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第40代
新春特別冬企画 IN 紀州 – 杉村
新春特別冬企画 IN 紀州 3年 杉村
「冬合宿」人はこの言葉を「えっ、このクソ寒い季節にわざわざサイクリングなんかしに行くのかよ・・・物好きな奴だな、馬鹿な奴だな」といった嘲笑、皮肉をこめて用いる。~
嫌な予感はしていた―正月元旦からサイクリングに行くことにいささか抵抗を覚えた僕は1月2日の午前はバイトを入れ、その日の夜行に乗って先発隊である西平、松田のもとへと向かうことにした。その時点での東京の天気は晴れ。
嫌な予感はしていた―その夜東京駅に着いた僕は乗る予定の夜行が予約制であった事を知る。むろん予約していなかったがたまたま臨時の夜行が出ていたので助かった。
嫌な予感はしていた―寒風吹き込む車窓のそばにたたずみ、一睡も出来ずふと窓の外に目をやるとそこには白銀の世界が広がっていた。ちなみにそこは名古屋である。
当然、名古屋から先に行く電車は全て運休していて、しばらく動く気配はない。とにかく寒かった。もうその日のうちの合流はありえなかった。帰りたかった。
しかしその旨を先発隊に伝える術はない。はたして彼らは予定どおり走っているのだろうか?いや、それ以前に生きているのだろうか?そんな不安が脳裏をよぎりさえした。
結局連絡も取れないまま電車が運転再開したのは昼近くなってからである。雪が積もっていたのは名古屋周辺だけでそこからはスムーズに進んだ。
紀伊半島は温暖なのだ。しばらくして彼らからの連絡が留守電に入った。驚くなかれ彼らは雪による障害をものともせず予定より先に行こうとしているのだ。マジかよ?という気持ちと彼らに対する幾ばくかの賞賛が入り混じった状態で先へと進んだ。
結局電車の遅れが尾を引き、当初の尾鷲からの合流ルートは時間的に無理となり、新宮まで電車で行き、そこからバスに乗り継いで彼らのキャンプサイトに行くことにした。
バスに乗った頃には辺りは真っ暗で、そこから1時間ほどバスに揺られて終点である山道の中腹に降ろされた。そこからキャンプサイトまでは20km近くある。結局真っ暗な山道を独りナイトランする羽目になった。ヘッドランプの明かりのみを頼りに走り続けてやっと彼らと合流できた。彼らは温泉に入って酒を飲んだらしく、かなりまったりしていた。そして俺の分の酒は残ってなかった。何たる仕打ち・・・。
その晩は明日のコースがハードなのにもかかわらず、すっかりテントで話し込んでしまった。翌朝その日のコースをよく把握していなかった私は起床時間を遅らせてしまった。西平君、この場を借りて謝っときます。ごめんなさい。
ラン中の出来事は印象に残ったことのみをかいつまんで書きたい。結局その日はナイトランに突入してしまい、途中見つけた小学校で泊まることになった。
ツーマーで調べてみると偶然にも近くに温泉があることがわかったので、早速行ってみることにした。行ってみると外観は郊外の古びたラブホといた感じでけっしてきれいな感じではなかった。いちばん怪しかったのはそのホテルのオヤジである。
そのオヤジに背後に忍び寄られた西平の驚きようといったら相当なものだった。そこのホテルのロビーにあった雑誌を読んでみると、この温泉がランキング1位で紹介されていた。何でもそのオヤジは不動産業を営んでいて稼ぎに稼いだ挙句、脳卒中で倒れて山奥に移り住んで温泉を掘り当てたらしい。
次の日ゴールの潮岬に向け走りまくったが着く頃にはすっかり日が暮れていた。結局灯台の辺りは真っ暗で展望はなかった。そこで疲れ果てた我々に西平からさらに萎えさせる一言が・・。ここでは灯台に関することわざとだけ記しておこう。
すばらしい企画をありがとう。
現2年生 第41代の面々
春合宿 – 薬師寺
春合宿 3年 薬師寺
5年ぶりの台湾合宿である。改選直後から執行部全体で綿密な企画を立て、OBの皆さんの協力を経てついに日本を発つ日がやってきた。下見は2人1組で行うこととなっており、僕のパートナーは市来氏である。市来氏はその独自の奇行っぷりで有名である。
奇行といってもその種類、タイプは様々ではあるが、自ら開発したという複数の関節を同時に可動させる独特なストレッチ体操(少なくとも僕には狂者の舞としか思えなかった)、トレ中に何の脈絡も無く突如行われる危なげなとんぼ返りなど、彼の奇行の特徴は彼独自の芸術的才能と少々神経症的な苛立ちか
らくる突発的な衝動から来ていると思われる。
台湾国においても彼はその芸術性を如何なく発揮する。やっと台北に着いたと思えばいきなり地元民とトラブってる市来氏。「風呂に入る」と言った直後に「やっぱやめた」と言い、その5分後にはやっぱり優雅に風呂に浸かっている市来氏。何故かチャイ語が喋れる市来氏。
犬のウンコのついた靴とその臭いについて非常に卓越した独自の理論を持つ市来氏。
結論から言えば、そんな彼との共同生活は非常に面白いものであった。完全に独立した1個の独自の存在であり、皆それぞれに大きく違った精神構造を持ち、その個体どうしの距離を縮めることは、少なくとも日常生活においては決して容易ではないはずの人間。
それでも異国で2人っきりで2週間も一緒に生活してれば状況は変わってくるものらしい。多少の衝突を起こしつつも我々はなかなか楽しく生活した。いや、その衝突とその後の邂逅こそが人間同士が親しくなる場合に重要なファクターの1つとなるのであろう。
その衝突、邂逅が目に見える現実的なものであるにしろ、他人は気づかないような精神的なものであるにしろ、である。WCCの合宿は古くから伝わる数々の悪しき風習(亥の子、全Cテン、バトルその他)のおかげもあってかそういった良くも悪くも互いに親しくなる機会に恵まれているかもしれない。
まあ衝突したままで終わってしまう場合も多いけど。
1日目100キロ・2,500アップ
恒例のいきなり修行日。南部橫貫公路越えである。数年前の大地震の影響で200mおきくらいの間隔で道が半分崩れている。2500アップもすりゃあ2年の死に顔が見れるだろうと思っていたが、奴等ぜんぜん死なない。よってぜんぜん面白くない。下見した時俺は死んだぞ。
2日目90キロ・2,300アップ(推定)
これぞまさに隠れ修行日。台湾の地図は全然当てにならない。なんと等高線の間隔が500mおきなのである。マニアックな道を走りまくったために隠れアップの連続。余りのキツさに松永が本死にしてダウン。ひたすら登るよりもアップダウンの繰り返しの方がよほど萎えるということを学ぶ。
3日目80キロ・2,000アップ
阿里山を登る。台湾を走っていてつくづく思ったことだが日本ほど道路が完璧に舗装されている国はない。台湾も主要道は当然舗装されているのだが穴ぼこ、出っ張り、崩れが多すぎる。まあ日本の方が異常なのだろうけど。
4日目60キロ・800アップ
やっとのことで楽勝日。クラブランで連日2,000アップ以上登ろうとするサイクリングクラブなど恐らくWCC以外には存在しないだろう。プーリーでフリータイムを取り台湾製ケンタッキーを食す。
5日目55キロ・2,800アップ
殆どネタで作ったかのようなアップ量だけどネタではない。とりあえず登れるところまでは登ろう、という方針で設定されたコースであるのだが俺以外誰も死なない。よって全然面白くない。
喫煙のせいだろうか。サイクリングにおけるニコチンの影響力は想像を遥かに絶するものであることを知る。
6日目80キロ・1,000アップ
標高3,300mでのフリーラン。これも普通のサイクリングクラブでは絶対ありえないことだろう。予想通り意識が薄くなった。その後、噂の大魯閣を走る。すごいすごいとは良く聞いていたが僕は観光の類に全く興味がない人間であり、自ら予想したとおり全く感動せず。自分が国内はおろか、海外旅行ですらまともに観光を楽しめない人間であることを知る。
最終日40キロ・100アップ
台湾の風俗事情をもっとしっかり把握しておくべきだったのだ。そんなことははじめから分かっていたはずなのに。言葉の通じない国の怪しいお店に入ることがどれほど勇気の要ることか。
もともと急速な経済発展の影響で台湾政府は風俗産業を厳しく取り締まっているらしいけど。異国で俗な風を吹かすのは容易ではないことを学ぶ。
春合宿台湾 – 杉村
春合宿台湾 3年 杉村
1日目 2002年3月某日台湾南東部の辺境の地、海端に8人の異邦人サイクリストが終結した。そう、この花蓮の駅員からも忘れ去られた土地海端はWCC40代春合宿のスタート地点という栄誉を勝ち取ったのである。さて、この町には本当に何もなかった。何しろ買出しできる店まで行くのに隣町まで20キロ近く走らなければいけないのだ。
おとなしくその隣町、関山を集合地にすれば良かったのに、とも思ったがそれもこれも合宿初日の距離を少なくするためである。それほどみんな初日の修行日に恐れおののいていた。
それもそのはず、2700アップ+カクレアップという今まで体験し得ない数字だったからである。そのため就寝時間も激早で毎度のことながらパリーグに住みついた子犬の臭いの影響
(半分は俺の足の臭い、ゴメン網代)もあって眠れるはずもなかった。
全く一睡も。そのためいまさら記すまでもない網代の起床大ポカ事件も本来ならば亥の子じゃ済まされないことだが、僕個人としてはどうでも良かった。早く起きたかった。かくして合宿初日は幕を明けた
訳だがこの先は意外や意外、順調にカツカツと登れた。これがいわゆる合宿パワーなのか。
若干1名パンフレットの挿絵どおり左右に振れながら死んでいた者もいたが、タイムテーブルより早く頂上についた。頂上の売店では頭&育ちの悪い現地人にイライラさせられたが、なんて順調に進んだ初日なのだろう。
2日目 1日目の成功に気を良くした我々は2日目をナメきっていた。修行日はこの日であった。実態の見えないアップほど心身にひびいてくるものである。道自体はトロピカルなムード満点でとてもよかったが走れども走れども着かない休憩地点(薬師寺、市来憶えてろよ!)や夏合宿ばりの暑さに我々は疲れきっていた。結局真っ暗になっても宿には着かず地元の人の好意に甘える事となった。何で台湾の人ってこんなにやさしくって親切なのだろう、うん。
3日目 この日は台湾の有名な観光地の1つである阿里山が目玉であったが正直オォこれが阿里山かといった感動はまったくなかった。そしてこの日ずっと気になっていた檳榔(東南アジア1帯に普及している合法ドラッグらしい)を初めて口にしたが苦くて苦くて全くもって食えたもんではなかった。あとにも先にもあんなものを口にすることはないだろう。
4日目 この日はリーユエタン(漢字変換ができない)を見たがそれより僕の感動は哺里の天一大飯店のオヤジ(ハマコー似)に再会できたことの方が大きかった。彼は前回と全く同じ日本語を繰り返していた。彼との話の中で西平が「君は特攻隊員にはなれない」と言われしょっぱい顔をしていた。フリータイムはいつものフリータイムらしく実もなく過ぎていった。
5日目 今合宿最大の山場、地獄の3000アップ!のはずだったがフリーランの絡み云々で最後の400アップは翌日に回した。下見者である僕はそれでもかなりキツイと危惧していたが、ここでもみんな予定よりずっと速いペースで登りきってしまい拍子抜けしてしまった。一体何なんだろうか。みんな強いよ、ホントに。
6日目 武嶺フリーラン大会は高山病の恐怖におののきながら開催された。1位だった人良かったね。ビリだった人頑張ってください。自分の参加しないフリーランの感慨なんてこんなもんだ。
頂上では2年生みんな寒がっていたけど、忠告しておこう。春合宿の寒さはこんなもんじゃないからね。ここからは一気に3200ダウン。景色は最高なはず(下見済み)なんだけどあいにく曇っていた。途中の太魯閣は2度目だったが、やはり凄かった。僕が生涯見た中で1番の壮観であった。
7日目 台湾で1番思い入れの強い町、花蓮まではわずか2発。そして輪行して台北へ。合宿で輪行なんてなんか不思議な感じ。
台湾合宿 – 市来
台湾合宿 3年 市来
台湾に行く前に私はウンコを踏んづけてしまった。不運だ。そう思いながら出発日に靴を買った。ギリギリの時間に空港に到着。
輪行袋に一切合財詰めこんできたのでクソ重い。全くクソッタレなんだワン!下痢!(get it!)っつー感じで
薬師寺と合流した。残念ながら全く仲間と会って嬉しいとは感じなかった。寂しい人間なんだろうか、俺って。
さて、クレイアニメのようにダバダバと動きながら我々は1歩1歩進んでって飛行機に乗り込んで落ちついた。かと思うと同じく出発前にウンコを踏んづけて靴を買い換えた、隣にいる仲間が
「俺、飛行機嫌いなんだよ。離陸する時にケツがムズがゆくなってきてこわいんだよ。」
と僕に悩み相談を持ちかけてきた。そんなのおれの知ったことか!自分のことでも精1杯なのに。黙ってろ!とは言わなかったが、(だからどうした)って思いながら同情してるフリをした。リーブ・マイ・ホウムグラウンド(千葉)。
さて、こうなったらもう落ち着かない。彼はケツの穴に吸い込まれそうな小人のように縮こまった。
いつも陽気そうに叫んでいた彼の面影はどこにもない。とにかく、僕達の旅は幕を開けたのだった。飛行機に乗っている間、僕は彼に何度も中国語を教えようとしたが、彼は拒み続けた。自分と彼との間に共通点がないことにようやく気がついたのはこの時だ。
僕が「共通の知識を持てば共通の話題が増える」と思って言ったことを全て僕をバカにする材料にする。
はなはだ不愉快だが、嫌な人間と付き合ういいトレーニングだと思って今日まで付き合ってきたがいい加減に飽きてきた。ブッダは悟りの境地を求めて様々なことを試みたが、修行もそのひとつだった。どんなに体を傷みつけても悟りは得られず、途中で止めたという。
そんなことを思い出しながら、彼の煙いタバコに巻かれ、せきこんだりした。台湾に着いてからは薬師寺に任せっきりだった。僕をさんざんバカにしたんだから、そんぐらいやれ!とはさすがに思わなかったが、別にガイドブックを読んで勉強しようとも思わなかった。
自分は語学(ツーヤク)が出来るからいいのだ!とは思った。そして、バスに乗った。灰色の窓を眺めていると突然、忘れていた過去の不安が蘇った。理由はわからない。
その不安は余りにもぼんやりとしていて説明するのが難しい。ただ、ばかばかしいものには。ばかばかしいのに、心に確実に重くのしかかる、自分で生み出した妄執。この妄執を前プラが終わる直前まで僕は引きずった。バカだなー。
薬師寺は僕が気が狂いやすい人間であることは理解していた。彼は、他人の心など分かるものではないと考えている点では僕と気があっていた。僕の問題に首を突っ込まずに、そっとしておいてくれる。ありがたいやつだ。そっとしてもらったという点で彼には救われた。
この合宿は僕にとって非常に精神的な意味を持っていた。狂気というものについて、人の心のもろさ、危うさについて、いかにして精神を守り、強くするべきか、また、いかに恐怖というものと付き合っていくべきかについて、「運命」、「可能性」、「感性」、「今」、「希望」、「意志」、「勇気」、「責任」、「自由」、「イメージ」、「自然と人間」、「自分という他人の存在」、「論理の限界」、
「自信というものの本質」などについて、よく考えさせられた。
要するに、楽しむべき時にしかめっ面していたということなのだが。まあ、僕にしてみれば外的世界の峠を越えるという行為はこの内的世界のトンネルの一条の光となったのであるが。
魂は肉体と繋がっている。だから少々悩んだって体をめいっぱい動かせば気分だけはどうにかなるものだ。方法というものは、いつ効力を持たなくなるか分からない。だから、どんなに無難な道を歩いているつもりでもそれもある意味では冒険と言えるんではないだろうか。
言葉という道具だけでは賢く生きられないもんだ。身体性にまつわるもの、たとえば感覚や本能や動物性や直観力、生命力、健康、表情、声、呼吸、リズム、運動、睡眠、食事等に目を向けないのは科学的態度からは程遠い。
ものを深く考えるにはいろいろなものが必要だ。あくまでも「深く」「明晰に」考えるうえで、である。必要なもの、これは抽象的なものも具体的なものもある。まず人間、これがなければ始まらない。
人間にはいろんな種類があるがまず親と子、という分類がある。その前は男と女がある。また、自分と他人というのもあれば、生きている人、死んだ人という区別もある。
病人(ここでは特別なハンディキャップを持った人間という意味)とそうでない人というのもあるし、抽象概念やイメージとしての人間と現在確実に存在する人間という区別もある。
或いはただの物質、肉塊としての人間と、感情移入、同化しうる存在としての人間という区別もある。
他にも現存する人間、過去の人間、未来の人間という区別、1人と多数、個と全体の区別、動物としての人間、自然の一部としての人間、老いと若き、道具、部品としての人間、自分という他人、などが思いつく限りで挙げられる。人間の分類はしたが定義はあえてしない。
哲学的なテーマだがあくまでも普段思っていることを書きたいだけだから、難しく定義などはしたくない。こういう態度が実は一番「深く」考える上で大事なんだと思う。
人間はバカなのである。というのは、単に「完璧な頭脳」はあり得ないのだし、人が考えたことは、所詮人が考えたことに過ぎないから。人がものを考える時には必ず「頭」が必要になる。頭は体の一部であり、体を維持しなければ考えることは生きることもできない。生きていることがまず第一条件だ。
生存し続けるには食事を摂り、呼吸し、眠り、水分を補給しなければならない。そして死なないように、安全で健康な生活を送らなければならない。
空間と時間でこの世界は構成されており、その世界に人間は存在しているので、当然考える時の条件の1つとして、「空間」「時間」もカウントしなければならない。
安全で、頭が正常に働く場所で、生活或いは生存に必要なことをやる時までの限られた時間で考えるのだ。生活には常識的に言って金が必要だし、食い物もそれを作るにはこれも常識的に考えて自然が必要だ。人間は自然の一部だから「自然」のキーワードは絶対にはずせない。
さっき言った「水分」や「呼吸」のための「空気」も、自然の物である。そして、また常識的に考えて、「社会」も必要だ。「社会」の定義もしないが、とりあえず、労働によって成り立っていることは確かだ。しかし、労働はあえてキーワードにはしない。「行動」で一括りにしたい。行動は思考をも包含しうる。
さて、考えるということは、いったい、どういうことなんだろうか。同じ「考える」という言葉を使っていても人によって違うものだろうが、僕が思うに「考える」ということは「よりよく生きるために必要な、知恵を作ろうとすること」だと思う。
この定義はごく感覚的なものであるが、論理と付き合う上で必要な心構えだと思う。
論理的に考えれば人間がいなくなることが一番いいことなのだが、果たしてこの「論理」というものが「真実」なのだろうか。さっきも言ったが人間の考えることなんてタカが知れているのである。
論理と呼んでいるものが本当にそう呼べるほどの正確なものなのかも疑わしいのに、「論理」と銘打って突き出されただけで物怖じしてしまうのは、恐怖という感覚的判断を優先する非科学的態度に過ぎない。
論理は、人間のなけ無しの知性をもって何かを考える上で、より正確に考え、より真理に近づくために使われる「道具」に過ぎないのだ。人間は「愛」なくして悩んだりはしない。
そこから誰でも出発し、また、そこに戻っていくのだ。死ねばいいなんて簡単に結論するのは、視野が狭くなってるだけなんじゃないか。善悪という尺度だけでは人間の価値を決められはしない。言葉だけでも、感覚だけでも、論理だけでも、本当の答えは出せない。
大事なのは行動だ。行動しなければわからないことがある。要するに、それが言いたかったのだ。喜びも苦しみも光も闇も、全てそこからしか始まらないのだ。言葉も、感覚も、論理も、自分が生きなければ何の価値もない。「救えない人はいない」とビートルズが言っていたが、この言葉を論理と呼べるだろうか。呼べない。証拠がないからだ。僕はこれを邦訳で読んだだけなのだが、「本当にそうなんだろうか」と真剣に考えた。第一、「救う」という言葉も、「救われる」という言葉も、ビートルズにおいてはどういう意味なのかもわからないので、自分の言葉において「救えない人はいない」かどうか、と考えてみるほかなく、そして分かったことはただ1つ、そう言った方がいいということだった。
希望がなければ人は生きていけない。論理だけでは人は救えないのだ。「救えない人はいない」というのは希望の歌であり、そして役に立つものなのだ。愛ゆえに人は絶望するが、希望も見つけられる。多分そういうふうに、ふりまわされていくものなのだろう、愛に。
とにかく、まだ人生を語るには早いので、ガーッとやるだけです。長嶋流で行きましょう。毎日がワイルドピッチ、みたいな。
台湾の話はこれで終わり。
台湾日記 – 竹田
台湾日記 2年 竹田
3月8日
この日は集合日である。とうとうみんなに会える、やはりみんなが言っていたように、なかなかうれしいものである。この前日まで1日半、左手に海があり時々集落と教会、右手には田んぼがあって時々墓地がある、ほとんどそんな風景の繰り返しであった180キロの海岸走りをして、多少狂いそうになっていた僕には(西平さんはとても生き生きしていたが)前日に宿泊した台東やこの日の列車での移動はとても楽しいものだった。その上、みんなに会えるということもあってなおさら楽しいのである。僕はこの日までに起こった忘れたいことや楽しいこと、さまざまな出来事を思い出しつつ集合場所の海端へと向かったのであった。
ここでこの海端、というところについて述べておこう。前日僕は西平さんに言われて台東の駅まで電車の時間を調べに行ったのだ。そのとき、駅員は入念に路線図らしきものを見ていた。
そのときから多少嫌な予感はあったが案の定、ロータリーすらない田舎駅であった。(別の人はそんな駅ない、みたいなことを言われたらしい。)え・・・ここが集合場所?
西平さん、本当にこんなとこ泊まれるんスか?(パンフレットより)。
そして、集合場所に関する驚きはそれだけではなかった。そこには松永しかいなかった。我々はしばし、これまでの前プラについて語り合ったのであった。やはり、久しぶりに人に会うというのは、たとえ僕が普段「ダメ瑞穂」と呼びまくっている松永でもいいものである。
詳しくは彼の文章に譲るが(書くかはわからないが)彼の冒険譚はなかなか楽しいものであった。
しかし、驚きはこれだけでは終わらなかった。次に集合場所に現れたのは網代だった(ぼくと西平さんの予想では彼らが1番最後に現れるものだと思っていた)。
そしてやはり網代はおしゃれであり、スウォッチなど身につけておられた。そして格好からうすうす推測できたが前プラなどしてはいなかった。WCC随一のマイペースを誇るこの男は台湾でもどこかのベンチにでも座り、目を細めてやる気なさげにタバコを吸っていたのだろうか。
そして彼のここまでの移動の経過を聞いても、電車を乗り間違えた以外は、この男の行動は日本にいるときと代わり映えしないような気がしたのは僕だけだろうか。
その後、網代と買出しに行った。行った先では宣教師さん(アメリカ人だろうか?)に自転車で旅をしていると話をしたら「Cool!!」と言われた。台湾の人はたいていこのようにノリがよく、親切であった。
買出しを終えて戻ると残り全員が到着しており、かなりの安心感を覚えた。
みんなは元気にやっていたようであった。その日は再会を喜び合い、酒を飲み、語り合い、寝た。
3月9日
この日はいわば予備日といえる日であり、特には何もしなかった印象がある。しいて言えば「前プラナシオ」の網代が走り込みをし、自転車を修理していたぐらいであろうか。ホントにこの日は何をしていたんだっけ?
3月10日
とうとう、合宿開始日である。この日は2時半起床という初日から夕方寝て朝起きる生活であった。無論、合宿があるということで少し気分が高ぶり、またなかなか寝苦しい晩であったことも手伝って眠れなかった。こんな夜でも無情に時が過ぎ、
「きっしょーーーII!!」
と寝ついた頃に大きな声がするのであった。僕がテントから這い出そうとすると網代がテントに入ってきた・・・。そして一言「すみません。あと1時間です。」・・・へ?何・・・それ?……ここから先のことはあまり追求しない。・・・しなくてもみんなが書くだろうし。
最後にこのあと1時間、まったくといっていいほど眠れなかったことと日本と台湾の時差は1時間であることを記しておこう。
その後、僕らは薬師寺さんと、松永と3人で延々とガンダムやゲームについて語りながら走った。共通の話題を楽しみつつサイクリングをするのはいいものである。たとえ激登りであったとしてもだ。
最後に話題についていけなかった西平さん、お疲れさんです。網代君もお疲れさんです。
3月11目
この日は当初、自分は普通の日(きつくもなく楽勝でもない日)と予想していた。しかし、その予想は大いに裏切られた。前半は小さなアップダウンの連続であった。僕はアップダウンが嫌いだ。
少し上ったと思うと、今までの苦労を無にするかのように下り、そしていちいち上下しなければいけないという事実、繰り返すと精神力、体力ともに尽きてしまうような気がするのだ。
そしてじわじわと体力を奪われたところで待っていたのは激アップだった。その当時、サドルが低いこともあって僕は死の寸前であった。しかしそんな僕には1日目激死にし、サングラスで涙ぐましいまでに
死に顔を隠して走り続けた松永という頼もしい仲間がいる。こいつが先に死ねば僕が死んだという事実は隠蔽されるに違いない、ひひひ。・・・などと冗談ではなくそう思っていたのかはともかく、そんな思いが頭をよぎりつつ、僕は必死に食らいついていたのだがその考えは間違いだった。
なんと松永はCLのくせにすさまじいペースで走り出したのだ。完全に計算外の出来事に不覚にも小死にしてしまった、しかも松本に止めを刺されるという屈辱・・・。
思い出したくもない。しかし。その後は何とかしのぎきり、僕はある事を待っていた。淡々と、そして狡猾に・・・。そしてそのときは来た。最後の休憩を終えて出発しようとしたとき松永が
「薬師寺すわぁーーん、
もうちょっと休憩がほしいんですけどぉーーー」
(実際より多少誇張しています)と言ったのだ。僕はこのときを待っていた。笑いごとじゃないけどね・・・はははは網代君も松永君もだめだなぁ・・・はははは。サイクリングって、ヴァトルですね。
そしてわれわれが低レベルの意地の張り合いを展開していた頃、41代で唯一優秀な男、松田(博)がその語学力を生かし、民家(お茶屋)に泊めてもらうという快挙を成し遂げていた。お茶・・・おいしかったなあ。
3月12日
今日から僕と西平さんが下見したコースに入る。つまり阿里山へのリベンジである(別に下見で死んだとかそういうわけではない。)。お茶屋のおじさんに「ゆクり、ユくり」などと見送られつつ、阿里山へのチャレンジは始まった。
前日の疲労が残っていた僕には下見以上にきついものがあった。でも、松永はもっときつそうであった。網代のチャリを直していたからだろうか?本当にきつそうであり、僕と市来さんは何度も薬師寺さんにペースを落とすように注意された。CLって難しいな・・・と思いつつ、僕は市来さんと取り留めのない会話を続けたのだった(その中で名作「待つ長見ずほ」が生まれた。)。
前半の上りを終え、後半のゆるい下りでも松永は遅れていた。参ったなぁ・・・遅いなぁ・・・。と、そのときは思っていたが、今思えば僕のCLが下手だったのかもしれない、いや、下手だ。どうもペースの調整ができないのである。他人は自分を映す鏡ですなあ。
しかし、このときにはまだ松永も網代(起床から判断するに)もだめだなぁ・・・と思っていたのである(いや、若かったあの頃は)。でも、僕はこのあと、即刻ダメ2年会の仲間入りを果たすのである。
僕は2日目の1発目でパンクを起こしている。そのときは修理にだいふ手間取った。要するに、自分のメカ知識のなさを露呈しかけたのである。そして、この日、本格的に露呈してしまった。
チェーンが切れてしまったのだ。・・・別にメカトラは仕方がない(と、言ったら技術指導局が怒りますね・・・)。
しかし、その対応力のなさはまさにダメダメであった。そして修理に1時間近くかかった我々はナイトランをする羽目になったのである。ははは・・俺もだめだなぁ・・・(自虐的)。
薬師寺さん、そして松永、どうもありがとうございました。ご迷惑をおかけいたしました(なんか遺書みたいだなぁ)。
こうして、とにもかくにも1日目網代、2日目松永、3日目は僕がそれぞれダメ要素を出し切ったことにより、ダメ2年会は誕生してしまったのである。そういえばうちの班、問題児って言うんだっけ。
3月13日
今日は楽勝日。でもひざを痛めていたせいで、そう楽勝でもなかったのだが。それにこの日はメカトラが起こらないか、なぜかびくびくしていた。ダメさ加減フルパワー(?)である。トラウマって、こわいね。
しかしこの日はホントに楽勝日であり、リーユエタンでのさわやかサイクリングのあと、下ってプーリーまで行き、予定より早く着いて5時間のフリータイムになるという楽さ加減であった。
よって、あまり書くことはない。と、言うより全然書くことがない楽な日であった。何だかんだ言って合宿の日程の半分を消化し、台湾に来て2週間になるのだなぁ、などと思いつつ、明日に備えて寝た。ここで少し前プラについて振り返ってみようと思う。
まず、集合日にみんなと会って思ったのは、前プラというのは上級生の嗜好というものが出るのかもしれない、ということである。杉村さん・松田組は途中で松田が体調を崩して大変だったようだが(反面おいしい思いもしたようだけど)、薬師寺さんと市来さんは遊びまわってみたり、ギターを買ってみたりと台湾生活を満喫していたようである。
さて、われわれの組について述べよう。当初、僕は後プラをしようかと思っていた。それを西平さんに言うと「自転車は合宿まででおなかいっぱいになると思うから無理。」
みたいなことを言われた。そして、ホントにおなかいっぱいになるくらい走った。
記憶が正しければ、集合日と台湾に到着した日以外は自転車でかなりの距離を走ったはずである。そしていろいろなものを見た。そしてアクシデントもあった。しかもサドルが折れたとか、輪行袋をなくしたとかそういう致命的なアクシデントである(だから余計に走らざるを得なかったのかもしれない。)。基本的にせわしなかった。
最後の海岸走りでは意識が飛んでいた。本当に大変だった気がする。・・・これ以上振り返ってもしかたがないのでこの辺で終わっておこう。
一言でまとめれば非常に貴重な体験であった。西平さん、お疲れ様でした。
3月14日
今日はメインイベント、台湾道路最高地点武嶺攻略。われわれは(少なくとも僕は)この日に向けてピークを持っていこう、とか思っていた。しかし、そこで待っていたのは予想外の事実であった。5日目でいっぺんに武嶺までは行かない。・・・とCL会議で前日発表されたのである。
確かに、下見で松田が半分泣きが入ってたとかそういう情報は伝わっていたのでほっとした、という一面はある。しかしその反面、何か物足りなさが残った。そう考えている時点でやはり僕には問題があったかもしれない。
何か特攻精神といおうか、マゾヒストといおうか、そんな感じになっていた。恐ろしいことである。人間かくも変わるものなのか。そして、噂どおりになかなかきつい坂であった。松永は期待通り(?)に死んだ。
最初の1・2発で調子に乗っていたのが嘘のような死にっぷりであった。相変わらずいいギャグ持ってんなぁ、お前。無論、市来さんと僕は「待つ長見ずほ」を思いだしながら「松永!松永!」と松永コールをしつつ走った。
そんなことが出来るほどきつくなかったわけではない。きつくないわけではなかったのだが、当時の僕はそんなことは超越していたのかもしれない。日本では見られない景色を見ながら、話しながら上っているうちに自分の体力以上のものが出ていたような気がする(今になって思えば、ですが)。
そう、ある意味この日、僕は「登りが楽しくて仕方ない。」という境地にまで達していた。
今現在、残念ながら(?)その境地からは元に戻ったが、登りはあまり苦ではなくなった。そして、前プラの海岸走りを経験しての影響か、平地で距離を稼ぐ、というのは緩慢と思うようになってきている。
いささか内面描写に走ってしまったが、この日は驚愕の事実があった。本当にありえないことであった。古橋さんが「降臨」したのだ。最初キャンプ地に下りてきたときには「うそだろ・・・・・え・・・?」としか思えなかった。幻覚だと思った。
しかし「もう1人いるから呼んでくる」と言ってしゃかしゃかと再び山頂へと上っていったのを見て、やっぱり古橋さんだなぁ。と思った。もう1人は錺さんだった。これにも驚いた。
その日は寒さに凍えているわれわれを見かねた売店の人が泊めてくれたのだが、全Cテン探しは行われたのだった。やっぱり古橋さんだなぁ。
なお、日本に帰ってからフクちゃんに行ったところ、おじさんは古橋さんが参加されたことを御存知で、我々が驚いたことを伝えるとたいそう喜んでいらっしゃった。古橋さんには口止めされていたらしい。やっぱり古橋さんだなあ。
3月15日
フリーラン。名誉のみをかけた不毛なる戦い。それがこの日行われ上うとしていた。僕の目標は同級生全員撃破である。まず、スタートへのアプローチ段階で死んだ松永には用は無い(ごめんなさい)。松田も体調が悪い(フクちゃんのおじさんの警告を聞かないから・・・)。
敵は網代である。ダメ社学、ハマカナヤ、毒霧男呼ばわりしている「金谷の神童」アジロである。1日目に作った伝説により祭り上げられるであろうアヅイロである(すまぬ)。負けるわけにはいかない。
まだ敵はいる。雨が強い。霧も濃い。たまに大型が通る。空気は薄い。そう、敵は台湾である(僕は反独立派ではありません)。気合が入る。
そしてスタート。本当に空気が足りない。やばい。あまりの空気の薄さにフリーランなのにインナーによる泥仕合となった。その上寒い、霧が濃くて前が見えない。後ろも見えない。
後ろを振り返っても無駄なので、ただひたすらペダルを漕ぐだけであった。それがよかったのか、目的は達成された。
それにしてもこんな異世界でのフリーランは多分、最初で最後だろう。そして、その印象が強いせいか、そのあとの下りはあまり記憶にない。大魯閣はきれいだった、くらいか。下りばかりでつまらない、などと怪しい考えをしていた気がする。
そういえば、網代君はやはり、イノコされた。寒そうだった。海外初イノコ、という話も後で聞いた。哀れなり、でも、まあ、僕も脱がせるのを手伝ったんだけどね。悲しいけど、これって戦争なのよね。
3月16日
エピローグって感じだった。でも松永君、最後まで大活躍だったね。
最後に
今回の合宿で壊れたり、狂ったりしたが自分はWCCに入ってよかった、と思った。生きているということはなんとすばらしいことか・・・。などと大げさに言っておこう。
もっと、書きたいこと、言いたいことはあるのだが、文章というものはうまくいかないものだ。では、この辺で終わらせていただきます。
春合宿IN台湾 – 網代
春合宿IN台湾 2年 網代
前ブラ
今回の合宿は特別だった。こう思うのは僕だけじゃないだろう。僕にとって海外旅行は初めてで、しかも、異国のどこかもわからないような所に1人で来いと言うのだから、もう行きの飛行機の中では不安でたまらなかった。僕と松永君は下見に連れて行かれなかったので、前プラは各自で行え、という感じだった。しかし、僕は台北に着くなり見るものすべてが面白くて不安どころじゃなくなってしまった。で、結局台北でのほほんとしていた。
「やる気ねーなーこいつ」と思う人もいるでしょう。でもいいじゃないですかこんな前プラも。せっかく台湾来たんだし。そんなわけで僕は充実した前プラができてよかったと思います。
集合日(3月8日)
集合日前日、僕は華蓮市内にいた。台湾は長距離バスが発達していて、花蓮からバスで集合地の海端に向かった。運転手に行き先を告げ乗り込む。
いつのまにか寝てて突然運転手に起こされる。「なんだよ。」と思ったら「着いたぞ。」みたいなことを言われ疑問に思いながら降りる。あたりを見渡すと何もない。騙された!と思ったらバスはさっさと消えていた。けど、ちゃんと海端だった。ほんとに何もなくてびっくりだった。
1日目
やっちまったー。僕はこの日全Cだったので起床をかけることになっていた。起床時刻2時30分ということで、はりきって10分前に起き、とっとと寝袋をたたみ外に出る。
すーっと息を吸い込み思い切りでかい声で「きっしょー!!きっしょー!」勢いあまって2回叫んでしまった。
しかも西平さん風に。すると杉村さんが出てきた。さすが杉村さんは早いな。と思ったら僕をにらみつけてきた。朝だから機嫌悪いのかなぁ?と思い気にせずにいたが、突然「おまえの時計、時間直してねーだろ。」・・・その瞬間に僕は固まってしまった。台湾時間ではまだ1時30分だった・・・。で、各テントに謝りもう1度寝た。
初日から大粗相だ。コースはというとずーっとアップで、こりゃやべーと思いながら走る。前プラしてないのが皆にばれるといつのまにか「前プラなし男」なるあだ名を竹田につけられてしまった。でも思ったより普通に走れた。むしろやられてたのは前プラしてた松永だった。
2日目
この日は梅山から智智亜社まで。また暗いうちから出発した。途中、何度も犬に追いかけられて参った。台湾の犬の特徴としては凶暴であること、放し飼いが多いこと、黒い、追いかけてくるなどが挙げられる。
この日のコースは、前日以上にハードだった。今考えるとおそらく1番きつい日だったろう。僕は1班だったのだが、2班との間が相当(2時間くらい)開いてしまい、目的地到着の1発前の時点で日が暮れ、このあたりで泊まろうということになった。
が、そこは、小さな集落があるばかりで、宿泊施設などありそうもなかった。で、トリリンガルの松田が活躍してくれた。近くの檳榔のおじさんをたずねてみると御茶屋さんを紹介してくれた。その御茶屋さんのおばちゃんがものすっごく親切で、困っている僕らを見て、泊めてくれるという。しかも、食事や、高級なお茶まで用意してくれ、まさに仏さまそのものだった。誰だかもわからないような、「異国から来たこきたない若者の集団」をこれでもかというほどもてなしてくれた。本当に感謝します。
3日目
この日は智智亜社から信義まで。茶畑だらけの山道をひたすら突き進む。ここは阿里山のあたりで、実はお茶で有名なところだ。1班も2班も快調なペースで進み、どちらかといえばさわやかサイクリングを
楽しめた。途中、西平さんが檳榔を買っていた。これは何かの実のようで地方に行くといたるところで
売っている一種の麻薬のようなものらしい。試しにひとつもらったが、不味すぎてすぐに吐き出した。
4日目
この日は信義から埔里まで。いわゆる楽勝日だ。途中、日月譚と呼ばれる湖があり、ここは台湾の観光名所のひとつらしかった。で、あっちゅう間に埔里到着。ここは蝶が有名なところで、ここで3時間のフリータイム。僕はひたすらホテルのベッドで寝ていた。
5日目
この日は埔里から武嶺まで。武嶺とは台湾において自転車で登れる最高地点なのだ。この日は1日で3000アップという今合宿最大のメインであった。けど、思ったより楽勝な気がした。
あと1,000アップはいけたと思う。しかし、問題だったのは気候だ。標高3000mだけに寒い!しかも雨まで降ってきて気が付けばドシャブリになっててちよっとブルーになったが、そのうちどうでもよくなっていた。その日はほとんど眠れなかった。でもひさしぶりにWCC的なものを感じて、そこはよかった。
6日目
この日は武嶺から太魯閣まで。標高3,000mを越える地点でのフリーランは今までのWCCの歴史上初めてではないだろうか。霧が上量発生、雨、寒い、大型車たまにくる、空気薄い・・・。
スタート!初めのうちは空気が薄いことを忘れていて猛ダッシュ。後続を突き放し、頑張っていたのも束の間、竹田に抜かれる。で、2年会2位。竹田曰く「おれ、完璧マゾになってた。」
いつか竹田倒す!しかも僕は今合宿最初の大粗相のおかげでフリーラン後の儀式でもあるアレのターゲットになってしまう。しかも親切にも武嶺の看板の前までわざわざ運んでいただいて。「あーーーーー。」って感じだった。いい思い出になったからまあヨシ。
最終日
この日は太魯閣からゴールの台北まで。合宿も残り少なくなり、なんとなく寂しいと感じた。
このメンバーで台湾を走ることはおそらく2度とないだろうみたいな、
修学旅行の最後的なものを感じながらペダルを踏んでいた。そんな時になって僕はこのメンバーがやっぱし好きなんだなあと思った。みんなワセジャーを着ておんなじ苦しみを経て、協力しあって、おんなじことに感動して・・・。やっぱWCCはいいなぁと思いますね。そんなわけで楽しかった春合宿IN台湾、終了です。
第40代早稲田大学騎自行車倶楽部 春合宿IN台湾ダイジェスト – 松永
春合宿IN台湾ダイジェスト 2年 松永
台湾合宿最大の事件と言ってWCC現役部員の頭に一様に浮かぶのは、初日に起きた事件であると思う。それこそ春合宿参加者の峠の原稿の大半はその事について多かれ少なかれ言及しているのではないかと思う。
キーワードは「起床」。
我々サイクリスト、とりわけWCCのように集団で走る者にとって暗闇の中の走行が大変大きな危険を伴うのは周知の事実である。したがってWCCでは安全性を重視し、ナイトランを極力避けている。
無論、様々なアクシデントが予想されるのでナイトランせざるを得ない状況になっても大丈夫なようにヘッドランプやリフレクター、ヘルメット等の装備は当然用意してあるが・・・。
とにかくWCCでは安全のためにあらゆる手段が採用されている。その1つに早朝起床がある。夜が明ける前に起きて朝食をすませ出発の準備をし、夜明けとともに走り始めるという、太陽が昇っている時間を最大限に利用するためにWCCが単独で独自に研究・開発をすすめた安全確保のための手段である。
その日、我々の起床予定時刻は2時半であった。WCCは時間厳守の大原則(というか社会で1人の人間として生きていく上での基本的ルールであるが・・・)がある。
寝坊は絶対に許されることのない重罪である。当然、私は前日就寝前に腕時計のアラームをセットしていた。
個人の早すぎる起床は同じテントのクラブ員、場合によってはクラブ員全員に迷惑をかける恐れがあるので設定時刻は起床の1分前。しかし全C網代君の「きっしょーーーーーーーっ」の声が私の耳に入ったのはセットしたアラームが鳴る前だった。「しまった、寝過ごした!」瞬時に私は恐怖を覚えた。
合宿初日にいきなり寝坊はいくらなんでもヤバイ!事と次第によっては亥の子に処せられかねない。
私は無我夢中で寝袋をたたみ上着を着た。(集合がかかり点呼をとるのが起床5分後だから・・・)
腕時計を見て、(よし今テントを出ればギリギリ間に合う。)と心の中でガッツポーズをした。そしてまさにテントの出口のファスナーに手をかけようとしたその瞬間、出口が外から開けられた。
見慣れた顔がぬっと入り口から入ってきた、網代だった。
「すいません、1時間間違えました。あと1時間あるんで寝てて下さい。」
すでに寝袋を片付けてしまった私にそう言うと網代君はのそのそと出しいき別のテントのクラブ員に同様の事を伝えに行った。
その後ろ姿はまるであたかも「リストラされたが、その事を家族に言えずに公園のブランコに座り時間を潰している元・企業戦士」のそれに酷似していた。そしてその重い足取りは私に死刑囚を想起させてならなった。
網代君は時間を1時間間違えたことに気付いた瞬間の事を今でも鮮明に覚えているという。そして彼はこうも言う。
「俺さあ、あの時程自分の亥の子を確信した時はないね。」と。網代君の、いやクラブ員全員の予想通り合宿最終日のフリーラン後、雨が降りしきる中、台湾道路最高峰武嶺3,275mにて彼は舞った・・・。
線香花火のようであった。その姿は美しくも儚く、まるで夏の夜空に一瞬のきらめきで消えていく彼のチンコが宙にぷらーん、ぷらーん揺らめいている写真は今も部室のアルバムに大切に保管されている。
クラブ時計の時差を修正し忘れて1時間早く起床をかけるのも台湾合宿ならではのハプニングであり、その衝撃は永遠に忘れられることなく部員のハートに刻み続けられていくだろう。
サイクリングクラブの試練と愛と洗礼 – 枡田
サイクリングクラブの試練と愛と洗礼 1年 枡田
僕はプレ新歓と今回の新歓合宿でサイクリングの辛さを知りました。同時に、峠を越えた時の達成感、キャンプ場に着いた時の嬉しさ、山から見下ろす景色の素晴らしさ、心地よい風、太陽の輝き、いろいろな物を感じることができました。
日常生活では得がたい経験であったと思います。特にこの2回のサイクリングでは天候がいつでも身近なものとして感じられました。こんなにも雨の冷たさを感じた日はないと断言できるでしょう。5月の日差しがこんなにも強いものであったとは。風は僕のほてった体を冷ましてくれたが、テントも吹き飛ばしてくれた。Tシャツ焼けはまだ残っている。天気の偉大さを知った合宿でもありました。
やはり1番辛かったのは子の権現であった。あの坂道を休みなくこぎ続けるのは体力うんぬんの問題を越えていた。精神力の強さには自信があるつもりだが、さすがにあれには参りました。
そしてサイクリングクラブのみんなの体力にはいささか驚きました。誰1人としてギブアップする者はなく、自転車で頂上に登り詰めました。
それは辛かったけど、後々の大きな自信には繋がるだろうと思います。初日にこんな辛いコースを新入生にやらせたのにはこんな深い理由があったのかと、サイクリングクラブに深い愛を感じました。
この決意はサイクリングクラブ入部への洗礼となり、サイクリングがどんなものであるかを少しは実感できたのではないかと思います。一日を走り終えて、キャンプ場でのご飯はとてもおいしかったです。
キャンプ技術も学びました。ご飯も食べられる。素晴らしいと思いました。今回の合宿で、やっぱり自転車はいいなと思いました。視野を広げてくれた。1番の乗り物であるといえるでしょう。今回のプレ新歓と新歓合宿では先輩方に大変お世話になりました。ありがとうございました。そして新入生のみんな、これからもよろしく!
あの峠を越えて・・・ – 佐藤
あの峠を越えて・・・ 1年 佐藤
風になりたい。そう思って入部した僕を待っていたのは坂・坂・坂………・・・・
えっ?また坂?登って、登ってまた登って・・・1
「あと1巻きで峠だ!」
この言葉を聞いてから20分は経過しただろうか、まだ峠は見えない。単純な等速円運動を繰り返すペダルを眺めながら思い出すのは遥か昔のことのような都会での生活。広大な山々に比べてあまりにも無力な人間。そして、自分が何をしているのかも分からなくなった頃に、やっと峠は見えてくる。
不思議なものだ。幾度となく峠を越えていくうちに体を蝕んでいた苦痛は嘘のように消え去った。
代わりに湧きあがってくるのは自転車乗りのプライドだろうか。足をつきたくない。(この山を攻め落としてやる。)都会で暮らしていた自分が今まで感じたことのないような昂揚感が、自然とペダルを速めていく。いつしか僕は自転車の虜になっていたようだ。
そんな気持ちをさらに昂ぶらせるフリーランという名のレース。レース、競争という言葉が、忘れていたアスリートの魂を呼び起こす。負けず嫌いな自分はただ、がむしゃらにペダルを回した。
ペダルに羽が生えたようにどこまでも進んでいく。そして1位でゴールした自分は後続を確かめるように後ろを振り返った。僕の熱い思いは、リュックという名の重りを吹き飛ばしてしまったようだ。
新歓合宿 – 長谷川
新歓合宿 1年 長谷川
私にとっては、5月4日から6日の新歓合宿が初めての本格的な自転車での走りでした。前日の3日に、古橋さんの自転車をお借りして、杉村さんに自転車を組み立ててもらっている間、新しい世界の扉を開けているような気がしていました。新歓コンパや新歓企画に行けなかった私には、3日に初めて会う1年生が殆どでしたし、西平さんに会ったのもこの日でした。
4日の日の前半は平地を走っていたこともあり、楽しく走れました。薬師寺さんと好きな音楽についての
話をしながら、多摩湖自転車道などを走っている自分にはこれから迫ってくる登り坂の恐ろしさなど知る由もありませんでしたなお、この多摩湖自転車道を走っている時に古橋さんからランドナー、特にTOEIについての手ほどきを受けました。
昼食後、だんだんと山間の狭い道へと入りました。少しずつ体力が消耗され、腰が痛くなってきました。元々、少年野球時代から腰の弱い自分でしたので、この時はこれから自転車に乗っていくのが不安になりました。(後から古橋さんに聞いた話では、古橋さんもこの自転車に乗った最初の数回は腰が痛くなったということでした。古橋さんはじきに「慣れた」そうです。)
子の権現の前にかなりへばっていた自分は、子の権現でも2回止まってしまいました。急坂のカーブは難しかったのですが、それ以上に、坂の途中で止まってから再びスタートするのが大変でした。
子の権現の頂上になんとか先輩に励まされながら辿りついた私は、腰の痛みが多少とも良くなればと思い、天竜寺にて足腰守りを購入しました。
初日の子の権現以上に辛かったのが2日目でした。炎天下での長い登りはこの合宿に来たことを後悔させたほどでした。正直、腰が痛くて辛かったです。
3日目のフリーランについて。序盤に大きく差をつけられていた私は、1番最後にゴールするしかないと諦め、ただ自分のペースで坂を登っていくしかないと思いました。しかし、ゴール間近となったとき、随分前に私を抜いた松永さんを発見。松永さんに気付かれないように少しずつ差を縮め、短い平地にさしかかったときに、一気にスパートをかけました。私は松永さんを抜かしてゴールしました。この追いこみ勝ちは、勝負を諦めていただけに嬉しかった。
実は2日目のキャンプ地に着く直前、松永さんとキャンプ地に着くまでの勝負をしたのですが、いつのまにか分岐を過ぎていて、無効勝負となっていた、ということがあったのです。
城峯山からの眺めは最高でした。こんなところまで自転車で来たことが信じられなかったです。これで先輩たちが登り坂にこだわる理由が理解できました。(ただ自分としては距離を稼ぐ走りもしてみたいです。)
最後に寄居に着いた時はホッとしました。
新歓合宿2 – 西田
新歓合宿2 1年 西田
果たして自転車は単なる一移動手段に過ぎないのであろうか。
確かに自動車やバス、タクシーと同じようにそうではあるのだが、自転車は一移動手段というカテゴリーに入れるだけではちょっと物足りない気がする。生きているというかなんというか、意志があるとでも言うべきであろうか。
チョンとつつけば、「いやん」と声が返ってきそうな、そんな雰囲気があるのだ。
そんな自転車だが、かわいいだけではない。時にその意志は、乗り手の裁量を上回って扱いづらいときもある。そんな時はただ自転車に身を任せるしかないのだ。「この暴れ馬め!」と。
でもこの気性が好きだ。僕はまだ自転車に振り回されているだけだが、そのうちうまく乗りこなして見せよう。
こんなところで今現在の抽象的な自転車の見方というのはおしまいにして、新入生歓迎合宿の話に移ろう。距離のことから入るのはナンセンスかもしれないが、秩父は頭でイメージしていたよりも遠かった気がする。確かに「東京」を走っているうちは良かった。サンプラザ中野や井荻辺りまでは快調であったが、正直いつ着くのかという飽きは快調さの中にあったかもしれない。それでも練馬を過ぎる頃からは日常の生活から出たような開放感が生まれ、気持ち良く走れた。というのは田園風景に出会い、「車!」と叫ぶことも少なくなったからだ。
子の権現の傾斜はしつこいぐらい急だったし、上を見上げるたびにガードレールが見えるのは陰鬱なものだ。その陰鬱感を最後のプチダートで飛ばすことで解消することが出来た。
アドレナリンが出たのはむしろ下りであった。遠心力との戦いが面白い。内角を攻めようと体を傾けるのだが外へと流れてしまう。どこまで傾ければいいのやらと思うがコケたくない、痛いから。少しずつ体得して芸術的な孤を描けるようになりたい。
さてフリーランについてまだ話してなかった。フリーランは無酸素運動で体に良くない。乳酸がたまる。だからといって手を抜いて走るのは僕のモットーに反する。そこで走っているうちに自分の限界と戦っていることになる。
フリーランが戦いならば食事の時間は一時の安らぎだ。2年生はバトルをしていた。ご苦労様。僕はおいしいカレーを山ほどいただき、チンジャヲロースは筍中心にたっぷり食べた。
ごちそう様。それでも明日の走りのためにエネルギーを注入しておかないと、という強迫観念がどこかにあるのか、生きるための本能が働いているなと思うときだったりもした。
そろそろ私の論考は終りにしたいと思うが、あの秩父における合宿生活が、私にとって、ある種の自転車との長い?交際の始まりであったのだろうと思う今日この頃である。
夜 – 高山
夜 1年 高山
悪夢だった
否、夢は見ていない
眠れなかった
原因は2つ
起きるのが遅かったこと
そして
あの方のいびき
ただのいびきではない
鼻が詰まっていたのか
ガーッ、ガーッ
という音に
ジョーッ、ジョーッ
が加わった音、
焦れば焦るほど
あの音が襲ってくる
外で寝よう
僕は家出した
それでもあの音は聞こえる
騒音だと思った
外はうす気味悪い
星が出ていない
公園の隅で誰かが寝ている
浮浪者だった
寝袋もない
毛布もない
黒く汚れた洋服だけ
バイクの重低音が響き渡る
都会のヤンキーらしい
シンナーの匂いがした
体に悪いのに
元木が起きてきた
彼も犠牲者の1人だろうか
竹田さんもいた
僕を見て笑っている
元木と静かに語った
彼は熱い男らしい
元木は寝ないつもりのようだ
でも、寝た
寒くなってきた
あの音も聞こえない
今のうちだ!
僕は眠った
浅い浅い眠りだった
夏合宿1 – 枡田
夏合宿1 1年 枡田
今思い返してみても、本当に短かったように思う。長い準備期間を要した夏合宿はあっという間に神戸駅のゴールを迎えた。決してさわやかな観光というわけではなかった。一日10時間前後ペダルを漕ぎ続けた旅だった。旅とは大方つらいものだ。だが、つらい旅の中でも、いやそんなつらい旅だからこそ、
楽しいこともたくさんあった。僕はこの夏合宿を10分に楽しむことができた。合宿中には色々な出来事があった。
大勢の人間が集まって何かしようというのだから何も起きない訳はないが、その全てをここに書き留めるのは不可能であるし、意味のないことだとも思うので、それはしない。ただ僕はこの夏合宿において多くの人に迷惑をかけたし、お世話になった。特に先輩方はこの合宿を成功させるために色々と大変だったのではないかと思う。同期1年生のみんなにもお世話になった。この場を借りて改めて御礼を申し上げたいと思う。
僕は横浜に帰る日の朝、この夏合宿を「強制と協調と競争が入り混じる」と言ったが、あれはべつにウケを狙って言ったわけではなく、実はこれは経済学によく使われる言葉なのだ。この3つのうちどれが欠けても経済はうまく回らない。それはこの合宿も同じだろう。
この合宿では身をもってそれを痛感した。振り返ってみると、それらを体現できたかどうか自分でも反省すべき点は多い。協調が最も体現できなかったかもしれない。1番重要であると思っていただけに残念だ。
協調とは単に人に合わせる、雰囲気を読むというだけではないと思っている。思いやりや助け合いの精神をも見出せる。つらい夏合宿の中ではつい忘れがちだが、だからこそ1番重要なものなのだと思う。
思いやりなどの感情は論理的説明がいまだに難しいものであるが、感情は論理に先立つものと信じている。自転車に乗ってひたすらペダルを漕いでいる時は、大声を出して車が来ることを知らせたり、障害を知らせたりした。これは事故を未然に防ぐことに貢献したが、連帯感を生み出すことにも貢献したのではないかと思う。仲間と一緒に走っている、と感じた。1人旅もいいが仲間とする旅もいいものだ、と思った。
合宿中はゆっくりと話す時間もなかったが、拘束された中に真の自由があるとよく言われている。自由とは何かということについて考えている人がいたら、朝日出版社から出ているMD現代文小論文という
辞書に収められている特集「もうひとつの自由」を読むことをお薦めする。これほどの小論がなぜ受験用の辞書に掲載されているのか不思議だ。新しい発想で「自由」を新解釈している。
しかし買って読もうとしたら1800円も払わなければならないので、図書館に行くといいと思う。今テーマを「自由」に絞ってレポートを書いているので何かいい本があったら教えて欲しい。
話がずれてきてしまったが、とにかく夏合宿には確かに拘束された自由を感じる瞬間があった。少なくとも閉塞感はなかった。中国地方の雄大な自然や瀬戸内海の朝は素晴らしく、いまでも脳裏に焼き付いている。ペダルを漕いでいると思いもよらない景色に出会う瞬間が多々ある。そういう瞬間は強く思い出に残る。
それにしてもあのつらいコースを、1人の脱落者も出ずに完走できたことは奇跡に近いことのように思う。脱落者が出ても不思議ではなかった。あるいは僕が脱落していても不思議ではなかった。
なぜ走破できたのだろうか。仲間がいたからだろうと思う。1人では無理であっただろうと思う。精神面でも生活面でも荷物でも、持ちつ持たれつの旅だった。いつかまたそんな旅がしてみたいものだ。
不思議な連帯感を感じてみたいものだ。そんな中で眺望する景色は最高だったし飯もうまかった。久しく忘れていたものだった。本当に感動する景色に出会う瞬間には仲間がそばにいたものだった。
誰しもそんな経験があると思う。もう1度行きたいと思う理由はそこにある。
神戸駅にゴールした時にはたいして気づかなかった感動が今、ある。この夏合宿はそんな感じがする。いやなこともあったと思いもするが、参加してよかった。いつかまた中国地方に来た時も、この夏合宿の軌跡を思い出してまたそう思うはずだ。
この夏合宿の存在意義は何だったのだろうか。問う必要もないかもしれないが、ここでまたあらためて自分自身に問いかける。普段の生活では1年かかっても手に入れ難いものを手に入れた。それが何かはここに書き留める必要もないだろうと思う。実際よくわかっていないのかもしれない。
後になって気づくこともあった。しかし何かをつかんだという気がする。参加した意義はそこにあるのだろう。いつでも旅とはそんなものだった。意味のなかった旅はこれまでしたことはない。どこかへいくときは、いつも旅人として行きたいものだ。
夏合宿で得たもの、失ったもの – 高山
夏合宿で得たもの、失ったもの 1年 高山
合宿が終わってからしばらく、神戸大に通う高校時代の友人のアパートにいた。彼に神戸市内を案内してもらっていて、三宮駅前を歩いているとき、いつの間にかブルーハーツの「TRAIN TRAIN」を口ずさんでいた。よほど声が大きかったのだろう、友人に「恥ずかしいから、やめろ」と言われた。
だが、私には恥ずかしさなんて全く感じられなかった。人の目なんか気にしない、という大きな成長である。否、恥知らずなだけで、成長でないのかもしれない。いずれにせよ、この感覚を自分にあたえたのがWCCであることは言うまでもない。
新歓合宿を終えて、私はこのクラブの方針や先輩にあらゆる不満を感じた。合宿を終えたときの充実感や達成感はあったが、納得のいかない事が多過ぎた。その時の自分には「自転車で山に登る」ということ自体、ありえなかった。又、夏合宿に参加するつもりもなく、自分が入学以前から考えていた「東京から福岡まで自転車で帰る」計画を遂行する予定だった。合宿が近づき、その意を薬師寺さんに告げると、例のごとく合宿への参加を強く求められた。何度も薬師寺さんと話し合ったが、1度決めたことは決して変えない、という自分の性分から、決して「はい」とは言わなかった。
私の固い決意を揺れ動かしたのは、6月総会であった。夏合宿の全貌があきらかにされたわけだが、それが思いのほか魅力的だったのだ。他のクラブ員の意気込みがいつもと違い、「大きなことをやる」という先輩の思いがひしひしと伝わってきた。そこには、私が大学で求めていた「熱さ」があったのだ。
それから1ヵ月、自分のたてた計画を実行するか、夏合宿に参加するか迷いつづけた。いったんは「クラブをやめる」ことを薬師寺さんに告げた。
しかし、幼稚園からのラグビーや中学時代の陸上など、1度入ったクラブはどんなことがあろうと決してやめなかった自分は、そのことに強い抵抗を感じた。迷いはますます強くなった。結局、前プラには参加せず、集合地である津和野まで自転車で行き、そこから夏合宿に参加することとなった。厄介な人間である。経済的にもかなり苦しかったので、親に借金をすることとなり、夏休みの後半は、連日実家の農業に加勢した。
合宿は意外にきつかった。腹の立つことも何度もあった。そして、ずっと臭かった。
しかし、合宿が終わった時、大きなことをやり遂げた、という感覚が自分の存在も大きくしたように感じさせた。三宮駅前ではそんな自分がいたのだろう。
そして合宿中いつも歌っていた「TRAIN TRAIN」を羞恥心のかけらもなく歌っていたのだ。合宿に参加したこと、そしてこのクラブに残ったことによって、世界観が大きく変わったと思う。
後で聞いた話だが、少し笑える話がある。呉市の野呂山で自分が過呼吸になったときの出来事。高校時のラグビー合宿の際、何人もの過呼吸患者を見ていたので、私はその処置法を知っていた。
ビニール袋を口に当てればよいのだが、誰もそのことを知らなかったらしい。思うように声が出ないのだが、必死にビニール袋を求めた。
「ふっ、・・・ふつ・・・・、ふくっ・・・・・・・・くろっ」
「何?どうした?」
「ろ………………ふっ・・・・くつ・・・・・ろ・・・・」
ようやく市来さんが理解してくれて、ビニール袋を口に当ててくれたが、隣にいた佐藤は、自分の言っていることが「おふくろ」と聞こえたらしく、その時、自分の死を確信したらしい。まさに呪の山、野呂山である。
夏合宿を終えて1 – 長谷川
夏合宿を終えて1 1年 長谷川
気が付いたら、西平さんと「ムーンライトながら」に乗っていた。そんな感じで私の夏合宿は始まった。8月1日の夜、高山とともに古橋さんに学生会館近くのサイゼリアで飯をおごってもらう。
店の外に出ると、雷が鳴り、雨が降っている。テントつきの輪行はつらい。歩くのが遅く、結局ムーンライトながらの出発時間の10数分ほど前に東京駅に着いた。途中、西平さんと宮島に寄るなどして、一日目の移動日は有意義だった。近畿以西にはいると、いつのまにか人々の言葉が変わった。知らない場所は通り過ぎるだけでも楽しいものだ。電車に乗っているのも悪くはないものだと思った。
そして、津和野には深夜着いた。駅の脇で寝ていたら、1時半ごろに警察が職務質問してきた。西平さんは起きず、自分ひとりで対処し、何とかなった。これで少しトラブルに対し自信がついた。
だが、朝になるともっと重大なトラブルが起こった。自転車のフレーム、とくに「HASEGAWA」と入れたネームが輪行の際にこすれて削れていた。それだけではない。組み立て中に前輪のステムを差し込むヘッドパイプを地面に打ちつけ、フレームが変形し、組み立てができなくなってしまった。自転車屋に行くと軽くあしらわれたが、バイクの修理店でいとも簡単に直してもらった。タダである。これで遅れながらも何とか出発できた。出発のとき、西平さんと津和野の名店でたべた丼がうまかった。
西平さんとの前プラは、(走りについてではなく)テント設営や、パッキングなどで付いていくのが精一杯だった。これは慣れるしかない。「なぜ旅に出てまで、時間に追われなくてはならないのか?」と自問自答しているうちは、やはり走りを十分に楽しめなかっただろう。前プラの後半や、クラブランで「もっと前へ進もう」とする意志を持つと、自然と何事も迅速に行えるようになった。そう考えられるようになるまで自分は後ろ向きになっていたと思う。津和野から初日の日程を2日かけて下見した。
初日最初の峠、上内谷峠で腰が痛くなってくる。ダートも舗装されている。そして、匹見峡温泉に寄り道し、小学校前で野宿した。温泉で予定していたルートが滑落していることを知る。
2日目は迂回路を行き、湯来温泉の近くの公民館前に泊まる。朝方、新聞配達のおばちゃんから、デイリースポーツをもらう。広島のデイリーはカープが一面で、阪神は2面なのである。
広島の佐々岡投手の勝利が報じられ、いよいよ憧れの広島に行けると思うと感激する。朝早く出発し、朝もやのなかを走る。爽快だ。採掘場の敷地を抜け、ダートに。このときは雨が振っていなくてもつらかった。
なんとか恐ろしい下りダートを抜け、舗装路から広島市へ。雨も上がり、市街地に下ると暑くなってくる。広島に着くとだいぶ疲れていた。食欲もあまり出なかったが、それでもお好み焼きはうまかった。
広島の東急ハンズで、自転車の装備を整え、壊れた靴の替わりの靴を探す。靴屋が見つからず焦るが、親切な人に靴屋の場所を教えてもらう。そんなうちに少し集合時間に遅れてしまう。
急いで寝床を探すために出発する。それでも日没までに市街地を抜けられず、海田の住宅地の中の田んぼの脇にテント。暑くて寝られない。翌日は呉まで海岸を走り、3日目のキャンプ場近くの滝で遊ぶ。呉の港の景観もすばらしい。
暑くなってきてだれてくるも、海岸走りに救われる。そのあと、フリーランコースの野呂山のさざなみスカイラインを登る。このとき、気合で登れという西平さんに反抗する。気合出すために自転車に乗っているのではない。
そう思いながら登っていくうちに、頂上へ。このとき、腰をかばいながら走れるようになった。この腰を守りながら登る走り方を習得していなければ、合宿はかなりきつくなっていたはずだ。
野呂山のキャンプ場は瀬戸内海の島々が一望できるすばらしいところで、西平さんともう1泊することにした。久々にゆっくりできた。ここはもう1度訪れたい場所だ。
もう1つ、今回の合宿でもう1度訪れたい場所がある。出雲大社から北上し、猪目の入り江から東に進んだところの海沿いの道だ。アップダウンのある断崖を縫うように走る細い道と、日に照らされきらめく日本海、密入国に注意呼びかける看板、ハングルの印刷された酒のボトル、合宿中の長い期間の中でもなかなか見られないものだ。
平田市の塩津あたりの日本海は、原風景ともいえるものだった。ちなみにここで撮影された「白い船」という映画は、関東では9月13日まで関内アカデミーで上映されていたらしい。主に地方の劇場で公開されているようだ。ビデオ化されたらレンタルして見るといいでしょう。
それから、「なぜクラブランでは登るのか?」ということについて、いままで抵抗があったが、最近になって峠に登ることが分かってきた。日本では平地移動が単調で退屈になるだけでなく、しばしば交通量の多い道が危険であり、また、ゆっくり話しながら走れないからだ。
そして、峠に登る意味は、やはり登りがあって、峠のいい眺めがあり(ないときもあるが)、下りがあるということだ。メリハリがつくし、なにより達成感がある。
合宿中何度も峠に立ったが、毎回峠の規模に比例して大きさの違いこそあれ達成感(たまに安堵感)を得たものだ。それはWCCに影響されての、私のサイクリングに対する意識の変化だと思う。もちろん平地をひたすら駆けていくのも、悪くはないし、いまだにそういう走りは好きだ。ただ、越えなければ進めない峠なら、越えてやろうという気概を持つことができるようになった。自分の体力について、私はフリーランもいつも遅いし、強い走りができるタイプではない。ただ、腰をかばう走りができてきたし、腰も強くなった。登りが長く続く道でも辛抱が利くようになった。これは大きな自信となった。
それとともに、夏合宿を終えて遠くへ独りで走りたい、という欲望が出てきた。前プラ中は西平さんが
重要な決定をしていたし、クラブランは企画に基づく走りをした。常に先輩に守られて走っていたのである。
次は自力のみで旅に出たい、というのが今の自分の走りに対する正直な気持ちである。宿、テントの設営場所や、メシ、ルートの決定など、すべて自分独りでこなさなければならない。
メカトラも自分で応急処置しなければならない。そのためにはまだまだWCCから学ばなければならないことも多い。
私たちは日常を抜けだして走りに行く。今回は、いきなり連れて来られたような感じで、俗世のことが少し気がかりだった。でも、これからは日常のしがらみから抜け出して爽快な旅に出られる。
走るならば、最高に楽しい走りがしたいと思う。
夏合宿を終えて2 – 佐藤
夏合宿を終えて2 1年 佐藤
「ちょっと行ってくる。」先輩がそう言い残してカヌー博物館にひとり入ってから30分は経っている。
明らかに35度以上ある炎天下の元で、僕は待ちぼうけである。そう、この前プラが始まってからこんなことが幾度となく繰り返されてきた。もう慣れた。
先輩と2人だけで行われる9日間にも及ぶランにおいて、1番重要となるのはその先輩との相性であろう。最初の数日、僕は先輩と打ち解けるために積極的に話すようにした。その結果、どうやら僕とはものの考え方、人生観が180度違うことが分かった。その上、とんでもない体力を持っている。
先輩「井上陽水って好き?」
僕「いいんじゃないっすか。」
先輩「俺あんまり好きじゃないんだけど。」
こんな会話が続くうちに思った。このままではまずい。付き合い方を変えなくてはならない。今までは、ひとつの生活の枠組みの中に僕と先輩という2人の人間がいて、ともに生活している、と考えてきた。しかし、これからは、僕と先輩の2つの生活があって、この2つの生活は近くに存在はするものの、互いに干渉してはならないもの、と考えることにした。
こう考えることで万事うまくいった。2人の性格でただひとつ共通点があるとすれば、それはマイペースであるということだ。マイペースとわがままは紙一重である。僕は考えを変えることで自由になった。先輩が松江で博物館めぐりをしているとき、僕は松江城を見ながらかき氷を食べていた。
僕が温泉に入っている間、先輩は本を読んでいた。このような生活は他人が見ればおかしいと思うのだろう。しかし、2人の間の気まずさは薄れていったような気がする。こうしているうちに9日間はすぐに過ぎ去り、前プラは終わった。今振り返ってみれば、この前プラは僕に集団生活を生き抜く知恵を与え、ストレスに対する耐性を強めてくれたという意味で非常に有効であったと思う。
前プラを生き抜いた僕は、その後の合宿も難なくこなすことができた。僕の精神を鍛えてくれた先輩に今では少しだけ感謝している。
夏合宿感想文 – 姫路
夏合宿感想文 1年 姫路
感動が、思い出が、ただそこにあるだけでいい。言葉は要らない…とかね。
いやホンマにそういうふうにも思うけど、とりあえずこれだけで終わらんと、ボチボチと書かせていただきます。一日ずつの出来事とか思い出とかを逐一書き綴っていったらあんまりにも多すぎるんで・・・そうっすね、全体を通しての感想とかを書かせていただきます。俺は、ビンボーな身だったんでクラブから色々と世話になって(自転車貸してもらったりカネ貸してもらったり)やっと合宿に参加さしてもろたんやけど、それについては辛かったよ、ホンマに。自分の生活とかね。ホンマに切り詰めた生活してそれでもカネが足りんくて…結構辛かったっス。
それでも合宿に参加さしてもろて、毎日走りに明け暮れて・・・、楽しかったよ。合宿の初めらへんは、結構、辛いという気持ちが先行しとったんやけど、後らへんは特に、自転車を漕いでるのが楽しかったりしてね。
まあその自転車漕いで走りたくっている毎日に、自由行動があったり、海水浴があったり、いい景色があったりで、それもまた相まってホンマよかったで!!
それとな、俺、食当やって、飯の買出しやとか飯作りとか指示やっとったんやけど、まあそれなりに役目果たせたんとちゃうかな、と思う。メシもそれなりにウマく作れたんとちゃうかと思っとるよ。・・・それとオモロイことに、俺は、普段の生活より合宿中の方が、栄養状態が良くなっていた!・・・普段の生活でおれ、パンと水とインスタントラーメンみたいな生活しとったからなあ…
毎日、白米と肉と野菜が食えるなんて夢のようやで!!…………ということっス。
なんか合宿中自分のほっぺたが、ふくよかになって弾力もっとったから、合宿中の方が栄養状態良かったのは間違いないよ。
ただなあ、おれは情けないことにミスがメチャクチャ多くてなア、他の人にえらい迷惑をかけてもうた。ホンマに反省しております、まあその罰で、「亥の子」を、しかも鳥取大砂丘の頂上というドラマティックな場所でやっていただいたりしたわけやが。
トラブルも色々あって、ホンマに合宿中いろいろとあったっスね。でもそういうのも含んでね、楽しかったよ。話の方向性が変わるけれども、WCCの、特に夏合宿とか参加してると、一般の生活のスタイルにも影響出るんやね。風呂入らんでも平気になったり洗濯せんでも平気になったり、人目を気にしなくなったり、それに、異様にノリが良くなったり、ムチャクチャするようになったり、ね。良くも悪くも、影響力の強いクラブなんスね、WCCというところは。
なんかまとまりのない文をグダグダと書いてきてしもたけど、本当にね、夏合宿に参加さしてもらえて本当によかったと思います。自分のヘボい文章では何にも伝えられていないように思いますが、心は本当です。WCCの先輩の皆さん、同輩のみんな、それにOBの皆さん、本当にどうもありがとうございました。
平成14年度支那合宿 – 酒井
平成14年度支那合宿 1年酒井
今夏の合宿を体験してしまった以上、他のサークル活動の合宿は合宿にあらずと言い切ってしまっても
良いのではないだろうかと、半ば攻撃的思想に偏りつつ私はペダルを漕いでいた。またこういう素朴な問いも浮かんでは消えた・・・かつて半世紀近く前に我等が帝国陸軍に存在したというあの銀輪部隊の兵隊さんの皆々様はどれ程大変だったのかという問いである。
こっちは遊びでやってるわけだが、それでもキツイ。一体あの時どんな世界がそこに広がっていたのかを想像するのは至難である。更にこの辺まで自問自答を繰り返しているともう1つの考えが頭を擡げて来る…比べること自体が恐れ多く、侮辱に値するのではないかという自責の念である。
だがここで1つ告白させて頂きますが、誠に御無礼と知りつつも私は苦しい場面になるといつも戦中の皆々様と自分を相対させて頂きまして、こんなことで音を上げてしまっているようでは英霊にお叱りを受けると己を奮い立たせて参りました。
そんなこんなで意志薄弱な私めは先輩や英霊に尻を叩かれつつ、前に進んだわけでありまして、己に欠乏気味な魂を強化できたことが何よりの儲け物で御座いました。帝都を離れ、地方を巡礼させて頂いた経験は、今後に影響を与えまする事これ必至。その過程で見せてもらった皆さんの喜び、悲しみ、怒り、愛、力、知識に時に驚き、時に敬服し併合できたのではないかな等と思っております。
今後とも御体に気をつけますれば、益々の御盛況を祈らせて頂きつつここに筆を下ろさせて頂きます。
平成14年10月3日。晴天後曇(水)
夏合宿2 – 上月
夏合宿 1年上月
僕は最初、『これがサイクリングかいなぁ、マジで!?前プラとちゃうやん、
しかも雨ん中走んのきつう。うわ何や!この石と延々と続くダートは。こんなとこ走ってもおもろないやん、しかもなんや今まで見とのないハエの進化したような凶悪な顔の、今にもかみつきそうな輩(アブ)どもは・・・』等と思いながらかなりブルーだったんですが、そんなを落ち着いて考える暇もなく自転車のペダルをみんなに遅れまいと漕いでいると、気がつけば終いには嫌いだったダートにも少しの面白さ出すことができるようになったし、上り坂を登るのも以前のように嫌いではなくなって、サイクリングに対する考え方が変わりました。ダートだけは好きになるまいと思っていたのに少しは楽しさがあることを知ってしまったのもWCCにしてやられたという感じです。
この合宿を通じて今まで弱かった面をいくらか強くすることができと思うし、大勢で長い期間生活を共にしたのも楽しかったです。そして大きな事故もなく無事に終われてよかったです。
いい経験ができてよかったです。3年生とWCCクラブ員のおかげです。感謝!!
2002年夏合宿 IN 中国地方 – 松永
2002年夏合宿 IN 中国地方 2年 松永
今年の夏合宿亥の子は回数こそ少なかったが非常にヴァリュエーションに富んだ豊かなラインナップであったと思う、満天の星空のもと宙に浮いたわが息子。マヨネーズとソースまみれになって日本海に投げ込まれた先輩と後輩のイチモツ。そして今合宿の亥の子のハイライトは鳥取砂丘の亥の子。
手前味噌になるが私はこの砂丘亥の子の影の立役者であったと自負している。
砂丘についた段階で主将の判断は「亥の子はするが水がないので何もかけない。」というものであった。しかし、その時に私が「水がないなら持っていけばいいじゃないですか!かわいい後輩のためです。水を運ぶ労力など惜しむ理由などありません。」と主将に自ら進言し、亥の子の実現に協力したのだ。
ついでなので、この際言わせてもらうが、主将はかけるものを爽健美茶にしようとしていたのだが、「今年の1年は根性があるから」と、ミルクと砂糖たっぷりのべたつくコーヒー牛乳や、炭酸が体に刺激を与え得るリアルゴールドをチョイスしたのも私である。
毎回私が暗躍しているわけではないが、少なくともWCCの盛り上げには大きく寄与しているとは思っている。こんな馬鹿なことを書いてはいるが、もちろん主題はこんなことではない。
私が言いたいのは、合宿は最初から楽しい物ではなく、自分の手で楽しくするものなのだ、ということである。だから亥の子やれ!!←結論
夏合宿3 – 網代
夏合宿 2年 網代
夏合宿。それは自分にとっての青春である。まあ、青春のカタチは人それぞれで、情熱を持って何かに挑戦していくみたいなのが青春なんだろう。
僕に取っちゃ全国を自転車で旅するのが昔からの憧れで、けど、どっかにそんな憧れの気持ちがあってもきっかけが無かった。WCCはそのきっかけを与えてくれたんだと思う。
まあ、そんなわけで、夏合宿in中国について色々書きたいと思います。最初に述べておきますと、恥ずかしい話ですが僕は2年生ですが、前プラをしませんでした。まあ色々理由はございますが合宿はしっかりやり遂げたのでお許しを。僕にとって体力作りとしての前プラは必要ないらしいのです。
過去、春合宿時にも前プラしませんでした。けど、初日から何にも問題なかったのです。しかし、前プラをしないと東京に戻ってきてから後悔します。もう2度と行かないかも。というのが主な理由で。
それと、集合日にみんなと前プラについて話している時、参加出来ないのが心苦しいです。
初日・・・雨の中。ゴアが暑い。キャンプ場ショボい。3班来ない。夜寝つけない。
広島・・・お好み焼き美味。アセモ発生。竹田はいつもダイエーにいた。大学の女友達に会い、竹田が根にもつ。キャンプ場いい感じ。
フリーラン・・・熱中症で倒れる寸前で、ふらふらしながらゴール。高山がピンチ。風呂に入る。松永のイ〇コ。
国道走り・・・前日の影響でコース変更。ひたすら平地で、飽きる。前Cテンを食らう。1時間くらい彷徨った。スキヤキおいしかった。
出雲大社・・・しめ縄でかい。コイン挟まってる。ソバうまい。
海・・・イ〇コ祭。はしゃぎまくって地元人白い目。竹田が4歳児達に好かれていた。「チンコ、チンコ」と言われてた。海ボウズがいた
宍道湖・・・でかい。松江たいしたことない。酒ゴ〇ラ発見。
大山・・・ハンガーノック寸前。牛臭い。「ハヤシライス60人分を16人で食うんだって」
サイクリングロード・・・ひたすら漕ぐ。快適。
鳥取駅・・・風呂行く奴いねー。マック美味。ジャンク万歳。
ヤミナベ・・・長谷川の使用済みコンニャク入り。竹田が全食い。
砂丘・・・はしゃぎまくり。またもやイ〇コ祭、他の観光客見てみぬフリ。青春した。
ダート地獄・・・思ったよりたいしたことない。ケツ割れる。松永やられまくり。
日本へそ公園・・・ショボイ。
六甲山・・・しみじみと感じる。語り出すと竹田に青春野郎といわれた。神戸港がキレイ。
ゴール・・・一言で言うことできません。
なつがっしゅく4 – 竹田
なつがっしゅく 2年 竹田
身をゆだね走りぬけこの狂おしい夏を。
周りのすべてに身をゆだね、ただ自分に正直に笑い、悲しみ、怒り、狂い、加速する。
体は自転車と常に一体で、拘束感を感じる人もいるのかもしれな頭の中は自由、考えることは自由、むしろ時間はたっぷりある。
今朝、味噌汁がしょっぱかったとか、ワルドナーはいつ引退するか、高校時代の友人はどうしているんだろうとか、テスト悪かったとは、人に言えないこととか。
ずっと変わらなかったり、ころころ変わったりする景色でも眺めつつ、気がついたら、集大成であり、始まりであるものは終わっている。あのころ君も若かった。
Editor’s Note
2002年の出来事。平成14年。
1月。三和銀行と東海銀行が合併してUFJ銀行に。
2月。マイクロソフトがゲーム機「Xbox」を発売。
8月。多摩川河口にアザラシの「タマちゃん」現る。
ソニーが「ベータマックス」の生産終了。
9月。小泉首相来朝。金正日総書記が、日本人拉致問題を公式に認める。
10月。 小柴昌俊東京大学名誉教授にノーベル物理学賞、田中耕一島津製作所社員にノーベル化学賞。
サッカーワールドカップ(FIFA)日韓同時開催。
第44回日本レコード大賞 2002年 Voyage 島健
WCC夏合宿は、「中国地方: 広島から – 神戸まで」でした。
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こんにちは。WCC OB IT局藤原です。
峠を全力で上り、イノ子をするために先鋭化した若者たち。WCCが人数的に縮小しはじめた年でもあります。峠20号は、そんな若者たちの物語です。2000, 2001, 2002年。
当時の文章をWEB化するにあたり、できるだけ当時の「雰囲気」を尊重するよう心掛けたつもりです。
文章と挿絵はPDF版より抜粋しました。レイアウト変更の都合で、半角英数字、漢数字表記等を変換していますが、全ての誤字脱字の責任は、編集担当の当方にあります。もし誤りありましたら、ご指摘をお願いします。
2025年新春、藤原
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