峠「20号」_2002_2001年度

第39代

創部40周年にあたって – 古橋

創部40周年にあたって 第39代主将 古橋

クラブは近年大きく変化しているのだろうか。 否、クラブの歴史は「変化の歴史」だろう。変わることを恐れてはならないのだ。世紀をまたいだ39代の1年間、部室の移転を始めいくつかの「変化」を経験した。

この積み重ねが過去40年間、クラブを作ってきたのだろう。

だが、40年間変化せずにあるものもあるだろう。クラブを動かすものの底流にあるものだ。

39代は3年1人で、確かにクラブとしては危機的状況だった。しかし、他の代以上のものを築いた自負はある。

その1年間に見合う形で、考え、悩み、実行に移す。40年間クラブはこのように作られていっているのだ。

春合宿1 – 古橋

春合宿1 3年 古橋

今、こうして目を閉じて浮かぶ春合宿の絵は、今なお鮮やかで、そして美しいものである。ああ、ViVa春合宿。だが自分の欲張りなプランは後輩、そして自分をも苦しめるほどであった。どこからか、「砕苦」なんて言葉さえ聞えてくる。

九州は熊本、ニコニコドーの松野明美が好きだった私にとって、1度は来てみたいという気持ちも、なきにしもあらずだった。なるほど、まだ2月だったが暖かい。これならば「裸走り」ができる、と思い余ってシャツを脱ぎ捨てる。だが、そんな行為が可能だったのは、これが最初で最後だったとは・・・。
下見時のことは、ページの都合上カットするが、あの時目に映る「博多駅」の看板は、心なしかうるんで見えた。(だって、その前日にシュラフをなくしてファミレスでほとんど寝ずに夜を明かしたのだから。)気分的に、このまま俗な風を吹かすか!というほどだったが、まさか男にモミモミされてしまうとは・・・。

さあ、人吉!文字をこうして書いているだけでもうらめしい地だ。久しぶりの面子が揃う。気が入り、身が入り、気が締まり、チン○も・・・勃たない。それはいつものことだ。
次の日からの皆の衆の苦しむであろう顔が楽しみだ。と思った矢先に、雪が降る。今思うと、これは神の「初日はヤバイから行くな」というお告げだった。もし、本当に行っていたらどうなっていたのか、という気もする。実際、葛藤もあったが、ある程度のエスケープを備えることでよしとした。コースを作っていた頃は、何か大きな使命感というか、イメージを具現化させる為のものを生みつつ、他人にも受け入れられるものをつくることに専心していた。「今、思えば」というものはあるが、当時の青い自分を、コースをふり返りうらやましく思った。

合宿のスタートは、白く寒い中だったが、ちなみに自分はこのような天気が好きである。さらに今日は「アポロデー」だ。あの道は、我々のわだちで残っているようなものだ。
だが、やはり雪のおかげ(?)で、あえなく退散。それでも充分に、アポロ的死に様を見せてもらった。いや、違った意味でのアポロだった。薬師寺、杉村、寒いのに弱すぎ。タスク、雪中乱(ラン)ダメすぎ。前野、暴走しすぎ。みんな、ガンバしよ~。

まあ、このように、思い出をつづると取り留めがなくなるので以上丰でとするが、本当にいろいろあった。合宿が終わった時に感じたもの、一体感のようなもの、なかなか味わえないものだ。おかげで、身も心も自転車も、ガタが来た。これ以上に尽くすなんてありえない。満足だ。最後に、登山の休憩で寝ないでね!

春合宿2 – 薬師寺

春合宿2 2年 薬師寺

集合日
恥ずかしながら、僕はサイクリストのくせにチャリを持っていない人間です。前主将のチャリを借りて走っていたのですが、センターが使用不能の状態で、合宿を乗り切れるのか、かなり不安。CL会議後にはチャリに雪が積もってるし。テントの中での自慰競争では技術指導局長に見事に完敗したし。彼いわく「俺はなんでも早いんだよ」とのこと。

1日目
前プラで40分走って30分休憩していた僕には、10分休憩は結構つらい。が、もっとつらいのは雪の存在だ。深く積もっているために乗っていく事ができず2時間くらい押しっぱなし。
何とか峠には着いたが結局引き返すことになった。ブレーキは凍っているし手の感覚は失くなるし、下りも散々なものだ。1日目にして早くも僕の中のマゾヒスティックな何かが目覚めつつあった・・・。

2日目
朝起きたらペットボトルの中の水が凍っていた。一体僕は何をやっているんだろう。このクソ寒い中で。今日も峠道で雪が降り始める。着く。降りしきる雪の中でタバコに火をつける。このナルシスティックな瞬間がたまらない。主将が峠で雪の中に埋もれて踊り狂うのも僕のタバコに似た物があるのだろうか。不土野の下りは僕の人生の中で最も恐ろしかったものの1つだ。雹に顔面を激しく打たれ両手足の感覚はもう失くなっている。ブレーキを握る事さえ困難になり、両手を口にくわえて暖めながら下っていった。

3日目
修業日である。死ぬ程のアップをこなし、夕方に日の影温泉に到着。地獄の3日間の疲れが温泉で吹き出す。僕の体はもう完全に睡眠態勢に入っていた。問題はこの後である。僕らには15%、150mアップのキャンプアップが待ちかまえていた。登っている最中、僕はもう怒りも悲しみも通りこして何か不思議な気持ちになっていた。大弛峠で芽生えたマゾ心が完全に花開いたのは、今思えばこの時だったかもしれない。

4日目
完全なるマゾヒストと化した僕にとって阿蘇山など問題ではなかった。正直いって僕は4日目以降の印象が1~3日目に比べてかなり薄い。これは3日目のキャンプアップでの悟りによるものだろう。

5日目
一体どうしてしまったのだろう。登りが楽しくて楽しくて仕方がない。

6日目・7日目
省略します。

全体の感想
春は初めて1人で走ったのだが、やはりクラブランでは味わえない良さを感じた。もちろん春合宿も素晴らしかった。両方を行うことで春は大変満足できるサイクリングができたと感じている。惜しむらくはエールに参加できなかったことだ。皆さんごめんなさい。

春合宿3 – 杉村

春合宿3 2年 杉村

3月8日 集合日
昨日から人吉入りしているオレはこの寒い人吉でヒマをつぶすことになった。温泉に入ってCL会議が終わったころには猛吹雪でかなりなえる。メカ工具の上に降り積もった雪が印象的だ。

3月9日 1日目
今日は噂に聞いた修業日である。早速4発目の激アップで死亡。あまりのヒドさにコース変更したはずが、続く試練はチャリを押しての冬山登山。精神的、肉体的に限界のオレを救ったのはオレ以上にキレまくってる前野の存在だった。惰性で登り続けてようやくアポロ峠に着くも正直感動はなく、ただただ早く下りたかった。

3月10日 2日目
この日も寒く、朝にはテント、水が凍っていた。寒すぎる不土野峠での記念写真で主将様に突き倒された時はマジギレしそうだった。椎葉村も期待はずれだったなー。

3月11日 3目
この日からようやく天気が回復。だが、この日も修業日だった。中山峠を越え(ダートの下りは死ぬほど恐かった)また1つ峠を越えるのだが、これまた激アップ。時間もおして落石だらけの下りはナイトランとなる。精魂つき果てた我々はただ主将の「今日は宿とるか」の一言を期待していたが、その夢は激キャンプアップにより打ちくだかれるのだった・・・。

3月12日 4日目
今日のメインは阿蘇登山。これまででは1番楽な日だったが、それなりに疲れて山頂への登山道路がゲート止めで行けなかったのにはホッとした。

3月13日 5目
今日は嫌いなイベント「登山」があるので、テンション低かった。後半はひなびた道でのアップダウンで合宿中1番気持ちがよかった。

3月14日 6日目
ようやくフリータイムの日が来たと思ったが日田はあまり印象のない街だった。

3月15日 7日目
本日のメインは何といってもフリーラン。はりつめるクラブ員たちの気迫はすさまじかった。結果は2位だったが、夏以降低迷していた私に一筋の光が見えた。

春合宿4 – 市来

春合宿4 2年 市来

男らしさとか、若さとか、主観性とか、行動力とか、楽観とか、本能とか、一見偏った物の価値を見直してみると、自分にしっくり来るもんなんだと最近気付いた。
腹の底ではそう思っていたのに、自分の結論を信じきる勇気がなかったのだ。自分の知恵を信じぬくことで、本当の個上は磨かれるような気がする。春合宿ではそんなことを悟った。

1日目 アポロで主将にどやされまくった。僕はダートとか雪とかが苦手なのだ。頂上についても感慨深いものなどまるでナシ。薬師寺の足凍ってた。みんなのマシンも凍ってイカレてた。無意味な修行が終わ、町に戻って温泉に入ると、体が解けていくようだった。その晩は川辺で寝た。

2日目 壮絶な寒さ。バカみたいだ。何をやっているんだ、おれらは。ペットボトルの水も凍り、水道の蛇口も凍って開かない。ただでさえ、ぴりぴりしてるのに状況がこれだからますますひどい。
不土野峠で薬師寺と高校時代について語った。古橋さんは写真を要求し、杉村は炯炯とした目つきでこちらをにらみ、前野とは気まずい雰囲気になり、気分はブルー。

酒が飲みたくなってきた(憂さ晴らしに)。峠で薬師寺がタバコのうまさにコーフンしていた。下りの途で前野がパンクした。降りしきる雪の中、前野君は凍える素手でチューブを交換し、我々はただ、鬼束ちひろが宮崎県出身の学校嫌いだったことなどを話したり、雪合戦に興じたりして、寒さをやり過ごしていた。実際そんなことでやり過ごせるほど常識的な寒さではなかったが。椎葉村では堀江さんが待っていた。ホントに相変わらず愉快で奇怪な人だ。
その夜はチンジャオロースを作った。スピードも遅く、出来も悪かった。次の日のCLは僕なので緊張しながら寝た。

3日目 地図の読み方が分かっていなかったので道間違いしまくった。杉村は僕をきつい目で見ていた。ナイトランになって、危険地帯を柵越えしていった。薬師寺は暗闇の危険さにびくびくし、最後のキャンプアップのキツさには怒りを通り越して、絶望に似た感情すら抱いていたらしい。日之影温泉で合流するはずのヤマディングは来ていなかった。

4日目 山田が来た。ジーパンを穿いてきていた。相変わらず肉が詰まっていた。1番きつい初日3日間を省略しているのでホントにタイミングがいい。早速ムードメイカーとして活躍する彼だが、トラブルメイカーとしても10分休憩中にメシを頼んだり、コッヘルを忘れたりして活躍していた。阿蘇山を登っている途中、いつ彼がへばるか楽しみにしていたが、期待していたほどやられなかった。阿蘇山は月っぽかった。火口は見られなかったが、そんなことでは全然がっかりしない。

3日間で死の覚悟を決めた僕にとって生存以上の価値は考えられなかったのである。晩飯は、狂牛病で騒がしいこのご時世に、アメリカ牛の焼肉だ。山田はまたしても運が良かったが、狂牛病が怖かったのであまり食わなかった。

5日目以降 久住山に登った。踏み固められた雪道を滑りそうになりながら木や岩につかまって登っていった。泥濘がひどかったが、逆に動物園の象みたいに喜んでいた。僕は誰も聞いていないと思ってバンプ・オブ・チキンやELTの歌を大声で歌った。頂上では2年生は僕以外皆ひなたぼっこをしていた。

僕と堀江さんは「おーい追っかけ音次郎」やプッチモニを歌っていた。その日は確か温泉に入った。おばあちゃんと混浴だったが、僕がチンコをさらしていると、「まっ、はしたない」という態度を取った。おばあちゃんとはいえ女性なのだ。
少しは気を遣わないと、と反省した。が、同じにそんなに僕のは嫌なものなのか、と別の意味でへこんだ。学校のグランドらしきところで泊まる。

次の日は日田のフリータイムだった。小京都である。だが、なぜか杉花粉にやられていた我々は誰も観光に繰り出す元気などなく、ある者などはモスバーガ1に1人入り浸って物思いに耽っていた。
私は帰ったらやりたいことを数え楽しみにしていたが、前野に話したら、そんなのは実際日常に戻ったらできないんだ、とまた中途半端なリアリズムを聞かされ、もうこいつには夢のある話をしない、と固く心に決めた。そして、薬師寺が学徒の社員に、「暴走族がいる町」、と言って脅されていた田川という所まで行ったが、何も起こらなかった。

そして、フリーラン。最初、僕は1番後ろだったが、1人ずつ抜いていって、杉村と競り合ったが半分ぐらいのところで引き離し、その後は無念無想でひたすら登って行った。ゴールでは堀江さんが待っていた。フリーランをここまで本気で走ったのは初めてだった。

その後、大宰府天満宮に行って、梅が枝餅を食いまくった後、最後の山である大野城を越えて、ゴールに辿りついた。宿では古橋さんが感無量って感じで涙ぐんでいた。そして薬師寺は酔いつぶれてエールに参加できず、僕達の合宿は終わった。まるで戦争のような合宿だった。

新歓合宿1 – 松永

新歓合宿1 1年 松永

フリーラン!!

それはWCC最強にして最大のイベント!!脱落、軽傷、重傷はもちろん、死者をも出す地獄のレースである。無論、貧乏サークル・WCCのイベントなので賞金・賞品の類は1切ない。勝利者に与えられるのは唯一、栄光のみ!!

しかし、だからこそフリーランはサイクリストが己の誇りをかけて戦う聖戦と呼ぶにふさわしいのである。

「ボスの古橋です。」主将の言葉にWCC全部員の顔が真剣になった。
「皆さん、お疲れ様でした。いよいよ明日で新歓合宿も終了です。と言うわけで・・・。」
ゴクリ。誰もが無意識に喉を鳴らした。

「明日はフリーランだああああ!!!!」
「ウオォオオオオオオオオオオオオ!!」
その日、星が夜空にキレイな静かなキャンプ場に猛者共の雄叫びがいいまでも鳴り響いた。

フリーラン当日の朝、松永は闘志に満ち溢れていた。入部以来、どちこかと言えばおとなしめの松永は部内でもほとんど話さず、まったく目立たないでいた。しかし、控えめな性格だからといって存在感がないことを好んでいたわけではない。むしれ、そのことに対して劣等感を感じていたし、自分に貼られたレッテルを何とか払拭したいとも考えていた。そんな松永にとって、フリーランは千載一遇のイメージアップチャンスだった。

「絶対に俺が勝ってみせる!!!」
松永はそれまでの弱気な自分と決別することを1人、心にかたく誓った・・・。

「位置について!!」
資料の市来がスタートした後、松永を含む新入部員がスタートラインに立った。

「よーーい・・・」
主将の声に合わせて、全員がペダルに足を乗せる。

「スターートッ!!」
全員が一斉に走り始める!!松永は先輩に勢いよく押されて先頭に飛び出した。完璧なスタートだ!!
「よし、いい感じだ・・・。このまま先頭を守り切れば、俺がトップでゴールだ!!」

一般的にロードレースでは自分がリードしていると精神的に安定し、結果ペダルが軽く感じられる。松永も例外ではなかった。斜度7%は確実にある足柄山の急坂をセンタートップでグイグイと力強く登って行った。およそ新入部員のペースではない。しかし、その超人的ペースにぴったりとくっついて離れない男がいた。

「香嶋かっ・・・!!!このペースに付いて来るとはさすがだな・・・!!!」
香嶋。新歓時期に自らWCCの出店に行き、「ナンバーワン・ルーキーの座は俺がもらう!!」と言ってのけた伝説の男である。プレ新歓で圧倒的な力を見せつけ鮮烈なデビューを飾った香嶋はその後しばらく台風の目だった。

「香嶋、お前の実力は認めよう。だが、ナンバーワン・ルーキーの座をもらうのは俺だ!!!」
「お前じゃ無理だな。」
「無理かどうかその目でしっかり見ときやがれ!!!!!」
松永は渾身のアタックを仕掛けた。

「ぬおおおおおおおおおお!!!!これでも無理と言うかああああああああ?」
このペースについて来れるはずがない。香嶋はもうちぎれているに違いない。そう思って後ろを向い松永は愕然とした。そこには余裕の笑みを浮かべた香嶋がついてきていた。

「もう終わりか?こんなものアタックとは呼べないな。」
「何だとおおお?くわしむわぁ、どうやら地獄を見たいようだな!! 死ねえええ、これが俺様の本気走りだああああああ!!!」

松永はギアをアウタートップにしてフルパワーでペダルを踏んだ!!!
(ぬおっ!?何だ、これは!!重てぇーー!!重すぎるだろ、像を引っ張っているわけじゃねえんだぞ。洒落になってねーよ!!だが、ここで足をつくわけにはいかねぇ!!!もはやこれしか香嶋を倒す方法はねえんだ!!)

しかし、松永の身を削るような走りにもかかわらず、香嶋はちぎれなかった!!

「その程度か、お前の本気は?失望したよ。」
「なにいいいいい!!!」もっとペースを上げてやるぜ!!」
しかし、さらにペースを上げようとしたその瞬間、松永はマシンごとふらつき、そのまま転した・・・。

「自分の体力も考えずに走るから、足腰に余計な負担をかけるんだ。残った体力ではもはやインナーロウで上るのが限界だな、馬鹿な奴め。」
「くっ・・・!!」
「俺は先に行かせてもらう。」
そう言って香嶋は足柄峠を目指して一気に坂を駆け上っていき、松永の目の前からいなくなった。

「畜生!!負けられるか!!」
必死の追走もむなしく松永はその後、香嶋の背中を見ることすら出来なかった。

そして香嶋の10分後、ゴールに到着した。ゴールしてすぐに倒れた松永は悔しさに身を震わせながら決心した。「次回こそは香嶋に勝つ!!」

新歓合宿2 – 網代

新歓合宿2 1年 網代

僕はなぜこの合宿に参加してしまったのだろうか?

今までサイクリングといえば、家から駅まで自転車に乗っていくという程度のものだった。この大学に入ってから、僕はどのサークルに入ろうか迷っていた。そんな時、僕は古橋さんに出会い、去年の夏合宿の写真を見せられた。そこに写っているのは、皆笑顔で大自然をかけめぐっている非常に僕にとって魅力的なものだった。そしていつの間にか、この新歓合宿に参加することになっていた。

合宿1日目。その日は朝から雨だった。初めて乗るサイクリング用の自転車の扱いに惑いながらも、新宿から八王子まで行き、そこからは峠をのぼるという事で和田峠をのぼった。僕はあの峠を忘れる事がないだろう。
こんな坂道をのぼるのか!その坂は果てしなく続いているようで、僕は何度地に倒れこんだかわからない。サイクリングがこんなに大変なものだったとは想像していなかった。それから、僕はたいていブルーだった。なぜなら、それは今までの生活とはかけ離れたものだったからだ。暖かい布団もなければ、ベッドもない。ほとんど地面に寝ている感覚。
自由時間はないし、風呂にも入れない。こんな生活考えられないよ、と思った。逃げ出したいとさえ思った。次の日も山を登った、もちろん自転車で。しかし、だんだんとペダルを漕ぐことや肩の痛みに耐えるのにも慣れてしまった。やはり、風呂に入れないのは耐えがたがったが。

そして、とうとう最終日となった。その日は晴れていて、風も心地よいものだった。ゴールの松田駅に到着した時のなんとも言いがたい達成感がよかった。
もうやめたいという気持ちも消えていた。僕はサイクリングを続けたい。この旅は心に残る思い出となった。修行のようでもあり遊びのようでもある、このサイクリングクラブで僕は4年間を過ごしたいと思う。

この夏のヒトコマ – 古橋

この夏のヒトコマ 3年 古橋

あれは、何日目を迎えた日だったか?確か、7日目だったような、かすかな記憶が・・・。
何故だろうか。このあたりの記憶に関しては、ガスがかかったようにはっきりとはしていない。決して、夏合宿の中日であったために中だるみがあった、とかそういうものではないだろう。

そう、7日目を思う。この日は、前半の山場「鳥海大フリーラン」の日だった。

鳥海―まさに、鳥になって海上を飛ぶような開放感とその大パノラマは、夏合宿@東北には欠くことのできない舞台だ。そして、この長い道のりを全力で駆け抜けるからこそ、その舞台は最高潮に達するのだ。それ位の神聖な地だからこそ、2年の夏の前プラでもここを駆けたのだ。フリーランを前にした時点での皆の様子は、やはりそれなりの意気込みがあった。
ことに、タスクは確か1人で思い余って、くつを捨てて踊り始めていたほどだった。また、ある者は怯え、ある者は山と対峙し続け、ある者は精神に異常をきたしていた。そんなところである。

自分はその中、不安だった。ただただ不安だった。スタート直後は何の問題もなかった。なんだ、イケてるなぁオレ!という感じだった。しかし、残り5キロくらいからが地獄だった。
この状態はごぶさたでございました。ああ、堕ちてゆく。まっすぐ進めない。蛇行をくりかえし、くりかえしてゆく。考えたことは、おそらく上で待っているであろう後輩たち1人1人の顔と、1年の前プラの時に死んだ自分の姿、そして、自分が今まで築いてきた信念のようなもの。

観光客のおばちゃんが「つらそうだから乗っけてってあげるよ」よ」と声をかける。何人かにも同様に声をかけられるも、そのたびに断り、僕は後輩たちが待つゴールへ踏ん張った。

夏合宿1 – 薬師寺

夏合宿1 2年 薬師寺

前プラ
ウザい松永との1週間ほどの共同生活。この前プラにおいて我々は夏合宿後半3日間の下見を行った。適当に走り、酒を飲み、談笑する、そんな感じで毎日を過ごした。この間、一時の例外もなく彼のウザさはその貧相なまでに痩せた全身からいかんなく発揮されていたが、今振り返ればそう悪くはない生活であった。彼は基本的に頭が良くまた少しばかり気が利く面もあるし、おそらく彼と僕とは一種の波長のようなもの―話題、性向など様々な面―において良い意味でどこか合うところがあったのだろうと思う。そんな感じで毎夜飲んだくれていたためか気が付けば僕の財布はずいぶんと軽くなっていた。後輩の買収は先輩の権力維持の基本である、などというのは当然冗談であって後輩におごってやるのも、それはそれで理屈抜きに楽しいものではある。

松永君、君も近い将来先輩になった時には大いに後輩の生活への援助を怠らないように。無事下見を終了し青森に向かう途中、杉村に電話をかけた。聞くところによると1年生との間に何かトラブルが起こっているらしい。そのトラブルについては集合時に解決していたのでここでは触れないが、彼の弱弱しい語り口を久しぶりに聞いて僕が密かにほくそ笑んでいたことをここに告白しておこう。

集合日
青森駅に到着し仲間の到着を待つ。明日から合宿だと思うと何とも不思議で不安な、何ともいえない気持ちになる。少し僕の夏合宿観、CC観について書こう。こういうのは終わりに書くべきかもしれないが。まず我々が夏に行っているこの行事は、僕の解釈に基づいて言えばいわゆるまっとうな「サイクリング」ではない。
この夏合宿の重点、本質が美しい風景を見ることや自由で気ままな旅情感感を感じることでないのは、誰にとっても明白であるし、限られた、というかほとんど存在しない自由時間、無茶苦茶な企画(失礼)、厳しい集団行動などを見てもこれは一般的に言うサイクリングではないだろう。

我々のこの合宿は -別に崇高だとか偉大だとかいうつもりはないし、特にそう思ってもいないが、一般的なサイクリング、旅行とは違ったものを求めているのではないかと感じるのである。

ではこの合宿は何を求めてのものなのか。それについては個々人それぞれの考えがあるだろうが、僕が思うにはそれは皆の一体感である。皆がルールを守り、同じジャージを着て、普通に考えれば相当に無茶のある企画を気合いで走り通す。1年は必死で先輩に付いていき、2年は鍋に苦しみ、3年が皆を締める。そんな感じで各自それぞれの役割を果たしつつ最終日を迎える喜び。

それが僕らの夏合宿であり、WCCそのものではないだろうか。皆で協力して1つの作品を作り出すという点で言えばこれは例えば演劇、オペラなどに近いものであると僕は考える。演劇やらオペラやらには表現すべき何か、伝えるべきメッセージなど、いわゆる芸術性みたいなものがあると思われるが、同じように我々の走り、企画、合宿の運営方針は見方によればメッセージ性にあふれているし一個人にあたえる印象、影響は大きいものと思う。そもそも芸術性というものがその作品自体が持つ、人に精神的に何らかの印象、影響を与えるであろうひたむきな何か―性向のようなもののことであるとすれば僕らの夏合宿はなかなかその芸術性に満ちたものと言えるのではないだろうか。

違うところといえば、この合宿では皆が作品を作るべき演じ手であり、また感動を共有する観客でもあるといえる点だろう。早稲田大学サイクリングクラブが39年間続いてきた中で多くに先輩たちによって多くの夏合宿が行われ、その積み重ねによってこのような精神、いわゆるWCC流とでもいうべき個性的な性向が作られてきたと考えれば、これはなかなか感慨深いものがある(実際にOBランで第3代くらいの方から聞いたのだが、初期のWCCはそう厳しいランをやっていたわけでもなく、夏合宿も今よりはだいぶ短かったらしい。そのことから考えれば、やはり今のやり方は初めから存在していたのではなく39年間の経験の積み重ねによって出来上がった1つの結果なのである。まあ道路の整備事情、交通事故その他の理由もあるかもしれないが)

我々の夏合宿というのは非常に個性的な行事であり、先に述べた意味で非常に芸術的
(しつこいがここでの芸術とは単純に美しいとか偉いとかそういった意味ではない。人に何らかの精神的影響―それが良かれ悪かれーを与えうるまでの何かを持っているということ)
なものであるのだが、それゆえに合宿に対する感じ方、受け取り方も人それぞれであると僕は考える。言ってしまえば、ここでいう芸術観と人生観とはほぼ同一なものだと思うし、この合宿の提示する芸術にあまり共感しない人だって当然多く存在する。
そういった人達の中にはWCCをやめていく人もいるだろうし、そうすることは全く構わないことではないかと僕は思う。別にそういう人達が嫌いだとかそういったことでは全然ない。
彼らには彼らなりの大事なものがあるだろうし、もしないとしてもこれから探していくだろうから。

あるいは、WCCの持つ性向が嫌いでなくともやり方が(体力的にキツい、長すぎる、金かかりすぎる、汚すぎる等)気に入らない、好きになれない人もいるだろう。そういう人はできれば一緒に活動したいが、どうしても駄目なのなら別な形でWCC的なもの -少々おこがましい言い方かもしれないが- を追求してもらえばいい。
現にそういった場所は、この大学の中には沢山あるだろうから。もっと言えば、現クラブ員の中にも迷いを抱いている人はいるだろうと思う。そういった人は自分からWCCを望む形に変えていくよう影響していったりとか、とにかく周りと真剣にぶつかっていけばいいのだと思う。

・・・などと相談されてもいないのに随分と偉そうなことを書きすぎたが、僕個人についていえばWCC的なものというのは僕という人間と非常にマッチしている、と思う。しかし、これはあくまで僕の持っている様々な要素、多面性 -誰にだって多面性はあるが- 1つに合致しているに過ぎないし、僕の性格の中にある多くの要素の1つにうまくフィットしている、あるいは僕の性向に特に反さない、という程度のものかもしれない。しかしその程度であってもそれだけでWCCを続けていく理由として十分と思うし、僕はWCCを、特に夏合宿を大いに愛している。

だいたい100%WCCの精神に合致する人がいるとすれば、そいつは相当の変態だろう。そういう意味でいえば誰しもある程度の疑問は感じていて当然だと思うし、個々人のWCC観があって当然。迷いを感じている人も、いわゆるWCC流というものが自分の大切な要素の中の1つと合っているかどうかを考えればすっきりしていいじゃないだろうか。

完全な一致を考えたりする必要はないと思う。たとえ、一部分でもこの合宿に気持ちよさを感じられれば十分なような気する。・・・などとまた大変おこがましいことを書きましたね、すいません。

合宿開始 ゴールと宴会
合宿が開始された。が、僕はあまり具体的なことを憶えていないしあまり書く気もしない。ただ、今振り返ってみればあの日々は僕の人生の中で決して無くなってほしくない時間ではある。
説明すれば、すすきのや新小岩や仙台や博多で、俗な風を吹かし、まさに射精せんとするその瞬間の記憶は別に僕の中から消え去っても構わないけど、合宿中の記憶は峠を登っている最中も、登った瞬間も、仙台にゴールした時も、フリーランで松永に負けた最悪の記憶さえも含めて消えてほしくはない、
という感じなのだ。そう感じるのはただ単に毎日が苦しかったからかもしれないし、何度かはとても楽しかったからかもしれないし、また幾度かはとてもむかついたからかもしれない。
あるいは、それら沢山の強烈な感情を短い時間であまりにも多く感じたからかもしれない。
(短い、といっても2週間だが。でもその2週間で感じた様々なことの物理的な質量と通常の生活で感じるそれとを比較すれば、やはりそれは短い時間と言えるだろう。つまり、夏合宿で感じる苛立ち、喜び、安堵などと同じくらいの量の感情を普通の生活で感じようと思えば結構な時間がかかるだろうということだ)

ただ、このような感想は、こんな無茶なやり方の合宿であったからこそ、いわゆるWCC的合宿であったからこそのものであったとは思う。別にこれが最上のサークル活動だ、こういうやり方が最高の合宿だ、などと言いたいのではなく、こういうやり方で感じるこういう感情も悪くはないな、という感じ。
さっきも書いたが僕はこの合宿、クラブに僕の中にある多くの要素の一部分において深く共感しているのであってすべてを捧げているわけじゃない。他にも素晴らしいものは沢山あるだろう。
でもやはり、僕は夏合宿を愛している。だんだんややこしくなってきたが、僕のWCC観というのはこんなところである。

最後に
39年間かけて先輩が作り上げてきたものを継ぐ、なんて言うと多少の堅苦しさも感じるが、やはり長きに渡って行われてきたもの、受け継がれてきたものを守り続けたいというのが僕の基本的な考えだ。
そうかと言って、ずっと変わらないでいることも難しいだろうし、現実にWCCは時代の影響を受けて時代だけのせいにはできないだろうが- 変わってきている。僕にとって今回の夏合宿は、これからのWCC像について深く考えさせられる内容だった。なんだか改選時に書きそうなことまで書いてしまったが、最後に合宿のまともな感想を書くとすれば、今回の夏合宿はいろいろ事件はあったにせよ間違いなく大成功だったということです。

NUTS GASH COO(夏合宿2) – 市来

NUTS GASH COO(夏合宿2) 2年 市来

今年の夏合宿は東北だ。弁慶の泣き所だ。蟻の門渡りだ。ブギーというわけで、また暑い夏が、いや、そうでもないか、涼しげなサマーがやって来たのである。
人間嫌いのインチキ写真機使い、西平、「ポバティー西平」こと西平、ニシヒラ、NISHIHIRAと、私、メガネ撲滅委員長の市来、「ポイズン」市来が今夏のロバート・キャパってわけでやるよ。

まあだらだらした文章は嫌いなので、早速出発日んところから行こう。集合地の青森の八甲田丸の近くの公園でテンぱって機材の受け取りに行く時にタイヤがバーストして行けなかった。タイヤを買えてさっさと飯食いに行こうぜ(山田アクセント)っていうときにまた作業が進まず、杉村が、あのメガネがまたキレてました。フニーン。そすてね、1日の峠だよ。もう新重し。死ぬよ、ホントにさ。で、まあ今日も生きてるって感じ。そすてね、資料としてはもうなめっ。ナメだよ。

2日目もダート。もう1人のロバート・キャパ(カモシカ・ダセーが口癖なのだが)は「ラクーン」に乗っているような勢いで、まさにラクラクと漕ぎ進んでいったのであるが、も、もう1人のロバート・キャパは何とかダートを抜けるもその後の下りでまたもやタイヤがバースト。
「パキーン」と言う音がした。その後メガネとチャリから下りて下っていった。あの暗闇の中の長い沈黙ほどバツの悪いものは後にも先にも考えられない。

そして十和田湖のキャンプ場に着いた頃には薬師寺がチャリの修理を終えて帰っていた。
「どうしたの?」
「いや、どうしたもこうしたもねえよ。」

といういつもの会話の後、メカニックさんは半ば夜なべをする羽目になったのです。
Sigh after sighで、次の日またもパンクを、いやバーストを起こし、結局バス停まで8キロほどチャリを押してって、バスに乗って盛岡まで行ってチャリ屋探して修理してもらいました。べそをかきながらもチャリを修復し、ハンガーを食いまくった後、道の駅西根までナイトランした。

次の日は八幡平の頂上まで西根から4時間で一気に登ってやりました。みんなホントに上にいるか不安だったが。その後ピストンしたが、全くへこまず、むしろ1人で峠を登ることの醍醐味を知って充実感に溢れていた(いまさら)。
その日も温泉には入らなかった。入る気力がなかった。こうして僕は1度も風呂に入らなかった。
次の日、久々にCLをやった。道間違いしまくって、鍋をダートで古橋さんに代わってもらったりして、大変だった。ダートのくだりで松永が超遅かった。信号無視して古橋さんに怒られた。焦ってどうかしていた。この日はテントが最初からあるキャンプ場でパッキングをはずす手間が省けた。

次の日は海岸走り。象潟キャンプ場に着いて、みんな海で泳いだ。僕は1人で散歩した。夜、他のキャンプ客が騒がしかった。次の日はフリーランだった。鳥海山はデカイ。空が青い。そして思わず踊り出していた。

僕は鍋を持っていたが、2位だった。奥山林道を抜けた後、疲れていた僕は地元の人に話しかけられても答える気力もなかったが、後でその人に水をもらうことになって、気まずかった。

西平が次の日死んだ。腹痛だか産卵だかしらないが、とにかく戦線を離脱。川原毛地獄は大したことなかった。その日のうちに亀(彼)が帰ってきた。雨がざーざー降っていた。テントに水が浸水し、目が覚めた。

新庄のフリータイムは全然面白くなかった。勝野さんが来て、闇鍋をやった。殆ど食ったので後で死臭が体の中から臭ってきた。もうこりごりだ。
紙浦さんが合流した日、何でもない坂でキレた。紙浦さんは河瀬さんのチャリに乗っていたが、途中で松永のチャリが倒れこみ、タイヤが潰れた。その時も杉村はへこんでいた。タイヤは何とか直り、下りで紙浦さんが絶叫していた。すごい声だった。熱海さんと合流してちょっと一緒に走った。

次の日は現役だけになった。小山が一発芸の話にショックを受けて、逃げた。書き置きには「やる気なくなったのでやめます、小山」とだけあった。その後、彼はお別れを言いにまた戻ってきた。ちょっと寂しかった。

気を取り直してフリーラン。これも長い。腹黒西平に騙されて鍋を積んで走った。彼はお腹が痛いと言っていたのにパンツ1丁で走り、優勝した。ゴールの仙台に着いた時は、ほっとした。達成感より安堵感の方が大きい。大きな旅の達成感は少し時間が経ってからじわじわと来るもののようだ。

サイクリング随想録 – 杉村

サイクリング随想録 2年杉村

苦しかった思い出は往々にして後で美化されがちであるが、今回の夏合宿は未だに未消化のまま僕の胸の中に深く影を落としている。それを回想することは壮大な物語を紐解くように、そしてあるときは、忌まわしき白昼夢のようにぼんやりとすることさえある。

排除したい記録なのかそれとももう1度出会いたいと切望するものなのかはわからない。その光景に嫌悪感をもよおすこともあれば、その嫌悪自体を楽しんでいる瞬間もある。

そう、使い古された常套句を用いるならばそれこそまさに「砕苦輪愚」なのだ。事細かに利便性を追求し達成したからといって、それで却って失ってしまうものもあるのじゃないか。
あらゆる煩瑣を取り除きひたすら合理性に突き進んだからといって必ずしも至福のときを得られるとは限らないし、だからこそ簡単で質素な旅のほうがはるかに深い情感を人に与えるのではないか。

我々の体験した生活はかつて求め模索して来たものとどっかで通じている。そう感じながら走ると、単なるノスタルジーではない新しい出会いの光景が生まれてくるはずだ。

夏合宿雑感 – 西平

夏合宿雑感 2年 西平

初日・津軽峠の登りは眠りながら走っていた。前プラで色々とトラブルがあったので睡眠不足であった。キャンプ場について飯を作っているときも寝てしまった。とにかく眠かった。

2日目・よく覚えていない。とにかく暑い。はやく曇ってくれと願う。

3日目・十和田湖、展望がきかず見えない。奥入瀬に行かないコースは疑問。

4日目・久々の登山にワクワクしていたが、俗な所だったので興ざめした。

5日目・真昼丘林道は班の人間と一緒に走れたことがよかった。今合宿は体調が良くなかったが、その中では1番調子が良かった日ではないのかと思う。

6日目・楽勝日ではあったがこの6日間の中でキツい部類に入る日であると感じた。何かがおかしい。

7日目・フリーランやる気なし。フリーラン後の平地で急にペースが落ちる。下痢をしはじめる。

8日目・朝から下痢。最初から遅れる。写真を撮る余裕がなくなってくる。皆ダートが苦手なのか、病人はかろうじてついていった。しかし舗装路に入るとまた遅れる。迷惑かけます。

9日目・寝ているときも下痢に悩まされる。このような下痢ははじめて。早く帰りたい。体調的に1番やばかった日。苦しみながらも川原毛地獄を観光。キャンプ場に3時間ほど遅れて、付きの古橋さんと到着。そのまま就寝。

10日目・夜に台風が通過したようで誰かがテントの中に入れてくれたナべに雨が全部入ってくれて浸水せずにすんだ。フリータイムがあってもなくても関係ないくらい死んでいた。

11日目・走りは前日と同じ。これ以上の苦しみを伴って走ることは将来もうないので我慢してついていく。

12日目・マニアックなコースが大好きであることを実感。今度は廃止路を走ってみたいと思った。

13日目・自転車は気合で漕ぐものだと実感できて本当に良かった。さらば短かった13日間よ。

夏合宿 2001 IN 東北 – 網代

夏合宿 2001 IN 東北 1年 網代

今年の夏は熱かった。僕は、夏合宿に行くためにこのクラブに入ったのだ。8月2日、夏真っ盛りのこの時期、僕は東北へ向かった。前プラ初日、鳥海山。前日は、期待を胸にテントに入ったが、僕はプレ合宿には行かず、自転車に乗るのは3ヶ月ぶりだったので、かなりやばかった。
杉村さんと小山に置き去りにされ、ひーひー言いながら足はけいれんを起こしながらも頂上に着く。そんな感じで新庄到着。男鹿半島がこれまた良かった。いろんなものをこの目で見た。
そして、合宿。いろんなことがあったが参加することにした。白神山地を肌で感じ、十和田湖の水に触れ、八幡平の空気を思いきり吸いこんだ。

真昼岳林道のダートには本当に参った。ペダルを3回まわせば真横に倒れる。押していった方がよっぽど早いと思いつつも、ただひたすらぺダルをこぎ、そして倒れた。キャンプ場に着き、夕食の時に、コッヘルが変形しているのに気付く。

象潟の海も心地よかった。古橋さんが白かったことが印象深い。周りの観光客が花火をしているのを見て、久しぶりに俗世に帰った気分だった。と同時に、実家の房総半島に帰った気分だった。
翌日、前プラで倒れた鳥海山に再び挑んだ。前プラが嘘のように鳥海山に到着。ちなみに、ここがフリーランのコースだった。頂上から見た日本海がまた素晴らしい。男鹿半島も見えた。

サイクリングのよいところのひとつはやはり景色だろう。しかもそこに到着する方法が他人の力によるものでなく自分の力だと実感する時に、その感動は増大する。
2週間の合宿は長いと思いつつも残り日数は5日になり、4日になり、3日になり…気付けば最終日。蔵王山。フリーラン。スタート。ゴール。お釜がまた綺麗だった。
自然はスンゲエーと感じた。下って下って下って下って、風を吸いこんで、風を切って、風を追いかけて。仙台の看板を見たときはしみじみと走った。そして感動のゴール。ヤッタヤッタヤッターと感じた。

サイクリングは不思議だ。終わってしまうとつらいことも忘れ、またやりたいと思ってしまう。あの一瞬一瞬が青春なんだと感じてしまう。今はサイクリングが大好きだ。自分の自転車が大好きだ。WCCが大好きだ。

Editor’s Note

2001年の出来事。平成13年。

1月。日本の中央省庁が1府22省庁から1府12省庁へ再編統合。
JR山手線新大久保駅で、男性が転落し、助けようとしたカメラマンと韓国人留学生、3人とも死亡。
3月。ユニバーサル・スタジオ・ジャパン(USJ)が大阪市に開業。
4月。さくら銀行と住友銀行が合併して三井住友銀行誕生。
第1次小泉内閣発足。
5月。埼玉県浦和市・大宮市・与野市の3市が合併し、さいたま市が誕生。
ウィキペディア日本語版が開設
6月。大阪教育大附属池田小児童殺傷事件が発生、児童8人が死亡。
7月。 兵庫県明石市のJR山陽線朝霧駅の歩道橋で花火大会の見物客が将棋倒しになり、11人死亡。
9月。アメリカ同時多発テロ事件発生。日本人は24人が死亡。
10月。AppleがiPod発表。
11月。JR東日本がSuicaサービスを開始。

第43回日本レコード大賞 2001年 Dearest 浜崎あゆみ

WCC夏合宿は、「東北地方: 青森から – 仙台まで」でした。

=====
こんにちは。WCC OB IT局藤原です。

2001年当時の自分は最もサイクリングから離れていました。というのも落車、鎖骨骨折のため、
プレート抜き手術を待っていたので。ところが現役諸氏の文章を読むと、全力で上るその様子は、
WCCの伝統そのもののように感じました。重装備のランドナーとキャンプ生活。変わらない部分は
まだ変わっていません。

当時の文章をWEB化するにあたり、できるだけ当時の「雰囲気」を尊重するよう心掛けたつもりです。
文章と挿絵はPDF版より抜粋しました。レイアウト変更の都合で、半角英数字、漢数字表記等を変換していますが、全ての誤字脱字の責任は、編集担当の当方にあります。もし誤りありましたら、ご指摘をお願いします。

2024年冬、藤原

次章、峠「20号」_2002年度

タイトルとURLをコピーしました