故郷へ帰る – 菅原
特別寄稿
故郷へ帰る 第1期 菅原
今年6月末に61才で会社を退職したのを機会に、故郷である秋田へ本拠地を移しました。会社勤めは37年余りに渡りましたが、それもどうにか終わりました。
振り返ってみると、力不足だったと思うことが全く無いわけではありませんが、やるだけやったという気持ちと自分がいいと思った生き方が出来たという満足感があります。あっという間だったような気がします。50歳を越えた頃から退職が楽しみでした。
田舎へ帰ることにしたのは、年老いた母が1人暮しだったこともありますが、退職後の生活は田舎の方が良さそうだと思えたからです。東京に比べるとまだまだ自然が豊富ですし、人間関係も濃密です。それだけに煩わしい面があることも事実ですが。
もともと、どちらかと言うと仕事より遊びに熱が入る方だったから、これからは遊べるぞーという感じです。まだ2ヶ月経過しただけで、具体的に何をやるか決めているわけではありませんが、只、「好きなこと」「やりたいこと」に集中したいと考えています。
今までは生活の糧を得るために働かざるを得ないという面がすこしはありました。これからはやりたい事をする為に毎日があるという風に生きたいと思っています。キイワードは「シンプル」「クリーン」「ジョイフル」です。
帰ってみて田舎の生活や遊びには多少の体力が必要であること分かりました。
今は体力造りに励んでいる。サラリーマン時代よりかなり日に逞しくなりました。腹も徐々に引っ込んできた。この調子でいこう。
自転車にも乗りたいと思っています。2台ある自転車のうちランドナーをこちらへ持ち帰りました。レーサーはOBランの為に東京においておきます。東京近郊でのランの計画の際には是非、従来同様、声をかけて頂きたいと思います。
WCCの諸兄の皆様、東北方面へ足を伸ばす機会がありました非、お立寄り下さい。泊まれる部屋は10分にあります。特段の接待はいたしませんが、気兼ねなく滞在できるよう何時でもお待ちしています。
東日本学生サイクリング連盟(ESCA)の結成 – 栗原
東日本学生サイクリング連盟(ESCA)の結成
第4期 栗原
東京オリンピックのあった1964年(昭和39年)早稲田サイクリングクラブ2期の宮田さん、中村さんが立教大学の河野さんと「大学のサイクリングの同好会を集めて、学生のサイクリストの組織を作ろう」という話をしたのがESCAの始まりです。
正式には、翌年1965年の春から、早稲田、立教の2校に、たまたまサイクリング先で知り合った、都立大学と明治学院大のサイクリングクラブに声をかけて4校で、ESCAがスタートしました。
この年のESCAの主な活動は、山中湖で行った夏のラリーと11月7日に陣馬高原で行った「連盟ラン」の2つです。委員長は立教大学の河野さんが務めていましたが、河野さんとの連絡が取れないためこれ以上の活動の詳細は不明です。
ESCAの2年目1966年は、幹事校早稲田大学で、栗原が委員長になりました。
加盟校も増えて、早稲田、立教、明学、都立大のほかに、慶応、亜細亜大、東海大、駒沢大、成蹊大、東京大の10校になりました。第2回ESCA夏ラリーは、8月23日~25日に日光で開催しました。
費用をどうするかが問題でしたが、日本自転車振興会とJCA(Japan Cycling Association)から補助金をもらい約70名が参加して実施しました。西サ連(西日本学生サイクリスト連盟)から同志社・山田さんと大阪府立大学・松本さんがゲストとして参加してもらうことが出来ました。
8月23日 東京出発組は、9時に国立競技場に集合し、日光の宿泊先の旭館に3時30分までに到着する予定で向かいました。WCCは東北合宿からの流れで、会津、田島を経て北側から日光入りした。午後4時に開会式を行い、夕食、討論会(議題・西サ連紹介と将来の合併についてなど)を行った。
翌24日はいよいよランとなり、
- 菅沼コース、2班38名、
- 中禅寺湖コース、17名、
- 東照宮コース、15名
に分かれていろは坂や金精峠、東照宮へのランを楽しんだ。
各校別の参加人数は以下の通り、
亜細亜2、慶応8、駒沢5、成蹊5、東海5、東大5、都立大11、明学8、立教8、早稲田12、同志社1、大阪府立1。24日の宿泊先は、湯元温泉の国民宿舎「山の家」であった。
最終日の25日は、反省会のあと閉会式を行って11時に解散した。
WCCのなかで何人かは、東京まで150キロを走って帰ろうということになり、昼近くに日光を出発した。途中どんなルートを取ったかはっきりとはしないが、合宿の後でもあり、途中でバテてしまい、トラックの荷台に乗せてもらい、トラックの都合で千葉県に立ち寄ったりして暗くなる頃に隅田川のあたりにやっとの思いで到着したのを覚えている。この他ESCAの行事として5月22日の日付はわかっているが、1966年か67年に慶応大学企画で狭山湖への「ESCA合同ラン」(スタート井の頭公園、ゴール多摩霊園)があった。
ESCAのスタートは、自転車振興会の資金援助もあり、既に活発に活動をしていた、西サ連というモデルもあったので、比較的スムースにスタートすることができた。またそれまで2回の夏ラリーで各校の努力の結果1つも事故が無かったこともESCAの活動を軌道に乗せることがスムースに行った原因と考えます。
種々の資料をしっかりと保管していた守谷明さんに感謝するとともに、ESCA創立当時のことがまだ記憶にあるうちに記録として残しておきたいと思い拙文をつづりました。
春合宿OB参加体験記IN台湾 – 錺
春合宿OB参加体験記IN台湾 第37期 錺(かざり)
2002年春。僕は台湾へ行って参りました。3度目です。しかも、これまですべてが自転車持参です。初回は1998年の春合宿(詳しくは『峠』第18号を御参照ください)、2回目は2001年冬に同期の堀江くんと杉山くんの3人で行った、台中-和平(花蓮縣)間・台湾横断の旅。
そして3度目の今回は、後輩の古橋くん(第39代)と共に春合宿OB参加を兼ねた旅、という訳です。
「そこまでして台湾に行くのはなんでやねんっ!?」とつっこまれても当然かもしれませんが、それは、僕が台湾という地に心の故郷とも言うべき居心地のよさを感じているからにほかなりません。話し出すと1・2時間費やしそうなので、要点のみをかいつまんで説明いたしますと、主に、
- 温暖な南国の気候風土
- サイクリングするにはたまらない険峻な山々が屹立する大自然
- 安くておいしい食べ物
- 日本人に対しても心優しい人々
- 僕が勉強している中国語の文化圏
といった理由からなのですが、それ以外に台湾全体から感じられる雰囲気が、なぜかとても自分に合っていることは確かな事実です。まあ、前置きはこれぐらいにして、WCC史上初(じゃなかったらすみません)と思われる、海外合宿へのOB参加を果たすまでの旅の記録をごくごく簡潔に御紹介させていただきたいと思います。
なるべく冗漫にならないように心掛けましたが、やっぱり長くなりました。(笑)でも、最後まで御覧になっていただけると光栄です。そして、この日記を読んで、皆様が少しでも台湾に対して興味を持ってくだされば、と思っています。
3月10日(日)〔成田空港 – 台湾・中正国際空港 – 桃園]
夕刻、成田空港で古橋と待ち合わせ、ノースウエスト航空007便にて、台湾・中正国際空港へ
飛んだ。台湾に着いた時は既に夜遅く、リムジンバスで我々の走りのスタート地点と計画していた桃園へと向かうことにする。今回、我々は北側からいくつか山越えをして台湾公路最高所・標高3,275mの武嶺へ行き、そこで14日に南側から来る現役部員たちと落ち合う計画を立てた。前回と前々回、僕は南側から武嶺ヘアプローチしたので、今回は、逆側から上りたかったのだ。という訳で、早速桃園行きのバス乗り場を探したのだったが、一般の旅行客はだいたいが台北へと向かうため、桃園行きのバス乗り場はわかりづらく、探しまくる。なんとかこの辺だろうと見当は付けたが、バスは来ないし客はいないしで不安になる。とはいえ、ようやく桃園行きらしいバスが到着し、乗り込んだ。
さて、1時間ほどで、桃園の街の中心部に着く。今夜のホテル「欣桃大飯店」は、「なるべく安いところにしましょう!」という古橋のリクエストに添うつもりだったが、800元ぐらいかかったような気がする。とりあえず荷物を置いた後は、桃園の街の散策へ。
さすが台湾、深夜11時ぐらいだったが、屋台はまだ開いており、そこそこにぎやか。古橋が積極的に屋台でジュースを買っていたので、僕も便乗して「珍珠茶」(巨大タピオカ入りミルクティー)を注文。
古橋は、初海外だというのに全然物怖じしていない。4年前の僕(今も(笑))とは大違いだ。さすが大物サイクリスト!と思った。僕は、屋台のお姉ちゃんとも「コリアン?・」
「日本人(リーベンレン)」「アリガトー!」「謝謝(シエシエ)!!」といった会話を交わし、早速いい気分に。その後しばらく街をぶらつくも、地方都市、および台北の衛星都市といった感じの街なので、もうだいたいの店が閉まっていた。よって、ホテルに戻っておとなしく就寝。
3月12日(月)〔桃園 – 三峡三民 – 復興]
朝、少し遅めの起床。金をケチって窓のない部屋にしたので、日光が全く入らず、何時頃だかわからない。昨夜と違って喧騒に包まれた桃園の街に出て、朝飯の店を求めてぶらぶら街を歩くが、おいしそうな店を探そうとするあまりなかなか決められない。これは僕の悪い癖だ。
古橋、ごめんね!結局、適当にビルの1階にあった小さな朝ごはん専門店に入り、お粥と豆乳などをいただく。台湾はどこで何を食べてもやっぱりうまい!その後、本屋に行って地図などを物色。結局僕たちが買ったのは550,000分の1という、かなり大ざっぱな台湾全図1枚だった。
これでちゃんと走れるのかー?それはさておき、昼頃になると自転車を組み立て、コンビニで買い物をしたら、桃園駅前からいざ出発!!!!
途中、三峡までは交通量激多の道を走る。あーうざ。その後、三峡の先からは一転、山あいの道へ入る。途中の食堂で遅めの昼食。おいしい本格台湾料理を楽しみ、満腹になったらまた走り始める。
しかし、この辺りから雲雲行きが怪しくなってきて、ポツポツと雨が降り始めたと思ったら、ドザーッと大雨が降ってきた。こりゃすごい!!ということで、しばらく民家の軒先のようなところで休憩。
ある程度の降りになったところでまた走り始めるが、雨に濡れつつ、山間の小集落を縫うように走る。やがて三民からは、本格的に北部往還公路の山道へと入っていき、ひたすら勾配が続く。
雨は大分小雨になっていたが、日暮れが近い。そして、なんとか復興の集落へとたどり着く。「民宿」という看板のある雑貨屋の2階に宿をとった。しばらくしてお腹もすいてきたので夕食を摂りに行こう
とするが、店はほとんど閉まっている。仕方なく、明かりのついていた食堂らしき店に入った。
中では、この家の住人らしき親子3人がテレビを見ていたが、怪訝そうな顔で見られる。とりあえず、「我想吃飯」と言ってごはんを食べるまねをすると、ちょっとおばさんは困ったような顔をして、「しいたけチャーハン」と書いてある壁に貼られたメニューを指差している。
どうやら、今日の営業は既に終わっており、今はそれしか出すことができないらしい。おばさんの御好意に感謝しつつ、席につく。おいしそうな音と匂いがしてきた。まもなく運ばれてきたしいたけチャーハンはとてもおいしかった。この辺り一帯はしいたけの産地らしいので、さすがといった感じである。どうもごちそうさまでした。余談だが、ごはんを食べながらテレビを見ていると、今日一日の降水量を表す台湾の地図がでてきた。すると、僕たちが今日走っていた辺りだけ雨が降っており、しかも、ものすごい積算降水量だった。おいおい・・・、つくづく僕は雨に縁があるなあ。まあ、明日は晴れるだろうと願いつつ、おとなしく就寝した。
3月3日(火)〔復興 – 明池 – 棲蘭英士 – 土場〕
今日は、北部往還公路を越える。だから、晴れてくれないと困るのだが、珍しくさわやかな快晴だ。朝ごはんの店で饅頭(マントウ)や肉まん、豆乳などをいただき、お腹が満たされたところで出発。
しばらくは緩やかな上りだ。急峻な山に挟まれた谷間の道をたんたんと進む。交通量がほとんどないのが救いだが、思ったより距離と高度が稼げないのがもどかしく感じる。途中、巴稜という、北部往還公路西側最後の集落を通過した。この辺りで昼飯時の少し前だったのだが、この先にも集落はあるだろうと早合点して、食堂の前をあっさり素通り。この判断は間違いだった。
道沿いには予想以上に何もなく、僕たちはただひたすら山奥へと入っていくこととなった。道の片側は深い谷だ。さすが台湾!だが、昼飯を食べ損ねたことをうすうす感じ取り、仕方なくハンガーで腹を満たす。
途中ちょっとした峠のようなところに着き、さあ休もうと思ったが、1軒家の庭から犬が「ワンワン!!」と吠えながら駆け出してきて、「ぎゃーっ!!」と速攻下る。ああ残念、と思っていたが、しばらくするとまた微妙な上りの道になり、
「峠はまだかあーーー」と朦朧とした気持ちで走り続ける。
そうこうして単調な道に飽き飽きしきった頃、森林公園のようなものがある明池という場所に到着(標高1,300mぐらい)。レストハウスに行って、飯が食えるかどうか聞くと、ありません、という返事。がっくり。薄暗かったので何となくそうだろうとは思っていたのだが。仕方なく巨大な缶入りオレンジジュースで腹を満たす。
さて、疲れた体に鞭打って、再び走り始めた。ほどなく道は下り気味になり、しばらくは等高線を丹念にトレースするようにして下る。はるか先の下の方に、僕たちがこれから行こうとしている川沿いの道が見える。ものすごい遠くだ。
さすがにこの下りはもうむちゃくちゃ長かった。下りにも飽き飽きしきった頃、ようやく棲蘭のT字路に出る。北部往還公路とはここで別れ、今度は川沿いの道を南へ向けて上って行く。
もうすぐ夕暮れ時だ。今夜の宿は仁澤温泉というところにしようとしていたのだが、そこへ行く途中、土場という集落に料金所があった。係員のおにいさんに、「仁澤温泉には入れますか?」と聞くと、「工事中だよー」との答え。ガーーーン。そこで、近くに食料品店がある場所を聞くと、「来た道を川沿いに戻るとあるよ」とのこと。あらまあー。仕方ないので、「謝謝!」とお礼を言って、逆戻りする。さっきの北部往還公路とのT字路を過ぎて5キロほど走っただろうか。英士(別名・梵梵)という小さな集落に着く。地図によるとこの付近には梵梵温泉という温泉があるらしいのだが、どこにあるのかわからない。
とりあえず食料品店を探すが、それもどこにあるのかわからない。途方に暮れて、交番に入っておまわりさんに聞くと、少なくとも食料品店はこのすぐ近くにあることが判明した。だが、それでもわからない。いったいどこなんだあーーー、と小さな集落の中を2人行きつ戻りつしてさまよっていた。そこで、なんとなーく商店にも見える普通の民家の前で、小さな子供に「商店はどこ?」と聞くと、「ここ」とやっぱりその民家を指差す。「謝謝ー」だが、どーしてもそれは商店には見えない。
やっぱり普通の家である。本当にここなのかー?とりあえず、入り口から覗いてみると、おっ、薄暗い玄関の内側に品物を並べた棚のようなものが見える。やっぱりここだったのかあー。
玄関に履物が置いてあったので靴を脱ごうとすると、中にいるおばあちゃんに怪訝な顔をされた。どうやら土足でもいいらしい。品揃えは田舎の商店という感じだったが、最低限の食料品は手に入った。
すると、古橋がおばあちゃんと日本語で話している。「あらー、日本人だったのねー。てっきりアメリカ人だと思ったわ」と、おばあちゃんが古橋に言っていた。(笑)ついでに、温泉のある場所を詳しく聞こうとすると、「集落の前の河原に降りて、上流の方へずーっと歩いていきなさい」と言う。
温泉としてはそそられるが、なんか遠そうだ。日も暮れかけだったので、今回は梵梵温泉をあきらめることにした。そこで、英士の集落を後にして、来た道をまた逆戻り。途中目を付けていた、道路沿いにぽつんとあった屋台の簡易食堂で晩飯を取る。中華ちまき、揚げ臭豆腐、春雨スープのようなものをいただく。
朝からろくなものを食べていなかったので、むっちゃくちゃうまかった。ごちそうさまー!満腹になって、土場の料金所の近くにあった駐車場へ戻り、テン張る。近くに小さな蒸気機関車が置いてある。
どうやら、日本の植民地時代にここから海岸沿いの羅東まで通じていた森林鉄道で使われていたものらしい。50年以上も前に、日本人によって既にこんな山奥まで開発されていたことに少々驚きを感じた。
そんなこんなで今日も一日お疲れさま!古橋が持ってきてくれた彼のテントで便乗して就寝。(笑)
3月13日(水)〔土場留茂安南山 – 思源埡口 – 梨山〕
朝、まだ明けやらぬうちに起床し、テントをたたんで、カップ麺を食す。山あいの涼しい空気の中、早々に出発。しばらく行くと、留茂安という集落があり、その入り口に食料品店があったので、ここぞと食糧を買い込む。饅頭やあんまん、木瓜牛乳(パパイヤミルク)などをしこたま買い込んで飲み食いし、満腹になった。さあー、今日もがんばろう!
今日は、東西往還公路の要所・梨山を目指すが、その前に標高約2,000mの思源埡口を越えなければならない。今日のコースもなかなか手強そうである。朝っぱらからなぜかカラオケの大音量が響き渡っている留茂安の集落を見下ろしながら出発し、しばらくはたんたんと川沿いに進む。
この付近は高い山に挟まれた河原の幅がやたら広く、その雄大さがなんとなく中国っぽかった(なんとなく、ですが)。まもなく、道が直角に曲がり、橋で河原を渡ると、川岸の段丘上へ向けて道が本格的に上り始めた。キツー!今日も気持ちよく晴れ渡っている。
南国の太陽が照りつけて、暑い。頬を伝う汗が滴り落ちる。やがてガツンと上り切ると、段丘上はキャベツなどが植わっている広大な野菜畑で、なんとなくチべットっぽかった(ホントなんとなく、です)。
段丘の上だけがきれいに開墾され、道の両側に点々と民家が連なっている風景は、確かに日本とも台湾ともつかないある種独特の異空間を作り出していた。
だが、日光をさえぎるものが皆無なので、ひたすら暑かった。つらいことに、段丘を端まで進み切ると、今度はまた谷間を渡る橋がある高さまで下らなければならない。その橋を渡ったら、次の段丘の上までまたひたすら上る。そして、しばらく段丘上を走ってまた下り、橋を渡ってまた上るのだ。
この辺りの道も、さすが台湾!とうなりたくなる気分だ。やがて2度目の上り返しを終えると、南山の集落に出た。ここはある程度発展していて、大きめの商店があったので、食料やら飲み物やらを購入し、峠越えに備える。
南山を過ぎると後はひたすら上りだ。道も山の斜面を等高線伝いに本格的に上り始める。途中、古橋と色々しゃべりながら気を紛らしたが、たんたんと上りが続く。
すれ違った車の中から、きれいな女の子たちが「加油ー(がんばれー)!」と声を掛けてくれた。台湾の人たちは老若男女いい人ばかりだ。いい気分でがんがん上り、ようやく思源埡口に到着。峠には納屋や東屋があるだけだったが、峠の直前からははるか下界が見下ろせた。
谷筋がまっすぐになっているので、ずいぶん遠くまで見通せるのだ。僕たちが苦しんだあの段丘上の野菜畑も見えた。さて、ハンガー食って一休みしたら、気持ちよく下る。この下りは、狭くて浅い谷筋に田畑や民家が点在していて、何となく日本的な風景が広がっていた。宜蘭から梨山へと抜けるこの道は、とても変化に富んでいる。
しばらく下って山の斜面をちょっと上ると、パッと視界が開け、深い谷筋がずっと下の方まで見通せ、尾根近くの稜線上をなぞるようにして先へ行く道が遠く続いている。
周囲には高くそびえる山々が見渡せて、すばらしい景色だ。山の斜面には、はるか下まで梨やりんごの畑が広がっている。この付近は果物の一大産地のようだ。風が少し強かったが、僕たちは気持ちよく飛ばした。
やがて、ドカンと下ったと思うと、峡谷に架かる橋を渡り、今度は梨山まで上りだ。この辺りの峡谷はとても美しく、川の水も紺碧に見える。上りとはいえ、とてもいい感じの道だ。
やがて、峡谷をはるか下に見下ろし、対岸の山がはるか先に壁のように立ちはだかるぐらいの高さまで
上り詰めると、ついに梨山の街だ。この辺りでは最も開けているらしく、ホテルや商店、食堂、果物売りの露店などがにぎやかに建ち並んでいるが、やはりこぢんまりとした小さな街である。僕たちも適当に目にとまった小ぎれいなホテル「好望角大飯店」にチェックインし、夕暮れも近い街を散策することにした。
梨山の街は、深い峡谷を作り出している高い山の斜面に位置しているので、街の向かい側には対岸山々が美しく見渡せる。
今回は晴れていたので、まさに絶景が目の前に広がっていた。台湾でこれまで訪れた中でも僕が好きな街の1つである。さて、ロータリー付近にはずらりと果物売りの露店が並んでいた。その中の1軒できれいな形をした大ぶりの梨を買おうとすると、法外な金額を告げられたので、愕然とする。
まあせっかくの名物だから、ということで比較的安かったりんごと桃を1つずつ買う。古橋は安ければ買うと言っていたが、あまりにも高かったので買わなかったらしい。その後、ホテルのおばさんに紹介された店に行き、夕食を摂った。ビールも一緒に注文する。やっぱり走った後の1杯は旨いなー!
そして、僕は豚足添えごはんをいただいた。今日も朝からまともなものを食べていなかったので、とてもおいしかった。ごちそうさまー!宿に帰って満天の星空を楽しんだ後は、明日の武嶺攻めに備えて就寝。いよいよ明日は合流だ!!
3月14日(木)〔梨山 – 大禹嶺 – 武嶺昆陽鳥峰]
僕たちが武嶺へ行くことをまるで歓迎してくれているかのように、今朝も快晴。真っ青な空が山々の上に広がっている。昨夜と同じ食堂へ行き、バイキング形式の朝ごはんを食べる。油条(揚げパン)や肉まん、餃子が豆乳によく合う。
台湾での朝ごはんはやっぱり豆乳かお粥が1番だ。腹も満たされたところで、元気に出発。梨山の街を抜けて、はるか下に渓流が見える峡谷に沿って、山の斜面をまっすぐに川上へと向かってゆく。
最初は、対岸の斜面に建つ民家や梨畑などが右側一面に見渡せが、次第に間の距離も狭まってくる。
まもなく谷筋を上りつめ、掛けられた橋を渡って対岸に移ると、今度は逆にこれまで来た道が向こう側へ離れていく。しばらくは狭い谷間を走っていくが、やがて視界が開けたかと思うと、眼下に深い谷筋が展開しているその向こうに、遠くの山脈の姿がくっきりと見えている。うーん、雄大な景色だ!ここらで1枚記念撮影といくか。
だが、まだまだ先は長い。ちょっと休んだら、また山の斜面をひたすらこぎ上っていく。遠くの山々は近くの山の稜線に隠れてゆき、僕たちはどんどん山の奥深くへと分け入っていく感じだ。
実は、梨山から大禹嶺へと続くこの道は、僕が初めて台湾を訪れた4年前の春合宿で、逆から、つまり大禹嶺から梨山へと抜け、さらに本来のゴール地点であった台北へと向かって走る予定だった。
そのルートは、今回僕が走った道とほとんど重なり、桃園のほんの少し手前まで全く同じ道を通って台北へ向かう予定だったのだ。しかし、我々の野望の前に台湾の大自然の脅威が立ちはだかった。
合宿6日目、大禹嶺から梨山へ下り始めてまもなく、下見直後に起こった土砂崩れのために、道が数10mにわたって跡形もなく押し流されており、完全に通行不能な状態になってしまっていたのだ。
そのため、我々はやむなく大禹嶺へと引き返し、東へ進路を変えて花蓮まで下り、そこから鉄道で台北へ入るという苦渋の決断を強いられたのである。そう、実は今回の走りは、その時のリベンジという意味合いも持っていたのである。今回走るコースを選ぶ時、僕がまだ台湾で走ったことのない道だったからという理由の他に、このような理由も裏にはあったのだ。話が横道にそれたが、そうした因縁の深い梨山 – 大禹嶺間のこの道を走っていると、なんだか4年前の心残りが解消していくような、ちょっとすがすがしい気分になっていた。
そんな僕が今回やりたかったこと、それは、4年前の土砂崩れ地点で記念撮影をするということだ。もう大分上った頃、なんとなくそれっぽい地点に出た。斜面は流れ出した土砂で覆われており、倒木やら岩やらが道の傍にうず高く積まれたままになっていたのだ。なんかよくわからんけどこの辺だろう、と自分に言い聞かせる。実は4年前にその現場を見たのは朝の1発目だったので、暗くて周辺の様子がよくわからなかったのだ。
ホントにここなのだろうか、という一抹の疑問を感じながらも感慨深く記念撮影をしてから、また走り始めた。(注・実は、後で判明したことですが、この場所は問題の土砂崩れ地点とは違っていました。残念!)
さて、もう随分上っただろうか、深山の冷気がほてった身体に気持ちよく感じられるようになってくると、見覚えのあるトンネルが見えてきた。そう、あれを抜けると標高2,560mの大禹嶺。中は照明もなく真っ暗で、滴る漏水や荒れた路面がなんだか懐かしい。
やがて、眩しいほどの光を眼に受けた直後、青空に映えて神々しく聳え立つ雪山の姿が、平屋の食堂や土産物屋が建ち並んでいるそのはるか先に美しく見通せる。去年の冬、雲1つない青空の下、武嶺からここへ下ってきた時に見たのとほとんど同じ風景だ。ついに来たぞー、大禹嶺!僕にとっては思い出の地なので、帰ってきたぞー、というような気もする。武嶺はもうすぐ。はやる気持ちを抑えつつ、食堂に入って自助餐(バイキング形式の食事)で腹ごしらえをしたら、いよいよ武嶺へアッタクだ!
ついに残りはあと約700mUP。そう意気込んで上り始めたのも束の間、
「うっ・・・、なんかこれキツいんとちゃうん!?」と感じ、息があがりだした。
確かに、過去2回、武嶺から大禹嶺へ向かった際には傾斜がきつく、ブレーキをかけつつヒヤヒヤしながら下った記憶がある。今はそれを上っているのだし、しかもこのあたりの標高は2,500mを軽く超えているのだ。
当然、普通の人間ならしんどいことだろう。「先に行ってますよー」と言ったか言わないか知らないが、超人・古橋はもう随分先に行ってしまい、姿が見えない。耐えきれなくなって何度か足をついたり水を飲んだりしただろうか。道の右側にはさっき見えた雪山の姿が大きく広がっている。
もう大分上ったんだなーと感慨しきり。まもなく先で待っていてくれた古橋に追いつき、写真を撮ったりしてその風景を楽しむ。
だが、風がキツいっ!!吹き荒れる暴風に吹き飛ばされそうになりつつも、激アップでほてった身体の熱をひとまずここで冷ます。さあ、武嶺はあの辺だー、と道の先に見える山の頂あたりを指差して、ラストスパート!
前からも横からも容赦なく体当たりしてくる暴風にも負けず、ペダルを踏ん張る。ふと振り返ると、これまで上ってきた一筋の道が山の斜面上にはるか先まで遠く続いている。大禹嶺はどの辺だろうか。遠すぎてよくわからないぐらいだ。この道をずっと上ってきたのかー、と感慨もひとしお。
しばらくすると、岩盤がむき出しになって荒涼とした風景の先に、レストハウスのようなものが見えた。そこまで少しだけ下ると、武嶺はもうすぐそこだ。頭上に見える鞍部こそ、紛れもなく武嶺である。だが、このラストアップはキツい。逆側から上るとなだらかな傾斜の比較的穏やかな道なのだが、こちら側は一転して荒々しく激しい様子を見せている。
ゆっくりと僕たちを追い抜いていく車の中から、人々が「加油!加油!」と応援してくれる。笑顔で応えつつも、身体は限界に近かった。空気がかなり薄くなっているためか、呼吸が異常に激しい。
だが、ペダルひと踏ん張りずつに全身の力を込めながら、さらに頂点を目指す。そして、ついに到着!武嶺だー!!
ふーっとひと息ついて自転車から降り、深呼吸しながら目前に広がる風景を楽しむ。僕たちが武嶺に近付いていくのと同時に次第に雲がこのあたりを取り巻き始め、今は大分見通しが利かなくなってしまったが、ここがまさに台湾の屋根だということはよく実感できる。晴れていると、遠くに険しくも美しい山並みが雄大に広がり、まさに絶景である。
今回で武嶺に来るのは3回目だが、合宿で初めてここに来た時は一面の濃霧で何も見えなかった。だが、去年の冬にプライベートで来た時は、空一面真っ青に晴れ渡っており、白い雪をいだいた山脈の姿が息をのむような壮大な美しさで見渡せたのだ。その景色を見て、ここに来てよかったと感じた。
そして、またいつか必ずここに来よう、と誓ったのだ。それが、次の年早々に来ることになろうとは、その時は予想だにしていなかったのだが。さて、武嶺には「武嶺・標高33,375公尺」と書かれた看板が石段を20段ほど登っていった上に建っているのだが、古橋はそこまで自転車を担いでいくと言う。
それを聞いた時、僕は「ふーん、あっそ。よくやるなー」とまるで人ごとのように思ったのだが、実際に人がやっているのを見ると自分もやりたくなるのが人間の性。
結局、僕も担いで登りました。(笑)看板の前で自転車と一緒に記念写真を撮りまくり。そして、しばらくして空気の薄さにも慣れてきた頃、さすがに身体が冷えてきた。強風も相変わらず吹き荒れている。
本来ならば、ここで僕たちは現役部員たちに落ち合い、この付近に宿泊の予定。だが、しばらく待っても彼らの来る気配がない。時間は午後2時か3時頃を回っていただろうか。
そこで、初めてここに来た古橋はちょっと先まで下り、ついでに彼らを探して来ると言う。
「そうか。まあどうせ今日は皆ここに来るんやから、俺はここで待っとくわー」
と、そんな気力も体力もなかった僕は、軽い気持ちで古橋を送り出した。「がんばれよー!」
一方、僕はあまりにも寒かったので、駐車場に出ていた簡易屋台で温かいスープをいただく。身も心もあったまるようだ。そしてしばらく屋台のおっちゃんと歓談。ある程度は僕のつたない中国語でも話が通じたのだが、途中で日本語の話せるおばさんが店に来たので、その方に通訳していただいてまたしばらく皆で話を楽しむことができた。
やがて何分ぐらい経っただろうか。おばさんも既に行ってしまったので、色々世話を焼いてくれた店のおっちゃんに「謝謝!」とお礼を言い、屋台を後にする。それにしても遅い。遅すぎる。ここでこうして1人うだうだ考えていても仕方ない。
ちょっと先まで下ってみようと思い立ち、200mほど標高が下の昆陽という地点まで行くことにした。立ち込めてきた霧のせいで見通しがよくない。だが、やがて駐車場やモニュメントのある場所が見えてきた。昆陽だ。見通しのよい場所に腰掛け、皆を待つ。だが、待てども待てども彼らは来ない。何かあったのだろうか。
実は、今回僕たちがOB参加することは現役生たちには一切内緒にしてあり、突然行って驚かそうとしていたのだ。ということで、お互いに連絡し合うことなど全く考えてなかった。彼らが当初のコース通り走る保障などどこにもないし、合宿がそんな予定通り行くこともよく考えれば当然の話ではない。
台湾に行っていきなりOB参加することなど、無謀なことだったのだろうか、という不安の念が頭をよぎる。
「おーーーい!」と下界に向かって呼び掛けてみる。皆どうしたのだろうか・・・。と、
やがてはるか下の道にただ1人、自転車で上ってくるのが見えた。古橋だ!
一体どうしたのだろう?なんで1人なんだ?そんなことを考えていると、やがて古橋が目の前に現れた。
「お疲れー!で、皆は?」すると、なんと彼らは予定を変更して、今日は標高2,700mあたりの鳶峰という地点にテン張っており、翌日ここ昆陽まで上ってきて、武嶺までフリーランをするというのだ。
ひいー、無謀な・・・。というか、「俺もそこまで下らな、今日皆に会われへんやん!」
という事実に気付き、ちよっとがっくり。いや、それより何より、実は武嶺から2,700m付近まで下り、その後、僕を呼び戻すためにまたここまで上ってきた古橋が1番大変だったのだ。
「ホンマにゴメンなー、古橋!」なんか非常に申し訳ない気分だ。まあ、皆無事だったことを知って一安心ではあるが。
あとは皆がいる所まで下るだけだ。さあ、行こう!古橋の話によると、上にもう1人同行者がいることは言ったけど、それが僕であることは明かしてないそうだ。でも、後で聞いた話だと、古橋がその地点に降りてきた時、現役部員の皆はまるで幻を見ているかのようで古橋がこの場所にいることを信じられなかったとのこと。僕もそうして皆を驚かしたかったなーと、あの時、古橋と一緒に下らなかった自分をちょっと後悔。
古橋にも無駄なアップをさせてしまったし。まあ、過ぎたことをあれこれ考えても仕方ない。元気な皆に会えるだけで充分じゃないか。そうこうしているうちに、もう大分下っただろう。
テン張りポイントはまだかー、と思っていると、道の脇にレストハウスと駐車場のようなものが見え、そこにいくらかの人々と自転車が確認できる。皆だ!「おーーーい!」大きな声で呼び掛ける。やっと・・・、合流できた!!!
「ちわー!」「お疲れさまでーす!」「久しぶりやなー!」
とお互いに声を掛け合う。久々の再会がうれしかった。皆すっかり台湾にも慣れて元気そうだ。話を聞いてみると、前プラも本番もまあ色々あったみたいだが、無事に全員がここにこうして顔を揃えているのが見られて安心した。やっぱり、台湾までやって来てホントによかった。まさに、合宿へのOB参加の醍醐味をしっかりと味わうことができた今回の旅だった。さあ、明日はいよいよフリーラン。がんばろう!!
以上、日本を出発してから現役生たちに合流するまでの道のりを書き綴ってみました。
思えば、たいした事件もなかったですね。それは要するに、台湾が安全であり、気軽にサイクリングが楽しめる環境が整っているということの表れではないでしょうか。
まあ、これ以後合宿に参加してからとさらにその後も色々なことがあったのですが、今回はページの都合上、やむなく割愛させていただきます。とは言え、やはり合流翌日、標高3,000mを超える地点で降りしきる雨の中、行われたフリーランは、想像を絶する激しさがありました。
当初の予定より距離を短くしたとは言うものの、普通の人ならまずやろうとはしないことです。皆が無事だったからよかったのですが、まあ、こういうとんでもない経験ができるのもWCCならではでしょう。
OB参加して、超絶な走りを味わわせていただけて、光栄に思います。4度目の武嶺で雨に濡れながら撮った全員写真と、台北駅前の群衆の中ワセジャー姿で撮った全員写真は大切な僕の記念です。
現役生の皆、突然行ったにも関わらずあたたかく迎え入れてくれて、どうもありがとう。
そして何より、こんなお気楽な先輩に文句1つ言わず付き合ってくれた古橋くん、感謝しています。どうもありがとう。またいつか機会があれば、一緒にOB参加しよう!
最後に、こんな長ったらしい文章を読んでくださいました皆様、どうもありがとうございました。
最後の夏 – 河瀬
最後の夏 第38期 河瀬
恐らくは学生最後の夏となる今夏、私は自身の中に存在する劣等感を払拭するために旅に出た。もちろん、自転車と共に。劣等感とは、個人でのサイクリングに価値を見出していなかったことに尽きる。正直なところ、私は1人で走ることに喜びを見出したことなどなかった。
合宿の前プラは、合宿をやり抜くのに必要十分な体力を身に付けるものに他ならなかった。企画在任中の下見は、まさに仕事に他ならなかった。唯一、タイムテーブルの作成には価値を見出していたが、これも仕事の範疇である。現役時、週末等に1人で純粋にプライベートとして走りに行ったことは皆無であった。これには、私に競馬という週末を占拠してしまうような趣味があるからだという声も聞こえてくるかもしれないが、競馬の存在がなくても走りに行くことはなかったであろう。なぜなら、1人で走りに行くという選択肢自体が存在しなかったからである。失礼ながら、当時は海外に走りに行く先輩や毎週末どこかしこに走りに行く同期や後輩を冷ややかな目で見ていたものである。まるで、当たらない競馬に嬉々として毎週赴く私に対して友人たちが向けていたような目で。言うまでもなく、それは私が彼らを理解できなかったからである。
そんな私に変化の兆候が訪れたのは、現役を退き1年以上が経過した昨年暮れであった。就職留年した私は、卒業を間近に控えた同期を目の当たりにしていたが、彼らは完全に二極化していた。
海外に走りに行こうとしている奴やレーサーで足繁く家の近くの峠に行っている奴もいれば、自転車を長らく輪行袋にしまったままの奴もいた。当然といえば当然なのかもしれないが、このままでは間違いなく自身も後者の仲間入りを果たすであろうと実感した時、ふと前述の劣等感が頭をもたげたのである。
そういえば、自分は集団でのサイクリングこそ全てであると思い、個人でのそれには目も向けなかったけれど、それでは自分にとってのサイクリングとは何だったのか。大学生活を彩るツールに過ぎなかったのか。それは余りにもお粗末だと感じたその時、ふと自分に正直になれた気がした。
私は個人でのサイクリングを理解できなったのではなく理解しようとしなかったのであると、そして1人で走りに行った奴が楽しそうに報告してくるその姿に嫉妬し、劣等感を抱いていたのであると。
さらに言えば、そのことに蓋をするために理解できないふりをしていたのだと。認めるのは愉快ではなかったが、事実である以上は認めざるを得なかった。
その時点で心に決めたことは「学生最後の夏を使ってシロクロをはっきりさせてやろう」ということだけであった。
それに追い打ちをかけたのが、今年初めから本格化した就職活動であった。エントリーシートや面接で「学生時代に打ち込んだことは」と問われ、悪びれずに「サイクリング」と答える自分がいた。
それなりに説得力があったのか、総じて受けはよかった。しかし、自分の中ではろくに1人で走ったことがないくせに、サイクリングが前面に出ていってしまうことに常に違和感を覚えていた。
簡単に言うと、後ろめたかったのである、自分に対して、相手に対して、サイクリングに対して、自転車に対して。これで、夏に自転車で旅に出ることは私の中で避けられないこととなった。日本中がW杯で盛り上がっていた初夏の頃、私の頭は前述の劣等感、後ろめたさを払拭するためにはどうすればいいのかということだけを考えていたといっても過言ではなかった。少なくとも、旅に出なくては自分は駄目になると考えていたことだけは確かである。
さて、どこに行くか。真っ先に頭に浮かんだのは北海道だった。理由は中学・高校時代の友人が帯広にいたことと、私の好きな馬が札幌で走ることになっていたことであった。三国峠と幸福駅のバッヂが欲しかったからだろうとか邪推する人もいるかもしれないが、もちろんそれもあった。
しかし、最後の夏を北海道だけと心中する気にはなれなかった。次に思い浮かんだのは中国地方だった。私が1年生の時の夏合宿の舞台であり、そして今年の夏合宿の舞台でもある彼の地も悪くない。
思えば、鳥取砂丘や出雲大社などには行ったことがない。私の中に鮮烈な印象として残っている野呂山にもまた行きたい。そして、1人で合宿にOB参加するのも格好いいかななどと思えてきた。
かくして、私はこの夏の行き先を北海道と中国地方に定めたのである。途中で家に帰ってきたら意味がない。だから、舞鶴からフェリーに乗ることにしよう。
期間は約1ヶ月。家を出たのは8月6日。現役時に合宿に出発する時のようなときめきは全くなかった。期待よりも不安の方がはるかに大きかった。私は1人で野宿することが大嫌いだった、正確には怖くてできなかった。不安の要因としてはそれが1番大きかったように今は思う。しかし、今回に限ってお金を払って宿に泊まることは、すなわち負けを意味する。
これまでに1人で野宿した回数を片手で数えることが可能な私にとっては、とてつもなく高いハードルであった。早朝に千葉県市川市の家を出て鈍行列車に揺られること10数時間、広島県の安芸川尻駅に到着した。野呂山の麓である。仕方がないので近くの公園で野宿をすることにした、なかなか寝つくことできなかったが、朝はやって来た。4年振りに走る野呂山・さざなみスカイラインは曇りだったせいかそれほどきつくなかった。
当時の休憩になった瞬間にバタバタとみんなが路上に寝転がる光景が脳裏に焼き付いていたので、いささか拍子抜けの感は否めなかったが、景色も素晴らしくなかなか良いところである。
その夜、私は市民球場で野球を観ていた。阪神の先発は川尻だった。広島の応援団はヤクザさながらの怖さを備えていた。平和記念公園はお住まいにしている方々がとても多く、よそ者の私には少々居心地が悪かったが、ともあれ夜を明かすには申し分のないところだった。
こうして私の旅は幕を開けたわけだが、先行きに対する危惧は膨らむばかりであった。それは肉体的なものでも金銭的なものでもなく、精神的なものに他ならなかった。基本的に中国地方を1人で走っている間、それは消えることはなかった。自転車を放り出したくなったことは何度となくあったし、峠を登っている最中にふて腐れて休んでしまったことも何度となくあった。
もちろん、旅自体がつまらないということではなかった。だからといって走ることを楽しめているという訳でもなかったのである、
あの日までは。その日の朝、私は蒜山高原にいた。現役の夏合宿に合流しようと思っている日である。
その日の彼らのキャンプ場は島根県の邑智町にある。私はどうしても1年生の時の思い出がある備後庄原に行きたかった。行くといっても何がしたいということでもなく、駅舎を眺めたかっただけなのだが。
しかし、庄原を経由すると170キロの道のりになってしまう。私は迷ったが、庄原に行かずして中国地方に来た意味はないという心の叫びを尊重し、決行した。
とにかく走った、休憩もほとんど取らずに走った。それでも庄原に着いたのはすでに昼過ぎだった。
備後庄原駅は4年前と何も変わっていなかった。駅前には個人商店が1店あるだけである。私は4年前と同じようアイスを買い、煙草に火をつけた。ふと頭に浮かんだのは、「どうしているかなぁ、長濱さん」と前プラに連れて行ってくれた先輩のことだった。それから、4年前の自分自身のことだった。
その時は4年後にまた自転車でここに来ている自分がいるなんて思っていたはずがない。そう思うと心の中にわだかまっていたものがいくらか晴れた気がした。少なくとも、その後は走ることが苦痛に感じることはなくなった。赤名峠を登っている時の気持ちはとても新鮮なものだった。
現役の合宿に合流し、一緒に走ってみて思ったことは「クラブランとプライベートは自転車の両輪である」というまさに言い古された先輩の言葉そのものであった。この期に及んでこんなことに気付くなんて皮肉なようだが、不思議と悪い気はしなかった。キャンプ場2泊を彼らと共にし、合宿を後にした。
いよいよ中国地方を離れる日が来たのである。この日の夜、私は試される大地・北海道を目指して舞鶴からフェリーに乗った。
約27時間の船の旅を経て小樽に着いた。北海道に来るのは私たちが執行部だった2年前の夏合宿以来2度目になる。この日の目的は札幌競馬場で行われる札幌記念である。
小樽から札幌まで走り大通公園で1休みした後、私は競馬場に向かった。大学1年の時から応援し続けているバンブーマリアッチに声援を送るためにである。下から数えたほうが断然早いほど人気はなかったが、調子の良さだけは中間の新聞紙上から伝わってきていた。
騎手もしばしば波乱を演出する小林徹弥に乗り替わり、1世1代の大駆けのお膳立ては整ったかにみえた、少なくとも私には。それを裏付けるように、私はあらゆる種類の馬券においてマリアッチから総流しをかけた。
結果は・・・・。ご存知の方はご存知でしょう。
翌日、上川まで鈍行列車で行き自転車の旅をスタートさせた。層雲峡、三国峠、糠平、足寄、釧路、厚岸、霧多布岬と帯広で友人に会うまでの数日間は一日大体130キロくらい走った。
この頃になると完全に1人旅を堪能していた。1人で走ることが楽しくなってきたのもあるが、1人旅をしている自分自身に酔っていた面の方がより強い。また、キャンプ場で出会ったいろいろな人たちと話をすることが刺激になっていた面もある。前回来た時は合宿だったこともありキャンプ場で他の人たちと触れ合う機会はほとんどなかったが、1人だと不思議なほど話をする機を会に恵まれる。
その中で最も意外であったことは、実はバイクの人たちがサイクリストに対して非常に好意的だということである。私はチャリダーという呼称が気に食わないし、彼らはそう呼んでサイクリストを蔑んでいるのだとてっきり思っていた。
なんて了見の狭いと思われるかもしれないが、私はそう思っていたのである。だから、私は前回はすれ違いざまにバイクの人が手を挙げても徹底的に無視していた、反射的に反応してしまった場合を除いては。だが、今回何の抵抗もなく手を振り返すようになったことは言うまでもないだろう。
最後は1週間かけて帯広から札幌まで走った。愛国駅、幸福駅、襟裳岬。そして、わが国のサラブレッド生産のメッカである静内・新冠・門別では多くの往年の名馬たちを見てきた。ニホンピロウイナー、サッカーボーイ、ビワハヤヒデ、ラムタラ・・・・ご存知の方はご存知でしょう。私がこの旅において何より贅沢に思えたのは、両側に放牧されている競走馬を見ながらゆっくりと走ったことだった。苫小牧、白老、登別。オロフレ峠はきつかったけど3発で920mまで登ることができて、とても痛快だった。
洞爺湖、ルスツ、中山峠、定山渓、札幌駅。ゴールする数日前からの関心事は札幌駅で自転車を降りたときに私は一体どんな心境にあるかということだった。もう乗りたくないか、また乗りたいかのどちらかであろうとは思っていたが、幸いなことに後者であった。その証拠なのかどうかは分からないが、いつもは迷わず宅配便で送ってしまう自転車を送る気になれず自分で携えて帰ったのである。周囲から情の薄い人間と言われて久しいが、5年の歳月を経て自転車にも少しは情をかけることができるようになったかと思うと苦笑いせずにはいられなかった。
9月4日に家に帰ってきて以来、次はどこに走りに行こうかと私は頭を悩ませている。
編集後記
編集後記
市来
原稿書いていただいて、皆さんお疲れ様でした。それぞれの癖、味出るように、なるべく原稿に忠実に打ちこみましたが、明らかに文法的に、日本語的に間違っているところはさっさと直しました。
キーボードにろくに触れていなかったので、いい練習の機会をもらいました。姫路君の文章が全部関西弁だったので打つのが大変でした。
ところで、私は「WCC色」という言葉が大嫌いです。そんなものはあったとしても口にすべきじゃないと思います。WCCはあくまでも生活の1部であり、だからこそ価値をもつし、それぞれの個性が生きくる。ひとつの色に統一することなどくだらない。
いつでも自由であることが大事です。個々人の自由があるところに、互いの人間性に影響する純粋な感があるのです。純粋な交感が得られるのがWCCのいいところなのだと私は考えます。WCCにおいて雑誌を刊行する意義について考えると、さきの「純粋な交感」について考えずにはいられません。1人1人が正直な気持ちを書いて、それを読んだものがわずかでも何らかの精神的影響を受けることが、文章を書く意義であり、それはWCCの刊行物においても否定されてはならないことです。
サイクリングは好きです。でもそれについて書くことに何の意義があるのか、いまいちよく分からないまま出版局をやってきました。ここまでやってきて言えることは、WCCの出版物、ということにとらわれず自由に、書きたいことを書けばいいのだということです。それこそが純粋な交感を生むと信じているから。言葉の純粋性を生かさないのは勿体ないではないか。
古橋
言い出しっぺがほとんど作業に参加せずで、他の編集員には感謝です。
錺
OBになって1年半が経ちました。部室で僕の写っていない合宿のアルバムを見て感じるもの、それは、懐かしさや羨ましさ、そして、僕の身体の中に眠っていた何かが再び呼び覚まされるような感覚です。確かに、僕も写真の中の彼らと全く同じことを数年前にやっていました。
その当時は、一日も早くゴールを迎えることばかり考えながら厳しい合宿を乗り越えようとしていた記憶があるのですが、いざこうして現役を退いてみると、あの日々はかけがえのない貴重なものであったことを実感します。WCCに入部して幾多の困難を経験して生まれて初めて、僕は自分自身を誇りに思えるようになりましたし、それ以上に楽しいこともたくさんありました。
あの頃の一生懸命な気持ちを忘れているんじゃないのか、と感じることもある今日この頃。去年の夏と今年の春、短い間ですが合宿に参加させてもらうことで、かつての自分を少し取り戻すことができたような気がします。「やっぱりWCCはすばらしい!」その思いをより強くしました。
そして今、こうして「峠」の編集という形で再びWCCに携わることができて、とても光栄に思います。編集作業を率先してやってくれた、河瀬くん、古橋くん、市来くん、どうもお疲れさま!
河瀬
どこからともなく「峠 – 40周年記念号」を作るという話が私の耳に届き、協力を求められたのは就職活動が佳境を迎えていた4月の半ば頃であったと記憶している。
当時の心境は「協力するのはやぶさかではない」という極めて楽観的なものであったが、一方で「この安請け合いがいずれ私の両肩にのしかかることになるのではないか」という一種の危惧のようなものを感じていたことも事実であった。
実のところ、復刊し3冊が刊行された「峠」を再度休刊に追い込んだのはこの私であったのだ。そんなこともあって、「今度は逃げ切れないかもしれない」という危険信号が心の中で灯ったのだろう。そして、その危惧は現実のものとなり、私はこの1週間余りほとんど眠っていない。
考えてみたら当たり前のことだ。市来は執行部として忙しいし、錺さんには大学院の勉強がある。古橋にいたってはチベットに行ってしまった。就職が決まり、悠々自適な学生生活を送っている私にお鉢が回ってこないはずがない。
何だか後ろ向きなことばかりを書き連ねているが、決して嫌々やっていた訳ではない。では何が私を駆り立てていたかというと、この「峠」を自身へのバースディプレゼントにしようという一念である。
奇しくも本号が皆様のお手元に届く40周年記念パーティが行われる10月19日は私の24歳の誕生日なのである。自分の誕生日に自身が編集長としてクレジットされた「峠」が陽の目を見る。悪い気がするはずがないことは御理解いただけよう。
さはさりながら、作るからには最高傑作にしたいものである。実際、その決意に違わないものに仕上がったと自負している。OBの皆様にはここ最近のクラブがどんな奴らによってどんな活動をしているのかということをたっぷりと堪能していただきたい。しかし、それ以上に現役のクラブ員に読んでもらいたいと私は思っている。他のメンバーの思いを理解できる絶好の機会であるし、そこにはきっとこれからの活動の足しになる何かが書かれているはずだから。
共に製作にあたった3人には心から感謝してます。特に市来、君の粘り強い原稿集めには脱帽しました。
その意気で早同も頑張って下さい。古橋、君のチベット紀行が載るであろう次号を楽しみにしていますよ。錺さん、適切な御助言どうもありがとうございました。
最後になりますが、原稿を寄せて下さった皆々様も本当にどうもありがとうございました。おかげさまで、無事「峠」を出すことができました。また、沢山のわがままを聞いて下さった印刷会社の方々の存在なくして、この「峠」の完成は有り得なかったであろうことは想像に難くありません。この場を借りて、心より御礼申し上げたいと思います。
峠第20号
発行日2002年10月19日
「峠」第20号・編集長 河瀬
発行所早稲田大学サイクリングクラブ出版局
編集責任者 河瀬
僕達のそれから – 第42期 枡田 (2005年会員名簿から)
僕達のそれから 第14代 主将 枡田
時がたつのは早いもので、早稲田大学サイクリングクラブ40周年記念パーティーの時、1年生だった私達第42代のメンバーも4年生となり、卒業を迎えようとしています。
あの40周年記念パーティーで、卒業してもまったく変わる事のないクラブOBの絆の強さに感動したことを昨日のことのように覚えています。(僕達一年生は学ランで参加していました)。
今回の名簿発行はその時以来となります。名簿は卒業したクラブ員の絆をつなぐ大事な物だと考えています。その巻頭の辞に筆を取らせて頂きましたことはたいへん光栄なことと思います。
現役生の活動を温かく見守り、時に惜しみないご協力をして下さいましたOB各位様、一緒に苦楽を共にした同期のメンバー、そしてこれから早稲田大学サイクリングクラブを担っていく後輩達への感謝の想いを胸に、「僕達のそれから」と題しまして、40周年記念パーティーから現在までのWCCについて簡単にですが述べさせていただきたいと思います。
つい先日、私達42代の追い出しランが終了しました。私達が1年生のとき先輩方は合わせて8名しかおりませんでしたが、その日の夜、大善寺に集まったクラブ員は後輩20名、お世話になった先輩方7名、同期が4名の総勢24名でした。
徐々にではありますが人数が増えていきました。もちろん新入生勧誘の努力を惜しまなかったこともクラブ員増加の一因であると思いますが、何よりもWCCの持ついくつもの普通的な魅力、私達が峠をいくつも越えて行くうちに人がそれに惹かれて集まったのではないかという気がします。
私達WCCの旅は色んな意味で非常に純粋だと感じます。WCCは10年以上の歴史の中で洗練され、良いものは残り、今ひとつのところは改善されていきました。
結果、私達は今も変わることなく峠を越え、米を炊き、テントで寝て、という泥臭い旅をしています。
確かにこの4年間でも各代により様々に異なった、その代の特徴が凝縮された合宿が展開されてきたと思います。しかし純粋な部分(抽象的な人間関係のようなものも含めて) は昔から変わらずこの名簿に載っているすべての人に共有されているのではないかと感じます。
それ以外では近年のWCCは大小様々な変化がありました。新学生会館に部室を移し、部屋にテレビ・パソコンが設置されました。マウンテンバイクの使用者が増え、さらに最近ではプライベートランでロードレーサーに乗る者も増えています。
ESCA局が廃止となりましたが、次の改選総会では新たにIT局が新設されます。クラブジャージが新しくなり、またフリーランの勝者にはチャンピオンジャージが渡されるようになりました。
合宿では台湾、韓国などにも挑戦しています。耐久ランも久しぶりに復活しました。また、 冬合宿と称して冬季のランに果敢に挑戦する者もいます。夏合宿では途中2コースに分かれる企画が展開されるようになりました。近年、クラブ員のサイクリングに対する嗜好も様々に分化してきたように思われます。ラン以外でも忘年会や新年会で飲んだり、早慶戦 に行ったりとクラブ員同士の交流の場も広がりを見せています。
WCCはしっかりとした根源的な部分を持つがゆえに、合宿や普段の活動でも各代が異なった色を、個性を出すことができる素晴らしいクラブだと思います。実に多くの、様々な可能性を秘めているクラブであると思います。
4年間このクラブに在籍することで、大 学の授業で学んだこと全てよりも貴重なことをここで学ぶことができたと確信しています。 確かに、男しかいないし汗臭く、合宿中は米ばかり食べ、顔は真っ黒になるのに風呂にも入れない奇妙なクラブなのですが、しかしそれでも、胸を張って山道を走るのは爽快です。 400名を超えるクラブOBの誰一人としてこのことを否定する人はいないでしょう。
「集まり散じて人は代われど 仰ぐは同じき理想の光」という校歌の一節が思い出されます。これからも益々、WCCは発展していくことと思います。
最後になりましたが、この名簿発行に尽力して頂いたOB各位様、そしてOB会役員の 皆様に心よりお礼申し上げます。有り難うございました。
OBランについて – 第26期 堀内(2005年会員名簿あとがき)
OBランについて 2005年12月4日 堀内
まず、ここしばらくOBランが滞っていることをお詫び致します。
ここしばらくサボっているのでえらそうなことは言えないのですが、私がOBランにこだわっているのは、ただただ走るのが楽しくて、かつ、OBランは現役の時あるいは卒業してからの他の走りと比べても違った楽しみ方、走り方ができるからです。
更に言えば、卒業と同時に自転車から遠ざかってしまう方(自分自身もそうなりつつあるのですが)が多いことを残念に思ったのもきっかけです。走っているとただただ楽しい、年代を越えてOB、現役の方々と楽しい時間が過ごせる、そういう OBランが出来たらいいと思っています。
私にとってのOBランの原風景は、3代上の方々が確か卒業されてから少したってからだと思うのですが伊豆の松崎周辺に泊りがけで走りに行かれた際に、ご一緒させていただいた時のことです。現役の時とはまた違った様子で楽しんでいらした先輩方が大変羨ましく思え、民宿で出された地元の貝の入った味噌汁がおいしかったことと、海沿いのアップダウンがきつかったこととともに覚えています。こういう走りもあるのだなと、それまでクラブランが中心だった自分には新鮮でした。
現役時代には本当にクラブにはお世話になりました。自分が今ここにある内全部とは言いませんが、充分意味のある一定の部分を早稲田大学サイクリングクラブに負っていることは確かです。そのお礼の意味もこめてと思いOBランに何回か携わって参りました。冒頭記しましたとおり、ここしばらくは公私の雑事にかまけさぼってしまい、何とかしようと思っているとこ ろです。
最後に、OBラン企画に関心ある方いらっしゃいましたら小生までご連絡いただければ誠に幸いです。