- ダメ主将のつぶやき – 川野
- WCCと私 – 会長 宮内
- 何処へ行くのか戦艦武蔵丸 – 春合宿1班 – 藤田&池田
- しまんこプロダクション – 春合宿2班 – 斎藤&石井
- パーマン一家温泉巡りの旅 – 春合宿3班 – 川野,久湊&桜井
- たまごっちクラブ – 春合宿4班 – 上野,大橋,熊谷&藤田
- 新歓合宿1 – 金
- 新歓ラン2 – 長濱
- パートラン1 – 上野
- パートラン2 – 喜多
- プレ合宿 – 大野&錺
- 97東北夏合宿 – 早池峰班 – 堀江,山取,藤田,横路,小山,錺,池田,上野&大橋
- 97東北夏合宿 – 鬼首班 – 金,長濱,川野,大野,桜井,石井,大崎,斎藤,熊谷&大崎
- ESCAラン – 大橋
- 耐久ラン – 石井
- 1年企画 – 大崎
- 早同交歓会 – 熊谷,錺&横路
- 追い出しラン – 郡山
- アルプス紀行 – 谷口
- 「君の名は」- 喜多
- 「後輩堀江と走って – 雑感」- 喜多
- 「私のサイクリング観」 – 喜多
- 編集後記 – 藤田
- Editor’s Note
ダメ主将のつぶやき – 川野
ダメ主将のつぶやき
第35代主将 川野
第35代。俺たちの学年だ。いろいろあったぜ。主将になった時、俺の頭の中には何もなかった。プランもビジョンも手探りだった。そんな中でのりだした90年。俺はチャレンジしてみた。いや、俺たちは何にでもチャレンジしてみたつもりだ。ヘルメット導入や、耐久ラン、エスカラリーや「峠」の復刊など。
どれもこれもすべてがうまくていったとは思っていない。だが、俺たちはそれを見てみようとした。手にとってみようとした。それは確かに小さい1歩だが、WCCの歴史に何かを刻みこんだはずだ。俺は、自分が35代の主将であれたことに誇りをもっているし、それはこの先変わらないだろう。男であること、男であり続けることは難しいことだが、主将をやってみて、血が男の中に流れているかぎり不可能はないんだということを知ることができ俺は感謝している。
ありがとうサイクリングクラブ。ありがとう35代の仲間たちよ。
WCCと私 – 会長 宮内
WCCと私
会長 人間科学部教授 宮内
早稲田大学サイクリング・クラブの創立35年を心からお祝い申し上げます。手元にあります30周年記念のOB会員名簿に依りますと、小生は第4期の皆様と同期ということになります。そのことは、早稲田に入学し、そこで育てられてきた小生にとって、WCC35年の歴史が、自分の人生とも重なり、一入感慨深いものとなります。
小生にWCCとの出会いを与えて下さったのは、初代会長の上田雅夫先生でした。上田先生は、「永く続けてきたから、そろそろ若い人に..」とおっしゃりながら、後任として小生を推薦されたのでした。今思い起こせば、それは小生の教授昇格が承認されて間もない頃で、先生の小生に対するある意味での「激励」であったような、そのような気持ちにさせるのです。
平成3年4月、第20代の執行部とともに、小生は「会長」をお引き受けしました。サークル活動とは無縁であった小生にとって、「会長」とはどのようなものかも分かりませんでした。今も分かっておりません。しかし、会長をお引き受けした時の気持ちは、今でも大切にしています。
それは、「『男だけの世界』を一緒に楽しみ、また、その良さ、嬉しさ、哀しさを、自分の経験からも伝えていくこと」と「お飾りとしての「会長」にはなるまい」でした。これは、少なくとも、総会やコンパには時間が許す限り出席しなければなりません。そんな「会長」でこれからもいたいと思っています。
上田雅夫先生は、明年3月、選択定年で、早稲田を去られます。小生にこのような素晴らしい出会いを与えて下さった先生に心より感謝申し上げるとともに、WCC、OB会の益々の発展を祈念する次第です。
何処へ行くのか戦艦武蔵丸 – 春合宿1班 – 藤田&池田
何処へ行くのか戦艦武蔵丸(1班)
3月7日(金) 集合日 3年藤田
四国は香川県のJR琴平駅にて集合だった。久しぶりにあう仲間たち。下見のこと、道中なにがあったかなどなど、話したいことが山積みだ。さてなにから話そうか。まず池田が口を開いた。
「クランクが曲がったんだけど…」
明日から春合宿が始まる。今日はやらねばならないことが山ほどある。下見の結果によってはコース変更、宿泊地の変更なども必要だ。
近くのマクドナルドへなだれ込み、作戦会議。主なコース変更は僕の担当した明日ぐらいだった。吉野川から祖谷渓へ抜ける落合峠が積雪のため通行不可能だったのだ。後で知ったのだが、第33代の田中さんも下見の際、やはり同じように積雪のため通行できなかったという。四国の山は雪深い。
コースの再設定、5万図への線引き、宿泊地の確認などをすましたら、肉を食いにいく。明日からしばらくは酒ともおさらばだ。店では4人中3人がスタミナ定食を注文する。焼肉がセットになっているのだが、あれはどう見てもステーキだった。焼肉のように薄っぺらなステーキ。おまけに小山注文の品は、なかなか出てこない。ビールを飲まなければやってられない。この日は琴平神社の神事場でテン張る。さあ、明日から春合宿だ。
3月8日(土) 第1日目
日の出前に起床。日の出とともに、こんぴらさんへお参りしようという粋な考えだ。765段の階段を上り、本宮を参拝する。日の出が僕らの今日いく方向を照らす。連なる山々。讃岐山脈だ。あれを越えるのだ。
感じのよい東山峠をこえて、吉野川へでる。そこで遊び心をだして、吊り橋を自転車で渡る。川面がよく見えるので空中を走っているかのようだった。
そして、祖谷渓へ。単調な上りが続くのだが次第に渓谷が深くなってゆく。日本で最大の落差を誇る小便小僧があったが、弾切れのようだった。本日のテン張りポイントは大歩危である。
ここでは遊覧船に乗った。メンバーだけで遊覧船を貸し切り状態にするという幸運に恵まれた。20人乗り位の船をわずか4人で占領する。後にでた遊覧船はすし詰め状態だというのに!
テン張りスポットが川岸に近いという心配はあったものの、なんとかなった。夕食はカレー。ああ、いい一日だった。
3月9日(日) 第2日目
1発目から、ショートカットをする。今日のメインイベントである京柱峠・矢筈峠でのラッセルを警戒してのことである。もともと、ショートカットの対象になった林道は、非常につまらないものであった。ツーリングマップには
「国道、急流を見下ろす断崖路」
「断崖上に民家、道の上下に田畑、四国の厳しさを知る」
と表現されている。いかんせん、厳しすぎた。
信じられないぐらいの勾配。5万図には記されていない分岐が蜘蛛の巣のように別れている。はるか真下に見える国道はなだらかなくだり。車がけしつぶのように小さく見える。どう考えても通過するのに数時間かかる。せっかく下見したのだから、走りたかったが、真っ暗闇のなかラッセルをする勇気もない。
国道435(よさく)を東に進み、京柱峠へ。おお、よかった。あれほど俺を苦しめた雪は消え去っていた。多少の凍結でも自転車乗りにはつらい。ペダルを踏んでも後輪は滑るばかり。いくらこいでも前に進めない。まあ、これが春合宿の醍醐味なのだが。くだりもどうやら凍結してないし、本当によかった。
このように精神が緩みきっていたから、次の矢筈峠で雪が出てきたときには、精神的にやられた。ナイトランになりはしないだろうか。気持ちを引き締めラッセルに臨むが、雪の大部分はなくなっていた。取り越し苦労だったようだ。
矢筈峠を下り、大栃へ。ここでたまごっちクラブ班と遭遇してしまう。遭遇はあまり望ましいことではないのだろう、お互いに会話を避ける。テン張りポイントも数10mと離れていなかったが、相互に無視していた。合宿が始まったばかりということもあるのだろう、敵対心むき出しだった。彼らは便所の前、われわれは芝生の上にそれぞれテン張る。夕食はマーボー豆腐。
翌朝、たまごっちクラブ班はまだ暗いうちに出発していた。
3月10日(月) 第3日目 楽勝日。
午前中龍河洞温泉。
午後龍河洞見学。
今日のメインイベントは桂浜での焼肉だ。スーパーでとても1人分とは思えない量の肉、刺し身、お菓子などを買い込む。小山などは「今日は米は炊かない」といいきっている。僕は3000円以上の肉を買った。近寄ってきた犬にも肉を食わせてやった。なんという大判振る舞い。班員全員で可愛がってやった。幸せな犬だ。
肉を食った後、雨が降ってきたため、テントを屋根のあるところへ移動させる。自動販売機の前だった。どう考えても営業妨害だろう。桂浜で焼肉。そうそうできることではない。
後半 3年 池田
まず、我が班の後半のコース説明をしよう。
土佐→須崎→夏枯峠→春分峠→仁井田峠→四万十川→滑床渓谷→宇和島→(輪行)→内子町→肱川町→最終日
だいたいの経路を右記に書いた。我々は前もって泊まる所を決めず、下見、或はその場の状況で臨機応変に、悪く言えば、いきあたりばったりという企画をした。しかし、このような企画は、普通の下見ではダメで、より正確で細部にわたる下見が必要だった。
距離や所要時間、休憩場所といったものは、そのコースに1つだけでなく、いくつものパターンを想定しなくてはいけなかった。逆にそのようにしたことを後に後悔した。完璧にはできなかったからである。
そして、班員たちに不安を与えるような結果になる。自分は、ボスと企画をやっていた。この班の春合宿をどのようにするかということは主に自分しだいであったのだ。
はっきり言えば、我が班は頭がきれるという点では精鋭ぞろいといっていいくらいで、何かの判断が必要な時は、彼らが助けてくれるだろうというものが、或は、なんとかなるだろうという安心があったことは、合宿はじまる前から感じていた。実際、そうであった。
決断の際に、1番悩んだことは輪行をするか否かであった。自分にとって輪行をしないことは挑戦であり冒険であった。そして、輪行をすることは安全ではあるが甘えでもあった。
結論として、自分は輪行をするのを選択した。それは、自分がボスであり、責任を持っているということが何よりの理由であった。ただ、この事は、今でも自分がした決断が正しかったかどうかを考えさせる。時には、挑戦することも責任を持つものにとって大切なことだからだ。その事は当時の自分も知っていた。皆さんはどう考えますか。どう決断していましたか。
しまんこプロダクション – 春合宿2班 – 斎藤&石井
しまんこプロダクション(2班)
3月8日(土) 第1日目 3年斎藤
前日の夜はケーキ食い放題やしゃぶしゃぶ食い放題で体力をつけて、今日は5時起床のはずだったのがCLの郡山から起床はかからず私が目をさまして時計を見ると6時。やばい、初日から寝ぼうをしてしまった。朝めしを食って徳島駅を出発し、剣山スーパー林道に向かって走りだす。下見の時はかなりの積雪だったが1週間経っていたのでだいぶとけている。しかし北斜面にはいるとやはり雪は溶けきっておらず、氷になっている。皆ツルツルすべってころんで笑って楽しくくだった。
結局ナイトランになってしまったが無事宿泊予定の廃校についてカレーをそれぞれつくってねた。自分達の班は2年は1人1テントだったのだが自分がテントにはいる前、2年のKのテントの中でヘッドランプがゆれているのが気になった。翌朝彼は丸まったティッシュを目撃されたが開きなおって「ぬいちゃつた」なんて言ってた。こいつは一日たりとも我まんのできないやつなのだ。
3月9日(日) 第2日目
朝おきて山の方をみると木が白くなっている。我々のねた学校のすぐ上の方から雪がふったようでもう少し標高がたかいと雪の中でねなければならないところだった。
剣山山中の「見の越」という国道の峠を越えるのであるが国道とは名ばかりの寒い寒い道だった。道はどんどん登っていき、雪のかたまりをよけながらすすむと、深い谷が遠くまで見わたせる眺めのよいところまできた。ここで前述のKの提案により好きな人の名前を叫ぶ大会が急きょ開催された。1年の2人ははずかしがって言わないので2年の3人でやることになった。
私は昨年の早同の大合コンで知りあった美しい娘の名をさけんだ。(すでにふられている。)喜多は、さと子という名のみにくい女の名を、石井はこの前までつきあってたかわいい女の名を叫んだのではないだろうか。この数ヶ月後喜多もふられているので峠の上からすきな娘の名を叫ぶこの行為はムダであろうが自分は非常にすきな行為なのです。
3月10日(月) 第3日目
阿波池田から高知を目指す。池田高校のつた監督の碑の前で写真をとって出発。途中の役場で昼めし休けいをとるが、この役場のお姉さんが非常にかわいい。
別のおばさんがお菓子をくれたり風邪をひいてる原に薬をくれたりするのだが、我々の意識は完全にそっちにいっている。1番いってしまったのが石井で、彼はいっしょに写真を撮ろうとはしゃいでいる。石井いわく
「あの写真とってと頼んだ時のとまどい方がたまらない。あんな人この町にはもったいない。」
結局、写真はおばさんぬきで撮った。高知に着いたら時間があるので自由時間とした。この頃には1年の原は異様に黒くなっていてその黒さは死を直前にしている者のそれであった。
郡山の紹介で春合宿から参加した彼にとっては精神的にきついのだろうか。ここまでは寒い3日間だったが、明日からは暖かい足摺岬に行くので原も復活できるだろう。高知駅で駅寝して明日にそなえた。バージンロードが見れなかった。
3月11日(火) 第4日目 3年石井
朝、高知駅から中村駅まで特急で移動。車内で駅弁を食う。10時半ごろ中村駅に到着。チャリを組み立てた後記念撮影。さあ出発という時に駅前の噴水広場で喜多と斎藤が道づれダイブ。お笑いタレント以下のベタな演技にハラケン苦笑い。
足摺岬へ向かう途中の大岐の浜で海水浴。皆パンツ1丁で入水。何故か喜多・斎藤はパンツも脱いでいた。イミわかんねえよ。
この海岸は、人が全然いなくてまさにプライベートビーチと化した。2日前は、雪のつもった見ノ越を越えていたので、こうして海で泳いでいることにギャップを覚えた。
そうして海遊びを楽しんだあと、足摺スカイラインを経て足摺岬へ。ここの風景は絶景といえる。春合宿で印象に残った所の1つである。記念撮影をしたあと、海へ向かって好きな女の子の名をシャウト。この合宿で何回目だよ。こうしてこの日は終わった。
3月12日(水) 第5日目
この日は、けっこうキツめ。午前中は、島ノ内林道へ。あまりよく覚えてないが、景色がなかなかよかったと思う。林道を抜けて、買い出しのスーパーへ。
40分の昼飯休けいの間に、スーパーの中のTVで「天までとどけ」を見た。午後からは、奥藤林道、玖木山林道に入る。この林道は、下見した時かなり苦戦した。実際ハラケンこと原ケンイチロウがけっこう死んでいた。
この日はこの林道をぬけて四万十川まで下りた。ここの沈下橋でテントを張った。河原で、斎藤が椎名誠風に火を起こしてしばらくの間燃えさかる火を見つめていた。火の向うに何を見ていたのだろう。そんな脇で喜多が野グソをしていた。なんというコントラスト。そんなこんなでこの日は終わり。各自テントに入った。
3月13日(木) 第6日目
6日目。この日は梅ヶ成峠を越えて宇和島まで。朝から雨が降っていて1年生が特にもり下がっていた。朝の出発も30分ぐらい遅れてしまった。目黒川に沿ってアップしていき、滑床渓谷の万年橋で昼飯をとる。ここで、池田率いる班と偶然にも遭遇。それなりの盛りあがりをみせた後、我が班は出発。雪輪の滝、千畳敷を観光した後に梅ヶ成峠に到着。
ここからは宇和島まで長い下り。宇和島に着いたのが夕方の4時半ごろ。そのあと銭湯へ行き、公園で飯を作った。するとまた池田の班と遭遇。和やかな雰囲気でこの日の夜を過ごした。宇和島は結構期待していた都市だったがさして大きくもなく期待がはずれに終わった。いよいよ明日は合流日だが、この6日間はあっという間に過ぎさってしまったような気がした。
3月14日(金) 第7日目
この日は、宇和島から、集合地の肱川町への移動日である。故に国道走りがほとんどの上、天候は雨。皆の顔色がすぐれなかった1日であった。しかし、私には、この日こそ、四国の四国らしい町を通過したような気がしてならない。少し述懐してみようと思う。
・法花津峠あそこから見えたみかん畑と宇和海へつながる法花津湾との調和した風景は、まさに秀逸でしたね。みかんを手に持って、テレビジョンを意識して、写真を撮りましたね。アプローチの途中にうるさい犬に吠えられたのを覚えてますか。
・卯ノ町駅四国と言えば、はやりウィリーウィンキーでしょう。あそこのパンは美味ですね。この駅で、観月ありさと香取慎吾が付き合ってるの合ってないの、スポーツ紙を見た僕は落ち込んだのを皆は覚えてますか。
・夜昼トンネル2・2km程ある恐ろしいトンネル。皆で歩道に入って緊張して通りましたね。
· 大洲市市民会館で休憩した所ですよ。もうここでは、皆、雨に打たれて暗い顔をしていたけど・・。ここ水郷大洲は伊予の小京都と呼ばれる、肱川の流れが美しい、旅情豊かな緑の町なんですよ。
・五十崎町、この町の公衆トイレで休憩した時、石井は「これ、うまいよ!」と言ってクリームソーダの250缶を持ってきたのを覚えてますか。ジュースが好きな石井の姿として僕ははっきり覚えてますよ。
僕たちの班は最後に着いた。上野と最終日のコースの話し合いをして、僕は1番最後に入浴した。何やら妙な物がたくさん浮いていた。僕は他の班員たちの勇姿を思い浮かべ、高知以来の風呂に入った。
最後に述懐。
・あの晩、小山はめがねをかけてましたね。
パーマン一家温泉巡りの旅 – 春合宿3班 – 川野,久湊&桜井
パーマン一家温泉巡りの旅(3班)
3月9日(日) 第1日目 3年川野
3月9日、日曜日。いよいよ春合宿。行きはよいよい、帰りはこわい。「パーマン一家四国温泉巡りの旅」のはじまりだ。前日の酒も、前々日の酒も体に残っていない。よし万事OK!!さあ出発だ。いざ行かむ。荒野の大地へ。銭形ヘイジな人か関係ない。
観音寺駅を6時に出発し、ガシガシすすめば、そこは四国霊場、雲辺寺。寺の鐘を500度ばかり連打し、恋のゆくえを占いましょう。資料、櫻井はシャッターおしまくり。
久湊のケツをなでまわし、江川の頭たたきまくり、着いたところは名所、祖谷渓。初日なのに、はやくも汚れた格好の我々1行はしばし温泉でリラックス。うらさびしい国道を、ツールドフランスの選手よろしくカッ飛ばし、初日のポイント鮫浦ダムにて夕のうたげをすごし、明日に備えて寝ましょうか。
3月10日(月) 第2日目
それでは2日目、行きましょか。今日のコースは、81年のサイスポでWCCのOBの方がすすめていた由緒ただしき赤良木峠のとなりの赤荒峠・・のみ。昼まえにはなぜか高知のまちに到着。
読者の方よ、高知はいいところぜよ。高知を見ずに死ねるか。ここにて、しばしのフリータイム。高知城は・・まあみなくてもいいですね。その後、桂浜に移動し、大海原を眺めつつ、恋のゆくえを占いましょう。さて、問題の夜。高知城のウラ手でテントをはって寝ていると、ちらちらと差し込む明るい光。
さては浮浪者か!!といきり立ち、そこはそれ、当班の最高責任者ワタクシメが、「なんだバカヤロー」と荒井注風にとびだしてみると、そこに居たるは国家権力の具現者ポリスマン登場。
とたんにワタシメは犬と化し、しっかり「ハイ。ワセダのカワノっていいます。自転車で旅してます。ハイハイ、ゴメンナサイ」ナドと言ってしまい面目は保てず。こんな私は万死に値する。!!!
3月11日(火) 第3日目 3年久湊
前日の夜から降り出した雨はやみ、ところどころ雲が切れて星が見えていた。雨が降ると、とたんに走る気がなえる私にとってはとりあえず、一安心だった。
朝食を終えて5時半頃出発。真暗な市街地を抜け、川沿いを走り、周囲が明るくなった頃に1回目の休憩。あいかわらずハイペースでとばすCLのおかげで予定より10分以上到着が早い。
休憩後、山を登り始める。だんだん山深くなり、道が細くなっていく。しかし勾配はそれほどきっくなく、また結構いい天気になってそれほど疲れずに走る。
そのうちところどころに家が見えはじめ、ほどなくして雑貨屋の前で休憩。ここでもまた到着時間が早まる。その後、再び山道に入り、2回ほど休憩をはさんで登り続け、ようやくピークに到着。まったく見渡しのきかないところで何の感動もなく下っていく。しばらくして再び登り始める。ひなびた田園地帯を抜け、薄暗い山道を走り、集落をすぎたあたりで休憩。
その後再び山道に入り、ほどなくして下る。カーブだらけの山道を抜け、日のあたる平坦な道に出る。しばらくしてまた下るが先程の山道のようなカーブがなく快適に下る。
そして下り終えたところで休憩。そして平坦な道をしばらく走り、ダムの近くの雑貨屋の前で昼食休憩。40分の予定が時間に余裕が出来すぎて1時間になる。休憩後、この日最後の峠、寒風山を目指す。
しばらく平坦な道を走り、そのうち勾配がきつくなり、グニャグニャしたいかにも峠道らしい道を黙々と登る。2回程休憩をはさんで2時間程でピークに着く。
広大な景色をバックに写真を撮り、西条市に向けて一気に下る。1時間ほどで下り終えて西条市街に入り、まず銭湯へ行く。その後買い出しをしてテン張り場所の市民公園へ到着。
結局予定より1時間以上早い到着だったが、明るいうちに走り終えたということでまずまず良かったと思う。
3月12日(水) 第4日目
今日は宿に泊まる日。しかし昨日同様距離が長く、また下見で峠付近に積もった雪に相当苦労したため、かなり先行きが不安だった。朝食を終えて5時半頃出発。
まだ暗い中、国道を西に進む。しばらくして川沿いを走り、日が登り始めた頃に休憩し、ほどなくして最初の峠越え。国道だけあって交通量が多くて走りにくい。
途中1回休憩をはさんでピークに到着。一息いれてすぐに下るが登り同様、交通量が多い。下り終えてから今度は国道を離れ、本日のメイン、井内峠を目指す。しばらくは山村を走り、そのうち薄暗い山道に入り、ほどなくしてダートになった。
2回休憩を入れてピークを目指すが、登っていくにつれて道に積もった雪がだんだん深くなり、走りづらくなっていった。でも雪に苦しみ出してからほどなくしてピークに到着し、1時間の昼食休憩。休憩後は下るだけなのだが、下見では膝まで積もった雪のおかげでまったく自転車に乗れず、相当苦労したのだが、この日は、積もっていた雪がほとんど解け下見での苦労がアホらしくなるくらいすんなり下り終えてしまった。
かなり拍子抜けして休憩後、次の峠へ向かう。この峠は峠というより単なる丘のような感じであっさり越え、再び国道に入って南下していく。その途中、トンネルの出口で後ろを走ってた3人が止まりきれず衝突、転倒し、車にひかれそうになるが、運良くかすり傷程度ですみ、大事には至らなかった。
その後国道を西に進み、のどかな山村を抜けて行く。そして一応のピークであるトンネルに到着し、休憩。この先は宿まで下りだけなのでCLにはのんびり走ってほしかったのだが、あいかわらずのハイペースで飛ばしまくり、のんびり下りを楽しむどころではなかった。1回休憩をはさんで内子町に入り、
買い出し後、ようやく宿に到着。数日ぶりの豪勢な食事とふかふかのふとんで疲れをいやした。
3月13日(水) 第5日目
今日は4時半起床。朝から雲のない、すっきり晴れわたった良い天気だった。いつものようにあわただしく朝食を作り、あわただしく食べて、あわただしく出発準備。そして6時半頃に出発。前日に走ってきた道をずっと逆走して橋の上で1回目の休憩。
そこには犬がうろついていて、少数の物好きなクラブ員が与えたハンガーノックを犬はボリボリと貪ぼり食っていた。また、この犬は非常に人になれていてカメラを向けるとしっかりポーズをとって写真におさまろうとする有様だった。
休憩後、川沿いを走り、しばらくして、暗い山道を登っていく。ほどなくしてピークの
トンネルに到着し、休憩。その後山を下っていき、平地をしばらく走った後、中里駅で休憩。
いかにもド田舎の駅という感じで実にボロく、本当に電車が来るのかどうか疑わしいくらいだった。その後川沿いの国道をひた走り、セブンイレブンで昼食休憩。
ここまででも十分CLのペースは速かったのだが、この後更にペースが上がり、どの班もあまり会話がなく黙々の走り続けたおかげで2時頃にキャンプ場に到着してしまった。あまりに時間が余りすぎたために3時間ほどフリータイム。
みんな近くの川や水道で水浴びをしたり、昼寝したりしてのんびりと時間をつぶした。そして。5時頃から夕食の準備にとりかかる。そしてちょうど日が落ちて暗くなった頃に出来上がり、みんなで食べはじめたのだが、ちょうど暗くなりだしてから蚊やブユの活動が活発になったためにせっかくのいい気分が台無しになってしまった。僕は上下を着ていたもののいくつかさされてしまい、そのかゆみに苦しみながらなんとか眠りについた。
3月13日(水) 第5日目 3年桜井
我が「パーマン1家四国温泉巡りの旅」班の楽勝日のはずが、1000mアップ
〈コース説明>
内子 – 富士山公園 – 大洲 – 夜昼峠 – 八幡浜 – 鳥越峠 – 卯之町 – 野福峠 – 宇和島・ほぼ舗装道路
この日は内子と宇和島の間をどのようにしていくかという日であったので、後から付け加えられたアップがある。それは冨士山公園であり、もしかしたら桜見れるかもよとかいう軽い気持ちで組み込まれたのだが、これがこの日のメインになってしまい下見の時に後悔をしたものであった。またその後悔を引き起こしたもう1つの原因は下見の時にシュラフをここのアップをしている途中で落とし、それを気づいたのが登りきってから、しかもシュラフがなかなか見つからずここのアップ300アップを3往復するというシャレにならない出来事であった。
その時は本当に軽い気持ちでここに来なければシュラフを落とすこともなかったのに、などとすねた気持ちであった。まあシュラフが見つかった後、ピークの冨士山公園から見た下界の眺めは良かったのだが。春合宿の合宿として来た時には雨であり班員達にあまり良いもの見せられなかったので残念だなぁと思っていたので、ほんの1週間程の間でいやな思い出の場所が自分にとって良い場所になるものなのだなぁ、と今思うとおもしろい事であると思う。まぁこのクラブのやっている事自体そんな事ばかりであるのだけれど、それを特に認識させられた出来事である。
合宿でこのコースを走った時はこれといって何もなく淡淡と過ぎた日であった。次の日が厳しい一日になっていたので班員5人で楽しいすき焼きパーティーをし
(といってもただ夕食がすき焼きであっただけなのだが何かそういう気分に僕はなった)
早めに就寝をしたのであった。
3月14日(木) 第6日目
この日は体全体と精神が大変疲れる一日であったが、その疲れがある人にある悲劇をもたらすとは
〈コース説明〉
宇和島 – 泉が森 – 広見町 – 桜が峠 – 野村町 – タイマツ峠 – 肱川町·望湖荘・荒れダート多し
朝の暗い時から泉が森を目指しその日の活動が始まった。泉が森は地元の人が夏に夕涼みがてらに散歩するような所であるらしいのだが、自転車で行くと散歩なんて気分の所でなく汗をだらだら流しながら登っていく所であった。そこで1番のダメージを受けていたのはエガチャンであった。登っている時はそれほどやられているようには見えなかったのだがそれは後になってわかる事になった。尚、この日も曇っており本当ならピークから見えるはずの宇和海を見れずに残念であった。
その後1つの峠を越え、この日メインのタイマツ峠へと進んでいった。峠への林道の入口で雨が降り出した。エガチャンはもうこの時点で精神的にきれていたのだろう。林道に入ってちょっとしてからCLのエガチャンの姿がいきなり消えてしまったのである。
なぜかというとガケから落ちていたのである。そして落ちた時木の切り株で頭をぶつけたらしかった。今となれば笑い話で話せるがその時は本当に心配をし、焦っていた。エガチャンは「だいじょうぶです」と言うが頭をうっているので病院に連れていくべきかこのまま走り続けるべきか迷っていた。ボスの川野も相当悩んでいた事だろう。ある事を決断するというのは難しい事である。
そういう点から夏で班のボスをやった川野・小山に対して心からお疲れ様と言いたく思う。その後タイマツ峠を越え望湖荘に2番目に到着。合流日というのは本当にいいものである。それも出向かえる方が特に楽しいと僕は思う。その点から言うと1番に着きたかったものであった。
あと一言、「エガチャン、もうガケから落ちんなよ。」
たまごっちクラブ – 春合宿4班 – 上野,大橋,熊谷&藤田
たまごっちクラブ(4班) 前半 3年上野
初日。この日は少々長めのコースのため、集合日から10km程走っていたので、前日の夜から米を炊き、
すでに合宿体制に突入していた。
朝一、CLのペースがやたらと速い。皆息があがってしまった。この時点で200mUPこなす。下り、少し走ると、あのすばらしき“土柱”と御対面。皆会う前はしきりに話題にしていたが、いざ目の前にすると初対面ということもあってか緊張してなかなか最初の一声がでない。シャイな人達である。しばらくして何やらひそひそと話し始める。どうも想像していたものと違うらしい。
「見てガッカリだ。」と。お前らなあ、あれは地球上で3ヵ所、日本ではここだけという大変貴重な自然の芸術品なんだぞ。もっとありがたがれ。とそんなこんなで、梨ノ木峠(なかなか風景もよろしい)を越え、杖立山越のころには1年2人は死にかけ(前プラしっかりしろよ)。ここの下りはみかん畑の中をぬう様に進む。そして今夜は春合宿ではめずらしくキャンプ場に泊る。
2日目。コース変更があったため、国道走りが少し加わった。1発目は八重地峠。天然記念物を見ながら登る。四ッ足峠には名前に恐れおののきながら登り、無事この日を乗り切れたことに班員一同胸を撫で下ろす。この日は、「るるぶ」にも紹介された大栃公園にテントを張り寝りに就く。
3日目。アリラン峠にあたっく。雪も残りダートは超ぬかるみまくり。必死に登ると峠開通の由来の書かれた看板を見て感涙の泣にむせぶ。下りも乗り切れず歯がゆい思いをする。走りに走って、かずら橋に到着。ここでも誕生の秘話に橋を切ってみたくなる。祖谷渓のすばらしい眺めにペダルを回す足も軽くなる。祖谷渓温泉に入り、小便小僧と記念撮影。阿波池田駅前のふれあい公園で寝る。
4日目。大歩危、小歩危沿いを走る。四国はみどころがたくさんありますね。難関、美馬峠を越えると昔日の思をあざやかに思い起こさせる立川番所院で昼メシを喰らう。すると元気一杯に走り出すと一気に早明浦ダムに着く。公園行く途中アップがあり、ここが1番きついと後々言われる坂に悩まされる。
後半 3年大橋
四国はとにかく寒くそして寂しいという思いに尽きる。こう書き始めると合宿自体に不満があったのかと詰問されるかもしれないが、そうではない。鼻の奥がつ~んとするような少しこそばゆい思いがたくさんある素晴しい合宿であった。
6日目は高知県池川町から同県東津野村までの行程であり、峠は石神、矢筈と結構なクラスを取り揃えていた。道中には四万十川の源流がある。うひ。スタートの池川町はパチンコもスーパーもあるビックシティだ。
本合宿に入ってエロい本さえ補完できなかった我々の喜び様といったら恥しい。でもビックシティだからといって何ができるのか。すごく疑問。その池川町にしても1べつして過疎化が進んでいるような町。私見だが、人口は3000人程だろう。子供を久しぶりに見て、一同喜ぶ。本当に老人だらけだったんだ本合宿。
僕はこの日の下見を担当していたので、コースの大体を企画の上野に教えた。メインである石神峠はきつ目で長が目だが、天望ゼロ。コンクリ工場が峠にあって、砂けむりモウモウのけちくさい峠だよ、と。実際、本合宿で登った印象も変わらなかったが上野氏は、その峠がかなり気に入った模様。僕は彼の生い立ち、生き様、をそこに見た。上野、奇人。
四万十川の源流はあやしすぎた。ダートを登り、降車してからも山道をガンガン行った所に源流の看板があるのだが、その源泉の先にも水がこんこんと流れていた。本当の源泉を求めようと我々はさらに道なき道を進んだわけではあるが、切がないので断念。
しかし、帰りが問題であった。道を見失ってしまったのだ。雨は降り続くし、足場は悪いし。正直に言う。僕は本当に遭難したかと思った。本当に恐かったんだ。昔の人で言う、辞世の句をつくる心境だった。かなりブルってたよ。
無事に着いた後、始終平然としていた長ハマを見て僕は思ったんだ。
「長生きしろよ。バーカ」(冗談です。)
3月14日(木) 第6日目 3年熊谷
天狗高原から四国カルストへ。これは私のサイクリングの中で、1、2を争う程素晴らしい所だった。とは言え、これは合宿本番での話ではなく、私の下見での経験なのだが。
私が下見でここを訪れた時、それはそれは素晴らしかった。雲1つない青空の下、尾根伝いにカルストの中を走る。今こうして、言葉にしようとすると、えらく陳腐になってしまうが、その時は本当に心の底から感動したことを覚えている。
そんな訳で下見の報告の際、このコースの素晴らしさをかなり熱心に説いたのだが、合宿本番で再びここを訪れた時、残念ながら天気が悪かった。
私が下見で得た感動を班の皆にしても味わってもらいたかったのが、残念ながらそれはかなわなかったようだ。ただ、あの感動が、私だけの物になったというのも、それはそれで素敵なことかもしれない。
3月15日(金) 第7日目・最終日 3年藤田
クラブランで日記をつけているメンバーを、ぼくは自分以外に知らない。クラブラン中に日記をつけるというのは、かなりのエネルギーを消耗する。それだけの余裕があれば、そのエネルギーをクラブランにつぎ込むべしという意見もあるだろう。それはともかく、春合宿最終日の様子は、ぼくの日記から抜粋したいと思う。
…8日目(出発してから通算23日目)
望湖荘から松山(浪花屋)
これで1800円はかなりいい。へたなヤドよりずっとよい。昨日は焼肉を食べた。周りがうらやましそうに見ていた。まずい飯もあった。1時間30分出発。慶太さんと境田さんくる。慶太さんうちの2班へ。
フリーラン。獅子越峠。昨日の雨でぬかるみ。急坂ということもありとんでもなく苦しかった。ヨダレだらだら。フロントバッグにふりかかる。
結果。上の。キタ。小山。大橋。オレ。石井。サイトウ。池田。ひさみなと(アーチ)。
初めてまともに石井に勝ちうれしかった。タイム41分ちょうど。
フリーラン後、呼吸困難におちいる。松山まで、かなりキツク感じた。コへ弁がまずくて食べられなかったのでハンガーノックにおちいったようだ。
小山の自転車から異音。ドロヨケだと思ったが、そうでないらしい。聞いたことのある音なのだが。車の排気ガスでやになる。松山市内、横断歩道はなく右折に苦しむ。左折ラインにいるのに池田に「右にいけよ」といわれむかつく。オレ、石井、ライで「ランの間」。
あいそさん10,000円。
はらださん2,000円。
せきさんおしばな。
ストリップにいく。道後ミュージック。学割で4,500円から3,000円へ。まるみえ。
しかしタタナイ。別次元のものだと感じた。ハラケン、こいつはぶっこわれている。キタはワセジャーで舞台にたつ。おれもしゃしんをとる。
初めてのストリップであった。人間を観察しているほうが、おもしろいかもしれない。エロおやじ。夫婦できているものもいた。おれは、マ〇コに指をつっこむことなどできない。おっぱいすらさわれない。小心者というより、彼女にわるいとおもってしまうのはオレらしいなとおもった。・・
しかし道後ミュージックは最高だった。結局、この日は風俗班と飯班に別れたのだが、風俗班のほうが断然、楽しめたはずである。ストリップもさることながら、メンバーの活躍がすごかった。今は亡きハラケンなんかは、裸になり、舞台にあがり、ボディービルダーのように筋肉を観客にアピールし、思いっきりしらけさせていた。それを感じてかどうかは知らないが、ストリッパーのあそこを舐めている写真を撮ってもらっていた。1枚500円で、ポラロイドカメラで写真を撮れるのである。それを見て興奮したのか、今度は喜多が舞台に上がった。ワセジャーを着たままで。こうして、WASEDAの名を松山に知らしめていた。どこからか掛け声がかかった。
「よう、わせだ!」
今、ぼくの手許にもその時撮った写真がある。クラブ活動でもっとも笑った時間であった。
新歓合宿1 – 金
新歓合宿1 1年金
5月3日(土) – 5月5日(月)
5月3日、早朝、静けさの中、大隈講堂の前には、黄色いジャージと自転車の群れがあった。これから3日間の新歓合宿が始まろうとしていた。
出発前に円陣を組み始めた。これから何が起こるんだろう。とその時、小山さんが真ん中に出てきた。そして「紺壁の空」が始まった。続いて川野さんがでてきて「早稲田大学校歌」が始まった、ほとんど歌詞は知らなかった。なんだかカッコイイなと思った。
結論から言うと、僕は死んだ。もうイヤっていうぐらいに。だから新歓合宿のことなんか思い出したくないし書きたくもない。だがそういうわけにもいかないので書く。
一日目、和田峠で死んだ。一人一言で、大崎君、鋳君、堀江君(このときはまだ君づけ)はベタ誉めされていた。うらやましかった。
2日目、二十曲峠あたりで死んだと思う。
富士山がすごくキレイで立派だったが、僕の心はダークだった。このコントラストに異様な気分になったのを覚えている。
夜に、1年会長と副会長を決めるように言われ、やばいくらいに深刻な話になった。みんないやがった。結局ジャンケンに負けたものがすることになった。僕は心の底から、神にジャンケンに勝つように祈った。その祈りが届いたのか、僕は勝ち、大崎君と錺君に決まった。
3日目、フリーランで死んだ。フリーランというものがよくわからなかったが、始まると理解した。フリーラン中、なんでこんなことするんだろうと思いつつ走った。
この後、部室の写真で見た「いのこ」というやつを見ることになった。池田さんと横路さんがくらってた。「これがいのこか~」と感服した。僕は「脱ぎグセ」が少しあったので、格別に嫌だと思わなかったが、最初のトレであった1年の奴らは、いのこという儀式が嫌で辞めていった。
とりあえず僕は死んだ、「死」とは、心臓が停止し、燃やされ骨になることだけではないということがわかった。
新歓合宿中、江川さんや大橋さんがやさしく話しかけてくれた。本当はもっと厳しいことも言いたかったのではないだろうか。1年生が5人しかいなかったのでキツイことも言えなかったのだろう。
失望感をかみしめるように味わいながら、帰路についた。
新歓ラン2 – 長濱
新歓ラン2 新歓合宿 2年長濱
例年通り、朝6時に大隈講堂を出発。朝の都庁前を早稲ジャーで走るのはさすがに恥ずかしかった。初日のメインは和田峠だったが今となっては記憶が薄れつつある。何人かの1年生は死んでいたように思えるが(それでも今年の1年生は僕らの頃よりははるかに強かったが)、僕の班の1年生の錺(かざり)は強くて余り足をつかず、前班をかなり追い上げた。
キャンプ場はものすごいキャンプダウンでしかも大雨が降っていた。大変危険で錺もつるつるすべっていた。キャンプ場ではバンガローで寝ることができた。2日目は二十曲峠で金が死んだそうだ。キャンプ場は普通だったが、そこで初代の方と2代の方が合流したのが印象的だった。
3日目のフリーランでは、死んだ死んだと騒いでいた1年生どもが激走し、意外な強さを見せつけた。僕は全くでイノコをされた。新歓ではぬがされないはずなのに斎藤さんに半分ぬがされて残念だった。
パートラン1 – 上野
パートラン1 筑波山コース
6月7日(土) 3年上野
パートラン、それは限られた短かい日数の中でいかにサイクリングを楽しめるか、いや、楽しむかを3年生及び2年生が、それぞれのサイクリング観をもとに形として示す企画である。
そこで私は日本を隈なく走り、満喫することを1つの目標としていることもあり、そこで、サイクリング(特にWCC)では盲点になっている千葉県・茨城県を走るコースを企画した。
千葉は走る所がないのでメインを茨城県は筑波山とし、そのアプローチとして千葉県の我孫子から走ることにした。
金曜日の夜(97年6月7日)我孫子駅に集合し、手賀沼(日本一汚ない)公園に寝て翌朝から走り出した。
土浦までは主に国道を走り、(千葉は想像通り田舎だ)霞ヶ浦で休憩をとり、いよいよUPに入る。1つ名もない峠を320mUPこなすと、いよいよメインの筑波山へトライ。
有料道路を回避するとそこにはなんと、勾配15%(標識がなかったので信疑は定かではないが)の激坂があった。
自転車での峠越えを始めてまだ日の浅い1年生2人(金と錺)は、始めのうちは奇声を発するも、その声も次第に弱まり、仕舞には口から吐く言葉もなくなり、頭の中も顔も真白になっていた。特にテントを積まされた錺は、まったく前へ進めなくなり、進むどころか後退し始めたため、3年の藤田と自転車を交換して何とか上り切ることができた。
しかし峠に着いたと思いきや、少し下ったあとダートが出現。これには1年生2人とも本気(マジ)で嘆嘆(ビビッ)していた。恐れおののく2人に対し、3年生のすばらしいリード渋々ではあるが走ることを決意し、自転車にまたがりペダルを回し始めた。
150mUPした頃でしょうか、なんと、さらなる難関が待ち受けていた。かつぎである。この時にはすでに思考能力がブッ飛んでいたこともあり、為されるがままになっていた。
残り少ないわずかな力をなんとかしぼり出し、自転車をかつぎ、1歩1歩頼りなさげではあるが、着実に進んで行くと、やっとの思いで峠に到着。さらに筑波山の頂上を目指しわずかな休憩をはさみ、前進して行くのであった。
頂上では少々登山し、頂に立つと眼下に広がる関東平野を一望のものとし、なんだか一回り成長したような気になった。
さらにこの日は加波山の陵線までUPし、日も落ち少々薄暗くなった頃、JR水戸線岩瀬駅に無事到着。
参加者
1年:金、錺
3年:上野、石井、藤田
パートラン2 – 喜多
パートラン2 長野コース
6月7日(土) 3年喜多
身を刺すような寒さが襲ってくるあの晩、俺は下痢をしていた。
長野県小海駅の和式便所の底には、まるで土石流のような便が俺を嘲笑するかのように、たまっていた。そんなことが何度か続いた。その度に俺は土石流を一思いに処理してやった。その一方で俺は繊維を多く含むパイナップルを食べていた。その隣りで健康な彼は納豆を食べていた。
彼、斎藤基樹である。明日、日曜日、ここ小海町から埼玉県児玉町まで、ぶどう峠を経て御荷鉾林道を走るパートランの企画者だ。そして、参加者は体調不良の俺。3年生2人だけのパートラン。明日の為に俺と斎藤は駅を離れた。
俺の土石流をせき止める為に街を徘徊し始めた。長野県南佐久郡の人口10,000人に満たない小さな町。もう、こんな夜に開いている薬局などなかった。そこで俺たち2人は一般の家庭を訪問し、薬を求めにいった。突然訪ねても怪しまれないようにしようと俺たちは相談した。その結果、何故か斎藤が腹痛の持ち主となった。
「今晩は。僕たち、自転車で旅をしている者なんですけれど、実は友だちがおなかをこわして下だしてしまっているので、何か薬を戴けませんか。」
と俺。
「すみません。お願いします。」
苦しげな表情を浮かべながら斎藤が続く。斎藤は役者になれないと俺が確信した時、その家の主人は斎藤を見つめ、心配そうな顔で、
「君、大丈夫か。今捜してくるから。」
と言い、家の中に駆け込んだ。
「すみません。」
と2人。
薬が手に入りそうなことが分かり、2人が安堵の表情を浮かべたその瞬間、主人は予期せぬ恰好で戻ってきた。下痢止めは左手にあった。しかし、右手にも何かあった。なみなみと水が注がれたグラスであった。俺と斎藤の目が合った。主人は近づいてくる。
「これはよく効くぞ。」
と言い、斎藤へ一直線に近づいてくる。下痢をしていない斎藤に下痢止めを与えに。
主人が俺の脇を通り過ぎようとした、その時、俺は主人の両手から水と薬を奪い、一気に飲み干した。俺と斎藤は何度もお礼をして、そそくさとその場を逃げ去った。
きょとんとしていた。まるで狐にだまされたような表情をしていた。当たり前だ。下痢をしていないはずの男が下痢止めを飲んだのだから。真剣勝負が生んだ珍プレーだった。いや好プレイかな。
小海町の空は満天の星空だった。あたりに拡がる静寂が優しくシュラフを包んでいた。
明日も林道で真剣勝負!
プレ合宿 – 大野&錺
プレ合宿
6月20日(金) – 6月22日(日) 2年大野
プレ合宿という言葉から皆は何を連想するだろうか。自分としてはかつてのフロントバックの主将の言葉にあった「ハイリスク・ハイリターン」という言葉を思いうかべる。
というのは昨年、このクラブに入ってまだ2ヶ月。右も左も分からず、ひたすらにこいできたが、体力的限界を自分の中に感じたのかというと、それはなかったように思われた。
そこでむかえたプレ合宿であった。プレ合宿の厳しさはそれ以前から諸先輩を通じて伝え聞いていた。「ああ、俺も血尿が出るのか」と考えた。それほど自分にとって、体力的限界に対する恐怖があった。またプレ合宿は1年生は初めてテントをつむ。このテントが非常にくせものであることに疑う余地はない。テントによって走りは変化すると思う。殊に自分がこのプレ合宿で、2コテンを味わった際によく自覚した。
この日は雨であり、さらにダートであり、さらにゴツゴツとした岩が突出しているものであった。要するにプレ合宿というのはとかくきついコースを走り、限界点を見い出すことができるにせよ、できないにせよ、きっかけというと変だが、ハイリターンを得ることができるものであると自分は択えている。
フリーランについて書くと昨年は、はっきり言って自転車で走る道ではなかった。下っている時に、「よくもまあ、登ったものだ」と正直にそう感じた。そして解散地に着いてからというもの、心労だろうか、体力的疲労であろうか、下痢はひどいし、小便すると血が出そうな勢いで痛かった。
とにかく何もかも新しかったし、記憶の中で美化しているかもしれないが、コースとして自分はこれほどハードなものはないと思っている。ハイリスクのもとにハイリターンを得た訳だ。さて今年のプレ合宿では?というと自らハイリスクを掲げた。何をかというと足首に重りを1kg両足につけて走ってみた。
自分は運動学者でもないし理論的にかじっている者でもない。でも何もせずに走るのは自分としては嫌だった。無暴であろうと、ハイリスクを背おわないことよりも背おうことが自分の中では至上とされた。結果として責任を取る立場にないことから出来たことであったと思う。
じん帯を痛め、その後の走り(特に夏合宿)に支障をきたしたが、その根本精神を否定するつもりはない。これも下の学年のうちにやれることであろう。
6月20日(金) 1年錺
台風直撃!!雨が降り、すごい風が吹きすさぶ中、
「さすがにこりゃー中止かもしれんなー。」
などと考えていた私。
甘かった。WCCがそれくらいのことでランを中止にしたりするはずがないことを、いまだに悟っていなかったとは。まだまだ精進せねばなりませんな。
「うそーっ、ほんまに行くんかいなーっ!!!」などと心の中でほざきながら、警報(!!)のため午後の授業が休講になったのをこれ幸い(?)と、私は一路、集合地の渋川へと向かったのでした。
プレ合宿については前々からムチャクチャきついということを聞き及んでいたので、もうずっと憂鬱なままだったのですが・・。渋川へ着くと、台風もどうやら峠を越えたようで、以外と穏やかな天候だった。「いいのやら悪いのやら」などと考えつつも自転車を組み立て、買い出しを済ませて、とある児童公園へ。そう、当然です。野宿です。
しかし、私は明日からのプレ合宿の恐怖で頭がいっぱいで、訳もわからないままに晩飯をかっこみ、テントを立てて、「もーどーにでもなれっ!!」と思いながら眠りについたのでありました。
6月22日(土) 1年錺
目覚めると、まさに快晴。「台風一過とはこのことだな。」などと考えたかどうかは知りませんが、とにかくまだ訳もわからずに朝飯を食べ、「六条麦茶」を飲んだ。そう、その時確かにそのペットボトルは私の手もとにあったのだったが・・。
そうこうしているうち、早くも
「1班出発準備!!!」の号令が!!!!「ひえーっ!!!!! 用意もまだできてないーっ!!」
とあせりながら、荷物の確認もちゃんとしないまま集合。そう、それがすべての悲劇の始まりだったです。
まさにサイクリング日和っ!!とでもいうような陽気にも関わらず、私はこれから迫りくると思われる恐怖におののきながら、いきなり来たキツいアップをただただひたすらこぎ上がった。そして、ふと、私は驚愕の事実に気がついてしまった!!
な、ない・・・。そう、「六条麦茶」のペットボトルが・・・ないのである!!!!!
「えええーっ、うそーっ!!」出発の時にあせりまくっていたために、公園に忘れてきてしまったのであろう。サイクリングには絶対に必要不可欠であるはずの水を忘れるとは、まったく大バカヤローである。この時はさすがにショーック!!でした。
初めての休憩の時、近くに自販もなかったのだが、缶ジュースを買って来ようかどうしようか迷っているうちに10分が経過してしまい、出発。後ろの班もまだ現れておらず、もしかしたら後ろの班のどなたかが持ってきてくださるのでは?などという望みもはかなく消え去ってしまったのだった。
だが、そんなどーしよーもない私にも救いの手が――。水入りのペットボトルを2本持っておられた上野さんが、私に1本やろうとおっしゃるのです!!これにはもう感激してしまいました。
上野さんのおかげで私は生き延びることができ、榛名山を通過してしばらくの間は無事に走り続けられました。しかし、その後ある休憩地点で、私はまたもばかなことをしてしまったのだ。
石井さんが缶ジュースでも買って持っといた方がいい、とおっしゃったにも関わらず、私はハンガーをむさぼり食っていて無視してしまったのである。先輩の言うことはきちんと聞かなくてはならないのに、である。私はまたも悲劇の要因を1つ自ら作ってしまった。そのうちに四万温泉を通過、いよいよダートに入った。
この万沢林道は連続ダート22kmと、若輩者の私にとってはケタ違いのスゴさであった。そして、これから先、地獄が私を待ち受けていたのだった・・。
ぎらぎらとした夏の太陽が真上から照りつけている。汗がにじみ、息もあがる中、ダートが目の前に果てしなく続く。休憩の度に道に倒れ込む。だが、この猛暑のため、1.5lしかなかった水はもはや残りわずかになっていた。充分にのどの渇きをいやせないままに起き上がり、再びペダルをこぎ続ける。
道は当時の私にとってはかなり荒れており、勾配もきついように感じられた。ギアは既にインナー・ロウ。だが足が何度も動かなくなり、途中で止まりまくっていた。やはり水分が不足しているのだろうか。それでも先輩の方々の励ましを受けて、ようやく昼飯休憩地点に到着。
もうペットボトルの水は底から2、3センチほどしか残っていなかった。周りにはただ木々が生い茂るのみで、自販機などあろうはずもない。まるで砂漠を行く旅人のような気持ちだった。
腹はすいているはずなのに、食べることも充分にできないほどに体は疲弊しきっており、ずっと道端に倒れ込んでいた。それでも無理にパンを詰め込み、わずかな水で流し込んだ。水はもう残り1センチほどになった。
もしかしたら後ろの班が、忘れたペットボトルを届けてくれるのでは、とも思ったが、どういうわけか40分が経過し、出発時刻になってもまだ後ろの班は現れなかった。どうやら、うちの班のペースがとても速かったようだ。
一抹の希望も打ち砕かれてしまい、再び私たちはダートをひたすらこぎ続けた。のどの渇きも忘れて、上りも下りももう無我夢中で走った。そ、そして―――ついにダートの終わりが見えたーっ!!
「な、長かったーっ!!」もうペダルをこぐ足はすっかり軽くなっていた。
そのまましばらく走ると・・・、
「あの自販の所で休憩しようか。」「えっ、や、やったーっ!!」
もうフラフラになりながら自転車を止め、ミスティオ・オレンジを買い、もう我を忘れて飲みました。「うっ、うまいーっ、うますぎるーっ!!!」
こんなにおいしいジュースは生まれて初めてでした。そして1本だけでは飽き足らず、烏龍茶をもう1本買い求めてしまいました。
さて、心も体もリフレッシュしたところで、更にキャンプ場に向けてラストスパート。だが、その前にはかなりのアップが――。やはりさっきのダートでかなり疲れたらしく、足はまた重くなってきたが、何とか上りつめて草津の街へ。買い出し地点でもまたジュースを飲みまくる私。キャンプ場へもあとわずかとなり心も軽く。そしてついに、キャンプ場に到着ーっ!!!もう空はかなり暗くなっており、ナイトランぎりぎりだった。時刻は夜の7時頃。
それから私たちの班はテント設営、夕食の準備にとりかかった。だが一向に後続の班は現れない。日は既にとっぷりと暮れてしまった。30分、1時間、まだ来ない。これは何かあったのではないかと心配していた
その時――!つ、ついに到着ーっ!!時は既に8時半頃だった。どうやらコースがあまりに激しすぎて時間オーバーしてしまったらしい。じゃ、じゃあ私たちはすんごい速さだったんですねー。改めて自分たちの班がスゴかったことを実感してしまいました。
そして、なんと、もうすっかり飲み尽くされただろうなー、と思っていたあの「六条麦茶」のペットボトルが、ほとんど満タンという当初の状態のまま、再び私の手に―――!!
メカの熊谷さんが出発時からずっと運んできて下さったというのです。この時はとてもうれしかったです。
私は忘れ物イノコも覚悟していたのですが…。
その後、夕食のハヤシライスを皆で作ったのですが、燃料が炭しかなくて、煮るのに時間がかかり、夕食を食べ終わり、就寝しようとする頃は、既に真夜中、12時頃だった。
今日はなんと実質20時間ほど起きていたことになる。地獄の一日もようやく終わり、私はもうテントに入るや否や、ぐっすりと眠りについてしまいました。
6月22日(日) 1年錺
さわやかな朝。体中が筋肉痛でバキバキだったが、今日はコースが短くなり、フリーランも中止になったそうで、無事に完走できるかどうかとても心配だった私も少しホッとしたのでした。
おいしい朝食を食べて出発!!!コースが短くなったことでかなり心が軽くなった。スイスイとこいで、ダートの車坂峠も昨日の修業のおかげでそれほど疲れることもなく、どうにかクリア!!
やはり昨日の経験から水をたくさん持っていったのもよかったのでしょう。そして頂上では記念撮影をし、班ごとに昼食タイム。その後の下りは昨日の猛暑がうそのように寒かったのだが、下ってすぐの小諸駅がゴールだったので、気にならなかった。そして――ついにゴールインーッ!!この3日間の様々な出来事が胸によみがえり、とても感慨深く感じられた。
思えばこのプレ合宿で、私は心身ともに随分鍛えられたと思う。また、水はなるべくいっぱい持っていった方がよいことなど、たくさん学んだこともあった。
そして、このプレ合宿での苦しい経験が、あの過激な夏合宿に耐える力を私に与えてくれたのだろう。私はそう信じています。ともかく、プレ合宿を終えて人間的にひとまわり大きく成長したような気がして、私は少し晴れがましい気持ちで帰途についたのでありました。
97東北夏合宿 – 早池峰班 – 堀江,山取,藤田,横路,小山,錺,池田,上野&大橋
夏合宿早池峰班
8月3日(日) 集合日 1年堀江
前期プライベートに引き続き今日もうだるような暑さだ。ねぶた祭りの熱気が青森の気温を3°Cぐらい上げているんじゃないかと思わせるほど暑い。余りに暑いので僕はリンゴジュースを1リットル位も飲んだ。「やっぱり本場は違うな。」と思った。明日からの地獄の夏合宿にビビリまくっていた僕は、最後になるであろうこの小さなしあわせをかみしめた。
昼食はミスタードーナッツで食べた。前期プライベートを経て、すでに胃拡張になっている僕には、ドーナツなどといった代物など腹の足しにならなかった。店に置いてある全種類のドーナツを食べてようやく腹8分目になるかならないか位だろうと思った。
そこでもらったスクラッチカードで僕は7点というハイスコアーを出したので、錺(かざり)君は皿をゲット出来た。しかしその皿を合宿に持っていってもどうせ割れるだけだという事実に気付いた錺は、喜びから一転して「どないしたらええねん。」とあわてていた。
夜はドムドムバーガーで食べた。最後の晩さん(←漢字がわからない。すみません。)なのに、なぜ昼に引き続きファーストフードなのかと思いつつ、結局それを食べている自分が悲しかった。
こうしてファーストフードな一日が無為の内に過ぎさっていった。しかし、このように、なにもしない日が、明日からの密度の濃い2週間の夏合宿の前にあることは、とっても貴重なことなのではないか!と勝手に納得して心地よいねむりに就こうとした。
が、寝ぶくろに入ってからすぐ雨がポツリポツリと降ってきて、やがて本降りになった。この雨がやがては夏合宿中降り続く雨になるだろうということは、その時の僕には知るよしもなかった。
8月4日(月) 第1日目 2年山取
今日が初日。エール交換後、うすぐもりの中を出発。八甲田を通る。先日不穏な事件が発生したばかり。道中、死んだ将軍の記念碑などがあり重苦しい雰囲気。オレたちはこの先大丈夫なのか?いきなり雨が降ってきた。
ちょうどみやげ物屋に到着し、2,30分の休憩。その後ゴアを来て再び出発。体が完全に冷えてしまいとても寒い。途中降ったり、止んだりの連続。ゴアの着脱が面倒。着たまま走ることに決定。観光名所らしい奥入瀬は茶色く濁り、しかも急流。観光バスが何台も停車しており非常に走りにくい。
濁流を眺める観光客ら。お前らアホか?こんなの見て面白いか?心の中で叫びつつウェットな道を滑るように走る。雨も上がり午後3時キャンプ場到着。メシ中に雨が再び降り出す。本降りだ。となりでマーボーナスを作っていた他大学のサイクリングクラブでは大パニック。
蜂の巣をつついた様だ。が、我々は慣れたもので冷静に食事を終了。本日は全Cテンだったが、雨の為恩情で中止。テントに入るも「桐」はどんどん水を吸い、天井からもしずくが。普段なら眠れないところだが、眠い。壊れている。そしてこの先、オレはどこまで壊れていくのだろうか..。
8月5日(火) 第2日目 3年藤田
3時起床、5時出発。
1発目の発荷峠、どうも見覚えがある。そうだ、あれは中学の修学旅行方だ。あの時は、ここを自転車で激しい雨の中を走ることになるとは想像できなかった。バスで移動し、美人とはいえないが、女のガイドもいた。頭の中で、アルバムに貼ってある中学時代の僕の写真が俺を笑っている。畜生、がんばるぞ。
ひたすらアップダウンが続くコースだった。したがってどうしてもペースが速くなってしまうようだ。平均時速が13.7Km。これではクラブランとはいえない。
峠にあった牧場でヤギと戯れる。その間にゴアのすそを止めるゴムをなくしてしまう。ヤギが憎たらしかった。買い出しスポットで明日の天気を聞く。晴れのようだ。雨はもうたくさんだ。
キャンプ場手前の葛巻高原牧場で、風呂と大変おいしいミルク、ヨーグルトにありつく。冷え切ったからだには風呂は最高だ。風呂上がりに飲むヨーグルトも最高。ミルクのふたの裏についているチーズもうまい。
しかしこうもペースが早いと、ボスメカは大変だ。なかなか最終班に追いつかない。今日はキャンプ場の手前でやっと、まともに追いついた。
キャンプ場には他の客もいなく、独占できた。古びた小屋の中にあった半開きの冷蔵庫がとても不気味だった。肝試しの対象になっていた。
8月6日(水) 第3日目 3年藤田
4時起床、6時発。やっとクラブランらしいペースになった。
学年別フリーは楽しめるコースだった。狭いダートを集団で上っていく。ピークの牧草地は開けていて気分がよい。なだらかな丘がやさしい表情をしている。だれかが、丘のてっぺんまで駆け上っていた。
この峠のくだりはすさまじいものがあった。なるほど車がこれないわけだ。所々、路肩が崩れて、道がなくなっている。草木が手に当たる。顔に当たる。いたい。
早坂峠の水道水がうまかった。しかし、これが原因かどうかはわからないが、腹をこわす。この後、龍泉洞に寄る機会があったのだが、腹の調子が悪くてぐったりしていた。メンバーに迷惑をかけることとなる。
風呂にいくか、龍泉洞を見学するか、どちらかを選択できた。昨日風呂に入ったばかりなので、洞窟見学を選択した人のほうが多かったようだ。
キャンプ場は龍泉洞青少年旅行村。キャンパーがたくさんいる。そうか、いまは夏休みなんだ。
8月7日(木) 第4日目 3年藤田
国道走りがほとんどのコースだった。したがってかなり早いペースとなる。下見をしたのは小山だが、もっとスローペースのクラブランを想定していたため、大きくタイムテーブルをリードすることになる。昼飯が10時台ということからも、わかるだろう。
この速すぎるペースについて、ボスメカである小山と僕は話し合った。どう考えてもこれは速すぎる。本来のクラブランはもっとゆっくり走っていたはずだ。いったいどうしてしまったのだろうか。
2時5分にキャンプ場に到着してしまう。結果的には夕食の準備までかなりの余裕があったため、川で体を洗ったり、昼寝をしたりできた。しかし、このようなクラブランはどうなのだろうか。本流からはずれている気がしてならない。
その夜、僕は激しい下痢に悩まされる。粘液が出てきたのにはびっくりした。
8月8日(金) 第5日目 2年横路
この日も3時すぎと早めにキャンプ場に到着。しかし到着直後にあいにくの雨が降りだした。特別にするべきこともなかったのでシャワーを使うことが許された。夏合宿の前半は早めにキャンプ場に着くことが多く、3年の先輩方もその対処に困っていたようだが、川で遊んだり自転車の点検ができるなど良い点もあった。悪い点はその時間をダラダラとすごしてしまうと気持ちの切換えが難しいことだろうか。
そのキャンプ場では外国人や子ども達が周辺を楽しそうに散歩していた。小山さんがドイツ人の若い女の子(私たちと同じ位か)とドイツ語で楽しげな会話をしていた。そこに山取も英語で加わった。聞き取ろうとしたがドイツ語はもちろん英語もちんぷんかんぷんであった。
話を聞くとツールドフランスの話であったらしい。こんな若い女の子でも自転車に興味があり、ツールドフランスも見ているのか。もし日本でもこれくらい自転車の人気が高かったらなあという思いがこみ上げてきた。しかし私たちの乗っているランドナーではヨーロッパも日本もあまり人気は変わらないかもという気もした。
自由時間が終わりメシをつくっている間もずーっと雨は降り続き、結局屋根のある炊事場でメシを食べることになった。雨は一向にやむ気配がないのでテン割りマジックを祈っているとなんとマリモに当選。この日はテン割りの郡山に本当に感謝した。
翌日朝目覚めると何やら体にべったりとはりついてくる。ぬれたシュラフだった。シュラフから出て銀マットを調べてみると大きな水たまりを発見。シュラフが完全にぬれてしまい、この後数日はシュラフは使わずに寝ることになった。シュラフがねれると、かなり戦意喪失してしまい、どうやって乾かそうかとばかり考えてしまう。結局晴れた日の昼メシ時に、に食べる時間も惜しんでシュラフを広げて乾かすしかないのだが。
8月9日(土) 第6日目 3年藤田
夜に相蘇さんが合流された。ナイトランだったらしい。
夜、寝ている最中にまたどしゃ降り。運悪く窪地にテン張ったため、皆ずぶ濡れになる。どうやら僕と郡山だけが助かったようだ。シュラフを濡らしてしまうと、乾かすのが大変だ。
1発目の中山峠。早池峰班のメンバーはこの峠を忘れることはないだろう。まず、通行止めのゲートを越えるのが1番苦労だった。
最終班とボスメカの時間差30分が、あっという間に5分に縮まった。しばらくいくと、また障害物。木が道をふさいでいて担がなければならない。皆で協力してこれも突破する。なんとか、峠へ。しかし、最大の難関はこの後待っていた。
「どれが道なの?」道がわからない。草が生い茂っていて、地面が見えない。従って、どこを走ってよいか分からないのだ。僕の日記にはこんなことが書かれている。
「草ぼうぼうの下り。とんでもない。こんなのはじめて。顔に草が当たる。道ではない。夏合宿らしい。堀江、谷に落ちる。しかし、落ちようにも草が邪魔して、落ちきらずにすんだ。1時間のところを2時間半かかる」
ここを下見した大橋はすごいと思う。
真昼岳林道。これもきつかった。僕などは疲労のため、最終班についていけないという失態を犯してしまった。パンクの多さも気になった。5回以上あった。替えタイヤがもうないため、タイヤのバーストに頭を痛める。次だれかがバーストしたら、走ることはできない。メカとしては恐怖の連続だった。
完全なナイトランになり、疲れ果ててキャンブ場に到着。田中さん。高橋さん。堀内さん合流。食事のあとは、みんなでパンク修理。
8月10日(日) 第7日目・合流日 3年小山
朝が来た。ここ大曲ファミリーキャンプ場では常設テントに泊まった。起床後のテント撤収が無いのは嬉しいことである。昨夜は風雨が強く、テントが揺れ続けたがみんな眠れたのだろうか。
朝食の支度中に堀内さんと高橋さんが見えられた。蚊に悩まされながらの駅ネだったとのこと。
いつもの如く、慌しくナベパッキングをしつつ、続々と出発。緑が多い美しい景色の中、舗装道路のゆるやかなアップの続く楽しみやすいコースなのだが、残念なことに雨が降っている。ゴアテックスであるにもかかわらず、雨具の内側に汗の蒸気がこもり、肌にまとわりつく。やっと10分休憩になっても辺り一面濡れていて座る気にもなれない。去年と同様に毎日雨に降られることが多くそして寒い。
しかし、午後になると祈りが通じたのか雨もあがり、緑の田園の中を1列になって進む。今日は合流日、キャンプ場にて鬼首班の面面を見るのが楽しみで、自然とペースが上がる。そして、キャンプ場には鬼首班の奴等と一緒に、日本海が待っている。今日の最後の峠、下見の大橋からの指示は「海が見えたら、ピークです。」
そのとおり、灰色の日本海を眼下に見おろして、上下、軍手、ヘルメット。水平線に向かって爽快ダウンヒル、羽越本線の踏切を越えると潮の香りが漂ってくる。シーズン中にて、キャンプ場はたいそう混雑しているが、目指す所は唯一つ、汚いテント、黄色い集団。先に到着していた鬼首班からは「お疲れー」の声、そして水鉄砲が歓迎してくれた。
懐しい顔、懐しい声、ぞくぞくと集まってくる。そして、
「集合ー。」おわり
8月11日(月) 第8日目・鳥海フリーラン 1年錺
空を見上げると薄曇り、小雨のばらつく浜辺の朝だった。松林を吹き抜ける潮風の香りが何となく胸を騒がせる。そう、今日は何といっても中日のフリーラン!しかも天下に名だたる(?)鳥海ブルーライン!!
そして気が狂いそうな15km900mアップ!!!!「こんなんほんまに行けるんかいなっ!!」と心の中で心配しながらも朝飯は、しっかりかっくらっている私でした。
そして、いよいよフリーランがスタート!資料、全C、OBの方々が続々とスタートする中、私たち1年会の4人もいざスタートラインへ。「それ行け!!」の掛け声があがる。私はもう必至にペダルをこぎまくった。私は金ちゃんと抜きつ抜かれつの激しいデッドヒートを繰り返した。
いつの間にか雨はどしゃ降りになり、容赦なく降りかかった。だが、私はそんなことは気にも留めず、ただひたすらゴールを目指したのだった。そ、そして、ついにゴールが~っ!!私と金ちゃんの戦いはゴールまでもつれこんだのだったが、最後の順位はよくわかりませんでした。
とにかく、私は出迎えのみなさんの歓声に向かって、持てるすべての力を出し切ってゴールインッ!!
結果はどうあれ、私は全力を出し切れたことにとても満足でした。が、しばらくしてフリーランの熱気が冷めると、まるで真冬のようなとんでもない寒さに!!「ひーっ、さっ、さぶい~っ!!」
ふりしきる雨と吹き荒れる風の中、私たちは思わず押しくらまんじゅうをしてしまいました。そ、し、て、全員がゴールインした後は、みんなお待ちかね!のアレが!!そりゃもうあまりにスゴすぎて放送禁止です。あしからず。その後レストハウスで飲んだあったかいお茶のもーそれはおいしかったこと!!フリーランの緊張感もほぐれて、みなさんすっかりリラックスしていました。
それから快適に山を下り、下界に至ると、山の上でのあの暴風雨がウソのように快晴。そのうえ、とんでもなく暑くて、「なんじゃこりゃーっ!!」って感じでした。それでもしばらくは平地だったので、結構楽に走ることができた。だが、そんな私たちの前に本日最終の難関が!!それはわけのわかんキャンプアップで、すんごい(?)急勾配を文句言いながらも上り続けて、ついにキャンプ場に到着!!!
その日の夕食の完塾トマトとなすのカレーはとても好評で、食当冥利に尽きてうれしかったです。
その夜はさすがにフリーランの疲れでみなさんぐっすり安眠・・のはずだったのですが、翌日の全Cの長濱さんと横路さんは全Cテンが発見できずにとんでもない目に遭ったとのことです。来年は自分もそのような目に遭うのかと思うと、少し先が思いやられますが・・・。
とにかく、とても長く感じられた夏合宿もこれで前半が終了。明日からはいよいよ後半に突入するのでありました!!
8月12日(火) 第9日目 3年池田
早池峰班の8月13日の出来事を詳しく書こうと思ったが、たいしたメモもなく、4ヵ月前のことをわずかに思い出せることしか書くことができない。その日の象徴的な出来事を書くことにより、皆がその日のことを思い出し、さらに記憶が広がってくれれば幸いである。以下、記すことは事実とは異なっているかもしれないが、あしあらず。
僕らの班がキャンプ場に先着し、町へ薪をもらいに行くことになった。後続班の連絡係として郡山をキャンプ場においていくことにして、町へ出ることにした。後に、郡山をキャンプ場においたことを後悔するのである。
話によると、後続班が到着した時、郡山はぐっすりと眠についていたらしい。1人おきざりにされたこと、或は、よほど疲れていたこと、自然の中で横になり様々な空想にふけること、などの色々な何かは分からないが、要因によって、彼は眠りについたにちがいない。
しかし、何にしろ他者は皆、それぞれ同じ時間に何かをしていたのだ。ある者は地図を読み、前の安全を確認をしたり、ある者は、後ろから来る車を班員に知らせたりしている。
そんな中、彼の行動は、皆からやはり一言いわれてもしかたのないものだったに違いない。キャンプ場に到着した者たちをむかえ、「お疲れ!」と声をかけるのではなく、逆に起こされるという失態は、皆に笑いのうずをわかせたことは言うまでもなく、その点に関しては、悪いなりに良かったのかもしれない。
さて、合宿全体を通して僕は非常に疲れた。この事で、自分の目標を達成できた。達成感、充実感を得る簡単な方法は、合宿でもなんでも疲れるまで何かをすることだからだ。
一生懸命疲れると考える。余裕だった奴は、一生懸命やっていないはずだ。合宿において、何かを得たか得ないかは、与えられるものでなく、自分で得ていくものであるはずだ。
8月13日(水) 第10日目 3年上野
いこいの森キャンプ場を出発後1発目は市街地(寒河江市内)走りではあったが、やたらと長かった。50分で走る予定のところを1時間半程かかって走ったような気がする。
この長い走りの後1回休憩をはさみ、50分走り、タイムレース(決められた距離を何分で走れるか事前に申告し、実際に走って所要した時間とのタイムラグを競う)が行われた。
国道48号という交通量がかなり多いところだったため評判がかなり悪かった(関山峠)
タイムレースの結果は堀江1人何をかん違いしたか、ゴールに必至の形相で飛び込んで来たため結果はさんざんであった。しかしその甲斐あってか、おむつとお面をもらえたので堀江君なかなかの御満悦。(大橋君ごめんなさい。)
コース自体は短かく楽勝日と思われる日であったが、なんとこの日も長かった。昼は二口峠の麓のビジターセンターの近くで数日ぶりの風呂に入れる様であったが、皆体が重く1人だけ入りに行った人がいた。しかし、ビジターセンターのトイレや出入口にある水道で頭や全身を洗い流す者も数名見受けられた。
二口峠もなかなかすばらしいダートで走り甲斐もあり、途中の景色も見ごたえがあった。峠をくだる途中右手に山寺(立石寺)を見つつ皆1句ひねる。下り終えるといよいよ買い出し。
しかもしょぼい店で。一店で食料を全て買いそろえることができなかったため、二店にまたがり、この日は、買い荒した。
あとは天童高原キャンプ場へのキャンプアップを残すのみ。しかしこれがいかんせん一筋縄には行ず、メカトラが発生するは、珍客(同志社大学OB荒田さん)が訪れるは、ナイトランになり郡山のペースが異様に速くなるはと、キャンプ場に着いた頃にはすっかり日も落ち、皆気分も落ちぎみ。
しかし、この日も夜景をバックに大量の食べ物を胃袋に詰め込むとすっかり元気を取りもどし、明日への活力をため込むための睡眠につくのであった。
8月14日(木) 第8日目 3年藤田
天童高原C場から松岡C場まで。
昨日ナイトランしてまで稼いだ位置エネルギーを朝一で使い切る。今日はカラッと晴れた。10分休憩の小学校で水道水で頭を洗う。ああ気持ちがよい。
ザブンという音がした。小山が学校のプールで泳いでいる。真似をした。こっちのほうが気持ちよい。温水プールだ。
この日は楽勝日だった。キャンプ場手前でマキを買ったのだが、この時に花火を大量に買い込んだ。今日は花火バトルがある。クラブ生活で初めてのことだ。もう楽しみである。また、キャンプ場まで横路といっしょに走ることができた。いつも小山と2人きりなので班を持ったように感じ、新鮮に感じた。自然と声出しにも力が入る。
キャンプ場は花火バトルには最適の場所だった。他のキャンパーといえば、ライダーが2人のみ。ここ以上に望ましい場所は絶対にない。食後にこの1大イベントが控えているため、食事の用意もてきぱきと進む。
花火バトル。ああ、すごかった。皆本気で殺っていた。ゴアに穴が空いたり、軽い火傷をしたりする者が続出。荒田さんがあきれていたのが印象的だった。
8月15日(金) 第12日目 3年藤田
朝、花火を片づける。すごい量だ。ロケット花火の残骸が散在している。
ついに僕の下見の日。緊張する。昨日あれだけ遊んだからだろうか、10分前出発ができた。下見をした人は、自分が担当した日は順調にいってほしいと願うものである。この焦りが原因で、後に小山に注意されることになる。
池田と上野の班が道を間違えた。1時間半もタイムテーブルから遅れてしまった。班員同士の会話が弾んで、間違えたことに気がつかなかったという。
ナイトラインを恐れた僕は、とある峠の下りで上下軍手の指示を出していたにも関わらず、これを無視して構わないとしてしまった。このことを小山に注意されたのだが、もっともなことである。このような指示を出しては、CLが混乱するだけである。恥ずかしい思いをした。このような時に、事故は起こるものである。決して焦ってはならない。
磐梯山を望む牧場キャンプ場にはナイトランをすることなく到着。今日のイベントはヤミナベだ。僕はコーヒー豆の粉とにんにく3個を入れた。その他目立ったものといえば、大橋のイカ、上野のワサビといったところだろうか。ベースがカレーだったので、全部食べることができてしまった。何か物足りない。1年のときを思い出す。あれは、匂いを嗅いだだけで吐き気がした。
8月16日(土) 第13日目 1年堀江
今日はフリータイムです。みんなとても嬉しそうです。僕もとても嬉しいです。というわけでフリータイムが会津若松にて炸裂した。会津若松といえば百虎隊で有名な所だが、歴史散策などは眼中にはなく、食物獲得のことで頭がいっぱいになっていた。
ロッテリア→ドムドム→SATYとはしごし、ハンバーガー7コ、ケーキ2ケ、ソフトクリームを食った。まだ腹5分目位だったが、タイムアップになってしまった。
フリータイム中には洗濯もすることが出来る。しかし僕はそれをしなかった。16日間常にワセジャーを素肌に装着するというのが僕の信条であり、洗濯なんてもってのほかだった。そうして15日間着通したワセジャーは、今思えばただきたないだけだが、当時はなんてかっこいいんだろうと思っていた。
さてフリータイムも終わりキャンプ場へ向かう時、我々は屈辱を味わった。後ろから「自転車!。」と言うから、「レーサーが来るのかな」と思っていたら何と!カップルがママチャリで追い越してゆくではないか。これで合宿中自転車にぬかれたのは2回目である。
この前は少年にやられた。彼奴は完全に我々を意識した走りだった。坂道で時々我々の方を振り返って見ては、我々にぬかれないようかなりのペースで走っていた。僕と郡山さんは、このままではいけないと思い、少年の追撃を開始した。
その差はぐんぐん縮まり「これはいける!」と思ったが、少年は脇路に入って勝ち逃げをした。と、今年の戦績はさんざんだったが、来年こそはやってやるぞと心にちかって、ねむりについた。
8月17日(日) 第14日目 3年大橋
この日は福島県猪苗代湖天神浜キャンプ場からのスタートであったわけではあるが、昨夜のクラブ内外に渡る騒動の話から始めるのが適当だと思う。
その日の全Cは商2年江川君であった。彼の寝床はその晩猪苗代湖にあった。浮いていたのか沈んでいたのか正確にはわからないが、控えめに言ってズブ濡れだった。もちろんテントで寝ることはできない。彼はキャンプ場に戻って来たのだった。因に、全Cテンプランナーは、法学部を卒業なされたI橋さんです。
あまりにも手厚い施しに怒り心頭に発した江川はズブ濡れになった臭いWジャを脱ぎ、夏とはいえ、うそ寒い東北の夜空に自慢のてらてら黒光りする肉体をぼんやりさらしていましたとさ。
1人ポツねんと座る江川は、他大サークルのひどくゴキゲンは一気コールを聞きながらだんだん小腹が減ってきました。
他のクラブ員はとっくにテントに入っています。気が付くと彼はハンガーノックをむさぼり喰っていました。(これは僕の私見。)1通り御法度を犯し、満足してしまうと急に夜気の寒さを感じてきた江川は、体を暖めるために、しょんべんくさい本を手に取りました。(以上邪推。)
その時です。助手席にガキを乗せた(暴)風の男が悪態をつきながら、クラブ員のコッヘル及び食器類を蹴り飛ばしているじゃないですか。どうやら夕食の集合円が道の真ん中に在り、車が通れなかったようです。(おやおや)
しかし男の態度がいやにゾンザイであることに加え、食器を足で蹴るなんてひどい、と江川君が思ったかどうかは知りませんが、彼はなけなしのクラブ愛の為、そしてずいぶんと大きな今夜の不満を晴らす為にその男に「喝」を入れました。
その騒動でテントを這い出してきたWCC野郎共4人。池ポン・上野・久ミナト・そして僕です。5対1とはいえ、相手ては筋者。迫力は仲々のものです。戦いは熾烈を極めましたが最後は池ポンが、夏季限定版『池田さん』に変身するに至り、両者の仲裁をそれは見事に仕切りました。それにしても江川ピンチの巻にテントの中でたぬき寝してたクラブ員は考えものですね。
前座が長くなったがこの日の走りについて書こうと思う。1発目はダート22kmの巨大な峠であった。中央分水嶺の峠で名前はない。名前のない峠走る気なくします。正直言って。だいたい名前ないってどういうこと。さて次。2発目土湯峠。この峠は下りが素晴らしい。
前プラで同じ班の山取君がこの峠を走った時下りで記録を打ち立てたそうだ。しかし、合宿コースは彼が通った新道ではなく旧道の方。うーん。しかし、合流後のループ立体交差は僕にインスピレーションを与えたし、そこでの山取君のパンクもビビッドで、スピリチュアルな影を添えた。福島市をナイトラインで通過し、漆黒の中、なだらかにキャンプアップ。キャンプ場に既に着いたらしい郡山の遠吠えが聞こえるが、この文章もなだらかに終る。
8月18日(月) 第15日目 2年山取
前日激しいナイトランを行ったせいか、体が重い。本日は合流日。何としてもキャンプ場に無事着かねばならない。と気合いが入る。しかもCL。頑張っていこう。
朝一で峠を登る。私のすぐ後を走っていた、4年生の花井さん・吉成さんにあおられ、無茶苦茶速いペース。1年生の錺に悪いなと思いながらも、予定を大幅に上まわってピークに到着。
キャンプ場出発直前に発覚した、江川のパンクの遅れを取り戻す。一気に下って七ヶ宿ダムを左に見ながら快走。ところが、昼食後のダートは地獄。
我々の班は休憩ポイントである「茶色い屋根の小屋」を見逃したため、2時間ダートを登りっぱなし。その際転倒た時にサングラスを失う。さらば7,000円。その後は着々と進んだ。が、キャンプ場の看板から何と2キロUP。
気を失う者が続出すが、班員で激励し合いフィニッシュ。鬼首から水の歓迎を受ける。ああ合流日。明日夜は仙台。全Cはなぜか政治経済学部の横君に決定。バンガローで就寝。但し江川君を除いて。
8月19日(火) 第16日目・最終日 1年錺
とてもさわやかな朝。いつもと同じような光景ではあったが、心の中は少し違っていた。そう、今日はついに最終日!!これまで15日間夢にまで見たゴールが、もう目の前まで迫ってきているのである。
合宿の前半は、一日一日がとても長く感じられ、「まだ何分の1かー…」などと指折り数えて憂鬱になっていたのだが、後半になると、毎日がとても速く過ぎ去っていった。そして、あっという間に今日という日を迎えてしまったのである。だが、夢のゴールの前には、蔵王・大フリーランが!それでもやはり、私は前回のフリーラン前に比べると、少しリラックスしていたように思う。
そうは言っても、スタートが近づいてくるにつれ、次第に緊張感が高まってゆく。そして、ついにスタート!!今日は、中日の時とはうって変わって、まさに快晴。
必至にペダルをこぐ私たちに、まぶしい太陽が照りつける。ほとばしる汗が頬を流れる。最初、私はこの暑さのせいかとてもしんどかったのであるが、ゴールが近づくにつれ、不思議に力が湧いてきたのだった。
これはやはり夏合宿の成果だろうか。ぐんぐんと追い上げて、ゴール!!なんと、1年会で初の2位になってしまった。それだけに、もう満足感はひとしおでありました。
昼食を済まし、お釜見物をした後、いよいよ仙台に向けて山を下ることに!しかし、トラブルあり、道間違いありで、4班のうち2班は予定時間を大幅にオーバー。もう、そりゃあせりましたよ。
しかも仙台に近づくにつれ、どんどん車が多くなり、肉体的にも精神的にも疲れはピークに。迫りくる夕闇に、ちゃんとゴールインできるのかさえ心配になってきた。
だが、何とかナイトラインになる前に仙台の街に入り、久々に見る都会の雑踏に興奮しつつ、最後の力を振り絞った。そのうち、つ、ついに仙台駅がっ!!ゴールはもう目の前!!
そして、今、ゴールインッ!!!長いようで短かったこの16日間の思い出が胸によみがえる。まさか自分が本当にこの激しい夏合宿を乗り切ることができたとは!!!
何か新しい力を発見したような気がして、自分がとても誇らしく思えたのでありました。
さてさて、それからは、久々の入浴、マトモな(?)夕食、むちゃくちゃスゴすぎるッ(??)隠し芸大会、ともう楽しいことのオンパレード!!そして、合宿の最後を締めくくる儀式の後は、「ええっ!?!ま、まさかあの人がこんなことにっ!!」とでも叫びたくなるような、驚愕のアレが!!次々とアレされる3年の方々を前に、ただ息をのむばかり!!
私たち1年には刺激が強すぎました(?)。それからは、みなさん連れだって思い思いの夜を楽しむべく、夜の街へと繰り出したのであります。それぞれ、合宿中のうっぷんを発散させようと、胸の中に何らかの野望(?)を抱いていたようですね。仙台の夜はまだまだ続くのでありました!!!!
97東北夏合宿 – 鬼首班 – 金,長濱,川野,大野,桜井,石井,大崎,斎藤,熊谷&大崎
夏合宿鬼首班
8月3日(日) 集合日 1年金
8月3日朝、青森は晴天である。昨日まで前プラで、朝はあわただしかったのだが、この日は目を覚ましてずっとボーッとしていた。そのうち「津軽海峡冬景色」が流れてきて、何ともいえぬ旅情感を感じた。そう、今は旅の途中なんだ。非日常的世界に入り込んでいるんだ。
ずっとジッとしているわけにもいかないので、錺と大崎と共に朝食のパンを買いにいった。余談だが、錺は甘いものが好きである。彼のお気に入りの店は「ミスド」である。8月2日にミスタードーナツにいったのだが、、後で聞くところによると、この日も錺はミスドに行ったらしい。甘いもの好きということが彼の人柄を助長していると思う。
集合日について、あまり記憶はない、きっと午前中はずっとボーッとしていたのだろう。午後に、川野さんから、クラブ買い出しの店が全て書いてある紙を頂き、O崎と話しあった。どの日に何を作るか、食材の量はいくらか、など検討しあった。いや検討したといいうのは語弊だ。全てはほとんど僕が決めた。
大崎は少しものごとを真剣に考えないところがあるのではないか。いい意味で「楽観的」、悪い意味で「いい加減」だ。
とりあえず、食材を予約しに行った。テレホンカードが一瞬でなくなっていった。カードの度数がどんどん減っていく。青森から遠いんだなぁ。でも何日か後には、そこに行くことになるんだ。
マクドナルドに遅い昼食をとりに大崎といった。すると2年生の先輩たちが、ズラッと勢ぞろいしていた。が、しかし僕たちはずっと最後まで気づかれなかった。声をかけることもしなかった。
夜、1年全員で風呂に行く途中に「ねぶた」を見ることができた。ねぶたを引っ張っている青森県民はアツかった。でも明日から、ねぶたよりも熱い夏合宿が始まるんだ。晩飯はドムドムだった。昼はマックで食ったのでドムドムはキツいものがあった。
深夜、寝ていると、急に雨が激しく降って来た。皆、目を覚まし、雨が止むのをまった。「ふざけんなよ!」という気持ちになり、イライラしつつ、ふと周りを見渡すと、1人だけ、その悪条件の中、微動だもせず眠り続けている男がいた!!言わずもがな、その人物は堀江、18歳だった。皆、「すげえな」とビビってた。横路さんも「アイツはWCCを超えている。」ともらした。堀江は百万ドルの寝顔をしていた。
雨が弱くなり再び眠った・・・「起床!!」という号令を聞くまで。
8月4日(月) 第1日目 2年長濱
前日、夜半からものすごい大雨のせいで余り良く寝ることができないまま、起床。普段の生活や私のナメナメプライベートの概念からすると、絶対にまだ夜の部類に入るであろう時間。しかし東の空はとうに白んできている。お陽様ってこんなに早くのぼるのか。僕の睡眠は4年の誰かが持ってきた目ざましテレビのキャラが何やら女子アナの声で起こしてくれるやつによって破られたのだが、止め方が分からず、ひどい目に遭った。
ひたすら楽しくかつ自由だった前プラ、昨夜のんだモルツ…昨夏の体験を踏まえている2年生にとって、これから予想されるであろう合宿のボリュームを思うことはそう難しい!ことではない。そして、この時の2年生にとって、ある程度、逃げ出したい気持ちを持っていることを否定はしないであろう。
来年の2年生だって、あるいは去年の2年生だって。特に今年はきびしさを志向していたので、ちょっとのんき者の僕には不安だった。エール。川野さんも小山さんも非常に気合いが入っておられ、身が引き締まる。
これに、合宿開始の緊張が伴って、僕は少しお腹が痛くなりました。郡山はふき出していましたけど。郡山君、来年は君が笑われる番なのだよ。
たしか、鰺ヶ沢で「NHK放映(ひるどき日本列島)出演」というふれこみのイカの店が多く立ち並んでおり、喰いたくなった。白神山地の入口あたりから雨が降りはじめた。
その前に、線引きの通りに行かず、僕は新道を通って「ととまるしえ」に入ってしまい、下見のくま谷さんにおこられてしまった。これからいくどとなくくりかえされる僕の地図まちがい第1号であった。白神は雨。山奥の「アクアなんたらビレッジ」だとかいう、ステキな名称のキャンプ場だったが、大野の全Cテンはシャベルカーのシャベルの中に、雨にずぶぬれになって落ちていた。初日からやりすぎっすよ。(完)
8月5日(火) 第2日目 3年川野
前日から降り始めた雨は止みそうになく、シュラフは2日目にして早くも濡れてきてしまっている。キャンプサイト地の「アクアグリーンビレッジ」には、立派な管理棟もあり、ファンシーな土産物もおいてある。炊事場もコンクリートの床に、屋根、壁つきの大層なものだったが、いかんせん煙を逃がすためのダクトなどの機器がないため、煙がこもってしまい、炊事をする時には、目が痛くて大変だった。近代的な設備も、逆に不便なこともあるものである。
そんなこんなで出発。管理人のおばさんに挨拶をしていると、熊谷が先に行ってしまい、山深い中を1人で黙々とすすむ。まだ朝で、体も重く、かなりつらい。西目屋村の美山湖へ向けての急な下りで、かなり怖い思いをして、なんとか追いつく。相馬村に入り、地元の生協の駐車場で休憩していると、少し晴れ間がのぞいてきて、ゴアテックスを脱ぐ。櫻井氏が、本日1本目のアイスを購入する。
休憩後、しばらく走ると地道に入り、いよいよ「相馬、田代林道」となる。林道は強い風と雨に一行は悩まされることとなるが、特に、この風の強さは、尋常なものではなく、「もしや台風が来ているのでは?」と思わせる程である。
ところどろに、大きな(幅3m×長さ5m×深さ100mくらい)水たまりがあり、サイドバックが1/3くらい水につかることもある。1年の金君は、やられ気味で、大崎君も、いつものニヤけた表情がなく、2人とも「エライとこ来ちゃったなー」といった風情である。
更に、金君は、崖下へ転落したらしい。一方、3年の面々は、何故か楽しそうな顔をしている。頼もしいというべきか、頭のネジがどこかへ行ってしまったというべきか?
私も、何だか、とんでもなさすぎるので、90%は楽しんでいた。が、残り10%くらいで、ボスとして引き返すことも考え始めていた。仲々、峠は見えず、班の志気も多少、落ち気味だったので、早稲田コールをしたり、「バカヤロー」とか、バ声をあげつつ進むと、やっとこ「長慶峠」という石碑が建っており大休止となる。
一同、一応の記念写真をおさめ、田代町へ向けての急峻な地道を下っていく。休憩ポイントである小屋を見過して、全班共、1時間半近く走って、次の休憩ポイントである、朽ちかけた橋で休む。上下軍手、ヘルメットを脱いでいると、晴れ間がのぞき、今度は逆に、(夏なので当然というべきか)暑くなってくる。
近くの飯場の作業員らしき男性が、実用車で上ってくる。サイクリストではないようだ。面目丸つぶれ。「大野小」と地図には出ているが木造の廃校のようであった。この辺りも、一昔前は、林業の町として活気があったのだろう。
舗装路へ入ると、OBの岩橋さんがリムを曲げたとかで、止まる。メカの熊谷氏が修理している横で、私、斉藤氏、石井氏、長浜君、金君の面々で、靴下を乾かしたり、通り過ぎる車の車種当てをしたり、
2年の長浜君をおちょくったりして楽しむ。時間がかかりそうなので、私、熊谷氏、岩橋さんの3名を残して先に行かすこととする。
熊谷氏の案で、とりあえず応急の修理を施し、3人で後から行くと、買い出しポイントの「スーパー」で追いつく。スーパーの近くの自転車屋「鮎」でリムはないかと聞いてみるも、残念ながら無く、大館市まで行かないと無理だろう、とのこと。残念!!!
しかし、ここの親父さんは面白い人物で、我々と会うといきなり「私は、宮崎県の出身です」と自己紹介をする。仕方なく、店に戻り、3人で買出しをすませていると、薪を売ってくれた材木屋のおじさんが、遅れた我々3名を、トラックで送ってくれるという。後で聞いたところによると、最近、19才になった娘を亡くしたばかりで、同じ年くらいの我々を見るといろいろ助けてやりたくなるとのことだった。また、この田代村のあたりは「忠犬ハチ公」のモデルとなった秋田犬の生地であるそうだ。
さて、「大館市民の森キャンプ場」に着くと、斉藤氏らの班が、入り口がわからないとのことで待っていた。下見の熊谷氏先導のもと上っていくと、熊谷氏はいきなり芝生を下りだしたかと思うと、そこは行き止まりとなっている。氏いわく、
「こっちの方が近道なんだけど上級者向きなので、今日はまわり道で行くか」
とのこと。絶対に間違いを認めない彼らしい行動ではあった。
なんとか、キャンプ場に着いたのは、8時過ぎであった。ここでも、食材が連絡ミスで、後ろの班が本来持ってくるべき分を、スーパーにおいてきてしまった。とのこと。仕方なく私がスーパーに電話してみると、パートのおばさんが持って来てくれて助かる。
しかし、翌朝は、ハンガーノックのみで出発するといいうことになる。いやはや、最初から最後まで事件続きの一日だったが、東北に住む人のあたたかさを知った一日でもありました。
8月5日(水) 第2日目 2年大野
夏合宿2日目の8月5日、この日は最悪の天候ともあり、前半の山場とも言える内容であったと思う。これから思い出せるかぎり書き記してみたいと思うが、なにせこれを書いているのはクリスマスを間近にして周囲も部員も?せかせかしている12月である。それでも思い出そう。
この日は全Cであった。ということは当然前夜は全Cテンとやらを探さねばならないということだ。これから始まる全Cテン探しの苦労を、この日が暗示していたのだろう。雨の降りしきる暗闇の中、ヘッドランプのみの明かりを頼りに説明された目標を探す。
だが闇では全て無力だ。小1時間ぶち切れてその辺で雨を防いで筋トレしてうさをはらした。それでも寝ないことにはと思い、もう1度その辺を探しに行った。今度はかなり奥まで行った。そうすると腐ったダンプカーみたいな物陰にテントがあるではないか。「おし」と思ったのもつかの間。水没中であった。
「おいおい、この中で寝るのかよ、それにこのテントで寝たら病気になるよ」
と思ったが本当にしかたなく寝た。翌朝、頭が水に浸っている感触で目が覚めた。何とも言えない感触でもう帰りたくなった。その上体はかゆい。それでも雨にぬれながらテントをたたんで皆を起こしに行った。その頃、ちょうど雨も弱まってて、またキレた。
走りについても書かなくては。この日でメインといえば長慶峠だ。道も決してよくない悪路だ。とは言え登れないものでもない。普通の日に限ればの話だがそれは。
この日は風速は20m前後はあったものと思われる。その上道の端はガケである。落ちたらどうなるかは言うまでもないだろう。危険を伴うのもではあったが、キレてて早くのぼることしか頭になかったろう。ひたすらこいだ。班員も皆、頑張っていた。僕はそう思っている。のぼりきった時、皆感動しているとは思えなかった。
当たり前であるが、やっと終わって下りだという安堵感で一杯だったろう。だが僕の前に立ちふさがるさらなる壁はブレーキシューだった。何とこの極寒の暴風雨の落ちたら死の場所でである。
またキレてて半分投げた。マジでキレた。同じく長浜はパンクしてた。彼の心中は十分すぎるほど分かる。だが自分で精一杯だった。この辺の強さを持っている人間はこのクラブでは多いのかな。とにかく「よく頑張ったね」と可愛いい女の子から慰めてもらわないとダメだね、こんな日は。
8月6日(水) 第3日目 3年川野
同志よ!ドウシてすごしたかね、この夏を。私メにとっての夏合宿。日本の夏。キンチョーの夏。さてさてアホな話はおいといて、今日は早くも3日目、まだまだ3日目、8月6日。
朝は久しぶりの太陽ものぞく、うすぐもりの「大館市民の森」。前日の手違いからか、はたまた予定どおりなのか、今日の朝食は各自、スイカ1切れとハンガーノックのみなのだよ。ちなみにこのスイカ、前日の買い出しポイントのスーパーのおばさんから差し入れていただいたと、私の頭(スーパーコンピュータ)では記憶しているのだが・・・。
(さらにつみなりけ加えると、我々鬼軍団、チーム首《命名者:2年の長浜氏、1年の金君》は姿形(みなり)がよっぽど悪かったのか、OBの谷口氏・岩橋氏をはじめ、スーパーOB、通称「親父」こと9代の砂子さんや、初代キャプテンの菅原さんのお嬢さんやら、ファミリーキャンパーの各方やら買い出しポイントなどほうぼうの方から、アイスやジュースやアメやスイカから赤飯や煮物や果ては土地の有力者のムスメやら、やたらいただき物をしていたのでありました。)
さて、出発して田園風景の中を走っていると、突如あらわれるは巨大ドーム。地元少年野球チームにまざって、マウンドを占拠したるは、かって名門、県立千葉高校で剛腕をならしたという(自称)3年の石井氏。受けるキャッチャーは頭だけは甲子園球児という斎藤氏。しかし、屈強なガードマンの登場で、惜しむらしくも石井氏の魔球は魔球のままいずこへ!!!!
その腹いせに、次の駄菓子屋では石井氏、私メ、斉藤氏・喜多氏の4人は、近所のガキ共水デツポウにまぎれ、強力秘密最終兵器を購入し、以後、鬼軍団チーム首をまきこんだ仁義なき戦いがぼっ発するのである。そんなこんなで、いつの間にやら「八幡平アスピーテライン」の峠、見返峠に到着。長浜氏が蜂にさされたとか言って止まるがもちろん無視してキャンプ場へ。
結局、なんでもなく、長浜火あぶりの刑を最高会議で決定し、彼は2度死んだ。
8月7日(木) 第4日目 1年金
「起床」の声で目を覚ました。「今日はまだ4日目か。」僕はブルーを通り越してグレイな気持ちになりつつ、シュラフをたたんだ。4日目にもなると、食当の仕事もだいぶ慣れてきた。朝めしを胃袋に押し込め、すぐ出発。
今日はいきなり下りから始まる。上下軍ヘル装備をしチャリにまたがった。この日は首班が先発だ。下り始めてまもなく、首班が止まっていた。大崎が車と衝突しかけたらしい。僕も朝1発目に下りから始まるのは初めてで少しボーッとしてたが、事故らないように気合を入れた。
クラブ買い出しの店「ハチヤ」に9時頃到着。開店は10時だった。特別に先に買わしてもらうように頼んだが、ダメだった。デカい駐車場で待つことになった。どこからともなく、大しゃもじをバットにしての野球が始まった。(写真参照)「青春」を感じた。大野さんはプッシュアップ(腕立て伏せ)やトランク・カール(腹筋)をして鍛えていた。
クラブ買い出し、個人買い出しを済ませ、順調に進み、昼休憩。コへ弁を食う。なぜか僕はこの16日間、コへ弁に「飽きる」感覚を感じなかった。よく飽きないなと自分でも思った。
昼休憩が終わり、少し進んだところで、水泳タイムの開始。川でみんな泳ぎ始めた。僕も泳ごうと思ったが、アスファルトに寝転がった途端に眠りに落ちてしまった。道端で人が寝ている。
客観的に見ると異常だ。しかし当事者にはそれは正常なのだからおもしろい。結局、僕は行水することができなかった。体を洗うことができなかったのが悔やまれた。
クラブラン中、鬼班での流行り歌は数々あった。特に斎藤さんが連発していた、TMレボリューションの
「♪~体が夏になる~。」や石井さんの「ハチのマークのハチヤ~♪」
(どんなメロディか知りたい方は石井さんに聞いてください)などである。
後半、都市トークで盛りあがった。「徳島がイイよ。」「札幌がよかったっス」「小川町最高」と皆競い合っていた。
岩洞湖のキャンプ場に無事到着。中学生らしき男女数人がいて騒がしかった。メシをつくりいつものバトルだ。1年生2人だけのバトル、過去にこんな人数の少ないバトルがあったろうか。夏合宿中ずっとバトルをやってきたが、まだバトル技術が僕はヘタクソである。
テントに入り、ベッドインではなくシュラフイン。きっと明日の朝も「まだ5日目か~」と、ブルーな気持ちになっているかもしれない。
8月8日(金) 第5日目 2年長濱
5日目。本州に於ける最低気温観測記録を持ち、地もてぃをして「冬さ普通(ふづう)じゃねぐすばれるだよ」と言わしめる、文字通り“寒村”と呼ぶにふさわしい過疎の地岩洞湖の朝一は冷夏の東北でもひときわ寒かった印象が強い。魚(とと)バトルでいぶし銀のバトリスト「熊谷」さんに珍勝した私は連日の寝不足にも拘らず、朝からまずまずのテンションを保っていた。
しょっぱなからのダートや変な分岐、牛軍団による妨害のための緊急停止も何のその。
我が鬼師団は果敢にも「牛消毒用池突入越え」などの奇策を講じつつ、自らの生命力(バイタリティー)、奇人性(アブノーマル)を遺憾無く発揮、みちのくの自然にあるときは溶け込み、またあるときは対峙し、ペダルを踏んでいった。
私が5度目の地図間違いをする頃には、我々は北上川に差しかかっていた。齋藤さんは、「金よ、北上川だぞぉ。おォウ!よく見とけよ。どうだ」と盛んに感じ入っている様子。
金は「はァー……」と気の無い返事。そう、金は連日のダートで、このころにはかなりイっちゃっていたのだ。川を渡り、盛岡の北をかすめつつ滝沢の駅前にて久々の『ローソン休憩』。
私は迷わずスポーツ新聞・ガリガリ君ソーダ味・ファンタグレープの【3種の神器】を調達(ゲット)。
それぞれの物的欲望を満たし、師団の雰囲気は最高であった。高原の道をサーッと下り、雫石に入ると間もなく小岩井農場に到着。コヘ弁タイムである。【3種の神器】をGetしつつもハンガーノックのことをすっかり忘れていた私は、この時激ペコ状態で、サドルからケツを離すや否や、ファンタグレープを求めて自販へDushした。
WCCらしく何も見ず何も買わずに小岩井農場を出発。ススゥと下り南下する。程なく田沢湖線をまたぐとすぐに国道46号線とぶつかった。
のろのろと単線を走る秋田新幹線「こまち」を眺めながら、田沢湖線沿いに46号を西進。途中、サンクスでの10分休憩では、無駄に大声を張り上げて指示をし、チーム首を威嚇してみたりして気分転換を図った。
赤渕駅を過ぎ、跨線橋を渡ると、一旦田沢湖線に別れを告げ峠を登り始める。途中のドライブイン休憩で谷口さんが財布を忘れて逆走しているスキに、鬼師団は全Cを奪回。
しかし、そういえばこの日、当初全Cであった我が師団はいつ抜かれたのであろうか?都合の悪いことは記憶から抜けている。変な旧道の狭い峠を登り、あと少しという所で金のチャリにアクシデントが起きた。私には詳しい原因は分からないが、ハンドルが切れなくなったというのだ。応急措置が終わると、取り敢えず金とメガがチャリを押して峠を下り、我々は先を急ぐことにした。急な下りで落石が多く、激務であった。
私はびびってしまい超鈍速で下っていると、再びサドルにまたがっている金と、金のイカレチャリにまたいでいる「熊谷」さんに追い付かれてしまった。ボスメカ鬼で注意深く走りつつ、買い出しポイントの「かたやなぎ」に到着。メカ殿が地元のガキとコミュニケーションをとっている。何だろう?と思いきや、メカ殿はチャリ屋について尋ねていた。「ケッッツ、こんなクソたれガキにプロの目に適う店が分かるもんかい」と私はタカをくくっていた。
メカ殿は一応、そのガキの知り合いの「○○君の家の店」に向かい、金はメカチャリにまたぐこととなった。(このチャリ店で何と修理することができた)
やや変な分岐もあったが、私は前プラでも1度田沢湖に来ていたこともあり、町営キャンプ場へはスムーズに行けた。石井さんが「おぉ、いいじゃんいいじゃん」と言われているのを、少し申し訳なくも思いながら、キャンプ場へと走った。
首(こうべ)からかなり遅れてキャンプ場に到着。しかし、当初のタイムテーブルよりはかなり早く着いた。夕メシに何を食ったかは忘れてしまったが、強烈に憶えているのはこの日の大野の全Cテンだ。余りにも残酷。崖っぷちの草の上に立っていて、しかも天井が低い。この時の大野の悲愴な顔を、ダートでサドルがもげた時の金の顔と並んで、私は忘れることができない。
最後にテン割担当として、この日の鬼ども・首(こうべ)どもの寝床を一挙掲載しておく。
N2M→熊谷・岩橋
モンデシ→谷口・櫻井
エルザ→長濱,金
キムチ→喜多·齋藤
鳥海→大崎・石井・川野
全C(坊主)→大野
8月9日(土) 第6日目 3年桜井
今日も朝から雨。また雨かよ、東北の気候はどうなってんだよと多分ぼやいていただろう。キャンプ場を出て辰子像へ、僕の撮った写真が思ったように撮れてなくて残念、そして予定では田沢スーパー林道へ行く事になっていたのだが通行止という事で角館へ行く事に、これもまた残念、角館でフリータイム、久しぶりにコッヘルで食べる以外の食事が食べれるという事で店へ。
店では高校野球が放映中、最近高校野球を見ないなぁ、昔は甲子園に父親と一緒によく見にいったのになぁ。この店で驚いた事、200円で飲み放題ジュースがあったのだが、岩橋さんがあまりに多くおかわりに行っていた事、10杯は飲んでいたように思う。
フリータイムを終え角館を出発し次の休けいまでの50分。この合宿で1番長い50分であった。というのは走り出して10分後ぐらいから小便に行きたくなり、その後の40分程何度走りを止めようと思ったか、また尿道を刺激しないようお尻をサドルから浮かしたり、サドルに押さえつけてみたり(これは逆効果)、またおなかに力を入れてみたり、手をつねってみたり、頭をふってみたり、体をひねってみたり、ちんこをおさえつけてみたり、様々な事をやりながら残り40分を過ごしたように思う。
まぁ我慢できたので良かったのだが今思うとバカな動きをしているものである。その後は僕自身も合宿としても順調に進みキャンプ場へ。このキャンプ場へ行くには300mupをしなければならなかったのだがそこからの眺めはそのupをさし引いても10分の余りがある絶景であった。
そして夕食後の花火、やっぱり夏は花火でしょう。男同志というのはやばいけど、後ロンバケでキムタクと山口智子の花火シーンと同じようなものを撮ろうとしたが失敗、まぁ被写体が被写体だし、場所も場所だし、状況も状況だしまぁしょうがないか。花火の終わりみんなテントへ。明日の地獄の朝を誰も知る事なく眠りに就いた。
8月10日(日) 第7日目・合流日 3年石井
この日は、合流日。距離、UPともに楽勝。コースは羽越本線に沿って南下、象潟海水浴場キャンプ場でゴール。
朝、ものすごい強風で金がメガネを飛ばす。これでこの合宿3回目。A-COOP、折渡峠、デイリーストアで10分休憩をとる。
10時ごろから雨が降ってきた。この雨じゃキャンプ場に就いてから泳げねえよ。さらに2回の10分休憩を撮って、昼すぎにキャンプ場近くのスーパーカクゼンで買い出しアンド昼飯。なぜか店の人からアイスの差し入れ。サンキュ。
2時前に、キャンプ場に到着。早池峰班の分の食事の準備もすませ喜多、斉藤と砂浜へ。途中からOBの砂子さんと岩橋さんも合流。
砂子さんが、米式のビーチベースボールなる風変わりなゲームを教えてくださったので、それをやった。なかなか楽しめた。ひと通りゲームを終えると海へ入水。
沖の方へいく度に監視員に注意され、海に入ってはひきあげるという行為を繰り返した。最後のほうは、監視員もマジで怒ってて楽しかった。
夕刻ごろ、早池峰班の面々が到着。けっこう皆疲れている様子。夕飯時になると、OBの方々が続々と到着。いつもの3倍くらいの円で鍋を囲む。これだけの人数で飯を食うのは初めてだ。飯を食べた後は、砂子さんに買っていただいたスイカでスイカ割りを行った。
こうして、いつになく盛大な夜の宴が終了。翌日の鳥海フリーランに備えて、皆、各々のテントに消えていきました。
8月11日(月) 第8日目・鳥海フリーラン 1年大崎
8月11日は、フリーランの日だった。僕は元陸上部だったけれど、フリーランのような競争はあまり好きではない。しかも、15キロもあるということもあり、朝から大変ゆううつで、とても緊張していた。
そのせいで、おなかが朝からピーピーで、くるしかった。とてもゆううつだった。
15キロもあるということもあり、ゆううつだった。
すごいアップしなければならないので、ゆううつだった。
雨が降るらしいので、ゆううつだった。つまり、かなりゆううつだった。
でも死ぬ気で頑張った。死ぬ気でこいだ。死ぬ気で走った。
死ぬ気でふんばった。そして走り切った時、すがすがしかった。
たしかにとても長かったけれど、すがすがしかった。
とても苦しかったけれど、すがすがしかった。
雨も降ったけがすがしかった。
フリーランは、とてもすがしいものだと思った。そんな一日だった。
8月12日(火) 第9日目 3年斉藤
本日は工程がきついので3時半に起床。暗い中、朝食やら出発の準備をしていると突然の雷雨にみまわれる。雷は段々近づき、どでかいのがおちたとき、大橋がビクッとよけたのに気づいた人はいたのか。はやちねに見送られて出発。
コンビニで買いだしをしている時店のおばさんに「どこまで行くの?」と聞かれて「山」とどうしようもない返答をしていた石井に気づいた人はいたのか。
下見の段階では美しい鳥海山が見えていたそうだが、今日はなにも見えない。やっぱりサイクリングが天候に大きく左右されることを再認識した日であった。途中から鳥海山の東側を越える奥山林道へ入って道は除々に荒れてきて、我が鬼首班鬼師団の自称軍曹の金はボロボロのダートにハンドルをとられ何度となく転倒し、しまいにはガケから転落して笹の葉にひっかかって命びろいをする始末。
眼がねも無くすし、最後にはヒステリーをおこして石ころにやつあたり。こういうことをされると3年の私としては1年をここまで追いこむことができたことに大満足である。なんとかあやしながらのぼってきたが、もう金も限界かと思われたころ、ようやく峠に着き、下見の喜多の指示通り少し下ったところで休憩しようとして自転車をおりた時、目の前には雪をかぶった鳥海山がまさに雄大な姿をあらわした。
山の中腹からは滝が流れおちているのも見えて鳥海山が毎回東北合宿ではメインにおかれるのも納得できた。下界はくもっているのでこの景観はここまで登ってきたものしか見れないもので、この満足感はきついダートを自転車にまたがって登ってきた、自分達の独特のものなのだろう。このあとはのどかな田園風景の中をキャンプ場まで向かったのだが鳥海のインパクトが強くてよくおぼえていない。
スーパーオールドボーイの砂子さんは鳥海に登るといって私達と別れたが、自分もいつか登山をしようと心に決めたような気がするが気のせいかもしれない。
合宿10日目。8月13日(水) 第10日目 3年熊谷
今日のメインは栗駒峠。栗駒山北側の中央分水嶺の峠で、標高は1,100m。秋田と岩手の県境に位置しています。栗駒山は私たち鬼首班にとって、おなじみの山で、明日は南側からアプローチしての登山も計画されています。
キャンプ場をスタートして、若干降った後600m程のアップですが、勾配はその程キツくなく、スイスイと登れます。
この峠をクリアした後は、一気に下り。一路、フリータイムが行われる予定の一関市を目指します。ただ、下りと平地だけとはいえ、距離はかなりあり、皆、一関市への想いを募らせながら黙々と走りました。
交通量の多い国道を走り、平泉の中尊寺を横目に見つつ、一関市内に突入。ダイエーで買い出しをすませた後、一関駅前に移動していよいよ待ちに待ったフリータイムです。
フリータイムといっても、観光をする訳でもなし。駅前のマクドナルドに入ったり、眼鏡屋でサングラスを物色したり。そんなこんなで1時間程の貴重な息ぬきの時は過ぎていきました。
こうしてフリータイムも終わり、後はキャンプ場を目指すのみ。今日のキャンプ場は、尾花が森キャンプ場。田んぼのあぜ道の様な道を入っていったかなりへんぴな所にあり、これといった設備もない、不便なキャンプ場でした。
さて、フリータイムの日の晩飯といえば、おなじみの闇ナべ。今回も例年どおりのすばらしい物が出来上がりました。コッヘル一杯のごちそうを前に、無口になる班員一同。どう始末するかを思案しつつ10日目の夜は吹けて行くのでありました。
8月14日(木) 第8日目 1年大崎
8月14日は、登山の日だった。くりこま山という山に登った。僕は登山があまり好きではない。その理由は、登りも下りもつかれるからだ。そして、登山をするのは、ジーさんバーさんぐらいだろうという固定観念があった。だから登山は好きではなかった。
しかし、登山を始めて思った。登山は最悪だと。思ったとおり、周りは、ジーさんバーさんだらけだった。しかも、霧がたちこめていて、すぐ前しか見えない状態だった。そんなもんだから、急にジーさんバーさんが霧の中から出現するので、お化けみたいで、とてもこわかった。
頂上についても、僕の大好きな景色はまったく見えなかった。ただ寒いだけだった。下り終ったら売店がしまっていた。僕は怒りすら感じた。やはり、登山よりも自転車の方がいいと感じた。そんな一日だった。
8月15日(金) 第12日目 3年石井
本日はコース上にまともな店がないためにキャンプ場を出発して、しばらく進むとある小さな小さな商店で買いだし。ところがこの商店に頼んでおいた豆腐が近くの豆腐屋からまだ届いていないという。しかたないのでしばとらくは豆腐待ちである。こういう時間があると我々は地元の人々にってかり迷惑な存在となる。
小便、大便はその辺にたれ流し、奇声は発するは歩道は大の字になって寝ころがってふさいでしまうはで手のつけようがない。こうやってそれぞれが、やりたいようにやっているとようやく豆腐が到着したので皆すばやくパッキングして出発をするのだが、この豆腐がやっかいもので、パックに入っていなくてビニール袋にパンパンに詰められているためにバイクロープの間からすりぬけるのである。ダートの下りに入ったらもうだれもこの豆腐をとめることはできなかった。一日中豆腐にまどわされながら走ったのだが、我々の班名になっている鬼首(おにこうべ)に近づくと雨も降って暗い雰囲気になってきた。
私もちょっと1人になりたい気分だったのでサングラスをかけて黙々と走り続けたが、この間誰ひとりとして口を開かなかったのは、皆も同じような気持ちだったからではないだろうか。
疲れもあるだろうが、それ程暗い暗い地獄のような天候だったのだ。この後キャンプ場についてから私は川野と大ゲンカをする。原因はほんのささいなことで、日常生活ならばまったく問題にならないようなものだったのだが、合宿後半、疲れ、いらだち、1人になりたい、等々多くの感情が一気にふきだした。
8月16日(土) 第13日目 1年大崎
前日は1年CLだった。今までは、何も考えず、ただボーッとしているだけで済んでいたのに、その日は違った。思っていた通り、僕は道を何度も間違え、地図もまったく読めなかった。そんな僕に比べ、2年の大野さんはすごかった。
道をほとんど間違えないし、手信号もタイミングよく出していた。僕とは比べものにならないくらいにすごかった。しかも、この大変なCLを、合宿中ずっと1人でやっていると思うと、僕は涙を流さずにはいられない気持ちでいっぱいだった。
こんなすばらしい大野さんを、世間の女どもが見たら、たちまちほれてしまうことだろう。少しほめすぎたが、はやりすごかった。僕も来年には、大野さんみたいに、すごいCLになりたいと思う。
8月17日(日) 第14日目 櫻井
ある出来事でこの日一日が台無しになった。
(湯の台キャンプ場 – 十部一峠 – R123 – 志津 – キャンプ場)
この日は我が鬼首班の息抜きのような日であった。十部一峠はダートもあまりなく、快適に進んでいける峠であった。気分は良好。峠からの下りもかなり快適。
下りきってからの10分休憩の場所が車のかなり走る国道の歩道となってしまい、下見をした僕は熊谷に文句を言われる。やや意気消沈。そこからは国道をはしりながら、道の駅にしかわへ、ここは寒河江ダムのそばにあり、ここでの有名な見せ物であるらしい船が水を空に向けて吹き上げるものを見る。かなり気分は良好。
そこからはキャンプ場へ向けてのキャンプUP。そしてこの日はかなり時間に余裕があり、キャンプ場近くの志津温泉で2時間程度のフリータイム、というわけで僕は下見で前もって調べておいた「つたや」というホテルに行き、「今からお風呂に入りたいのですがだいじょうぶですか」と聞く。
「今日は貸しきりになっているので、すいませんがお風呂には入れません」と従業員に言われる。あまり釈然とせぬまま僕は他の風呂へ。後から聞くと喜多と石井がきれいな身なりをしていくと入れたそうである。ふざけんじゃねえよ。かなりむかつく。なに考えとんじゃ、と何を言っても気がすまない状態であった。
今思うとあの時の身なりはかなりひどいものであったと思うので、しょうがなかったように思うのだが合宿中というのはちょっとした事でかなり感情の動きがあるのだなぁと思う。もう合宿という形でこのような事がなくなると少々寂しい気がする。
8月18日(月) 第15日目 2年大野
8月18日である。言い換えれば最終日の前日ということになる。この頃ともなれば疲れは相当たまっているのだろう。1年生は顔が変わってたと強く印象に残っている。
そういえばこの合宿中は天候の方はあまりというか、全然良くなかったがこの日はうだるとは言わないが、結構暑くて汗がダラダラ流れて僕としては上機嫌だった。やはり暑いのがいい、そうすると黒くなれる。
黒いことによってサイクリストとしての優劣をつけるというのではない。ただ自分が黒いのが
好きなだけだったから定期的に日焼けサロンに行くことにしている。自宅用に日焼け用マシンを買った方が得だとはうすうす気が付いている。余談はさて置いておこう。何を書こうか、思いついたままにつづる形式をとっているがネタがない。
というよりあまり覚えていない。うっすらとした輪郭があるだけだ。やはり3ヶ月という期間は記憶を風化してしまうのか。体で覚えていることと言えば、左足のじん帯の痛みである。これによって毎日、悪戦苦闘の連続であった。とにかく歯がゆいが、この日の僕は1年ながらにマジック2にうかれていた。
9日目の奥山林道は泣き出す寸前でうめきたかったが、この日は不思議と痛みはなかったことを覚えている。孤越という峠があったはここも嫌なダートで車輪がハマってうまくこげないのだ。
でもその日はどういうわけかスムーズであった。精神的なムラはあったとは思わない。何故だろう。これは普段の課題の1つにでもしておこう。また1コ増えてしまったけど。
あと思い出したのは大崎だ。彼もマイっていたな、孤越が終わった頃なんてボーとしてつっ立ってるだけで自転車も置こうとしないし、飯も食おうとしないし、ヤバかったな、あれは。そんなことを覚えている。あと100字くらいは書かないといけないな。頑張ろう。
この日の僕らは予定で3:30くらいには着くことになっていたと思う。内心よろこんではいたが最後の2kmのキャンプアップで足が爆発した。のぼるさいに右足を踏み込むと次は左足を踏み込まなければならない。右足だけでこげるアップではない。その度、足は悲鳴をあげた。
結局キャンプ場につくと足は引きずらなければならなかった。そんな思いしかないのかと一喝したいね、本当に。
皆さんも人間とにかく健康が大事だよ。来年その点は僕は考慮するつもり。何が1番大切かは考えていこうという教訓は得たかな。
8月19日(火) 第16日目・最終日 1年金
8月19日、早朝、「おい、もう4時半過ぎてんぜ。」の声(おそらく江川さん)で目を覚まで目を覚ました。速攻で、バンガローから飛び出して走った。案の上、3年生やOBの先輩たちがすでに集まっていた。
「あ~、今日はとうとう最終日かぁ~」と感慨にふける間もなく、最終日が始まったのである。
夏合宿中、非常に天候が悪く、雨や曇りが多かったのだが、この日は“夏だ”と実感させるほどの晴天にめぐまれた。夏合宿最後のバトルをした。朝飯を食い、キャンプ場を出発した。休憩を1度はさんで、フリーランのスタート地点についた。
夏合宿、最後の修羅場であるフリーラン。
緊張した。資料の池田さん、全Cの横路さんがスタートしてしまうと、緊張感が最高潮に高まった。そして、いよいよ出る時が来た。10、9、8、7・スタート!!きつかった。
走ってると、上の方に建物が見えた。僕はそれがゴールだと思い、まだまだ遠いなぁと思っていると、ゴールした。その建物は「おかま」のところにあるものだということが後でわかった。
ゴールした時は、「乗り切ったぞ。」という気持ちでうれしかった。今、考えてみると「よくいけたなぁ」と疑ってしまう。なぜ、フリーランを乗り切れたのかを考えてみた。
やはり答えは1つだろう。車からの見知らぬ人々の声援、そして何よりも先輩たちの「がんばれ!」の一言が奮い立たしてくれた。その一言がなかったら、きっと乗り切れなかっただろう。
フリーラン後、コへ弁を食い、写真をとり、「おかま」を見にいったのだが、時間がなくて、ほんの一瞬しか見れなかった。おそらく10秒もなかったと思う。そして気合いを入れて下った。
最後の休憩をとり仙台にむかった仙台が近づくにつれて、声がだんだんとでかくなっていた。仙台市街に入ったとき、「都会だなぁ」と感嘆しました。山生活が長かったからであろうか。
仙台が東京や大阪よりデカい都市に思えたのである。仙台駅に着くと、小山さんと藤田さんが出迎えてくれた。僕は知らず知らずのうちに顔が笑顔になっていた。
宿に着き、風呂に入り、夕飯を食べた。僕は右手の握力が失くなっていて、箸がちゃんと持てなかった。一人一言を言った後、最後に「伏兵」が待っていた。「芸出し」である。
僕はホリエと芸をすることになったのだが、全裸になるつもりはなかったのだ。しかし、ポリエが服を脱ぎ出したのである。ホリエが脱いで僕が脱がないわけにはいかない。
しかし、まさか錺まで脱ぐとは思わなかった。みんなイッちゃってた。江川さんと長浜さんがすさまじかった。
芸を終えた後、公園で「紺碧の空」と「早稲田大学校歌」を歌った。歌っているとき、感極まるものがあった。僕と錺は食い班に行き、ポリエと大崎が風俗班に行った。杉山は、からしの一気飲みで気持ちわるいからと部屋に戻った。
部屋に戻ると、杉山はすでに寝ており、大崎と堀江は帰ってきていた。彼らの話によると、風俗嬢に大崎は「若いのね、ウフッ」と言われ、堀江は「早くしてちょうだい、もう閉店なのよっ」と言われたそうだ。
その後ぼくたちは、特機のエロ本を見た。大崎は先に寝てしまった。いびきがめちゃくちゃうるさかった。そして僕は4時ごろに寝て、錺と堀江はまだ起きていたらしい。こうして最終日が終わったのである。
ESCAラン – 大橋
ESCAラン 9月20日(土) – 9月27日(日) 3年大橋
ESCAランを清里にしようと決めたのは、フジ系「どうーなってるの」で『清里特集』を観たのが直接のきっかけである。僕は、そのフジ系の成算されたVTRに酔っていた。そして何よりも『キヨサト』というショウシャな語感に下半身がとろけるようだった。
この開催地決定に代表される安直な考えが、のちのちの困難全ての原因であるとは、いさ知らず、安穏とはなクソをほじくっていた当時の私がいじらしく思える。
当初、他大学のサイクリストが思う様に集まらず、やきもきする時期があった。他大学の理事に電話を掛け参加を促す。こんなことを副理事の江川君とやっていた時期だ。生来、電話好きの方であるが、知らん人とこうも多く話す経験というのは僕にとって初めての経験だった。電話を掛ける、切る、そしてまた掛ける。この切ってまた掛けるまでが僕はつらかった。無理しているなと感じた。一心不乱の中の一時の覚醒。弱気になる。それでも、あまたの問題を内包しながらESCA・早稲田清里ランは開催された。
僕の一時期の弱気(終始弱気だったか。)を少しだけ取り除いてくれた人物がいる。僕は夏合宿最終日のフリーランで彼の走りを見た。キモチが入った走りだった。本人自身はもちろんそんなことは言わない。僕自身は心に止めておくだけではなく、周囲に漏らした。「あいつはキモチだよ。」と。ある人は根性と言うかもしれない。気合という人もいるだろう。ただ僕はキモチと感じただけだ。
僕はキモチを持って早稲田ランに臨んだ。柔盾するような発言、行動を僕はESCAラン前後に繰り返したと思うが(人間って難しいよ。)、根底にはボクのキモチがある。
最後に、ESCAランを通して僕は他大学のサイクリストに交流を求めたが、わかったことは、WCCが1番であるということだ。
耐久ラン – 石井
耐久ラン 10月11日(土) 3年石井
10月11日。直江津。夜の10時半すぎ、どしゃぶりの雨の中スタート。結構、皆はしゃいでいた。
先長いのに・・。まず、耐久ランのコースの説明。
直江津を出発→妙高高原→長野→上田→軽井沢→高崎→大宮→早稲田というもの。
国道18号、11号だけ。このコースの利点は、わかりやすい。距離のわりにUPが少ない、日本海を見てスタートできる、といったところだと思う。実際、ESCAをはじめとして、数多くの大学に使われているし。
先頭の熊谷、上野組が95km地点の第1チェックポイント、屋代のセブンイレブンに到着。最後尾のグループと2時間弱も差をつけた。ムーパワー爆発!!!
ここからだが、ペアのまま走り続けるものが多いなか、小山、川野組が分裂!ケンカ別れか?この2人らしくて良し。ここでチェック用紙を見てみよう。「君は僕が守るから」という場にふさわしくないコメントが残っている。T・Kのしわざだ。
思いをよせているS子のことを考えながらべダルを回してきたらしい。話を元に戻そう。
第2チェックポイントは、新装された軽井沢駅。ここが160km地点。皆だいぶ疲れているようだ。1年の堀江、金、大丈夫か?
第3チェックポイントは高崎線の新町駅。212km地点。ここでは、なんと上位5人が5分差以内。
第4チェックポイントは北与野駅。280km地点。ここまでくると皆無言。元気ナシ。
そしてゴールが大隈講堂。計300km。先頭の谷口さんが4時頃に到着。最後にゴールした人が20時頃。お疲れ様でした。
耐久ランの準備について少し書く。6月の中旬に藤田と2人で下見をした。300キロ走るには暑すぎる日だった。自分は正直、この時点でこのコースは無理だと思った。ナイトランが長いし、真っ暗なところもある。1年生は完走できないと思った。
夏合宿が終わってから藤田と話し合いを始めた。安全面をどうするかが1番の課題だった。
結局、全員にテールランプをつけさせて、反射ベストを着てもらうことにした。他にも、制限時間、チェックポイント、サポートカー、走行中の連絡、観測者の配置についての話し合いをした。そしてパンフを作成。
ESCAランの前日に藤田と徹夜で作業した。ひと通り全ての準備が終わった後も、耐久ランの日が近づくにつれて自分自身、不安になってきた。ナイトランで事故った時のことを考えると正直、こわくなった。そんな時に3年の○君の言葉に結構励まされたりした。
結果的に、皆が無事完走できて、ホッとした。リスクも大きかったが、その分得るものも大きかったと思う。自分の希望を言えば、今後もコースを変えるなどして耐久ランは続けてほしい。36代の皆さん、期待しています。
―オマケ―
くしくも「宿敵」と書いて「ライバル」、ワンダーサイクリングと耐久ランを行った日が同じだった。しかもコースも同じというオマケつき。(向うはもう5回目ぐらいらしいんだけど)
そこで我がWCCは、信じ難いほどのタイム差をつけられてワンダーに完敗してしまったのである。メカの熊谷!俺達が弱いのか、TOEIのチャリが悪いのか白黒はっきりさせてくれ。
K多も○橋も一瞬のうちに、ワンダーの女サイクリストに抜かされたそうじゃないか。
36代、「復讐」と書いてリベンジ頼む!あれだけ練習してるんだから
サッカーなら勝てるよね。
1年企画 – 大崎
1年企画 10月19日(日) 1年大崎
何をかくそう、僕は自然が大好きである。
自転車で山の中を走っていると、なんとも気持ちいいのである。僕が住んでいる超巨大都市・上尾には、そんな自然などは、まったく存在していないので、特にそう感じるのかもしれない。
そんな自然大好きっ子の僕が、特に印象に残っているのが、1年企画で走ったコースである。僕はこのコースを、下見で2回、本番で1回と、計3回も走った。まず1度目は、9月の上旬、夏休みも終りに近づいた時に行った。9月といっても、やはりまだ暑く、汗をいっぱいかきながらの走りであった。
この時は、下見なので、上級生はおらず、他の1年と2人での、気楽な走りだった。まだ緑も青青としていて、セミの鳴き声もまじり、夏合宿の時のような感じだった。
夏合宿では、自然を見る余裕などはまったくなくて、無我夢中で、自転車をこいでいるだけだったので、この時の自然を見て、とても満足した。
2度目は本番の1週間前に、他の1年全員で行った。この時はもう10月になっていて、緑も紅葉し始めていて、超大都会育ちの僕は、かなりの感銘を受けた。
3度目は本番の日だった。その日はとても天気がよく、サイクリングをするには、絶好の日だった。OBの方も多数おいで下さって、とてもにぎやかだった。2度目に行った時から、1週間しかたっていないのに、緑はかなり紅葉していた。周りを見わたせば、赤や黄色の葉でいっぱいだった。僕は不覚にも、思わず涙をこぼしてしまった。それほどすばらしいコースだった。
僕はますます自然が好きになった。機会があれば、またもう1度行ってみたいと思う。
早同交歓会 – 熊谷,錺&横路
早同交歓会
10月25日(土) – 10月22日(水) 3年熊谷
今年で34回目となる早稲田同志社交歓会(早同)。今回は同志社大学の主管で行われました。ここ数年は信州スタートというのが多かったようですが、今年は伊賀上野に集合。山深い紀伊半島を走りました。
10月25日(土) 第一日目
伊賀上野城天守閣前に1年ぶりの懐かしい顔が集まり、いよいよ今年の早同の始まりです。実行委員長である森田君(同志社3回)のあいさつや、写真撮映のあと、班別にスタート。
お互いに若干のよそよそしさを残しながらのスタートでしたが、そこは同じサイクリスト同士。いざ走り出させばすっかり意気投合。会話も楽しく弾みます。
さて、今日のコースは初日ということもありやや軽目。小さい峠を1つ越えた後は、奈良公園で昼食をとったり、大和路を観光気分で走りました。ただ、ペースや休憩のとり方など、WCCのスタイルと若干異なるDCCの走りに、戸惑いを感じる1、2年生もいたようです。
早同といえば、「宿」。普段テント暮らしの我々にとってこれは大きな魅力です。一日の走りを終えた後、食事や寝場所の心配をしなくていいというのは、ありがたいことです。
今日の宿は橿原神宮近くのサイクリングターミナル「千輪荘」。初日恒例の自己紹介などありまして、その後はエールの交換。一日目の夜は更けていきました。
10月20日(日) 第2日目 1年錺
朝、目覚めてみると、身もひきしまるような冷えこみである。やはりもう10月も終わり、すっかり秋が深まっていることを改めて感じた。そのうえ、ここは奈良。奈良は盆地になっているので朝は特に冷えこむのである。えっ、どうして私がそんなことを知っているかって?
そりゃ、奈良と言えば、私が中学・高校時代を過ごした思い出の地。毎朝、大阪市の実家から奈良市の東大寺学園中学・高校まで、1時間半余りかけて通学していたのですから。最寄り駅から学校までは徒歩(と言っても速歩き)で20分、まして私たちは仲のいい友達同志でしゃべったり、遊んだりして歩いていたので軽く30分はかかっていたのです。
冬などはかなり寒かったものですが、そうしてしゃべり、遊ぶことにより寒さも紛れて、始業前の楽しい30分を過ごすことができたのでした。久し振りに奈良の冷たくもひきしまった清々しい朝の空気に触れて、私もふとそんなことを考えて、郷愁にふけってしまいました。
さて、話を元に戻すと、今日で早同も2日目。昨日は、WCCとは一味も二味も違った同志社の皆さんと走りを共にして、もうそりゃオドロキの連続で。
CLさんはムチャクチャとばすわ、全然休憩させてくれないわ、上下軍ヘルはないわで、私は「こんなんアリ~?」と思ってしまうほどだった。でも、それがまた、夏合宿を終えてWCCの走りに慣れ切ってしまっていた私には刺激的で、なかなかいい経験になったと思っている。
あと4日間、そんな同志社の皆さんと一緒に、走りを楽しみたかったのであるが―。残念なことに、私は語学の授業でスピーチをしなければならなかったために、この日の途中でもうお別れせざるを得なかったのである。
私は今回の早同で走るのが、紀伊半島、それも大台ヶ原や十津川、龍神といった、秘境中の秘境だと知って、とても楽しみだったのだ。関西に住んでいても、そんな山の奥深くに行く機会なんてほとんどない。私も生まれてこの方ずっと憧れていた所に行ける、この機会を逃す手はないと思ったのだが、どうするか迷いに迷ったあげく、私は涙をのんで学業の方を優先させることにしたのだった。
だが、地元が関西である私にとって、WCCでツーリングのテクを多少なりとも身につけることのできた今、紀伊半島を縦横無尽にプライベートすることももはや夢ではないのである。そう、「いつかきっと紀伊半島プライベートするぞ~っ!!」と心に誓い、今回はひとまず東京へ帰ることを決心したのでありました。
話がまた本筋をそれてしまいましたが、再び元に戻りましょう。さて、私たちは予想を遙かに越えるキレイさであった、サイクリングターミナル「千輪荘」を後にし、朝の大和路を快走した。
最初の休憩ポイントは、その名も名高い飛鳥、石舞台古墳前で。実は私は飛鳥には行ったことがあったのだが、この石舞台古墳にはいまだお目にかかったことがなかったのだ。垣根越しに見た石舞台は、予想より小さかったものの、その不思議な姿には「ほーっ!」と思わず見入ってしまいました。
さすが奈良!古代のロマンにあふれてますね。さて、幸せな時間を過ごしたのも束の間、次に待っていたのは地獄だった(!!)。いきなり道の途中で止まり、
「こっからフリーランやでー。」と言われ(そんなんやったかなー?)、
「へ?」と思ってしまった私。そんな間に、
「3、2、1、スタート!!」の掛け声と共に、どわ―っ!!と班の皆が一斉に走り出したのである!!!
「ひえーっ、なんじゃこりゃっ!!」などと思う間もなく(実際は思った)、
私ももう全力でペダルをこぐしかなかった。しかし、同志社の森さん、藤田さん、池田さんのみなさんは速い速い!!!スタートで出遅れた私は、あっという間に引き離されてしまった。
すっかり息があがりながらも、なんとか池田さんを視界にとらえて走った私だったが、その横には班長である同志社の仲田さんが。
「まさかこんなに遅いわけないし、こりゃ最終走者の伴走かな?」と思ったのですが、後で聞いたらそらそうでした。どうもお心遣いありがとうございました。さて、そんなこんなしてるうちに、杉林の中を抜けて、ついに芋ヶ峠へ!!!
「やった――っ、ついにゴール~ッ!!」と感激しながら、道に倒れ込む私。だが、ほとんど休む間もなく、「はい、出発―。」
うーむ、やはり同志社ペース、手強いですねー。とりあえず、後は下りだったので、まあよかったのですが。しかし、この下りを終えた後、ついに私は皆さんとお別れしなくては
ならないことに。まずうちの1班からは私と池田さんが抜け、残り3人となった班の皆さんを見送りました。そして続々と下ってくる他の皆さんにも別れを告げ、私と池田さん、長濱さん、郡山さん、杉山の5人はひとまず帰途につくことになったのです。
その後、一行は近鉄大和上市駅まで少し走ってから輪行をし、電車に乗ってはるばる東京へと向かったのであった。途中、杉山は京都を少し走るため、郡山さんは名古屋から新幹線に乗って帰るため、それぞれ別れたのだったが、私、池田さん、長濱さんの3人は、名古屋まで急行を乗り継いで行った後、名古屋からも鈍行でひたすら東京を目指したのである。私が家にたどり着いた頃には、もう翌日の12時半を回っていました・・。
今、こうして振り返ってみると、とてもあわただしく終わってしまった1泊2日の早同合宿でしたが、私にとって、非常になじみ深い関西の地をランドナーで走る、というのは初めての経験だったので、とても新鮮で楽しかったです。
関西は、私が生まれ育っただけあって、私も大好きな所なのです。特に、初日に訪れた奈良公園などは、母校にも近く、中学・高校時代には何度も行った場所だったので、それを今こうしてWCCの皆さんと一緒に走ることができた、というのはとてもすばらしい経験になったと思います。
こんな思い出深い早同合宿を企画して下さった同志社の皆さん、どうもありがとうございました。そして、今年はお待ちしています。
10月27日(月) 第3日目
標高1600mの大台ヶ原はこの時期ともなると相当な冷えこみ。噂では雪が降ったとか降らないとか。そんな寒さの中、早朝のトレでジョギング。眠気もすっかり吹き飛びました。
とりあえず昨日上ってきたドライブウェイをピストンで下ります。一通り下った後は行者還林道で学年別のフリーラン。これで近畿の屋根、大峰山脈を越え、後はひたすら下りです。
御手洗渓谷、日本最長という谷瀬のつり橋などを観光しつつ、十津川村へ。ここはすごい秘境だというふれこみでしたが、なるほどすごいところでした。民宿の夕食は牡丹鍋。イノシシの肉に舌鼓を打ちました。この夜早同恒例の「麦踏み」が行われ、1年生の中には眠れぬ夜を過ごした者もいたとかいないとか・・・。
10月28日(火) 第4日目 2年横路
早同の前から体調が悪かったのでもし具合が悪くなったら途中で帰ることも考えていたが、何とか完走することができたが、4日目と5日目は特につらかった。
この日は宿を出発して2時間ぐらい走った後に個人フリーになった。最初は先導をしていた同志社2回生の小坂についていけたのだが、その内に大野や途中参加してきた江川にまで、抜かれてかなりがっくりきたが、何とか2人について行った。
しかし2人の楽しげなトークには全く参加することができずOBの岩橋さんにも、話しかけていただいたがあいまいなうなづきをするだけになってしまった。
何とか登りきり後は宿まで下るだけになり、防寒のためかなり着こんだのだが下っているうちに、悪寒がしてきて集団の(頂上で8人位そろった)1番最後でゆっくり下った。
竜神の国民宿舎につき風呂に入り部屋にもどりしばらくして、途中参加の同志社の藤本や土屋が来たが、頭が痛いので話もせずに横になっていた。おいしそうな晩ご飯も半分位残してしまった。
10月20日(水) 第5日目 2年横路
今日から、と言っても最終日だが、僕らの班には谷口さんと藤本が加わり、CLは藤本がやることになった。TTのスタート地点に着くまでに僕はヘロヘロになってしまった。今思うとTTの時よりこの時のCLについて行こうとする必死さの方が上だったと思う。それにしても結局、早同5日間完走したが最後まで同志社のペースに慣れることはできなかった。
TTは班ごとにスタートするのだが他の班員はあっと言うまに見えなくなってしまい孤独な戦いとなった。
ゴールし頂上で昼飯を食べた後は、宿の湯浅城までゆるやかな下りor平地をひた走った。最初これを見た時は城の近くに宿があるのかなあと思っていたのだが、何と城そのものが宿であった。宿自体もまだ新しくまた高台にあるため風呂からの眺めもよかった。
夜は宴会 and TT順位発表 and スタンツがあり僕は何とブービーになってしまった。ビリだった金も体調が悪そうだったが、体調が悪いと走り自体もおもしろくなくなってしまうので、今後は万全を期したい。
スタンツは圧倒的に早稲田の方がおもしろかった。あまりにおげれつなのでここには書けないが、今まで見てきた芸の中で間違いなく1番おもしろかった。
第34回 同志社早稲田交歓会局長 森田
過去幾人もの同志社、早稲田の猛者どもが集い、それぞれのプライドをふぶつけあい、交流を深めてきた同早。僕たちが生まれるはるか前から脈々と受け継がれてきた伝統・今回、この行事に関われることをに思う。舞台は整った。あとは参加する者全員が思いきり自分の個性をぶつけていってほしい。そして34回めの、新しい物語を創りあげよう!
同早交歓会にむけて DCC第34代主将 香村
今年も同志社、早稲田、両サイクリングクラブの伝統ある秋のメインイベントである同早交歓会の季節がやってきました。
岡校、両クラブの誇り、意地、情熱をぶつけあい、その中で友情を深めつつ、バカ騒ぎ、大暴れをして大いに楽しんでいこう!
追い出しラン – 郡山
追い出しラン 11月23日(日) 2年郡山
やったぁー、やったぁー…、失礼。改めて11月23日、今日は追い出しランである。4年間活躍されてきた4年会の引退ランである。例年は笹子峠で開催されるが、あまりの楽チンさに、去年相蘇さんは「追い出しは本気をださない。」と言い放ってた。
これは大変、きっと自分のパワーを使い切れないことからイラダチをつもらせてるのだろう。そこで今年は御坂峠を選択したのである。失礼のない見事なダートがそこにはくり広げられていた。
と、能書きはここまでにして案の上4年の人間は血を吐きながら登ってきた。また、フリーラン中、花井さんグッズが道中いたる所に転っていた。峠でのイノコごくろう様でした。
後半のうたげが大善寺で始まり、4年会の方々のありがたいお言葉をもらった。各自、ゴージャスな賞品をもらい大変満足の様子であった(1部例外あり)。
さてさて、2年生にとっては長い夜のはじまりである。そう、役職の割りふりである。ああでもない、こうでもない気付いたら時計は4時を指していた。横を見たらN濱君がすでにふとんにはいっていることに怒りを感じながら、私もふとんの中にうずもれた。
アルプス紀行 – 谷口
アルプス紀行 第34代 一文4年谷口
「アルプスなら何とかなるだろう…。」8月1日。池袋HISで「チューリヒーイン・ローマーアウト」のチケットを取った時、俺はこんなことを考えていた。
自転車を伴わない海外旅行は、それを伴ったものと比べて面白く無いという結論はすでに出ていた。しかし前回のマレー半島は、単調であり過ぎた。ビエンチャンからシンガポールまでの平坦な道を結ぶことでは、俺の心は満たされなかった。
ツール・ド・フランスを知った時から、アルプスは俺の胸に結構来ていた。
「・・万年雪を抱く気高い山を目指していくと、木々は次第に標高によってその存在を否定され、ガードレールさえも冬の雪の重圧によってそこに建つことを許されなくなる。カウベルをBGMにワインディングロードをのぼると、峠の向こうには、まだ見ぬ国々が待っている・・。」
俺は自分のサイクリング観とやらを誇示することは好きではない。が、4年間走り続けてきて、そうしたものを自覚せざるを得なかった。俺のサイクリングとは、決して湖畔を流すことやオフロードをダウンヒルすることではない。それは、峠に向かいながら人間の力の到底及ぶものではない気高い山々の存在を讃え、その山と対話することであった。
こんな俺に、アルプスはブラウン管を経てもその魅力を失うことなく、俺にとっての聖地であるように思わせた。
夏合宿を終えて1週間。中華航空に乗り込んだ俺は、まだろくにコース設定をしてはいなかった。しかし、26時間に及ぶフライトの最中も、そのことで焦ることなど皆無だった。チューリヒとローマはアルプス山脈によって隔てられている。ローマに通ずあらゆる道を探して見たところでアルプスとまみえずに、ローマにたどり着くことは出来ない。そのことに俺は安堵していた。
「アルプスには、俺の求めるサイクリングがある。どの道を走るかは、アルプスに会ってから決めればいい・・。」
こんな俺にアルプスは初日から答えてくれた。チューリヒを離れてから2時間と走らないうちに、そこには「ハイジの世界」が広がっていた。俺の感動は、慌てて幾度となくシャッターを押したことに現れていたが、それはスイスにおいては一般的な光景であることに気づくのに時間はかからなかった。
「来てよかった。」
本格的な峠を迎える前に、俺の心は充実感で満たされた。
チューリヒとローマは、最短距離ならば10日強で結ぶことができた。が、この時既に、アルプスが出発前の期待通りであるとの結論を出した俺は、少しでも多くアルプスとまみえることにした。
「スイスの峠を幾つか走り、大サンベルナール峠を越えてイタリアへ。翌日小サンベルナール峠を越えてフランスに入り、アルプス最高の峠アイスラン峠、ガリビエル峠を経て、ツールで名高いラルプデュズへ。その後地中海に出てモナコ、ジェノヴァ、ローマ・・・。」
欲ばりなコースだった。しかし、アルプスにこだわり、アルプスの峠を欲ばったこの2週間は、本当に良かった。こんな陳腐な言葉でしか言い表すことのできぬ自分が虚しいが、素晴らしかった。
幾つものトンネルを抜けると、そこはスキーリゾートであった。ここから峠までは、標高差約1,000mのスキー場のようだ。昼時になって、コンロでパスタを茹でながらトマトをかじっていると、父親より10は年上であろう夫婦が上ってきた。ヨーロッパでは年齢を問わず誰もが自転車を愛している。これだけ空が青いと、気分も話も弾まないはずはない。
昼食を終えしばらく行くとさっきまで自分が走っていた道が見える。ガードレールがないここでは、その曲線はっきりしていてとても美しい。ふと車通りが途絶え、アスファルトに寝そべってみると、そこは音のない世界だった。俺は、自分がこの自然を独り占めしているかの錯覚を楽しんだ。峠に立つと、そこには、これまでと違う風が吹いていた。
(9月9日アイスレン峠)
「アルプスなら何とかなるだろう…。」
出発前の曖昧だった「聖地=アルプス」という図式が、ここに己の足によって証明された。ここに俺は抑えようのない自分のサイクリング魂が今後もしぼむことなく発展して行く事を感じざるを得なかった。
俺はこれからも自転車を愛し、山々を愛し、峠をのぼり続けるだろう。こんな喜びを与えてくれたWCCに心から感謝したい。俺の学生生活に悔いはない。
【今回越えた主な峠】(※はピストン)
8月20日 チューリヒ発
9月1日 グリンデルワイド(1,962m/スイス)※
2日 スーステン峠(3,334m/スイス)
3日 フルカ峠(2,431m/スイス)
4日 ツェルマット(1,626m/スイス)※
7日 大サンベルナール峠(2,469m/スイス→伊)
8日 小サンベルナール峠(2,188m/伊→仏)
9日 アイスラン峠(2,770m/仏)
10日 テレグレフ峠(1,570m/仏)
10日 ガリビエル峠(2,645m/仏)
11日 ラルプデュエズ(1,800m/仏)※
20日 ローマ着
(総走行距離約2,000km)
「君の名は」- 喜多
「君の名は」 3年喜多
今日は秋田県、岩手県両県に位置する十和田八幡平国立公園八幡平にアプローチする。
八幡平は標高1,613m、数多くある温泉と美しい紅葉で有名な、ブナの原生林に囲まれた高原地帯である。かの才人、深田久弥も日本百名山の1つとして選定している日本有数の景勝地である。と言っても、我々WCCには温泉も紅葉も別世界ではあるが。
さて、我々は八幡平を秋田側鹿角市から攻めた。ペダルを踏むごとにじりじりと高度を稼いでいるのがよく分かる、そんなアップである。そして、標高1,500mを過ぎて、もうピークも近い辺りであったろうか。
誰かがこんなことを言った。多分、俺だと思うが、、。
「好きな娘の名前を叫ぼうぜ!」
この稚拙な発言に同調してくれた、ありがたき猛者たちは、言わずと知れた川野、斎藤両君である。思えば、斎藤とは、徳島の見ノ越、そして群馬の田口峠でも同様のことを敢行したような・・。とにかく3人で叫ぶことになった。俺は「・・子―――!」、斎藤も「・・子―!」しかし川野は「・・・り―――!」と絶叫した。
俺と斎藤は3文字、川野は4文字。
どう考えても、川野の叫ぶ娘の名の最後の文字「り」が残るはずであった。が、そのことを計算してか、それとも、せつない胸の内からか、川野の叫ぶスピードは速く、「・・・り」の4文字は俺たちの「・・子」の3文字に隠れてしまった。
何はともあれ、俺たち3人の嬌声は、全国のサイクリストたちの憧憬の地、八幡平へ木霊していった。最後が「り」で4文字の名前を持つ女性なんかいるのだろうか。一般人は疑問に思うであろう。それに対して、なんの違和感なく受け入れるWCCの恐ろしさ・・。
我々は快い陶酔感と甘美な充足感を持って、見返峠と出会う。
「後輩堀江と走って – 雑感」- 喜多
「後輩堀江と走って – 雑感」3年喜多
俺は今夏、プライベートに後輩を連れていくことを強く欲した。合宿前のミーティングで、3年生たちに要望した。俺はプレ新歓、2年企画でも一緒に行った、堀江と行動を共にすることとなった。
後輩と46時中、一緒であることは非常に危険を伴うと思う。実際、自分自身、危機感を持っていた。というのも、先輩は後輩の前では常に毅然とした態度をとらなければならない、というのが俺の信条である。そして、そうした関係は社会的規範の1つであると信じているからである。
しかし、そういった行動はその一方で大きな責任を伴う。まず、先輩は後輩より、大きな存在であり続けなければならない。そして、その言動は常に整合性を持たなければならないということだ。
現実、堀江にとって俺は自分勝手な存在であったに違いない。
「明日出発する。明日2時、東京駅に来い。」
「お前の要望は聞かない。俺のコースについて来い。」
「遅かったら、置いてくぞ。」
東京駅で会った堀江は心なしか緊張しているように思った。一方で、この10日余りを俺に預けたような表情もしていた。
それに対して、俺も一生懸命応えたかった。堀江を連れていくことが決定したのはプレ合宿前。それから、約1ヵ月、俺はあいつを連れていくコースについて悩んだ。本当に悩んだ。あいつにとっては、何もかも初めての経験。いろいろな想いにさせてあげたかった。サイクリングの楽しさと怖さ。プライベートの魅力。長距離サイクリングの快感。先輩の怖さと優しさ。
ダート道。山に海。そして、終わった後の達成感。俺は全てを計算して、計画した。自信あるコースだった。堀江に味わって欲しかった。そういえば、秋田新幹線「こまち」も、乗せて上げたい一心で計画に入れた。
いざ、出発すると俺の中に変化が起きた。堀江と一緒に峠を越えたい。岬に行きたい。一緒に駅寝したい。飲みたい。飯を作りたい。一緒に走ろう!
堀江がどこまで俺を理解してくれたかは分からない。そもそも俺にそこまでの力があるかどうかも分からない。ただ俺は一生懸命だった。先輩として一生懸命だった。
俺は、だからこそ、堀江と過ごした日々を宝にしている。堀江に何か1つでも俺の送り物が届いていれば、俺はうれしい。
そんな堀江も夏合宿を経てたくましくなった。生意気になった。それ故、冬も堀江と一緒に走る。堀江を叩きつぶしてくる。それが先輩の我がままに、ついてきてくれた後輩への、先輩からの最高のクリスマスプレゼントに違いないと思うから・・。
「私のサイクリング観」 – 喜多
「私のサイクリング観」 3年喜多
元来、ヒトは快楽を欲する。快楽には様々な段階があるが、ヒトは本能的に安易な快楽の享受に固執する。しかし、人間は違う。
人間は低次元の快楽だけでは満足しない。それを糧として、さらに高次元な快楽を求める。だからこそ、人間社会、そして文化は日々発展していくのであろう。
サイクリングは1つの文化だ。最高のアウトドア文化だ。性欲、食欲、睡眠欲といった低次元な欲求も、サイクリストによって異なる様々な高次元な欲求も、全て、屋外で満たされる。
まさにキング・オブ・アウトドア。そんな人間たちが集うWCCは1つの社会であり、1つの文化だ。
みんな、走ろう。生命の激しい燃焼を感じよう。だから、走ろう。完全燃焼するために。人生の充実をつかむために。
編集後記 – 藤田
編集後記
誰かが言い出した。「『峠』を復刊させよう。自分達の走りを記録に残そう。」
その役目を出版局長の私が任されることになった。実に名誉なことであった。フロントバッグよりも一段高い、クラブの公式記録を記したもの。我らが35代の輪跡。責任重大である。
当初は手書きの原稿を、自分達で印刷し製本するという、フロントバッグに毛が生えたものにする予定でいた。原稿もそのつもりでクラブ員に書いてもらった。だが、35代はそれでは満足しなかった。活字にしよう、製本しよう、と計画は次第に拡張していった。
なにしろここ数年発行されていない。一体「峠」とはどのようなものなのか。部室に散在する私用ノート、フロントバッグの山の中から、「峠」を発掘した数冊しか見つからなかった。なるほど、こういうものか。
当初、去る12月13日に大隈会館で行われた35周年記念パーティーでの配布を目指したが、まったくかなわなかった。発行の遅れをお詫びするとともに、この「峠」復刊号に原稿を寄せてくれたクラブ員の皆さんに深く感謝いたします。
「峠」復刊号編集長 藤田
Editor’s Note
1997年の出来事。平成9年。
1月。島根県沖でナホトカ号が沈没。大量の重油が流出。
3月。大阪ドーム(現、京セラドーム)が開場。ナゴヤドームも開場。
東電OL殺人事件。
7月。フジロックフェスティバル。
9月。安達太良山火山ガス遭難事故。
信越本線、横川-軽井沢間が廃止。
10月。ペルー早稲田大学探検部員殺害事件が発生。
日本TV、伊藤家の食卓を放送開始。
11月。サッカー日本代表。W杯初出場。
山一証券破綻。
12月。トヨタプリウス発売。
東京湾アクアライン開通。
第39回日本レコード大賞 1997年 CAN YOU CELEBRATE? 安室奈美恵
WCC夏合宿は、「東北地方: 青森から – 仙台まで」でした。
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こんにちは。WCC OB IT局藤原です。
1984年に峠16号が発行された後、14年間のブランクを経て、1998年4月に峠17号が復刊されました。
よくぞやってくれた!という思いです。1998年はWindows95 –> 98への移行期であり、インターネットと携帯電話の普及期にありました。急速に変化する通信の世界に比べ、WCCの活動は、意外なほど変化していません。集まり参じて人は変われど、仰ぐは同じき理想の光、、、
当時の文章をWEB化するにあたり、できるだけ当時の「雰囲気」を尊重するよう心掛けたつもりです。
文章と挿絵はPDF版より抜粋しました。レイアウト変更の都合で、半角英数字、漢数字表記等を変換していますが、全ての誤字脱字の責任は、編集担当の当方にあります。もし誤りありましたら、ご指摘をお願いします。
2024年冬、藤原