No. 0188 | 29期 髙橋 | 1998/12/31 19:42 [TOP] |
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大堀さんありがとうございます。 おっしゃるように、どんなことも 何かへの糧としていきたいものですね。 気づいたら今年も終わり。 のんびり構えてばかりもいられません。 春には、ぜひ伺わせていただきます。 よろしくお願いします。 それでは皆さま、良いお年をお迎え下さい。 |
No. 0187 | 大堀 聰(7) | 1998/12/25 13:52 [TOP] |
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高橋さんへ 修論も最後の追い込みだと思います。 忙しいでしょうから読み流してください。 >さて大堀さん、レスが遅れてごめんなさい。 >もう、学内にはいらっしゃらないでしょうか。 いえいえ朝から晩まで大学にいます。 前に書きましたっけ。自宅と大学は片道約50キロです。 調査の対象や目的、場所によりまちまちですが、 毎朝5:15~6:30には家を出ています。 早起きより渋滞の方が苦痛ですから。 先日車検でしたが、3年で8万キロ近く走りました。 長い距離を走るので、安全性や快適さを考えぜいたくな車 に乗っていますが、こんなに走るのかとディーラーにも びっくりされました。車検(1週間もかかった!)、 いくらかかるか心配です。 >やめる勇気も必要です。 > ここまで来てしまったから、辞められないという状況よりはましでしょう。 >その時点での実力と割り切らないと先へは進めないのは事実ですから、 >恥を忍んで、言ったり書いたりするしかありません。 生意気なことを言って申し訳ありません。 ある意味では達成感のない仕事ですから、この業界では いつでも誰でもがぶつかる問題です。考えると夜も眠れなくなるような 不安と闘いながらの毎日だったような気がします。これだけやれば よいという目標は自分の中だけのものです。努力が他から評価 される保証は全くありません。 ですから、情けないと思っても、ある時点での自分の成果を書いたり、 まとめたり、発表して独り善がりではないことを確認する必要がある。 発表したものが他人から評価されるとは限らない。最悪の場合は 「やりました」という満足感が得られるだけです。それだけでも、 十分なのかもしれませんが。 評価されたとしても先の保証はやはりない。 失敗は糧になります。確かに打ちのめされるけれど、 這い上がる気持ちさえあれば、惨めな経験は必ず役に立ちます。 それに好きで始めたことなのだから、多少の失敗でくじけるようでは 選択が甘かったということになる。続ける勇気、辞める勇気が問題に なるのはこんな時でしょう。どちらの選択が正しいのか誰にもわかりません。 たぶん、時間の経過だけが正解を知っている。 誰でも懲りずに同じ失敗を繰り返す傾向があります。パニクる人は、 卒論でも、修論でも、学会発表でも、論文書きでもいつでも同じことを している。「よし、次は早めに準備をしよう。」とその時は思うのだけれど、 いつも同じになる。高校までの試験勉強などと同じかもしれません。 あのころも「次は頑張るぞ。」と終わったときには思った記憶があります。 でも、不思議なことに10年くらい続けていると、知らず知らずそれらの 作業のノウハウが身について来る。自分のやり方、考え方に筋道が通る ようになる。ある種の風格が出てくる。 前にも書きましたが、大学を出てから10年は同じ仕事を続けなさいと 学生に言うのは、こんなところかもしれません。 わかったようなことを書けるほどわかってはいないのですが。。。 先ほどの繰り返しになりますが、這い上がる気持ちとは、好きだからやる、 こだわる、そういうものではないかと思います。いつも才能や能力 のなさを嘆きながら、「でもいいや、野球だって皆が4番は打てないんだ。 自分はライパチでもいい。せめて一軍、せめてスタメン。」と 思ってやるしかありません。好きだから続ける、続ける以上は少しは 光をあびたい。 僕の場合、結果はどうなのでしょう。たぶん、二軍で終わっている? しかし、名選手が凡人が打てない投げられないことが理解できずに 必ずしもよい監督にはなれないという例もあります。Nしかり、 Oしかり。彼らには、凡人ができないわからないということが わからない。その点、能力はなくてもなぜ出来ないかを理解し、 苦しんでいる若手に何かヒントを与えることは、努力次第では 出来るかもしれない。 失敗はずっと後になっても生きることはある。 他の世界は知りませんが、成功するためには自分の能力を 信じることが必要なのではないかと思います。沢山の人と 出会ってきましたが、少なくとも人前では自分の力を信じる、 またそれに見合う努力をすることが、成功のためには少なくとも この業界では大事なのではないかなあと思います。 成功していない人が言っても説得力はありませんね。 >おっしゃることから、考えるところが多々ありました。 >たまに人科に足を運んでいます。今年は結局行かなかったのですが・・・。 >ぜひ、お話を聞かせていただきたいと思います。 たしか高橋さんは人科に籍を置いたこともあったのですよね。 調査室は昔は801にありましたが、今は図書館脇の竹林下に庵を 構えています。現在タヌキ2頭とオナガ1羽が居候しています。 いつでも遊びにお出で下さい。雑木林でも案内しましょう。 |
No. 0186 | 17期 松村 | 1998/12/22 01:54 [TOP] |
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多くの書きこみで盛り上がり、私用ノートの読み込みに時間がかかっていたと思います。11月ぶんを分割しました。 お勝手仕事の話になりますが、高橋くんが触れているように、このノートは分割のことを考慮した仕組みでないため作業が大変です。 この種のメッセージボードで良いものをご存知でしたらお知らせください。 さて、先月ここに綿貫さんが投稿してくださった「対馬」を編集してページとして取り込む予定です。お楽しみに。 |
No. 0185 | 高橋竜太郎(29) | 1998/12/21 18:48 [TOP] |
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ちょっと久しぶりに覗きました。 大学の中央図書館のパソコンで書いています。 この図書館は、平成のはじめにグランド坂の球場跡地に出来たのですが、 最近、最新型のパソコンと検索システムが導入され、壮観の一言です。 問題は、このシステムに見合う使い方がなされるかどうかかもしれませんが・・・。 実際に、こうやって遊んでる不届き者もいるわけですし。 松本さん、こんにちは。先日は航空券でお世話になりました。 またよろしくお願いします。 ◇ さて大堀さん、レスが遅れてごめんなさい。 もう、学内にはいらっしゃらないでしょうか。 >やめる勇気も必要です。 > ここまで来てしまったから、辞められないという状況よりはましでしょう。 >その時点での実力と割り切らないと先へは進めないのは事実ですから、 >恥を忍んで、言ったり書いたりするしかありません。 おっしゃることから、考えるところが多々ありました。 たまに人科に足を運んでいます。今年は結局行かなかったのですが・・・。 ぜひ、お話を聞かせていただきたいと思います。 細くとも長く、続けていけるページであるといいなー、と思っています。 毎日見て下さっている方にも楽しめて、 また、一時的に離れる方がいても、いつか思い出した時に また寛げる場所でありたいと思います。 いろんな接し方が、好きなように出来るお手伝いができたらと思います。 |
No. 0184 | 新井(ex松本) 誠・24期 | 1998/12/20 23:27 [TOP] |
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はじめまして。ようやく我が家にもパソコンが入りインターネットで遊べるようになったので、嬉しさのあまり書き込みさせていただきます。ここの「私用ノート」なら、何を書いても「相変わらずだな、松本は・・」と読み流してもらえるでしょう。ちなみに、これすべて我が愛妻が自宅でパソ通のsysop(子育てのフォーラム)をやり始めたからで,mail
addressも妻のものです。 卒業以来10年,まじめに自転車で走ったのは4年前に伊豆大島をレンタMTBで一周したぐらいな私ですが、先月のOBランに宿だけ参加(宴会&温泉)しました。ずっと上の代の方々とも語らえた愉快な夜が明けてから、すがすがしい山の空気を吸いながら朝御飯をめいっぱい食えたので、仕事づくめの毎日の中でよい気分転換と新しい出会いを体験させていただきました。幹事の方々に感謝です。フクちゃんコンパにもお呼びいただいてありがとうございました。 このところ全然休みが取れなくて、今年は休暇で海外に行く事ができませんでした。年2回は外国探訪ができるからと旅行会社に勤め始めたのになんてこったい。欲求不満から海外移住を夢見始めています。どうも私は日本文化(いわゆる「和風」)が好きなのに、現代の洋風日本での生活は狭っ苦しくて馴染めていない気がしてきています。現在臨月の妻も日本で子育てはしたくないなどと同意してくれているうえに、大堀さんが “真のパッセンジャーになるためには、異国の地にセトルすることであると。。。”(No. 0151) とお書きになっているので今ムードは最高潮です。私がサイクリングを始めたのは自分のペースで日本を見て触れて廻りたかったからでした。それから海外旅行を始めたのは世界各地の自然と人々の生活ぶりに直に接してみるためでした。紀行文やTVドキュメンタリで「認識」するだけではなく、「体感」したい。私の旅行先でのショッピングとは免税店やブランドショップに行く事ではなく、地元の商店で珍しい食品を買い込んで来て、自分で食ったり人に食わせてみること。この趣向をもう一歩エスカレートさせるならば、どこかに腰を据えてどっぷり浸かってみるしかないでしょう。 なんか自転車とは全然関係の無い事なのですが、自分の“旅”はこんな風に進展しています。 |
No. 0183 | 堀内俊彦(26) | 1998/12/17 20:28 [TOP] |
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昨日、フクちゃんコンパが開催されました。23代から現役まで座りきれないほどの参加で盛り上がりました。おじさん、おばさん、ありがとうございました。今後も年に2回位開催してくださるとのことなので、みなさんご参加ください。 |
No. 0182 | 堀内俊彦26 | 1998/12/14 13:11 [TOP] |
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この前、走りの報告を忘れてしまったので、します。11月28,29日と、またムーンライトながらを使い、京都方面に行って来ました。話に聞いていた花背を越え、茅葺きの宿に泊まって、佐々里峠に行って来ました。京都いいですね。走りはそんなにきつくなかったですが、堪能できました。翌週、またムーンライトながらにのり、今度は美濃方面に行って来ました。旧中山道の琵琶峠、東山道の神坂峠に行って来ました。アルプスがきれいに見えました。旧街道は渋いですね。宿帳への書き込みを見て、街道歩きをしている人が多いのを知り驚きました。それから、荒田くん、今度レースについて教えてください。一回出てみたいです。今年はこれで走り納めですが、来年も走ります。年年始の計画もたてないと。それではまた。 |
No. 0181 | 荒田楠生 | 1998/12/10 21:12 [TOP] |
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僕も16期の金澤信之氏のように(↓)自転車レースが好きです。でも僕には奥さんも、子どもいません。金沢さん宅のように猫はいませんが、代わりに犬がいます。 僕は商社で営業をしています。平日は、飲みの付き合いや仕事で遅く帰る日が多く、ローラー台に乗ることはありまん。そのため、練習は週末に行います。毎週、日曜日には100KMは走ります。当然、登坂コースは練習に取り入れています。レースは月に1~2回は出るようにしています。シーズンオフの現在でも毎週のようにシクロクロスに参加しています。家族だけでなく、クラブの同期もあきれおります。 一体、何のために走るかというと、登坂を登り切った時の絶頂感やコーナーリングで加速した一瞬、そしてゴールスプリント、本当に走っていると楽しくて仕方はありません。だから、僕の目標は、乗鞍や沖縄での上位入賞することです。 でも、僕はツーリングも好きです。だから、僕の夢としては自転車での世界一周旅行に出ることです。たまたま、今の生活環境の中で夢中になれるものがロードレースなので、ロードレースのトレーニングに励んでおりますが、本当はツアーに出たくて仕方がありません。皆さんの楽しみは何ですか?教えて下さい。 (追記) 金沢さん、文章を引用しまくってごめんなさい。 でも、僕も金沢さんと同意見ですので拝借させて頂きました。 仕事中の荒田 |
No. 0180 | 大堀 聰(7) | 1998/12/10 15:12 [TOP] |
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朝、大学に着くとメールとこのHPを 開くのが、最近は日課になってしまいました。 自分のところのHPは放ったらかし。担当者 だったD1の子が就職してしまったので(前に この欄で間違えてD2と書いた)、半年あまり 手つかず。 自分で作業する時間はないし、誰か探さないと。 調査室は現在30名弱が出入りしていますが、 半数は1年生です。彼らにできる作業ではない。 それに人科はやたらと授業が多いので時間もない。 他大学の学生にやらせる訳にもいきません。 他に修士を終え野外調査の修業中の人、一流企業を 辞め転職を目指す人など、院生ではない26~27才の 人が数名います。彼らもいつ巣立つかわからないので、 この作業を頼むわけにはいきません。 昨日はMNC(情科;24号館、大隈庭園脇の昔の テニスコートの辺り)の自主管理ドメインの情報 交換会にまで、僕が出席しなければなりませんでした。 別に僕が前述の彼女をいびり出したのではありません。 彼女の本属は他の研究室でした。彼女が方向転換したのは、 簡単に言えばD1によくある燃え尽き症候群です。もちろん、 辞めることが不幸だとは思いません。やめる勇気も必要です。 ここまで来てしまったから、辞められないという状況よりは ましでしょう。投資とコストとベネフィットの関係は 生物の生活戦略のみならず、あらゆることの価値判断の 元になります。それだけで全て割り切れないのが、人間社会の 難しさであり、面白さでもあるのですが。 修論を終え、当然のように後期課程に進んだが、研究の 目的に疑問を感じた。一仕事終えた、安堵感。このままの テーマでよいのだろうか。自分に能力はあるのだろうか。。。 僕は一年くらいプラプラしていたってどうという ことはないのだから、充電できるまで本読んだり うちの調査を手伝えばと言ったんだけれど。指導教員が 優秀だと、それもなかなか難しいみたいです。僕は 若いときの1年2年なんて、全然遠回りだとは思わない。 だから落ちこぼれたのか。 大学院進学が当たり前になり、この病気にかかる人は 非常に多い。だいたい、大してやることもない人が気軽に 大学院に入いる。早稲田でも優が35位あれば推薦で入れる 学部が多いはずです。したがって、やる気のある人が無駄な 試験勉強に精力をそがれず研究を続けられるメリットはあるが、 ”でも、しか”も多い。さしたる目的もないのに進学してしまう。 よい世の中です。日本が豊かになったこと、アメリカからの 外圧により門戸を拡げざるを得なかったことが一因と言われて います。たしか日本の博士課程の人数はあちらの1/8とか1/10 でしたっけ。最近はポスドクも3年間は食いつなげるようになったし。 友人に東大教授がいます。すみません。また友人登場。別に 虎の威を借りているつもりはないのですが。彼はいつも 「みな優秀なんだけれど、何をやりたいかがはっきりしないのが 多くて。」と嘆いています。大学院に来るけれど研究テーマが はっきりしない連中が多いそうです(因みに彼は大学院大学の 教授)。全く同感。東大の場合、試験得意だから、院のうちに 上級公務員試験などにはスパスパ受かるらしいけれど、 仕事は指示待ち世代。何処も同じですね。 と言って高橋さんに振るのは酷かもしれませんが、 修論は終わりましたか。何を研究なさっているのですか。 七転八倒の苦しみ、それとももう余裕でしょうか。 もしまだならば、何でもよいから頭に浮かぶこと 勉強してきたことを書いてしまうのが一番です。 精神衛生上もよい。今は手書きではないので、その点は 大変楽です。書いた物を読み返し、並べ替えたり、 書き加えたり、切り捨てたりを繰り返せば、自分の言いたい ことがずい分はっきりしてくるはずです。それから おもむろに仕上げにかかる。しかし、修論だと引用文献 を挙げるだけでも大変です。ということは、当然もう ほとんど終わっているということですね。 卒論や修論のレベルだと、書き終え、発表会などの準備 をする頃になって初めて”自分はこういうことをやろうと していたのか”という学生が多い。今から書けば良い物が 書けるなんて。 論文を書くときも学会発表をするときも、準備を始める のは半年前が目安です。とにかくなるべく早く完成版を 作り、何回も何回も書き直したり、図を作り直したり を繰り返しながら、徐々に仕上げていく。どうせ、 これで完璧というものは出来ないのですから、現時点で 出来る最高の作品を目指すしかありません。高橋さんの 修論もそのような段階にさしかかっている? この文章だってそうですが、あとで読み返すと恥ずかしく なる。まあ、それがその時点での実力と割り切らないと 先へは進めないのは事実ですから、恥を忍んで、言ったり 書いたりするしかありません。しかし、この歳になると 若気の至りというのがないから困ります。菅原さんに 怒られるくらいでしょうか、このHP上では。 しばらくお休みと書いたばかりでまたキーボードを たたいたのは、その後青木さんの書き込みがとだえている からです。反論でも、前言撤回でも、東北のどこかの 地からのご意見をお待ちしています。このままで沈黙して しまうのは得策とは思えません。余計なお世話ですが、 あぁでもうぅでもレスを下さい。眼中にないであろう はるか昔のOBというより、たぶん心配しているだろう 多くのこのHPの読者に。やはり、余計なお世話か。 |
No. 0179 | 菅原 | 1998/12/08 17:42 [TOP] |
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先週の土曜は雨でしたが、日曜はいい天気で秩父の方へ行ってきましたが最高でした。初めてのつもりで走っていると、どうも、ずうーっと昔、来たことがあるところだったりして、面白いものです。ところで、会社の写真同好会の写真展をやります。写真展と言うほどのものではなく、会議室へぶら下げるだけですが、私は「劔岳」と「前穂高」の二点を出します。お近くへお出での機会がありましたら、立ち寄ってご講評いただければ幸いです。12月14日~18日、千代田区一番町20-5(半蔵門駅3分)、アメリカンインターナショナルビル1F会議室にて、TEL03-3237-2277(菅原直通)電話いただければご案内します。 |
No. 0178 | 堀内俊彦(26) | 1998/12/07 18:38 [TOP] |
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10日ほど研修で留守にしている間にだいぶ書き込みが増えていて驚くとともに、うれしいです。 「OBラン」についても話題になっていましたので一言記します。小生は、はっきりいってあまり考えずにただただ楽しいから自転車に乗り、OBのみなさんとつきあっています。理詰めは仕事の場だけで沢山です。というほど理論的に仕事してませんが。「OBラン」でねらったことは報告の方で書かせていただいた通りです。顕在的、潜在的ニーズがある限り、続けようと思います。このホームページにしても、クラブ、OB会、OBランにしても、とにかくいろいろあり、何でもありの方がいいと思います。イメージとしては自由に形の変わる革袋でしょうか。 それから、Qちゃん、1月17日の番組は拝見させていただきます。 ついでなので、小生からも一つお知らせを。13日(日)22時よりTBSの「世界ウルルン滞在記」で、西アフリカのブルキナ・ファソが取り上げられます。小生もこの6月にブルキナ・ファソに行って来ましたが、とてもいいところでした。(小生は別にTBSにも何にも関係なく、ただブルキナ・ファソが好きなだけですが)もしよかったら是非ごらんください。 |
No. 0177 | 郡山日出人(36) | 1998/12/07 01:15 [TOP] |
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このたび新しく第37代顧問に選出された郡山日出人です。 今後1年間よろしくお願いします。 12/5をもって新しくなった執行部の面々を簡単に書かせていただきます。 主将 :堀江健司(一文2年) 副将 :錺 武彦(教育2年) 企画 :堀江健司(一文2年) 渉外 :杉山健吾(社学2年) 会計 :錺 武彦(教育2年) 出版 :河瀬拓馬(政経1年) 資料 :杉山健吾(社学2年) 機材 :日比高志(社学1年) メカ :金 珍鍵(商学2年) トレ :紙浦康治(政経1年) ESCA :平井 歩(社学1年) 2年会長:熱海洋介(商学1年) 同副会長:勝野高明(政経1年) 以上、第37代執行部をよろしくおねがいします。 |
No. 0176 | 29期 山里 英毅 | 1998/12/06 21:24 [TOP] |
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早明戦、OBラン 今日はラグビーの早明戦を見に行ってきました。 明治圧倒的有利の下馬評どうり明治が勝ったのですが、早稲田もよく 健闘しました。確か24ー27の3点差だったと思うのですが、 早稲田の最後の1トライ1ゴールは試合が決まってからのおまけみたいなものですから、実際は17ー27の実力差と言っていいでしょう。 それでもよく戦ったと言えます。下手したら、30点差位ついても おかしくなかったのですから.... 負けはしましたが、早稲田は選手権につながるいい試合を したと思います。この調子でいけば、決勝で再び明治とあいまみえる ことも十分可能です。日体大戦との大敗から、早慶戦を経て、よくぞここまで建て直した、てなものです。 そうそう、相蘇がかわいい彼女を連れて見に来てました。 OBランについてですが、そんなに難しく考えることもないんじゃ ないかなあ、というのが素直な感想です。青木さんは、卒業してるのに 閉鎖的な集団に安住することは発展性がないのでは、とおっしゃられてる気がするのですが(違ったらごめんなさい)、それはOBランの現状とはまったく逆だと思います。今まで交流があったとしても2、3代前後の交流だったものを、そういう世代間の枠をとっぱらって、新たな人間関係を構築していこう、というのがOBランの主旨だと思います。 ですから、それは馴れ合いでもなんでもなく、参加したい方であれば、DCCだろうが、現役だろうが、武蔵野だろうが、はたまた全く部外の方であろうが、だれでも参加できる、オープンな場だと思うのですが、どうでしょうか? また、OBランをきっかけに再び走る方がいても、それはすばらしいことだと思います。情けない、とおっしゃる主旨がよくわかりません。 ほんとに単純なことで、走るのも、上の方のお話しを聞くのも、現役の 合宿報告も、楽しいんですよ。 |
No. 0175 | 名和 博(DCC9期) | 1998/12/05 14:30 [TOP] |
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ナチュラルと言いながら先の文章は気合いが入りすぎました。 皆さん、お疲れでしょう。 そこでどうでもいい情報をひとつ。 最近廃止された鉄道を探索して歩く廃鉄というジャンルが出てきました。 昨年7月には日経にもとりあげられ、その種の本も5巻まで行っている ものもあります。 「鉄道廃線跡を歩く」JTBキャンブックス 「失われた鉄道100選」など 自転車の場合古道・旧道を走るのと同じように鉄路の跡は勾配がゆるくて 走りやすく歴史の香りも漂ってきます。 私は自転車のパソ通で廃鉄を教えて貰いまして近場のものを10ヶ所ばかり 行きましたが2年前に旧北陸本線北陸トンネル以前のルートに行こうとしたら トンネルの強度調査のため平成10年まで通行止めになってました(;_;) 最近それを思い出して敦賀の土木事務所に問い合わせたところ 先月から通行可能になったとの回答を得られました。 まだ年内は関電?の調査があるようですが日曜・祝日はOKとのことです。 明日は晴れるだろうし、行ってみようと思っています。 鉄っちゃんの息子や嫁さんも連れて帰りは今庄365の温泉に入ってこよう かなあ。 今庄といえばサイクリングターミナルがありましてその入り口には全く 関係のないD-51が展示してあります。 以上未発表のレア情報でした。 シグネチュアにももう一度挑戦、エイッ! ⊂___▽ ナワ~ルド / Nagara Gifu-City |\ |\ http://www3.justnet.ne.jp/~hnawa/ (○)-@-(○) ) )) |
No. 0174 | 名和 博(DCC9期) | 1998/12/05 14:25 [TOP] |
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こんにちは、お久しぶりです。 年末に近辺のパソ通仲間を集めて走ろうと準備中で今日は下見に行こうか と思っていたら本格的な雨になってしまったので家でくすぶっています。 早稲田のOBランは都合が合わず指をくわえておりました。 参加された皆様方の楽しそうなご様子やこれを機に復活しようかという 嬉しい報告でにぎわう中、青木さんが考えさせてくれる意見を出して いただけました。私が体験してきたことや思うことなど参考にしてもらえば と思い、お話しさせてもらいます。 私は小学校のうちからサイクリングの真似事をしてました。 高校生のときに本格的な手ほどきを受けてDCCでは根性と友人を得る ことができました。DCCの現役当時OB会でお会いする先輩方が自転車 とは無縁の生活をしてみえるのを見て、自分は卒業しても一生の趣味として つきあえると思っていました。 しかし卒業してみると週休1.25日制の会社では1ヶ月に1度走れればいい方 で結婚と同時に走ることも出来なくなり、たまの運動がわりに1時間ほど乗る 状態が15年続きました。 15年の冬眠から醒めたのは3年前。 契機はアレコレありますが 1.暇な部署への転勤 2.インターネット・パソ通で誘われたこと 3.親父が死んだこと 4.家族と予定が合わなくなったこと などで中年オヤジがひとりで遊べる環境になってしまったからです。 15年(実質20年)のブランクは大きく、自転車の車種やブランド・パーツ にライディングスタイルなど相当な様変わりをしていて浦島状態の身から 現状認識ができるのには1年近くかかりました。 それでもインターネット・パソ通がなかったらこちらの私用ノートや DCC・MLには出会えなかったでしょう。 OB会云々というと我が同志社すらここ10年どうなっているか判らない 私には語る資格がないかもしれませんが自転車をやっている(いた)仲間 との交流の場としての価値は当然あると思います。 ただややもすると飲み会や同窓会になりがちなことは致し方ないところで ありまして若い方からすると何の魅力も感じないかもしれません。 翻ってOBランとなると実際に走るわけですから味付け次第でかなりの方が 満足できる企画になるのではないでしょうか。 もともと自転車遊びは一人でできるものですから仲間を募らなくても問題は ありません。却って一人の方が自分のペースで走れる分気楽で自由です。 しかし人と走ると色々なエピソードが生まれたり、新たな発見があるので 色々な人とつるんで走るのは面白いものです。私はOBランはその一形態に すぎないと思います。別に開催規約が決められてるわけでもないでしょうし OBの中で都合や気の合った者が走る大規模なものってスタンスでしょ。 <最後に、「OBラン」という名称は、個人的には止めた方がいいと思う。 ここが難しいところですね。 HPなど文章にしてしまうと同じ言葉でも受取り手によって様々な解釈に なってしまいます。私も最初は早稲田only、OBだけと捉えましたし、 OB会のようなものとも思いました。後からご報告を見てたりすると もっとくだけた企画ということがわかりました。 で、ネーミングで印象が変わるのならラグビーみたくオール○○とか OB○○ランのようにできるだけかしまらない名前のがいいかもしれませんね。 <活動の実態は、HPへの発言が、今一つ広がりがないことからも <明らかであると思う。 実際に活動できる時間や規模などは手弁当でやることですからしれてます。 しかしそれと発言内容の偏りとは無関係でしょう。 DCC-MLの場合参入している者の世代が狭いからか割と言いたい放題のことが 語られています。文章も引用がありすぎてムチヤチムャ見にくいのです。 そして個人的にはもっと自転車関連や走る話をして欲しいと思っているくらい 井戸端会議風です。 WCCの私用ノートの場合、引用符は皆無に近く、格調高い文章はビジネス レターを思わせるほど気合いが入っています。年代的に1期の方から現役まで 満遍なく参加されていると、こういうスタイルにならざるを得ないのかとも 思いますがどうしても堅苦しい雰囲気になるのは否めません。 文体がそうであるからか書く内容もやはり同じ様な内容になっているような 気がします。 初めての方、久々の方は近況報告が主流になるでしょうがリピーターの方は 「どこを走ってきたよ」とか「今度のジュラエースはね」なんて自転車関連の ことを話題にされるといいと思いますし、個人的な悩みや質問なども出されると 自分の得意な話題には参加できる方もおられるのではないでしょうか? ナチュラルが一番。 人脈なんてのは勝手についてくるもので、始めからそれを目的にしたような会 なら不毛だわな。 やっぱ気楽にくつろげる。ある程度の節度は保ちながらも言いたいことが 言える。そういった場にしてもらいたいと思います。 まとまらなくて、すんませんねえ(^^ゞ ⊂___▽ ナワ~ルド / Nagara Gifu-City |\ |\ http://www3.justnet.ne.jp/~hnawa/ (○)-@-(○) ) )) |
No. 0173 | 中川隆一(26期) | 1998/12/05 01:51 [TOP] |
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こんばんは。 久しぶりに見ましたら、白熱した議論が展開されていてびっくりしました。今回は、仕事の話で恐縮ですが、私の作る番組を少々宣伝させて貰おうと思い書き込ませて頂きます。 NHK総合で毎週日曜夜11時から放送している「新日本探訪」という番組があります。日本各地の人びとの暮しを見つめる社会紀行タッチのドキュメンタリーです。地味ですが、もう8年も続いている番組です。 私の作品が放送されるのは、年明けの1月17日の回の予定。まだ仮題ですが、タイトルは「私の‘東京画’」といいます。別に有名人を追ったものでも何でもなく、この長引く不況の中で、懸命に、ひたむきに生きる東京の人びとのさりげない日常を、師走のたたずまいの中で描こうという番組です。 バブルの宴そして平成不況の影響でしょうか、東京の、特に都心部近くに住む人を取材する時、最近、しきりに「街が壊れていく」という言葉を聞くようになりました。様々な意を含む言葉だと思いますが、今回の番組は、その「街」で暮すとは一体どういうことなのかを考えてみたいと思って企画したものです。 来週からロケそして編集等で殆ど泊まり込みの毎日となります。そのため、今のうちに、という下心で書きました。このHPをご覧になって関心を持たれた方がいらっしゃれば幸いです。 |
No. 0172 | 中川隆一(26期) | 1998/12/05 01:37 [TOP] |
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こんばんは。 久しぶりに見ましたら、白熱した議論が展開されていてびっくりしました。今回は、仕事の話で恐縮ですが、私の作る番組を少々宣伝させて貰おうと思い書き込ませて頂きます。 NHK総合で毎週日曜夜11時から放送している「新日本探訪」という番組があります。日本各地の人びとの暮しを見つめる社会紀行タッチのドキュメンタリーです。地味ですが、もう8年も続いている番組です。 私の作品が放送されるのは、年明けの1月17日の回。まだ仮題ですが、タ「私の‘東京画’」といいます。別に有名人を追ったものでも何でもなく、この長引く不況の中で、懸命に、ひたむきに生きる東京の人びとのさりげない日常を、師走のたたずまいの中で描こうという番組です。 バブルの宴そして平成不況で、東京の、特に都心部近くに住む人を取材した時に、しきりに「街が壊れていく」という言葉を聞くようになりました。様々な意を含む言葉だと思いますが、今回の番組は、その「街」で暮すとは一体どういうことなのかを考えてみたいと思って企画したものです。 来週からロケそして編集等で殆ど泊まり込みの毎日となります。そのため、今のうちに、という下心で書きました。このHPをご覧になって関心を持たれた方がいらっしゃれば幸いです。 |
No. 0171 | 大堀 聰(7) | 1998/12/04 07:14 [TOP] |
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おはようございます。 しばらくは書かないと言ったのですが、このHPの 管理をしている方々、OB会の運営に携わっている方々 へのお礼の挨拶を、いつも感じながら文字にはしていな かったので。あらためて、ご苦労様です。 これから本庄へ行きます。たぶん、一度戻って夜は 追分へ。所沢は昨晩の雪で一面真っ白です。紅葉に かかる雪、なかなか風情があります。皆が来る頃には 林床に落ちてしまうでしょうね。 水上勉さんとお話しをしたとき、鳥が好きなのは死ぬと 地面に落ちるからだおっしゃいました。意外に感じた のですが、なんだかわかるような気がします。 脈絡のない独白です。。。 ずい分私的なことを書いてきましたが、顔の見えない 討論の場合の配慮のつもりです。このHPは15-30期くらい の世代が中心をなしているようなので。発言者のバック グラウンドが多少でもわかった方が、散漫な文章でも行間が 読みやすいかなという配慮。不愉快に感じた方がいらしたら、 この場を借りてお詫びいたします。 それでは行ってきます。ますます、議論が発展しますように。 |
No. 0170 | 29期高橋 | 1998/12/04 02:01 [TOP] |
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・・・ずいぶん長い文章を書いてしまいました。 恐縮してます。 まあ、わたしがOBランに関しどのように考え、接してきたかについては、 そんなところでしょうか。 もちろん、求めるものは、人それぞれ。 ここ数日続いた発言は、皆さまそれぞれの立場からの たいへん読み応えのある意見表明だったと思います。 ノートに登場されていない方々も、それぞれ素敵なご意見をお持ちです。 そんな話を聞くのも、OBランの楽しみの一つです。 (頻繁に閲覧はするけどノートには登場していない方も、数多くいます。 理由は人それぞれですが、それも一つの接し方です。 それでも、だんだん増えています。この意味でも発展途上です。) ◇ 最後にもう一つ付けたしをお許し下さい。 青木さんがかつて嘆かれ、今回も最後に言及されていること、 すなわち、合宿の連絡すらないことが、大いにありえる状況。 これを何とかするために、「キーステーション」を作ろう、という思いが、 そもそも当ページが始まった一つの要因であり、 その努力は、OBの間で、少しづつではありますが続けられています。 集まる機会を持つことは、そのための手段、という側面があるのも、 わかっていただけたらと思います。 # 大堀さん、またお話を聞かせてくださいね。今年最後とは言わず・・・。 楽しみにしてる人は、私の周囲にも何人かいます。 クラブとは関係ない人も含めてです。 |
No. 0169 | 綿貫(3) | 1998/12/03 21:41 [TOP] |
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「対馬」(4) ホテルの玄関前で大荷物の袋を開け、自転車を組む。いつもの順序通りフォークを入れ、輪っぱをはめ、ワイヤーを張って、十五分後には何とか出来上がる。このツーリングのフレームは高名なレイノルズ&TOEIで、そのぐらいは分かるのだが、個々のパーツの組み合わせとなると、制作をお願いした東京・中野のHサイクルでご主人長年のコレクションを流用したものが多く、乗手には猫に小判だが、好事家が見れば垂ぜんの希こう品がちりばめられているそうである。フレームカラーは自慢のインディアン・ブラウン。バーテープ・ブレーキレバーはブラックマスク。チンカンベルも高く澄んだ良い音を出す。山のトンネルの中で鳴らして、その小さい抑揚の妙と残響の余韻に悦に入る。サドルに軽く気合をくれて、準備完了。 さっぱり客の居ない、ホテルの最上階の「展望風呂」で汗を流し、自動販売機の缶ビールを枕に古畳で昼寝の続きをする。寝過ごしたかと思う頃、役場のスピーカーが暮れ六つに流すのだろう、オルゴールの音色の哀調深い、もどかしいばかりゆっくりしたテンポの、可憐な曲の一節を寝耳に聞いて、一度だけだが聞き惚れた。起きて窓を開けると、さっき来た入江が早や夕景の影を帯びている。ロビーで下駄を借りるついでに聞くと、支配人氏、 「多分、“対馬の娘”でしょう。さよう、あれは余程古い歌です。明治かな。いや少なくとも、戦前でしょう」 運転手氏に教えられた路地を入って「志まもと」のガラス戸を引く。中は成る程、酒席で賑わっている。左側は仕切りの小座敷。右側が幾つかのテーブルで、奥まって二つの生け簀がある。最近体調を崩してアルコールを止められているが、旅先の、それもハートブレイクホテルで一献もなくては寝られない。まず、熱カンの銚子を頼む。生簀と言えば佐賀の呼子(よぶこ)の「河太郎」という店のゲソ天は逸品で、あれを食いたさに唐津から車で往復したことが何度かあった。漁場も同じ玄海、いやこちらはその海の只中だ。一食せざるべからずである。対馬はウニが名うてだが、これは夏のものだ。石ダイかおこぜか朝網のアジがよろしいかーなどと,書く事もこの辺からほろ酔いとなる。これでも「ハートブレイク」である。今宵、見目よい、もどかしいばかり可憐な対馬の娘の夢でも見ようというなら、泣き笑いは自前と言うものだろう。 第一部(完) |
No. 0168 | 高橋竜太郎(29) | 1998/12/03 20:34 [TOP] |
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皆さま、たびたびこんにちは。 修士論文の提出を目前に控えて、作成どころか見ることもままならず、 松村さんに迷惑を掛けています。 今回も執筆の合間の走り書きです。 読みづらい点はどうかご容赦いただけたらと思います。 重松さん、メールアドレス書いてませんよ。 重松さんの下のほうの発言には書いてありますが・・・。 名前にマウスを当てて、ブラウザーの下の方に表示される 「メールの送信先:」または「mailto:」に続く部分がアドレスです。 さて、青木さんの再度のご発言、読みました。 こういうものを含めて、活発な意見交換の存在は素晴らしいと思います。 多くの点で賛成、また多くの点で誤解を感じました。 あとは、一度出てみてください、という前回の発言に、付け加えることはありません。 でも、この機会に、ちょっと自分のスタンスを含めて 書いてみたいと思います。 ◇ ホームページが初めて作成されたときから今日に至るまで、 「単なる内輪受けのページにはせずに、 サイクリング界全体のためになるページを、できる限り目指そう。」 こういう意見が交わされてきました。 ランにしても同様ではなかったかと思います。 なにごとも、出来るところから始めよう。走り出してみないと何も始まらない。 問題点は、そのあと少しづつ修正していこう。 そう考えて、とりあえず出発したのがOBランです。 (私はあくまでも、かかわった中の一人にすぎませんので、 皆さまの代弁をするのもおこがましいのですが・・・。 堀内さんが出張中ですので、またこの辺を語っていただきたいですね。) もちろん、スタッフにはそれぞれ本業があります。 それ以外にも、皆、自転車以外にも夢中になっている対象があります。 すべてにおいて理想的なものを急に作り出すことは、残念ながら不可能です。 すべてが発展途上です。はじまったばかりの、模索段階です。 それは名称も含めてです。 小野さんはじめ皆さまの努力で、まずは手近なクラブOBから声を掛けました。 OB会の公式の行事とさせていただいた以上、これは当然のことです。 幸い、予想外に多くの方が集まりました。 自転車を楽しむことに、クラブ内、クラブ外などというカテゴリー分けが 必要なわけがありません。 青木さんの言葉を拝借させていただけば、「サイクリング」というカテゴリーを、 「クラブOBの集まりの場」と同一視はしたくありません。 (もちろん、同一視する人を排除したくもありません。) ゆくゆくは、単にWCCのOB会が主催している、というだけで、 クラブ・クラブ外を問わないボーダーレスなものになるのが一つの理想である、 と個人的に思っていますし、多くの人も同じではないでしょうか。(ですよね?) とりあえずできることとして、OBの自己満足に終わらないように、 現役諸君への働きかけに力を入れてみました。 有意義だった、という書き込みが現役からもあったのは、大変うれしいことでした。 (そもそも今回のご発言は、OBラン、ないしOB会の実際の活動に触れてではなく、 HPというメディアを通して見た「印象」を拠り所としてのものであるだけに、 議論を続けるのは難しいのではないか、という気も、少なからずしています。) 図書館のパソコンが閉じるそうなので、続きは深夜に。 |
No. 0167 | 大堀 聰(7) | 1998/12/03 18:32 [TOP] |
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綿貫さんの”紀行”楽しく読ませていただいています。 漢字が多い文章に接するのは久し振りのような気がします。 格調高い。 「ニューサイ」は愛読の雑誌でした。 3年のときにサイクリング紀行を載せていただいたことが あります。東北合宿の帰りにESCAをさぼって会津から プライベートランをしたときのことを書きました。塩原で 初めて混浴に入ったのです。おばあさんではありません。 若い子ばかり。今思い出しても感激です。 「ニューサイ」は私が書いたものが活字になった第1号か 2号です。 修業中はフィールドでの観察を終えるとアルバイトに 直行しました。大学院はゼミのときだけ。動物関係の翻訳、 雑誌の連載、本を書いたり、テレビの台本書きなど、 糊口をしのぐために10年近くやくざなアルバイトに明け暮れました。 月に300枚くらい書いていたこともあると思います。週に2本くらい 自分の書いたものが放映されていたことがありました。本業がなければ、 今もそのような仕事をしていたかもしれません。 当時の「ニューサイ」編集長は今井さんとおっしゃいましたっけ。 八重洲口の会社に伺ったこともありました。今はどうなって いるのでしょう。今井さんの書かれたものや他の記事に触発されて ずい分無理をして、自転車をあつらえました。たしか20万円位 かかったと思います。1年生のときには学校へ行かないでホテルで 早番中番遅番と13時間くらいバイトをしたりして。当時は時給100円 くらいだった?浪人のときデパートの売り子をして85円/時だったのは 憶えているのですが。 ディレイラーは憧れのシクロランドナーを着けました。 プルプル(?)式のやつです。その他、雑誌で仕入れた知識で可能な限り のアッセンブル。でも当時のクラブでは自転車に興味のある人は皆無に 近かった。ひたすら自己満足でした。誰にも見向きされません。 あの時代は走ればよいという時代だったと思います。自転車は道具に 過ぎませんでした。凄い自転車でがんがん攻めるのが格好よかったのです。 ただ一人何年か下の内田君だけが「いいですね」と言ってくれました。 彼は早くに亡くなられたそうですね。 現在自転車に載っていようといまいと、クラブと関わりがあろうとなかろう とそれはどうでもよいのではないでしょうか。たとえば、早稲田を卒業 したのと同じように、サイクリングクラブに籍を置いたことは紛れもない 事実なのですから。それを懐かしもうと、関わりを拒否しようと、おそらく 個人の考え方の問題ではないかと思います。どのように考えようと感じよう と行動しようと、他人がとやかくいうことではありません。青木さんは 感じられたことをお書きになればよいのですし、読む方はそれぞれ感じたり、 考えたりする。私用ノートとはそういう場ではないかと思います。 先日の3期会(前にこの欄に書きました)でも、現役時代非常に熱心に クラブ活動をしていたKさんが会の存在を認めず、出席を拒否している ということを幹事の方から聞きました。 私のように自分で走ることばかりを優先してまじめなクラブ員ではなかった ものが、のこのことそのような会に出席したりして。前にも書きましたが、 クラブに友人や付き合いはほとんど求めていませんでしたから。たぶん いつも謎の人だったかもしれません。存在すら明らかではなかった? 35周年、先日の3期会と卒業以来全く没交渉だったクラブにおずおずと 顔を出し、このようなページにマンネリといわれるようなことを暇にあかせて 書いたりしている(とはいってもほとんどは仕事以外のときに書いて、 張りつけているのですが。念の為)。出しゃばるのは、縁あって10年前に 大学に戻った気安さもあると思います。 過去を振り返ることを拒否したり、どっぷり浸かったり、同時代、 同所的に過ごしても、時間が経てばいろいろ変わる。変わることが面白い のかもしれません。共通なことはWCCにいたということだけしかありません。 したがって、除籍や除名などはありえないでしょう。思い出したくない 過去を消し去ることができないように。 誰もが時間を経ながら紆余曲折を重ね、見知らぬ地や仕事、相手と格闘して 来たのではないでしょうか。私も昔話をする友人はありません。付き合うのは 全て若い連中。それも、どんなに面倒を見たって4~5年で去って行く。 ヒヨコが成長し、いっぱしのことを言うようになる。自分を討ちまかす相手を 育てる。自分を討ちまかす相手を育てては送り出す。そのようなこと の繰り返し。因果な商売だと思います。 でも、嫌いではありません。他から評価されているかどうかもわかりません。 学内でも、世間的にも偉くもなんともない。偉くないから、誰からも評価はされ ていないでしょう。職場って、そういうところではありませんか。大事なのは 肩書き。肩書きを手に入れたものが、正しいのでは?そういう意味では、 歴や学校の名前と同じような気がしますが。 これからも何回もめげながら同じことを繰り返すと思います。評価は別にして、 今の仕事は自分の歩いてきた道にあっていると思います。 答えにもなにもなりませんね。 HPに広がりがないのは、まだまだ一般的ではないからではないですか。 利用できる世代は限られている、あるいは会社では私用で使えないなど ハード面での制約が大きいからだけではないかと思いますが。職場で このHPを読みながら、いろいろ考えている方は多いはずです。もう 1、2年もたてば、いろいろな人が登場し、活発な議論が繰り広げられる ようになると思います。それまでは、書き手が限られることはあるかも。 私もこれを最後にしばらくはお休みです。たぶん、みなさんも鼻について いるでしょうし、暮れは忘年会を含め忙しいですから。 「OBラン」は「OBラン」。昔採った杵柄。それがきっかけで 自転車の楽しさを思い出しても、男が萎えているとは思えません。 また、現役へのカンパというくだりがありましたが、それでは早稲田の 体育会と同じような体質になってしまいませんか。機会があれば援助 すればよいけれど、援助するためにOB会があるというような発想は なんだか論旨に反するような気さえしますが。 菅原さんの「必然性」云々については少し抵抗がありますが、 自転車一つをとっても、それぞれポリシーや思い入れがあるという ことで。なんだか”ぬけ忍”さんには悪いことをしたかもしれませんね。 おやじの戯言など無視してくださいね。 沢木氏の件も、同様です。マニュアル、バイブルということに絡んで、 たまたま同級生のことを思い出しただけです。愛読者である藤崎さん、 気分を害されたらごめんなさい。そのうち、本にサインでも貰っておきます。 彼は色紙は絶対に書きませんから。 私たちの時代の早稲田は自分の意見や考えをきちんと述べ、何色なのか をはっきり示さなければいけませんでした。大学立法をはじめ、あらゆる ことで意思表示をしたり、踏み絵をしなければなりませんでした。議論を するために、友人がいました。学校のことも、研究のことも、徹底的に 議論しました。考えを話し、聞き、前に進みました。未だに理屈っぽくて、 若い連中を泣かしたりします。若い人、頭はよいけれど、議論はあまり 上手ではありませんから。どこでも嫌がられる団塊の世代。 人数が多いから、自己主張しないと生き残れない! 青木さん、読解力がなく歪曲した解釈しかできないおじさん相手ですが、 これに懲りずどしどし意見を述べてください。繰り返しになりますが、 WCCのOBである事実を葬り去ることは出来ません。 どうしようもないのではないですか、現在の自分を形造っているのは そういった過去の一切れ一切れなのですよ。 |
No. 0166 | 青木宏之・26代 | 1998/12/03 02:23 [TOP] |
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私の意見に対して、早速数人の方がさまざまな反応をしていただいたことに、予想通りだったとはいえ、まずはお礼を申し上げたい。議論をする気はない、と先日書いたものの、どうも当方の意図した方向に内容が展開していないようなので、改めて私のスタンスも絡めて書いてみたい。 私は何も、自転車にもう一度乗り始めた人々や、これまでずっと乗り続けている人を、「懐古趣味」とか、いつまでも精神的に卒業できない輩などのように批判、中傷したつもりはない。さらに、クラブの思い出や、当時の人間関係を意図的に「切り捨てた」わけでもない。しかし先に発言された諸兄は、どうも私の言わんとしたことを歪曲して解釈しているようだ。 私の言いたかったのは、小難しい内容で恐縮するが、自転車でツーリングをするという単なる「目的集団」であるはずのクラブが、OBになったとたん、なぜか「集まること」が主目的であるかのような錯覚をしている人があたかも主流派のようなOB会なるものに変貌し、サイクリングというカテゴリーがそのままクラブOBの集まりの場というような解釈がなされつつあるということに、一種の嫌悪感を抱いたということだ。(もちろん、これまでの発言の中には、自転車という趣味の中で独自の境地を開いている人もいることは知っている。何度も言うように、そこまでのめり込んでいることは、素晴らしいことだと思っている) 前回の発言をもう一度繰り返すが、自転車をずっと趣味にしていく人は、そうすればいい。でも今更クラブランの亜流のように「OBラン」というものを主催、参加する意味がよく分からない。自転車は一人で乗る乗り物であるのだから、一人、もしくは「有志」の何人かでどこかに旅立てばいいのではないのだろうか。「OBランがきっかけになった」なる発言もあったが、やる気があるなら、独りでもできるものではないのだろうか。大学時代に徹底的にクラブ的自転車の乗りかたを習得してきた者ならば、それぐらいのことはできるであろう。あるいは、どうしても組織の居心地のよさを求めるならば、それぞれが現在属している会社などの組織や、自然発生的なサークルをつくって、そこで活動すればいいのではないのだろうか。それとも、クラブという手っ取り早い場で誰かに火をつけてもらわなければ動けなくなったほど、精神的に「男」が萎えてしまったのだろうか?そうであるならば、その動機は、申し訳ないがちょっと情けない。 じゃあ、HPを見ているお前の立場は何なのだ、という問いをぶつけたいだろう。私は自分の数代前後の発言を喜んで見ている(見ていた)だけだ。正直言って、見たこともない遠くの代の人がどうなっているのか、まったく興味がない。(OBがどこかのスーパーの社長だか何かになったという「ニュース」も以前あったが、それこそどうでもいい話だ)さらに最近では、自分の数代前後の人も含め、常連の人が多くなっていることに、飽きもあるのは確かだ。だからそろそろこのHPも「卒業」しようかと考えている。 インターネットを覚えたてのころから、このHPを見させて頂いた。よくあるスケベHPだけでなく、こういう使い方もあるのかと認識させて頂いたことに大変感謝しているつもりだ。ただ、大学を卒業して自分なりに紆余曲折を経た約10年を、まったく見知らぬ土地で徒手空拳、暗中模索してきた私は、これまでの自分からは確実に変わった気がする。メシの種としてたまたま今住むこの場を選んでいるが、少なくとも周りに常に昔話ができるような友人がいなくても寂しくはなくなったし、今では最小限の付き合いだけでも、満足できるようになった。むしろ、一人でいることの気楽さ、面白さ、過激さを発見したぐらいだ。 たぶんこれからは、自分の代の数代前後のごく限られた者とだけしか接触することもないのかもしれない。あまりに多くの交際は、私の能力のキャパシティを超えるだろう。そのようなわけで、今後は幽霊部員ならぬ「幽霊OB」となるだろうし、それが嫌な向きはOB会を除名なさることも検討することにもなるかもしれないが、それでも構わないと思っている。もっとも私も「来る者は拒まず、去る者は追わず」をモットーとしているので、東北の山々をめぐるなり、温泉に浸かるなりするついでに「個人的に」東北に寄る余裕があるならば、拒まない。(これまで3人がわざわざ時間を割いて私に会いに来てくれた。参考までに、いずれも私の同期だが) 最後に、「OBラン」という名称は、個人的には止めた方がいいと思う。「OB」という名で何かをしたいならば、自分たちの満足感を享受する活動に費やすよりも、むしろ現役生の自転車購入や合宿費用補填などの活動にしてあげた方が、よっぽど前向きなのではないかと思う。OBとしてのつながりを重視したいのは分かるような気がするが、活動の実態は、HPへの発言が、今一つ広がりがないことからも明らかであると思う。「OBだから」という理由ですべてが受け入れられると考えているならば、あまりに醜悪だ。私が現役のときのOBの思い出は、台湾合宿のときに尽力して頂いた毎日観光の方やたまたま合宿に自主参加し、いっしょになってキャンプ場などで動いてくださった方くらいしか覚えがない。あとは、どこかの銀行に就職した人が、自分の営業成績を上げるために、体よく口座開設を半ば強制的に迫ったことや、やはり合宿で先輩風を吹かせた人くらいだ。ちなみにいつだったか、こちらの方で夏合宿があったとき、差し入れや打ち上げのカンパくらいしてあげられればと思ったが、結局連絡がなかった。 |
No. 0165 | 重松 宏(27) | 1998/12/02 20:41 [TOP] |
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青木さん、お元気そうですね。もう何年もお会いしてませんが。 僕は自転車が好きなだけです。 大学で自転車始めて、自分の世界が大きく開けましたから。 僕にとってのWCCは過ぎたことですが、そのとき得られた経験や友人は僕の宝なので、大事にしていきたいと思ってます。 それだけです。 ウシウシ臼井へ こちらに遊びに来るなら大歓迎だ。 メールアドレスはこの私用ノートの名前の部分をクリックすれば遅れるはずだ。(そうだよね、高橋君?) 連絡待つ。 |
No. 0164 | 菅原(1) | 1998/12/02 09:14 [TOP] |
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玄関の片隅に長いこと自転車が埃をかぶってぶら下がっていた。時には5~6年も乗らないこともあった。毎日が仕事中心で自転車に乗ると言う気にもならなかったこともある。ひょっとした事で再び乗り始めることになり、最近では休日ごとに乗るようになった。走っていると実に楽しい。ただそれだけ。「必然性」も「べたべた」もない。山道を峠に向かって登っているときの面白さを思い出したのさ。WCCのHPとOBランが一つのきっかけであった事は確かだ。OBランの朝食時、向かいに座った後輩は文部省へ行く予定だと言うので、飯を食いながら教育の話になった。先輩も後輩も年の開きも感じなかった。確かに言われてみれば自分の子供よりも若いやつだった。 |
No. 0163 | 16期金澤信之 | 1998/12/01 22:02 [TOP] |
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時々、ふと、考えることがあります。 子どももいて、つれあいもいて、母親と同居していて、猫もいる。 それなのに、42の厄年中年なのに自転車が好きなんだな。 申し訳ないけど、OBランにも参加経験はありません。 機会があれば、いつか行きたいとは思っています。 事故で何度か入院したし、落車で今年も血みどろになった。 しかし、やめられない。 日曜日には100KMは走る。 それも、必ず山を入れる。(低いけどね。) 平日には、飲まない限りローラー台をやる。 夜中、11時ぐらいにやることもある。 レースは月に1~2回は出る。 一体、何故走るのだろう。ヒルクライムのコーナーリングで加速した一瞬、 気持ちいいんだよね。ゴールスプリント、単純に没我状態だね。 目標は、走る爺です。 たまたま、夢中になれるものがロードレースだったのかな。 人それぞれですね。多分。 ここ数年、つれあいにお願いしているのは、コルナゴのC40!!! ほしいよ、本当に馬鹿だね。 秋の夜長の無駄話でした。ごめんなさい。 |
No. 0162 | 荒田楠生 | 1998/12/01 21:59 [TOP] |
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お久しぶりです。DCCの荒田です。 今年最後の立命館クリテリウム(11月22日開催)のレースは3位でした。金沢さんのように優勝出来るよう今後とも精進致します。 |
No. 0161 | 7期 大堀 聰 | 1998/12/01 16:12 [TOP] |
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昨日は市の委員会の視察で横浜に行きました。 駅前の県民サポートセンターでボランティア活動 についてのレクチャアを受けてきました。 市のいくつかの委員会の委員をしていますが、 今回のは生涯学習の委員会です。所沢でも、 人材バンクなどを立ちあげる計画があるので、 そのための視察です。いろいろ勉強になることも 多いのですが、中華街で食事をしたりするのは どうもいただけません。まあ、慣例なのでしょうけれど。 山口美江の店で本人を見たり、帰りには横浜駅で大魔神社 を見てきたりもしましたが(自宅が横浜に近いので現地参加、 現地解散させてもらった)。 今日は早朝の調査のあと、3人の来客、午後は告別式があり 今戻りました。合間を見て、この文章を書いています。 3名が植物の調査、1名が鳥のデータ整理、1名が事務をしているので、 一人だけこんなことをしているとまずい。少しだけ。 ドキドキしながら”書き込み”ボタンを押した青木さんの 姿が目に浮かびます。思いついたことを何でも書き込めばよいと 思います。いろいろな考え方があってよいのだと思います。 そのような場としてこのHPは存在しているのではないでしょうか。 青木さんもクラブのOBだからこそ、このHPに書き込みされている のではないですか。このHPに書き込む方はクラブOBか自転車や サイクリングに興味を持つ方が多いのではないかと思います。 懐かしさもあるでしょうが、ほとんどは気軽なおしゃべりという 感じがします。OBランも出てもよいし、出なくても別にどうという ことはない(イベントを企画したり実行している方ゴメンナサイ)。 私はクラブ時代は熱心なクラブ員ではありませんでした。 自転車が好きで、走るのが好きだったから籍を置いていただけの クラブ員でした。中学時代から走り出し、高1のときには東京から 大阪まで走りました。その後も時間を見つけてはあちらこちらを 走りました。いつも一人で走っていました。大学時代もクラブランや 合宿よりも自分の走りを優先させる勝手なクラブ員でした。 夏休みも(当時は7月に入るとすぐ)ほとんど一人で2カ月間出かけて いました。4年間で合宿に参加したのは1回だけだったと思います。 とんでもない部員でした。学科が1学年20名ほどだったので、 クラブは自転車をやるところと割り切っていました。他の人と違い友人を 求める気はありませんでした。それでも何名かの友人はいましたが (こちらだけがそう思っていた?)。私の前後の期の方の書き込みは ほとんどありませんが、この文章を目にしている私を知っている連中 は苦笑しているでしょう(皆読んではいますよね)。 何考えているかわからないけれど、勝手なのがいました、よね。 30年ぶりに言い訳させてもらえば、卒論で私が指導を受けた 教育大の先生が仕事以外のことをやることに大変厳しい方だったのです。 4年から10年間ほどはフィールド入り浸りの生活でしたから。 野外と勉強とアルバイトに明け暮れていました。 悪い習慣で未だに休まずという生活が続いてしまっています。 どのような形であろうとWCCに所属していたことは事実です。 別に懐古趣味も古傷なめあう気持ちもありません。いろいろな 職業、立場、地位、年令、考え・・・の方々と交流できることが 楽しいだけで、クラブに大した貢献も実績もないのに出しゃばって 書き込みをしているだけです(少しはやりすぎかなと思ってもいます)。 仕事を離れ、利害関係抜きに勝手なことを書いたり、意見交換したり 出来る場は貴重ではないかと思っています。そのような場として、 かつては籍を置いたクラブが現在も存在し、それぞれがそれぞれの場で 活躍し、いろいろ考え、活動しており、そのような立場からいろいろな 意見が(忌憚なく)述べられているのを読むのは仕事の合間の箸休め のような役割を果たしてくれてるのではと?他にもいくつかのMLや グループでメールのやり取りはしていますが、それらとはまた異なる趣き があります。 時間切れです。 いつも中途半端で終わってしまいますが、おまけに論旨も 不明確ですが、悪態でも愚痴でも不満でも不平でも、自慢でも 近況でも、気の向いたことを書き込めばよいと思います。 因みに我が調査室は「来るものは拒まず、去る者は追わず」が モットーです。興味があれば来ればよい、嫌なら黙って去ればよい。 だから、早稲田に限らずいろいろな大学の学生が学部の1年生から、 D6まで出入りをしています。規則は時間厳守ときちんとデータを とることぐらいかな。大学には虐げられているけれど、地元や 学外者には結構支持されています。 なんだかいつも訳のわからないことをずらずら書いているだけ。 推敲の時間があれば。。。(あっても変わらない?) そういえば人科の学部報にダイオキシンのことを書きました。 興味がある学内の人は読んでください。 |
No. 0160 | 29高橋@WEB管理人 | 1998/12/01 13:08 [TOP] |
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私用ノートの分割作業に思いのほか時間がかかり、 1時間ほど不具合がありました。お詫びします。 その間に書きこまれ、消えてしまった方がもし居ましたら、 どうか、再度書きこんでくださるよう、お願いします。 よろしくお願いします。 |
No. 0159 | 高橋竜太郎(29) | 1998/12/01 11:45 [TOP] |
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こんにちは。 最近、オピニオン交換で盛り上がることが多く、 WEBチームの一人として、とても嬉しく思っています。 青木さんのご意見読みました。ありがとうございます。 個人的な考え、ということで申しますが、 (といっても、行事に参加しているほかの方の感じ方と共通する点が多いと思いますが) クラブのOB会に、「昔を語り合うこと」を求めていません。 新たな知らない人と交流するための場の一つ、と感じて接していますし、 HP作成、もしくは行事の企画をするときには、そのことをも大いに考慮することにしています。 もちろん、親しい人・知っている人の「今」と接する、という面もありますが、 あの時の感動を再度、とは考えたことがありませんし、 傷をなめあったりなど、絶対にしたくありません。 (個人的に大学院生なので、必然的に現在の状況が大きく異なる人ばかりで、 刺激を求めて、という意味合いが強いです。あと自転車が好きです。) ネット上だけのつきあいでは、いろいろイメージしていることのずれが生じます。 これも仕方ないことですね。 一度参加してみてはいかがでしょう。 そこにあるのは、年代を超えた、 バックボーンを超えた、 当時の先輩後輩の関係など超えた、前向きな人間関係だと思っています。 |
No. 0158 | 臼井(27) | 1998/12/01 10:04 [TOP] |
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はじめまして。始めて書きます27代臼井です。茂木君おめでとう。安東さんおめでとうございます。地球上を瞬時に情報が駆けめぐる。便利っすねー。関係者の皆様に感謝。 ところで疎開中なのに、ダイビングしている重松くん。1月(16-20)か2月(13-17)にそちらの方へ旅行に行きたいのですが、時間作って、遊んでもらえますか? E-MAILのアドレス控え無くしてしまった。連絡ちょうだい。 臼井 |
No. 0157 | 青木宏之・26代 | 1998/12/01 02:42 [TOP] |
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HPをほんの時々「見させて頂いている」分際で、クラブOB諸氏が盛り上がっているところに冷水を浴びせるような事を言うと、きっと気分を害される方も多いだろうが、最近の私用ノートの内容を通してOBの一人(「OB会の一人」という意識ではない)として一言。 このところ、OB同士がいっしょに何かをやろうという企画が多い気がするが、自分の代の数代前後の者だけで、あるいはまったくの偶然で意気投合した者達だけで、林道走りのサイクリングをささやかに行っているのならともかく、「みんなで昔を語り合おうよ」といった雰囲気(に見受けられる)で、集団で走ることは、そんなに楽しいことなのだろうか? 今はまったく自転車に乗っていない者としては、自転車を一生の趣味として、そこまで純粋にのめり込んでいることには、その持続性はすごいことだと素直に思う。私にとって自転車はそれほどまでにはのめり込む対象には、今のところなっていないから。 ただ、一つ引っ掛かるのが、なんでまた「クラブOB」として再び集まるのか、その必然性がわからないのである。わたしはこのHPが好きだし、と言うより好きだったし、私用ノートを単純に互いの情報交換の場として使っているぶんには、たまに立ち寄るにはそれなりに興味深いHPとも感じていた。けれども、クラブのOBがいまだ精神的に大学から卒業できずに、相も変わらず大人になりきれない先輩後輩の関係を続け、しかも実際に大学を卒業してからもう何年も経っていて、それぞれの生活のバックボーンがまったく異なるにもかかわらず、いまだに「昔の仲間ともう一度『あの時の感動を』味わいたい」といった空気を感じさせられるのには、正直言って辟易している。 「君も大変かい」「僕もそうなんだ」「じゃあまた集まって語り合おう」という関係は、所詮互いの傷をなめあっていること以外の何物でもない。それどころか、「せっかくのOB同士なんだから、ここらで人脈でも広げておこう。いつか何かの役に立つかもしれないし」といった胡散臭ささえ感じざるをえない。 断っておくが、私にとっての大学生活はクラブ中心だったし、楽しい大学生活を送れたのもクラブのお陰だと今でも思っている。ときには当時を思い出すこともあるし、本当に世話になった先輩、同期、後輩の冠婚葬祭には、極力時間を作って駆けつけてきたつもりだし、これからもそうするつもりだ。自分の結婚式でも、少しでもたくさんの人に会いたかったから、そして当時のクラブのみんなに感謝していたから、とんでもないクソ暑い時期にもかかわらずわざわざ来て頂いた。来て頂いた人たち、遠くから祝福して頂いた人たちには、いまでも本当に感謝している。 しかし、そういう場はあくまでも「ハレ」の場であり、たまにあるからうれしく懐かしいのではではないのだろうか。OB総会に飽き足らず、あまりに短いスパンで会い続けることに、一体何を求めているのだろうか? 繰り返すようだが、私は大学時代のクラブ生活に満足しているし、あの事以上の生活は考えられない。何よりもクラブ生活の中のいろいろな場面が、大切な思い出だ。ただ、私はクラブが好きだったのであり、自転車自体にはそれほど思い入れがなかったのかもしれない。 「終わらない祭りはない」。今、私が痛切に感じていることだ。祭りの季節は終わったのだ。いつまでも終わった祭りに引きずられてはいけない。「あの時輝いていたあいつがきっと頑張っているのだろうから、俺ももうひとふんばりしよう」と今の生活の中で感じられるような、(先輩、後輩含めた)友達がどこかにきっといるという、そんな心の平安を持ち続けることで十分なのではないだろうか。 今でも自転車にこだわり続けることには敬服しているつもりだ。しかし、クラブのOBが集まらなくてはできないことなのだろうか。この私用ページの常連になっている人に特に聞きたい。「あなたは自転車が好きで乗り続けているのですか? それとも、クラブの人間関係が忘れられなくて今でもしがみついているのですか?」 卑怯かもしれないが、私はこの事について別に論争する気はない。ただ皆から「変な奴」だと思われようが、OBの中にはこういう考えを持つものもいることを知っておいてもらいたい。現在の「OB会」にしがみつく気はさらさらないが、もしこういう考えを排除したいのならば、それも結構。あまりにべたべたした関係でいるのが嫌なだけなのだ。 ただそれだけのことだ。 |