峠「21号」_2012_50周年に寄せて

WCC草創期のこと – 菅原

WCC草創期のこと 第1期 菅原

私は1961年(昭和36年)に入学、体育局自転車部へ入部しました。自転車部では私が入るかなり以前から自転車競技と自転車旅行が並行して行われていたようです。吉原、小野、中山、飯田、詫間、須古、長谷川等諸先輩の名前を記憶しております。我々新入生も連日武道館?3階にあった自転車部の部室でローラートレーニングに励んだものです。また、夏の早慶戦に引っ張り出されて立川のバンクを走りましたが怖くて1番下のフラットな所を走りました。

翌1962年(昭和37年)レースとツーリングの両立が難しいと分かり、自転車部から分離独立してサイクリングクラブを作ろうという事になりました。早速この年は東北合宿(新潟~青森)を計画、私は東京からスタートしました。当時は国道ですらまだ砂利道があった時代ですからパンクや転倒は珍しくありません。この時の東北合宿参加者は菅原、宮田、中村、入学、長嶺、藤原の6名でしたが、同期の副主将の溝江君や鷲田君などは他へ回ったようです。秋田では私の実家に泊まり大騒ぎしたことを母は後年よく話しておりました。残念ながら宮田君は数年前亡くなられましたが、この時の仲間とは今でも酒を酌み交わす仲で私の貴重な財産でもあります。

この頃は学生部公認のクラブではありませんでしたが商学部地下をたまり場に良く集まっておりました。連絡用にぶら下げていた「連絡ノート」は今でも私の手元にあります。自分が書いた文章を今読んでみますと自分がほとんど成長していないのが良くわかります。

翌、昭和38年夏は四国一周合宿でしたが、数名は東京から出発しました。この年の会員は4年3名、3年4名、2年9名、1年23名計39名と記録されていますので合宿もかなりの数でした。
行く先々で地元の先輩のお世話になり、ご馳走にもなりました。それも事前に連絡したわけではなく、当地でたまたま早稲田のジャージーを見て「おお、早稲田か俺のところに来て飯を食え」と声を掛けて
くれる先輩がいたのです。良き時代でした。四国に上陸した台風と土佐中村で直面し地元の被害が大きく報道され、合宿を中止し救援隊に切り替えようかと真剣に話し合ったのも思い出します。

数年前、現役の夏合宿にお邪魔して感じました。50年前の我々の活動と大きく変わっていません。
50年間脈々と伝統を受け繋いできてくれた後輩諸君に心から敬意を表したいと思います。

今回、秋田から自転車で上京しようと春から考えておりましたが7月に「一過性脳虚血発作」という脳梗塞の前兆で左手足が動かなくなり、入院を余儀なくされました。手当てが早かったおかげでどうにか50周年パーティーには出席出来そうです。しかし自転車での上京は諦めざるを得ません。人生何があるか分かりません。目の前の事を1つ1つ乗り越えていこうと思っています。

私達の50年の轍は単なるサイクリングではなかった。単なる旅行でもない、1つ峠を越え、また次の峠を越え、繰り返し乗り越えてきた先に何があるのだろうか?

1962年夏合宿(新潟駅前)

WCC創立50周年と「峠」50周年記年号の発刊を祝う – 入学

WCC創立50周年と「峠」50周年記年号の発刊を祝う 第2期 入学

体育局所属クラブならいざ知らず、一同好会に過ぎなかったWCCが半世紀を経てもなお隆盛を保ちつ、この度晴れて創立50周年を迎えることは、大変な偉業でありOBのひとりとして大いに誇りに思います。
また、東京オリンピックが開催された1964年(昭和39年)に「峠」創刊号がガリ版刷りで発刊されて以来、途中休刊等幾多の困難を乗越え今回創立50周年記念号(第21号)の発刊に漕ぎつけたことは、「WCC魂」が永く受継がれて来たことの証であり創刊号発行に聊か関わっただけに大変嬉しく思います。

このどちらも偏に、半世紀に亘りWCCの発展を支えられた歴代会長をお引受けいただいた先生方及び初代菅原主将を始め、歴代主将と歴代クラブ部員並びにOB会員各位のサイクリングに対する真摯な情熱と
地道な努力があってこそ成し遂げられたものであり、初代から50代迄のWCC諸氏諸兄に深甚なる敬意を表します。

さて、私事で恐縮ながら遥か半世紀前の学生時代をおぼろげな記憶で辿ると、1962年に九州から早稲田に入学したもの、実はただ親元から出奔したかっただけで明確な“志”を持っていなかった。しかし、何でもよいから「行動」を起こしたい衝動に駆られていた。結局、ぽっと出の田舎学生が陥り易いお決まりのパターン – 最初に学生運動をかじって硬派を真似てはみたもののやがて脱落、一転しておんなやマージャンにうつつを抜かす一方、本分の勉学は疎かになる – にまんまと嵌ってしまった。

2年生になりこれではいけないと思っていた矢先に偶然の悪戯?で何となくWCCに入部した。しかし、WCC入部後もいい加減な学生生活からなかなか抜け出せずWCCのクラブ活動にもあまり身が入らないので菅原、溝江、鷲田、西など諸先輩(WCC1期)や宮田主将、中村副将、長嶺、阿部、上田、岩本、藤原など同期(2期)諸兄に止まらず後輩たちにも迷惑の掛けっぱなしだった。

この体たらく故本来なら除名されても不思議でなかった筈なのに何故かWCCの仲間に入れて貰え、漸く東京での居場所が出来たと感じた。その後WCCのクラブ活動に勤しんだ1時期もあったものの元の木阿弥に戻り、不良部員のまま卒業した。

卒業後は会社の仕事中心になって次第にWCC仲間との付き合いは細々としたものになっていました。処が、卒業後30数年経ち弊方齢50代後半に落ち込んでいた時期に、WCC2期~4期各位から色々激励いただいたこともあり何とか立直ることが出来たのですが、この時「持つものは真の友」と感激しました。この出来事以来「WCC魂は永遠なり」と半世紀経った今もつくづくと感じています。

そこでWCC学生諸君に遠い話で恐縮ですが、諸君が弊方と同じ年齢(古希)になった頃にWCCは創立100周年を迎えることをせめて記憶にだけでも止め置いていただきたいと思います。

なお、弊方は上述の通り「峠50周年記念号」に投稿するにふさわしくはないのですが、たまたま今回50周年事業実行委員の2期促進幹事に任ぜられたこと、及び現役の第50代出版局から原稿締切り間際に投稿要請があったこと、等からやむなく受けさせていただいたた次第です。
(本当は2期主将の宮田氏—熊さんのニックネームでみんなに愛され慕われていた – に同期代表として投稿いただくと嬉しかったのですが、2009年9月に逝去されたことは痛恨の極みです改めてご冥福をお祈りいたします)

平成24年10月12日

WCC50周年「峠」投稿原稿 – 山添

WCC50周年「峠」投稿原稿 第3期 山添

旅の好きな私にとって自力で巡る異国は魅力だったので、サイクリングクラブとの出会いは自然でした。

縁というのは不思議なもので、下宿の先輩「秋田出身の森川様」が初代主将の菅原先輩の友人である事は後で分かりました。人との交流が好きな私はメカに弱くて後輩にいろいろ教わったものです。

1年生の四国一周の合宿では、しごきに強い先発隊を仰せつかり朝食抜きで出発、その日のキャンプ地を探すのです。全国各地には大先輩が居られ、早稲田のジャージを介して話も弾み総勢25人、一度に一宿一飯のお世話になった事もあります。室戸岬では台風の被害の爪痕も生々しい現地に入ると、菅原主将からは「我々で出来るボランティアを」と提案があり、暫く滞在したのは「何でもあり」の印象でした。

北海道と中国地方の合宿の後、自由ランで沖縄一周を試みました。昭和27年の平和条約により日本の潜在的な主権は認めながらも正式にアメリカの管理下におかれ、1960年代のベトナム戦争の為の最前線基地とされる丁度その頃時期です。下宿のおばさんの故郷が那覇にあり、通貨はUSドルで正に海外旅行気分での訪問でした。
現在の旅券に当たる「身分証明書」を発行して貰い、神戸から航路4日間掛けて那覇・泊港に上陸しました。「国際通り」には露天商のバラックが並び、日本にないものが手に入る楽しい町でした。

先ずは南部戦跡に弔意を示さんと「ひめゆりの塔」へ。現地の守衛さんに東京からの訪問事情を話すと、「是非とも供養をして下さい。」と言われ、慰霊塔の下には幾重にも重なった沖縄戦線犠牲者の上遺骨に合掌したのは未だに忘れる事が出来ません。それから一路北上し、本島最北端の辺土岬をめざしました。途中の宿は民宿と言うか民家での宿泊しかありません。現在の嘉手納基地より北部はジャングルそのまま。ベトナムへ派遣される兵士の格好の訓練場所で、アップダウンが激しい道路に戦車のキャタピラの轍の跡がついており、自転車を担がざるをえませんでした。知らなかったとは言え、毒蛇に襲われなかった事が幸いでした。

辺土岬の小さな村で少年にカメラを向けたら慌てて逃げられたり、名護のある美しい施設に魅せられ近寄ると、門衛から、ここは「ライ病患者保養施設」だからと追い返された事もありました。後日の訪問時、奥行き50mの広場では野戦病院や住民の避難場所として使われた、石灰岩の洞窟「ガマ」を見せて頂き、集団自決も行われた悲惨な住民の生活を垣間見る事ができました。大きな洞穴では飛び降り自殺をした海岸まで延々5km先まであったそうです。洞窟内では食事から排便までの全生活が行われ、夜陰に水を汲みにゆくのに決死の覚悟がいると言われました。

約10日間の海外旅行気分の合宿は「戦争の犠牲者は住民である。」事を体験する慰霊の旅となりました。

佐藤栄作首相の下、沖縄返還が実施されてから何年経つのでしょうか?未だに同じ事を繰り返す日本各党党首のリーダーには智恵と言うよりポリシーは無いのでしょうか?
返還前に私が経験した事を現在の若者が体験すれば、きっと県民の立場に立って大きな声を上げるでしょう。国民全体の認識として、全国有り余る無駄な空港を利用して日本国土全体で有事に備える事は出来ませんか?見方を絞って沖縄を訪問するのも今後のテーマと考えています。

いろいろな事を考えている間に50年も経ちました。自力で旅をする癖はいまだに抜けません。

しかし現在は「自力で旅のできない障害者のお手伝いを」しているのは運命の巡り合わせでしょうか・いまだに旅に係わる仕事から抜け出せない今日この頃です。

早稲田サイクリングクラブ50周年に寄せて – 栗原

早稲田サイクリングクラブ50周年に寄せて 第4期 栗原

WCC創部50周年おめでとうございます。

ブログに掲載された今年の北海道合宿の写真を見ると、21名の部員が参加しているようです。我々の頃も合宿は、大体テント4~5張で収容可能な参加者数でしたから、現在と同じくらいの合宿参加数ではないかと思います。50年の歴史の中で、サイクリング人気も高低があり、部員数もかなり少なく、存続について、危機を感じたこともありました。

女人禁制という方針については、我々の頃にも議論がありました。しかしWCCの存続が危うくなるよう
でしたら、女性容認も必要な時代が来るかもしれません。OBとしては、学生時代の情熱を傾けたWCCだけは何時までも続いてもらいたいと切に願うものです。

我々がWCCにいた時代は、創部から4年目で「クラブ内部の充実と、外部との交流発展の時代」と言えるでしょう。初代専任会長は、自転車部会長との兼任で、佐藤先生、2代目は、文学部の著名な心理学者清原先生、その後は上田先生に引き受けていただいています。

昨年まで使っていた黄色いユニフォームの作成、クラブ旗はありませんでしたが、WCCの名前を書いた3角形のペンダント作成、自転車メンテナンス用の機器やテントなどの機材の購入、また活動費確保のために会誌「峠」のための広告を取り付けたこと、ダンスパーテイを開催したことなど資金確保と内部の充実を図りました。
このほか部室の確保と助成金(年間10万円)の獲得の目的で、ESCA全10校の推薦状をもらい、神沢学生部長や大学当局に働きかけ、正式に「学生の会」への登録も果たしました。

対外的な交流は、東日本学生サイクリング連盟(ESCA)の第2代目幹事校(1代目はじゃんけんに負けて立教大学サイクリングクラブ)として、3年生の夏に、日光で第1回のESCA総会を主催するともに、西日本学生サイクリング連盟(WESCA)との連携も深め、徳島でのWESCA総会にもESCA代表として参加しました。
このほかにも2年生のときから始まった、早同交換会は、毎年早稲田祭と同日程で開催され、第1回は三浦半島、城ヶ島でしたが、2回目の開催地京都まで鈴村君、高田君、古川君たちと小夜の中山、蒲郡と2泊し、雨の中を泥だらけになって3日間走って参加しました。

集合地の京都駅に着いたときには本当にほっとしました。そのときの宿舎は名刹妙心寺で、朝の雑巾がけはしびれるほど水が冷たかったのを記憶しています。同志社の山田さん、松浦さんとはそのときに親しくなり、今でもお付き合いがあります。慶応大学CCとの交換会や女子大に声をかけての近郊へのオープンサイクリングも実施しました。

このほか、2年生の春休み(1965年)には、有志4人(3期の服部さん、山口さん、同期の高田君、栗原)で、台湾1周のツーリングをしました。鹿児島から琉球海運の船で、那覇、石垣島経由で基隆に入り、10日程で台北から左廻りに台湾を1周し、同じ船で鹿児島に帰ってきました。当時の写真は、火事で焼失し、1枚もないのが残念です。
(栗原)

Netshop開店記 – 板橋

Netshop開店記 第6期 板橋

現在勤めている会社の新事業としてネットショップを作ることになりました。誰が担当になるのか。板橋さんなら余裕があるだろうと社長からご指名があり、まったく知識の無い私が悪戦苦闘することになりました。売る商品は何にするか。これも社長の知り合いで、ペルーで現地の女性の自立を支援している女性からアルパカ製品を買うことにしました。アルパカというのは南米のアンデス山脈の高地で飼育されている首の長いやぎのような家畜です。

ショップはどの会社のサイトを選ぶか。楽天は基本料金は19,500円×12ヶ月で1括払い234,000円+月々50,950円と高い。アマゾンは小口出品の場合、月額登録料は無し。基本成約料が1点につき100円と安いが、ショップを作る際に色々規制があり、面倒。ヤフーはシステム利用料20,790円/月と売上げの4.5%とまあまあだったので、お店はヤフーに開くことにしました。

これを決めたのが3月。ヤフーから送られてきたマニュアルを見ながら、お店を構築する訳ですが、これが素人には至難の業。足元を見透かしたように、自社でできないようであれば、サポートしてくれる業者をご紹介しますよ!とヤフーから何度も勧誘の電話がありました。この料金は安くて7~8万円、普通で30万円。商品点数が多ければ50万円とかなりの投資になります。この種の専門業者に頼んでも親身にやってくれないことは、分かっていたので、ヤフー推薦の業者には頼みませんでした。

そうこうしているうちに8月にアルパカ毛糸製の帽子・アームウオーマー・レッグウォーマー・ショール・マフラー・スヌード(ループ状になったマフラー)ペルーから到着しました。
お店の構築ができていなくても、ヤフーの料金20,790円は毎月引落とされて行きます。止むを得ず、9月にショップの自社構築を諦め、知り合いのホームページ作成会社(W社)に頼むことにしました。料金は5万円×6ヶ月、ヤフーショップ作成とそれとは別に独自ショップも作る契約です。

W社のアドバイスで、独自に使っていた商品撮影用のカメラ・三脚・背景紙・トルソ(マネキン)等すべてがきれいな写真を撮るためには不適切ということが分かり、すべて新たに購入しました。
それまで撮っていた写真はすべて撮り直しです。新しいカメラで撮影を始めてからも、撮り方が悪くて、随分撮り直しをしました。あと商品説明(コメント)が大変です。一商品に付き200字、心をこめて、書かなければならず、200字書くのに2日はかかります。

商品発送までには、ネームの縫いつけ・ハングタグの作成・梱包する箱の準備とやることは沢山あります。秋も深まり、商品を売る時期なのに、おじさんの苦闘はまだまだ続きそうです。

WCC50周年記念 – 木村

WCC50周年記念 第7期 木村

1967年かの薄暗い地下通路の1角に足を踏み入れて以来もう45年が経つ。

この長き時の流れの中で心に定着した様々な残像を巻き戻してみれば、WCCを背に負いペダルを漕いでいた時の悲喜こもごもの残像が群をなして一気に蘇ってくる。

品田主将の莞爾、大垂水峠の洗礼、奈良の石舞台、加藤主将の御開陳、釧路の初夜、秋の軽井沢、楽日の会津若松事件等々そして私的には老野生さんとの九州旅行加藤・新間さんとの台湾旅行、篠原さんとの野宿小島さんとの競馬場、三輪さんとの天王寺、古高橋さんとの隠岐の海、堺さんとの定山渓、澤田屋の4人組、今は亡き仲田さんとの3番勝負云々噺のネタは尽きない…夫々が青春の一節々々である。

WCC50年の歴史の中でその黎明期に近い「峠世代」を経験し、幾多の峠道に残してきた羊腸たる一筋の轍を顧みる時、何故にあれ程まで熱中出来たのか、他人事のように思えることさえある。

急峻な坂道をよじる時の心身の極度の疲弊困憊が、峠に達した瞬時の開放感と、その後の爽快感に変換されて絶大なる代償が獲られる際の、一連の精神作用に起因するのは言うまでもない。これは「峠」症候群ともいえる病に他ならない。さはさりとて最大の理由は暗黙の裡にそれを共感しあえる、多くの仲間がいたことと了解している。どうやら病膏肓に入りすっかり居座ってしまっている。

凡そ20年前、WCCの4年間合宿等を通じて寝食を共にした諸兄諸氏にその病が顕現した。6・7・8期の3期の面々が参集し「3期会」なる会を結成した。ついでに会報を「PASS・AGE」と名付けた。由縁の説明は省略するが中央の点は車輪を記号化したものである。過去16年に亘り全国9地点で隔年開催され宴会・サイクリング・ゴルフ・登山を通じて毎回多くの仲間が参加し旧交を温めた。大半が還暦を迎えるに至り2010.9.18日懐かしの青森蔦温泉にて賑々しくも有終の美を飾った経緯がある。かけがえのない新たな残像を刻み込んだことも確かだ。

自転車には殆ど乗ってない。数年前に板橋さんの誘いで山登りの楽しみを覚え、北岳・富士山と日本の天辺を極めた後、専ら山野を散策する愉しみに鉾先を変え、大自然の中で健気な生物達との出逢いに勤しんでいる。
昨年の秋瀧野さんの呼び掛けで、所沢キャンパス近辺を数人でポタリングを楽しむ機会があった。その際に脚力の衰えに愕然とし、次回に備えて自主トレを始めたはいが、街道を走行中に転倒し44年前に味わった衝撃を左肩に受け鎖骨を見事骨折した。もうこりごりと落ち込む暇なく人生ラストランの終着点を定めた。またぞろ病が再発しだしたようである。

齢65歳を迎え、人生の最終コーナーに差し掛かっている。最初にサドルに跨った日があれば最後に降りる日が必ず来る。WCCの一員として大地を疾走していたことを誇りとし、PASSAGEの真ん中にもう1つ点が加わり「PASS・・AGE」と二輪が完成するのを密かに心待ちにしている。

WCC50周年「峠」原稿 – 中山

WCC50周年「峠」原稿 第8期中山

「峠」の原稿依頼を受け、40年以上前の「峠」の編集作業を思い出しました。

原稿がなかなか集まらなかったこと、ページ割に苦労したこと、従来と違った表紙にしてみようと、木村(治)先輩にデザインを依頼し、印刷屋(といってもタイプ屋)に持ち込んだところ、おやじさんに「これは無理だよ」と言われ、なんとか頼みこんで作ってもらったこと等々を懐かしく思い出しました。
「斬捨御免」というクラブ員の紹介欄の文章を、印刷屋の面々が「笑いながら読ませてもらったよ」という言葉をもらったこともありました。

卒業時に11名いた同期も4名が他界しましたが、未だに残りのメンバーで2年に1度、先輩6期・7期と一緒に会合を重ねてきており、また後輩達ともゴルフをしたりと、親交が続いています。大学時代の仲間は、会えば、一気に昔に戻る不思議な雰囲気をもっています。社会へ出てからの出会いとは違ったものがあります。
先日、大阪でゴルフをやりましたが、その時同志社の先輩ともご一緒しました。早同交換会も繋がっていることを再確認しました。

「早稲田大学サイクリングクラブ」が創立50周年を迎えたというこの伝統は、先輩から同期そして後輩へと人と人との繋がりの賜物です。これからも未来に向かって繋がり続けていって欲しいと心から願っています。

私の家の玄関には、いまだにマウンテンバイクが飾ってあり、時々ポタリングをしています。郷愁を含めて、時間に余裕がでた年代になって、快適な時間を過ごすことができるのも、大学時代にサイクリングをやっていたからこそと思っています。現役時代の4年間のクラブ活動はいろんな意味で大きな財産となっています。

近年、自転車に乗る人が増えてきており、マナーの問題がクローズアップされていますが、大学のサイクリングクラブの存在が、マナー改善の一役を担う時代がやってくるはずです。50周年を機に、「早稲田大学サイクリングクラブ」も自分達が楽しむクラブから、社会貢献を視野にいれたクラブ運営目指すようを期待します。

13期の状況 – 吉田

13期の状況 第13期 吉田

【我々の代で初めてやったこと】
「フロントバッグ」を創刊し、何号か出版したことです。当時(1970年代半ば)は、パソコンも携帯電話も、ましてやスマホも存在せず、今思い出してもおぞましくなるようなガリ版刷りの小冊子でした。表紙のデザインも、メンバーの自前のイラストを入れて作りました。

自分たちの拙劣な文字を、暗い部室で1文字1文字書き込んだことを覚えています。毎年発行の内容とスタイルの定まった「峠」のようなモニュメント的な刊行物ではなく、かたちにこだわらず、自由に自分たちの思いを綴れるような、今流に言えば、“ブログ”的にメンバーがその時々の思いを自由に書き込める媒体として発行したと記憶しています。あまり原稿の集まりはよくありませんでしたが(笑)、我々の卒業後もこの媒体がしばらく継続して発行されたようなので,そのことはうれしく思っています。

【斉藤君のこと】
卒業してしばらくはお互いの結婚式で会ったりしていましたが、同期会は2000年8月26日に池尻大橋にある25期の寺原さんのお店「京串きなりや」で8名参加で開催したのが最後で、その後はほとんど年賀状だけの付き合いとなってしまいました。その時も参加していた斉藤が2007年11月5日に53歳の若さで逝去されました。2007年11月、届いた喪中葉書に驚き、たまらず奥様に電話して闘病生活の様子をお伺いしました。

最後まで「出勤したい」「パソコンにメールが来ているから見てくれ」と最後まで奥様に命令していたそうで、真面目な斉藤らしい一面をお伺いできました。

葬儀には勤務先であるJFEスチール株式会社の社長をはじめ、400名もの方々が参列されたそうで、勤務先でも彼らしく真面目で実直で粘り強い性格が人々の信頼を得ていたことを思い知らされました。
そのようなお話をお伺いすると現役時代も弱音を吐かず、重たいギアを踏んで坂道を登っていく姿が思い出された。

年が明けた3月8日にみんなで小金井市の斉藤家を訪問しました。奥様とお会いしてお話をお伺いして
お線香を上げることがようやく出来ました。

我々ももうすぐ還暦を迎えようとしています。最近、中山は写真撮影、渡邊はテニス、石澤は昔自転車で登った峠をバイクでツーリング、杉本はゴルフと海外旅行、私はマラソンと自転車にはあまり乗らなくなってしまいました。

一方、堀と酒井はいまだに元気に自転車に乗っています。堀は9kg台のマウンテンバイクで週1回は担いで山へ、週に1回は、近郊ポタリング、酒井は愛車ビアンキで武蔵野台地を駆け巡っています。何はともあれ、健康には今まで以上に気をつけて、しかし元気に行きたいと思っております。

【最後に】
4年間在籍していたのは次の10名
石澤(邦)・斉藤(義)・酒井(修)・杉本(輝)・戸田(進)・中山(進)・堀寛・正木(俊)・渡邊(修)・吉田(彰)

OBとは何ぞや – 吉川

OBとは何ぞや 第15期 吉川

数年に1度くらいOB総会で同じ釜の飯を喰らった前後数代の仲間達と顔を合わせ、久し振りに学生気分に戻る。そして早稲田・高田馬場界隈でわいのわいのと騒いでみる。でもこれはあくまでも同窓会気分だ。特別にOBという意識を掘り起こしてはくれない。年に何度か送られてくる「OB通信」を眺めながらも、段々に薄らいでいく学生時代の思い出。OBの皆様へと言われてももう1つピンと来ない現実。

正直に言うとOBとしての自分の認識はこの程度。この程度だった。ところが今から4年ほど前、2008年の10月の、とある日曜日に事件は起こった。

以下、私が2005年秋からほぼ毎日更新し続けているブログ「ハリ天狗の日々奮戦」の記事(2008/10/5)からの転載だ。この日のタイトルは「OB興奮」。

本日、応援部隊、下見ウォーキングのために五日市から上川乗へ(浅間峠)向かう途中の出来事。隊列を組んだ自転車軍団。背中の文字がチラッと目に入る。ん?大学時代所属していたサイクリングクラブの後輩達か?車を止めやすい場所を見つけて、待つこと数分。

手を振って先頭のリーダーに確認。間違いなくハリ天(私)がさんざん味わい尽くした(何故か5年間も)
クラブの後輩達でした。もちろん面識はありません。

突然自転車を止めたハリ天(私)が、オレは第15期の主将(うおっ)だぁと自己紹介。出会った彼らは第45期の4年生で~すと。我が子同然の年の差じゃないですか。

その昔、北海道合宿中、汚れたユニフォームでタラタラこいると、1台の車が止まり、「私は、君たちの先輩だ。そのユニフォームを見て懐かしくな声をかけさせてもらったよ」と。名も知らぬ大先輩は、その後キャンプ場にも尋ねてきてくれてジンギスカンの食材1式をドーンと差し入れて下さいました。格好いいなぁ。あれにあこがれていたんです。しかし、そんな機会がないままに30年!

予想もしない時に突然訪れたその機会。う~ん、しかし、何にも持っていない。そうだ少し前に自販機があった。

1本150円也のドリンク5本の冴えない差し入れ。それでも、初々しい彼らは10分に喜んでくれ(たぶん)、先輩の頃にはなかったかもしれませんが、最近の習わしですので「ビバ」をやらせていただきます!

そう言って、ハリ天(私)の前に並ぶと「先輩にジュースをいただきましたぁ。ビバ、ビバ、ビバ〜。ありがとうございましたぁ!」一瞬、学生時代のバカ騒ぎのまっただ中に引き込まれたかのような時間でした。

と、この時こそが、昔の現役時代にあこがれたOBの姿とやらをささやかに実現させてもらえた記念すべき時だったのだ。普段当然のように現役部員の方々とは縁遠くても、こんな突然の出会いがあれば一瞬で時の流れが埋まってしまう。
これは本当だ。自分の子ども程の現役WCC部員を目にして心躍らせたのと同様に、突然見知らぬおっさんからお前達のクラブのOBだと名乗られたことを喜んでくれた彼ら。こんな所でちゃんと現役部員とOBとの繋がりは生きているのだ。
我がWCCが50年も続いているという「何か」は確かに存在していた。

WCC創部50周年記念 – 神塚

WCC創部50周年記念 第16期 神塚

早稲田大学サイクリングクラブ創部50周年、誠におめでとうごさいます。第16期を代表してお祝い申し上げます。また、50周年記念事業実行委員会メンバー各位の、準備段階から開催に至るまでのご尽力に対し深甚なる感謝の意を表します。

WCC第16期21名が早稲田大学に入学したのは昭和51年、校内では学生運動の残滓達が時折叫ぶシュプレヒコールが耳に入るくらいで、キャンパスはいたって平穏、まだまだ女子学生の姿は少なく、下駄を鳴らして闊歩する学生も多かった。

世の中はロッキード事件でかまびすしく、巷では太田裕美の“木綿のハンカチーフ”やイルカの“なごり雪”などどちらかというとセンチメンタルな曲が流行っていました。そういえば神田川沿いの高田御殿でも岩崎裕美の曲が流れていましたね。

『北海道』、『サイクリング』、『キャンプ』と聞けば、受験勉強から開放された若者にとってこれ以上旅心をくすぐるキーワードは見当たらないでしょう。勝手にその気になった私も悪いのですが、新入生勧誘の甘い言葉にすっかりだまされて(あくまで個人の感想です)WCCに入部はしたものの、2日酔いとの付き合いはこのときから始まったと断言できる『新歓コンパ』(翌日の体育の履修登録に出られなかったのは確か芥川)。ガラスの膝を露呈してしまった『新歓ラン』(WCC史上最弱のサイクリストが誕生した瞬間でした)。

絶対タバコを止めようと誓った『プレ合宿』(もはや記憶に無いくらいきつかったんだと思う)。きっと本番の『北海道合宿』までもたないだろうと思っていましたが、いつしか仲間と過ごす大学生活が心地よくなり、夏合宿を境に更に皆との親交も深まって気がつけばWCC中心の学生生活になっていたのは私だけではなかったと思います。

『ラン』の思い出と言えば3年時の中国合宿です。主管学年ということもあって毎日のように高田御殿に集まっては侃侃諤諤の議論をしていたことを覚えています。

広島駅前で『都の西北』、『紺碧の空』を歌ったときの開放感と、それに勝る達成感に皆で歓喜した記憶は決して忘れることが出来ません。翌朝は実家のある北九州に向けての単独ランでしたが夜遅くの到着となりました。母が通りまで出てきてずっと私を待っていてくれたのが、とても面映い気持ちでした。当時を思うと切ない気持ちになってしまいますが、本当に懐かしい思い出です。

青春を謳歌したあの時代から30年が過ぎ去ったけれど、甘えん坊で自分勝手で大酒のみで、長女が生まれた時などはすぐに見に来いと言っていた子煩悩の黒田は逝ってしまったけれど、文字通り同じ釜の飯を喰った仲間との記憶はきっとこれからも残っていくのだろうと思います。

WCCの輝かしい50年の一幕に登場していたんだという誇りと、素晴らしい仲間との出会いを与えてくれた我が愛する「早稲田大学サイクリングクラブ」に感謝するとともに、WCCの礎を築いていただいた諸先輩方のますますのご健勝と、WCCのこれからを担っていく現役諸君の一層の活躍を祈念して、50周年記念『峠』への寄稿文とさせていただきます。

平成24年10月吉日

サイクリングの30年 – 藤原

サイクリングの30年 第18期 藤原

1980年に乗鞍岳に行った時、キャンプ場から上は地道だった。ランドナー車重は13kg。それから30年。昨年「乗鞍マウンテンサイクリング」で自己新記録を更新した。昔の方が体力はあるに決まっているから、タイム短縮は主に機材の進歩による。カーボンロードの車重は6.5kg。機材の進歩は著しい。最新機材を紹介するので、再び自転車にまたがろうと思っている方は参考にしてください。

1)カーボンフレーム:お勧め度80%
カーボン整形はシート状素材をエポキシ接着剤で固めたもの。工場で大量生産するしかなく「体に合わせて寸法を取る」方法はない。(世界で唯一BSアンカーにのみ寸法オーダー制度がある。)
最大の利点は重量が軽いこと。欠点は値段が高いこと。しかしこれはイイです。予算は20~50万円程度。米国TREK社は毎年新しい設計をしてくるので目を引く。

2)ドライブトレーンと変速システム
電動変速システム:お勧め度20%

ブレーキ変速レバーが一体となったSTI(Shimano Total Integration)レバーが開発された。Wレバーに手を伸ばすことなく一瞬で変速。これはいいと思う。

伊)カンパニョロ社、米)SRAM社にも、手元変速システムがあるが、動作の確実さの点でシマノに及ばない。多段化は止まることを知らず。9、10速を経て11速システム(DURA-ACE9000)がこの秋にリリースされる。しかしワイヤーの張力調整はシビア。

「電動変速システム」の話。サーボモータ(フロント、リア)によって、シフトを電動で行う方式も導入された。アマチュアでも使う人は少なくない。これはラクです。ただし、ボタンが余りにも小さいので初めはシフトダウンとアップを間違えると思う。
充電は3,000kmに1度程度、季節の変わり目毎に実施。私がこれを嫌う理由は、故障した時にどうしようもなくなること。ただシフトは圧倒的に素早く終了することを追記します。

予算は8万(ULTEGRA)か15万(DURA-ACE)。電動ならそれぞれ17万か19万円です。これでパーツはほとんど決まり。

(2024追記: 結局Di2は3セットを購入することに。出先で調整する場合は、スマホで検索してやり方を
調べます。次回購入するならシマノ105 Di2 12速だな、、)

3)ホイール
完組全盛時代:お勧め度90%(クリンチャーのみ)

昔はハブ、スポーク、リムをそれぞれ買ってきて組むのが当たり前。現在はホイールとして完成した物を買ってくるのが当たり前。利点はスポーク本数を減らすこと。フロント16本、リア24本など。スポークが少ないと空気抵抗も少ない。予算は3~10万円。

内圧でタイヤを密着させるクリンチャータイプがお勧めです。タイヤはミシュラン(仏)かコンチネンタル(独)がいいですよ。ちなみにチューブレスタイプはお勧めしません。出先でパンク修理するのがとても困難です。

(2024追記: 手組ホイールも10セット弱、作りました。ダイナモハブを選ぶと自作するしか方法がない。
これはこれで、楽しいものです。)

4)サイクルコンピュータとパワー計
GARMIN EDGE500/800:お勧め度90%

現在はGPS(地図、緯度経度高度と気温)、心拍計、ケイデンス(クランク回転数)、速度(ホイール回転数)、パワー計(ハブ又はクランクのひずみ)を備えるのは常識です。各センサーから情報は無線で伝えられ、サイクルコンピュータに記録されます。帰宅してからデータを取り出し、弱い理由は脚力なのか
心肺なのかを分析し、次の練習につなげます。

昔は精神力で「ギンギンに」ペダルを踏んだもの。今は体重あたりのFTPワットが4w/kgになれば強い方で、そうなるために科学的な練習をやるかやらないか。サイクリングの世界も日進月歩です。

そんな構成でロードレーサを作ると50万円位かかってしまいます。これが安いか高いかはその後の乗り方次第。景色のいい所へ行って、旨いものを食べ、自分の健康を改善できる。余計なガソリンを燃やすわけでもないし、プレーごとにお金がかかる訳でもない。(タイヤは減りますけど)これだけは昔と変わらぬサイクリングの価値です。

さて今週は何処に行こうかな?

(2024追記: Edge520を2回買いなおしたのち、Edg540にしようか悩み中。というのも円安になってしまい、値段が上がりまくりだから、、)

平凡な日常を輝かしめる大いなる非日常 – 高場

平凡な日常を輝かしめる大いなる非日常 第21期 高場

1981年4月末だから、もうかれこれ31年半も前になるのか・・・。入部間もなく新歓ランで初めて体験したフリーランは、道志村から山中湖に抜ける『山伏峠』だった。標高差300m程度、しかも舗装路だったから、その後の数々の体験に比較すればまさに“初級編”だ。

1年生だから最初にスタートする。イキのいい同期はいきなりダッシュ。私はペースも何も分からず、慎重にペダルを踏み始めた。ほどなく2年生の先頭組にボンボン抜かれて行く。しかもテントとかナベとかキャリアに積んでるんだよね。浜田さんなんか弾丸みたいだった。何だ、あの筋肉モリモリの脚は。

なんて見ているうちに、もう3年生が来る。1番最後に出たんだよね、何でもう来るの?口々に「頑張れよー」なんて言いながら余裕で登っていく。頑張ってないわけじゃないんだが、すでに私は体がグニャグニャしている。4年生の藤原さん、「高場!青春だ!」って、今そんなこと言われてもさ・・・。

ぜんぜん進まない。ギアはすでにロー×ロー、これ以上は軽くならない。『神金自転車』製のクラブモデルは、まるで鉛の塊のようだ。息は上がるし雨は降るし、寒いのか暑いのかよくわからない。足がつる。まずは右のふくらはぎ。そのうち右の太もも。そうなると曲げても伸ばしてもつったまま。もうどうにでもしてくれ。

そのうち真っすぐ登れなくなり、ついに蛇行し始める。後ろから先輩が「蛇行すんなよー、車来るから危ないぞー」したくはないんだけどね、本能は正直なんですよ。蛇行するとますます進まない。しかもそこから抜け出せない。いよいよ「8の字」に走ってるんじやないかって思うくらい、進まない・・・。

どのくらいの時間がかかったんだろう。ようやく頂上が見えかけてきたところで、聞き覚えのある甲高い声が上から降ってくる。「オラー、お前らー、もう少しだぞー」主将の樋口さんが反対車線を下ってくるのだ。いちど頂上まで行って、後進組を励ましにわざわざ降りてきたみたいだ。なんか主将ってカッコいいな・・・。

落ち葉のようにハラハラと倒れそうになりながら、トンネルを抜けてようやく到着。私は確かビリだった。見渡すと、とうに到着した面々が余裕の表情で迎えてくれる。「おつかれ!」「ごくろうさん!」あー疲れたさ。苦労したさ。もう登りたくないよ。

何度ランに出ても、キツイものはキツイ。雨も降る。雪も降る。風も吹く。夏は灼熱、冬は極寒。体は濡れる、時には寝袋まで濡れる。カッパはベチョベチョ。筋肉は悲鳴を上げる。疲れが抜けない。腹が減る。飴とか持ってないとハンガーノックになる(実際なったこともある)。寝床はがちがち。テントは暑い。イビキもうるさい。食事はメシとオカズだけ(量はあるけど)。こんな自転車生活、何が楽しいんだろう?なぜハマってしまうんだろう?なぜ笑っていられるんだろう?なぜ続けてきたんだろう・・・?

1年の終わり間際の2月~3月に、同期の鈴木と2人で春合宿の前哨戦として四国霊場88箇所を巡った。1ヶ月くらいかかったかな。それはそれはキツかった。その後春合宿に合流し、3月中旬に帰宅。40日くらいの長旅だった。その後新年度までしばらくの間、普通の生活に戻る。授業もなくヒマだし、さしてやることもない。その時に覚えた感覚を、今でも忘れない。

小田急線に乗った時のことだった。「あれ、電車って速いな・・・」。普通であることが貴重に思えた瞬間だった。普通のメシ、普通の布団、普通の街、普通の喫茶店、普通の会話、普通の笑い声…。ありふれた平凡な日常は、こんなにも輝いている。キツイ坂道を登り続け、向かい風に煽られ、スギ花粉に悩み、空腹と闘い、来る日も来る日も自転車に乗っていると、それが生活そのものというか、非日常が日常化してよく分からなくなってくる。
落ちるところまで落ちたからだろう。もうそうなるとあとは上がるだけだ。上がって戻った日常は、特段何があるというわけでもなく、なぜかとても輝いている。思春期の青年はそんなことに感動したのだった。

WCCの4年間(実質的には3年間)をどのように人生の引き出しにしまっているかは、人によって異なるのだろう。私にとっては「平凡な日常を輝かしめる大いなる非日常」として、くっきりと大切に刻まれている。

創設50周年のWCCに想う『心の在りよう』- 蒲本

創設50周年のWCCに想う『心の在りよう』第22期 蒲本

おもしろきこともなき世に(を) おもしろく
すみなすものは 心なりけり

吉田松陰の志を受け継ぎ、明治維新の原動力とった幕末の志士、高杉晋作の辞世の句として有名な1句です。晋作の臨床で、愛人だった野村望東尼が下の句を詠んだとされることをご存知の方も多いと思います。最近、時折この句を思い出すことがあります。

自信をなくして戸惑っている日本。この崖っぷちといわれる状況で、様々なこと、将来を見通せない状況が毎日のように私たちの身の周りで起こっています。こんな時、どんな状況でも前向きに捉えて事実を見据え、幸せにおもしろく生きるのはあなた自身の問題、「心の在りよう」であることを教えてくれます。人と人との繋がりを大切にし、四季を通じて自然と共生しながら、古き良き伝統や文化を継承してきた私たち日本人。

世界各国からの文明・文化を自然体で受け入れ学びながら独自の文化を育み、歩んできた日本人の良き特徴が、次の世代に継承されていないのではないかと、心の中から警鐘が聞こえてくるのです。

『峠』第15号(1983年)の文中から
「WCCも来年で20才になる。まがりなりにもここまで続いてきたのだから、WCCはそれなりの有形無形の伝統がある。伝統を自分の中に取り込み、アレンジし、或いは昇華する事が必要である。(~中略)クラブに入ってくる人間は多種多様である。サイクリングに関しても、経験ゼロのやつから、しっかりしたサイクリング観を持つものまで様々である。そのサイクリングという、人間にとってご一部の共通事項を通じてクラブ員は知り合っていく。」第18代主将ノート(古閑氏)の言葉です。

早稲田大学サイクリングクラブ(WCC)が創設50年を迎えて今年、22期の私は卒業27年目を迎えています。WCCの匠史的には中間層に位置します。先輩諸氏と比べれば未熟ですが、もうすぐ50歳を迎え、企業活動の一端を担うようになって、学生現役時代にこのクラブから学んだことの大きさに驚き、心から感謝しています。その1つは、まさにこの「心の在りよう」であったと思います。

様々な価値観を先ずは一旦、自然体で受け入れ、互いに学びながこ新しい価値観を育て歩んできました。そして、今もそれが伝統として確実に継承されていることを感じます。

<1982年春新歓ラン><1984年夏北海道ESCAラリーを主催>

同『峠』第15号、第19代主将ノートの中で樋口氏は、こう伝えています。
「肉体と肉体のぶつかり合い。精神と精神がぶつかり合い。気迫と気迫がぶつかり合い。そこから精神の融合がなされ、全体としてWCCの意思が生まれ、方向性が定まる。そのためには、各自が本音でぶつかり合うことだ。そうすることが結局相手に対する思いやりであるのではないだろうか。」
そして、その際に極力相手に対して誠意を持って臨むことが大切であると。

今、改めて考えると、社会に出る前の学生としては絶好の「心の在りよう」の修行期間だったと思います。只、単なる精神主義ではなく、日々学生生活を共にする友と語り合い、相手を思いやり、行動を共にした共通体験の中で、理論と実践が融合することができたことが大きいのではないでしょうか。

<1983年夏中部合宿>

仕事の関係で海外現地に赴くこと機会が多いのですが、どんな状況でも前向きに捉えて、幸せにおもしろく生きようとする東南アジアの若者たちに強い力を感じます。

特に家族・家系に対する責任と自分の将来に対して努力惜しまない姿勢、好奇心を行動に移すスピード感です。時にそれが、法から少し外れていたり攻撃的であったりしますが、仕事中、2~3時間に及ぶ会議でも熱心にメモを取り続ける姿勢があります。
「貪欲」とか、「積極性」とか一言では語れない、将来を信じて歩む覚悟と信念といった「心の在りよう」を感じるのです。

ここに経済誌の表紙写真があります。

<2011年2月にインド・ムンバイの空港にて>

The Economist
Leaderless Japan

帰国しようとしてムンバイの空港待合室に居た私の目に、この雑誌の表紙が飛び込んできました。経済誌の揶揄に対する怒りを覚えながらも、政治だけではなく、経済においても私たち自身に対しても、この写真に表現されるように海外からみられているようで愕然としました。

一方で日本の若者たちの特徴として伝えられる表現に、草食系(男子)、肉食系(女子)とか、三無主義(無気力、無関心、無責任)、ナルシスト、自己中心主義、指示待ち等々があります。

このように今の時代を嘆き、若者たちを一言で比喩、批判することは簡単です。但し、バリバリ兎に角頑張れば、結果が出て認められてきた時代と違って、今は日本社会全体が不透明でいき詰まり感があるように思います。

何が正解なのかを自ら模索し、判りやすく伝える能力が若いうちから求められるようになったのも事実です。また、情報技術の急速な発展のお陰で、情報の入手方法も、人と人とのコミュニケーションのとり方も変わりました。便利になった分忙しく、心が掻き立てられる時があります。これらの社会変化に対応した結果として、昨今の特徴があるのだと思います。

この変化に順応、進化する方法として昔に戻ることが最善の策とは思えません。しかし今一度、私たちは日本固有の国柄を再確認し未来に対して責任をもち、長い歴史と伝統を継承発展させる時にきていると思います。その上で美しい国土や文化的遺産を守り、人徳を本分として権利と義務、自由と責任、公と私、全と個の調和を保つこと。進取の精神と活力に満ち、物質と精神双方とも豊かで、個人個人が独自の幸福感を有して家族と共有することが本当に大切だと思うのです。

故に、思いっきりアナログで肉体と精神と気迫でぶつかり合う、このWCCのクラブ活動は、人間としての基本的な軸を揺るぎないものとして成長させる手段の1つであると感じています。

実際、物質的に豊かになるにつれて、青少年の非行や犯罪の増加など教育面での困難な状況が生じるという現象は多くの国に共通しています。また、経済面での国際競争の激化、情報革命の進展、知識社会の到来といった大きな変化の中で、精神的な教育が国民の未来や国の行く末を左右する重要課題と認識されるようにもなってきています。物質文明の進化に人間の精神が追いついていない状況にあると思います。ここでも問われるのが「心の在りよう」です。

「峠の詩」
おいらは早稲田の自転車乗り
朝もはよからペダルこいで

何がいいのか峠越える
疲れる遊びと人は言うが

釜炊き飯炊きススかぶり
汗かき風呂なし酒もなし

疲れた時にはあの娘思い
峠の1つも越えちまう

天下に名高いあの峠
俺しか知らないこの峠

頭は軽いが重いギア
忘れちゃならない峠道

改めてこの「峠の詩」に心を癒されながら、WCCに感謝の思いでいっぱいになります。

最近は年に1度、同期が連絡を取り合い、長野の山麓コテージに集い、自炊しながら杯を傾けて一晩中語り合う機会を得ています。懐かしさを共有する時間のその先に自分の畑を再確認し、根の張り方を語り合い、今の自分の「心の在りよう」を問いかける大切な場となっています。

<2011年3月長野県大町市コテージ美麻にて>

最後になりましたが、今年創設50周年を迎えるにあたり、記念号の『峠』に執筆する機会をいただき、心から感謝申し上げます。

WCCの伝統が柔らかく時代を受け入れて、益々成長していくことを心から願っています。皆様の益々のご発展とご多幸、ならびにご健康を心からお祈り申し上げます。

(2012年10月秋の夕暮れ)

走りへの追求―新百合ヶ丘発、品川着・自転車通勤号出発! – 石川

走りへの追求―新百合ヶ丘発、品川着・自転車通勤号出発! 第23期 石川

大学を卒業して10年余りが経った1998年の師走になろうという日だった。午後8時前に、当時、品川駅の港南口にあった勤め先の新聞社を後に、新百合ヶ丘にある家族寮へといつものように向かった。山手線で新宿に行き、そこで小田急の急行に乗り換える。
JRも私鉄もいつもより客が多く、座れないし、新聞も読めない。何より、私を取り巻く黒系統の背広にネクタイを締め、しかめっ面の面々は、ミヒャエル・エンデの『モモ』に出てくる、「時間泥棒」の灰色の男たちを連想させた。

1時間半後に寮に着くと、ぐったりと鈍い疲れにまとわりつかれた。それを取り除くように、夕食のビールをあおっていると、ふと「電車で会社行くのやーめーた」との声が耳に入った。独り言である。電車に乗りたくないよとの本音が出たのだが、なぜか、ファイティングスピリットのようなものが、ふつふつと湧いてくる。

歩くのはどう考えても無理。ならば電車に代わる乗り物は―自動車は駐車料金が高い。品川だと月3万円は下るまい―そんなことを考えているうちに、自転車通勤をすることに至ったのである。
1年前に、社内の山岳雑誌専門誌に異動となり、月に2、3回は山に入っていたが、同行する山の強者たちに対抗するには、もう少し体力を蓄える必要にも駆られていた。自転車通勤は、電車通勤のストレスを開放するばかりか、体力増進にも貢献する、まさに一石二鳥のアイデアであった。

ビール片手に、地図を改めて見る。自転車のコース企画は、学生時代から慣れている。新百合ヶ丘から登戸まで標高差約100mを下り、そこからは多摩川堤防沿いのサイクリングロードや自動車道で東京湾に向けて下る。問題は、どこから品川に向かうかであった。
都心部を抜けるとなると、車の渋滞や交通事故の可能性は格段に高まる。あれこれ検討してみたが、自転車で多摩川よりも東京側に入るのは、電車通勤よりもストレスになる可能性が予想された。そのため、品川に行きやすい駅まで自転車で行って、そこから乗り換えるのが賢明という結論に至った。その駅は、横須賀線の新川崎駅とした。駅に電話すると、一日100円の駐輪場もあるという。

ベランダで野ざらしになっていた茶色のランドナーを雑巾で拭き、オイルをチェーンやワイヤーに垂らす。キュルキュルとした音がシヤーという音に変わっていく。ランドナーは復活した。帰りは夜となるため、登山用のヘッドライトや反射シールをデイパックに貼り付け、一応の準備を整え、寝床に入った。少し酒の残ったまま、寮を出る。

ジャージ姿で雨具を羽織った通勤スタイルを、寮前で井戸端会議をしていた主婦らがじっと見ている。安全のため、白いヘルメットまでかぶっている。登戸までは小田急線沿いの世田谷町田線を走る。多摩川の多摩水道橋を渡って、狛江市に入り、そこからはひたすら多摩川の堤防を走った。

東名高速道路や2子多摩川の駅を過ぎ、第3京浜を潜り、田園調布近くの丸子橋に着く。中学生の頃、近くの河川敷で巨人軍と日本ハムの練習を見たなあなどと感慨にふけりながらガス橋まで下り、そこから再び川崎側に戻り、新川崎駅になんとか着く。

いやあ、遠かった。自転車の距離計を見ると、な、なんと30キ口を越えている。時間も1時間半もかかっていた。シャツは汗でびっしょり。自転車を預け、トイレで新しいシャツに着替えて、電車に飛び乗った。15分ほどで品川駅に着いたが、デイパックに自転車の空気入れとヘルメットをつり下げたジャージ姿の異様な格好で会社に向かうのもまた、とても恥ずかしかった。

会社の入り口で警備員に呼び止められ、所属を問いただされた。仕事場に着くと、汗だらけの山とは違うスタイルに、ラフな格好に慣れているはずの同僚たちも唖然とし、遅刻したことなどは不問とされた。トイレで、顔を洗い、濡れたシャツは窓際に掛けて干した。

帰りは、その逆であったが、行きはがらがらだった横須賀線も、帰りはラッシュアワーで、私の格好は灰色族の冷たい視線にさらされ続けた。しかし、新川崎駅を出て、外の冷たい空気を吸うと、不思議な開放感に包まれた。

「俺は自転車野郎だ」。
そう心につぶやくと、今度は高揚感に包まれた。家まで無事にたどり着いてやるぜ。ヘッドライトを頭に付け、ペダルを多摩川の闇に向けてこぎ出した。

往復約60キロ。毎回が小サイクリングのようなものであった。当時、30代半ば、一番の体力的な効用は、山での持久力ばかりか、足の回転力も上がり短距離が速くなったことが嬉しかった。しかし、電車通勤とは違う悩みが生まれた。「自転車通勤」の前夜は、緊張のあまり寝付けなかったし、通勤後の晩酌は大量の汗をかいているため、酒量が大幅に増えた。違うストレスがあったのである。

自転車通勤先進地の米国・シアトルに取材に行ったりして、週に2、3回の割合で続けたが、結局、約1年で小旅行の日々は終わった。やはり、自転車通勤は片道10キロ前後にしておいた方がいいと納得する自分がいた。

今やれと言われても、金出されてもやらないというより、できません。最近のように、自転車通勤がブームとなる、一昔前の馬鹿話として、酒の席で披露している。

旅について? – 須貝

旅について? 第24期 須貝

峠への寄稿を依頼されて、少し悩みました。峠=自転車での旅という私の勝手な思い込みがあるので、果たして今の私にその資格?があるのかということです。しかも自転車での旅となると最後にやったのは20代の頃です。

当時企業が社員を思いやる振りをして、長期休暇を制度として設け始めた頃、私の会社でも年度中に1週間休暇を取る制度が出来ました。そこで大学在学中に行った事がなかった四国(これも恥ずかしいのですが)へ自転車で1週間のツーリングを敢行した訳です。
当時は宿の予約は負けだという変なこだわりがあったので、毎日夕方に近くの宿を探しながらのツーリングは秋の好天にも恵まれ素晴らしいものでした。

その後、割とコンスタントに自転車には乗っていましたが、それは旅ではありません。じゃあ何?当時私は市民ランナーからエスカレートしてトライアスロンやヒルクライムといった大会に年間5~6回は出ていまして、それは昨年レース中の自爆事故で背骨を折る(正確には第10胸椎破裂骨折)という重傷を負うまで続きました。その間大会では乗鞍や美ヶ原に何度も登り、練習でもホームコースの秩父・奥武蔵はともかく富士山・赤城山や沼津在住の頃の伊豆西海岸・マイナーな伊豆の峠等自転車にはコンスタントに乗っておりました。しかしそれは旅では無く、あくまでも大会とそのトレーニングであって、時には峠の頂上の感慨に浸る事も無くそのまま通過(まあ、そんなには無かったけど)なんて事もありました。という事で今の私は旅をしているとはとても言えません。

そういった活動の中で「旅」を感じたのは初めてウルトラマラソンに出場した時でした。42.195kmのフルマラソンより更に長い距離のマラソンがウルトラマラソンですが、富士5湖の80kmの部に出場した時です。

長時間走っていると周りも自分と同じペースで走る人ばかりなので、何か見た事あるような人ばかりになってきて、言葉を交わす事はほとんど無いのですが、まるで出場者全員で長く苦しい旅を乗り越えていく、そんな気分になりました。

もう卒業して20年以上経っているにも関わらず、夏の暑い盛りに坂道を見るとWCCの夏合宿をすぐに
思い出します。たった大学4年間の事なのに何か私の帰るべき所・原点は峠越えのサイクリングなのかな?という意識が根底にあるようです。それはやはりWCCの現役だった頃の時間がとてつもなく素晴らしい時間だったという事でしょう。しかし、いつまでも過去にとらわれてはいけません。

幸い、今はランニングを再開していますし、今後トライアスロン等やる事に関してドクターストップはかかっていませんので、当面の目標は何年かかろうとトライアスロンに再度出場するという事です。そう言えば、事故でロードバイクを大破させてしまい、今は自転車を持っていませんでした。そろそろ安いクロスバイクでも購入しようかと思っております。
そしてタウンサイクリングでもよいから、練習と思わずにのんびり走って一日だけでも旅に近い気分で走ってみたいし、またツーリングにも出たいと思う今日この頃です。

旅 – 三田村

旅 第24期 三田村

学生時代は施しを受ける時代だった。九州では、おばあさんからゆでた小芋と酢味噌をもらった。たまたま一緒にいた名前も知らない旅人と指をぬるぬるさせながら皮をむき、むさぼった。

北海道では、小さな駅に張ったテントが大変な嵐でひしゃげ、逃げ場もなしにびしょ濡れになっていると、駅前のご夫婦が哀れに思って1晩泊めてくださった。

枚挙にいとまがない。当時もありがたいとは思ったが、年を経るに従って、ひとしおのありがたさを感じる。俺には、あんなことができたろうか。馬面のババッチそうな男に食べ物を差し出したり、泊めたりすることが。

会社に入ってしばらくは浜松に住んでいたので、西から東から自転車や徒歩のいかにも旅をしている人がよく通った。「どこまで行くんですか」と声をかけて、その日の宿がないという人は会社の寮に泊めて、仕事が終わってから晩飯を一緒に食べた。

三重に職場が移るとカヌーイストにまで声をかけ、シュラフが薄くてと何気なく嘆くので、かなり驚かれたが、車に積んでいた羽毛のシュラフを出して贈呈した。

恩返しでもないし、良き人を装っているわけでもない。先の九州や北海道の方々の施しとは違って、俺にはそうする理由があったのだ。旅する人のにおいが懐かしかったのだ。会社の拘束時間は果てしなく長く、旅行なるものは可能だったとしても旅に出ることは不可能だった。

大学を出て何年たったか、もう数えることは止めてしまった。パーツを選び抜いて原サイクルでセミオーダーしたランドナーは、いま住んでいる岐阜の田舎町の家の北側の壁にもたれかかって錆びている。 48歳は気を取り直して、ランドナーの蜘蛛の巣を払い、ブレー キを握ってみる。ああ、こんなだった。手のひらの同じところがハンドルバーを握りすぎて硬くなっていたな。絶対に忘れないもんな。 両手でハンドルを握ると、フロントバック越しに見てきた風景が、ぶわーっと一気によみがえる。

合宿が終わった最初の日。みんなと別れて、一人で走り出して、 どこかのキャンプ場にダンロップのテントを張って、ホエーブスで 湯を沸かしてココアをいれる。誰からも急かされない。合宿は楽しかったが、一人になってせいせいした気もする。
キャンプ場にブランコでもあれば、もはや言うことなしだった。ゆらゆら揺れて、自分を空に放り出して、あした何が起きるかわくわくしていれば、酒なしで酔っぱらうことができた。東京に帰ったら、部室に顔を出し、「フクちゃん」でチーズ入りのメンチカツを食べる。それで十分だった。

女の子は手の届かないところにいる生き物だと思っていたし、酒を飲んでも大しておもしろいと思わなかった(その割に合コンはめちゃめちゃ行った。勉強になった)。おい、それがどうだ。今や酒を飲むことが人生の重大事になってしまった。

お前なあ、何やってんの。俺は俺にいう。

でも仕方ないじゃないか。24年もたってしまったんだから。信じられないことに、一瞬にしてそれだけの時間が過ぎてしまった気がするのだから。でもいつか旅行じゃなくて旅に出るだろう。明日は無理でも、少し先には。

50周年記念 – 田野

50周年記念 第24期 田野

50周年、おめでとうございます。初めて峠に寄稿させて頂きます。

さて私も社会人となり、もうすぐ4半世紀。社会人になって自転車からはしばらく遠ざかっていました。そんな私が、もうすぐ50歳という年で赤城山に登り、かつヒルクライムレースに出るとは夢にも考えた事は有りませんでした。実はつい先日の第2回赤城山ヒルクライムレースに同期の松本君と参戦し、無事完走しちゃいました。

学生時代はダウンヒル命って感じで、それが興じて30代半ばまでオートバイのレーサーを走らせ、地方選手権の表彰台でシャンパンを撒き散らした事も有ります。今回のレースはキンタ〇が貼り付くような緊張感は味わえなかったものの、私の人生に大いなる刺激を与えてくれました。

バイクのレースは練習中における結果が、1~2分後にピットサインにより知らされます。本番のレースでは同じような操作をしていても、先頭が段々見えなくなっていきます。レースを始めてすぐに、「これって仕事よりキツくね?」と思い知らされました。
大概の営業職なら、まぁ1ヶ月単位で結果を突き付けられます。それが
「あれほどブレーキを我慢したのに」「ライン取りの組立を変えたのに」、
さほど変わらない結果をすぐに突き付けられ、目標も見えなります。またこの競技を続けるには、経済的限界が直ぐにやってきます。レベルを上げるに連れ、経済的限界は直ぐにやってきます。私も例外なく何ら自身の限界を見ずに、一時中断しています。

そんな刺激的な趣味生活から遠ざかって早13年。健康のために4年前からサイクリングを再開しましたが、永年に渡り蓄えた皮下脂肪がまともにペダリングをさせない程、立派に育ってしまいました。同期の仲間と行った顔振峠では皆さんは一瞬にして視界から消え、正しくお荷物状態。クラブランで死んだことのない私は、初めてその辛さを味わいました。また白石峠でいつも練習していますが、タイムも年々落ちる1方。また自転車を降りようか?と思い悩む日々でした。

そんな中、偶然知った赤城山ヒルクライムレース。試しに楽そうな北斜面から登ってみようかとの安易な発想から自分史上最大の地獄を見ました。ピークはまだ先なのに、暗くなってくるは、ボトルの水はなくなるは、体力なんてとっくに限界、のないないづくし。引き返すのも地獄だったので、先に進むしかない状況に自分を追い込んでしまったのです。

そんな自分の駄目さ加減に嫌気がさし、遂に最後の奥の手に手を染めました。生まれて初めてダイエットに挑戦してみたんです。結果から申しますと3カ月で13kgの減量に成功しました。

この減量に成功した結果が全てを好転させる事となりました。お陰様でダイエット着手前の自己ベストタイムを大幅に更新し、無事完走できました。この先は急坂を落ちていく不安を感じていた体力も、「何だよ。こんなに軽い体で峠に登ってりゃ、全然楽じゃね―か。ついでにもっと痩せて、行けるとこまで行ってやる!」とすっかり気を良くした私は、再来年までに、あと20kgを減量し、90分以内で完走できないとエントリーできないエキスパートクラスへのエントリーを目論んでおります。気持ちまで前向きになっちゃいました。

  1. 近頃仕事に集中できていない貴兄
  2. 何となく自分を持て余している貴兄
  3. 酒や女に逃げている貴兄
  4. 落ちていく体力、そこから生じる不安を感じている貴兄

→全て私自身の事だったりするんですけどね。同世代の中で、そんな方がいらっしゃれば、
是非、もう一度自転車に乗ってみませんか? 人生を見つめ直すキッカケが私の場合は自転車&ヒルクライムに有りました。

あの時の25期 – 上原

あの時の25期 第25期 上原

我々25期がWCCに入部したのは、日本経済がバブルの絶頂に向けて突き進んでいる1985年。高校生の時からサイクリングに親しんでいた私は、当時サイクルスポーツで特集されていた
「日本一過激な早稲田大学サイクリングクラブ!!
(タイトルは正確ではありませんがこんな感じでした)」
なる記事を読み、WCCに興味津々であったのを覚えています。

そして、入学と同時に吸い寄せられるようにWCCの門をたたきました。当時の部員総数は60名を超えていました。全員が集まる合宿などは周りから見るとかなり大きな集団で、何といっても風呂に入らないので臭い!本人たちは気付かないものの、買い出しのスーパーなどで周りの人が自然と避けていくので、どれだけの悪臭を放っていたのかと思います。

さて、我々25期の実績で1番大きなものは、WCC史上初の海外合宿(台湾)でしょう。上下の期に比べて、どことなくシニカルな印象を与えていた25期にしては、意外な出来事だと思います。実現までに様々な議論が巻き起こりました。
意義って何?安全は?全員に金銭的な負担を強制するのはどうか?等々。しかし、無事に合宿を終えた後の嘉義での1人ひとりの満足そうな顔は今でも鮮明に覚えています。

今ではすっかり笑い話になりますが、この台湾合宿で私と一緒に走っていた同期の松井が、合歓山(標高3,417m)の地道を下っている時に事件は起こりました。当時、大型のダンプカーが対向車で上ってきており、私がこの車とすれ違った直後に車が急停車しました。私はすぐに自転車を停め、後ろを振り返りました。
すると松井の姿は見えず、「これはとんでもないことが起こったかもしれない!」と全速力で駆けあがりました。案の定、松井は顔面から血を流し道に横たわっていました。自転車はリムを中心にグニャグニャ。私はダンプカーと松井の交通事故であることを確信しました。

「一体、この何もない3,000m級の山でどうやって助ければいいのだろうか?!」
既に班の仲間は下っています。一瞬の静寂の後、近づいてきたダンプカーの運ちゃんが、
「日本人かぁ?」と日本語で話し始めました。
「俺の前で突然転んだんだよ」と「は?自爆?」

結局、この後すぐに運ちゃんは去ってしまい、気丈にも松井は最後まで走り続けたのでした。

さて、そんなこんなで時は過ぎ、今年は2012年。あれから25年が経過しました。同期の面々は、相応に歳を重ね「いいおやじ」になっています。25年も経つと色々なことが起こりますが、WCC時代の仲間は利害のない一生の友人といえるでしょう。

時々顔を合わせる時が、最も心安いひと時です。一生付き合う?まぁ、これも何かの縁なんでしょう(笑)。

「フクちゃんハイク」ご報告 – 高橋

「フクちゃんハイク」ご報告 第29期 高橋

まずは早稲田大学サイクリングクラブが50周年という大きな区切りを迎えたこと、心からおめでとうございます。50周年というインパクトは、たとえば35とか40とかとは人を引き寄せる度合いがまるで異なり、記念の会がどれほどの盛況となることか期待大です。

このクラブは1962年に偉大なる先輩方によって創立されました。この先輩なくしては、わたしたちの大学時代は、いや人生は随分と味気ないものになったような気がしますから、あらためて心からの感謝の念を禁じ得ません。この頃は冷戦真っただ中、日本は高度成長の時代ということになります。しかしながら、冷戦終結ですら生まれる前の出来事である平成生まれの現役大学生にとって、この時代は教科書を通してのみ知る歴史の世界です。クラブが50年の歳月を積み重ねてきたと言われても、彼らにはとても実感できることではないでしょう。

そんな現役生の1人から先日、「記念誌への寄稿が集まらないのでお願いしたい」旨の電話がありました。聞くと早同交歓ランの主幹をはじめ多忙を極めるシーズン中に周年行事が入り、しかも原稿集めの仕事に追われているとのこと。この気の毒な状況を思い、OB会本体の活動から離れた身である小生には僭越至極ではありますが、筆を執らせて頂くことにいたしました。

かつて盛り上がったランなどのOB会「公式」行事は、いかなるわけか最近久しく行われていないようです。しかしながら中堅・若手OBの交流は、近年ますます活発に行われています。象徴的なひとつとして、1980年代以降、20年にわたってクラブにとって大切な存在であった「とんかつフクちゃん」のおじさんを囲んでのハイキングが昨秋に実現しましたので、その報告をさせて頂きたいと思います。

「とんかつフクちゃん」がワセダのシンボルとしてどれだけの存在感を誇っていたかについては、70年代から世紀が変わる頃までに在籍した方ならご存知と思います。
一方、フクちゃんにおけるWCCの存在感もなかなかのものでした。1990年代以来、現役生とOBの壮観な面々が顔を揃えての場が年に2度の楽しみとなることが10年以上続いていました。
しかしながらこれは2004年2月、フクちゃんの閉店という形で突然終わりを迎えてしまいました。「これからは山で毎年集まろう」という約束がそのときおじさん・おばさんと交わされましたが、それがようやく実現したのが、昨秋の「フクちゃんハイク」でした。

2011年11月12日。勝沼駅に錚々たる伝説の顔ぶれが続々と集まりました。中堅・若手のOBにとって毎年この季節の行事の舞台であった懐かしく見晴らしのよい、この場所での再会を喜びあいながら、紅葉まっさかりの道へ。心配された体力も、さすがWCCのOBとそのご家族、なかなかの練り強さです。
繰り広げられる会話も、眼下に展開される雲海の風景にも負けぬ深さと幅広さでありました。そして何よりも、この日の企画の中心をつとめた堀内(俊)さんが用意してくださった峠のコーヒーのなんと美味しかったこと!

その後温泉に移動、アルプスを仰ぎ見ながらの裸のつきあい。鈴木(英)さんはじめ、皆さんのざっくばらんなトークが延々と続いたのち、いよいよ宿舎である国宝を擁する大善寺へ。ここでのクラブ行事は1970年代以来今日まで実に40年近く続いており、ここのおかみさんにとってもクラブがすっかり馴染みとなっていることは嬉しいことです。

このとき何人かの皆さんと現役生諸君が合流しましたが、とりわけ新潟から貝塚さんが、広島から三島君が、さらに伊藤(治)さんが神奈川のご自宅から自転車で来られたのは圧巻でした。
谷野さん・柴田君・小国君の家族も仲睦まじく、場がおおいに華やぎました。夕食のあと長い宴が始まりましたが、司会をつとめてくださったのは最年長の20期小野(俊)さんでした。ここ数年、プロ野球に関する興味深い本を数多く出版され、先日もNHKラジオで日本人大リーガーについて解説されていた小野さんならではの絶妙なトークのおかげで、「一人一言」の盛り上がりも最高潮に。ここで三田村さん登場のあと、最後におじさんの言葉。

フクちゃん閉店後、早稲田ボート部の寮長をつとめてきたおじさんが語るワセダへの愛情、学生の気質の変化、そして自然や自転車への想いなどの尽きぬ話を聞きながら、この人の人生とわが懐かしい原点の風景がおおいに重なることを、そこにいた誰もが感じたはずです。

小稿を記すにあたって過去の資料を探したところ、いくつかの懐かしい原稿が見つかりました。そのなかからひとつ、2004年2月、とんかつフクちゃんが閉店したときにクラブOB有志で開催した大会合のパンフレットの1部を掲載させて頂きたいと思います。クラブの長い歴史のうち、昭和晩期から平成初めにかけての雰囲気がよく表れていると思います。

サイクリングクラブのOB会は、競技スポーツのそれとは異なり、年代を越えた紐帯を基盤として現役生を支援する、といった目的性が存在しません。同時期に在籍して苦楽をともにしたという共通の記憶を越えた「何か」がないと、年代を超えて参集する求心力を維持するのは困難です。このような中、20年近くにわたり「フクちゃん」を基盤とした会合が継続していることは奇跡とさえ感じられますが、これも理由なきことではないことを痛感しました。
店としてはもはや存在しない「フクちゃん」ですが、今後も永く、中堅・若手OBの絆の礎たり続けていくことでしょう。次はいつ、どんな場が用意されるでしょうか。近々また、わたしたちの故郷たるこの場で、皆さんと語らう日を心から楽しみにしています。

追記
フクちゃんと並ぶ大学時代のシンボルに、「原サイクル」や「サイクルセンターすずき」などの素晴らしいショップの存在がありましたが、残念ながら後者は昨年いっぱいで閉店してしまいました。私事で恐縮ですが、3年前にいまの住居に決めた理由の1つがこの店に近いことだったので、落胆もひとしおでした。以下、近隣の者としてお知らせします。
2012年10月現在、既購入者へのサポートのみ、以前と同じ場所で対応してくれています。いつまで続けるかわからないとのことなので、お急ぎを!

20年経ったって、答えなんか出やしない。- 山口

20年経ったって、答えなんか出やしない。 第30期 山口

何が悲しくてWCCに入ったのだろうか。浪人までして早稲田大に入ったっていうのに、何でチャリンコだったのか。何で部室が地下の、しかも廊下だったのか。

何で王子くんだりの鈴木サイクルだったのか。サンツアーのことが忘れられないのはなぜだ。土俵じゃあるまいし、何で女人禁制なのか。男しかいないのに、なんで「特機」なんて隠語を使うのか。イノコって何なんだ。イノコモチって、どんな餅なんだ。

あのころ流行ったポストモダンはどうなったんだ。『構造と力』の浅田彰が一発で消えたってどういうことだ。大阪太郎はどうしているのか。USバンバンはまだあるのか。ユニクロのビジネスモデルはUSバンバンがルーツなのか。「カレーおかけしましょう」のカレーの藤のお姉さんは今、どこのカレー屋でカレーをかけているのか。

プロレスラーのケンドー・カシン(石沢常光)はWCCの顧問だった人間科学部の先生の教え子であるというプロレスファン以外どうでもいい情報は、後輩に受け継がれているのか。

お金を出し合って共同購入した宮沢りえのヌード写真集『サンタフェ』は今、だれが持っているのか。40過ぎになってまで、ドイツ語の単位落ちで留年する悪夢で目が覚めるのはなぜか。当時は千駄ヶ谷の「ホープ軒」のラーメンが超うまかったのに、今食べても大してうまくないのはなぜか。

早稲田の老舗ラーメン店であるメルシーの暖簾分け店が多摩地区の立川にあることを知ってちょっと嬉しかったのはなぜなんだ。早稲田通りはなぜラーメン屋だらけになったのか。
栄通りにあった安飯屋の「大戸屋」がさわやか路線でこれほど成長するとはだれが想像していたか。「清龍」が20年経った今でもカストリを出しているのにホッとするのはなぜなんだ。

たまにランドナーを街乗りしている40~50代のおっさんを目にすると、声を掛けたくなるのはなぜか。WCCはサークルなのか、部なのか。自分たちでもよくわからないこの妙な活動を、他人にどう説明すればいいのか。

部員が減ってきていると耳にしていたのに、何で廃部にならずに21世紀が10年以上過ぎた今でも活動しているのだ。なぜ50年も続いたのか。

卒業すると、多くがチャリンコも卒業するところをみると、実はチャリンコじゃなくてもよかったのではなかろうか。チャリンコそのものが楽しかったのではなくて、チャリンコに群がる奇人変人の奇天烈さにハマッただけだったのか、そうなのか。

50周年に寄せて – 藤崎

50周年に寄せて 第32期 藤崎

このたび早稲田サイクリングクラブが50周年を迎えられましたこと、誠におめでとうございます。我々32代が大学を卒業してから早いもので15年以上の歳月が流れ、同期には40歳代に足を踏み入れる者が出始める中で、サイクリングクラブが連綿とその歴史を受け継いでこられたことを思うと、とても感慨深いものがあります。私たちの代は、大学卒業後も同志社大学サイクリングクラブの同期との交流を続けており、「温泉企画」と称して、毎年1回、昨年は浅草、今年は京都とお互いに幹事を出し合って集まっています。

この企画を始めたころは、「サイクリングクラブOBの行事らしく、サイクリングを企画に盛り込もう」、「自転車で走ってから、温泉に入って、1杯やろう」などと言い合っていましたが、いつしかそんな声は全く聞かれなくなり、今では、お酒を飲みかわし、近況を報告しあったり、昔話に盛り上がったりするだけの企画になっています。それでもこうやって昔の仲間たちと語り合うことは、せわしい日常からちょっと離れ、とても落ち着き、まさに「心のふるさと」といったところでしょうか。今後も、ずっと続けていきたいと考えています。

せっかくですので、「峠」の話題も1つ。私事ですが、この夏、北海道のオロフレ峠に家族で行ってきました(もちろん車で)。この峠は、32代が大学1年生の時に北海道合宿でフリーランを行った場所です。

大学時代、数多く走ったフリーランの中でもオロフレ峠でのフリーランは印象深く、「お父さんの思い出の場所だ!」と無理やり行程に組み入れたもので、行く前はすごく懐かしいんだろうなぁ、大学時代の気分に戻っちゃうかもとかなり期待していました。しかし、流れた年月が長かったせいか、手段が自転車と車でまったく違ったせいか、そんな感傷にふけることもなくあっという間に峠に到着してしまいました。それでも所々見覚えのある風景があり、20年以上前、大学時代に、確かに自分はここにいて、重いテントに四苦八苦しながらも、がむしゃらにペダルをこいでいたなと感じたものです。

大学を卒業してから、再び訪ねることができた場所、行きたい、行きたいと思いつつも叶わないでいる場所、それはいろいろですが、日本各地にこのように自分の足跡が残っているというのは、実にいいものです。

例えば、東日本大震災の被災地。リアス式海岸の厳しいアップダウンに苦しみながらも走り切った場所だ、原付で追い越して行ったあの高校生は大丈夫だったろうか。他には、阿蘇。荒涼としていて、日本らしからぬ風景だな、日本にもこういう所があるんだ。そして、沖縄本島。本当に米軍の基地ばっかりだなぁ、軍用機が爆音ですれすれを飛んでいくよ・・・・・・。

現役の諸君には、大学時代にそんな足跡を思いっきり残してほしいと思います。そして、同期の仲間たちとは、ぜひ卒業後も交流を深めてほしいと思います。

むすびに、早稲田サイクリングクラブのますますの発展を期待し、またお祈りしています。

【特別寄稿】相棒 – 綿貫

【特別寄稿】相棒 第3期 綿貫

この7月に北海道へ行った話。道南の海岸線を300km弱、5日かけて走った。初日は一日雨だった。ズブ濡れの濡れネズミで、被った帽子の大きなツバの先から落ちる雨だれを見ながら、道中切れ切れに、色いろのことを思った。

旅の空に居るときだけ、自分の中で目を覚ましているものがある。前夜の深酒にも1番に起きるし、つい面倒の怠け癖も出ない。先のことを考えるより前にもう足が出ている。これが有りがたい。

旅に出ると、東京には沢山いる、人を利用したり騙したり笑いものにしたりの、
嫌なやつ汚いやつに滅多に会わない。こちらも普段着そのままで、余計な気を使わず心安らかである。

私はカナヅチ同然だが旅先の足はつい海端へ向く。それも混沌(カオス)を呑み込んだ洋々の水平線より、古い往還の切通しから僅かに見える青が良い。

村里の辻で背負い籠のお婆ちゃんに道を尋ね、それから少しの時間を話し相手になってもらうこと、また子供たちの舌足らずの言葉を丹念に聞き、どうかして鬼ごっこやママゴト遊びの仲間に入れてもらうこと、これが一期一会の楽しみである。若い女性とのことは、大した成果もないままに、どうやら時間切れである。

自転車の旅は自分にとって、夜分は別としてであるが、まず体を責め、汗を絞り、長丁場を凌ぐ克己の作業が第一義であり、これでも修行であるから1人に限る。良い景色、旨い飲み食い、キレイな空気や水、いずれも結こうではあるが本命ではない。身を責め赤黒く焼け汗も出切った状態になると、久びさ真人間に戻った気がする。

物忘れがひどいので、行程手ごろな一休みや地図調べの合間にできるだけメモを – まともな文章など無理だから、「印象の切り口」としての単熟語を – 記号のように書いておくのだが、日常空欄ばかりの手帳の頁が、乗った折には殴り書きに次々埋って行く。落差は歴然である。

1人暮しが1年、2年となると家庭内の折衝 – 当時は大がい不愉快なことと思っていた – が丸で無いのであるから、元もと単純な思考回路にそのままの単純さでしか血が回らなくなり、これが自分なりの好き勝手や、味なつもりの「独断と偏見」があるうちは良いが、段々と世間並みの常識に落ちて今さら目立たぬ様、間違わぬ様にとの事なかれに傾く。これが老化だ。時に自ら意表をつく“肩すかし”“うっちゃり”が要る。

さて、スタートは函館から特急で北へ35分の森町である。勤め人をやっていた頃、さる山中の地熱発電所の取材でこの駅に下りた覚えがあるが、それからどこへ連れて行かれたのかはサッパリである。その森町で翌朝、駅前ホテルの庇を出た途端にパラパラと来、メインの国道を折れて海端へ向い、函館本線の鉄路を渡って町外れにかかる頃には篠つく降りとなる。雨具代りとしては薄手のウインドブレーカーを一着しているばかりで、腰から下、半ズボンのレーサーパンツと靴下は直きに水気が染みて来る。すぐ右脇には大沼国定公園のシンボル・駒ヶ岳1,131mがあるのだが、今日は裾野も見えない。

早くも水しぶきを切って行く。濡れぬうちこそ露をも厭えというのは、悪事を戒めた言葉だそうだが、こちらは悪事はないものの、良い加減濡れてしまえば後は仕方のない事、諺の通りである。森町から10km、砂原(さわら)の砂崎という小岬を過ぎるころには見事にズブ濡れとなる。

その砂原の、どんより暗い海のある田舎道で、子供たちばかりの祭りの行列に会った。そういえば本日は7月16日、新盆のさ中である。まず一群(ひとむれ)のマトイの先駆けのあとに、可愛いハッピの男の子達のミコシの練りが、肩代りの人数を前後にして続き、おしまいは、だし車に乗せた山車の上、こちらは、女の子ばかり、赤い揃いの祭装束に向う鉢巻きで、掛け合いの太鼓の囃しも賑やかに通り過ぎた。暫く足を落し、それでも大ぶん行って太鼓の音も幽かになってから、雨だれの落ち始めた帽子の下でこちらも「祭囃子」の歌を一節口ずさんだ。

「肩にまつわる夏の終りの、
風の中祭囃子が今年も近づいてくる
丁度去年の今頃、2人で2階の
窓にもたれて祭囃子を見ていたね
けれど行列は通り過ぎていったところで
後ろ姿しか見えなくて残念だった
あとで思えばあの時の赤い山車は
私のすべての祭りの後ろ姿だった
もう紅い花が揺れても (中島みゆき)」

鹿部(かべ)のあたり、道は海から離れ深い森へ入る。エゾ松かトド松か分らないが、千年ケヤキのような凄いのが幹と幹をギチギチ言わせんばかりに左右からびっしり生い茂って、小暗い中をどこまでも真っすぐに行く。息の長い登り下りを繰り返す。

熊や鹿の動物標識が点々とあるが「袖打ち払う影もなし」で、雨宿りの小屋もない。車は滅多に通らないが、ごく時たま大きなトラックが道の真中を文字通り傍若無人に突っ走って行く。頭からシブキを浴びる。「コンチクショーメ!」。いくら「克己の修行」でもこんなのは要らない。背中のザックには未使用の着替えが詰まり、前のハンドルバッグの中はカメラの器材で、いずれも無事ではあるまいが、今はそれどころではない。せっせと登って空が広け高原台地状のところへ出、それから長々と下る。

また海が見える。鈍(にび)色に塗り潰した海原に波も立たず、どんよりの雨雲との境いが分明しない。どのくらい来たか。

荒れた磯伝いに小さな漁港を、幾らか人家のある所と、船だまりだけなのとを交互に過ぎる。人も出ず船も動かず、今日一日は雨に降り暮す眺めである。3階建程の高さの細長い小屋の中では、10m余はある長尺のコンブを帯を掛け渡すように干して、底床でボイラーを燃している。
通気孔の下を通るとムセるような潮の臭いにぶつかる。短いトンネルがあると小休止して帽子を絞るが、すぐに体が冷えてくる。長くはいられない。雨は時に夕立のように叩きつけて降る。見渡しも危なくなる。どこぞに宿屋の看板でもあれば有無なく駆け込んで今日は終りにするのだが、そんな気(け)もない。

いやこの日は結局80km近く走ったが、行き着いた恵山(えさん)岬のホテルまで木賃の民宿1軒見つからなかった。朝出てから飲まず食わずで時計も見ないが、腹加減では正午を回っていよう。
ハンドルバッグの上のマップケースの、ビニールの上っ面に溜った雨水を時々手の平で払うが、地図を見る余裕もない。まあ踏んでさえいれば、いずれは始末がつくだろう。

ズブ濡れは自分ばかりではない。乗った自転車―フレームも輪っぱ(ホイール)も裸のギアもハンドルもサドルも見事にご同様である。

この相棒との付き合いももう20年になるか。ゾンザイな使い込みにめげず頑丈なものである。
奥多摩のトンネルで転倒して一巻の終りになりかかったのは昨年の暮れ近くで、まだ1年にもなっていないが、こちらは手指、肋骨を折って“重傷”を負っているのに向うはビクともしない。
これまで短かからぬ道程(みちのり)であるからこの他にもヒヤリとしたこと、気づかなかったこと、また1つ間違えばどう転んだか分らない“危い目”も思いの他多かったであろう。

今日までどうやら凌いで来たのは、たかが旅の道具といっては済まないこの「同行2人」との相性、それ故の愛着、慣れ馴染み、またひいてその時どきの自分なりの走りへの加減差引きにも微妙なものを生んで来た年季のおかげであろう。これも縁であり運である。私は良い運を持った。

購入時にはパイプ1本の長さからのオーダーであり安くはなく、中古の車1台くらいは買えたのだが、早や20年と思えば文句はない。これであと10年持つとして我が齢を算えれば、先につかいものにならなくなるのはこっちの方であろう。昨暮の転倒以来、その反動というわけでもないだろうが、もう時間はないかも知れぬ、あと何年、何回出かけられるかという考えが頭の隅に出て来て、何かといえば足元を迫き立てようとする。カウントダウンをする。

心臓と血圧の前科があるので真夏真冬は出ないことにしているが、この夏も過ぎて涼風が立ったら次回、いや次の次くらいまでの地図眺めにかかろうと思う。これには輪行 – 自転車をバラし袋詰めにして旅先へ持っていく – に往復宅急便が使えるようになって、つい面倒の怠け癖を潰せるようになったのも追い風である。その分相棒には超過勤務になろうが、行けるところまでの二人三脚、何ぶんよろしく願いたい。

午後3時、海端の崖下道の長いトンネルや覆道(窓のあるトンネル)を次々に潜り抜けて、恵山岬が近づいた。この岬は道南の海岸線の南東の隅にあり、すぐ後ろに活火山・恵山618mを背負っている。腹が減って疲れも来ている筈だが、妙に気が冴えて踏み込みも確かになる。
構わずのノンストップで半島口を入り、軒の低い漁村が点々とある林道幅の道を行き、最後の小さな突堤のある漁港の脇から急坂を上ると、ゆるく起伏する草原の丘の上に灯台の白い頭が見えて来る。ホテルはその灯台から道を隔てた1段上。グルリと巻いて玄関の庇へ。ところがすぐに入れない。人も車も一日分の雨だれがザブザブと落ちている。

玄関口のドアから覗き、フロントの1人を手招きで呼ぶ。これだからと見せて、床拭きの大きなモップを1本持って来てもらう。入って、歩くあとから構わず落ちて濡らすのを後ろに尾いて拭いて来る。ここも一軒宿である。さて、都合よく空部屋があるだろうか?

次章、峠「21号」_現役生から

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