごとく―張りをを失った心である。無色透明、そんな気分である。
去年の回想になるが、自分は当時まさしくWCCの主将を努めていた。燃えていた。張りつめていた。自分がそれまで生きて得たもの全てを注ぎこんだ。1年経った今でも、そう言い切れる。実に幸せなことだ。
また、今回の主将ノートを、執行部を終えそれからちょうど1年経過した今、執筆できることは、幸運だと言える。というのも、就職活動を経て、そして長かった学生生活を、いますべてが終えようとしている。このごろになってやっと、自分の20数年間のささやかな人生の中で、WCCは何であったのか、主将の任を通じ、仲間達との触れ合いの中から、自分は何を得ようと努力し、結局、何を財産として持つことができたのか、そして、自分にとってサイクリングとは何であるのかが、わかりかけてきた時期であるからだ。
主将として ―峠とフリーランー
サイクリングは実に深遠で、幅の広いものであろう。それは時に、「旅」であったり、人との出合いであったり、また、大自然との融合であったりする。
人によっては、それをスポーツとして楽しんだり、精神や肉体の鍛練として把える人もいよう。この様な、個人個人によって、光の当て方の異なるサイクリングであるが、我WCCにとってのそれは、サイクリングという母体を、各自の共通項として、部員同志が結びついている。
そして、それだけに止まらず、瓦いに汗を流し、同じ峠を目指し、同じ釜の飯を食う。私生活においても、酒を飲み、遊び、集う。そんな、クラブ生活から、自然のうちに、クラブという流れの中、自分の水を得る。自分のポジショニングを築きながら、自己の肉体、精神が磨かれ、友を得、思い出が残る。厳しいが、実にここち良いのだ。
さて、この様なWCCにおいて、自分が主将を努めるに当って考えたこと。それは60余名の構成員から成る我クラプに、 1本の大黒柱を通すことであった。
またそれは、誰もが、実践可能であり、部員の共通項と成り得るもの、それも、我がクラプがサイクリングクラプであることを考え合せ、「走り」において確固たる1本柱を立てようと試みた。
「フリーランにおいては、各自の肉体的精神的限界に挑戦し、全力を出しきって峠にアプローチする。」
かくして、この様な要望を部員各自に提示し、実践していただいた。この事は、代々暗黙のうちに言われてきたことだが、当年は、その方針を、より明確に打ち出すことにした。自分は、まず、主将として「走るときには走る」
姿勢を示したかった。よって、自分は「ランのとき存在感のある主将」を目指すことになった。
このことにおいて、触れておきたい事がある。それは、サイクリングにおいて、「走る」とはどうゆうことか、ということである。大多数の者にとって、それは、より時間をかけより長い距離を、そしてより高い場所へということになろう。
つまり、日本全国、いや世界各地へと色々な所を走り、様々な人との出合いを大切にするということになるのだろう。
しかし、幸か、不幸か自分は大学入学以来、特に下宿を始めた2年以降、年間を通じてのアルバイトとサイクリングの両立を成さねばならなかった。久しぶりに、クラブランのない日曜があいていて、プライベートに出たいと思っても、サイクリングの費用はおろか、それ以前の生活費をかせがなければならない為、我慢しなければならない時もあつた。
夏休み、春休みといえば、合宿の前後に飽きる程プライベートをしたかったのだが、その時期になると、決って家賃だのランのための借金だの、ローンの未払金や、生活費不足のための借入金などがやたらとたまっていて、それらを返済するため、そして合宿費を作るために、ぎりぎりまでアルバイトをしなければならず、せいぜい合宿前の1週間、合宿後の1週間ぐらいしかプライベートで走れる余裕がなかった。
時たま「もう少し金があればなあ」と、やけになったこともあったが、この事が私にとって人とは違った意味での「走る」という事に対する執念をかもし出すことになったのかもしれない。
自分は、限られた時間の中で最大限の満足を得る為、プライベートに出るとはっちやきになって走った。たとえそれがたいした峠でなくとも、誰かが見ていようといまいと、とにかく肉体的、精神的に自己の限界まで出しつくすことを心がけ、アプローチを行った。はたから見れば、ランドナーに乗ったサイクリストがダートの林道で1人だけのロードレースを行っているように見えることだろう。
しかし、それが自分には実にここち良かった。あえぎながらも、自分の足が荷重に耐えながらも、ペダルを思うように回転させ、ここちよい速さで峠をアプローチしている時は、苦しく景色も見る余裕もないのだが、自分にとってはその時が、実に貴重なのである。
それは、自己確認の場でもあるからだ。社会の意志に流され、人間集団の中に埋ぼつしている自分にとって、峠のアプローチにおいて、頼れるのはただ1つ、自分自身の肉体と精神力だけなのである。
何も峠は、自己の限界に挑まなくても、ゆっくりと、風景を楽しみながら、楽に登ることもできる。押してだって登ることも可能である。その登り方は、個人個人の好みであろう。自分みたいに、
根をつめてアプローチすることは、ばかげているかもしれない。
しかし、自分は峠のアプローチを、自己の確認の場、精神力、肉体の鍛練の場として、思い出していた様な気がする。
黙々と峠をアプローチし、全力を出しきれた時、自己の精神、肉体の限界を知り、またそれは自分はまだまだやれるんだという自信を持ち得る。そしてそのことは、サイクリング以外でも自己の限界に挑み、全力をもって事を成すことの尊さを教えてくれた。自分にとってのサイクリングとは、精神、肉体の新陳代謝のためのカンフル剤なのだろう。だから自分は、1人で走っている時でも、峠のアプローチを始める前は、必ず緊張していた。それは、これから始まる自己との戦いに勝つことができるだろうかという不安のためである。
まあ、このようにして自分は過去(高校時代の「旅」の手段としてのサイクリング以降)峠は、プライベート、クラブラン共に常に自己の限界を出しきって登ることを心がけてきた。多分、学生だからこそできたことであろうが。
かくして私の走りは、限られた時間の中で自己の限界にチヤレンヂし、全力を出しきるアプローチを行なう走りなのである。自分のいわばポリシーとも言うべきこの走りを、私は主将としてWCCのどこかに生かしたかった。そう考えると、フリーランにおいて、それは自然と当てはめることができたのである。
フリーランのたびに、後ろから追い立てるようにして
「バカヤロー、ちんたら走ってんじゃねえ―!」
とどなり散らしていたのは、何も私が主将としてのポーズをとつていたのでも、はったりをかましていたのでもないのである。私がそれまで、1人のサイクリストとして実践してきて良かったと思える自分のポリシーを皆にぶつけていただけで、それがたまたま、主将としてのクラブ運営の1つの方針として当てはまっただけの事である。ただ、それを部員の皆がどう感じていたかは私は知らないが…。
さて、私のポリシーはそれとして、ではなぜクラブランにおいてフリーランを各自が全力を出しきって登るよう、部員に求めたかというと、それは私の次の様なクラブ観に基づく。個人が、 1人1人熟達したサイクリストを目指すことも大きな目標であるが、それと同時に全員で一丸となって同じ目標に向い、苦楽を共にし、その中で各々が自己を磨く。その結果、個人レベルでは取得し得ないものを得る。
更にクラプランの反動でもつて、自己のサイクリングを追求するパワーを発生させる。こういった核を持ちながら、同時にサイクリング以外の面でも友を得、青春を語り合う場でもある我WCCを、私は個人として主将として作っていきたかった。
しかし、個人個人のサイクリング観、あるいはその他の価 値観は異なるのが当然であろうし、かといってそれらを全て尊重していたのでは、組織のパワーは方向性を持ちえない。そのため、WCCの構成要員の各々の個性を尊重しながらも、構成要員間の言わば共通の言語を持ち得てこそ、初めて全体の
コミュニケーションが成り立ち、集団パワーの力は最大限に発揮されよう。その共通語に、私は好むと好まざるを得ずフリーランを当てはめた。全力を出しきることは、体力差に関係なく誰でも実践可能なのである。自分1人が苦しんでいるのではない。皆が全力をふりしぼって、同じ峠をアプローチする。主将の狙いはまさしくそこにあった。
有能なスタツフと共に
主将は、クラプの顔である。その表情が笑うも泣くも、手であり足であり、身体である部員にかかっている。
自分が、常に最高の状態で主将の任を務めることが出来たのは、日頃の細々とした仕事を副将の内田が取りしきってくれ、全体を見渡すことのみを私の仕事とさせてくれたおかげであり、また、企画局長の丸山をはじめとしたその道のプロフッショナル達が、自分の与えられた仕事を充分にこなしてくれたおかげであると確信している。だからこそ皆に「オレ達について来い」と言えたのである。
ある下級生に、「樋口さんって、結局何が言いたかったのですか。」と聞かれたことがある。真に意をついた質問であろう。
自分自身クラプを見渡す時は、常に何らかの不信感を持っていた。いや、持とうと努力していた。それは、何も信用できる出来ないの不信ではない。常に、最良の状態であろうとするところから来るところの「これでよいのか?もっと良い方法、状態は他にないものか?」
という思いである。だから私自身もそうだし、主将としての自分にとっても、1年間これで良いと心から思えたことは、クラプランを通じても、そう多くはない。
極力、妥協はしたくなかった。クラプの方向を見極める眼は、厳しい方が安全だと思った。よって、各局長を見る限も、自ずから個人としての丸山をみるのではなく、企画局長としての丸山、メカとしての山田という眼でみようと心がけた。当然、自分自身も、樋口個人ではなく、WCCの主将になることに努めた。少なくとも、クラブランにおいては。
だから、よく論議がたたかわされた。個人の樋日としては面白くいい企画案だと賛成できてもWCCの主将として、この案をこのまま通し果たして60名の部員にとって、1人の落伍者も出さずに、計画通り事が運ぶかということを考えるきっかけを執行部の面々に提示しなければならない時もあつた。
執行部の皆でもう1度よく検討してみてから、それから改めGOを出した方が、企画自体重みを増すし、こうして実行された企画の結果に何が起きようとも、その時は「オレが責任をとってやる」と言えるのである。
そうゆう時、自分が主将である事を忘れたい時もあったが、これも数少ない主将の仕事であると思えば、自然と憎まれ役にもなってやろうという気持にもなったものである。
今だから言う。丸山、君の企画はすばらしかつたよ。オレは、おまえの企画に絶対の自信と誇りを持っていた。しかし、主将として同時に、最低レベルの者と全体ということを意識した場合、時たま主将としてストツプをかけたこともあつた。
しかしそれは、企画をやめろ、変えろという風に見えたかもしれないが、そうではなく、いい企画だからこそ、パーフエクトに実行したかった。
それには、もう1度、執行部皆でそれを再検討し、影にかくれている問題点を見つけ出し、それに対する策を講じ、そして初めてGOなのである。そうして実行される企画こそが、真に部員のためのものであり、かつ実行価値のあるものだと思う。
同様のことは、各局長にも該当すると思う。自分自身、個人として、主将として常に最良でありたいという欲望があった。いつも1番良いと思われる状態、言わば理想とのギャップを埋めようと努めていた。
そのために主将としての言動は、部員に対する要求と同時に、自分自身もそうありたいとする自分の姿勢を示したものであり、私が未だ未だ未熟であるが由に、真剣にそれを発しえたのでもあろうし、
それに向って自分自身も、皆と一緒に努力したのであろう。
それが、ある種の緊張感となり、皆を引っばっていく原動力となったのであろう。はったりだけで通じる程、WCCの主将はちょろくはないのである。
また、私は何が言いたいかすぐにはわからない主将、その文脈から1人1人が何らかの疑間でもよいから感じとってもらい、その反動が返ってくる様な言動を心がけた。そして、何だかんだ言いながら、最終的に私の初め意図した方向にクラプが向うことができた。
ひとえに、私を支えてくれた副将以下、有能なスタツフに感謝している。同時に、第19代WCCを共に歩んだ各部員に礼をのベたい。
WCC クラブサイクリング主将
理想的には、個人個人の熟達したサイクリストのマンパワーを結集したところから成り、より大きな集団パワーを発揮しつつ、そこから個人レベルでは達成困難なメリットを各自に還元せしめ、更に大きなサイクリスト、そして同時によりすばらしい人間個人へと成長を促進させる母体として、WCCはその存在意義を見い出すべきであろう。
具体的に言うなら、人間と人間とのぶつかり合いの場であり、知識。技術の交換・互恵の場であり、そして友情を育む場である。
肉体と肉体のぶつかり合い。
精神と精神のぶつかり合い。
気迫と気迫のぶつかり合い。
そこから、やがて精神の融合がなされ、全体としてのWCCの意志が生まれ、方向が定まる。そのためには、各自が本音でぶつかり合うことだ。そうすることが、結局相手に対する思いやりでもあるのではないだろうか。
しかし、ここで忘れてはならぬことはその中にも、極力相手に対して誠意をもつて臨むことだ。自分の意志を通すのではなく、自分の意志を聞いてもらうのだから。
そして、主将とは個人個人の個性を最大限に尊重しながらも、全体の意志形成のため彼は、 1つの方向性を示すにすぎず、全体の意志が必ずしも、彼の方向性と一致するとは限らない。ここで大切なのは、主将がきっかけを作ることにより、構成員の面々に、考えるチヤンスを与え、皆が動き出すための1つのポイントを作る。
そのポイントに、皆が集まり、点からサークルヘと発展し、日標が定まり、それに向ってつき進む。この時点においての目標は、個人レベルの目標の昇華したWCCの意志の進むべき方向であり、これが達成されることにより生じた大きなパワーは、また個人へと還元される。例えば、同じ峠を目指し、食住を共にし、全員で無事、2週間のキヤンピング生活を乗り切る。
そのためには、個人の私的欲求は、全体のためにという名目で、押しころさなければならない時もある。しかし、それにもまして、合宿が終わった時の喜びは、個人のソロツアーでは味わえないものであろうし、そこから得る自信は何ものにもかえがたいものであるはずである。
私は、そんなWCCの主将を努めることができて、本当に幸運だった。
エピローグ
今、まさに学生生活にピリオドを打とうとしている私にとって早稲田大学は、そしてWCCは本当に貴重な母体であったような気がする。
4年間、これだけ常に何かに燃えていられたことは、幸せな事だと思う。
しかし、それは結果である。その過程において、自分自身、 より大きな人間へなりたいがため、常にチヤレンジする心を忘れず、努力を欠かさなかったという結果である。そして、そのためには自己に厳しくなければならないことも学んだ。そういったことは、簡単そうで、実に難しい事であることも知った。
私は、就職活動において、「大学で得たものは?」という質問に対し、「これから社会人となって今生色あせることのない、私の背骨とも言うべき基本姿勢、チヤレンヂ精神の大切さを、クラプを通じ、主将の任を通じて感じ、何事にも全力で挑み、色々な事にチヤレンヂする精神を養いました。」と答えた覚えがある。
このことをいつまでも忘れず、実践していくつもりである。4年間が、自分にとって満足のいくものであっただけに、これからが、本当の意味での、チヤレンヂであり、厳しいものであるような気がする。
キャパシティ、ポリシィ、アプローチ、チヤレンヂ、第19代主将は、これらの言葉を好んで使っていたことを付け加えておこう。
11号館209号室 – 内田
11号館209号室 副将教育学部 内田
11号館209号室から見下すキヤンパスには、傘の花が所狭しと咲いていた。普段でさえ昼休み時には身動きがとれなくなるほど混み合うメインストリートを、誰もが雨の雫を肩に受けながら、傘の影で見えないその顔に雨季の疲労を浮ぺ歩いて行く。
この209号室も例外ではなかった。 1時間以上にわたる論議の末、未だ解決の糸口が見つからず、主将と企画局長との間で夏季合宿をめぐり意見が対立していた。他の執行部の面々も時折口をはさむが、大方、額に滲み出る汗を開襟シャツの袖口で拭ぐうだけで、あとは深く首を垂れているだけであった。
会議における沈黙ほど、場の雰囲気を重苦しくするものはない。雰囲気だけでなく、部屋そのものを鉛のようにしてしまう。その重さに耐えかねて水滴が鈍く蛇行しながら窓ガラスの上を落ちて行く。
水滴の跡を通して12号館の白い建物が屈折して見えてくる。また水滴が落ちて行く。 1滴、2滴、3滴…。何滴目かの水滴は彼の目に入った。しみた。よくあることだった。ペダルを踏んでいる時でも、よく汗が目に入った。
目に入りきれない汗は、そのまま頬を流れ、顎から、トツプチュープヘと落ちた。過去3回の夏合宿など視力が低下するかと思われるほど汗で目をやられた。何も考えず、何の責任もなく、ただ汗が目にしみた過去3回の夏合宿。先輩は、偉大かつ絶対者であった。
そしてまた、夏合宿がやってくる。しかし、今は少なくとも彼は偉大かつ絶対者ではなかった。窓の外を見ている彼の目は、部屋の雰囲気と同じだった。(この雨が上れば夏だ。そう梅雨が終れば、必ず夏はやってくる。
いや、夏がやってくるから、梅雨が終るのかもしれない。地球が太陽を1回りする時間の流れの中である一定の期間だけ存在を許された夏は、その存在を確保しようとするがために梅雨を追放するのである。そして、その存在を証明するがために秋によって終りを告げられる。)
「理由は!」突然の主将の机を叩く音で我に帰った。感情の高ぶりが、声が言葉になることを制している。
「一体、理由は何んなのだ。例年よりも長い合宿を行う、その根拠は。企画局長、説明してほしい。」
「別に理由はない。ただ、東北の要所を折り込み、特に蔵王と鳥海はどうしても登りたい。そうなると必然的に、今回の企画となった。ただそれだけだ。」
「お前の言う要所とか、蔵王に登りたいというのは、単にお前の主観的判断と願望にすぎない。それはお前のわがままだ。クラブとしては、お前のわがままにつき合うわけにはいかない。」
「なにい―。わがままだとお。」
「そうだ、わがままだ。今、提示されている企画書は、ただコースが記されているだけ、距離、標高差など全く書かれていない。これでは、何をもつて要所とするのかわからないではないか。よって、コースを承認するわけには行かない。」
組織の運営とは難しいものである。案外、団結しているように見えても、その団結は妥協と惰性による私的意見の犠牲の上に成り立っている。日頃、「多少の妥協は避けられない。」と言っている主将が、
今日のように自分の意見を押し通そうとするのはめずらしいことである。
しかし彼に言わせれば、このような意見の対立こそが組織であり、徹底的に相手とやりあってこそ、新しいものが生まれるのである。飛躍的な発展にはそれ相応のエネルギーの蓄積が必要であり、それは苦悩と困迷のうちに養われると、彼は信していた。
「私としましては、主将の意見も理解できますが、やはリクラブランの企画段階における権限は、その局長にあると思います。ここは企画局局長の案に従ったらどうでしようか。別に今回の企画は無謀なものでなく、充分、今年の執行部の方針を反映しており、また、実行可能かと思われます。」
今まで、口を開していた2年生会会長が辿々しく口を開いた。
「君は今、企画段階と言ったが、それは間違っている。今や、企画決定の時だ。私はこの決定時にあたって、クラブ全体に責任を負う主将として、今年の新入生の体力、そしてクラプの中堅的存在である君達2年生の実力、また合宿前後におけるプライベートランヘの部員の意向などを考慮し、この企画に弱干の修正を願っているのである。それに、今年はESCAの夏ラリーもあり、それの準備にも合宿後に相当な時間がほしい。」
「しかし、あなたは言ったではありませんか。『クラブ・ランに支障をきたすぐらいなら、夏ラリーの主管は引き受けない方がよいのであって、我々クラブとしては、夏ラリーを引き受けてもクラブ・ランは全て今年の執行部の方針に従ってやって行くのだ。』と。」
(確かに俺はそう言った。そうあるべきである。しかし、事体は全てが遅れている。300人からの参加者で開催される夏ラリーの運営は、我がクラプの夏合宿の比ではない。今の段階では、準備がとても間に合いそうもない…。)
彼は主将の顔に苦渋が浮ぶのを見て、胸の内を察しながら、2年生会会長の方へ目をやった。まだ若いその顔には、オープンランの実行委員長として、そのイベントを成功裡のうちに終らせたという自信が感ぜられた。
初夏の三浦海岸で開催されたオープン・ランは、潮の香と、まだそれほど強くない陽の光に包まれ、日頃、山ばかり走っている我々にとっては、久しく感じることのできなかった安らぎを与えてくれた。
夕食までの一時を浜辺で過していた時のことである。波も静かであったためか、何人かの1年生が波打際を全速力で喜々として走っていた。跳ね上げる水を気にもせず、まだ冷たい海水に快さを覚えながら、自波が打ち寄せる浜辺で戯れているのである。彼は青い海と背後に自い砂の上でとびはねる後輩達の姿を見ている自分に、何故か不安のない寂しさを感じていた。
(確かに彼等には俺の持っていないある種の若さがある。あの躍動感、あの笑顔、あの白い歯。若さというよりは、無邪気さだろうか。俺も確かに所有していた、振り返って見れば最も甘美な時代を通り過ごしてしまったようだ。誰もが、 1度それを掴むと、一生掴み通していたいと思うものだ。
しかし、それは次の世代の者達のためにあり、俺はそれに縫るどころか、それから追い出さされてしまったようだ。今、彼等があれほど美しく輝いていることは、彼等自身にはわからないだろう。わかるのは、追い出され外に存在する者だけかもしれない…。)
彼の寂しさに不安がないのは、まだ自分は若いという安堵感だった。しかし、人生に絶対的なものがあるとすれば、それは老いることである。どんなに健康な者でも必ず持っている不治の病、それが老いである。人はこの世に生を受けた時から、死へと向い老いて行くのであり、人の一生は老いることである。そして、老いが不治の病いなら、人間の存在、生きていること自体が病いなのかもしれない。
「俺は企画局長として自信を持って今回の計画を立てた。俺は、今ここに居る誰れよりも走って来た。そして、その長いラン生活から得たすべてのものを集大成したものが、今回の夏合宿である。合宿の期間が長過ぎると言っても、例年よりも3日長いだけではないか。距離とか標高差など問題ではない。要は東北を征服できるかどうかだ。とにかく、俺の立てたコースを走破していただきたい。あの中部山岳、そして北海道合宿以上の充実感を必ずや味わえるはずである。」
「何故、今年は東北合宿なのか。」と聞かれれば、
「去年が北海道合宿だったからさ。」と答える以外に方法はない。
敢えて付加えるとすれば、「来年が山陰合宿だからさ。」ぐらいであろう。
我がクラプが夏合宿を、中部山岳、北海道、東北、山陰と周期的に行うことは伝統となっている。よって、今年の執行部の場合、1年時は中部山岳、2年時は北海道、今年は東北と既に決められていたのである。クラブ規約で成文化されているわけではないが、伝統的にそうなっている。別に疑間を感したことはない。何故、中部山岳を2年連続でやらないのかなどと思ったこともない。
それは、クラブに入る時の説明で夏合宿はそのように聞かされ、前達が執行部をとる時は東北だ。東北はいいぞお。と1年生の頃から洗脳されていたからだろうか。そして、企画局長にしても、 1年生の時より、「俺たちは東北で合宿を行うのだ。」と、東北合宿を目指してペダルを踏んできたのだろう。
窓の外の雨音に弾力が加わった。各校舎から4時間目の講義を終えた学生達が、傘にかくれながら出てきた。新入生が部室にあらわれ始めた頃、木々の葉は若々しく柔らかで、また、若葉を透かして見える太陽は優しさに満ち溢れていた。その陽の光を充分に吸い取った若葉は、浮き出るように揮いていた。今、それらは雨でしっとりと濡れ、湿った光を呈している。
しかし、夏の倒来とともに、これらの葉もその緑に黒味を増し、真夏の陽の光をはね返すほどに退しくなる。幹がしっかり大地に根をはるために光合成と同化作用を行い養分を蓄積するようになるだろう。1枚の葉も、りっばな木の構成員となるのである。
窓際で雨を眺めていた彼に、企画局長が歩み寄って来た。
「もうすぐ夏だな。」
「ああ、夏がくる。」
「1服、吸うか……。」
「ああ、すまん。」
湿気が多いためか、煙の拡りが鈍く感じられる。そんな煙の動きに目を細めながら、彼はヤニで黄色に染った指先を見つめた。
11号館209号室から見下すキャンパスには、すでに人影はなくただ、何時燈ったとも知れぬ外燈のまわりに、闇を背に照らし出された銀色の雨筋を認めることができるだけだった。
付記
5時間にもわたる 論の末、昭和56年度早稲田大学サイクリング・クラブ夏合宿は、主将の最終決断によって、クラブ史上例のない長くそして苛酷なものとなった。東北の山奥に黄色い影が次々と消えて行ったのは、それから半月も経たない頃であったろうか。
東北夏合宿(A班) – 武田
1981年度 東北夏合宿(A班) 政経学部 武田
〔プロローグ〕
どこかの渓谷で誰かが「ここは奥入瀬に似ているな。」と言った。しかし、やはりどこかが違っていた。あの奥入瀬の水の流れから感じられる涼しさは、ここからは感じられなかった。
地道、有料道路、海、山、湖、とあらゆる要素をぶち込んだ東北合宿は前例のない16日という長さでおこなわれた。青森から仙台まで縦横に走ったあの日々を思い返すと、もう1度、東北を走りたいと思わずにはいられない。
7/29(水) 集合前日
2時頃、青森に着く。駅前広場に集まっている黄色いユニフオームがやけになつかしい。やはり、みんなの顔を見るとホッとする。よく見ると、輪行袋に入ったままの自転車がある。
なんと川村氏はプライベートの途中でホークを折ったと言う。氏はJrスポーツ車のホークで合宿に参加という悲劇をむかえる。夕方、酒宴が始まる。プライベートの話でもりあがる。適度に酒がまわった頃、駅前テント村で眠る。
7/30日(木) 集合 燃える八甲田山! 30km/ 900m
夜行即輪組がやってきて、全員がそろう。9時に集合がかかり、テン割り、荷物を仙台に送ったりしてやっと出発式。通りがかりの人は驚きのまなこで我々をさけて行く。「こんなパカなこと、オメーラにはできねえだろう!」
今日のキヤンプ場までは、わずか30kmだが900mも登らねばならない。そして、この日の東北の太陽は狂っていた。東北は涼しいと信じていたのに初日から、うらぎられる。登っている途中、頭がクラクラしてくる。
照り返しの強い舗装をしわじわと登っていく。萱屋茶屋に着くと、木陰でグッたりしている。ちょっと体を冷したあと、名物のお茶をガプ飲みする。もっと休みたいという欲望もCLの「出発準備」の一言で、あきらめざるをえない。
トンポとたわむれながら、やつと酸ケ湯キヤンプ場に着く。ここの温泉は混浴だと聞いて目を輝やかせたが、オバさんにも会えず、萎える。
7/31日(金) 奥入瀬、十和田湖 47km/ 52m
8時にキヤンプ場を出発、1020mの傘松峠にあっけなく到着。ここから焼山までは下りである。しかし、この下りの途中で小野Cがカープで転倒、はやくも内田氏と戦線離脱である。焼山で小休上のあと、奥入瀬を班別フリーではしる。
途中、景色のいい所でとまって水の中に入ったりして涼しむ。道の両側に木が繁っていて道が陰になっているので、走っていて寒いくらいである。
十和田湖の観光船のそばで丸山氏が釣を始める。あれよ、あれよという間に2、3匹つりあげる。その後ほとんど峠に近い湖畔のアップダウンをくり返す。乙女の像のあたりで、みんなでおよぐ。
ここで武蔵女CCと会った運のいい人がいたそうだ。生出キャンプ場に3時半頃着く。
夜の学年別ミーティングの時、川島が「5年説」なるものを発表する。これは「小学生も5年もしたら食べごろだぜ!」という、川島らしいムッツリスケペな意見であった。
8/1日(土) めざせ八幡平 70km/1030m
キラキラとテントからさし込む朝日で目をさます。いつもは、大大キラいな朝トレも、こんな気持ちのいい湖畔の朝なら文句の出るはずがない。
気持ちのいい朝を迎えたあとは、すぐ発荷峠へのタラタラの登りである。展望台では十和田湖をバックに、さっそく記念撮影である。
花輪駅のあたりで大妻CCとすれちがつた人がいたらしい。私は無念にも昨日の武蔵女にも大妻にも会えなかった。グヤジィー。
谷川氏が合流。氏は合宿前にオバサンを1人ひき〇してきたそうだ。
この日も、狂った太陽に石をぶつけたいような暑さで八幡平アスピーテラインの入り口まででバテバテになる。そして料金所から大沼キヤンプ場までフリーラン。キヤンプ場は青虫のフンが空から降ってくる恐ろしいところであった。
8/2日(日) 八幡平アスピーテライン 46km/830m
これから烏海山までB班とはお別れである。お互いの健闘を祈リエールを切り、B班に見送られてアスピーテを登る。朝メシ前に突然登場したOB田中氏がA班に入ってくださる。フリーランの終点、見返峠で昼食後、八幡平を散策。
案内板を見まちがえて、えんえんと湿地帯を歩く。ところどころ水がかれてしまった沼があり、花がまれたりしていて残念に思う。峠からビーツを下る途中、谷川氏がガードレールに激突。
それ以後、包帯を足に巻き、医者がよいをしながら合宿をすごすはめになる。焼け走リキャンプ場は名の通り、ひたすら走らなければつかないキャンプ場であったが、夜は地元岩手の中学生と楽しく遊ぶ。自分たちは中学生と大してレベルが違わないと気づき愕然とする。夜、暴走族が来たのを鈴木が追っ放ったと言っているが、これはウソで、鈴木が何をしなくても族は帰ったということである。
8/3日(月) 本日 休養日! 64km/Om
標高差Om、ウソのような、デタラメである。盛岡で入院していた小野Cと内田氏が復帰する。久光氏もやつてくる。1年はサ店で手紙を書くが先輩諸氏はわんこそばを食べにいかれたのでその記録を記す。
1位 山崎氏‐150杯、
2位 上田氏 – 80杯、
3位 浜田氏 – 70杯、
4位 宇野氏 – 67杯、
5位 OB田中氏 – 57杯、
6位 久光氏 – 56杯、
7位 生田氏 – 44杯
やはり、山崎氏の胃袋は人間のものではない。あれだけ食べてもケロツとしている。その点宇野氏は道端で死んでいたそうである。
この日はキヤンプ場は水がチョロチョロとしかでないため、汁ナベの数をへらすことになる。しかもなべあらいもできなかった。
しかし無断でバンガローにとまる。この夜、某氏が寝言で「サパ缶でいいスよ!」と言ったそうだ。合宿の影響力はおそろしい。
8/4日(火) 大迫町 – 河原ノ坊 3lkm/900m
これからA班は前半のピークである早池峰山をめざす。朝から天気はぐずつきぎみであまリパッとしない。大迫からじっくり登って行く。早池峰神社のあたりで昼食をとる。昼食後フリーラン。
キャンプ場の手前から全体で走る。バンプでは河原ノ坊キヤンプ場は悲惨をきわめていたが、設備はととのっていた。夜、雨が降り出しどのテントも水につかる。
これからA班は雨の降らない日はないと言えるような生活を迎える。久光氏はヒザに水をためて翌日帰ることになる。
8/5日(水) 小田越 – (日本のチベツト)荒川牧場 58km/780m
荒川牧場は約15kmの間、人に1人として会わず家も1軒もなく、牛が数頭いるだけである。牧場も北海道のものとは違い、小さなこぶのような丘がえんえんと続いている。さすが日本のチベツトとよばれるだけのことはある。
朝8時すぎに出発、すぐに小田越につく。朝から雨である。
そして牧場の中をどこまでも続く道を走った。しかし1班がダートでバンクを連発し、遅れていたのだ。2班のサプCLの私は途中の分岐でなんと1時間半も待つはめになる。その間、 1人の人間にも会わなかった。
そのため1班と私は前の班に追いつくためコースを変更し国道を遠野経由でファストランした。しかし、その頃本コースを行った2、3班は通行止めでUターンして、やはり遠野経由できたため1班の方が先にキャンプ場につくことになる。そして、この日のキャンプ場は忘れもしない「東和町憩いの森キヤンプ場」。
このキヤンプ場への上りは、みごとなジャリ道でフリーランが1回できるほどだった。そしてUターンの責任を感じた宇野氏は10㎏の米を1人で持ち、このダートヘ挑んだが…。だが「憩いの森」の恐怖は、まだ始まったばかりであった。
8/6日(木) 8/7日(金) 班別フリー 1)夏油 2)横手 3)湯田
A班は、7日の1時に横手に集合するまではどの班もまったく自由なコースを走るという形態の班別フリーをおこなった。
3班は、湯田にテントをはり、夜温泉に行って、ベスト10を見てひさびさに文化にふれて感動していた。西川がおばさんに、ほれられたという話もここからはじまった。
2班は本コースの夏油温泉ヘ向かう。バンフには51km、300mとかいてあるが、どんなに登っても温泉につかない。やっとたどりついたキヤンプ場は猫のひたいのような広さで水もでない。仕方なくホテルの裏にテンパる。
夕方、温泉に行く。川原や洞窟の中に温泉があり、のぼせるまで湯につかる。翌日の本コースの地道を走っては集合の時間に間に合わないと判断し線秋湖測いのアップダウンを走り横手に12時すぎに着く。
1班は、国道をひた走りに6日の夕方には横手に着き、SLのある公園でテンパつた。そこで小野C君は、トイレに財布をおとしたと騒ぎ、クソを棒でまわしたそうである。
横手に3班が無事集合する。OB田中氏は会社を無断欠勤してまで参加して下さったが、ここで帰られる。こうして、この日のキヤンプ場は、またもや「雄物川町 憩いの森キヤンプ場」2班は、ひと山越してから道をまちがえたのに気づき、ひき返し憩いの森、いや「怒りの森」を目ざす。地道と舗装の15%がえんえんとつづく。上についたときには陽が沈もうとしていた。
8/8日(土) 59km up down 象潟
この日はA ・B班合流の日であり、しかも泳げるということで、いやがおうでもペースはあがる。
1時にはキャンプ場に着くと、無情にも雨が降りはじめ泳ぐのはあきらめる。降りしきる雨の中、こわれたバンガローの中で、じっといじけている。まさか、B班があのような目に会っているとは知らずに。
そして4時すぎOB松森氏が雨の中登場。B班の苦戦を知リテントをあきらめ海の家にとまることにする。A班のみでカレーをつくる。6時、びしょぬれのB班がやってくる。彼らのキラキラした目に嫉妬を感じたのは私だけではないはずだ。さて明日鳥海山。
8/9日(日) 42km/1260m 鳥海山大フリーラン大会
朝、雨は降っていない。日の前の鳥海山はあまりにでかすぎて全体の形をつかめない。
トレーニングはB班を意識して、いつもの倍くらいランニングをする。この夏合宿のハイライト、鳥海ブルーラインがやってきた。誰もが緊張の色をかくせず、いつもはしない自転車整備などしたり、テントの重さに一喜一憂している。料金所に全部の班が着く。胸が高まるのがわかる。
「1年集合!」
20人あまりの1年がならぶ。スタートのかけ声と共に一勢に飛び出す。
これから約1時間半もの間、平均勾配10%、標高差1100mという長い戦いがはじまる。
ハンドルのプレーキレパーのところをにぎりしめてペダルをまわすというより、右左右左とふんでいく。
ふくらはぎが痛くなり、次に腰が痛くなる。1時間も走りつづけて、この痛みを通り超すと標高は1000mに近い。前に走る人を目ざし、ひたすらペダルをふむ。頂上のレストハウスの前に50台もの自転車がならぶ。異様な風景だったろう。あとからくる人に声援がとぶ。てっぺんでは、いつものように大撮影大会である。
そして、下りは、いつものようにあっけなくおわる。吹浦のキヤンプ場では、きのう泳げなかった分、泳ぐ。名誉のため特に名はふすが某主将は遊泳区のブイを越え、あやうくおぼれ死にそうになりOB松森氏に助けられたそうである。高橋Jr祖父急逝のためリタイア。「紺碧」で送る。
8/10日(月) 58km/100m 羽黒山
またA ・B班が別れる。今日は鶴岡まで個人フリーである。勝手なペースで海岸線を走る。羽黒山のキヤンプ場で食事がおわったころ小野さんがあらわれる。「やあ…なにか食べる物はないか? 」
8/11日(火) 47km/1020m
今日めざす月山は夏でも雪がある。朝日村までアップダウンを繰返す。ここからTTが開始される。3年会では永山さんだけが知らなかったとか…。
大越峠までのはずだったが分岐があるため有料道路の入口までになる。内田さんはTTの途中クラプのカンヅメをおとし、見捨てて行こうと思ったが責任を感じカンヅメをひろいに引き返したそうである。
結果は、 1位水野氏、2位浜田氏であった。月山のキャンプ場はマキがなく枝をひろいにいくが、雨にぬれていて火をつけるのに四苦八苦する。あまりに雨がひどいので無人のキヤンプ場の管理人室で眠る。
8/12日(水) 73km/800m 峠3発
地蔵峠はなんなくパス。しかし山ぶな峠への地道は前日の雨と道路工事のためウンコ道となり10m走ってはホイールから土をとるという始末。鳥渕の自転車などは、まったく動かなくなる。3発目の孤越峠は、地元の人に聞いても廃道になったとかで、まったく道をみつけられず、迂回路をとる。蔵王の駅で水野氏が帰られる。本当にリタイアが多い。
駅から明日のぼる蔵王の山々が見える。最後の大きな壁である。古竜湖キヤンプ場へのぼる道も地道をまぜたハードなものであった。とにかくキヤンプ場につくまで油断禁物である。食当が油を買い忘れたので、わざわざこの道を下って下の町まで買いに行ったそうだ。ごくろうさま。
8/13日(木) 55km/1880m 蔵王
蔵王 これさえ越えれば、もう終ったも同然である。キャンプ場を8時半に出て10時に蔵王温泉、そして有料道路に入り、ひたすらのぼっていく。誰も口をきこうとせず、ひたすらペダルをふむ。
そして最後のフリーラン、B班連中は懐にかくしておいたリポDをのんで力を入れる…さて結末は?
ゆるい勾配をグイグイのぼっていく。やっとの思いでレストハウスにたどりつき、そこからリフトで御釜へ行く。誰もがもう合宿は終ったかのような浮かれ顔である。
快適な下りを楽しんだあと遠刈田温泉へ。ここのキャンプ場はつぶれていたので神社に頼み込んで、やぐらで寝る。夜、温泉に行こうとすると今日は夏祭りである。思わず参加して「ホーイサッサ、ホイサッサ」と踊りだす。
みんなが参加して黄色いユニフォームが街中をねりあるく。そして、あの特別賞をもらったときの感動!本当に燃えた夜だった。ところで、あの賞品の1升ビンはどこへ行ったんでしょう。
8/14日(金) 4lkm up down 夢の都 仙台!
ついに夢にまで見た仙台。朝、茅野氏が突然登場する。仙台に1番のりをどの班もめざす。そして、やっとたどりついた仙台はコンパの都であった。
駅前でわざと目立つように、「校歌」「紺碧の空」を歌う。
追伸
板にのった田中君、日をギラギラさせた西川君、あの仙台の夜も、今では時々思い出すくらいです。でも、僕にとって初めての合宿は、キャンプの楽しさと、日本の広さを教えてくれました。
今度、仙台に行ったとき、ミスカリーナ嬢に会えるのでしょうか?でも、そんなことには関係なく、もう1度、東北に行きたいですね。
東北夏合宿(B班) – 永井
1981年度 東北夏合宿(B班) 理工学部 永井
7/30日 30km/900m 晴 カレー
色とりどりのテント、自転車が立ち並ぶ青森駅前に、青森市民の奇妙な視線を気にとめる事なく、約50名の黄色いユニフォームをまとったWCCの部員が集合していた。天気は、合宿初日を祝うかのようなすばらしい晴天であった。
例のごとく、主将の樋ロさんをかこみ、丸い輪になって校歌などを歌い、全体写真などを撮って、11時に出発した。車の多い市街地を走り始めるやいなや、1年の名和氏がものすごい音と共にバーストしたが、これはこれから合宿中のメカトラの多さを予感させるものであった。
たらたらの登りが始まると、雲1つない空にある太陽からの強烈な日差しをまともに受け、部員はみな頭をボーッとさせながら、必至に「今日のキャンプ場の風呂が混浴なのでかわいい娘が」、とそればかり
頭に浮べて走っていたようである。
酸ケ湯キャンプ場に着くと、テントを張り、夕食をつくりながら、手のあいている者から、順番に連れ立って淡い期待を抱いて浴場へ向ったが、期待はもろくも壊れ去り、ピチピチギャルは皆無であった。
まだ明るいうちになごやかに夕食をとり、その後ミーテイングを行ない、9時に寝たのであった。とにかく、今日みたいなギンギンガンガンの天気に合宿中何度となくあうと思うと、テントをつんだ1年の命は保障されないのでは?と思うのでありました。
7/31日 47km/520m 晴 ブタジル
「起床!」の声と共に、テントからはい出ると、青空が日の前に広がり、今日も「ヤルゾー」と気が引きしまり、トレーニングにも力がはいるのであった。
8時に出発し、100mちょっと登ると傘松峠であり、睡蓮沼で休憩した。ここは八甲田山のすばらしい風景が見渡せ、ナルシ写真を撮る部員があいついでいた。
ここからのくだりで小野C氏(当時)が、砂にタイヤをとられ溝に落ちるという大事故に合い、自転車が大崩壊してしまったが、小野C氏と、諸先輩方々の多大なる努力により、2 ・3日後にA班に復帰できた事は、喜ばしい事であった。みなさん、下りでは、とにかく気を引き締めていきましょう。
奥入瀬では班別フリーとなり、泳ぐ者もいればアンノン族のいる遊歩道を押しかつぎする班もあり、はたまた十和田湖の展望台で、ギャルと一緒に写真を撮る班もあり、各班十分に楽しんでいたようであった。
又1年の北畠氏の水着姿は、日頃から「キンニクマン」「デストロイヤー」と言われているのを
証明し、3年の諸氏は、サンオイルを体中に塗り湖畔でナルシッテいるのであった。
8/1日 70km/1030m はれ ハッポウサイ
この日は、8時に出発し、十和田湖のすばらしいながめが見える発荷峠へ向った。発荷峠の展望台では、4班の2年林氏のシャフトがおれているのが発見され、又、花輪へのくだりの途中で4班の3年北原氏の4回ものパンクがあり、このころから「メカトラ4班」とみんなからばかにされ、遅れるのであった。
発荷峠からの下りで、大妻のサイクリングクラプが登ってくるのと出合い、こちらは下りなのでニコヤカにあいさつをしたのに、むこうは必死に登っているらしく、たいした返事ももらえなく、
「なんてあいそうがわりいプスめ」と思ってくだった部員が多いようであった。
アスピーテラインの料金所からは今合宿始まって最初のフリーランが、メカトラ4班を見捨て行なわれたが、みんなギンギンガンガンに登っていたようであり、すぐに終り、キャンプ場についた。
8/2日 B班 66km/905m はれ スキヤキ
今日からA、B班に別れる事になり、出発前にエールをきり合ったりし、我がB班は、A班がアスピーテラインを登っていくのを見送り、その後、A班と反対側に出発するのであった。
この日も下って上って下って上ることを繰り返し、田沢湖を横目に見ながら柏山から乳頭温泉まで、最後の600mを登り始めるのであった。
この登りでは、合宿初日からの天気も最高頂に達し、ギンギンガンガンと降りそそぐ太陽光線は我がB班を丸焼にするがごとくで、みんなフラフラと登るのであった。
途中、3年の沖広氏が今日の途中参加で、みんなよりも先にキヤンプ場について、すずしい顔してタバコをすってまっている予定でいたらしいが、運悪く登りの途中でチエーンをブッちぎり、直している所をみんなにみつかってしまい、なんともいえない顔をしていた。
又小野B氏(当時)は、キヤンプ場の手前のカープで、コケてしまい、半身を血だらけにして、それ以後風呂に入れないというみじめな状態に落ちていくのであった。
夜は夜で、全体CLの我が6班の岸氏が、青虫だらけの所にかのBテンを張られ寝る事になったが、やはり青虫と寝るのはいやらしく、力道山パワーを爆発させ1人でBテンを移動させるのであった。
8/3日 74km/1160m はれ すき焼
今日は、地道の国見峠へ行く予定であったが、残念な事に時間の余裕がなく、下のトンネルを行くことになったが、トンネルの手前から、はるか上にみえる国見峠への道をみると、内心みんな「助かった」と思っていたようである。
しかし、本当はそんな事を考えてはいけないのであり、我が精鋭6班は、磯野氏を班長とし、トンネルを、ワセダファイトでのりきるのであった。
雫石から岩手山への登りは、みんな快調で、なんなくついた。ここらあたり一帯は、かのバンダイ号(飛行機)がつい落した所であり、まだ収容されない遺体が残っているということで、夜には、霊感の働くネコこと林氏が1人上級生からかわいがられるのであった。
8/4日 51km/380m くもり/雨 スブタ
今日は岩手山から小岩井有料道路を小雨の中、小岩井牧場へと下った。我が6班は、CLの岸氏が、愛車をキシキシ、キシキシ音をさせながらごうかいに班員をブツチギリ下っていったが、それは唯一の岸氏の楽しみであった。
いやもう1つ楽しみがあった。それは、A班の生田氏と出会い、「ジジイー」 と言い合ったことであった。小岩井牧場では、100円でしぼりたての牛乳を大ジョッキで飲みほうだいと聞いて、みんな期待に胸ふくらませていたが、なぜか、四角のプリックパックしかなかった。
雫石まで下りきって休憩をしていると、ミニラこと小野B氏が、突然、主将の樋口さんに「ヒグチサーーーーーン、サイフ牧場に忘れてきました!」
と、それ以後みんなにまねされる「みじめ」な言い方で言ったのであった。それから2人は、今下ってきた道を又、500mの高さ分もどって行くのであった。その時のミニラ氏とヒグチ氏の顔はなんともいえない表情をしていた。
それから我がB班は、たんたんと走り、5万図で実線の峰越峠と向うのであった。ここではフリーランが行なわれ、みんな恐怖におののいていたが、実際壮絶な戦いであった。ある者は、タオルをふり回し、
ある者は、片手で走り、又ある者は、スプレーをふりかざしていた。
これは、実はアプの大群との戦いであったのである。とにかくすごいアブで、殺しても殺しても次々やってきて、スピードアップしてもやってきて、それはまあすごいものでした。
今日のキヤンプ場は、野外活動センターで、すばらしく、早くついたので、湯水中学の母親達とパレーの試合をやったり(ザン敗)、夜は夜で、中学生のキャンプファイヤーに入れてもらい、楽しんでしまった。
とにかく湯本中学のあの女の子には、みなさん驚きましたね――。メシも肉の多いスブタで、みな満足していたようだが、翌日、いつもの倍の値段、金を請求された。
8/5日 5lkm/530m くもり/雨 焼メシ
朝から500mの地道を登り、中山峠についたのはいいが、ここからが、私のドツボの始まりであった。この下りは、深いジャリのたらたらくだりで、私は何度となく左側の草むらにころげおちた。
ただ1回こけるのではなく、さらにもう1回、今度は頭を支点にして、草むらの奥底へころがりおちていくのである。私の後を走っていた徳味氏によると、永井が前にいると見て、そして、自分で必死になってこぎ、ふと前をみると永井がどこにもいなくなっているということが何度もあつたということであった。とにかくここでは永井ストップがたびたび出て、みなさんを楽しませてしまった。
しかし、結局は、メカトラ4班では、北原氏と土橋氏がバンクをしていたので、最後尾を走るようなことにはならないのであった。この日は、午後から台風による雨、風になやまされたが、なんとか、テントを張り、メシを食べたのであった。こういう時の3年生のテキパキとした動きには、感心させられるのであった。
8/6日 53km/1500m くもリ ゴモクメシ
ひよっとしたら今日はB班にとって1番長い日となるのであったが、明日の休息日を夢みてみんなは、4時起きして、6時半すぎに出発するのであった。
出発前のひと時、雨あがりの朝に、すばらしいニジを見たことは、我々の心に深い何かをのこし、我々の明るい明日をものがたっているようであった。
朝から深ジャリの蟻巣山越へ向ったが、ここでも、深ジャリを弱点とする私、永井氏は、何度となくたおれそうになりながらも、みんなの声にはげまされながら、登ったのであった。
この峠では人1人出会うことなく、上からは、我々がめざす鳥海山がはるかかなたに見え、ここからまだまだ上り下りしながらだんだんと近づいていくのだと思うと、みんなの胸には何ともいえないものがうかんでくるのであった。
栗駒山へのフリーランスタートまえに、磯野氏のシャフトがおれていることが発見されたが、なんとかなり、みんながんばり、キャンプ場についた。その夜は山の頂上付近で、とても寒い夜であった。
8/7日 50km/ 110m はれ
この日は朝から班別フリーで、小安温泉などをめぐりながら湯沢の街へ向った。ここで特筆すべきことは、丸山氏を班長とし川村氏、名和氏、松広氏による栗駒山調査隊が結成され、別行動をとり、多大な成果をあげて湯沢に到着したことであった。
この夜は、湯沢のたなばた祭で、我々、黄色い無気味集団は、夜になると、街にくりだし、大手をふって、祭の真ん中をかっ歩するのであった。
8/8日 94km/570m はれ/くもり/雨
夜には、別々に走っていたA班に会えると、みんないきようようと出発し、全面通行止の松ノ木峠を押し担ぎして、ガッツでのりきり途中から雨がふりだしたが、合流地の鳥海山のふもとの日本海へと向かった。
この担ぎの途中で、後から松森氏がいせいのいいかけ声と共に担ぎ走ってきたことは、我々現役を実に驚かせた。ひさしぶりに会う、A班の連中をみると、みな目がいきいきとしていて、声をかけてむかえてくれるので、つかれもいっきにふっとぶようであった。夜は、これまでのいろいろな話で、もり上がっていった。
8/9日 42km/1260m はれ ごもくめし
波の音で起きた我々は、鳥海山の有料道路で行なわれる大フリーラン大会に向けて出発した。この日は、とにかく晴れわたり、我々は、自分との戦いにうちかつべく、10%の上りに、キャパシティーの限界まで、アプローチしていた。走り終った後のみんなの顔は、生き生きとしたすばらしい顔で、なんともいえなかった。
終ってしまえば、あとは下るだけで、みんな日本海に向けて爆走していった。キャンプ場では海辺なのでみんなで泳ぎ、某主将は沖にでておばれそうになり、みんなに助けを求め、救助されたのであった。この夜、 1年の高橋Jr氏が、家の不幸によリリタイヤすることになったのはとても残念であったが、その後、同じコースを1人で走った彼は、すばらしいWCCの1員である。
8/10日 43km/0m はれ 肉ジャガ
今日から、又A ・B班が別々となり走りだすのであった。我B班は、今日は楽勝日なので、途中でコース変更を行ない、地方都市である新庄へと向かった。久しぶりにかぐ、町の臭いに何ともいえないものを我々は感じ、その夜は、スポーツセンターのすみにテントを張ってねた。
8/11日 6lkm/O m くもリ チンジヤオロース
今日も、楽勝日のため昨日と同様コース変更し、松尾バショウが行った山刃伐峠へ行った。なんとなくすぎた1日であった。
8/12日 54km/O m はれ ハツポウサイ
今日の夜、A班にまた会えると思うと、うれしさがこみ上げてきて、がんがん走る1日であった。途中、山寺へ行き、みんなで何百段もの階段をのぼり、約200mも標高をかせいでしまった。すばらしいところであった。
山形駅に途中より、キャンプ場への最後の登りにさしかかった時、20%の登り坂についにチエーンがたえきれなくなり、名和氏のチェーンは切れてしまった。
そこへ、後からやつてきたA班がおいついてきて、なんともいえない出会をし、我班は20%もの道を必死に登るA班の姿に感動するのであった。
8/13日 55km/1880m はれ カレー
今日は、最後のヤマ場であった蔵王の御釜をめざし、我々はたんたんと上り、最後のフリーランでは、生田氏を初めとし、みんな気合を入れて上ぼっていた。
レストハウスから、みんなで、リフトで御釜へ行く。おきまりの写真撮影をし、遠刈田へと下っていった。北原氏は、遠刈田でみんなの前にストツプすると同時に、メカトラ4班の名を高めるべく14回目のパンクをして、笑いをかったのであった。
その夜は我々は、遠刈田のぼんおどりに参加し、特別賞をもらったのであった。
8/14日 4lkm くもり
ついに最終日がきた。仙台駅に次々と到着する黄色い真黒に日焼した集団は、合宿をのりきった自信、ほこり、満足感などをそれぞれの胸にしめて、歌をうたうのであった。その時「あ―このクラプに入っていてよかった。サイクリングバンザイ!」
と私は思ったし、みんなも思ったであろう。それから、コンパ会場のホテルヘ向い、騒ぎまくり夜の街へとみんな向ったのである。
千秋楽 – 北原
千秋楽 商学部 北原
モンブランを背にシャモニーを後にする。厚くたれこめた雲は今にも泣き出しそうだ。今日は、いよいよ千秋楽。ジュネープに突入する日だ。
思えば長い道のりだった。雑誌で見たスイス、サンタゴール峠のすばらしさに感動し「俺もいつかは行ってやる」と誓って6年目。ようやく実現した旅だ。金策に走り回り12時間ぶっ通して働く毎日が続いた。
1枚3,000円もする地図を何枚も買ってコースを検討した。必要書類も揃えた。航空券も買った。死んでも大文夫な様に5千万円も保険を掛けた。
今はまだフランス領を走っている。案外知られていないがシャモニーもフランスなのだ。ジュネープまでは広い谷間のアップダウンだ。川沿いに下って行って街に入るちょっと手前で国境を越えるのである。ジュネープに着いてもいっぱいやることがある。荷物の郵送、飛行機の再確認手続き、宿の確保。決して気を抜けない。
日本を飛び立ったのが7月25日。モスクワ経由でパリに入った。自転車が無事に空輸されたのを確認した時、正直な話ホッとした。
汽車でケルンに入る。いよいよ出発だ。ライン川沿いにさか上り、ローレライ、丘陵地帯、黒い森を経て国境を越える。あこがれのスイスである。
チューリッヒ、ルツェルン、グリンデルワルド、そしてサステン峠にサンゴダール峠。地図に描いた道を自分の足で書き換える。その自然のスケールにどれだけ感動したことか。
アルプスを越えイタリアに入る。これでも先進国かと思われる農村地帯を走り抜け、再びシンプロン峠をこえスイスヘ。ツェルマットでマッターホンを仰ぎマティグニーを経てシャモニー入りしたのであった。
ポツリポツリと降り出した。やがて土砂降りになった。真夏とは言え山の雨は冷たく突き刺さる。やがてパンツにもしみてきた。走りながら考える。「俺はなぜここを走っているか…。」と。
クラブ内でも軟派を自称する自分にとっては出来過ぎである。日本国内もロクすっぽ走ってないクセに海外などとは生意気にも程がある。正にその通りだ。しかし俺の価値観はそんな考え方の外にある。
俺は大学時代に何か大きな事をやり遂げたかった。少々じじ臭いが自分が父親になった時、「とうさんは学生時代こんなことをしたんだ!」と誇れる何かが欲しかった。ヨーロッパ自転車旅行は自分にとって正にそれだったのである。
いつのまにかスイスの国境ゲートを越えていた。パスポートを懐に入れた後、残された数kmを頑張る。雨は最高潮に達した。目があけてられない程だ。レマン湖が見えてきた。だんだん迫ってくる。湖畔を抜け丘を登り切った所が終点、コルナバン駅だ。剛有余キロを走破するまであとちょっとだ。「俺はやった!」という充実感と「もう終わってしまった。」という虚脱感の交錯する中、俺は走り続ける。
もうすぐゴールだ!
ミニラ氏の異常な体験 – 小野
ミニラ氏の異常な体験 理工学部 小野
それはミニラ氏が大学2年を終えた、3年になるときの春休みのことでした。ミニラ氏はそれはそれは奥深い、九州の山中を走っていました。野を越え山を越え、また山を越え、いくつもの川を渡り何度も険しい道のりをへて、誰にも走れそうにないサイクリングをしていました。
お金のないあわれなミニラ氏は、冬で幾日も雪が降るというのに、重装備の上にテントを持ち、たったひとりでキャンピングをして、もう何日も走り続けているのです。貧しくともサイクリングに向けられた情熱だけは、彼の心の中で赤々と燃え続けていたからなのでしょう。
ミニラ氏が走り続けて、もう何日もたつたある日のことです。その日もいくつもの峠を越え、夕暮れに近いたときでした。きょう最後の峠にたどりつき、ひと息いれて峠から下を見おろした時のことです。そこには、何かしら村が開けていました。ミニラ氏はさっそく地図をひろげてみましたが、その村は載っていません。とにかくミニラ氏はその峠を一気に下り、村へ行ちてみることにしました。
村のはずれの、森の中の湖のそばにテントを張り、日が暮れるまでに食糧を村に買いに行くことにしました。ミニラ氏はその時にパツテリーライトの乾電池を買うことも決して忘れませんでした。
村へいってみると、たくさんの人が街頭で夕食の買出しをしています。ミニラ氏は、たべるだけの食べ物を街頭で買ったあと、電池屋に行きました。
「乾電池を3つください。」
ミニラ氏がそう言うと、中から神秘的な、美しい娘が出てきました。
「はい。」
娘は、快よく返事をしミニラ氏を見ました。
ミニラ氏が乾電池の代金を払うと
「あなたはこの村の者ではないでしょう。どこから来たのですか」
と娘は言いました。
「僕は東京から来ました。自転車でずっと旅をしているのです。
いったいここはどこなのですか。見たこともない聞いたこともない不思議な村だ。」
とミニラ氏は言いました。
「ここは△〇村といって、誰にも知られていない日本でただひとつの有名な村なのです。」
「知られていないのに有名だとは、なんと不思議な村なんだろう… 」
とミニラ氏はひとりつぶやきました。
そういえば、旅の前に△〇村という伝説の村が九州の山奥深くにあり、まだ誰も訪れたことがない、村を見つけた者は二度と帰ってはこないのだ、という口伝いに聞いたことがあるのを想い出しました。
娘は言いました。
「きょうはどこへ泊まるのですか。」
「きように湖のほとりの広場でテントを張って泊まるのです。」
ミニラ氏がそう答えると、娘の目が一瞬、キラリと光りました。娘の怪しげな瞳…。
「では、夜になったらあなたのテントにお弁当を持っていってあげましょう。」
そう娘は言いました。ミニラ氏はその美しい娘の電池屋を出ると
「伝説の話といい、美しい森や湖といい、それに美しい娘といい、
何て不思議な村なんだろう。よし、 一部始終をあの娘に聞いてみよう。」
とつぶやきました。
夜になりました。あたりは真暗です。やんでいた雪がまた降りはじめました。ミニラ氏はテントの中で寝袋にはいり、それでも眠らずあの神秘的な娘を待っていました。すると娘はやって来ました。
ミニラ氏は言いました。
「ここへ来た者は、二度と帰ることができない、というのは本当なのですか。」
「はい。それは本当なのです。この△〇村へ入り込んだ者はみんな出ることができないのです。」
ミニラ氏は言いました。
「どうしてなんだい?じゃ、僕もこの村から出て行くことはできないということなのかい。」
ミニラ氏は日の前の美しい娘を見ました。雪のように白い肌、とりたての苺のように真赤な唇、肩までたらした黒髪、澄みきった瞳それでいて、どことなく深い悲しみをたたえている瞳。本当に神秘的です。
ミニラ氏はその美しさに見とれていました。そして、自分がこの村にくるまでに走った出来事、
自転車で日本中を走ったこと、富士山、乗鞍、鳥海山、浅間山、大山…、さらに自分のサイクリング仲間のこともすべてその娘に聞かせてやりました。
直立不動、感性の小林少年のこと、徳味に影響を与えた川島のこと、いぶりちぐさ西川のこと、早大CCにはエレフアントマンもいれば、牛も1匹いること、すべて娘に聞かせてやりました。外は静かに雪が降ちています。
娘は言いました。
「なんてすばらしいお話しなんでしょう!」
あなたのお話を聞いていると、私の悲しみはすべてどこかえ消えてしまうの。私は本当はこの村の者ではないのです。」
「じゃ、僕と同じようにこの不思議な村へ迷い込んで、それで二度と出られないでいるのですね。」
「そうなのです。私はある魔法をかけられて、迷い込んでからもう何年も閉じこめられたままなのです。」
ミニラ氏は、なんてかわいそうな娘なんだろうと思い、どうすればその魔法を解くことができるのか
を聞いてみました。
娘は、
「この村に迷い込んだ男の人に愛されれば、自分の魔法は解けるのです。あなたは私がいったい何才だか、おわかり?」
「まさか、何百年も前に迷い込んだんじゃ…。」
「そうなの。私は何百年も遠い昔に迷い込んだの。100年という年月が、どんなに長いかあなたにわかるかしら…。」
長い黒髪をひとゆすりし、娘は言いました。
「私を愛してくださる…?。」
首をかしげて娘は微笑み、ミニラ氏を見つめました。娘は真剣でした。しかし、そのまなざしは次第に悲しみの色に染まっていくのでした。何百年も閉じ込められていた深い悲しみの色、ミニラ氏は目の前にいる娘がいとおしくてなりませんでした。
「私を愛してくださる…?。」
2人は抱き合っていました。その娘の体は片腕で抱いても折れそうな位に細いのでした。娘はミニラ氏の暖たかな体に抱かれています。娘は幸わせでした。この一瞬の幸福のために何百年も待ったのですから…。
娘は細い腕で力いっぱいミニラ氏を抱き締め、ミニラ氏の分厚い胸に顔を埋めました。
「私を愛してくださるのね、本当に…。」
2人は愛し合いました。悲しみの色と同じくらい深く、激しく…。外では粉雪がいつのまにか猛烈な吹雪に変わっていました。
「私はもう行かなければならないの。」
と娘は言いました。
「どうしてなんだい?。もう魔法は解けたしゃないか。僕と一緒ににこの村を出よう。さあ、2人で旅をしよう。」
とミニラ氏は娘に言いました。でも娘はうつ向いたままでした。
「あなたと2人で旅をしたい。私を本当に愛してくれた人と2人でこの村を出たい…。でも、それはできないの。ああ…、もう時間がない。」
娘は続けて言いました。
「これを首にかけて眠りなさい。そうすればあなたはこの村から出られるのよ。」
そう言って、ミ二ラ氏の首に銀色のネツクレスをかけました。
「自分の魔法が解けると、私は本当の年齢の姿にもどってしまうの。私を追わないで…。」
娘はミニラ氏をみつめました。
「できるなら、あなたと旅に出たい。さようなら…。」
そう言うと娘はテントを飛び出しました。ミニラ氏は後を追ううとして、自分もテントを飛び出しました。
外は、激しい吹雪です。あたりは一面雪の幕に包まれています。ミニラ氏は娘を追いかけました。
ピユウ…ヒュウウ…
「こないで…、私を見ないで…。」
そう言って娘がふり向きました。その時のことでした。
「あっ。」
娘は、何百歳という肉体に戻っていたのです。
そして全てが粉々になって、それは激しい吹雪にまき上げられ、暗やみに吸い込まれていったのです。ミニラ氏は確かにそれを見たのです。でもどうしても信じることができず、疱然とその場に立ちすくんでいました。吹雪はさらにその威力を増し、もうほとんど両目をあけていることはできませんでした。
「お―い。」
ミニラ氏は力いっぱい娘を呼んでみました。
ヒユウウ…、ビユウー…
と吹雪が答えます。
「お―い。」
ミニラ氏は、ありったけの力をふりしぼって暗やみに叫びました。
ピユウウ、ヒユウウウ…。
ミニラ氏の叫び声は、やはりむなしく暗やみに吸い込まれてしまうのでした。聞こえるのは吹雪のたてる不気味な怪音のみだったのです。
ミニラ氏は朝、その大きなETの目を覚ましてみると、もう昨晩の激しい吹雪はやんでいました。テントの樽からは冬鳥のさえずりが聞こえました。テントの内から出てみると、あたりは一面、銀世界です。ミニラ氏が生まれて始めて見るような美して雪景色でした。でも、不思議なことにきのうまであった湖がありません。村に通じていたはずの小道も消えているではありませんか。
ミニラ氏には何が何だかさっばりわかりませんでした。出発の用意を済ませて走り始めたミニラ氏は、次の峠に登りつめもう一度、村の方を振り返ってみたのです。
でも、そこには一面の森が雪わたぼうしをかぶって、太陽の光線をまぶしいくらいに反射しているだけでした。きのうミニラ氏が確かに見た村は、もうどこにも見あたりません。空を仰いで見ると、そこには透けるような冬の青空が広がっていました。
ミニラ氏は峠で森を見おろしながら、あの娘のことを想い出していました。ミニラ氏は娘のことがかわいそうでなりませんでした。
春がもうそこまで来ているというのに、娘は消えていったのですから…。
何百年も閉じこめられていた深い悲しみの色、昨夜のことが幻であろうとなかろうと、あの美しい娘を愛したミニラ氏の心は本当でした。そしてミニラ氏の掌にはあの美しい娘の柔らかな妓の感触と、彼女の暖かな体温だけが残っているのでした。
遠くまで広がる青空。北から吹く乾っ風は冷たいけれども、太陽の光を背にうけてミニラ氏はただただ何かを求めて走り続けるのでした。もうすぐ春はやって来るから…。
学生の会昇格への過程 – OB 5期 品田
学生の会昇格への過程 昭和43年度(4年)卒 品田
今回、小野君から峠の原稿を依頼され、さて何を書いたらよいかと大いに迷った。それは私の在学した昭和40年から44年が昔に思えて忘れてしまったのではなく、クラプでの4年間の出来事がすべて昨日の事のように頭に浮んできて書くべきことが多すぎて迷ってしまったのである。
宮田・山添・鈴村の各主将をはじめとするクラブ創設期の、いかにも早稲田マンらしい豪快な諸先輩の1人1人を描いても紙面が足らないし、加藤・篠原、保泉と組織をかためていった後輩達も皆個性ある者達ばかりであったので書く材料に事欠かない。
なつかしく又楽しく迷いながら当時のアルバムを眺めていたら1枚の大変な重要書類が飛び出してきた。同好会のサイクリングクラプを昭和42年6月6日付で学生の会として承認する正式文書だ。
(私個人が保管していたのは重大ミスなので原稿と共にクラブに返還する。)
さて、私がクラプが公認団体になったのは、ご承知のように昭和42年で、その当時私が主将であったことだけは間違いないので本日は、この件の経緯につき少々紙面をさいてみたいと思う。
何といっても大活躍されたのは41年主将の鈴村(洲)先輩である。
(「峠」の沿革には毎年、鈴木と誤記してあるがクラブ史に残る重要人物なので訂正願いたい。)
それ以前のクラプは、諸先輩をはじめ我々自身も積極的に活動していたが、外から客観的にみれば吹けば飛ぶような存在であり、おとなしくただ座っているだけでは、とうてい学校から公認を与えてもらえるような状態ではなかった。そこで鈴村さんが考えたのが持前の外交的交渉力を生かして押しの一手であった。
公認するかどうかの決定権が教授会にあることをつかんだ同氏は何枚もの直訴状を墨書して準備した。すでに数ケ所の学部は鈴村さんが個人で頼みに行き、残2、3の学部については私も金魚の糞の如く同行させてもらった。
今の後輩諸君は学部長に簡単に会えるかもしれないが、当時はなかなか会ってもらえずそれまでが一仕事であった。
折悪しく40年末から41年夏頃までの5ヶ月間も続いた早稲田紛争が、すったもんだの末、解決して間もない頃だったので、極左学生ではないかと疑いの目でみられたり、面会の申込をすること自体が大変勇気のいることであった。
なにしろ事務所で用件の要旨を告げても大抵は「イルス」を使われたし、やっとこさ学部長室に入れてもらつても直訴状を手渡して、「お願いします。」と言ってくるのがやっとであった。
それでも全学部を回り終った鈴村さんはやるべきことはやったという使命を果した満足気な表情がみられたが、小者の私はまず悲観的な結果に終わるだろうと予想していた。数ヶ月後の商学部地下で鈴村さんが晴れやかに笑っている姿をみて、何も開かなくも私の予想が見事にはずれ目標が達せられたことを知った。男が1つの物事をなす時は、慎重で緻密な計画を大胆な行動力を必要とするものだということを、この時つくづく知らされた。
後輩諸君!社会に出てからも同じことだ。早稲田マンそしてサイクリングマンとしての伝統は個人的にも集団的にも消え去るものではない。各人がどんなことでもよいから、しつかりと目標を設定し、かつ、マクロ的ミクロ的に方法編を検討し、そして最後には、大胆に行動しよう。
以上
オバンのヒボーにめげてはダメ – OB 11期 宮内
オバンのヒボーにめげてはダメ 昭和51年卒・会社員 宮内
「なぜ、サイクリングするの?」
こういう素朴な疑間をぶつけられたことない?登山だと便利な言葉が用意されている。
「そこに山があるから。」
あ、そうか、そんなら「そこに峠があるから。」でいいじゃない。メデタシ、メデタシ、 1件落着と喜んではいけないのである。峠に登らなければサイクリングではないのか、という左のカウンター1発でノックアウトされるからだ。
なるほど、しゃ「そこに道があるからはどお?」と言われて、
「ウーンそれいいね、ヤマチヤン、それいこそれいこ」、
と安易に同意してもいけないのである。
額髪にソリを入れて、クルマやモーターサイクルに乗っているアンちゃんたちだって「オレたちもそうだもんね」と、同じ言葉を使う権利があるからだ。
そもそも素朴な疑間は、すべからく根元的な問題をはらんでいるのね。鼻をほしくりながら自転車に乗って、「あっど―も、ど―も」などと言いつつ、沢田屋方面に走り去って行くキミもよ―く考えてみてね。
話は飛ぶけど、テニスでは
「女の子と仲良くなりたくて、テニスを始めたプロだっているかもしれない」
というコピーで、フリル、ヒラヒラのお尻10個の宣伝を、カワサキラケットが始めた。
「お、なんだなんだ」とお尻につられて、見たことがあるでしよう。
これを、サイクリングに当てはめようとしても、絶望の縁、荒波逆立つ東尋坊の断崖なのね。何しろ、サイクリングやつている女の子の数が絶対的に少ないのだ。
「オレさ、今まで、だまってたけどさ、実は女の子と仲良くなりたくてさ、自転車はじめたんだ。」なんて、いまだかって聞いたことない。
で、告白は、突然結論を行っちゃうけど、自転車に乗ることそのものが、サイクリングという行為なんていうとおおげさだけど、自転車旅行の面白さの核にあると思うのね。自分の力で微妙にバランスをとりながら風を切って走る―これが面白いわけで、他の要素はサシミのつま。
子供が自転車に乗ること自体を遊びとしているでしよ。どこかに出かけるわけでもなく、乗っているだけでキャッキャツいって喜んでいる。これですよ。共通した面白さを備えているスポーツとしては、クロスカントリースキーを挙げておこうか。
だから、世間のサイクリストを見る眼はけっこう正しい。
「あの、小野さんのお宅のマコトさん、大学4年生にもなってジテンシヤに乗って遊んでるんですって。」
「ウソー。」
というような眼で見られている。世間では、人間の成長過程と乗り物がリンクされているのね。
幼児-ウバ車、
幼稚園-3輪車、
小学生と中学生-自転車、
高校生- モーターサイクル、
大学生と社会人- クルマ、
死人-霊柩車
という図式なのね。要するに大学生なのにまだ第2段階にとどまっているサイクリストは、自い眼で見られちゃうわけ。まれに、「エライ」なんていってくれるオジさんがいるけど、これは何も分かっていない場合が多いから気を付けよう。『青森まで、東京から来たの、すごい体力だね。すごく長いんじゃない』と単に体力と距離にあきれているのね。
私が何がいいたいかというと、自転車遊びの純粋な喜びを持ち続けている人は、世界の眼なんか気にせず、ペダルをまわしてちょうだい、ということなのだ。別にパルコのビエールオージェのウェアなんか着なくてもいい。曇りのない眼で、頂へと続く白い道を見つめていてほしい。
ウフッ、なんか、劇画みたい。
編集後記
編集後記
原稿書くより大変なのが峠の編集 (内田)
WCC3本柱の1つ、峠編集に参加できてラッキー(山田)
フロントパツグを2冊しか発行しなかつた出版局長 (沖広)
編集会議、いただきますハンパーグセツト ごちそうさま! (樋口)
振り返ってみると居心地のいい「学生」という身分を離れ、「峠」の編集に携わっていると、文章のひとつひとつ、写真の1枚1枚に当時のさまざまな想い出と懐しさ、そして時を超えた感動が改めて心に拡がります。ああやっぱり俺の青春も終わったのかな、なんて一抹のさびしさもこみあげたり、、、。
この「峠」15号が財政難のため3年振り、3代一緒になってしまったことは今後の「峠」の重要な課題とするとともに自転車と過ごしたあの頃をまた呼び起こしてくれることを次回の「峠」に期待してこの仕事を終わりにしようと思います。
(河越)
大変長い間、お待たせしました。ここに「峠」第15号をお届けします。資金難、3代にわたる原稿の取りまとめと調整、そして各々仕事に追われての編集という条件により出版が遅れた事をお詫びします。
我々が飛騨の山々をはじめ日本各地、インドなどを走り抜けてからもう4年の歳月が流れ去りましたが、我々がWCCの一員として過した時の情熱を少しでも伝えることができたらこの「峠」を出版した意味があったと思います。
資金難のため、3年分でわずか100ページ、そして予定していた住所録も没にせざるを得なかったことを御了承ください。
最後に発行に際し、多額の援助をして下さった、神金自転車商会、原サイクル、サイクルセンターすずき、オギワラ、沢田屋、つるやの各社、並びに完成まで辛抱強くつき合って下さった明宝印刷の皆様に心から感謝致します。
(遠藤)
峠 第15号
発行日 1983年10月1日
発行所 早稲田大学サイクリングクラブ
Editor’s Note
1981年の出来事。昭和56年。
2月。トヨタ自動車ソアラを発売。
3月。横綱、輪島現役引退。ピンクレディー解散コンサート(後楽園球場)
4月。マザーテレサ来日。
5月。フジテレビ「オレたちひょうきん族」放送開始。
10月。フジテレビ「なるほど!ザワールド」放送開始。
11月。ヤンバルクイナが発見される。
直木賞。つかこうへい「蒲田行進曲」
第23回日本レコード大賞 1981年 ルビーの指環 寺尾聰
WCC夏合宿は、「東北 : 青森から – 仙台まで」でした。
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こんにちは。WCC OB IT局藤原です。1981年夏は自分は4年で、卒業研究に没頭していたため、合宿には参加できませんでした。改めて当時の樋口、内田、丸山(敬称略)の議論を読んでみると、いかに真剣にランに向き合っていたか伝わってきます。
当時の文章をWEB化するにあたり、できるだけ当時の「雰囲気」を尊重するよう心掛けたつもりです。
文章と挿絵はPDF版より抜粋しました。レイアウト変更の都合で、半角英数字、漢数字表記等を変換していますが、
全ての誤字脱字の責任は、編集担当の当方にあります。もし誤りありましたら、ご指摘をお願いします。
2024年冬、藤原