峠9号_1972_1971年度

峠の詩

峠の詩

満身の力をペダルに込めて
峠に立ち向かう若者を
ある時は威光を放ち
「自然」という触手を伸ばして
冷酷に拒絶し
ある時は和解を示し
「自然」という暖かい眼差しで
そっと微笑み抱擁する

さあ君も行こう
青春の1ページを
書き綴って呉れる峠に

ノーカーデー雑感 – 文学部教授 清原会長

ノー・カー・デー雑感
文学部教授 清原会長

ノー・カー・デーという運動が喧伝されている。ノン・カー・デーというべきではないかなどと考えていると、なん・か・デー、なんとかデー、なん・かかあ・デー、なにいってやがんでえ、などなどと、あてどもなく連想ゲームめいてくる。とにかく、サイクリング・デーなどは大いに盛んになってほしい。とはいっても、私のサイクリング推進論は素朴すぎるかもしれない。私はサイクリングを歩行や疾走という人間の自然運動へ方向づけて考えているわけであり、決して自動車による人工運動へ方向づけようとしないからである。

人間性の回復という美名を、このサイクリング論へ冠せることは、一見たやすい。しかし、人間性の回復なら、道具を使わないで歩けば、なおよいはず。それがストレートというもの。セックス・プームがなぜポルノ・ブームになるのか。これもあれも人間性の回復やら解放やらと美名?がつく。問題は大昔から提起されている。「好色」を「源氏」へ方向づけるか「48手」へ方向づけるかによって、人間性が解放されたり、抑圧されたりするものなのか。そんなバカなといいたいではないか。好色はどこまでいっても好色で、それ以上でも以下でもない。このことばだけが大切なのである。

色といえば、兵法で「色をみる」という1種の極意を意味することばがある。「色っぽい」というのと同じ意味だと思う。ある瞬間、端的にその人のその時の全内容が閃めく。それを直観することらしい。つまりは、色っぽさによって、彼女の人間性が閃めくわけだ。別に着ものやモラルをはねのけて開放したなどという、ストリップ式の妄想を持ちこむ必要はない。チラリズムはエッチなどと、粗雑なケチをつけることもない。

色々なことを書いてしまったが、サイクリングのための、サイクリングによる、サイクリングをしていることが、やがてなにかを、そしてすべてを、知ることにつながるものと信じたい。

1971年度夏季合宿記録 能登・中部山岳 – 政経学部2年 平川

71年度夏季合宿記録
能登・中部山岳 政経学部2年 平川

7月30日(金) 晴れ
2時金沢駅集合
7月の下旬というのに日本全土を雨雲が覆い尽くし、至る所に多量の雨を置き去った。就中、合宿の出発点金沢も、合宿の始まる4日前に大雨に見舞われたのである。しかし、日本全土に多くの被害をもたらした雨雲もどこやら行ってしまい、その厚い雲の後ろから、巨大なエネルギーをはらんだ白い太陽が、その姿をむきだしにした。北陸の雄都、金沢の空も青く染まった。だが、大地の含んだ湿気と強烈な日射しのため、金沢の町は熱気にうなっていた。ここに1971年の夏季合宿は始まりを告げた。

合宿の集合場所は金沢駅、時刻は午後2時ということになっていたが今年はどうだろう。2時前にクラブの面々は、今や遅しと駅の広場にたむろしているではないか。しかもほとんどの者が、兼六公園・石川門などの名所を見て来たというのだから、これまた驚きである。心の準備は万全、おのずと余裕が感じられる。1新聞記者の取材に1年の三沢君や酒井君が応じていたが、なかなか立派な口をきいていた。後日、我がクラブの合宿風景がその新聞に掲載された。とに角、今年は2時には全員が揃い、予定通り点呼が行なわれたのである。点呼の結果、34名の合宿参加が確認された。金沢へ来る道で、横山君が事故で参加が出来なくなったのが、唯一つ残念であった。

ところで点呼の後、金沢駅を背景に写真を撮り、2時半に駅を出発。キャンプ地の内灘まで約8キロの道を、適当な間隔をあけてまず無事に走破した。内灘は海水浴場である。各班の役割にあたった時を除いて、たとえば、買い出し班なら炊事班が仕事を行なっている間に、泳いだ。

買い出し班が帰って来たのは4時半頃であった。そして、食事が出来たのは7時を少々回っていて、もはや陽は役していた。しかし、久し振りに皆と一緒に食べる料理はうまい。食事の後はミーティングである。いつものように、1人1人今日の反省や感想を言った。ミーティングにおいて、中丸君から、「今後もこのような(今までと同じような)形式でミーティングを行なうのか。時間もかかることだし、もっと違った方法でやった方がいいのではないか」という主旨の問題が提起された。この問題は明日はっきりさせるということで落着した。ミーティングが終わったのは8時40分だった。3年生は、4年、2年、1年が寝た後も、中丸君から出された問題や合宿中の走行方法について話し合っていた。

7月31日(土) 晴れ
金沢 – 富来74・5キロ
今朝先発隊を命ぜられ、大いに緊張した。班の者をせきたてて早く出発するように努力したが、自分の点検不足もあり。予定より少し遅れて8時10分に出発した。

内灘を出発して程なく分れ道に出会ったが、地図にはこのような道は載っていない。道路の標識は、あたかも左折を勧めるかのように懇切丁寧に行先を指示していた。しかし、いくら地図を見てもこの道路は記されていないようにあったので、4班は直進した。そして、50分走ったところで第1回目の休憩をとった。多分、後続部隊が我らをスイスイと追い抜いていくであろうと予想しながら休んだのであるが、いくら待てど来ない。休憩の時間が終わりに近づいた時、ようやく関口さんの班が目の前を通り過ぎて行った。聞くところによると、関口さんの班は最後に出発したという。では一体、残りの班は何処へ消え失せたのであろう。多分、あの地点で左折したのであろうと思われるが・・・。

ところで、我らが休みをとったドライブインの御主人は非常に親切な人で、質問に対して詳細な説明を与え、遂には、質問しないのに解説し、質問を催促するほどであった。彼がまだ話し足りなさそうなのを知りながら、私はリーダーという役目上、次の目的地に向かって出発することを宣言しなければならなかった。

いよいよ、今日のハイライト、千里浜渚ドライブコースである。前評判が良かったので、アマノジャクな私は期待をしなかった。果たしてその通りで、皆がっかりしていた。尚、このドライブコースは、夜は有料になるという。さて、千里浜渚ドライブコースの終点は羽作である。多くの班は羽咋で昼食をとったようだが、4班は更に走って高浜で昼食をとった。

この高浜という所は、無愛想な町であった。国道249号線からの進入経路を明示していなければ、地図に記載された交叉点なども無視して、新しくその入口を造り変えてしまっていたのである。この入口が分らなくて、道路に立往生して地図を何度も繰り返し見ていると、後から奥野君の班がやって来て、「高浜へはこの道を真っ直ぐ行くんだろう」と言う。自信もないのに、思わず、「そうだろう」と言ってしまったから大変だった。実は、高浜への入口は、立往生していた地点から50mほど手前にあったのであり、そうとは知らない奥野君の班は、最早声の届かぬ所に疾走しており、結局、彼らは我らよりも先を行ったのだが、目的地には遅れて着くし、上らなくてもよい峠を上るという結果になってしまった。

さて、奥野君の班には悪い事をしたが、不思議に順調な4班は、高浜から厳門までの海岸沿いの地道を今迄より一層快調に走り、今や厳門という所まで来て、あとは坂を下るだけとなった。 十分な間隔をあけながら、しかも 十分な注意を払って下っていた時、小野君が砂利に轍をとられて転倒し、連鎖的に加藤君も転倒した。幸い怪我は軽く大事に至らなかった。

目的地直前の転倒で少し機先をそがれたが、それでも先発隊としての役目を全うし、余った時間を水泳をすることによってつぶした。全員揃ったところで、テント張り、買い出し、食事の準備が始められた。買い出しは、福浦までの道を往復したらしい。このようにして、最後にミーティングが行なわれた。今日は、分散ミーティングであったので、各学年で問題にされたことは詳細には分らないが、コースのとり方が問題にされたようであった。

8月1日(日) 晴れ
富来(厳門) – 會々木69・6キロ
昨日、コースが曖昧だったことを反省して、今日はコースを完全に指定した。各班、出発前のミーティングを行なった後、先発隊を先頭にして厳門をあとにした。

今日は昨日にも優る悪路である。連日の好天で道路は乾ききり、自動車の通過のたびに砂塵が舞う。この道路を見て、パンクが続出するであろうと予期したのは私だけではあるまい。尻に軽い震動が伝わるたびに、「パンクではないか」とビクビク走らざるをえない状態だった。案の定、パンクならず、スポーク折れや、ペダル折れが続出した。

しかしながら景色は良かった。千ノ浦や関ノ鼻など随所に立ち寄っては景色に眺め入っていた。その関ノ鼻から数キロばかり走った所で、ようやく舗装道路に入り、自転車の故障に気を使うこともなく、初めて肩の荷を降ろしてサイクリングすることができた。

10時50分、我々は総持寺に着いた。総持寺は、北陸の数ある寺の中でも有数のものであろう。今でこそ、祖院となり、本山を神奈川県鶴見に譲ったものの、かつて曹洞宗大本山として繁栄した様子がその伽藍に偲ばれる。拝観料を払った後、参道を経て祖院を巡拝した。そして、あとから参拝に来た班の者におきまりの挨拶をかわしつつ再び参道から道路に出た。

門前町で昼食をとり、輪島へ足を急いだ。門前町から輪島の間に軽い峠があり、峠にさしかかった所でフリーランとし、各自持ち味をいかして峠上りにアタックした。峠であふれる汗を拭いとり、続いてダウンヒルを遂行。ヒルクライムのあとの爽快感を楽しんだ。

そして、輪島には1時45分に到着。官々木まで約20キロ残すのみとなり、予定の3時までには着けそうな状態であった。しかし、輪島を2時に出発したものの、道路はアップダウンの連続で、3時迄には着くことは出来なかった。去年の但馬海岸ほどではないにしろ、長々と続くアップダウンの連続には嫌味を覚える。特に1年生には苦痛のようであった。

ところで、我々の班が會々木に着いたのはまだ早い方であった。先発隊はまだキャンプ設営地を物色の際中であり、また7班のうち4班は到着していなかった。我々は道路傍に自転車を無雑作に倒して、何をするともなく先発隊の連絡を待った。そして先発隊が帰ってきたところで、テント設営や買い出しを始めた。しかし、買い出しの班が1班遅れて来たため、4班が代わりに買い出しに行った。続いて食事の支度がなされた。その間、暇な者は時国家を見学して回った。

この日はスケジュールがきつく、ほとんどの者が疲れ果てた顔していた。朝の悪路によって故障が多発したことと、舗装道路のように予定通りには走れなかったことがその原因であると思われる。

8月2日(月) 晴れ
會々木 – 恋路75キロ
能登も最近は観光の波に乗って道路もかなり舗装されたようだが、奥能登に入るとまだ未舗装の道路が細切れに残っている。今日はいよいよ能登半島の最先端禄剛崎を訪ずれる。だがここへの道はきっと悪路で、ほこりまみれになり、その上バンクをおこすであろう。

まず我々は、小野君をリーダーにして順調に歩を進めた。予想通り悪路であり、観光バスの通過のたびに砂塵を浴びたが、不思議と故障は生じなかった。平穏無事に走行し、何事も起こらず禄剛崎に到着するかのように思われた。しかし現実は無情である。あと500mで禄剛崎という時、加藤君がパンクを起こした。もしパンクするなら、班の誰のよりも私のタイヤがパンクを起こすであろうと考えていたのだが、不幸にも、パンクを起こしたのは私でなく加藤君であった。パンクは直ぐ修理できそうであったので、土肥さんと加藤君をおいて禄剛崎で待つことにした。

禄剛崎は予想したよりも素晴らしい所だった。と言っても、白亜の燈台と青い海があっただけだが。アイスキャンデーをほおばりつつ燈台の回りを歩いた。そして、海に目をやった。しかし、晴れにもかかわらず視界は効かなかった。だが、恒例の記念撮影だけは欠かさない。4班のみでなく他の班の者も、写真は欠かさなかったようである。

写真を撮れば皆安心して先へ進む。我々も、燈台のそびえる高台から店の立ち並ぶ所へ戻った。そして、昼食は更に先の所でとることにして自転車を進めた。飯田へ向かったのである。だが、粟津の手前で起こるべくして私の自転車はパンクした。1度は直したものの、修理の仕方が悪かったためか、ほどなく空気が抜けた。改めて見直したのだがなかなか原因が分らない。1時間程かけてようやく原因をみつけた。

粟津を出発した時、既に時計は1時を回っており、昼食は2時に飯田でとることとなった。粟津から飯田へは、山の道を通る予定だったが、丸山さんの指示で海側の道を通り、飯田を経て恋路へ向かった。しかし、健脚の揃っている班で、山の道を通った班があったそうだ。

この日は、すべての班が予定通りに到着し、食事の支度の合間に、泳いだり相撲をしたりするなど、万事にくつろぐことが出来た。しかし、個人的には甚だ不愉快であった。なぜなら、靴は曾々木におき忘れてくるし、唯一のはき物のサンダルは水泳中に誰かに盗まれるし、その上、はき物を買いに行っては下水のフタの隙間に足を突っ込んでしまい、声も出せない痛みを負ったからである。人が楽しく行動していたから、その不快さはなお更増加された。

8月3日(火) 晴れのち曇り
恋路 – 七尾12キロ
今日は半日休養である。そのため、朝食も不断より遅かった。できたてのパンにバターやマヨネーズをぬって、裕々と食べることができた。砂浜に円を作って、例のように食事したのであるが、誰もが平和そうにパンをほおばっている表情からは、昨夜食器を盗まれた被害者の表情などは読みとれない。また、合宿のように疲れる時においては、食事や睡眠などのような自然的行為ほど、心をなごませるものはないように思われる。

食事の後、周囲をかたづけて、午後2時迄に小木港に着くとの約束のもとで、散々五々、各班ごと恋路を出発した。我々も11時半頃、8ミリに撮影されながら小木へ向かった。1時間とかからずに小木に着き、氷を食べ、その後、港に行って桟橋に寝転んで時間のたつのを待った。

七尾港に着いたのは予定通り6時であった。もはや陽もかげり、少し暗かったがひとまず七尾駅に行き、先発隊以外の班はキャンプ地が見つかるまでの間食事を取り、その後キャンプ地に向かうことにした。

3時前に船に自転車を積み、出船を待った。3時丁度に出航し、一路 七尾に舵をとった。クラブ員は、思い思いに陣取り、ゴザの上に寝て 七尾に着くまでをすごした。但し、中丸君は1人、ダンスパーティの券を売ることに全力を注ぎ、 七尾港に着いたところでとうとう2人の女性に売りつけた。この中丸君が、売るか売らないかで賭をやり、彼の一挙一動に、一喜一憂している者もいた。

班ごとに夕食を済ませ、いよいよ暗くなった駅前に再び集合し、先発隊の先導に従ってキャンプ地に向かった。キャンプ地は駅から3、4キロ離れた所にあった。ここは、昔は城があったらしいが、今は体育館や競技場の1部に含まれているに過ぎない。キャンプ地は木が繁茂していて、平らかな場所が少なかった。また真っ暗であったのでテントが張りにくかったが、全員が協力して速やかにテントを張った。テントを張った後、ミーティングを行ない、続いて風呂へ行き、風呂に行かない者は雑談などをして就寝までの時間を過ごした。この日の夜は風がなぎでむし暑く、また蚊が多く、なかなか寝つかれなかった。

8月4日(水)晴れ
七尾 – 城端83キロ
起床は5時40分。これ迄、昨日を除き常に5時30分であったが、今日は少し寝過ごしたようだ。

我々は、他の者がトレーニングをしたり、テントをかたづけている間に朝食の準備を行なった。最後にスープができ上がったところで、全員揃って朝食。朝食の後、2年並びに1年の仕事である鍋運び、テント運びについて、各自の分担の再確認がなされた。

8時半頃キャンプ地を出発。 七尾を過ぎて間もなく峠があったが、概してなだらかな坂で、皆苦もなく上った。続いて同じような坂があったが、我らには足ならし程度の物足りない坂だった。坂を下った百海で休憩した。

再び海を眺めながら氷見へ向かう。途中で再度休憩をとった。中波という所である。この辺で、慶応大学サイクリングクラブの能登合宿班とすれ違った。氷見への道は平坦であり、彼らに会った以外は変化のない単調なサイクリングだった。

氷見で3回目の休憩をとった後、高岡へ向かう。高岡へは伏木経由で行くことが、朝のミーティングで指示されていた。危うく伏木に寄らず、直接高岡へ行ってしまうところだったが、分岐点から2キロ進んだ所で誤まりを発見。急処、道を戻り伏木の道に入る。途中、雨晴などの名所を通った。指定された伏木を経て高岡で昼食をとった。高岡に着いたのは12時20分であった。

高岡で中山さんや宮崎さんと合流。高岡駅を13時半に出発し、途中、高岡市内で瑞竜寺を見学。瑞竜寺を2時20分に立ち、目的地城端に4時迄に着くように急いだ。城端駅に着いたのは丁度4時であったが、瑞竜寺で休み過ぎたためノンストップで走った。1年には苦しかったようである。これは私のリーダーミスであった。

他の班の面々は、既にキャンプ地へ行っており、我らの班のみ後からキャンプ地へ向かった。キャンプ地は学校の運動場であった。そこからは、山の中をくねくねと走る道が見渡せた。しかし、その道は明日上る峠ではないとのことだった。

7時頃夕食をとり、引き続いて砂子さんから瑞竜寺に立ち寄った班のみ、食後ただちに腕立て伏せが50回課せられ、次にその理由が説明された。「指示された道を通らなければ、後から着いて行く主将として責任が負えない。もし誰かが交通事故にあった場合、、このような行動をとられたら、全責任を負うべき主将として最善の措置がとれない。特定の班のみ功名心を上げるようなことは慎しむべきだ」というのが、その理由であった。これに対し、反論として、「必ずしも市内の通り方は指定されていなかった。また、走行方法は合宿前の種々の会議において開かれるたびに変わり、合宿に入ってから更に変更され、下級生にその事が確実に伝達されていなかった」等々の意見が述べられた。また、この機会を利用して、各種の問題について意見が出された。この論戦は、2年と3年の対立・意志の疎通を露呈したかのように思われた。

このようにしらけた雰囲気であったが、スイカの味は素晴らしかった。このスイカは、4年生の宮崎さんのさしだしによるものである。冷えたスイカを食事時に運んでいただき、 十分にその味を満喫することが出来た。

この後、風呂に行ったり、2班ごとにミーティングを行なったりした。そしていつものようにふり当てられたテントで就寝。

尚、予定では、礪波から庄川へ行く予定であったが、礪波から坡端へ行くことに変更した。

8月5日(木) 晴れのち曇り
城端 – 菅沼32・5キロ
5時半起床。直ぐトレーニングを行ない、各自、自転車の点検、テントのあとかたづけを行なう。続いて朝食・あと始末を行ない、出発。

今日は、合宿に入って初めて峠らしい峠を上る。標高差600メートルの細尾峠がそれである。城端から道はじわじわと上り、瀬戸という所をすぎた辺りから舗装も絶え、本格的な山道に入った。坂道を体重をかけながら上って行くと、時々視界が開けて眼下に紫色がかった景色が目に入った。

光線の具合だろうか、緑の田畑に紫色のベールがおおってふろかのように思われた。そして、いつの間にかこの景色は姿を隠した。我々はただ黙々と走り続ける。とまた視界が広がる。この繰り返しが幾度か続いた後、道路工事の現場へたどりついた。

ここには、先着の班の者が通行待ちのため、たむろしていた。我々は、近くの清水で喉を潤し、道路の開通とともに細尾峠目差してスタートした。尚、ここからはフリーランであった。しかし大した苦労を伴わずとも、峠を手中にすることが出来た。実際600mの標高差があるとは思われなかった。

峠で休憩の後、やや坂を下ってもう1つ坂を上った。途中、アブが人間の匂いを嗅ぎつけてたかってくるのには往生した。自転車に乗っている身の事とて、手で払うこともままならなかった。言い忘れたが、宮崎さんとは細尾峠で別れた。

アブがつきまとった坂をきわめ、そして下った所で昼食。後から関口さんの班も到着。関口さんは蜂に刺されたとかで、顔の一部が異様にはれていた。

ここから今日の目的地の皆葎までは、わずかな道のりである。先発隊の後を追って我が班も出発。途中に合掌造りの家があったが、寄らずに何はともあれ目的地へ。しかし、皆葎には適当なキャンプ地や提供される学校もなく、少し先に行った菅沼のある駐車場にテントを張ることに決定した。皆葎で買い出した後、曇った空の下をキャンプ地へ向かった。そこには合掌造りの家々が保存された部落で、公衆便所までがそれにふさわしいように造られた興味ある所であった。我々は着くと同時に、いつものようにテントを張った。だが地面は硬く、ペグは無用の長物であった。そのために石を代用しテントを張っておくことだけで精一杯で、将来の出来事に対応させておく余裕はなかった。

夕食の後、学年別ミーティングを行ない、それが終わると皆テントに入った。ところが、夜が深まるとともに、台風の影響で大風が吹き、かたっぱしからテントは音をたててくずれた。10張以上あったテントも、翌朝まで存命したのはわずか1張であった。この夜はどういう訳か便所が大繁盛した。

8月6日(金) 雨・強風
菅沼 – 新淵57・5キロ
満足に眠れぬ夜を過ごした我々だが、ねぼけた眼をこすりこすり普通どおり起床。そしてトレーニング、朝食。

8時半頃出発して新淵を目差す。昨夜のような強風はなりをひそめたが、それでも時折ゴォーッという音を伴って吹きすさぶ。風にハンドルを取られぬようにと1団になって進む。

出発した時は雨は降っていなかったが、次第に落ちてき始め、また風も幾分勢力を持ちかえし、新淵まで行けるかどうか心配になってきた。昼食をとる鳩ヶ谷まで行けるかどうかさえ覚束なかった。至る所に落石があり、そのために道路工事の人夫が怪我を負い、病院へ運ばれる程であった。しかし、主将の一存に任せ、更に先に進むことにした。

12時少し前に鳩ヶ谷に到着。雨は依然として降りやまず、昼食は雨を避けてある寺で行なわれた。寺の人の好意で熱いお茶が出されたが、雨で冷えた体には何よりだった。ガツガツと御飯を食べると、昨日の睡眠不足のせいか瞼が重たくなった。私だけでなく、みんなが畳の上に横になった。

1時20分、いやいやながらまた雨の中を走る。先程までほとんど地道であった道路が、舗装された道路になっていたのが唯一の救いだった。雨とは言うものの、ただ黙々とこいだためか、速度は速かった。だが、じわじわと体に浸透してくる寒さには勝てなかった。前の班が止まっていたことをいい事にして、我々も店の中に飛び込んで一時の快楽を味わった。

再び雨の降りしきる中を、牧戸目差して疾走する。水滴が眼鏡のガラスにまつわりつき、視界は効かない。また、心なしかチェーンの調子も悪いように感じられた。しかしながら、雨の中で自転車を点検する気になんぞなれない。無理してでも、ただただ踏んばるだけだった。そのうち、道は次第に上り始め、左前方にボヤーッとダムが姿を現わした。この時また1段と雨は強くなり、雷まで鳴り出した。しかし、この坂を上るとトンネルがあり、その出口で、他の班と同様、我ら4班も休憩した。そして、少し小止みになった時、各班はトンネルを後にして御母衣ダムに沿った道路へと出て行った。ここも至る所落石があり、無気味な感じが漂っていた。

さて、雨は小康状態を保ち、4時に飲戸へ着いた。今朝、新淵に着けるだろうかなどと考えていたが、意外に速く着けたのには驚いた。ここで先発隊の交渉を待った。

15分程してキャンプ地へ出発。キャンプ地は新淵の小学校であった。雨のためか、体育館兼講堂の使用が許可され、この合宿において初めて1つ屋根の下で全員揃って過ごすことが出来た。食事は学校のプロパンガスを使用することが出来たが、火力が少し弱くて、腹の減った我々をいらいらさせた。

食事の後、例によってミーティング。その後、各自雨の音を聞きながら安眠した。

8月7日(土) 曇りのち晴れ
新淵 – 高山41・3キロ
起床とともにトレーニング。トレーニングして一服していると小学生が入って来てラジオ体操。我らもそれにつられてマネをする。

朝食を例のように終えた後、我ら4班は食器(鍋)洗い。校庭の片隅に行って洗わねばならぬのには閉口したが、我慢、我慢。足洗い場で無理に洗おうとすれば出来ないこともなかったが、早稲田の名がかかっている。ちゃんと指定された通りにやっておきました。

ところで、今日は峠が3つもあるとかで、出来るだけ早く出発するようにと、何度も砂子さんがせき立てていた。おかげでどの班も8時半頃迄には出発したようだ。だが、我が班のみパンク修理のため9時過ぎに出発。出発した時は、まだどんよりと曇っていて、時々天から水滴が落ちてきた。一応ポンチョを着た上で、最初の峠、軽岡峠をアタックする。峠より2キロ程手前からフリーラン。道路は良く舗装されているし、標高差も大したことはない。いつの間にか峠に到達した。峠では、陶山君や岸田君がじゃれあっていた。

峠で小休。そして下った六厩で食料(昼食)を買い込み、松ノ木峠を目差す。「まだだ、まだだ。今からきつくなるぞ」と心に言い聞かせ、セーブして上って行くと、あっけなく松ノ木峠松ノ木峠から舗装は切れ、昨日の雨の名ごりをとどめた、そして所々、水を沢山含んだ赤土のある道に変わった。これはタイヤにまつわりついて往生した。ここを突破して砂利を引きつめた道路に入った時、小野君がパンク。20分費して再び峠へ。小鳥峠である。この峠も難なく上れた。峠では前に行った班が昼食をとっていたが、軽く無視してダウンヒルを。

今迄の峠よりも長くダウンヒルが楽しめそうだと期待しつつ、峠で昼食中の班に格好いいところを見せつけながら下って行った。ダウンヒルを2分も楽しんだであろうか。後ろの方で、「ガツーン」という強烈な音がした。
「やったな。ダンプめ」

と思いながら、恐る恐る対向からやって来たダンプカーに眼をやった。ダンプカーは止まっていた。私はこのダンプに何を言うべきかと考えて一瞬逡巡した。その間に真相は分った。ダンプが自転車を引っかけたのでなく、小野君が自分から谷に向かって飛び込んだのだ。70センチもあろうかと思われるガードレールの上を、自転車もろとも飛び越えたのである。しかし、みんなアッ気にとられて、小野君が飛行した状態を覚えてない。小野君の直ぐ後ろからついて来た筈の加藤君でさえ、その状態を覚えていない。尚、参考までに、加藤君は「ガツーン」という強烈な音さえ記憶していないことを付け加えておく。

このような状態であったので、実は小野君が谷に突っ込んで、そして再びガードレール越しにスクッと不死身の体を見せてくれた迄の事は、正確には誰も覚えていないのである。それでも、彼が怪我1つせず無事だと分ると、今の出来事は笑い話かのようになごやかな雰囲気に変わってしまった。また、今迄、成行を心配して顔面蒼白の顔で、鳴りをひそめていたダンプの運転手も、再びハンドルを手にしてエンジンをかけた。この事故の原因は、ブレーキの点検不足と、急なカーブを予測したダウンヒルを行なわなかったことにある。

事故の後、談笑しながら自転車の故障個所を修理していると、陶山君達が通過。我らが、何故このような場所に止まっているかを知ってか知らずか、岸田君はにやにやして愛嬌をふりまきながら、片手ハンドルでこの場所を通過しようとしたから大変、もう少しで小野君の二の舞になりそうになった。続いて新田君が、これまた微笑を浮かべながら下って来た。普通のカーブと見たのか、あまりスピードを落とさず突っ走って来た。我らに10m位の所迄来て、やっと事の重大さに気付いたらしく、ガードレールを越す前に自分の方からこけてしまった。

貫録のついた小野君の自転車を直して牧ヶ洞へ。牧ヶ洞で少し遅い昼食をとった。

牧ヶ洞から高山までは近かった。20分程で高山駅に着き、喫茶店を物色した。土肥さんのオゴリでコーヒーをたしなんだ後、高山市内をポタリングした。そして再び高山駅に集合し、キャンプ地へ足を運んだ。もと来た道を4キロ位引き返した所にあるスキー場の一角に野営した。そして例によって例の如く、食事、ミーティング。続いて、高山市内まで七夕祭を見に行く者、風呂へ行く者というふうに自由時間を消化。最後に就寝。

8月8日(日) 晴れ
高山 – 黒川渡72キロ
『格調高いサイクリング』これが、我ら4班のキャッチフレーズであった。これを他の班に知らしめる最高の場所はここをおいて他にあろうか。答は明確である。「否」である。

今日の我らの心は、いつにも増して強くつながっていた。他の班に遅れて、8時33分に出発したのに余裕綽々であった。少し速いペースで走ったにもかかわらず、全員一団を成して美女峠口まで到達した。ここから峠まではフリーラン。野麦峠の前硝戦という事で、軽く流すつもりであったが、苦戦を余儀なくされた。途中で、自転車を降りて押している者がいたが、やはりその位苦しい峠であった。しかし、何と言ってもこれは前硝戦。本番にたどり着く前に参ってしまっては大変。

班の者が揃ったところで、朝日村までダウンヒル。そしてそこで休憩。ここには、村を貫通する清流があった。釣人が糸を垂れていて、川魚が引っかかるのを待っていた。運のいい事に、私が見ていで魚が糸を引いた。無論、魚は釣人の手に収まった。

ここで30分休んで朝日ダムへ。朝日ダムへの道はかなり上っていた。そこをかなり速いペースで上ったのに、誰も遅れなかった。この時には、もう格調の高さがしみ込んでいたように思われる。

さて、景色のよい朝日ダムを発ち、上ヶ洞へ突っ走る。40分で上ヶ洞へ。我が班のみは、他の班がそこで昼飯をとるのを尻目に、更に野麦村へと足を延ばした。上ヶ洞から急坂を上ると、地図にないダムが眼前に現われた。このダムの崖っ淵にへばりつく舗装道路を、しばらく行った所から地道になった。次第に山の奥へ入って行くことが感じられた。右の谷底に川が流れていたが、これを見るために、道路の崖っ淵まで寄るスリルは、今までの行程では味わえなかったものである。緑の木々に囲まれた冷ややかな山道を進んで行くと、時折パッと視界が広がる。思わず目がくらむ。そしてまた木に囲まれた道へ入って行く。

ところが野麦村の近づいた所で、道に大きな石がバラまかれていた。しかも、木のトンネルから見離された。仕方なく暑い中を、汗をたらしながら自転車を押していかねばならなかった。拳ほどもあろうかと思われる石ころに再三再四、足をとられながらも、一歩一歩野麦村へ近づいて行った。そして1時を少し回った頃野麦村に着き、昼食をとった。昼食後、店のお神さんに野麦峠までの道路の状態を聞きながら、ゆとりなく出発までの時間を費した。

2時頃、野麦峠目差して出発した。出発して直ぐ、短いながらも急坂があり、「さすが野麦峠である」とうならせた。しかし、その後というものは比較的緩やかな坂が続くばかりで、皆あてがはずれて戸惑いがちであった。道路は地道で、また所々工事をしていて、横を通り越して行く車に砂塵を上げられ閉口した。それでもとに角、「野麦峠はまだだ、まだだ」と心を引き締めて上って行った。しかし問題の峠はふ甲斐ないもので、やっぱり初めの急坂以外は比較的緩やかな坂のまま峠につながっているだけだった。

3時前に野麦峠に着き、雲が今や覆わんとする乗鞍岳に目をやった。山肌には、まだ2、3ヶ所雪が残っていた。そして峠に班の者、が全員揃ったところで、碑の回りに集まって写真を撮った。3時を過ぎると、遅れていた班の者もドッとやって来た。

3時半、峠を下ることにした。峠を下るに従い、道の悪さは露骨になった。こんなひどい道が過去にあったろうか。とがった岩肌がむき出しになっているのである。1時間近くブレーキに手をやったままであった。また、視線を地面に落としたままであった。事故が起こらないのが不思議なくらいであった。もっとも転倒やパンクはあったらしい。

聞いた所によると、或る者は「こけるなよ」と注意されて、「こんな所でこけるなんて馬鹿ですよ」と答えたとたんに、自分から真っ先にこけたそうだ。また、「パンクだけはするなよ」と注意したところ、元気に「はい」と答えた本人が、直ぐさまパンクをした等々、普通の坂道では考えられない事が沢山起こったようだ。このような理由で、下るのに意外に手まどって、1番早く黒川渡についた4班でさえ5時を幾分過ぎて到着した。

先発隊は未だ着いていないということで、4班の者が自ら進んでキャンプ地を捜しに出かけたが、適当な場所がみつからず、ガッカりして帰って来た。しかし、後から来た立石君達が、役所を通して近くの学校にキャンプさせてもらうことにして呉れていた。結局、4班の行動は徒労に終わった。また夕食は料理する時間がないということで、近くの食堂に頼んだ。

夜、ミーティングの後、奈川温泉まで約2キロの坂道を疲れた体にムチ打って、息を切らしながら上って行った。やっと着いた温泉で体をいやそうと、旅館の女中さんと風呂代を交渉したところ、なんと100円。目算が狂うし、出費はかさむし、頭が痛かった。入浴の後、キャンプ地に戻り就寝。

8月9日(月) 晴れ
黒川渡 – 松本35キロ
5時半起床。標高1000mの地のためか寒い。トレーニングにまず体をほぐし、テントをかたずけた。そして朝食の後、ただちに出発の準備。今日は、土肥班長のおかげで4班は先発隊。用足しに行く者までせきたてて、7時45分出発。

実質的に走るのは、今日が最後である。明日は解散ということで、皆張り切っていた。

昨日に続いて調子のよい4班はじわじわとスピードを上げていき、上りであろうと、下りであろうとおかまいなしにとばした。短いトンネルが何度かあった。そして、満々と青い水をたたえたダムを横に見て奈川渡を通過。直ぐ長いトンネルが迫り、それをくぐり越すと島々まではダウンヒル。

島々を過ぎてからは、概して平坦な道であった。途中で店に寄って少し休憩をとり、再び松本へ向かった。松本には9時半頃到着。

松本駅で分かれて、関口さん達はコンパ会場捜し、私と平君はユースホステルに手紙や葉書をとりに行った。そして、再び駅に戻り、他の班全部が来るのを待ってコンパ会場の信州大学の寮へ向かった。寮に着いて、まず自転車から荷をとり、部屋に運んだ。そして、1段落がついた所でミーティング。一同円をつくって合宿を通しての反省を行なった。終わった後、各自散々五々、銭湯へ足を運んだ。

旅のアカを落とし、6時よりコンパを始めた。合宿中のウサを晴らさんと、皆大いにハッスルした。1升ビンやビールをラッパのみする者もいた。とに角、寮の住人がびっくりするぐらいドンチャン騒ぎをした。そして、ガラスによる怪我が出始めた所をとらえて、校歌を歌って散会。今夜は就寝時刻は決まってない。コンパの後、市内にくり出して梯子した。

8月10日(火) 晴れ
10時松本駅解散
昨夜ハッスルしすぎたせいか、皆くたびれた顔をしてどこかさえない。それでも眼をこすりこすりシュラフをかたずける。テントも鍋も整理して、部屋の掃除もした。我らは寮に別れを告げて、松本駅へ向かった。1部の者は鍋やテントを送り返すために、南松本駅へ向かった。この南松本駅へ向かった班が帰って来た所で、目出たく解散。丁度10時であった。

長い合宿を終えた安堵感、またそれを共にした者達と、ここで別れる寂しさ。複雑な感慨に浸りながら、自転車を輪行につめる仕事に手を忙しく動かした。

71年度主将ノート – 教育学部3年 砂子

71年度WCC主将ノート
教育学部3年 砂子

このノートは主将としての1年間の公私兼用のものである。

私は昨年の総会で、クラブの運営方針を「多様性を大いに認め、規制は最低限にしたい」と打ち出し、第9代の主将となった。私の言う多様性とは、「可能性を求めて感受性のおもむくままに、いろんな試みに挑んでみよう」という意味あいが強いのである。それはクラブ行事のみならず、クラブ員各人がクラブ外の問題でも理論知に逡巡しているだけでなく、実際知を肌で覚する行動派若者になって欲しかったのである。遠回りにはなるが、そうして逞しくなったクラブ員のクラブに還元する力は大きく、また、クラブは行動の結果生じた消耗・成果を話して、新たな意欲を湧きあがらせる役割を果す準拠集団でもあるべきだと思っていた。しかしながら、究極的に多様性は私がどのように力んだところで望めるものではなく、クラブ員個々の独自性を発揮することによって、はじめて豊かな個性の集まるクラブとなり得るものであろう。

以上のことを1年間意識し続け、クラブ員の自覚を待ち、クラブラン欠席もかなり甘く許していた。クラブランより魅力ある行動があれば、クラブの魅力造りに力が足りなかった私の負けであると考えていたからである。また、クラブラン出席を強要するのは私の趣味に合わなかったからでもある。

しかしこれは実に甘かった。前期後半の状態に私は多少焦った。クラブランに出席者が減少したのである。部室によく顔を出す者で、やる気のある1年生と目していた者でさえ欠席するようになった。

お金の都合もあったであろうし、ぬきさしならぬ理由の者もいたであろうが、クラブランの意気はあがらず、私はかなり気落ちした。「金など理由にならない」と突っぱねるべきなのかもしれないが、クラブといつでも心中してもいいという使命感を抱いている私が、クラブにどれだけ価値を認めているかわからないクラブ員に、私と同じ自己犠牲を強要することはできなかったし、クラブランの魅力ということに、うしろめたさを感じて言えなかったのである。なんと弱い人間が主将になったことか、自嘲もした。

結論的に言えば、クラブラン・クラブ活動の魅力は、何はなくともまず我も彼も参加し、苦しみ・楽しさ・感動を共有して一体感・昂揚感を醸し出すことに尽きると思う。3年間クラブ活動をして、やっとこのような、人に言わせると簡単な、と言われそうな結論に達したのである。また、金銭や欲得と離れて、有機的なつながりを持つ同じ位の年令の若者が40数名集まったことだけでも素晴らしいことであり、もはや社会に出たらこのような機会に恵まれることはないであろう。それだけにクラブ在留中に、自分自身のために自ら仕事を求め、活動に主体的参加することを後輩諸君に強くすすめる。

そのことは自己犠牲を自ら背負いこむことであるが、それは人間のビューティフルな姿の典型である。ただ「自分を犠牲にしても」と気負ってはいけない、究極的に自己犠牲は自分のためなのである。悲壮感が感じられるような自己犠牲の場合には、重苦しい雰囲気が流れ、クラブを盛りたてるつもりが逆効果となるかもしれない。それは、犠牲と感じさせないように細心に気をくばるべきであり、1個人が犠牲から、楽しくなければ何にもならないし、またそれは、ひけらすものでもなく愚痴るものでもなく、まして安易な同情を買うものであってはならない。己れの存在を確かめるだけの、ひそやかな楽しみに甘んじるべきであろう。

先輩訓としては、「相互のつき合いは長所・短所をさらけ出してつきあわなければいけない」「執行部の業績は1年生を見ればわかる」などの言葉を1年間肝に銘じていたのであるが、私が主将として最も苦痛で、できなかったことが2つあった。
「すべてを知っていて何も言わないこと」
「自分がやれば、もっとましにできるという自惚れを捨てること」
この類似した2つのことが、私の不徳からできなかったために、後期初めの3年生会で、主将不信が取り沙汰された。
「なにしろ主将は責任意識が過度で、各局に口を出して意向を強く出し過ぎるため、我々が仕事をやり遂げた充実感や報われたという気持ちが、薄くなってしまう」
と言われた。猛省するとともに、彼らの『やる気』を確認して、以後は「信じる」「任せる」の気持ちで私自身はボンヤリしていることを決心したのである。ゆきあたりばったりでボンヤリした私の自堕落な姿を見て、1・2年生諸君が。あれではいけないと感じて発奮しクラブを盛りたててくれるようになったのはラッキーであり、結果的に彼らの自覚を促す1つの手段となった。そうしてクラブに一体感が感じられ、良い雰囲気が出る前段階の苦しい場面で、私の立場を理解してくれた副将の立石君や星さんはじめ、先輩諸兄のたすけを受けましたことに感謝する次第であります。

閑話休題。年間活動を主将としての目を通して、数多い失敗と、数少ない成功の跡を追っていきたい。新入生の勧誘の仕事は、お膳立てから勧誘実際まで2年生をあてにして、初仕事初失敗を演じた。前年度主将の保泉氏の場合は、3年生がお膳立てをし、実際の勧誘は2年生に任せて、新入生を獲得することを第1目的とし、あわせて2年生の存在を自覚させようという巧みさで大成功を収めたのである。この違いを分析すると、この段階では1人1人を見れば頼もしい2年生だが、それは上級生あっての頼もしさであったのであろうし、後半見られたような結束の絆がまだ弱かったのであろう。2年生を買いかぶっていた判断の誤りが私の失敗であったが、サイクリングブームに乗って新入生が確保できたのだけは救いであった。

新入生歓迎ランは企画局長より、斬新なプランとして「ユースホステルに泊まってフィルム構成を見せて、新入生にサイクリングのイメージアップを迫りたい。また2年間同じであったコースを変えたい」という要望があったが、キャンピングの楽しさを強調したいことと、相模湖・ヤビツ峠は新入生には恰好の典型的サイクリングコースであるうえに、慣れているので道をまちがえる心配がないという安全策をとることが運営委員会で決定した。しかしこの没になったプランは、オープンサイクリングのときに、日の目を見ることになる。

当日、空はどんより曇っていた。同じコースを3度も走るとさすがに新鮮味など感じられず、私にとってサイクリング自体はつまらなかったが、むくつけき新入生共が可愛らしく見えてしかたがなかったのは、私にもどういうことかわからない。ここで見逃せないことは安全策というもっともらしいことが問題なのだ。コースをミスる時にはミスるのであり、何度も走った道を1年生のための使命と感じながら走って、なんの感動もないサイクリングはあまり意味がないと思うものである。新入生歓迎ランであろうとも、2・3年生自身も楽しめるコースを選んだほうが良いと思う。

この後では、企画局がクラブ員からコースのアンケートを取り、それを基調としてクラブランを行なった。クラブランで、マップリーディングを合宿に向けて全員に課した。またクッキングランの時に、酒を飲んで酔っぱらって自転車に乗ったのはやり過ぎ。第5回早慶親睦ランは早稲田主催で、初めてテントを使用。一日目夜の合同コンパは馬鹿さを競い、今まで両校の間にあった気取りを拭っただけに、2日目雨のため、松姫峠で人間マシンの勝負ができなかったのは残念であった。

話はそれるが、12月に慶応の納会へ行ってきた。彼らの歌っている春歌は大量に早稲田から仕入れたものであり、早稲田に触発されて今までシラけることが多かったコンパが活気ずいてきたのだそうだ。慶応に学ぶべきものと言ったら、なんと言っても自転車についての知識であろう。「慶応には技術指導局が無い」ということをよく考えたい。とにかく、来年も早慶ランでの親睦を強め、かつ影響しあい、普段の交際にまで広めて欲しい。そして富士スバルライン・トライアルで前期活動を終えることになるが、雨にもたたられ峠にアタックすることが少なく、合宿が多少不安であった。

合宿。我がクラブ最大行事をどのように行なうかを、企画局の原案を運営委員会にかけた。私は合宿経験が浅いので、コースはもちろん、走行方法・日程表など、班編成を除いてはほとんどすべてを経験豊かな運営委員にまかせることにした。私は決定事項を遂行するための方法・手段は、私なりに自分の意見を強く出してやる心づもりで合宿に臨んでいた。成功すれば、それを後輩諸君が受け継いでくれるだろうし、失敗してもよりよく改善する捨石になるのだから、あたりさわりのない「八方美人的主将」になる気持はさらさらなかったのである。

今年度の合宿形態で目新しいのは、走行法と班の役割に手を加えたことである。去年のA・B 2班分離は機動性・弾力性を発揮したが、他班相互の先輩・後輩の関係が馴染み薄いものとなったことから、全体で走ることをまず決めた。次に、班構成が到着地での仕事分担だけであったものを、走行中も分離して班の自主性を増大させ、併せて地図読みのおもしろさを味わせるべく、各班毎に地図を持たせてコースリーダーを各人最低2度するように義務づけた。そのために必要なことは、決められたコースを絶対にはずれないことと、到着時刻を遵守することである。この2つのことが守られず、合宿中に問題をひき起こしたのである。

金沢。定刻2時。「さあ、行って見よう」、1日目、2日目、順調に行ったが、日が進むにつれて1年生の遅れが目立ってきた。距離も峠もたいしたことはないが、ギンギラギンの太陽にバテているようである。それとともに、集合時刻に遅れてくる班が多くなり、買い出しが遅れ、炊事が遅れる。そのため早く到着する班にばかり、仕事が集中して不満をひき起こすので、どうしても遅れる者は、随時、後続の班にまわすようにした。合宿半ば、ある班がコースをはずして先輩の家に立ち寄った。これを見逃すことは、他の班までも抜けがけの功名を狙う恐れがあり、そのうえコース外では連絡はつかず、ましてや事故発生の事態を考えると、合宿の全責任を負う私には許せないことであった。山岳地帯で各班の連絡がと絶える危険性を慮り、気を引き締める意味でミーティングの時に体罰を課したのだ。

その日のミーティングでは、コース外を走ることや体罰について意見百出したが、観光・見物のための個人的不都合や体罰などに見られる私のやり方に対する感情的不満が多く、クラブと合宿という視点からの意見が少ないのは残念でならなかった。すべての元凶は、この走行システムから発生するものであって、新しい試みをするにあたって、私と執行部が合宿前に問題点を十全に煮つめることを怠り、各班長に徹底を欠いたことを、知性をもってなるWCCの諸君に批判して欲しかった。

山中では台風に襲われ、寝ている間にテントが風に潰され、11張りのテントのうち無事なテントが2張りしか残っていないという風の強い朝を迎えた。ときどき吹きぬける凄まじい突風のために走れる情況ではなかったが、風の息(風は約2分間に1度しか強く吹かない)を計算に入れて、注意深く走らせることにした。困難を最大細心の注意力で切り抜けることは、各々の強い自信となってあらわれ、頼もしい後輩を育てるチャンスでもあったから、危険を承知で走らせることにしたのである。これらの決定は、運営委員ではなく、すべて3年生の協議に拠ったが、それはキャリアによる判断力の確かさと、後輩の指導を考慮に入れての意見を期待するものだからである。2年生の運営委員諸君、悪く思わないでくれ。

さてさて、3年生の朝の協議により、この日ばかりは連絡を遮断されることを恐れ、適度な間隔を保ちながら一緒に走ることにした。各班長の緊張が全員にも伝わるなかで出発。小石が崖の上からパラパラ落ちている所は5キロ位である。その途中、1人が曲がり角を出た所で突風をモロに喰い、2m程吹っ飛んで危うく30m下のダムに落ちそうになったのには肝を冷やした。しかし、午後から風は弱まり大雨に変わって、なんとか目的地に着くことができた。みんながなにかしら喜々とした顔でその日のことを話したり、はしゃいでいるのを見るのは、ほんとうに嬉しかった。

そして今合宿のハイライトである野麦峠を越え、全員たいした事故もなく松本に着くことができたのである。合宿前半、バテ気味であった1年生も頼もしいばかりになり、後期の活動に彼らの力も期待できる展望が開けた。なにしろ後期には、オープンサイクリング、クラブ史初のダンスパーティなどの対社会的活動を控えて1年生の協力が絶対必要であり、早同交歓会には同志社に劣らぬ早稲田のニューフェイスの姿を見せなければならないのである。

しかし、私はこの盛り上がったムードをそらしてしまうような、後期活動計画の発表が遅れるという、大失敗をしてしまったのである。オープンとのかね合いで、是非ともタイムライアルを10月上旬にしなければならなかった。なのに、計画発表出遅れという不手際のためクラブ員の都合とぶつかり、タイムライアルにむけての雰囲気は盛り上がらず、あまりに少人数でその意義が薄くなって中止の已む無きに至ったのである。OB諸兄とクラブ員の諸君に本当に申し訳ないことをしたと思っています。「加藤さん、すみません」タイムトライアルは中止して、オープンサイクリングの下見をクラブランにしたのである。

今年のオープンサイクリングは、5月から2年生に任せる旨を伝えておいたので、2年生会で実行委員長を決定しプランを作成し、今までのオーブンになく画期的に催されることになった。まず、土曜・日曜を利用して1泊とし充実を計った。土曜日はサイクリングのフィルム構成で、早稲田・慶応の合宿記録を見せてイメージアッブを迫り、ミーティングの中で交流を深めた。オープンに応募した理由には、
a. 軽井沢という土地に憧れて、サイクリングをしてみたい、
b. サイクリングで人間交流を楽しみたい、
またそのいずれもという気持があるようである。来年以降の参考までに。クラブ内では「特定の個人に仕事が集中する」という問題が起きたが、それは2年生間の問題であり3年生に泣きつくのは情ない。しかし、オープン当日の結束や手際は申し分のないものでした。また、「オーブンは社会普及か、2年生の来年度にむけての試金石か」という問いには、その2つともと答える。ことさらに社会普及という建て前に力むことはない。合サイのつもりで充分だと思う、応募者もこれを利用して遊ぶつもりでいるのだから。

恒例の早同交歓会は、同志社側の主催で奈良から京都まで走り、晩秋のサイクリングを楽しんだ。私には全く言う所はない。理屈なしの素晴らしい交歓会であり、いつまでも続くことを願って已まないものである。

ダンスパーティはクラブ史上かつて無かったことなので、正直言ってやりたくなかった。が、機関誌「峠」の繰越金が印刷代その他の値上りから実質的赤字であり、来年度のクラブ創立10周年記念パーティのための準備金、コース下見に自腹を切るという非合理的なことを廃止するためにもお金が必要であった。名田君が実行委員長をかって出て、ダンパ成功を期して強力に推進してくれた。まず、単独では券の裁きに不安が残るので、青山学院女子短大華道部と共催にすることを決定。親睦を兼ねての合ハイの後、最初の問題として、「短大の名前をパー券に載せてはいけない」という短大当局からの申し入れがあり、これには困った。いったい、ダンパーなどというのは、ダンスが好きで来る人は少なく、友人が行くからとか大学のネームバリューにつられてくる人が多いのが現実なのだから、パー券の売れ行きに大きな影響がある。

そこで短大に行って、学生の会と学生部長を、サイクリングとお花とはなんらの結びつきもないのに、「親睦と学生の自主的課外活動を目的とし、資金稼ぎは二義的なことです」と苦しい方弁を使い、利益配分におけるまちがいのないことを約束して、なんとか説得に成功した。次に会場とバンドを予約、パー券のデザインと印刷は、短大側でセンスの良いものを作ってくれ、そして税金も済ませた。パー券を売る段階では、岡田君がみんなに強硬な態度で売らせたことは大きく、そのうえダンス講習会でムードが盛り上がって、パー券売りに拍車をかけた。タンバー当日には、仕事分担に従って受付・クロークもスムーズに行なわれ、またOBや慶応のサイクリングクラブの連中も多数来てくれたのは嬉しいかぎりでした。ダンパーの収支が黒字となったのも各自の働きによるものだから、来年度以降、クラブに必要かつ有効であると認められることには惜しみなく使って欲しいと思う。名田君、そして短大の石田さん・吉田さん、煩雑な事務に嫌気がさしてたみたいでしたけど、最後までほんとに御苦労様でした。

1年生企画ランは下見もし、拙いながらも一生懸命やってくれました。そして2年生企画の4年生追い出しランは、私の記憶では未だ走ったことのない房総へフェリーを利用しての新鮮味あふれるサイクリングを敢行。このランで房総には峠がないというイメージは潰された。たくさんの4年生にも味わっていただけたと思う、なかなか良い。すべて2年生に任せ、思いっきりぐうたらぶりを発揮して遊ばせてもらった。主将が前日、徹マンをしてそのまま他人の自転車を借りて、地図も工具も持たず、パチンコで集合時刻に遅れ、飯だけは人の3倍食い、ミーティング時に居眠りしていてもクラブは存続する。クラブ員がクラブ員たる自覚と意識を持ち、それが規律を生み出し自分の役割を12分に果たしさえすれば。

房総ランでのことはやりすぎにしても、私のクラブ理想像は、「主将が何もすることが無いクラブ」なのである。そうなるように主将は働くのである。

かくして、良くも悪しくも1年過ぎてみれば懐しく思い出され、今の私はこのクラブに離れ難い愛着を覚えるとともに、働き甲斐を与えてくれたことに多大な感謝をしている。それもすべてクラブ員全員の協力と執行部の諸君に感謝する気持である。とくに企画担当の丸山君、企画によく口を出したけれどもくさらずによくやってくれました。また「峠」発行を正常に戻す意欲に燃えて、画期的なことのひとつである編集の平川君。クラブに貢献すること、じつに余人に代え難い関口君、中丸君、ほんとうに御苦労様でした。

今年度、いろんな試みに踏み切れたのも6代主将の加藤氏以来、篠原氏、保泉氏がクラブの内部組織充実に重きをおいて、制度的にしっかりしていたからと言える。来年度も今年度の活動を踏まえて、われらがサイクリングクラブを更なる発展に導いてくれることを願って巳まないものである。

峠を二つ超えたノダ – 新入生歓迎ラン 政経学部1年 小野

峠を2つ越えたノダ —新入生歓迎ラン-(土曜出発2泊班)
政経学部1年 小野

今年の新入生歓迎ランも恒例のヤビツ峠である。土曜日第1時限のフランス語の講議が終わると、すぐに丸山さんの後から愛車を駆って新宿へ・・・。去年、予備校の夏期講習の合い間に新宿へ来た時には、まさか9ヵ月後にここを、サイクリング・クラブなどという早大1の野蛮なクラブの一員として、これまた野蛮な自転車という乗り物で走ることになろうとは考えてもみなかった。

そのような我々に恐れをなしてか、やたらに自動車がブーブーとわめき散らしていた。甲州街道をしばらく走り、烏山でみんなと合流し、そこから2班に分かれて今からサイクリングを始めようと思ったら、もう高尾まで来てしまった。

ここから本日のハイライト大垂水峠へ入るのだが、ここで後から来た中丸さんが飛び出して来た・・・と思ったら、もう既にはるか前方を走っている。我々も自分のペースで走ってよいことになったので、張り切って追いかけることにした。前には中丸さんと立石さんしかいない。『よおし、やるどオ!』・・・ところが、初めのうちはゆるやかだった傾斜がだんだん急になって来て、それにつれて次第に腰が痛くなってきた。あわてて飛び出して来たことを後悔したが、後の祭である。

ここで誰かに追い越されたら恰好がつかないので、めちゃくちゃに走った。ギアを落としただけでは間に合わなくなって、サドルから腰を浮かせたり腰をたたいたりしながら走ったのであるが、ふと目を上げると坂の途中で休んでいる連中がいた。この辺で降りようかと思っていたが、感心したような様子で見ている彼らを尻目にひたすら走ることにした。そこからいろいろなことを考えながら(例えば、小学校のマラソン大会で競馬場をはだしで砂埃をたてながら走ったことなど)走っていたので、どれだけ時間がたったか分らない。気がつくと、今まで前を走っていた2人の姿が突然消えていた。あわてて曲がり角からの急な坂を下ろうとするや、そこは集合地点であった。

そこで待っていると、ポツリポツリとみんないろいろな表情をしながらやって来た。相当くたばっている者、余裕綽々の者、中にはトップで上ってきた人もいたとか…。

小休憩の後に期待のダウンヒルである。舗装率100パーセントの下り道をブレーキを握りしめながら一気に下るのたが、ついつい油断をして飛ばしすぎてしまう。「もっと飛ばせもっと飛ばせ!(悪魔のささやき)」という声に誘われて、うっかりスピードを出しすぎてカーブを曲がり切れずに、危く千尋の谷をまっさかさまに・・・という場面が無きにしも有らずである。

とにかくこの長いダウンヒルを楽しむと、まもなく相模湖が目の前に広がってきた。橋を渡ってキャンプ地まで行き、そこにテントを張り終えるといよいよ飯である。キャンプにはカレーライスがつきものであるが、この日もカレーが出た。味はまあまあ。1人で来ていた高校生の○○君も我々と食事を共にした。ミーティングが終わってから火を囲んでの雑談。その時のメネソン氏の歌が、その場の雰囲気に調和していて印象深かった。そろそろテントに入って寝ようとするころになって、雨がパラパラ降ってきた。「明日は雨かな」と思いながらテントに入って、滝のザーザーという音を聞きながら、いつの間にかぐっすり寝入ってしまった。

翌朝目をさますと、空一面雲がたれこめていた。しかし、雨は降っていなかった。起きるとすぐに奥野さんのトレーニングが始まった。そのおかげで、昨日から痛かった腰がまた痛くなってきた。前の晩、ヤビツ峠についておどかされていたので峠を越えられるのかなと不安に思った。朝飯を食べていよいよ出発である。しばらくデコボコしたダラダラ坂を下ってから舗装道路に出た。

少々上りになるところで奥野さんが急に立ち止まったと思ったら、2秒位間をおいてそのまま大きなドブに転落、自転車もすぐその後を追ってドスン(まったく世話のやける人ですネ)。その後は何事もなくひたすらヤビツへ、ヤビツへ。しばらく行くと次第に起伏が大きくなってきて、分かれ道へ出た。どちらか迷っていたが、中丸さんが「右である」と自信たっぷりに言うので、そちらへコースをとることにした。そのまま走り続けて売店で休憩をとって道を確かめると、こちらは山中湖へ行く道だとか…。結局、中丸さんが去年の早慶ランのとき来た道と間違えたことが明らかになったのである。そこで今きた道を引き返してもとの所まで出た。我々は、その分だけ余計に楽しめたことを感謝すべきであろうか?

とにかく、上ったり下ったりしているうちに、道がだんだん山道らしく細くなってきた。走りながら眺める小高い山々も新緑で包まれている。渓流に沿ってしばらく走ってから昼食をとるころには、相当上ってきたような気がしたが、ヤビツ峠はまだまだ先だということであった。奥野さんがおごってくれたにぎり飯を食べ終わって、またまた走り出した。地図を持っていなかったので、ここをどう走ったのか覚えていないが、ようやく札掛まで出て、これからが本格的な上りになるらしかった。ヤビツ峠大垂水峠と違って舗装していないから意外と苦しい。

小さいカーブが沢山あって、「警笛鳴らせ」の標識がやたらに立ち並んでいた。こっちでベルをチーン、チーンと鳴らすと、上の方から自動車がブハッ、ブハッ、と鳴らしてくる。どうせこっちのは聞こえていないだろうし、聞こえていても無視されるだろうから注意して上らなくてはならない。今度は前に追いかける人はいないし、後ろともかなり離れているので、マイペースで上れそうなものだったが、昨日少々無理をしたのがたたってか、頂上へ着くまでに3回も自転車の後押しをしなければならなかった。その間に峠を下って来る人達がさかんに声をかけてくる。それに励まされて再び走り出すのである。悪戦苦闘の末どうにか上り切ると、すでに石井君が到着していた。途中汗びっしょりになっていたので、だんだん冷えてきた。

全員集合の後、2回目のダウンヒルである。大垂水の時はスピードの出しすぎで外へ飛び出す心配があったが、今度は自転車が分解するのではないかという心配があった。新車は接続部分がゆるみやすいそうであるし、実際この前一部分飛ばしてしまったからである。上下の振動で目の位置は定まらないし、手はしびれてくる。自転車をガタガタいわせながら、ようやくデコボコ道を脱出したと思ったら、運悪く工事中の泥道がそれに続いていた。少しころがすと、すぐタイヤに、泥がびっしりくっついて回らなくなってしまう。タイヤの泥を落としながら、500m程の道を歩き終わってからようやく舗装道路に出た。そこから一気に秦野まで行き、駅前に着いて食事をしていると、日曜日に出発した人達がやってきた。そこで小学校の校庭にテントを張って早々と寝てしまった。

翌日は秦野から平塚、大和などを通って一路東京へ。その日は、2泊3日のこの歓迎ランのうちで1番天気が良かった、太陽の下で「峠を2つ越えたノダ」ということを考えながら走り続けた。

処女走の記 – 新入生歓迎ラン 政経学部1年 高橋(光)

処女走の記 – 新入生歓迎ラン-(日曜出発、1泊班)
政経学部1年 高橋(光)

5月2日日曜日
早大 – 烏山 – 府中 – 川尻 – 鳥座 – 宮ガ瀬伊勢原 — 秦野
5月初旬のサイクリングと言えば、萌える若葉の中を緑の風に誘われてサッソウと行く筈なのだが、残念ながら空は今にも泣き出さんばかりの曇天。気温もやや低目とあって、やや悲観的コンディションだった。しかし、生まれて初めてのサイクリング=ツアーとあってみれば、文字通り処女のように期待(?)と不安(?)で、この日を待っていたのである。

出発予定時刻に近くなっても、名田さんの下宿の人が起きてくれず、クラブの機材や自転車を出すことができなくて、予定より大幅な遅れとなってしまった。大隈講堂前での準備体操の後、土肥さんのメカ及び走行についての諸注意があり、かなり遅れて出発した。

前日の土曜に、大半の部員が出発していた。みんな出てしまってガランとした地下室にいると、1人取り残されたような寂しさ、うしろめたさを感じる。「授業なんかサボって、土曜出発にすればよかった」と、その日は何度も後悔した。授業に出ても連休の為か欠席が目立ち、クソ真面目に出席していることがバカ臭くさえ思えてくる。日曜出発は企画局の先輩方の配慮なのだが、授業もクラブも双方とも中途半端になる嫌いがある。これからも1泊ランが幾つか予定されているが、頭の痛いことである。

文学部横を抜け、明治通りに沿って新宿へむかう。前宿から甲州街道へ曲がる地点で初トラブル。変速レバーをトップに上げても、すぐローに戻ってしまう。メカに関しては無知にも等しく、1時はどうしようかと途方に暮れたが、岡田さんの助力で、レバーの締めネジが緩んでいることを発見。急いで原隊復帰と相なった。日曜で車台数が比較的少ないとはいえ、天下に名だたる甲州街道。走っていると気管支のあたりがゼイゼイしてきて、しまいにヒリヒリしてくる。

環8交差点で、環8組の諸氏と待ち合わせる。国友さん1人が遅れたため、その到着を待つ。そこで、初めて山上氏なる御仁の存在を知る。国友さんの到着後間もなく、班を再編成して出発。烏山を過ぎ、一路甲州街道を西へ走る。途中、信号等で前走者とかなり距離がついてしまった。焦りからか、不慣れさからか再度、変速機が変調を起こし、チェーンが外れてしまった。一緒に購入した者の自転車は何ともないというのに、何とも幸先の悪いことである。府中の市内に入り、番匠さんをリーダーに岡田さんと3人で走る。市街を抜けたところで、前走のグループにやっと追いついた。

府中橋を過ぎ、道が幾つかに分岐する所で安田さんが道を間違いそうになった。すぐに気付いて急停車したはいいが、後ろに続いていたこちらは、すんでのところで安田さんの愛車に激突するところであった。

事無きを得て、さらにランは続くのだが、その衝突未遂地点から少々行ったところで、今度は安田さんの車がパンクしてしまった。安田さんがコースリーダーだからして、自然発展的?に休憩となった。その時間を利用して固過ぎる後輪のブレーキを調整しようとしたが、どこをどう調整したらよいのか見当さえもつかない。岡田さん、国友さんが額を寄せて、検討に検討を重ねた結果は、あまり効果もなく終わり、致し方なく内田さんの到着を待つことになった。

内田さんの到着後は以下の通り。内田氏、土肥氏到着する。
小生「内田さん、リア=ブレーキが固過ぎるんですけれど、見ていただけませんか?」
内田「どれ?どっちのブレーキ?」と、ハンドルのブレーキレバーを引く。
小生「こっちです。」と左のブレーキレバーを示す。

内田「何だ。こりゃぁ!」
内田氏の力にも関わらず、すごい音をたてはするが、レバーは音の大きさ程は動かない。

国友「アウターに油が入ってないんじゃないか?新田のには全然はいってなかったぞ」
内田「そうか」と、ブレーキのワイヤーを外しにかかるが、なかなか外れず、

国友さんと一緒に必死になって外す。

内田「岡田!油あるか?」
岡田「ああ!」油を持って来る。
内田「ここに油垂らして呉れ」

と、アウターとワイヤーを示す。油を垂らして後、非常に気持ちよさそうに、ワイヤーのピストン運動を続ける。一座、しばし、エクスタシー状態となる。

内田「もっとドバッと垂らせよ」
国友氏、ドバッと油を流す。―ちなみに、内田氏は刺激的副詞のボキャブラリーが豊富である。「ドバッ」「ガバッ」だとか、「ブッタ切る」「ケッとばす」ETC…ETC。側にいると思わず恐怖感を覚える―

内田「さて、どんなだ?」
と、ブレーキの調子を見る。が、今度は柔かすぎる。

内田「バネが弱いんだな。全々反発がねーなぁ。バネをブッた切って、もう1巻すりゃぁいいんだが、そんなことはできないしなあ。バネが弱いのは致命的だな」
と嘆息。さらに、ブレーキゴム付近のネジを調節したところで出発の声。やむなく作業中断となり。

小生は1班から2班落ちとなり、平川さんについて出発した。ブレーキは信じられないほど軽くなっている。

しばらくのランの後、道路傍のある汚ない菓子屋兼食堂で昼食となる。岡田氏が、その店のわきの田んぼ道の真ん中で、立ち小便を挙行する。筒先(?)を大きく振り回しながら、道いっぱいに放水(?)する様、豪快?というか汚ないというか、エゲツないというか、形容を絶する。さらに、その手を洗わないで昼メシを食ったあたりは常人の沙汰とも思われず、ただただ感嘆するのみであった。

昼食後、長い休憩をとって出発。1班に戻って川尻へと向かう。相模川に近くなって、かなりの傾斜を持つ谷あいの坂のダウンヒルとなった。路肩に砂がたまっていて、タイヤが横すべりしないかとヒヤヒヤする。車体が軽いせいか、かって経験したことのない程のスピードが出る。アスファルトの道路が切れると同時に、すごい振動が襲ってくる。スピードが出ているので、ちょっとしたコブでも車体もろとも吹っ飛ばされそうな感じがする。

谷を下りきったところで、相模川に架けられた橋に出る。周囲の風景もなかなか佳く、川面をわたる風も汗ばんだ肌に心地よい。川原では、所々にバーベキューでもやっているのか飲煙が上がっている。そんなふうに風景を見ているのも束の間、橋が切れて胸を突くような急坂に出くわす。何とか乗り越えはしたが、番匠さんが足にケイレンを起こして苦しんでいた。渓谷沿いの起伏に富んだ道は結構きつく、鳥屋につく少し手前で足に軽いケイレン症状が起きる。後で聞くと、ケイレンが起こりそうになったら、すぐ車から降りるのがいいそうである。しかし、その時は楽観して、比較的緩やかな坂ではあるが、トップのままで上っていった。今からして思うと無謀にも近い走り方をしたものである。

鳥屋を過ぎだところで、1回目のケイレンが起きる。谷川の冷気で筋肉が収縮したのか、ふくらはぎに電流が流れるような痛みを覚える。処置の仕方は心得ていたが、力を入れる度に起る痛みに悩まされ、宮が瀬までは、上りの度に冷たい汗が背中を流れた。

宮ガ瀬で小休止がとられたので、ケイレンした部分をよくマッサージする。以後、ふくらはぎにケイレンは起こらなかったが、宮ガ瀬出発後、崖っぷちの急坂で、今度が大腿部にケイレンを起こし、なす術もなく転倒してしまった。意識的に山側の方へ倒れたので何ともなかったが、もし谷側へ倒れたら等と思うと身の毛のよだつ思いがする。山上さんと土肥さんの介抱よろしく、ケイレンは直ったが、再び発作が起らないように、フロントまでギアを落とし、チンタラチンタラと上る破目になった。

宮ガ瀬を出て暫く走ったところで、予定のコースから外れてしまい、厚木方面に出てしまった。安田さんの話では、以前の早慶ランで走ったことのあるコースに出てしまったとのことだが、大波のような起伏が延々と続き、1つの起伏を越える度に、はるか前方の起伏が浮かび上がってくる。疲労と倦怠、絶望と諦念が交錯する中で、同じ班の赤松君や石井君と励まし合うのだが、声ほどには力が出ない。この道路は、通称湯タンポ街道と言うのだと番匠さんが教えてくれたが、全くこの道路には閉口した。

もう少しで秦野というところで小休止。さすがに1年生にはきついのか、疲労の色は隠せない。口々に「疲れた」を連発する。2、3年生からは、さすがにそんな言葉は出て来ない。経験の蓄積から来る『慣れ』なのか、先天的な体力の差なのか。前者であって欲しいのだが、それにしてもこれからのランに上級生について行けるか、いささか不安になった。

最後の休憩を終え、一路秦野を目指す。秦野の市街に入った頃には日も暮れ、茜色の夕闇が降りていた。渋沢駅に着くと、土曜出発組の人達が出迎えてくれた。駅には丹沢の登山客を乗せたバスがひっきりなしにやって来た。

近くの食堂で、夕食を食べて、キャンプ地に向かう。予定では駅から6キロのキャンプ場と言うことになっていたが、急拠、付近の小学校の校庭に変更となった。その小学校につくと、すでにテントの設営も大方終わっており、広い校庭の片隅に、幾張かのテントが、闇の中に浮かんでいるかのように林立していた。

牛乳を飲みながらミーティングの後、メネスン氏と伊藤君と銭湯へ行く。銭湯には中丸さんと奥野さんがいた。湯舟の中でメネスン氏と話をする。そこへ名田さん、湯浅さんがやって来て、ディスカッションならぬフロカッションをやる。風呂を出て、メネスン氏と伊藤君とパチンコ屋を捜す。メネスン氏は、パチンコをやったことがないとのことである。しかし、残念ながらパチンコ屋は見当らない。仕方がないので、夜の秦野をブラブラしながら小学校へ戻った。

テントに入り、寝袋にもぐり込むと、激しい睡魔に襲われ、すぐに眠ってしまった。そんなわけで、一日目は無事に終わった。

5月3日月曜日
秦野 – 平塚江の島 – 大和 – 二子橋
翌朝は、薄もやがたちこめていた。熟睡したとはいっても、けだるさはなかなか取れない。日曜出発組の1年生は皆辛そうである。

奥野さんのリードでトレーニングが始まる。寝ぼけ眼に空きっ腹で、このトレーニングはかなり効き目があった。最後にトラックを3周した頃にはフラフラであった。その後、テントを畳んで、円陣となって朝食をとる。パンに牛乳、バナナ、チーズETCと洋食の体は保っているが、味の方はさほど・・である。夏の合宿はこのような朝食が続くのかと思うと少々ウンザリする。

出発前に記念撮影。秦野を出た頃から、すばらしい日和となる。青過ぎる迄澄んだ5月の空の下を、赤と黄のユニフォームの一隊が走って行く。色のとり合わせは信号みたいだが、なかなか整然としてカッコいいものである。これだからサイクリングはやめられない。今回、注文が間に合わず、ユニフォームを着られないのが残念だった。

平塚を出て海岸にぶつかった所で休憩、久しぶりに見る太平洋はどこまでも青く、泳ぎたい衝動に駆られる。渚では平塚市内の子供会が地曳網を引いていて、海を思わせるようなにぎわいだった。

平塚から江の島までは、右手に大きく湾曲する海岸線を見ながらの走行となった。陽気に誘われてか道路には車が多く、排気ガスに閉口させられた。

江の島で昼食となり、付近の食堂で、アルバイトのウェイトレスをからかいながら玉子丼を食べる。あまりうまくない。うだるような暑さと人出と玉子丼のまずさで、江の島の印象は非常に悪かった。

江の島を出て大和に向かうが、大和に近づくに従って道路の距離表示のキロ数が大きくなる。どうやら表示の誤記らしい。しかし無事に大和に着き、少し休憩。続いて目的地二子橋へ向かう。喜ぶべき晴天も気温の上昇とともに、恨めしい存在となる。そして横浜付近になると、昨日の湯タンポ街道を彷彿させるような起伏にぶつかった。昨日と違って疲労がとれてないせいか坂もそれほど気にならない。上り坂でスイスイ人を追い抜くのは、言いようのない優越感を感じる。

二子橋迄は、あっという間であった。全員集合の後解散となり、新入生歓迎ランは無事終わりを告げた。

処女走は事も無く終わった。楽しさも感激も別に無かった。ただあるのは夢中で走ったという事実だけである。楽しさ嬉しさなどとは全く無縁のものだった。むしろ、それは不慣れから来る精神的緊張。ケイレンの苦痛。さらに、蓄積する疲労に耐えることであった。しかし、地図上にのびる走破したコースをたどりながら、自分の力でこれだけの距離を走りえたという軽い驚きにも似た充実感に浸る時、言い知れない喜びを感じるのである。自転車から得られるものは多様であろう。しかし、先入観も偏見もない状態でサイクリングを経験し、そして得たものは「走る」ことの充実感、その一語に尽きている。

マップリーディングに参加して – 商学部1年 岸田

マップリーディングに参加して
商学部1年 岸田

5月16日、今日は何か楽しいという噂の出ているマップリーディングの日、天気予報が意外にも当って小雨がぱらついていた。ねむそうな目をこすりながら、下宿のおばさんを起こさないようにと、自転車をかついで静かに1階に降りたのはいいが、もう既に、おばさんは起きて玄関を掃除していた。
「アラ、サイクリングに行くの?」
きまり悪そうな顔をしながら、僕は、
「ええ…、じゃ行って来ます」

さっそうと自転車をけって正門前へ、こういう時の春雨もいいものである。陶山氏が遅れたため、出発時刻が30分超過。排気ガスの中を第2集合場所=王子へ。不幸といえばいいのか、トレマネの奥野氏は、ほんとうかうそか知らないが、勉強が忙しくて机にかぶりつきとか、また、確かな消息筋によると、岡田氏も何か悪いものを食って便所にかぶりついているそうで、どうしても参加できないとのことだった。2人ともよくがんばるナアと感心しているうちに、王子駅に9時15分到着。ここからマッブリーディングのスタート地点である草加駅に。

「草加はせんべいで有名なんでしょう?」
「ふふん、そうか?」
「そうかてよく言うでしょう。草加せんべいて」
「アアソウカ」
もう1つ
「この駅のトイレはクサカー」

一同銀行の前に集まって記念撮影。自己主張の旺盛なクラブ員は、皆焦って前へ前へ。アアいじましい。特に首からバッグを下げた関口氏はひどいナア。彼はよほど顔に自信があるらしいナ。新入生と先輩の2人1組になってゲームを行なうため、海山氏があみだした「あみだ」(土肥氏もかなり感心していた)を駆使して、テキパキとはいかないまでも何とかパートナーを決めていった。幸運と言えばいいのでしょうか?多分幸運でしょう。国友氏という一見まじめでインテリ風、サングラスをかければ、落ちるところまで落ちた、三流映画会社の助監督風、顔は色白、身長165センチ、体重58キロ、少々小肥りぎみの人とパートナーになったのだ。

10時48分、岸田君と国友氏の第2班は、皆の大声援の中を出発、財津一郎さんの弟の中丸氏のいる郵便局前に向かった。次は神社に。途中ガタガタ道ではあったが、あたりの田園風景は何か都会の生活の息苦しさを解放してくれた。前方に1班の走っているのが見えたので、その後をつける。神社で1、2、3班が合班して少し休憩。みんなでゾロゾロ第3のチェックポイントへ。神社では名田氏がひとり静かに読書にふけっていた。悪いことにあたりは殺虫剤の臭いがたちこめていた。が1行はこの場で食事。

12時20分、最後のチェックポイントに向かった。同じ頃に他の班も皆集まって来たので「卍」の場所はすぐ分った。あたりは一面の水田、空は青く澄んで非常に気持がいい。でもゆっくりしている暇もなく集合場所の清水公園へ。江戸川沿いにアスファルト舗装のきれいな道を突っ走る。車が少ないせいか自然とピッチがあがる。昼頃から日射も強くなり、容赦なく僕たちの頭に照りつける。次第に体が燃えてきて、顔から汗がスゥーと流れ落ちる。野田橋の少し手前で、国友氏が、
「歓迎ランのときよりも足が強くなったナア」
「そうですか?」

と口では言ったものの、自分でも認めていたのです。実際、ここだけの話ですけど、岸田君は、秋の早同交歓会のタイムトライアルで1位をとるかもしれないナアと某クラブ員。野田橋を渡って僕の提案通り江戸川沿いに北上する。が少し行くと地道になったのでひき返そうと思っていた所、土堤の上からおじさんが、「真っつぐ行ったら、清水公園に出るヨ」と教えてくれたので安心して走る。

道は砂地なので何度もハンドルをとられそうになる。途中から幸いにも舗装道路になり、自動車も通ってなく、両脇には木々が立ちこんでいる絶好の自転車専用道路といった感じだった。ほんとによかったナア。清水公園の裏側についたようだ。アベックが多いナア。どこを向いてもクラブの人たちが見当らない。チンチン、ベルを鳴らしながら進んでいったら、やっと道端に寝っころがっているのを見つけた。他の班はかなり遅れてやって来たため、かなり長い間待たされた。日なたぼっこをして寝っころがったり、先輩だちのへたなしゃれの応酬や、変に意のある言葉を聞いているうちに時間がすぎた。

何時だったか、全員やっとそろって、浦和駅に向かって出発。帰りは車の量もふえて来た。道路脇にはモーテルとかいうもてない人の行く宿屋が多く目についたのは困ったものだ。そうこうしているうちに解散場所浦和に到着。そこへ安田氏がやって来て、何か靴がなかったからこれなかったとか。こらおもしれー。

主将からの感想の後、早稲田組4、5人集まって出発。先輩たちは今日のランで刺激がなかったせいか、それとも欲求不満なのか、メチャクチャ飛ばすのでこれにはまいったナア。実際ここだけの話だけど、今、岸田君は遅いけれど、将来強くなるんじゃないかナア(某クラブ員)。

今日のランには2つの収穫があったようだ。1つは自転車に少し慣れて来たこと、もう1つは先輩たちと顔見知りになれたことです。今日はほんとうに楽しかった。

クッキングラン – 法学部1年 三沢

クッキングラン
法学部1年 三沢

午前9時に正門前に集合の予定だったが、大隈講堂の時計台が10時を示す頃になっても10人程しか集まっていない。その上、空は今にも泣き出しそう。このようにハッキリしない天気の故に、集合状態が悪いのだろうか。それとも、今回はクッキングランということなので、健脚を誇る者にとっては物足りないせいであろうか。とにかく、これほど参加人員が少ないのでは、せっかく朝早くから集まった連中も、あまりヤル気が起きてこない。

そこで、今日は絶対に雨が降ってくると確信した我々は、予定していた多摩川へ向かうことは取りやめにして、昼食だけをごく手近な所で簡単に済まして帰ってこようということにした。暫しの慎重なる検討の結果、目的地は井之頭公園あたりにしようではないかと主将らが決定を下し、立石さんをコースリーダーに10時過ぎにヤッと出発。

途中、善福寺公園で40分間の休憩。ここで全員30分程、ボート遊びにうち興じた。大体ボートなどというものは、男相手に乗る代物ではないハズなのだが、女性部員のいない我がクラブにおいては致し方のないこととあきらめた。

ところで、本日の呼び物である井之頭公園付近での料理が始まる頃には、絶対に雨になると我々をして確信させた、あの空に太陽が輝き始めていた。これには、全員がヤハリ多摩川まで行くべきであったと、くやしがった。さて肝心の料理であるが、これは例によって関口さんの指導の下に行なわれた。

まず材料は、ブタ肉、玉ネギ、キャベツ、ピーマン、ソーセージ、焼きソバ等、料理の方法はと言うと、以上の材料を次々に鍋にぶち込んで味の素、塩、更には日本酒等で味つけをしてバターで炒めるという非常に簡単なもの。しかし、これが少し塩がききすぎるとの批判もあったが、結構皆の気に入り、大変にうまいというのが大方の意見であった。

この皆の賞賛に、コック長である関口氏は非常に満足した様子であった。以上のように、本日の主目的たる料理は、まずまず成功だったようだ。ただ、食事前にビール等のアルコール類を飲んだ件については、食後のミーティングにおいて全員が深く反省を求められた。また、最終的には参加人員が12人と非常に少なかった原因について、情報伝達がスムーズに行なわれなかったためではないかということも、このミーティングにおいて議論された。参加人数についてはともかく、今回のランは大変に楽しく、しかもうまい食事ができたというだけで、クッキングランとしての意義は十分にあったのではないかと思う。

オープンサイクリングに参加して – 武蔵野女子短期大学 富永さん

オープンサイクリングに参加して
武蔵野女子短期大学 富永(陽)

今、届いた写真を見ながら10月23、24日に軽井沢で行なわれた、楽しかったサイクリングを思い出しています。

東京から満員列車に2時間半揺られて目的地軽井沢に着いた。その時もうすでに日は落ちていて肌寒さが秋の夕暮れを感じさせた。私たちは友愛山荘YHへと急いだ。夕食後、クラブの夏合宿の無声劇画(8ミリ)を見せてもらった。翌朝6時に起床。それから全員でトレーニングを済ませて8時に出発した。

その時はまだ朝早いせいか、自転車に乗ると手が冷たく、風がほほを刺すようだった。そして全く晴れそうもない雲行きの空を見上げた時、私は内心「また雨が降るのだろうか」と不安だった。しかしそんな気使いは不要で、時間が経つにつれて晴れ始め、周囲のもみ、銀杏、それに青空とのコントラストは実にすばらしかった。アスファルト道はペタルも軽く、楽に走れた。しかし砂利道では大弱り。私が一生懸命ペタルを踏むのにもかかわらず自転車は少しも進んでくれない。そのあげく砂利にハンドルを取られついには横倒してしまった。また自動車とすれ違う時には埃に包まれてしまうので
「ああ、自転車なんて・・・」
という気が私の心のどこかでした。しかし坂道を必死になってペタルを踏み、顔から流れる汗を拭きながら上った時の征服感と、下り坂の風を切って突っ走る快適さは今までの辛さを忘れさせた。やはり「苦有れば、楽有り」の諺通りであると思った。

昼頃になると雲1つない秋晴れになり、浅間山がくっきりと青空の中に聳えていてこの上なく雄大に見えた。このようなすばらしい自然の中を走っていた時、私はふと日曜日の神宮外苑を思い出した。東京では人と車がひしめきあっているので、この時とばかりに子供達が作られたサイクリングコースを、我先にと競い合っている。また同じ道を何度も楽しそうに走っていた。今、私たちの走っているこの自然の中とは大違いであるが、子供達にとっては自転車に乗れるだけで嬉しいんであろう。だから私は、このすばらしい自然のコースを一緒に走らせてあげたい気持ちでいっぱいだった。でも自然がこのようにすばらしく見えるのも、きっと自分の足でペタルを踏んでることからくる実感なのであろう。

最近は、観光開発がどこも盛んで自然が破壊されているのが現状です。3,000m級の山でも道路が整備されてケーブルなどが作られ、手軽に行くことができる。同じ所に行くにしても苦しみなしに行くのでは、景色の味わいが違うのではなかろうか。

クラブ員の皆さん、本当にご苦労様でした。今後もこのような計画を立てて、自然にふれる喜びを1人でも多くの人に与えてほしいと思います。

早同交歓会(橿原 – 赤目 – 信楽 – 京都) – 法学部1年 酒井(俊)

早同交歓会 – 橿原 – 赤目 – 信楽 – 京都
法学部1年 酒井

早慶戦の応援で美声を損ないながらも、翌11月2日に東京を立ったのであった。その夜は大阪の親戚へ、京都嵐山1帯を紅葉を求めて散策、六甲山、摩耶山の走破と予定の行動を消化、11月5日早同交歓会の集合地近鉄橿原駅に降りたったわけである。

すでに多くの仲間は到着していた。急いで自転車を組立て、すぐに同大生の先導で今日の宿舎である橿原YHに向かった。休憩の後開会式を挙行、入部以来常々話題に上るこの交歓会が始まったのだ。小生の胸は興奮に震え気味であった。これからの予定、注意が発表され、すぐに食堂での食事が始まった。例によって黙濤、小生が割箸を割った所で、同志社のメガネの御仁が立ち上がるではないか、なんと2杯目にである。続いてぞくぞくと。鳶愕の極。聞きしに勝る同志社の早飯。どうにか食事を済ませて部屋に戻り、全体ミーティングで自己紹介が行なわれた。京都の地でも「新宿夜の帝王」こと関口氏の人気は抜群であることには驚かされた。続いて班別ミーティングがあり、「東京郊外福島県出身」と称する古俣氏から明日の極めておおざっぱなコース説明があった。同志社自慢のワンダーサイクリングに、新たな意欲を燃やしつつ眠りについたわけである。

11月6日。
6時30分起床、トレーニング、食事、自転車の点検と例のごとく終え、8時20分、吉野山をめざして出発した。さすがに11月の空気は肌にしみる。少々走って最初の上り坂、芦原トンネルを軽快に越し、アップダウンを繰り返す。吉野川を渡り休憩、冷茶で我慢する。桜の季節には大変な車だろうと思いながら吉野山頂をめざす。陶山氏、三沢君、そして小生と我が早稲田勢は快調にとばす・・・余裕余裕。金峰山寺に到着、柄にもなく参拝、「きっとすばらしい…」なんて柏手を打ってお祈りする。更に上って如意輪寺へ。

後醍醐帝の陵を見て、いよいよ今日のハイライト万葉ハイキングコースに入る。人1人がやっと歩けるような細い道、しかも雨が流れて溝のような急斜面を、必死にかつぎ上げる。額に汗して、ようやく上り切る。数100m走って下りに。しかし下りも又、押さなければ進めなくなる。うっそうとした吉野杉の林へ。冷ややかで澄んだ空気、岩を流れる小川の清流、丸太の橋。ふと世捨て人の風情も…。宮滝を足下にながめながら必死に自転車を追う。目の前が明るくなった。下り終わったのだ。更に少し走って待ちに待った昼食である。自転車を投げ出して橋の下に。ペロリと弁当をたいらげる。胃下垂防止のために昼寝をする。隣の三沢君はすぐに寝息を、小生は冥想にふける。

芽が出た古俣氏の自転車を修理し、すぐ出発。宇陀川沿いの道路を平凡なサイクリングを続ける。間食のできないつらさ、空腹を感じ始める。店先の肉マンを横目でにらみながら必死にペダルを踏む。俺は決心した。飯を飲み込んでやると!ようやく予定を30分程遅れて、今日の宿泊地赤目の民宿にたどりついた。空腹をこらえながら最後の班の到着を待つ。あまりの空腹で平素冷静な小生の形相も変わり始めた時、民宿の奥さんがオデンを小生の目の前に置いたではないか、すさまじい速さで周囲の手が伸びた。幸運にも油揚げを手にすることができたのだ。羨望の眼差しで眺めた諸兄に断わっておくが、あくまでも場所が良かったのだ。あくまでも・・・。誤解なきよう、最終班もようやく到着し、すぐに食事に入る。自分でも信じられないような食欲である。

食事の後、学年別のミーティングが行なわれ、そろそろ各自の地が出始めてきた。顔もわかってきて、両校入り乱れて歓談できたわけである。まあたいした混乱もなく就寝した。

11月7日、
定刻に起床。例の事例のごとく済ませて出発。午前中はダムまで。今にも降り出しそうな所で昼食。問題のタイムトライアルの出発点大河原へ。ヤッタルデーとばかり出発を待つ。小生は後発班で、2時10分にスタート。「打て!然らば開かれん」の心境である。それだけを頭に先行者を追う。10キロを過ぎた辺で、安田氏、松谷氏に遅れること10m。そんな時信号だ。小生が交差点にさしかかった所で赤に。彼らは行ってしまっている。気を取り直してペダルを踏む。足が硬直して今にもつりそうだ。その上強烈な向かい風。後ろから来た三沢君が軽快に追い越して行く。もう諦きらめた。否、もう少し頑張れ、そんな葛藤を繰り返す。やがて三本柳の上りにさしかかった。最後の2キロに持てる力を出し切った。ゴール。万事休す。安堵、安堵、安堵。疲れた足で康神山を下る、宿舎の玉桂寺へ。

食事を済ませた後で、早同恒例の大演芸大会が行なわれた。素面であるにもかかわらず、全員大熱演である。エロ・グロで押しまくる。出し物もマンネリ気味、見せられる側も次第に食傷気味。続いて表彰式。岸田君の健脚恐れ入った。オメデトー。

11月8日、
京都御所めざし出発。今にも降り出しそうであった天候も、何とか太陽が顔を出すに至った。しかし冷たい風が吹きつけ、ブルブルの状態であった。もう冬がそこまで・・。ふと時の流れの中の自分を感じる。そんな時異臭が小生の鼻をついた。ヤッタナ、前の古俣氏をニラムと、大きな空気穴を備えた短パン姿の彼がニヤリ。この排気ガスには閉口閉口。とにかくダムで昼食をとり、一路京都へ。コンパが近づくせいか、我々の足も自然軽快になる。京都市内を通り閉会式会場の京都御所へ。結局我々の班が1番乗りであった。3時ジャストに閉会式を終える。

我々は京都駅で輪行にして喫茶店へ入った。久しぶりに飲んだコーヒーのうまかった事!市電に待たされ、少々遅れてコンパ会場についてみると、まだまだ食たけなわといった所、あいも変わらず、肉の争奪戦をくり広げていた。酒もまわってくると、例の狂調高き愚声が飛び出し、会場騒然。そんな中を保泉氏が立ち上がり、「御場内の・・・関西ヌード界の・・・」と口馴れた紹介に、待ってましたとばかり、出た、ついに出た、早稲田の切り札、ESCA代表関口氏の舞踊が。3年目を迎え、関口氏のそれも円熟期?ミュンヘンも間近の故か否や、お家芸体操のアクロバティクな要素を盛り込んだ熱演に会場騒然、大変な盛り上がりを見せた。両校校歌で締め、来年の再会を誓ってお開きとなった訳である。

万全なコース選定と、周到な準備で我々を迎えてくれたDCCの皆さん、本当に御苦労様でした。

同早交歓会 – 同志社大学2年 野口

同早交歓会
同志社大学2年 野口

黒潮の地、伊豆にて、愛する早稲田諸氏と涙の別離を告げて早1年、天城峠のアップヒルの如く、待ちどおしいこの1年でした。今又、日本の古里、大和の地で、諸氏と再会できるかと思うと、実に寝苦しい(?)一夜を過ごしたものです。ともあれ、第8回同早交歓会に際し、公、私事に、昨年の汚各をばん回すべく胸に期する私でした。

<一路、橿原へ>
ボックスを、いの2番に一路橿原へと、愛車に戦打った迄は良かったのですが、何の手違いか、我々より遅く出発したはずの老体玉置氏一行が、はるか前方を雄々?と走っているのです。小生、少しノリとしましたが、そこは、華の2回生と鼻の3回生の違い、結果は、言わずと知れた事です。こうして神聖なる交歓会を目前にしているのに、又、奈良公園では、諸先輩方は、修学旅行の女学生達に、鼻の下を延ばす始末。彼等に冷ややかな視線を送りながら、このような先輩にはなるまいと決意したものです。

かくして京都、奈良、橿原へと単調な道を走り続け、集合場所の近鉄橿原神宮駅へ到着したのは、集合時間の4時には、未だ、1時間程早い3時過ぎでした。早稲田の愛すべき人達も、自転車を組み立てているやらで、クラブ員の3分の1程度であり、話を聞くと、今年も例に洩れず、直接、サイクってくるという勇士がいるとの事です。今年は、1人の遅刻者もなく、全員無事(?)に、橿原Y・Hに到着したのでした。

<一路、民宿たまきへ>
昨夜の華々しい開会式の余韻が、各人の脳裏から離れ難い早朝6時半、鬼の浜知氏の朝靄を突くトレーニング。浜知氏以外は、後2回ある早朝トレに、心重くするのであった。かくして第2日目は、7班に別れての班別ラン。

小生をもって象徴される美男揃いの1斑は、出発時、私の失敗で小西君とはぐれてしまい、迷惑を掛けた事を、この紙面を通じて御詫びします。さて、芦原トンネル、大淀町と、自動車に追い立てられ、10時過ぎ、吉野駅到着。流石、南朝ゆかりの地、吉野山である。我々を何者ぞと、急な上り坂が待ち構えている。フリーランの号砲1発、闘志を剥き出しにしてペダルに足掛けるかと思うと、全員SNIRS’RACEである。20分程上りつめると、奈良大仏殿の小型版蔵王堂にて小休止。ミルマスカラスばりの関口氏、柳家かえるばりの及川氏は、即、飯にしようと言うし、内田氏は、彼女に絵葉書を出すのだと切手探しに今来た道を下る始末。早くも11時に如意輪寺で飯にし、七転八倒、赤目の滝民宿たまきに急ぐのであった。

<民宿たまきにて>
ここ、たまきではアベック用の風呂しかないという。奇麗好きのWCC、DCC諸氏にとっては、この上ない苦痛であったろう。下の旅籠に、大人300円也の大温泉浴場があるとの事であった。私も円城、樋口両氏を誘って出かける事にした。ところが諸氏は、盗んで入っているのであった。300円を払って正直者で通すべきか、罪を犯してまで入るべきか、私の良心は揺らいだ。結果は心ある読者諸君に委ねる事にする。P.S. 古俣、浜知両氏は、計らずも後で金300円を代償に旅のアカを落としたそうである。

<タイムトライヤル>
赤目から月ヶ瀬までは、河合さんの播いてくれたメリケン粉を道標にして、心置きなく、紅葉冴え渡る晩秋の山辺の道を駆け巡った。いよいよ、大河原・康申山間、全走行距離43キロのタイムトライヤルである。小生、いや諸氏の想いはいかばかりであったろう。

苦しさよりも楽しさをと安易に走った。他の連中を見ると額に汗流して懸命に走っている。そうだ、これはRACEなんだ!勝負なんだ!否、時間への挑戦であり自己への挑戦なんだと、様々な迷想が駆け巡る。

最終地点の康申山上に着くと、寒波のせいか小雨混じりの寒風が吹きぬける。全員、ガクガクの脚を引きづりながら玉桂寺へと向かった。さてトライヤルの結果は、1位2位を早大に独占され、昨年の栄華はもろくも崩れさった。古俣氏、曰く
「ついに新島敗れたり」

<懐しの京都へ>
昨夜の恒例演芸大会も、例の如く破廉痴で一終し、マンネリ化現象が現われ、新開地を切り拓く時刻となりつつ感がある。

ところで、交歓会も、今日一日を残すのみとなり、ヤッケ、ポンチョを防寒具にして走らねばならない程、最悪の状態であった。段々京都に近づくにつれ、私の胸は早くも祇園上海にてのコンパで一杯であった。

ダンスパーティ始末記 – 教育学部2年 中丸

ダンスパーティ始末記
教育学部2年 中丸

初めてのダンスパーティを終わって、その経過を多分の個人的感想を交えて、書き綴ってみたい。

ダンスパーティ主催の件がとりだたされたのが4月下旬の初総会の時だった。提案者として私が概略を説明した。当時提案した私にしても、クラブにとっても、そのような類の経験や知識は全くといっていい程なかった。ただ、私をしてそうしからしめたものはやってみようという意欲と、元来の楽観的性格によるものかもしれない。

この時点で開催は一応決定されたが、資料不足もあって、具体的説明は次回の臨時総会に持ち越された。この席上、ダンスパーティ実行委員会が結成され、委員長に名田さん、委員に岡田君、陶山君そして私が指名された。臨時総会にて前総会からの疑問点として、ダンパ開催の必要性、ノルマの有無などが問題にされた。前者に関しては主将砂子さんが、今日の物価上昇(特に機関誌「峠」の費用)によるクラブ財政の危機、器材の補充等による必要性を力説された。後者に関しては失敗は許されないという観点から背水の陣をしき、ノルマは設ける意向を委員が説明し、大多数の賛同を得て承認された。ダンパ委員会はレールを走り始めた、

まず最初の仕事は早稲田という男臭いイメージを避ける為に(これには賛否両論あったが)、共催校の女子大探しから始めた。目標を日本女大、共立女大、青山女短大、実践女大のあたりに定めはしたが、当ては全くなかった。とにかく早く決めなければと、陶山君と2人で青山学院女子短期大学に向かった。日頃のジーパン、下駄ばき姿ではイメージを悪くすると思い、スーツにネクタイという出立ちだった。最初に音楽のクラブに入ったが軽く断られ、うろうろ探した上、華道部の部室に入って行った。女の子が1人ポツンと、かけうどんをすすっていた。一応の意向を示しその日は帰り、2回目の会合で何も詳細を説明しないうちに承諾。彼女らは総会にもかけずに決めたらしく、最初から我々に不安を感じさせた。当然の如く我々が主導権を握ることとなった。

早速実質的準備に入り、期日は11月16日、会場はサンケイ会館大ホールと決定する。早々と7月上旬にパーティ券を刷り上げた。これは帰省中に売れるかもしれないということと、9月に入ってからでは遅すぎるという2点を考慮してのこと。しかしこれはあまり成果を上げなかったようだ。幸運にも、合宿のフェリー船上で2枚売った者もいた。これからはパー券をいかに売るかだけが問題となり、各クラブ員に手渡された。10枚に付き1枚のプレミアをつけた。9月中の売れ行きは芳しくなく、我々は多少の不安を感じた。この状態は10月中旬頃まで続いたように思われる。

この頃になり、ダンパ委員の間でノルマは完全に集計し、実際には返済方法を考えてはいたが、これは絶対に外部に漏らさない旨を確認した。10月29日までにノルマの半金を回収したが、この時点でノルマの半数以上売った者は半数位だったろう。我々も集金するのは非常に心苦しかった。ここは会計担当の岡田君の強い意志に依る所が多かった。この頃より部員の士気が高まり、コネに頼るばかりではなく、自ら街頭に出て行った。

おりしもこの時期には各大学で大学祭が開かれていたり、更に幸いしたことは10月に開催したオープンサイクリングの参加者にかなりさばけたことだろう。私も奥野君と新宿に行ったり、稲垣君、岡田君らと女子大巡りをした。最初某君の噂の恋人の母校大妻女大に行き、全く売れなく、お茶大に行ったが、これも全く人影がなく、また大妻女大に戻った。

何たることか、そこで見た光景は。某君がかの恋人と花など持って一緒に歩いているではないか。だが我々は耐えた。見知らぬ女性に憶面もなく声をかけ続けた。意味ありげなえみを浮かべて。暗くなるまで続けて、私の戦果は4枚だった。おもしろいのは売り方に各人の性格が出ていた。稲垣君などは声をかけたら、買ってくれなくとも最後に深々と頭を下げていた。さしずめ私の売り方は娼婦的だったかもしれない。ひっかかりそうな人には手あたり次第に声をかけていった。早稲田祭では青山女短大から、我が部でも10人位の人数で売っていた。私は幸運にも数時間で6枚もさばけた。その足ですぐ奈良に向かい、早同交歓会に参加した。早同が終わると12日になり、あと数日を残すのみで、追い込みが心配されたが、意外と伸びたようだった。

そしていよいよ当日。3年以下が全員ネクタイをしめ、粧し込んで集合。予定した配置につき、いよいよ開場。クロークは目の回るような忙しさだった。受付での当日売りは予想外に売れた。(注・個人の当日売りは協定により禁止した)ウィークデイの為、50枚止まりだろうと予測したが、意外にも120枚も売れた。当日売りは持ち前の悪知恵を凝らして、税金をごまかす効率のよい売り方をした。特に方法は秘すが。会場は盛況だった。1000人収用のホールに900人位の人が集まった。満員で踊れない人がロビーにあふれていた。クラブ員の中には、2回の講習会の甲斐あってか、踊りを楽しんでいたようだ。終わって全員ぐったりしたが、我々にはまだ仕事が残っていた。

翌日から集金と売却枚数を確認し、初めて何らかの形で返済のある事を公表した。どのような方法で返済するか、連日連夜意見を交した。これが我々を1番悩ませた。岡田君は当初強硬論を主張し、名田さんはノルマ未完遂者に同情的だった。特に私と岡田君が話し始めるとすぐに口論になった。2人でしばしばどなり合った。たとえ利益が上がっても、クラブ内にしこりを残しては何もならないという点では一致していた。運営委員会で返済金額の承認を受け、返済金は純利益を除く7万円以内で収めることになった。返済方法は委員に一任された。結局ノルマ完遂者及びノルマ半分以上の者は1枚に付き100円、ノルマの半分以下の者は非売却枚数に300円の割合で支払う事とし、自腹を切った者にある程度優先し、完遂者にも費用その他の面を考慮したつもりだ。ここで任務はほぼ完了したことになった。

別項に記してあるように、純利益は11万円弱であった。青短側は16日の数日前までは、損益分岐点すれすれ位だといわれていたが、比較的呑気で、かえって我々の方が心配した程だったが、最終的には8万円前後の利益があったろうと推測される。このようにして初めてのダンパは一応成功したと私は確信している。

終わってみて、ダンパ主催に関する1番の問題点は前述のように、ノルマを設けるか否か。そしてそれに付随する金銭的問題であると思う。今回は当初ノルマ設定で承認を得た為、この前提は貫き通した。そうすることが各人の人格を尊重することであったと思う。しかし、感情的対立を生む恐れは多分にある。赤字を回避させる為に我々はノルマを設けたが、皮肉にもノルマをつくらなかった青短側の方が人数に対する利益率からいくと、早大が1人当り12枚、青短が1人14枚売った計算になり、はるかに彼女らの方が上回っている。

尚、個人の最高売上げ枚数は我が部では57枚、青短では30数枚であった。次の問題点は主催の必要性だろう。利益金額の11万を集めるならば、例えば、1人が2000円ずつ出し合えば集まってしまう。これは当然2つの意見に別れるが、私としては、何かを全員で協力してつくったお金の方がむろん価値があると思う。そういう意味ではダンパはあまり適していなかったかもしれない。むしろ、早稲田祭に出店を出す方がいいかもしれない。他にも手段は沢山あると思う。とにかく正直なところ、ダンパ委員も、他のクラブ員もダンパには辟易していることだと思う。皆さん、本当に御苦労さんでした。

そして最後に、喜ぶべき事(某部員にとっては悲しむべきことかもしれないが)を書かなければならない。それは、この6ヵ月余という短くて、長い間に、(この間に、親睦と称して合ハイ、クリスマスコンパ等があった)3つの恋が生まれたことである。とに、2つの恋は破れはしたが、これを通して両氏は、恋の甘さを味わい、恋の偉大さ、苦しさを知り得たことだろう。そしてそれを乗り越え、より大きなクラブの力となることを私は確信する。また。3氏のみならず、我々とすばらしき乙女たちとのつながりは更に続き、深まっていくであろう。

ダンパを共催して – 青山学院女子短期大学華道部 石田さん

ダンパを共催して
青山学院女子短期大学
華道部部長 石田

ダンスパーティを開くのって、こんなに大変だとは思っていませんでした。みなさんもそうでしょう?とにかく、何をするにも、いろいろ面倒なことはあるものですね。それに、券を売ることは案外むずかしいですね。改めて、自分達の無知と、世間に対する考えの甘さを自覚しました!(本当に甘いんだナー。反省してます)早大の方々には、本当にいろいろ御迷惑をかけてしまいました。でも、ダンパの事で、すごーく勉強しましたヨー

まず、人をうまくおだてて券を買わせる話し方次に、お金の持っていそうな男性の見つけ方、(Gパンを着ている人は大体ダメ)ETC。それにふだん内気で、とてもステキな男性には声をかけることもできなかった私達だけど、この機会に、少しだけど話をすることができました。(でも、大体そういう人には、ガールフレンドがいるので買ってくれませんでした。残念)だけど、券を売っているうちにだんだん慣れたせいか、ずうずうしくなってしまいました。

青短の品位を著しく落としてしまったのではないかと、非常に心配しています。(早く本来の自分にもどらなくては・・・)

失敗もいろいろ。1番困ったのは、話しかけた相手が外人(留学生)とわかった時。言葉がうまく通じなくて、四苦八苦。(汗クラタラ)

青山祭で忙しく、券を売りに行く時がなくて困ったけれど(何しろクラスメートはみんな冷たくて、誰も買ってくれないんですから)どうにか自分の負担枚数を売った時は、ホッと胸をなでおろしました。とにかく、毎日毎日、今日は慶応、明日は東大、あさっては・・・という具合で、あちこちの大学めぐり、学園祭めぐりで、都内の主要大学に足を運びました。交通費がかかったため、今月はピンチ。それに、ダンパの事が気になって眠れぬ夜もあり(オーバーかしら?)、とにかく大変でした。

今から思えば、ダンパもいい経験になったし、卒業してからも、学生生活の楽しい思い出として残るのではないかしら?(そう思いたい。でもダンパは2度と開催したくないというのが、現在の本当の気持ナノダー)

1年生企画ラン – 社会科学部1年 白石

1年生企画ラン
社会科学部1年 白石

11月23日、勤労感謝の日、1年生企画ランとして狭山湖周辺のランが行なわれた。1年生企画とはいうものの僕自身、企画に参加せず恐縮しています。

当日、早くも午前8時早大正門到着。しかしながら先着あり。構内においては休日ロックアウトの中、僕と同じ早稲田の職員の人達が机、立看をかたづけている。8時半集合。9時出発。10月からの新入部員である僕は入った当時より、クラブのある伝統に気づく。善悪は問わず。すなわち、9時集合即出発。8時半の集合に遅れた1年生2名自主的に腕立てに入るも、2年生よりこの慣行忌むべきものとして横ヤリ入る。

A、B、C、Dの班に分けられたクラブ員は、早稲田通りを通って一路狭山湖へ。しかしながらある友人達に悪いという、うしろめたさがあった。それは、現在早稲田大学で行なわれている学費値上げ反対運動にノンセクトの立場から行動している友人を持ち、値上げ阻止に対して絶望的な気持ちを持ちながら賛同している自分だからである。またその友人が前日より断食ストに入り、真に早大正門に於いて体を張ってがんばっているからでもある。彼等は自己満足の為に行動しているのではないと思う。

そういう後髪をひかれる思いで出発したが、自分がクラブに入った動機は、大げさに言えば自主独立の心を養う為であった。彼等は今行動し、自分はいささかは今も含めて将来ともに政治に関係していく。その為には机上の学だけでなく、肉体と心の修練が必要であると考えたわけである。そして、実際このクラブは理想ではないけれども、大いにうるところがある。その中の1つがこの狭山湖ランなのである。

早稲田通りと青梅街道の交差点に善福寺があり、約13キロ。ここで休憩。

早稲田、青梅とも休日といいながら、大変な車の混雑である。車同志ぶつからないのが不思議なくらいですから、車と一緒に自転車が走るのは命がけである。実際、自動車を買わなければ道路を走る権利がないかのようです。人間の生活はもっと静かで、おもいっきり空気が吸えるのが本来です。(2年生の岡田さんがラン参加途中で都バスとぶつかったと聞きました)

青梅街道から所沢街道へ。所沢が近づくにつれて過去の不摂生がたたって、又弁解するならばサドルが低く、いかにも子供自転車に乗っているようだった。中学1年の頃の自転車なので、足が重くなり前の車との距離があく。所沢において前の班に追いついた。前の班においてはにぎやかな音楽のもとに、ある店の前にたむろし、足から指の運動へ変じている模様。賢明なるD班は一路狭山湖へ。疲れがこうじて上り坂がうらめしく感じられたが、あとどれ程あるのかと考えているうちに狭山湖畔へ。

案外あっけない。1番乗りである。狭山湖へ近づくにつれ全体のスピードが増し、自分の足がいかに弱っているかを感じていると、先輩が先頭が速すぎるという。皆が軽々こいでいるように思えたのでいくらか安心。WCCでは疲れてもポーカーフェイスだそうだ。

ここからはフリーラン。狭山湖畔1周。のんびりと景色をみながら出発。ここはまだ紅葉である。しかしながら道が非常に悪い。これでマラソンコースである。僕の高校では毎年1月に、ここで狭山湖1周マラソンをやるので走ったことがあったが、これ程の大きな石がゴロゴロしていたのではマラソンどころではない。しかしながらGOALまで、恋人達の散策の邪魔をしながら自転車を進める。

途中乗り手のない自転車に会う。喧騒の東京を離れ、狭山ヶ丘の森中で野ぐそとは。DISCOVER、MYSELF。

恋人達の散策の邪魔が当ったわけでもないと思うが、フリーランの途中でサドルがゆるみ、ナットをしめつけるうちにボルトが折れてしまった。先輩の奮闘かいなくサドルは元に戻らない。しょうがないからジャンパーと、あるだけのタオルとを巻いてゆくことにした。先輩がサドルは中心をとるもので、すわるものではないと言っていたと聞いたが、いささか不便であるような気がした。誰かがボルトのスペアーを持っていることを期待してGOALへ出発。しかし思ってみた程ではない。上り坂、ぬかるみ等除けば案外うまく走れる。但し見た目はよくない。3輪車をこいでいるようだったろう。GOALには2時少し前に着く。10キロが2時間近くかかっていた。

ここは多摩湖をまたいでいる橋で案の定、人と車が多く出ている。しかし、湖の緑と対岸の林は静かである。頭の上に車の音を聞き、前方の静けさに目をやって横になる。そう言えばここも都民のオアシスになっている。以前、僕が小学校1、2年生の頃の都民のそれは、こんなに遠くへくることもなく求められた。多摩川などは丸子橋のたもとでも水が澄んでいて、そのまま飲める程だった。文明・経済の発達は金のかかるものだ。

午後2時10分、都民のオアシスを後に一路石神井公園へ。途中サドルのボルトが買えるように祈りつつ、3輪車に乗った大人という不恰好さで。帰りの道路はすいていて、サドルがないにしては疲れることもなくこぐことができた。田無近くにおいてボルトが求められ、正常の状態に戻ったが、不恰好さだけは残った。青梅街道から目白通りに入り、終着地石神井公園へ入る。

狭山湖にも多くのサイクリストが来ていたが、帰る途中においても小学生のサイクリストが一生懸命自転車をこいでいた。しかしながらサイクリングを行なうにしても、手軽に飛びつけるものでなくてはいけない。現在の命がけのサイクリングでは。子供達にとってはそういう環境が必要だ。そうなると僕等の手には負えないで政治の事となるが・・・。

サイクリングは主体性の回復である、と口でいうよりは実際に行なってみて、自分が知らないうちにサイクリストになっているのが本来だろう。

4年生追出しラン – 政経学部1年 稲垣

4年生追出しラン
政経学部1年 稲垣

11月27日
前夜、あすの朝10時までに、川崎フェリーのりばに間に合うだろうかと、心配しながら眠りについた僕であったが、幸運にも6時半頃に目覚めた。早稲田から皆と一緒に都内を走るのに拒絶反応があらわれ、単独行動で走ることにした。空はどんより曇っていた。だが初めて通る道だったので、興奮しながら走り続けた。大原交差点・羽田飛行場・川崎臨海工場群と、現代日本の断面を見ることができ、よい社会見学を兼ねたのだった。川崎フェリーのりばで、早稲田からの本隊と合流して、海路木更津へ。

木更津について驚いたことには、東京東部の住民及び1部の物好きな有志は一路ここまでペダルをけったくってきていたのだ。正午頃、駅近くの公園に全員集合し、今や遅しとばかりに今回の主役、及川さん、高橋さん、中山さん、吉田さん、渡辺さん、保泉さん、堺さん、宮崎さんの諸氏の参加を得て、盛大に敢行されることにあいなった。そこで班別の発表があり、僕は、エリート(尻)部隊である4班に所属した。いつものように、あの出発前の武者護いがおこり、気分は最高潮に達した。

この時には、雲1つだにない青空になっていた。まず、トラックなどの大型車の交通量の多い国道127号線を南下、景色なんてあったもんじゃなかったが、恵み程度に、東京湾観音が左手の小高い山の上に立っていた。佐貫で、突如、中丸さんが1升瓶を背中にかつぎ出した。そこから、紅葉にうめつくされた晩秋の山々を両側に見ながら軽快なサイクリング。名所鹿野山にはマザー牧場があって、魅力的な6つの乳房をたらした牝牛が10余頭いた。牛に草をやったりなでなでしたりしたのだが、不断、欲求不満の誰かさんは、あのムンムン、ムチムチする乳房に手を触れ、乳しぼりの実演を披露してくださった。

鹿野山からは、地道のアップダウン。大変景色がよく、南の方を見下すと、下の方100メートル位の高さのところを小高らかな山々が何百何千と幾重にも連なって、しばし目を奪われた。絵になる眺め。スバラシイ。胸がぞくぞくしてくる。これぞ、まさに『美しい日本と美しい私』の心境だ。

このような景色があるから、僕はサイクリングをするのかしら?本当に、サイクリング冥利だと思うべし。だが、我が4班はメカトラ。次第にバラバラの状態になっていった。ラストには土肥さん、立石さんがおられるので心配はいらなかったが、コースリーダー安田さんとラストをつなぐために、また、道を確認するために、安田さん – 高橋君 – 僕 – 中丸さん – ラストというふうに追分でリレーしながら走った。その頃から、だんだんと暗くなってきた。その1つの追分で1人の少年に会った。その少年は「そうだんべ」という類の田舎言葉を使ったので、何だ東京に近いこんなところでもそんな言葉を使うのかとあっけにとられた。

ついに暗くなった。月夜ではあったが車が重くなるのを恐れてなかなかランプをつけないでいたがとうとうつけた。山の中の地道を1人で進んだ。あたりがジーンとしていて薄気味悪くなったので、景気をつけるために「アイーダの凱旋行進曲」・「柔」・「いつでも夢を」などを口ずさみながら、どうやら先行隊の1団が待っていてくれたトンネルの入口に辿り着いた。そこで人数を確認して皆一緒に走ることになった。僕の前を走っている中丸さんは、赤ん坊のような帽子に真っ赤なタイツ、その上に短パンのいでたち、

「トラックが来たわよぉ〜ん」と財津一郎風の叫び声、僕は、クリーム色のジャンバー、ブルージーンでアイーダを口ずさむ。その対象は寅サン派、建サン派の象徴であった。後の方からは数日後に迫った役員選挙を意識してか、顧問立候補の関口さんから「…さん気をつけて下さい」「・・君、寒くない?風邪をひかないようにな」等の事前運動が盛んに行なわれた。企画よりも大幅に時間が遅れてしまったけれど、僕自身にとっては月夜のサイクリングもおつなものだった。まさに川中島の鞭声粛々夜河を渡るの感を味わうことができたから。7時頃に、一行は内田さんに出迎えられて亀山山荘に到着した。9時から酒と堺さん差入れの北海道産の肴をたしなみながらミーティングが行なわれた。企画の失敗が指摘されたが、それにもまして感激の方が大だった(特に4年生には「よかった」という声がしきりに連発された)ようだ。

11月28日
清澄寺に立ちより、一気に太平洋岸に出た。この途中保泉さんが
「山の中で道に迷った時、どうして方角を知ったらよいかわかるか?」
「太陽のある方が南だと思います。また、磁石を使ったらよいと思います」
「雨が降っていて、磁石をもっていなかったらどうする」
「?」
「それは家を見るんだ。家の向いている方が南だよ」
「あの・・・・・・先輩、家がなかったらどうします」
「?」
と貴重な御教えをして下さった。

国鉄太海駅で思い思いに休憩した後、今度は南賀水道側を目差した。ほんの少し内陸に入ったら、もう1直線の地道の上りである。続くこと10余キロ。辛かった。自己との戦いがくりひろげられた。

その山の両側は前日のあのすばらしい景色を再現するかのように広がっていて、後方を臨むと太平洋が円弧をきれいに描いていた。下り坂は石ころが多く急であった。タイヤの空気が少ないせいか直接リムまで衝撃が伝わってきて、野麦峠を思い出させた。

急な坂を下って行くと、追分のところに皆が集まっていて、異口同音に、「交通事故だ。死んだ」と言うので、一瞬、ゾクゾクと背すじが伸びた。それを証明するかのように、追分の真正面にある徐行の立て札が中程で真っ2つに折れていた。「あれ・・・まあ・・・」

高橋君が坂を下ってくるとき、ハンドルさばきに失敗して、土手に直接、直角にぶつかったとのこと。この時に、徐行の立て札を折ったのだ。太さは5センチ4方以上あったように思う。当の高橋君自身は何も怪我をしなかったが、愛車は前ホークが曲がり、前輪がすっとんでしまうという悲惨な状態になった。メカ陣を中心に、何とか乗れるように直し、高橋君は、4班に別れを告げ先に行くことになった。

事故現場からちょっと進んだ大山付近で、1班の全員と2班の数人が道を間違えて、左の方へ行ってしまった。知らずにどんどん進んでしまえば、館山まで行ってしまうのだ。この劇的な発見をしたのは、この追分の傍にあった柿を食べて休憩していた英雄だった。

そこで、安田さんが後を追っかけて面倒をみることになり、他の者は右の方の正しい道を一路浜金谷に向かうことになった。安田さんとは横根峠のところで連絡をとることに決まった。どんどん時間がたち、浜金谷駅への到着時間が大幅に遅れる気配になってきた。さて、知らずに安田さんとの連絡地点を通り過ぎてしまい、ほこりの舞い上がる道の傍で協議された結果、中丸さんが連絡地点まで戻ることになった。この時、僕は2つの行動の瀬戸際に立っていた。

1つは、土肥さんの意見に従って、4年生の胴上げを1人でも多くの人で行なうためにこのまま浜金谷へ直行すべきか、もう1つは、先週行なわれた狭山湖ラン、昨日のランにおいて、中丸さんの自転車の調子が悪いのか、体調が悪いのか、ときたま遅れることがあり、不審な陰を感じていたので一緒に戻るべきか。健サン派の僕は、「僕も戻ります」と言った。

だが中丸さんは「・・・子さんのことをゆっくり考えているよ」と陰をおおいかぶすように言われた。その時、何かかわいらしい意地らしさと同時に寅サンのいう「渡世人のつらいとこよ」を感じたのであった。結局、日和ってしまって走り出した。安田さんが来られる南の山からの道は分りにくかったので、もう1つの追分で立石さんが待機することになった。ここは、四方を山に囲まれた薄気味悪いところに加えて、日がだいぶ傾いていた。立石さんも「もうじき中丸がくるからいいよ」と言われた。このランは別名「2年生企画ラン」となっており、前から2年生の積極的な意気込みを感じていた僕であったが、ここでまたもや責任の遂行に対するきびしい義務感を感じた次第。だいぶ胡麻がすれた。

案ずるより産むが易し、途中で店の前で腹をたくわえていると、安田さん、中丸さん、立石さんが来られて、間違えた人たちは無事で勝山経由、浜金谷に向かうことになったとのことであった。浜金谷駅に着いたのは6時半近くであり、真っ暗であった。さてここで、4年生の胴上げがウァッショイウァッショイと盛大に行なわれた。

4年生の顔には満足感がみなぎっていた。駅前広場で自転車を分解する音が響き渡ったと思うと、1人、2人と姿が消えていった。結構ケダラケ猫灰ダラケでした。

11月29日
駅前の民宿に泊まり、第1回4年生追出しラン記念プライベートランを敢行

随想的沖縄日記 – 政経学部3年 名田

随想的沖縄日記
政経学部3年 名田


私は、2等船室で、税関のやって来るのを今か今かと待っていた。東京から二晩かかって、この船は今や那覇港に入港したのである。予定より5時間ばかり遅れて、琉球海運の「とうきょう丸」は着いた。

2日前の正午に東京晴見埠頭を出港したこの3500トンの船は、2時間程まえに沖縄本島が見え出してから、島を左の方に見て急に速力を落としたかのように、ゆっくり、ゆっくりと南下しているように感じられる。しかしこれは目的物が、間近に迫った時、それを手に入れるまでのほんの短い時間が、非常に長く感じられる感覚であろう。そして島の姿を間近に見ていることも関係があるだろう。船は同じように進んでいたのである。この船は定員1000名であるが、実際にはその3割以上オーバーしているようである。何しろ船室に入って場所を確保しても、夜寝る段になると、寝返りを打つと横の人間の体に触れるので身動きできない程なのである。いくら2等であるとはいっても、あまりにひどいと言わねばならない。明らかに乗客を無視していると思う。会社側はもうかりさえすれば良いというので、定員を無視してまで、我々を詰め込んでいるのだろう。

沖縄旅行に行きたいと1月のはじめに突然思った。南の島、パインと砂糖きびと美しいサンゴ礁の海。また同時に、基地と太平洋戦争の激戦の島。私の心に全くジャーナリスティックな、平凡な、型にはまったイメージが浮かび上がったのだ。美しい自然と厳しい現実。そこに私は一種言い難い「誘い」を感じた。私の頭の中に作られた想像力は、最初の衝動的な欲求によって触発され、次第に肉づけされながら、自分自身の固定観念となっていった。それはともすれば現実というものを忘れがちな想像の世界であった。しかし、「とうきょう丸」での経験は、私の沖縄に対する幻想と言える。手痛い打撃を受ける最初の出来事であった。

我々が港の土を踏んだのは午後3時頃であった。船の中で知り合った専修大学の人と一緒に下船した。私は船に自転車を積んだままである。チッキにしてあるのだが、月曜日だというのに公休日とかで受け取ることができなかった。私達2人は、港からぶらぶらと那覇の市街の方へ歩いて行った。喫茶店に入ろうと思って街を見回してみたが見当らなかった。町の中は少々ほこりっぽく、閑散としていた。10分ばかり歩くとじっとり汗が出て来た。市内を通過している1号線(これは米軍が軍事目的のために作った道路である)まで出ると車も多く、東京並みのラッシュである。途中ですれ違った人々の顔は浅黒く、本土の人達と比べると少し小柄なようであった。そして毛深く眉が濃く、マツ毛が長くて一見して沖縄の人だと分る。女の子も少し色が黒いが、男の場合と違って目がつぶらで印象的でエキゾチックでさえある。

玉園荘
私達はそれぞれ目的地に行くため、住所を交換して別れた。私は、前もって予約しておいたユースホステルに行く事にした。自転車は明日にでも取りに行く事にして、まずユースホステルの確認である。沖縄には那覇に2つと北部の名護に1つ。そして石垣島に2つのユースホステルがある。私が着いてからかその前か知らないが、那覇から30キロ程1号線を北上した山田という所に、沖縄で最初の公営のユースホステルが完成したそうである。

港で買った市街地図を広げてみたが、何だか分りにくいので、タクシーに乗ることにした。沖縄では車は右側通行である。私はタクシーに乗ってから、何だか変だと思ったら、ハンドルが反対側に付いていたのである。タクシーから街の中を眺めると、ナショナルやソニーの広告がいやに目についた。そして、時々英語で書かれた店の看板が見えた。私はこれらを見て、何だか沖縄が東南アジアのどこかの国かと思われた。タイのバンコクやサイゴンなどが、日本の大資本の進出によって、町の中が日本の企業宣伝でおおわれている様子をよくテレビで見るが、まるでそれらのように感じられたのである。これらは予想していたことであったから、大して驚きもしなかった。

しかし今でさえこの状態であるのに、1年後に本土復帰になったら、いったいどのようになるのであろう。当然、本土大資本の進出が激しく行なわれ、沖縄の伝統的な産業(と言ってもサトウキビやビール、その他数える程しかないが)は、完全にその支配下におかれることであろう。しかしこう書いてきて、私は自分の認識した範囲内ではあるが、既に沖縄が遠く、日本本土と意識の上でも現実においても、遠く隔たりが存在することに気が付いた。本土資本の支配下と書いたがこれは一体何であろう。私の意識は既に沖縄を植民地として構応していることを表わしているのではないか。25年間の異民族支配と1口に言うが、それはもう半ば超えがたいギャップとして、私の認識の底に流れている。すなわち、沖縄は半日本であり、半外国であるという感じ方が、疑問もなく私の中でなされているのである。

このように考えて、私は改めて沖縄のもつ困難な問題について考えずにはおれなかった。しかし、この問題は、果たして考えるだけで解決されるものであろうか。この疑問はそのまま今も私の心の中に残りかすのようにわだかまっている。そしてこの問題は、個人の微力ではどうすることもできない巨大な世界政治のメカニズムの網の目にとらえられた、小さな波の皮濃のようなものであり、それ自身何もすることができず、間違えば自ら破壊するかも知れないという困難な性質のものであるとしか言いようがない。ただ我々にできるのは、日本政府及びアメリカに沖縄の現実を少しでも改善するよう要求することだけのように思われる。

変わった沖縄の風呂
話は元に返って、私はタクシーで10分位で例のユースホ着いた。玉園荘という名前で、那覇の中心から北東の小高い丘の上にある。丘の上といっても割と建物が密集しているので、見晴らしはそんなによくない。着くと驚いたことに、船の中で見たような頃の者が10人ばかり玄関で待っているのである。聞くと、予約していないので泊まれるかどうか分らないというのである。私は彼らを悠然と横切って入口から入って行った。中は薄暗く、かなり古い雞湯のようで、相当ひどいユースホステルだと思った。ひとまず指定された部屋へ荷物を置こうと思って階段を上がって行くと、ユースホステルの手伝いの人らしい女の子がいた。

その人に食事と風呂のことを尋ねると、夕食はないので外食にしてほしいとのことであった。そして風呂もボイラーが故障して使えないので、近くの銭湯へ行ってほしいというのである。せっかく2日間の汗が流せると思ったのに、外へ行くのかとがっかりした。しかし、沖縄へ来て銭湯へ行くのもおもしろいと思って気を取り直し、風呂へ行くことにした。風呂は洗い場と脱衣場の区別がなく、1年の時東北で入った温泉の風呂のようであった。これはコザや北端の『奥』という部落にあった旅館の風呂、石垣島の銭湯、竹富島の旅館の風呂と同じものであった。沖縄全体にこういう型の風呂が一般のようである。銭湯は本土のより区別がはっきりしていて、隣の女湯は全然見えない。これは意外であった。風呂に関しては北の方へ行く程開放的なのかな?

1ドルは360円…
次の日は朝から雨であった。南部戦跡を1周しようと思ったが中止。ユースホステルで同室になった青山学院の2人連れの学生と、東京の赤羽から来た女の子と4人で那覇の町へ遊びに行くことにした。那覇の中心を走っている国際通りの真ん中辺にある、三越デパートの食堂で昼食。1ドル払ったが、あんまり高いと思わなかった。やはりまだドルと円の計算に慣れていないせいであろうか。360円と言われると相当高く思うが、1ドルというとそんなでもないから不思議だ。

午後、彼ら3人は八重山の石垣島へ行く切符を買うために泊港へ行った。私も一応港の様子を見ようと思い、一緒に行った。那覇港が本土との連絡港であり沖縄の表玄関であるとすると、これに対して泊港は沖縄の裏玄関と言える港である。ここからは本島からまわりの小島や宮古島、石垣島、そして台湾まで毎月多くの船が出入りしている。那覇港が時には那覇軍港と呼ばれるように、米軍の軍艦が停泊していて何となく物々しい雰囲気であるのに比べ、泊港はいわゆる「港」というにふさわしい港であった。

泊港のすぐ隣に沖縄ツーリストという旅行会社がある。我々はそこで切符の予約をした。1時間位色々交渉して、彼らは今日の夕方出発する船に乗ることになった。一方私は、3月28日の石垣島行の飛行機を予約した。この旅行社には若い女の人が2人いて、2人とも相当な美人だった。私の飛行便をとってくれた人はあまり沖縄的ではなく、むしろ北国によくある -と私には思われたのであるが- 型で、もう1人は大空真弓に似た典型的な沖縄美人だった。2人とも親切に応対してくれた。飛行機は南西航空(日航と地元との合弁企業だそうだ)のYS11で15時20分那覇発である。料金は17ドル52セントであった。沖縄へ来て初めての大きな出費だった。

那覇の夜 – 色々な人々
夜になると那覇の町はネオンで輝く。そして盛り場は男と女の人情交換の舞台となる(なんだか三文小説めいたかな)。私の泊まったユースホルテルは、那覇でも有名なバー、キャバレー、小料理屋の密集している桜坂のすぐ近くにあった。今夜同室になったのは、東京から来た大学生2人と得体の知れない30才位の男、岐阜から来たという学生の3人であった。

大学生の1人は1週間位前から来ていて、ほとんど毎晩コザの町へ通っているという。コザの町には今でも完全な赤線地帯が残っている。そこにはコザ吉原と呼ばれる1帯があるそうだ。沖縄には売春禁止法がないから、いたる所に青線地帯がある。コザはその中で最も安全性が高いそうだ。岐阜から来たという学生は一見おとなしそうで、色の白い女好きのするタイプであった。彼はもう2週間位沖縄にいて、2、3日前までは久米島の1泊2食付き3ドル50セントの旅館にいたという。今度が沖縄は2度目で、久米島では大変サービスが良くて素晴らしかったという。そして彼の経験談を聞いた。しかし我々3人は(もう1人の男は出て行っていなかった)、初めは全く信じられなかった。以下は彼の話である。

「何の気なしに桜坂のバーへ入った。きのうの夜9時頃だった。ビールを注文して飲んだが横に来た女の子と話しているうちに、意気投合していつのまにか12時頃になった。彼女には何か悩みごとでもあったらしく、こちらは黙って話を聞いてやった。今夜はあと2日で帰るので女の子をどうしようという気はなかった。しかしュースホステルの門限が10時である。帰れないというと彼女がタクシーを頼んでくれて夜食を食べに行き、宿まで紹介してくれた。そしてその費用も全部自分で出してくれた。おまけにその旅館に一緒に泊まった。当然なるようになり、あくる日は一日中2人で遊び、公園に行ったり映画を観たりした。」

以上のようなことであった。彼の払ったのはビール4本分4ドルだけというのだ。その上彼女は明日彼の帰るのを見送りに来ると言ったそうだ。全員最初は信じられなかった。しかしこの話は本当らしかった。

この話を聞いて私は頭の中がクラクラとした。私は自分の沖縄へ来た理由を考えてみた。単なる観光目的か、それとも沖縄という所を肌で感じ、自分の目で見て自分自身の考え方でとらえようと思ったのだろうか。私は「単なる旅行としてこの旅行を終わらせたくない。少なくとも沖縄という特殊な地域を学生としての真面目な眼でとらえよう」と決心していたはずだ。この学生達のようにバーへ行ったり、女を買ったり(これも沖縄の赤線地帯の残っているという現実を無視した行為ではないだろうか – 差別という点で)するのを半ば最大の目的でやって来るのは、少なくとも学生として、いや人間として許されないのではないだろうか、と思われた。

しかし、この考えは一瞬間私の観念をとらえただけで、次の瞬間には、それらは氷がすべり落ちるように私の脳裏から去ってしまった。そして、私も夜の那覇へ行ってみたいという気持になってしまった。

夜の徘徊
3人は裏口からそっとユースホステルを抜け出し、ブロック塀をのり越えて外へ出た。我々は岐阜の男から聞いた桜坂のバーというのを手がかりに、その方向へ歩いて行った。夜の10時頃である。外は人通りまばらである。しかし、バーやスナックなどの灯で通りはなかなか明るい。3人でバー街を徘徊すと、戸口の2、3人の女たちが声をかけてきた。
「お兄さんたちいらっしゃいよ」
「さあどうぞ」

しかし我々は恐る恐る彼女等の顔を見、あたりをキョロキョロと見回すばかりであった。歩いて2、3分の狭い一画にバーや飲み屋が密集していた。家並は昔風の小さな旅館のようになっているが、1階はバーになっている。ほとんどそのような形式のようであった。戸口の女たちの中には相当な美人もいて驚いた。

我々はやっと意を決して、小さなスナックのような所に入った。中には50位のママと女の子1人にお客が1人いた。我々はまず隅の方のボックスに腰をかけ、ビールを注文した。女の子がすぐ持ってきて私の横にすわった。話題といえば、本土復帰と酒やハブのこと位である。彼女はあまり美人とは言えず、どちらかというと家庭の主婦といった感じのする女だった。我々は30分位でそこを出た。1人1ドルであった。ビール1本でホロ酔い気分になって、もう1軒はしごすることにした。

今度は普通のバーのような所であったが、すぐ10m程横には警察の派出所があった。看板にはサロンとあった。中はかなり薄暗い。夜も11時を過ぎたためか、サラリーマン風の客が1人いるだけだった。30才位のママとホステス2人、それに女のカウンターが1人いた。我々はまたもビールを注文した。ビールが量があって比較的安いと思われたからだ。ホステス達はそれぞれ我々の横に来た。3人の女は、みな相当酔っている様子であった。
「一緒にビールを飲んでもいい?」

と言いながら自分で飲む。ジュークボックスからは歌謡曲が流れてくる。ママはやはり1番美人である。そして客扱いも手慣れた感じて、平気で猥談めいたことを口にした。1人のホステスは高校を卒業してすぐ東京に働きに出て、品川で住み込みで2、3年いたという。しかし大した賃金もくれず、一日10時間も動かされて嫌気がさしてやめて、沖縄へ帰って来たという。しきりに「本土の人間は冷たい」と酔って絡んできた。八重山の宮古島の出身で、自分で宮古が1番生活の苦しい島だと言った。

だまされたか?
ジュークボックスの曲が変わって、踊ろうと言って私を誘った。最初はだめだと言って断わったが、あまり言うので踊った、酔っているために足元がたよりない。体が大きいため少々もてあまし気味である。

またすわり直してビールを飲む。ママが「トマトジュースを入れると元気が出る」などと言ってどんどんビールに混ぜた。これには驚いたが、そんなものかと思って見ていた。私の横に今まで他の客の相手をしていた女が来た。彼女はほとんど方言しかできないようで、何を言っても通じない。時間もだいぶたった。彼女は相当酔っているように思われた。話ができないので、やたらに私に抱きついてきてしなだれかかってくる。そうこうするうちに、そろそろ出ようかということになった。他の2人もそれぞれ同じようなことをやっていた。

この時、急に4人の女は方言で何か話し出したが、何か秘密の暗号の交換をやられているようで、おかしな感じだった。本土でも方言だけでしゃべられると全く理解できないものだが、沖縄の場合はそれ以上である。何か悪い相談をされても何も分らない。飲んでいる時に、しきりにナドルなどとママが口走っていたので、てっきりあの方の相談かと思った。とにかく出ようと言うことで、1人7ドルばかり払った。沖縄でも12時以降の営業は禁止されているらしく、表の扉は諦めてあった。みんな裏から出て行くことにした。我々3人は、裏の通用門のような所から先に出された。彼女らは、
「ちょっと待っていて。すぐ来るから」

と言いながら門に鍵をかけて消えてしまった。しかしこの時我々は互いに顔を見合わせ、これはちょっとやばい感じだなと言い合った。何だかこれっきりおいてきぼりにされそうな気配であった。1人はもう帰ろうかと言ったが、もう1人はいやもう少し様子を見ようというので少し待ってみた。すると、2軒程先の家の所から宮古島の女が出てきて、待たせてあったタクシーに乗り込み、こちらの方を見てニヤッと笑ったかと思うと行ってしまった。これで決定的にやられたと思った。しかし、まだ何か立ち去り難くその辺にいた。時間は2時半である。

もう帰ろうかと言ってみんなあきらめて歩き出した。先程の女の話などしながら行った。結局こちらが金がないとみて酒代を少々高く取って、体よく追い払われたという感じであった。しかし、こちらとしてもそんな事をして、旅の初めに金がなくなっては心配なので、かえって良かったと思った。ちょっと残念という気持もなくはなかったが・・・。

腹が減っていたので軽く食べようかということで、小料理屋へ入ることにした。表の戸は閉まっていたがトントンたたくと開けてくれた。中には沖縄の人が2人で飲んでいた。向こうもこちらが本土の人間だと分ると話かけてきた。話は当然本土復帰の事である。復帰してからの経済的環境の変化に対して非常に不安感をもっているようで、話していてもその事は分るのだが、しかしいたずらに変化に対して不安ばかりいだいているようで、少々いやな感じだった。

話していても我々の沖縄の歴史的な価値との対比からくる本質論と、彼らの経済的な現実論はかみ合わずおもしろくないので、1人の学生が急に出ようと言い出し、それにつられて全員店を出た。ちょっと失礼だったかなと思ったが仕方がない。この後、3人はかなり疲れて足を引きずりながらユースホステルに帰った。

中部の町 名護へ
名護までの道は政府道1号線である。この道路に沿って、米軍の極東最大の嘉手納基地がある。沖縄本島を貫く大幹線道路でもあり、また米軍の軍用道路でもある。昨夜は4時間程しか寝ていないが、あまり眠くはない。

午前中に那覇港へ行って自転車を組み立てた。2日間置いていたので保管料金を取られた。港が公休日だったから、不本意ながら置いておいたのに、女の係員の態度が悪いので余計腹が立った。自分の自転車を荷物預り所の横で組み立てていると、やはりどこの地方へ行ってもそうだが、子供がまわりを囲んで見ていた。預り所に輪行袋が1つあったから、私以外にも1人でサイクリングに来た者がいるのだろう。

午後1時那覇を出発。道幅は相当広いが交通量が相当なものだ。米軍の大型トラックが頻繁に通ったが、その後ろの荷台には兵隊が2、3人いつも乗っていて、こちらを見てニコッとしたり、互いに顔を見合わせて笑ったりした。米軍上陸の地の北谷を通って、一路名護へ走る。米軍特有の緑の芝生が右手に延々と続いて嘉手納空軍基地に入る。那覇から30分位の所までは両側の店はすべてと言っていいくらい横文字で、原色のケバケバしい看板がずらっと並んでいた。しかし、嘉手納ではただ行けども行けども基地ばかりという感じで、この基地の大きさに驚くばかりだった。途中、万座毛の近くのレストランに入った。本土資本の店らしいが、人影はまばらであった。アイスコーヒー一杯を飲んだ。中には毛を茶色に染めた女の子が2、3人いた。服装は流行の恰好をしているし、一見遊び人風の感じであった。こちらは短パンで薄ぎたない恰好をしているので、話しかける気にもならなかった。しかし彼女らはどんな生活をしているのだろう。

レストランの外にはブールがあって、米人が泳いでいた。色が白くて毛むくじゃらで脂肪太りで気持の悪い奴ばかりだった。そこを出て途中、小さな村の食堂で沖縄の焼ソバを食った。メンが薄べったらくて、きしめんみたいな感じで硬い。しかし腹が減っていたのでうまかった。

今夜の宿は名護のおおさか屋という旅館である。ユースホステルがその北の方にあるのだが団体でないと受け入れないそうで、それに水もないということだったので、那覇の玉園荘からおおさか屋を紹介してもらった。ユースホステルと契約していて、安く泊めてくれるそうだ。

名護は沖縄本島の町の中でも、基地のない静かな落ち着いた町である。沖縄では新婚旅行に来る者が多いそうだ。6時半過ぎに宿に着いた。1泊2食付きで1ドル80セント。ユースホステルと同じで先払いである。この宿の娘がフロントをやっていて、岡崎友紀に似た、ちょっとかわいい子であった。この旅館には2、3日後にもう1泊した。その時に失敗があるが、後で話すことにしよう。ここの風呂も脱衣場か中にあって入りにくい。しかし汗を流した後の風呂は気持が良い。客は10人位で、ユースホステルだから18才位から22、3才までの若者ばかりだ。女の子も1人いた。

今日走ってくる途中カメラが故障したので、町のカメラ屋へ持って行ったが直らなかった。この後コザでもだめで、那覇に帰ってキャノンの特約店へ持って行こうと思ったが、そこも休みだった。おかげで写真は全然撮れなかった(その前に撮ったのも故障ですべて感光してしまった)。特に手荒に使用したのでもなかったのだが、カメラの故障は旅行を通じて全く残念だった。

論文?
9時頃ユースホステルを出て飲みに出る。他の者は相当酔っている者もいたが、夕方から飲んでいたらしい。沖縄に来ると皆開放的になる。女の子などは特にそんな感じだ。私はユースホステルの玄関のすぐ隣のスナックサロンに入った。カウンターがあって、止まり木に客が5人ばかりすわっていて、大分混んだ感じの小さな店で、私はカウンターの1番奥に陣取った。またビールを注文した。門限は10時である。あまり時間がない。私の横で飲んでいた40才位の男が話しかけてきた。先程からその隣の男とかなり飲んでいたらしい。一見労働者風である。私が本土の学生だとすぐ分ったのだろう、沖縄返還に関して、本土と沖縄との差別について話してきた。記憶が少し薄れていたので、どんな事を言ったのか細かい事は忘れたが、以下会話風に要点だけ。
「本土の学生さん、あんたどこの学校です」
「早稲田です」
「早稲田か、そうか、うちの親戚の子で立正大学へ行っている子がいるよ」
「そうですか、宗教系の大学ですね」
「私らもうこの年になったら、どうする事もできないが、これから本土と沖縄の問題を解決するのは、若いあんたたちやからね。まあ、沖縄をよく見て、あんた早稲田の学生さんやから論文でも書いて、世論に知らせて下さい。沖縄は本当に貧しいからね。本土の人の沖縄に対する差別もあるし、いろいろ難かしい問題がありますわ。」

こう言われて、論文云々はともかく、やっぱり考えさせられた。
「そうですね。本土復帰することは原則として正しいとしても、そのやり方については非常な困難な問題がありますね。本土の人の沖縄に対する認識の事にしても、復帰後の経済的な問題に関しても、大変大きな不安を持っているという事は分ります。結局大部分の人々の生活はほとんど変化がないんじゃないですかね」

以上の外に口に出せなかったが、話していて次のような印象を持った。すなわち、沖縄の人の「無力感」である。本土の人間に対して抜き難い劣等感をもっていて、すべてに対して受身な感じである。確かに、沖縄の過去の歴史が重く現代の沖縄の人々にのしかかっているであろうが、これでは自分達の運命は切り開けない。実際米軍の基地が島の重要地点を占領していて、人々はその制圧の下に暮らさなければならなくなっている。しかも日々の生活は基地によって支えられている。しかし、来年には一応形式的ではあっても復帰が実現する。そうなった後、現実的な問題を少しずつ1つ1つ解決していけばよい。私は、小難しい本質論にこだわっていてはどうしようもないと思う。もちろん本土政府は沖縄の人々の納得がいく資金援助と、細かい配慮に立った施策を、少なくとも今後10年間は特別に続けるべきだと思うが。

気が付くと時間は10時10分前である。隣の人に大分飲め飲めとつがれたので少し酔った。この店のママは丸っこくてかわいい感じの人だった。それにすごいボインであった。私は1ドル払って、旅館に急いで帰った。

あこがれ
私は次の日、8日40分に名護を出た。沖縄最北端の辺戸岬へ向かった。天気は良い、朝はやっぱりすがすがしい。まるで初夏のような感じだった。道は途中の辺戸名まで、舗装されている。しかし辺戸岬から東海岸に沿った道路はすべてジャリ道だそうだ。

1時間半位走って塩屋大橋を渡り、海岸で休息。サンゴのカケラを2、3個拾う。高校1年生位の女の子が自転車でやって来た。私が手を上げて「今日は」と挨拶すると、向こうも「今日は」と答えた。その後から来た中学生位の女の子には無視された。この辺りに来ると車も大分少なく、しかも海岸線に沿った道路は舗装されていて景色も美しい。絶好のサイクリング道路と言える。海の色もどこか紺々としている。11時15分、辺ノ戸着。少し早いが昼食にした。食堂を出て町の中心近くにある、食料品店へ行った。そこでサンキストレモンを3つ買った。その店の女の子とその友達が店の横のしょうぎに腰かけておしゃべりをしていたので、側に近づいた。

この先の道路の状況を聞くと、ジャリ道で相当悪路だということであった。バスもこの小さな町まではかなりの便数があるが、ここから先は日に数回である。彼女らは高校3年になったばかりで、来年卒業したら本土へ働きに出ると言った。多分東京へ出ることになると言っていた。店の女の子の方は色は黒いが(沖縄の人は普通そうだが)目が奇麗で、体も・・として健康そのものの感じだ。本土の1人は色が白くてうらやましいとしきりに言う。私はそんなものかなと思って聞いていた。

彼女らによると高校を卒業すると、大体半分位が本土へ集団就職するそうだ。しかしそんなに多いとは思わなかった。彼女らの表情を見ていると、本土の地方の人が都会に感じるあこがれとは、少し異質のものを持っているように思えた。大都会に対するあこがれと不安は同じものでも、その中に1種の恐れを抱いているという感じだ。それは単なる田舎者の都会に対する劣等感とは違うものだ。それは沖縄の人にだけしか理解することができないかもしれないと思った。彼女らにサヨナラと手を振って、私は12時40分出発。一路未舗装道路を走る。

辺戸岬
車が時々通るが、道幅はかなり狭くなった。バス1台がすれ違うのがちょっと難かしい感じだ。それに砂ボコリが激しい。昨日、オートバイに乗った人が風で落としていったムギワラ帽子をかぶる。日射しは相当きつい。嘉手納村で帽子を買おうとしても、いいのがなかったが、うまい具合に頭にピッタリの帽子を拝借することができた。

道は山の端を切り取ったようにしてついている。私がマイペースで、のんびりペダルを踏んでいると、突然山あいからヘリコプターが飛び出してきた。私は演習でもやっているのかと思って、少し恐ろしくなった。辺りを見回しても人っ子1人いない。米軍の訓練所が北東の山間にあるとは聞いていたが、多分その方面から来たのだろう。しかし山肌すれすれに飛んでバリバリと無気味な音で、突然現われてくると、まるで自分が狙われているようで、異様な気持になった。改めて米軍の存在を知らされた思いであった。

午後3時辺戸岬着。岬の2、3キロ手前ですごい上りがあった。上り切ると展望台があった。そこには人が2、3人いた。何だかこちらを見ているように思えた。私は相当バテ気味だったが、意地を張って乗った。谷あいに部落があって、時々子供たちや、老人と行き交す。ギヤをほとんどすべて落として、汗をふき出しながらエッチラオッチラペダルを踏んだ。坂の頂上付近へ来ると道は急に右へ曲がっていて、ぼっかりと青空が見えた。ああヤッタゼとホッとして、力を抜いた。少しヨロケ気味で展望台の方へ行った。

そこには家族連れらしい人がドライブに来ていた。そこから少し離れた所では、若い衆が4、5人1升瓶をもって、何やら宴会のようなことをやっていた。その展望台から見下す風景は筆舌に尽くせない程素晴らしかった。今から思うと、沖縄に峠らしい峠があるとしたら、ここ位のものだったろう。

途中の話はこれまでにして、辺戸岬である。本島最北端のここからは本土最南端の島、与論島が見える。過去20数年間、祖国復帰を念願して、4月28日両方から船を出しあって、北緯27度線上で劇的な海上交歓を行なっているが、その与論島は遠くの方にかすんで見える。人影はほとんどない。海に近づくと、ゴツゴツと尖った岩が柱状に並んでいる。そこから見下す海面は南の海らしく群青そのものであった。この岬の1帯は、緑の芝生が一面に敷かれて広々とした公園になっている。その至る所にベンチが置かれてある。ここの景色は沖縄でも最も雄大で美しいと思う。

崖に打ち寄せる波は激しいしぶきをあげて白い泡を立てている。1号線を一路北上してこの岬へやってくると、ひとしおの感慨を覚えずにおれない。いつのまにか女の子の集団が20人ばかりやってきていた。そして芝生にすわって、「沖縄を返せ」と歌を合唱している。本土の観光客で、バスの中でガイドに教わったのであろうが、彼女達も一種の感動を覚えながら歌っているに違いない。私はじっと岩の上にすわって聞いていた。

奥部落
この日、岬を回った後、少し東海岸に入った「奥」という小さな部落の旅館に泊まった。部落で1軒だけの旅館だが、どちらかというと民宿のような感じであった。最初、家の人が留守だったので公民館に泊めてもらおうと思った。しかし、先客がいて夜には帰って来るから大丈夫だというので、勝手に入り込んだ。先客は3人いた。日大の学生で台湾の部落に1ヶ月位いたという人。もう1人も日大生で、ゼミのレポートに沖縄の共同店の調査に来ている人。もう1人は京大の学生。この旅館は時々米人が来るらしく、英語の看板もかかっていた。この家の主人は診療所もやっていて、奥さんがこちらの方の世話をしているという。部落は本当に寂しい所で、山の中にぼつんと忘れられたような感じであった。この夜共同店を調べている学生が、部落の長老にその話を聞きに行くというので、4人1緒に行くことにした。

夜7時頃夜道を少し歩いて、老人の家を訪ねた。最初おばあさんが出て来たが、おじいさんはもう寝床に入っているということで、我々は帰ることにした。ところが、当の本人は相手をすると言って自ら起きてこられたので、我々はそれにあまえて座敷に上がり込んだ。建物は沖縄的な特徴はあるが、大体本土の農家の建物と変わらない。子供はかなりいるが皆、那覇へ働きに出ているらしく、老人夫婦だけの生活であった。早速、泡盛をついでくれた。泡盛は初めてであった。少し砂糖が入っているのか、かなり甘い。日本酒に少し臭みが加わったような味だ。アルコール分は日本酒の倍以上だ。

最初共同店について語ってくれていたが、どういう話からか、いつのまにか戦争の体験について話が移ってしまった。

沖縄の住民に対する軍の態度はかなり高圧的で、人を人とも思わぬような行ないをしただろうと想像される。沖縄戦も末期になるとだんだん米軍に追いつめられ、軍も、人々も山の中に逃げ込んだそうだ。無論、激戦地は南部であったので、北部のこの山の中では大した戦闘はなかったらしい。しかし、山の中に入ったものだから食料には困ったということだ。そしてある夜、日本軍の将校が、何とか言う島に援軍を求めに行くから、暗闇にまぎれてこっそり船を出すように命令したそうだ。しかしもう沖縄のまわりの海域はすでに米軍に包囲されたも同然である。行けば命も危ない。仕方なしに船を出したがその軍人はその島に行ったきり、帰ってこなかったという。住民を見捨てて、自分達だけ逃げ出したのである。

この話をする間に、次第に怒りがこみ上げてくるのか、早口になったり、方言が余計まじってきたりした。その他色々言葉に表わせないヒドイ事を日本軍はしたのだろう。戦後25年経ても、このように怒りをもって思い出される事実、私は戦争の傷跡の深さに驚かされる思いだった。そして、老人は沖縄の返還問題について、最後に一言、「沖縄は余計もんかの・・・」と言った。これには複雑な老人の心境が込められていた。そしてこの言葉は、沖縄の大方の人々の心の片隅に存在する、1種のあきらめにも似た実感ではなかろうか。夜10時頃、お礼を言って帰った。

小さな部落
次の朝、私は3人と別れて、1人出発した。東海岸を通って、名護へ入るつもりだ。奥から、楚州、安田、安波、嵩江、新川、平良という中国風の名の部落を通った。平良から横断して西海岸へ出ることにした。

話は前後するが、奥の旅館の奥さんというのは、南部の与那張という港町の出身で、昔は台彎にいたという。そして今は診療所の奥さんになっている。その人の話しぶりというのが独特のイントネーションがあって、おもしろい。いやおもしろいというより、何ともいえない情感があったのである。沖縄の女の人の話しぶりは大体そうで、特に中年の人はそういう感が強い。

ところで、通行中に見かけた部落はみんな小さくて、さびれた感じであった。部落と部落との間では、人っ子1人見えない。海岸の上り下りを私はたった1人で走る。少し心細くなる位だった。11時過ぎに、安波について休憩。今までの部落より少し大きく、部落の中に掲示板がある、人口349人の部落。木材、パイン、キビが主要産物である。山裾にわらぶきの民家が点々としていて、民宿の看板もあり、学校や公民館も立派なものがあった。園児らしい子供に笑いかけると、ニッコリ笑った。男の子はすぐ行ってしまったが、女の子とは少し話をすることができた。子供はかわいい。

村の人が1人のっそりやってきたので、挨拶すると、向こうも挨拶してくれた。しかし共同店でタバコを買ったが、店番の青年は無愛想であった。

米軍の訓練地
45分出発。安波より12キロ位の所から、未共用区間で通行危険であった。すごい坂道で赤土がむきだしであった。坂を下っても、あまりに道が悪いので上り切れず、仕方なしに押して上った。この道を上り切った所で、奥で作ってもらった弁当にした。確か50セント払ったが、ボリュームたっぷりで満足だった。辺りに薪木の跡が3ヶ所ばかるあるところをみると、こんな所にも来る人がいるのであろう。腹1ぱいになって、来た方向を振り返ると、真っ青な海が見えた。写真を撮りたかったが、写真にした瞬間、その魅力は消えてなくなるのではないかと思われる程美しかった。これは決してカメラの故障の負け惜しみではない。

昼食を終えて12時45分出発。道は戦車でも通ったかと思われる程、デコボコが激しい。そうこうするうちに道は普通の砂利道である。ところが道が分らなくなってしまったのである。二又に別れているのだが、地図では見当をつけにくい。どっちにしようかと迷っていると、黒人の米兵がやって来た。そこで現在地と、平良への道を地図を見せながら聞いた。もちろん英語である。彼は親切に教えてくれたものの、その方向へ行くと、米軍の訓練所みたいな所に入ってしまった。100m位向こうに、訓練兵らしいのが10人建物の中にすわっていた。その周囲にガソリンの貯蔵所や兵舎らしい建物があった。

これは間違えたと思って、あわてて元の道へ戻ると、今度は白人がやって来た。そこでまた同じ事を聞くと、彼は今の道を真っ直行って、山を下って海岸へ出るように言った。私はサンキューと礼を言って別れた。このように1人1人接すると、米人も皆いい人ばかりのように思える。途中、テントを張って訓練している人達や、隊列を組んで10人ばかりの兵士が行進して来るのに出会った。集団でこっちに向かって来られると、やはり米軍の訓練地内だけに少し恐ろしい。しかし、奥のおばさんから米兵は民間人には親切だから心配することはない、と教えてもらっていたから、それなりの落ち着きをもっていたつもりである。

印象としては、米軍も御苦労さんだなと思った。しかしこれはやはり表面的な感傷にすぎないだろう。ヘリコプターが2機旋回して無気味な戦場を想像させる。やはりどこかおかしいのだ。すぐ近くに車という部落があるのである。こんな民家の近くでやっているなんて、、

さて午後4時に平良に着いた。名護には6時である。宿は以前に泊まった「おおさか屋」である。ここでの失敗談を後でいうと書いたが、大したことではない。ただこの日の夜に洗濯をしたのだが、次の日の朝取り入れる時に間違って、女の人のシャツを自分のものだと思って持って来てしまっただけのことである。部屋の中では気が付かなかったけれど、9時にコザへ向けて出発した時になって、少しおかしいと思ってよく見ると、少々ピンクがかっていて、香水のニオイがするシャツが出てきたのだ。屋上にほしていたし、他に女の客もいなかったのだから、多分宿の娘のものに違いない。しかし引返す気にならなかったし、同じ形のものだからと、記念に交換することにした。ちなみに私のは白だった。

名護を出て許田という所を経て、今度はまた東海岸へ出ることにした。横断道路はダラダラ上りで苦しかった。宜野座、金武を通って政府道13号線を海岸に沿って走る。12時に石川市に着いた。やはり基地の街である。人口は16,000人。街に沿って奇麗な海水浴場がある。もちろん米軍専用で、住民は使用できない。

街の食堂でソバを食べる。パチンコ屋が1軒ばかり目についたが、あとはすべてアメリカさん用の店ばかりのようで、やたらに横文字が多い。

1時、毒ガスで問題になっている知花を通り美里村に着く。途中の道は舗装されていて、車もそう多くはない。しかしアップダウンが激しくてバテバテ。どうせ1人だしと思って、平気で坂を押して上った。道幅は普通だが、米軍基地の周辺はさすがに広くしてある。

ちょっとアメリカを走っているような気分だ。美里でコーラを飲む。本土より少し量が多くて10セントだ。店のオバサンの話によると、結構サイクリングの人が通るそうである。しかし私はまだ1人も出会っていない。美里小学校の校庭でパンを食って昼寝。

片仮名の町コザへ
2時にコザに着いた。まず旅館を探そうと思って少し街の中に入って尋ねてみたが、どういうわけかはっきり答えてくれないので人に聞く気がなくなった。そこで奥部落で教えてもらった、中部地区老人福祉センターを探すことにした。色々な人に聞いて、3時頃やっとその場所をみつけた。街から少し離れた静かな所にあって、新しくて割と大きな施設であった。素泊まりで1ドル50セントだ。部屋は読書室とあったが、本は古い性教育の本の他少しだけで、10冊位である。待遇はなかなかよく、同宿者は関大の学生1人であった。彼と2人で近くの銭湯に行ったが、今までで1番入りやすい風呂だった。確か13セントだったかな。夕食に出ようとすると偶然も偶然、奥の京大の学生に会った。彼も同宿である。3人で夕食を食べて、夜の街へ出ようということになった。

京大生は前にもコザに来ていて、行きつけの黒人街のバーを知っているというのでそこへ行くことにした。なんでも白人街のバーでは相手にされそうにないということであった。事実3人で横を通っても、白人には声をかけても、我々には1べつたりともしなかった。少々頭に来た。コザ暴動などでよく聞くが、実際、白人街には黒人は1人もいないし、黒人街には白人はいない。もしふらふらと出かけると袋だたきにされるという。

我々は京大生の後について、白人街よりも少し静かな感じのするその街の中に入って行った。店は「マリモ」という。扉を開けると中は薄暗く、黒人が5、6人あまり広くないフロアで、音楽にあわせて体をくねらせていた。我々はカウンターの止まり木に腰かけた。女の子は4人位いた。ホワイトホースを注文した。そこのマダムというのが京大生に言わせると、話ができて美人だという。私の見た所では25才から30才位だろう。確かに彼の言う通り美人だし、頭も良さそうだった。少し気が強そうだが。そうこうするうちに黒人達は皆帰り始めて、1人だけになった。皆大人しそうな人達ばかりだった。彼女は東京で4年間大学にいたというだけあって、他の女の子達より知性的であったが、少し冷たい感じというか、ニヒルな表情であまり笑わなかった。何か深い過去でもあるように思えた。こんな所でバーのマダムをやっているのだから。1時間あまりいてそこを出たが、一杯だけで1時間以上もよくねばったものだと我ながら感心した。70セントだった。

首里を経て空港へ
コザを10時に出て那覇へ向かう。普天間を通り那覇の東郊の首里に11時すぎに到着。全舗装だったが、首里に近づくにつれて交通量が多くなったようだ。途中、万博の大きな看板がまだあったのは少し滑稽だった。

守礼の門へ行こうと思って道を聞くと、中年のおじさんが親切に教えてくれた。守礼の門は琉球大学構内への入口になっており、かっての琉球王国の王城、首里城のあった所で、高台にある。自転車で上るのは疲れる。構内に入ってみたが、春休みと日曜日が重なったためか、あまり人はいなかった。運動部の学生が数人練習しているだけだった。観光客もあまり目につかず、辺りはひっそりと静かであった。また門の方へひき返して来た。しかし、この門は写真でみて想像していたより大分小さくてかわいい門である。ここでも記念写真を撮りたかったが残念ながらだめ。だが考え方によれば写真機が故障したおかげで、かえって写真機にわずらわされずに、自分の目でしっかり見るということを覚えたように思う。写真にとると安心してしまって、何か自分の記憶をその写真に奪われるような気がしないでもない。

那覇市内を抜け空港へ走る。1号線を途中で右に折れて那覇港に沿って行くと空港だ。この港に沿った所は米軍の物資置き場になっているのだろうか、ずらりとジープが延び、壮感である。空港には1時すこし前に着いた。まず自転車を分解しなければならない。パッグに入れて石垣島へ持って行くのである。玄関の横溝の所で40分位で分解した。一応荷物はそのままにして、短パンをズボンにはきかえて空港のレストランに入り、アイスコーヒーとオムライスを食べた。金を払ったが、ツリ銭があわないので、レジにひき返して確認するとやはり25セント少なかった。感じの悪いレジ係だった。しかし人々の出入りする所というのは常にそうなのか、1種の雰囲気がある。出て行く人、入って来る人。別れを惜しむ人々。そして私のように1人だけのもの。ちょっぴり寂しい感じだ。沖縄でもやはり空港は金持ちの利用する所とみえて、服装も皆立派だし、どこかよそよそしい。飛行場に慣れていないせいもあるだろうが、あまり好ましいムードではない。

石垣島行きの飛行機は南西航空YS163便、15時20分発である。受付のカウンターで荷物と、チケットの確認手続きをした。荷物はすべて手荷物扱いで、貨物料金は別にとられなかった。自転車の分をとられるかと思っていたのだが安心した。

出発の20分位前にゲートに並ばされた。やがてゲートが開き、我々は乗り込んだ。若い観光客風のグループや、新婚旅行のカップルが2組、それに島の人のような感じの人々が50人位であった。

八重山群島
ここで私は沖縄本島を後にして、八重山群島に向かったのである。郡覇で、沖縄へ来たのなら絶対に石垣島や西表島へ行くべきだ、と勧められた。私も最初からそのつもりで、石垣島のユースホステルに予約しておいた。期間にして8日間いた事になる。本島が7日間だからそれより長い位で、思い出も多いし、非常に楽しかった。しかしそれを細かく書いていたのでは紙面が足りない。そこで簡単にまとめてみたい。

さて飛行機の中である。座席は指定ではないので、乗り込んだ順にどこにすわってもよい。私はどういうわけか1番後ろに席をとってしまった。スチュワーデスは2人である。2人とも美人で感じが良かったが、私は背の低い人の方が気にいった。離陸である。恐いとは思わなかったが、少々ゆれるのには戸惑った。飛行時間は1時間25分だ。宮古島上空を通過した時見下した景色は、最高に素晴らしかった。

島の周囲が緑のサンゴ礁と青い海の色が混じり、深いエメラルドグリーンの色で輝いているのだ。島の畑や家があたかも小さな箱庭のように見える。宮古島まで来ると石垣島はもうすぐである。私の後はちょうどスチュワーデスの控室みたいになっていたので、そこにいた例の人に話しかけてみた。すると意外にも気軽に答えてくれた。私はうれしくなって色々聞いてみた。彼女は、本土の学生さんでしょうという。よく分りますねというと、随分日焼けして沖縄の人以上に黒いけど、やっぱり分るということだった。家は首里だという。今日の午前中行ってきたばかりである。そしてスチュワーデスはやはりペイがいいんでしょうと言うと、ニッコリ笑ってみせただけで答えてくれなかった。最後に住所ぐらい聞こうと思ったが、ついその勇気がでなかった。

石垣空港で荷物を受け取り、自転車を組み立てて町の中に入る。2、3キロ位だ。想像していたよりにぎやかで、町の中はタクシーが走り回り、バスも多い。八重山群島の中心地であり、人口36,000で市制が敷かれているのだから当然といえば当然だが・・・。

私は石垣氏邸ユースホステルに泊まった。泊まっていた人は男20人、女10人位である。いずれも若い人ばかりで大部分が本土からである。私は次の日、石垣島1周を目指して10時に出発した。道は町の中以外はすべて砂利道だ。北部を少しカットしたので、サイクリングをしたのは大体80キロぐらいだろう。

小さな島の例にもれず、アップダウンが激しく、沖縄第1の高山である海抜525メートルのオモト岳がある。それゆえ、島といっても結構けわしい。パイン畑や、キビ畑、そして小さな部落を過ぎ、元早大総長の大浜氏の出身地である大浜町を通り、空港に出た。西回りである。ちょうど時間はきのうの63便が入った頃である。私は空港まで行った。きっときのうの人があの中にいるだろうと思って、飛び去るまで待つことにした。やがて飛行機は爆音を謡かせてとびあがった。私は空に消え去るまでじっと飛行機を目で追った。ユースホステルに帰った時は5時15分である。1周するのに約7時間かかった。

私は3月28日、29日、30日と石垣邸に泊まり、知り合いになった人と2人で、もう1度バスやヒッチで島を1周したり、喫茶店に行ったりした。石垣島では4、5回喫茶店に入ったが、1度もバーには行かなかった。

31日に船で30分の沖にある竹富島に渡った。島は周囲9キロのサンゴ礁の島である。島には民宿と2、3軒の旅館がある。私が泊まったのは大山旅館という半分民宿みたいな感じの宿であった。ここに5日間泊まった。その間、1度石垣島に戻っただけで、後は偶然再会した日大生(奥部落で)と毎日シャコ貝をとって夕食に添えたり、泳いだり、またそこで仲よくなった女の子と一緒に島を1周したりした。また毎夜、泡盛を飲みながら歌ったり、踊ったりの宴会であった。最後の日には宴会の司会をさせられたり、夜中の12時頃ハブを取りに行こうと10人あまりの男女で海岸へ行き、そこで春歌の大合唱をした。結局普通のシマヘビしかつかまえられなかったが・・・。

4月4日に石垣島から、台湾経由の1000トンの船に乗って那覇へ帰る。海が相当荒れて、気分が悪くなった。5日は那覇の海員会館というところに泊まった。ここも安くていつでも泊まれるようだ。

6日南部戦跡を訪ねる。バスでまず糸満へ行き、幸地腹の墓を見た。沖縄独特の墓で有名である。ひめゆりの塔へ行こうと思ったが疲れたので、昼寝をして結局行かなかった。そして沖縄戦最後の地、麻文仁岳にヒッチハイクで行く。赤いカローラが止まってくれた。親切な男の人であった。海抜87mの小高い丘で、自然洞穴が多く、かってこの中に沖縄の人々や、日本軍がたてこもったという。頂上から眺めると、26年前、牛島中将らが自決し、激戦があった所とは信じられない程辺りは、穏やかであり、海も彼静かであった。

7日は知り合いになった人と3人で那覇で買物をし、8日正午「おとひめ丸」で鹿児島へ。

以上で沖縄の旅は終わった。鹿児島港には9日の朝着いたが、やはり本土の土を踏んだ時はほっとした。

旅とは、自分を広い視野で見つめる最高の機会であると思う。またいつかチャンスがあれば旅に出てみたい。ヨーロッパやアメリカもよいだろうが、それより素朴なそして自然な南の島へ・・・。いま振り返ると、はにかみやの内気な売店の少女、那覇の商店のおばさん、海員会館の美人の受付嬢、酒場の男、等々いろんな所で出会った多くの人々の表情が何の脈絡もなく目蓋に浮かんでくる。

まだいくつか書き残したことが多いように思われる。しかし、この辺でペンを置くことにしよう。最後まで読んで下さった方に感謝します。

東海道メチャクチャラン – ペンネーム六輪

東海道メチャクチャラン
ペンネーム六輪進(関口)

第1日目 東京 – 元箱根(R・K)
我がクラブきっての健脚を誇る有志たちが集まって、早同交歓会の開催地である奈良まで走ろうということになった。これがそもそもこの東海道メチャクチャランの始まりなのだ。そのメンバー、泣く子も黙る新宿の夜の帝王、そして、クラブきってのスタイリストである関口氏(1度ラグビーの選手に間違えられたことがあるという)。クラブでも唯一の健脚を誇り、また、アルバイトにも精通し、常に女にモテモテの三沢君。勉強家で、旦つ日夜サイクリング界に貢献し、女には目もくれないという根性のレーサー岸田君。最後に、眠っている子供も起こすというヒルクライムの王者上村君(非常に残念なことに、彼は、二子橋峠にて無残にも脱落)。

この誇り高き男たちがカラッとした秋晴れの東京を出発したのは、予定よりも2時間以上遅れた8時20分を過ぎた頃であった。チンタラ、チンタラ、風を切り、スイスイと車の海を通りぬけ、二子橋を越えて少し行った時だった。以前から少し足の調子が悪かった上村君が、「関節が痛くて、俺はもう君たちについて行けないヨ」と涙ながらに語った。悲しい。でも僕たちに迷惑をかけては悪いと思ったのだろう。彼はにぎり飯をもらって引き返すことになったのだ。

彼と別れてすぐ岸田君が自転車に乗ろうとした時だ、
「ブスー、ガタガタ」
「こらおかしい」
「アー、パンクなんかしやがって」

岸田君の処女タイヤもついに穴をあけられてしまったのだ。これはこれは、とばかりに十八番の関口氏の手を借りてアッという間に修理完了。途中真っ青な空に、雪をいただいた富士の姿がはっきりと見え、いかにも我々の旅行を祝福してくれているかのようであった。その富士を横目で見ながら正午前に厚木市役所に到着。一同ここの社員食堂で昼食。
「ここは安くてうまいナ」と岸田君。
「中丸はいつもここに来て飯をあさっているのだろう」と関口氏
「いやホンマ」と三沢君。

善波峠も一気に駆け下りて2時半頃小田原に到着。元箱根まで、後24キロに迫った。岸田君はスタンプを求めて駅の中へ。駅の前で腹ごしらえをしていると、1人のサラリーマンが関口氏に話しかけて来た。後で話を聞いてみると、明学大のサイクリングクラブのOBだそうで、関口氏のその優雅な姿を見てついなつかしくなったらしい。その人がロッテに勤めている関係でチョコレートとガムをもらって、皆大喜び。

3時。最後の難関に向かって出発。登山電車と並行して走りながら強羅までは快調にとばす。しかし強羅を過ぎたあたりから、「ナンジャコレ」ひどい坂道。おまけに道は狭いとくる。風はひんやりと冷たく、大陽も次第に西に傾いてきた。観光バスが多く、そのたびに皆ぶざまな恰好を見せじとがんばるのだが、さすがの精鋭部隊も、いまにも泣きそうな形相をして上っていく。1人もうダメだと言って休むと皆続いて休み、1人がんばって走って行ったナァ、と思ったら次のカーブで休んでる。どうしたことか特に岸田君はかなりバテ気味。「もうドナイショー、ぜんぜん進まんワ」「もう少しヤ、きっとあそこまでやろ」お互い心にもないことを言い合って喜んでいたっケ。途中で日が落ちてついに真っ暗になってしまった。

ライトをつけ、道路脇の街燈を目でおいやりながら、きっとあの辺で終わるやろと自分に言い聞かせていった。いやなかなか。それからかなり時間がたったかな?やっと最高地点870余mに到着。喜び過ぎてその正確な数字も覚えている余裕もなかったナア。元箱根までの下りはアッという間に終わってしまった。着いたのは6時を過ぎていたと思う。昔の湖畔の店屋で風呂をすませた僕たち、自然とため息が出てきた。これでやっと本当の人間に戻った感じ(1人戻っていない人もいことか?)。

夜の芦の湖は暗闇と静寂の中に沈んで、うす気味悪いくらいだ。そこで初めて目的地に着いたのだナアという実感がこみあげて来た。今日はよくがんばったヨ。長老の関口氏には特に敬意を払いたい。

その店で、1人の八百屋のおっさんが親切にも「こんな所にテントを張って寝るのは寒いから、一緒に沼津まで乗せて行ってやる」と言うのである。一瞬、我々の頬は、ほころんだネ。イやちょっと待て、せっかく苦労してここまで上って来たのに、車で下るバカがあるか!と丁寧に断わった。帰りがけ、そのおじさんがリンゴを僕たちにくれたのには一同感謝した。

今日のキャンプ地を探すことになったが、さすが渉外局長の関口氏は、しょうがないからと、公園の管理人務所を訪れてキャンプ地をを尋ねる。幸いに、近くの小高い丘に張るように言われた。そこまではいいが、まあひどい所、自転車を上まで持って行くのに一苦労。頭にくるナ。地面はジメンジメンして、テントのグランドシートも湿ってかびだらけですごい臭い。気分悪い!それほど眠くもなかったが、8時過ぎに消燈。あたりはシーンと物音1つしない、時折りその静けさを破って自動車が通りすぎて行った。岸田君はぐっすりと朝まで目が覚めなかったが、関口氏と三沢君は寒いと言ってガタガタ震えていたらしい。

第2日目 元箱根 – 浜松(Y.S)
前日、出発時間が大幅に遅れたことと、箱根峠で完全にグロッキーとなったことにより、宿泊予定地の沼津を、元箱根に変更したのであるが、何しろ峠近くの湖畔であるから、さすがに寒い。寒くて寒くて、なかなか、眠れなかった。タイツの上にジーパンを穿き、セーター、ジャンパーを着込み、登山靴下を身に付け、シュラフに潜り込んだが、私と三沢君は、酷寒 -これは、寒さを単に強調するために、2重、3重に過大包装した言葉ではなく、まさに、その時の実寒である- のために、しばしば、安眠を妨害された。

熟睡したのは、1頭のサラブレットのみ、さすが、馬は強い – これは失礼、岸田君。彼はこのツアー中、眠覚まし時計の役割を担当するという貴重な存在だ。彼は意外に、神経質なのだが、就寝となると、誰よりも早く床に着き、誰よりも早く眼を覚ます – 現実空間では全く体験、或いは、傍観者としてしか、追体験できないであろうが、まるで、我々の肉体と遊離した意識を翻弄し、善悪を超越し、我々を情況の当事者として設定して呉れるような世界、すなわち、我々の意志と係わりなく設置された舞台で、主人公としての活躍の場を与え、日常生活の頑丈な1本の糸(秩序)に絡み付かれることなく、日常性のカリキュラムに拘束されることなく振舞える、我々を可能性の領域に誘導して呉れる非現実空間としての夢を唾棄し、それから逃亡し去るかのように。

尚、私の敬愛する現実拒絶者 – 埴谷雄高氏に依れば、夢も意識の活動領域であり、昼の思考の原型であるそうな。このような岸田君は、永遠の眠りに陥いるが如く、微動だにせず、車の騒音・ヘッドライト・夜の静けさをも、「あっしには係わり合いのないことでござんす」とでも言いたげな、ニヒル以前の天下泰平な表情を、あの長あい顔に浮かべて、惰眠を貪り、都会育ちの繊細な神経の持ち主で、夜の扱い方を充分に体得した我々を羨ましがらせる。

より以上に、彼を人間として観た場合、軽蔑させそして、5時半頃には、必ず眼を覚まし、遠慮深げに、か細い、人間以前的な声で、いななき、我々に出発の警告を発する。我々が、シュラフの中で、夜との別離を愛惜しながら、タバコをふかしている頃には、すでにシュラフを畳み、キャリアに荷物を付ける。

このように、意識が現実の世界へ舞い戻った後の彼の行動は、テキパキとして素早い。全く、恐れ入る次第である。我々が、テントを畳んで、出発する頃にも、未だ、辺り一面を薄もやが襲い、その冷たい手で、肌をそっと撫で廻し、支配者としての自然を、我々の肌に刻み付けるように告げる。眠気を覚ますには、夜明けのコーヒーより余程、効果的だ。近くの食堂は、未だ営業していないので、峠を下りきった所で、朝食を取ることにして出発。

元箱根から少し昇りつめろと、あとは一気に下るだけだが、芦ノ湖を見下ろすと、これも、同様に真白なベールで包まれ、富士山だけが、毅然としてそびえ立つその光景は、我々の進行に立ちはだかり、休止を、勿論、観賞するために、余儀なくさせる。一種、神秘的な幻想を醸し出し、我々一同を魅了するこの自然現象は、昨夕の我々の24キロメートルの死闘に対する報酬として差し出された、自然の貢物であり、私の心のわだかまりを払拭して呉れた。

ビルが林立し、その中でばつねんと、そびえ立つ富士山の貧困なイメージしかない私は、この時、始めて、富士山をも含む自然の雄大さ、美しさに触れることができた、と述べたとしても、過言ではないだろう。そして、このような機会を与えて呉れたのは、サイクリングだけだし、サイクリストとしての別な自分を感ずるのも、こういう時であろう。たとえ、列車の窓から、距離的に、より身近に富士山に接したとして、記憶の一対象と成りえても、それから鮮明な、強烈な印象を甦らせることは、不可能であろう。なぜなら、富士山の秘める魅力を凌ぐ程、芦ノ湖と辺りの樹木を覆う白いヴェールが展開させる自然美が僕を捉え、これによってこそ、富士山の魅力が、より一層、引き出されたからだ。

昼は、文明の余波を浴びながらも、夜から明け方にかけて、機械文明を笑い、その挑戦を斥け、支配者として君臨する自然。今、その時の写真を手にしながら、そんな印象を新たに受ける。鉄は人類に征服され「鉄は国家なり」と言われる程、現在では、経済発展の原動力とされ、人類に貢献させられてきた。しかし、どんなに文明が発達し、どんな文明の武器を以ってさえしても、このような自然が自らの手によって創り出す有機的現象を導き出すことは不可能であろう。各人各様の印象をフィルムに収めるために、1人ずつ記念写真を撮り、箱根峠に別れを告げる。

靴底から伝わってくる足ブレーキの感触を味わいながら、そして、ハンドリングを楽しみながら、それこそ全身で峠の下りを満喫する。中山氏なら、展開される自然の風景にマッチした歌を口ずさみながら下るであろうが、どういう訳か、「また逢う日まで」をその時、僕は口ずさんでいた(しかし、この歌にまつわる、あの苦い思い出が、僕の心に入り込む余地はなかった)。

やはり、余地があったのであろう。ヤビツ峠の下りなら、こんな風にはいくまい。前夜、八百屋のアンちゃんが、「沼津まで行くならば、自転車ごと一緒に、乗せて行ってやろうか?沼津の海岸なら、いくらでもテントを張る所があるし、ここよりずっと暖かいから、ぐっすり眠れるよ」と、全く親切心から、援助(彼は、そう思ったに違いない)の手を、差し伸べて呉れたのであるが、サイクリストであるが故に、折角のこの御厚意を辞退した我々だが、我々の判断が正しかったことは、この下りで実証された。岸田君、同志社に入学しなくても、よかったねえ、同志社のサイクリストなら、短絡的に解釈し、あの歪んで醜い顔面いっぱい軽薄的な笑みを浮かべながら、自動車で下るという、幼児反射的単細胞的行動に走ったことであろう。ここがWCCとDCCの思考の有無に関する決定的な差異!!

三島からの1号線は僕にとって初めての経験だ。1昨年の早同交歓会の終了後、僕は、DCCの精鋭4人と一緒に、伊豆の大仁から1号線に出てこの箱根峠を通って新宿まで走ったので、今、その思いを整理し再現しながら、下ってきたのであるが、箱根峠は三島からに限る。5段ギヤで、結構、楽に昇れるから。

トレシャツの上にユニホーム、トレタイツの上に継ぎだらけの短パン、そして、登山靴下、人民帽、サングラスを身に付た美的感覚抜群のスタイリスト―ダンディ・関口氏を隊長とするWCCきっての精鋭部隊は、地元民の盛大なる歓迎と、地方新聞がトップ記事として、センセーショナルに報道して呉れることを期待しつつ、三島市に突入したのであるが、全く裏切られた。

「数は力なり」との言葉を噛み締める。なにせ地方新聞は暇らしく、昨夏(46年度)の北陸合宿でも、集合地金沢で注目を集め、「WCC駅前を占拠する」なんて報道され、写真まで載せられた程なんだから。我が小部隊だって、スペースを埋め、単調な日常性に毒された地元民の好奇心を刺激し、満足させるだけの稀少価値があるんじゃないかね?

出発後、2時間程して、朝食にありつく。食堂のおっさん、我々に注目し、月並な質問でも浴びせてくれるかと、半ば期待して待っていたけれど、注文を取ると、さっさと調理室に引っ込んでしまった。どうも地元民の反応は昨日と逆で冷たい。我々も単なる客でしかすぎないと思うと、珍しく、岸田君、いきり立ち、例の歯ブラシ用のたてがみをびんと立てるが、某1流新聞の経済評論家として、その将来を期待されるWCCきっての新左翼的経済学徒である関口氏、すかさず、
「それは決して彼が悪いんじゃないんだよ。人間としてのコミュニケーションを奪われ、我々を単なる利潤獲得のための対象として視ることを強いられ、人間としての感覚を麻痺させられた彼はむしろ、被害者なのであり、加害者としての現代の社会体制、すなわち、国家独占資本主義社会の在り方に、君は目を向けなくちゃいけないよ。そして、それと関連して3割自治と酷評される現在の地方自治制度の在り方も問われるべきなんだよ」

と赤子をさとす様に、岸田君に、理論的に説明する。これを聴いた鶴岡雅義によーく似た三沢君は、例のちょびひげを撫でながら、卑下するかのように
「さすがに、関口さん。俺達凡人と違って、的を突いているなあ、岸田」と思わず、1人言を吐く。
「知性の塊と4年生から1目おかれるだけあって、関口さん、経済通やねえー」と岸田君、しきりに感心して、畏怖の念を抱きながら、関口氏を見詰める。

これに気を良くした関口氏と、私に同調した三沢君は、矛盾を感じながら、店の繁栄と佐藤政府打倒を祈りながら、2食分を注文する。私を除く2人は、動物的本能剥き出しで、無心に食べるが、社会派サイクリストとして西サ連の同志にまで知られる私は、東京の社会情勢を憂いながら、しばしば手を休めながらも、テレビのモーニングショウの「奥様人生相談」「うちの亭主はインボでないかとか、この半年、全く夫婦の交渉がない」とか、なかなか、面白いことを放送する – に、じっと、かぶりつく。あくまで、世直しの参考資料として。食後の一服は、薄命を代償として与えられる愛煙家の特権であろう – 峠の頂上での一服と同じように。

このような時、愛煙家は、自らの存在が、例え、快楽を得るための1夜の行為の、誤算の親父の1しずくの結果だとしても、我々に生を与えて呉れた両親に対する感謝の念で、胸がいっぱいになる。しかし、頭を酷使するにやぶさかでない国会答弁で、山口産のブルドッグがよく使うが、このブル公、くたばりそうでくたばらないのは、赤坂道場で、芸者連中に鍛えられた御蔭だろうか? 関口氏を、新たな疑問がおそう – 「インポになり、酒、タバコを禁じられたら、俺にどのような楽しみが残るだろうか?」

ここのおばちゃんはとても親切で、水を呉れと頼むと、拝むような表情をして、是非、お茶を入れて行けと言って、僕の眼をじっと見詰める、こういう老女なら、僕も動揺しないのだが・・・。

多分、昔、物陰に隠れて、夢見る思いで、そっと盗み見し、恋い焦がれた片思いの男性を、俺と2重写しにしたに違いない。おばちゃん、その気持分かるか、俺も、かつて、このように多くの女性を不幸に陥れた経験があったなあー(今は、溜息交りで、かっての栄華を惜しむかの様に)。他の2人を呼ぶと、折角、酔いしれたこの老女の甘いムードを壊すことになると思い、僕だけがこの御厚意に預かることにした。

沼津を出て、暫くすると、左手1帯に松林が続き、道幅は、非常に狭くなる。この1号線、交通量が多いわりには、動物の屍体が非常に少ないから、毎日、ナイトランを敢行する我々には、せめてもの慰めである。しかし、少なくとも、1号線上で歓迎されていないことだけは、肌で感じる。日本経済の動脈だけあって、大型長距離輸送トラックが多く、我々、学生サイクリストを、経済発展の非貢献者として告発するが如く、クラクションは絶えず、冷酷に背後から、急襲する。その度毎に、彼等から見れば、非生産的生活余暇消費者に属する我々は、彼等、生産的生活者に対して、ある種の後ろめたさを感じながら、路肩いっぱいに退き、遠慮がちに、1号線の恩恵を授かる。大方、彼等には、我々は、レジャー享楽者の極印を押され、単なる敵視の対象としてのみ、存在価値を有するのかも知れない。

しかし、悲しいかな、我々サイクリストには、彼等を非難する資格は与えられない。彼等には、経済貢献者としての世間一般からの公認の免許符が発行され – 少なくとも、私は認めざるを得ない – ているが、我々の行為は、好奇心の対象となり得ても、何ら公共に還元されないから、日陰者のように振る舞わざるを得ない – これは、経済的側面から把えた場合の、サイクリストに負わされた宿命である。と又しても経済通ぶりを発揮する。

時々、ドライバーや土地の人々は、我々サイクリストをどのように評価しているだろうか、と思うことがある。しかし、こんな考えは余計なものかも、知れない・・・なぜなら、本来、サイクリングは、自分自身を、究極的に、行為の対象とした行動形態であるから、と思うが、未だ「サイクリングとは何か?」との意義付けを迫られたら、残念ながら、僕は答えられない。「随分、物好きもいるんだなあ」、「若い者はいいなあ。こういう事は、若い頃にしか、できないからね」等、様々な嘲笑・感嘆・称讃を含んだ言葉を耳にすることがある。

しかし、私の心に一石を投じ、困惑に陥れ、次第に素直な感情を硬化させるサイクリング礼讃の言葉もある。すなわち、「君達は純粋でいいねえー。それに比べてゲバ学生達は・・・」 – この類いの言葉は、非常に曲者だ。確かに、純客観的に表面的に判断すれば、我々に対して好意的だし、何ら、私が取り立てて噛み付くこともないかも知れない。

しかしこの裏の意味を読み取れば、次の如く言えよう。我々を「ゲバ学生」を引き合いに出すことによって、良き学生に仕立て上げようと意図されている。一方の極に、否定的存在としての「ゲバ学生」を対置したこのような我々に対する評価は、「ゲバ学生ナンセンス」という暗黙の了解を含み、その強要を甘受した時はじめて、我々は良き学生に昇格されるのであり、「迷惑をかけない」との理由にのみ、重点を置かれた消極的意味しか、この評価には含まれていないであろう。

どのように崇高な、ヒューマニズムに富んだ思想であろうとも、それが一旦、行為という形態で、血肉化され、現実世界にその姿を現わした時、単なる、ありふれた断片的な事実として、現象的に判断され、他の日常的瑣事と同じ領域に強制移住され、時の経過と共に、記憶の片隅に追いやられ、やがて、忘却という死を余儀なくされる。マルクス主義が歴史上、初めて日の目を見た10月ロシア革命でさえ、第3者の手によって、その宿命を負わされるのである。

例えば、現在に例を挙げるならば、その思想の攻撃目標が「沖縄返還協定粉砕」であれ「入管法粉砕」であれ「学費値上阻止」であれ、その物質的表現としての行為が、限定化され、パターン化されれば、される程、益々、矮小化され、歪曲化され、第3者のスクリーンに、屈折され、ぼやかされて映し出され、日常茶飯事の1事業として処理されてしまう。

このように抽象的なものが具体化される時、思想がどんなに鮮明に光彩を放とうが、現実性に還元される時、その光彩が、第3者の意識に届くことは、ほとんどなく、あったとしても、鮮明度を失うか、現実過程で新たな光源から発せられた別の光と交錯するかによって、徐々に、その光度を失い、消滅してしまう。そして、これはサイクリングにも、多かれ少なかれ、当てはまることでもある、と思う。我々サイクリスト1人1人が、どのような考えに基づき、どのような感情を抱きながら、実際に走ろうとも、第3者には「娯楽」・「健康なスポーツ」とか世間一般的評価の言葉に、サイクリング(我々学生各個人の特殊事情を無視して)の行為は、還元されてしまうのである。

大分、話が脱線してしまったが、これからも、しばしば、脱線するつもり -要するに意識的に- であるから、私の文章を、単に、ランの参考資料として、あるいは、純粋的サイクリングの共有感を求めて、読まれるクラブ員諸氏は、退屈であろうが、御理解願いたい。

我々は、松林が左手1帯に続く海岸線に出るために、1号線を暫く避けることにした。松林を境界線として静と動の世界がある。沼津市の中心街から少し外れたこの海岸の左手に、1年前の早同交歓会の開催地であり、私に様々な思い出を与えて呉れた伊豆半島が突き出ている。浜の1隻の小舟と我々以外、誰1人いないこの海岸は、時間に追われ続けて機械のようにペダルを踏む我々には、1種別な世界、すなわち、時間が全く停止した世界に迷い込んだという錯覚を与える。

何の変哲もないこんな風景でも、妙な印象を、提供する。旅の出遇いとは、こんなものかも知れない。もし、このような所まで、マイカーや観光客が侵入していたら、僕は単なる観光地として、遣り過ごし、特に心に留めることもなかったであろう。

1、2キロ進むと、通行止めなので仕方なく、又、文明の領域に舞い戻る。やはり、この海岸も、貪欲な文明の生贄と化しているのだ。

沼津を過ぎて途中、田子浦港に立ち寄る。百聞は一見に如かずと言えば体裁は良いが、実は、大宅壮一的野次馬根性に駆られたのだ。鮮か、としか表現仕様のない焦茶色の色彩を放ち、白熱の太陽による演出効果の御蔭で、視る者の美的感覚を刺激し、キャンバスに描き塗られた一風景美の如き感を呈する人工の海。

このように表現すると富士市民や「公害を告発する会」、進歩的文化人の団体から苦情が出されるかも知れない。又、良識あるWCC諸氏からも、社会派サイクリストを自称する私の正体は、実は政府支配者階級の走狗である。との早合点を糾弾の嵐が浴びせられるかも知れない。そして、次のような痛烈な批難も予想されよう。

「お前は、GNP至上主義の一環として導き出される大企業優先政策の必然的産物であるヘドロ公害、すなわち環境汚染・漁民の生活権剝奪を看過ごし、あまつさえ問題の本質をすり変えるという犯罪的行為を犯している。このような傍観者的な、ノンポリ的な物の見方は、かの悪名高いマル生運動という反労働者的政策を積極的に推進する国鉄当局のディスカパー・ジャパン・キャンペーンに加担し、単なる観光名所の1つとして祭り上げるものだ」。

しかし、東京湾や神田川の黒く濁った水を想像していただけに、陽光に明るく照らし出された海は、奇異な感じをもたらしたが、それが魅力的な雰囲気をその場に創り出したのである。そして、このような私の感情に更に拍車を掛けたのは周辺の光景である。なぜなら、赤旗や大漁旗を手にした漁民や市民団体は言うまでもなく、企業に死の宣告を突き付けた抗議のポスターやステッカーさえ、見当らず、一般市民の公認を得ているが如く、日常的な様相を呈し、静の空間を形作り、のどかな光景として私の目に映るからである。そして、このように人もまばらな、港内をゆっくりと行き交う2隻の船舶と、港内の海面1帯のキャンパスにコーヒー色の絵具で塗りつぶされ、アメーバのように緩くヘドロの海のみが、活動し続けているような感を与える、この田子浦港は、自然を蹂躙し、屈伏させた文明の聖域であるが如き印象を私の心に植え付けたのである。

これは、その時感じた偽らざる心境であり、この風光明媚?な田子浦港の眺望は、テレビ、新聞等の様々な情報伝達手段によって覚醒された私の問題意識を麻痺させ、それがむっくりと起き上がることを拒み、人間的であろうとする限り、不可欠の要素とされる1片の良心のかけらをも、完膚なきまでに砕いたのである。が、この意識の屈従に対して、停止した思考を回復させ、漸次、反撃を加えたことは、言うまでもない。やはり、社会派サイクリストと自称するだけの問題意識は、依然、健在である。

しかし、たとえ我々が、情報手段等により感化され、地元以外の遠方の地域が抱える問題に対して、意識を向け、その頭をもたげることを強いられ、それによって心の1部に巣喰う良心という寄生虫が疼くことがあっても、そのような心の病は、すぐ、我々の精神の緊張(人生に対する、前向きな、真摯な態度という奴も、この類だな)を解きほぐし、鈍化の方向に歩ませ、自分の身の辺り以外の事柄に、お節介をやくことをしないように常に説得し、手を汚すことなく、常に清潔な状態に保つことを奨励する日常性の重みという特効薬により、治癒され、日常生活という1本のレールの上を、自己防衛本能的に、ほとんど盲目的に、ひたむきに突走りながら、俗に言う健全なる意識(常識と置き換えてもいいな? 法は神聖にして犯すべからず、なんて奴は、まさに常識の総本山だな。この総本山を攻め落とすことが、世直しに当たる訳か?俺にはこの総本山に殴り込みをかける勇気が欠けているからな。まあ、気長にやることだな)を自己増殖するのが、世間一般的な傾向ではないだろうか?

このような考え方は、大衆蔑視論(俺も大衆の1人だとすると、かなり、自虐的だな?いや、俺は、自分を大衆に含まず、彼等を見下ろして、意識的に、鳥瞰図的に評価したんだな。俺もかなり傲慢な人間だという訳か?でも、俺は思うんだ、俺の行動形態が、たとえ第3者から、大衆並みだと親しみを以って評価されようが、決して、大衆並みの思考に埋設されない、異端者のレッテルを貼られようとも、と。これ本音だぜ、大分、吉本隆明に感化されたらしいな)であり、危険な傾向だ、と、我々の聴く耳を快く、くすぐる。

進歩的文化人という名称をマスコミから頂戴した人々は、光栄にも指摘して下さるかも知れない。同じ土表上で論戦を交えるなら構わないが、彼等は、自分の都合の良いように、自分を「大衆」と大衆を啓蒙する「インテリゲンチャ」に使い分けるからな、それに貴重なクラブ資金を浪費することになるから、今日は、論争を避けよう。

進歩的文化人という奴は、どうも曲者だ。なぜって、彼等は、対岸の火事を眺めるが如く、世の中の様々な事件や問題点を解釈したり、他人の思想を勝手に拝借し、それに自分の息を吹きかけ、あたかも自分自身で製造した商品として、我々に売り込むんだからな、それに、決して手を汚そうとせず、法に対しては、蛇ににらまれた蛙同然だからな。彼等の専売特許は「良識」と呼ばれる代物なんだ。

国会でも盛んに売られるが、同じ買うなら、女がいいね、勿論、恋愛結婚の商品として。我々が、自己の労働力を商品として資本家に売り渡すように、インテリゲンチァも、自己の問題意識の物質的表現としての書物を提供するんだから、大して、相違はないかな?大衆の1人と、一応自認する俺だって、学費値上げ阻止闘争でも、全く手を汚さず、傍観していたからな。まさに、インテリゲンチァ崩れ的犯罪者だ。又しても、脱線と言うよりも支離滅裂になってしまったので、話を元に戻そう。

クラブ員諸氏の多くは次のような経験をしたことがあるであろう。合宿・クラブラン・プライベートラン等で、未だ文明の荒波に侵食されることなく、昔通りの因習に従った生活を固持した、閑散な地域を掻き分けるように、自転車を進める時、文明に汚染され、疲労困憊した君の心を、洗い流し、癒してくれるような風景に出遇い、サイクリングの優醐味を見い出し、満喫することがあるだろう。

そして心の中で、そっと呟く。「こせこせした都会から脱出し、自然と触れ合うために、素朴な人間味あふれた、こんな処に住みたいなあ」このような好意的な感情で以て讃美された地域の住民はどのような反応を示すであろうか?有難迷惑と感じ、戸惑いの表情を突き返すかも知れない。少なくとも、このような表現を発する我々の多くは、自然に依存し、それだけに規定され、支配されやすい過疎地域の抱える多くの問題(交通・医療・出稼ぎ・自然災害等の文化的・経済的、政治的側面)を踏まえることなく、文明人のエゴイズム剥き出しの、単なる第3者としての願望を吐露したにすぎないであろう。彼等は、それが決して実現され得ない単なる願望でしかないことを心の底では自覚し、実現可能の手が差し出された時、喜んで、その手をしっかりと握り締めることに躊躇するに違いない、願望に執着することを固執し、祈りながら・・・。

我々は、不断の日常生活においては、文明に反撥を感じながら、何ら感謝の念を抱かず、それが当然であるかの如く、無意識を余儀なくされる程、それを享受しているのであり、通りすがりの束の間の旅人として、決して願望が実現の領域に足を踏み出すことなく、生活者の世界を垣間見る立場に身を置いているからこそ、思わず感嘆のため息を吐けるのだ。都会に安住の地を見つけ、その別な世界から挑める君が、この言葉を無責任にも吐く時、この過疎地域という非日常的な世界に向ける君の眼は、君の好奇心に自己満足をもたらしたとしても、飽くまで、文明人としてのエゴイズムの眼球を持った近視眼でしかなく、その世界の奥底に堆積されたか過疎の秘める何かを、君の視界が捉えることは、十中八九、ないだろう。

もし、願望が日の目を見た場合、君は喜んで移住し、毎日の生活の中で、生活と密着した実感として、そのような感嘆を帯びた言葉を口に出せるだろうか?多分、生活の重みが、君の口を封じ、沈黙が代わりに、支配することになるだろう。清報網が集中され、様々な刺激を常に提供し、好奇心を我々に生み出す都会育ちの僕は、決して盲目的な文明讚美者ではないけれども、文明との隷属関係を強いられ、文明公害の影響を強く受けた被害者の1人として、時には、その降外にこっそりと逃げ出したいとの欲望が、文明にしっかりと縋り付くもう1人の僕を説き伏せるが、この欲望が他の全ての欲望に打ち克つ時は、飽くまでも、「時には」でしかなく、中央志向型思考が完全に根着き、それから脱し切れない僕にとって、そのような移住は、かなりの勇気が要ることだけは確かだ。

合宿の帰りの車中でよく感じることだが、「何か」が特別に私を迎えてくれるのでもないのに、あの懐かしい、林立する高層ビルやけばけばしい光を放つネオンが目に飛び込むと、異様な胸騒ぎを感じ、心が落ち着かなくなってしまう。旅への愛惜の念、虚脱感、安堵感、1種のノスタルジア等の様々な感情が入り乱れ、交錯し、複雑な気持が僕を吸うのだ。しかし、やがて僕の心は、そのような光景に融合して、1つの感情だけが頭をもたげ、他の感清を押さえてしまう。家に到着してから数日後、それにけだるさを感じながらも、嫌悪することなく、何ら希望を捜し出す余地のない、予測可能な空虚な、それでいて何かを秘めている日常性に、首までどっぷりと浸り、身動き出来ず、頭だけを働かせながら自分の殻に閉じ込もり、変化のないスケジュール的な毎日の生活を消化している、元の姿に戻った自分を発見するのである。

これが、俺の安息の場所と言うべきものだろうか?俺は変わってはいないんだ!例え、旅によって、何かを掴み、獲得し、学んだとしても、それは、俺を揺るがし、変身させるだけの力もないし、日常生活に還元されることもないんだ!俺の空虚な心を一時的に充足して呉れたとしても、淡い思い出として、記憶に残るだけなんだ!旅に出る時、諸君は何を求めるだろうか?気休め、自己満足、それとも自然美の堪能、自然との対話かな?自然との対話なんて、なかなか、シャレているな。サイクリングだと自然との闘いなんてこともあるな。私のような人間が、サイクリングによる旅の考察なんてすると、かなり屁理屈になってしまうが、同じサイクリストとして少し、私見を述べてみよう。

グループでも構わないが、1人旅をする人間はよく、自然と対話することによって自分を見詰めよう、なんておっしゃるが、私の場合は違う。自然と対話し、自然美に魅了され、触れることができても、心と噛み合うことはない。自然を前にして対座し、失われた時間を回復し、本来の自分に戻り、見詰めることだとも、しばしば耳にする。しかし、自然を媒体とすることによって、実感として、生身の自分をそこに見い出し、知ることができるだろうか?旅に出て、生身の自分を感じる時は、自然と自己との間に、他者が媒介する時、初めて自分を知り得るのではないだろうか?

確かに峠を上る時、肉体の限界や精神力を、自己の満身の力を峠に働きかけることによって試され、自転車を漕ぐという行為を通じて、自分を知る、というよりは再発見することは確かにあると思う。しかし、全体から見れば、そのような機会は少ないだろう。自家撞着になってしまうが、俺もかなり頭が混乱して来たので、そろそろ、結論らしきものを出すことにしよう。

要するに、自然も「自分を知る」機会の1つであるとしても、唯一の機会ではない。日常生活においても、他人に働きかけた自己の行為が、他者との絶えざる緊張関係を生み出せば、そのような相互規定関係を通じて、自分の生身を引き出し、知ることが出来るであろう。つまり、人間相互の間でも、自己表現としての他者に対する行為という手段を用いることによって、自己を対象化し、相手の反応から、「自分を知る」ための材料を得て、自分で自分に関する答を導き出すことも出来る訳だ。どうやら、妥協の産物となってしまったようだが、俺は自然よりも人間の方に比重を置いていることになるな。だから、自然との対話は、俺にとって大した意味を持たないことになる。

でも、サイクリングをしている時、俺は果たして、そう思っているのかな?これ又、疑問である。でも旅は、それが幻想であろうとも、慣れ親しんでいるものであろうとも、何かを秘め、我々の未知に対する好奇心を育んで呉れるから、俺は、やはり好きだ。でも旅によって解放された自分は、一種の虚像ではないだろうか?

到底結論なんか出せないな、要するに自分だけの結論でよいのだ!あっ、俺、何を話していたっけ?過疎問題だな。クラブ員諸君は、もう少し辛抱して呉れ、そうすれば話題を変えるから。新幹線を単なる願望の対象として拝むことしか出来ず、その恩恵に預かるという1市民(いや、彼は市民ではないな、中丸、未だお前の処、市に昇格しないか?)としての権利を獲得できずにいる中丸君を除けば、ほとんどのクラブ員が新幹線を利用しているだろう。

岡山までの山陽新幹線の完成に伴い、ダイヤが改正され、増発されたことは御存じのことだが、公共性を使命とする国鉄が、単なる赤字という純経済的問題にすり替え、赤字ローカル線を次々と廃止し、過疎地域住民の足を奪い、このダイヤ改正で2重の打撃を与え、このような犠牲の上に新幹線が成り立っているという現実に、目を開き、心を傷める者は、果たしているだろうか?

大分、問題が発展しすぎたが、私が田子浦港で感じた印象も、まさに以上と同じような理由によるものであり、私の公害に対する問題意識が介在する余裕がなかった程、この人工の海は、私の脳裏に、強烈な印象を刻んだのである。問題意識から出発するルポ・ライターなら、いざ知らず、私も人並の物見遊山的サイクリストだったから・・・。我ら3人の著名な芸能人 – すなわち、はしだのりひこ(関口)、3木のり平(岸田君)、鶴岡雅義(三沢君)は、この異様な海をも、我々を引き立てる単なる一風景と解釈して、フィルムに収めた。これから、暫くの間は、まともな文章となるから、読み易いだろう。

我々は1号線に引き返し、静岡に向かう。停まって、じっとしていると汗ばむが、走行中は、さわやかな風を受け、とても気持がいい。サイクリング日和で、申し分ないと言いたいところだが、同伴者がこれを阻み、私に苦痛を強要するのだ。クラブ員一同の推薦により、2人の引率者としての栄誉を授かり、気負って東京を出発した私だが、彼等は私に遠慮しながら走っているつもりらしいが、彼等のスピードに附いて行くのが精一杯であり、私が引率される破目になってしまったのだ。

しかし、富士スバルライン・タイムトライアルで、待望の3位を堂々と獲得し、健脚を誇る中丸君を追い抜き、彼をして、私を師と仰がせた実績を持つ、ドロン・関口を御存じのクラブ員は、私が決して遅いのではなく、彼等2人が余りにも速すぎるんだ、という結論に達するであろう。何しろ、早同交歓会のタイムトライアルで、1位と7位を獲得した2人なんだから、無理もないよ。

富士川を越えると、由比まで、道幅は、極端に狭くなり、おまけに、2、3カ所で工事をしていたから、交通規制をされ、一方通行しか許されないから、かなり時間を食われてしまった。確か、この区間だと思ったが、私は、サドルカバーに手頃な幼児用の座布団を見つけたのである。車が渋滞し、マイカーには、かなり綺麗なねえちゃんが乗っており、僕をじっと見詰めていたが、又、関口家の家名に傷をつけ、汚点を残すことになるが、そんなことは無視し、即、拾い、これも拾ったヒモや、細いワイヤーで、サドルにしっかりと括り付けた。特に、この頃、私は切れ痔になりかけていたので、痔防止用にも適し、又、綿の尻に伝わってくる感触は何とも言えず、恍惚感に浸りながら、以後、楽しいサイクリングを味わう。

由比を過ぎると道幅は広くなり、快調にぶっ飛ばす、ことは全くしない。景色の単調さとハンガーノックのダブルパンチを食らい、バテバテ。清水市に入り、前を走る岸田君は、何を血迷ったか、1号線を外れ、漁港に通ずる道に行ってしまう。彼を見失った我々は、ネズミ取りを放棄し、そのまま静岡まで行くことにする。ふと、漂識を見ると、無情にも、静岡まで12キロと標示してある。8キロ程度だと思っていたから、この2桁の距離数は、バテ気味の私に、ズッシリと応えた。全く走る気なし。

由比で休憩した時、静岡までノンストップで走る旨、2人に告げたのであるが、この標識から100mも走らないうち、この公約を反故にした。すなわち、私が率先して降り、岸田君がいないので、誘惑の念に駆かれ、動揺しているであろう三沢君の心中を察し、彼を誘ったところ、素直に応じて呉れたので、パン屋に入る。ここの店のおばさんの弟か息子のいずれかが、早稲田のOBとのことで、我々のユニホームを見て、懐かしがり、椅子を勧め、茶まで親切にサービスしてくれた。旅先でこのような恩恵を蒙ることが出来るのも、必然的に多くのOBを拝出するマスプロ大学の学生のみに与えられる特権かも知れない、と妙な気持になる。

でも、何事も大きいことは、いいことですなあ。我々は、恥も外聞も構わず、でんと歩道に座り、ミニ・スカートのねえちゃんのちらちらする、国際色豊かな(ここは白が多かった)パンティーを盗み見しながら、軽い昼食をとる。誓くすると、岸田君も追って来たので、彼をも説き伏せ、3人で、醜い風体を曝しながら、疲れた体を休めた。私の基準からすれば、到着するや否や、一服し、腹に詰め込んだ後、3、4服して、体を休め、出発間際に、最後の一服を吸うのが、充分な休養と言えよう。

静岡までは、快調。静岡駅前に到着すると、例によって、岸田君は記念スタンプを押しに行く。彼は、この目的のためには時によって、新怪獣ウマウスラー(馬とドブネズミの間にできた私生児)を思わせる、あの長あく、醜い顔で、改札係に恐怖心を呼び起こし、慄然として突っ立っている間に、入場券をも払わずに、もぐり込み、スタンプを押し、注意を受けることなく、悠然と出てくるという誰れ業をやってのける。それ程までに執念を燃やしているんだ。「彼の顔も、こういう時には、役立つんだなあ」と三沢君、自分の顔を棚に上げて感心すること頻り。我々は、前日の厚木市役所に引き続いて、静岡市役所の食堂で昼食とする。値段は安いし、量は多いし、味も結構いけるし、茶も自由に飲めるから、我々のような貧乏旅行者には、利用価値が非常に大きい、諸君も、プライベート・ランのおりには、大いに利用することを推奨する。

1号線を迂回した交通量の少ない、御前崎を経由する国道150号線を通って、浜松に行くつもりであったが、時間が遅かったので、止むを得ず、1号線を計画通りに行くことにした。食後、すぐ走るのは非常にだるい、それに浜松まで80キロ弱、いい加減自転車を捨てて、汽車で行きたくなる。全く走る気がないのだ。飯を存分食え、アルコールと再会でき、布団で寝られることを唯一の楽しみにして出発する。何しろ、前夜、湿っぽい、カビが素殖したテントのために酷い目に会ったので、それだけに、暖かい布団が恋しいのだ。

静岡市を出て、川を渡り、近くすると宇津ノ谷峠に差し掛かる。この峠は、破竹の進撃を続ける我が精鋭部隊にとっては、アメリカ帝国主義すなわち張り子の虎である。じわじわと上っているが、僕でさえ、ひいひい言いながら、3段で上ったのだから、トンネルに来て、初めて峠だということに気付く諸君さえいるだろう。峠なんて仰々しいよ、全く、ちょっとした上り坂(いや、下りも、あるんだっけな)と訂正すべきだろう。これは全く嬉しい誤算だった。この2人と走っている時、ふと「俺も脚力は人並み以上に強くなっと思うことがあるが、これは単なる妄想でしかすぎないと、1中学生によって、確証させられた。

藤枝を過ぎ、島田市内の手前で、向かい風(と思ったが)のために、かなり苦しみ、脚力の差を歴然と感じさせられる。かなり遅れ、遂に、この2人を見失ってしまった。懸命に走るが追いつかない。暫く、1人で走っていると、背後で、何かが、擦れ合うような変な音が、規則正しく、聞こえる。振り向くと、5m程後を、下校途中の高校生らきし小柄な男が、ぴったりと付いている。少しスピードを落とすと、彼が並んだので二言三言、言葉を交わしながら走る。よく見ると彼の自転車は、フラットハンドルの3段ギヤーで、かなり錆びており、タイヤも丸坊主である。そして、まだ、中学生であることを知る。強い、とつくづく感心する。かなり、バテ気味だが、遅れていることもあり、「急いでいるから、お先に失礼」と別れを告げ、WCCの面目を躍如するために、かなりスピードを上げ(たつもりで)、どの位引き離したかと思い、後を向くと、彼も飛ばし、その差を徐々に縮める。

この中学生、ガキのくせして、大学生の本格的サイクリストである俺に挑戦するなんて、全く、その度胸には感心する。俺も、一旦、別れを口に出した以上、「男がすたる」と、むきになって、ペダルを漕ぐ。これが、いけなかった、疲れているうえに、完全にペースを狂わしてしまった。500メートルも続かず、徐々にスピードが落ち、到頭、彼に掴まり、追い抜かれてしまった!焦る俺の気持を、肉体は、受け付けず、私は仕方なく、暫しの休養を我に与え、我の威厳を取り戻させ、保証してくれるよう懇願のまなざしで彼に訴えたが、彼はニヤッと笑みを浮かべ、無慈悲にも拒否し、私は見捨てられたのである。心死に追いかけ、やっと10m程の距離に縮めるが、これが限度だ。十字路に差し掛かると、スピードを落としたので、私に、その清き、美しい、慈悲の手を差し伸べて呉れるのかと思うと、振り向きざま、何か呟き、左折してしまった。

今は、このような彼との惨めな出遇いでも、懐しい思い出となり、彼と再び会いたい気持がするが、この時程、自分を情けなく思ったことはない。峠に打ちのめされるなら、何度も経験したことだし、逆に励みともなりうるが、中学生に負けるなんて・・・暫し絶句。これで全く走る意欲を失くす。泣き面に蜂であるとは、現在の俺の心理状態を説明するのに、最も都合の良い言葉だ。1時は、退部も真剣に考えたが、当面の解決策にはならない。そこで、再び、このような愚かな挑戦に応じないことを肝に銘じ、何も考えずに、マイペースで、ゆっくり走ることにした。無性に休みたかったので、それに折角、静岡に来たのだし、彼等の憤りを和らげるためにも、ミカンを買うことにした。そうすれば、彼等も休まざるを得ないだろうと、人間、都合の良いように悪知恵が働くものだ。大井川に差掛かると、前方に小高い山が見える。これが牧ノ原台地であり、佐夜の中山とも呼ばれる。この長い鉄橋を渡りながら、対岸の土手で、僕を出迎えてくれるであろう2人の懐しい姿を、注意深く捜した。

いた、いた!案の定、手を振っている!彼等は僕を見捨てなかったのだ!ぐっと、涙がこぼれ落ち、陽に焼け、汚れた頬を伝わる、なんてことはなかったが、自然と顔が綻び、苦痛の表情が、喜びに変わる。私を心配していて呉れた、何も不平を言わない!嬉しい!全く、嬉しい!疲れも忘れてしまう!彼等と一緒に走ったことを、本当によかったと、素直に思う。馬鹿みたく、1号線を走ってよかったんだ!これで、いいのだ!そう思いながら、ミカンを一緒に食べ、暫しの休養を取る。

ここで我々の走行方法に関して、少し触れることにする。テントは、三沢・岸田両君が、分散して持ち、救急箱は私だ。先頭を走るのは彼等が交代で、私は常に、どんじりで、メカトラや事故のないように、気を遣い、又、落伍者のないように、前を走る2人を監視する(実際は、私が、気を遣われ、落伍しないように監視される立場になったが)。原則は原則で、例外もある。2十万分の1の地図を2人に渡す。道路標識が我々を誘導して呉れるから、道に迷う心配は、まずないと言える。休憩は距離数を考慮して、適当に取るが、私の体力の消耗度が基準となり、このように、私がバテテ遅れ、彼等が私を待つことになると、暗黙の了解により、自然に休憩が設けられる、そして、これが度重なり、原則と化す。

全く、2人には申し訳ない、と反省すること頻りだが、意志と肉体との疎通が断ち切られているが如く、肉体は、しばしば、意志を拒絶し、威嚇し、下僕と化すことを強要する。この時、改めて「物質的なものが、精神的なものを規定する」とするマルクス・エンゲルスのテーゼが正しいことを確認させられる。

この頃になると、乞食根性丸出しである。日頃、抑圧された性格が、うっ憤を晴らすかのように、表面に表われ、行動に結び着くのである。ここで、私はペンキが付着した軍手4つと竹筒(何を白的としたのか僕自身さえ分からないが、「ただより安いものはない」との名言に忠実に従ったまでだ)を拝借し、岸田君まで、小汚ない、農協マーク入りの帽子を拾う。自分が変わりつつあるのに驚き、奈良に到着した時の自分を想像すると、恐怖さえ覚える、旅に出ると、予想以上に解放された自分を感じるのである。

出発する頃には、すでに日は暮れかかり、5時に近い。金谷峠の上り口は急勾配なので、すぐに、ギヤーを10段全部落とす。これなら、彼等についていけるぞ。僕は坂を目の前にすると、反射神経的に、即刻、ギヤを落とす主義だ。出来るだけ楽して上るのだ。決して自分の体力の限界に挑戦しようとの大それた考えは抱かない。何故なら、そのような考えに取り付かれた自分が、挫折のうき目にあい、意志が挫けた時、ずるずると、絶望という奈落の底に滑り落ち続け、敗残者となった自分を発見した時の自分を想像するのが、怖ろしいのだ。だから、僕にとって、峠の征服感は、2の次だ。根性より妥協を、これが、峠に対する僕の戒律だ、が、しかし、これは飽くまで戒律にしか、すぎないのだから、意志が許す時は、しばしば、破るし、2、3年の時は、むしろ、積極的に、そう心掛けてきたが、この頃は、従うのみだ。

こんな考えの持ち主は、サイクリストとして当然、失格であろうし、僕自身も、それを認める。しかし、「お前は、根性を蔑視するのか!」と誤解されては困る。根性あるクラブ員には、敬意を表するし、羨望の念さえ抱くが、俺は、根性という奴の前に出ると、すぐ、根負けしてしまう。ガキの時からそうだったし、今でも、そうなのだ。それが、俺に順応性を与えていることにもなる。全く、俺って奴はダメなんだ。いい加減、自分の性格に嫌気が差すこともある。左手一帯の茶畑を視界に捉えながら、黙々と、機械のようにペダルを踏み続ける。交通量も少ないし、日光が肌を刺す恐れも全くないから、意外に楽だ。

数年前、守谷先輩の一行が、この峠の茶店の前に自転車を置き、ガラスを割るというドジを踏まれたので、我々は賢いから、その2の舞を演じないために、要するに休まなければよいのだ、一気に峠を下ることにする。快よく肌を包んでくれる秋風に助けられて、快適に飛ばす。先程、中学生から受けたショックから、不屈の闘士―関口君、完全に立ち直り、ミカンの果汁が血管の隅々まで、行き渡った御蔭か、別人のように、走りまくる。私と三沢君はライトを忘れて来たので、岸田君を先頭に、ナイト・ランを満喫し、ペダルの1漕ぎ1漕ぎに、思い出を託しながら、暗黒の1号線を突き進む。

しかし、またしても、落伍する奴が1人いる!一体、誰なんだ!俺しかいないだろう?そう、御存じ、夜に強い筈の、「夜の帝王」である。女には、滅法強い彼も、ハンガーノックには、適わない。

ペダルを漕いでいる下半身が、自己の肉体の一部として感ずることなく、全く独立した物体の如き錯覚に襲われ、まるでスイッチを入れっ放しの機械の歯車のように(有難くもあり、皮肉でもあるが、俺の意志は、すでにグロッキーの宣告を下していたのに、全く係わりなく)、単に機能しているにすぎないのである。前方を走る車のヘッドライトに必死に、縋り付こうとするが、そうする俺を振り切るように即座に、遠くの暗闇に漂う微かな光となって、逃げ去る。

空腹と単調さを紛らすために、暫く、この遊びに没頭するが、突然、俺の目前に、民家の板塀が、立ち塞がる。全く、突如、地上に現われ出でたかのように。咄嗟に、靴底ブレーキとゴムブレーキの両方を掛けたので、激突は免れたが、相手方の私有財産を犯してしまった。それは三叉路に差し掛かった時のことである。我方の被害は大したことはなく、ここで一悶着を起こすつもりは毛頭なかったので(俺の方が、一方的に悪いのだから、金をふんだくられるのが落ちだと判断して)、現場をすぐに、立ち去る。人民の友であるべき俺が、人民の私有財産を傷つけるなんて・・・。

袋井付近で、信号のために、その破竹の進撃を阻止された2人に追いつき、涙ながらに事情を話し、了解を得て、パン屋で休養する。袋井を過ぎると、アップ・ダウンが多くなる。磐田原台地だ。やっと待望の天竜川だ。何か1つの責務から解放されたような安堵感が、胸一杯に拡がり、自然とペダルに力が流れ、伝わる。

しかし、この鉄橋の長く感じたこと、それに浜松駅までの7キロが、私の距離感覚を麻痺させる程、長く感じられ、はやる気持を、益々急ぎ立てる。浜松駅に無事到着した時には、時計の針が7時過ぎを指し示していた。今夜の宿泊地である叔母の家に電話を掛け、1キロ程、走って到着する。叔母は随分、心配したらしい。東京を出発する時、5時か、遅くとも6時までには必ず行くと連絡したから、尚更のことだ。早速、風呂に入り、酷使した体を癒し、滑らかな肌に刻まれた道中の様々な思い出を、そっと、いたわるように、アカを洗い流す。

かの高級銭湯と違い、入浴後、全身を駆け巡る疲労感は、極めて自然な、何ら後ろめたさのない、爽かな気分を我々に与え、祝福してくれるかの様である。鉄板焼に舌打ちしながら、ビールで喉を潤おす。完走とは言えないまでも、敢走した後の、一杯と言わず、10杯は、さすがに、うまい。ここの家の御主人である従兄は、私と10才程、離れているのだが、人当りが柔かいためか、年齢の差を感じさせない。元来、話好きなのだが、アルコールが体中に浸み渡ると、益々、雄弁になり、静岡の穴場(そう言えば、浜松市内で、主婦売春が摘発されたと新聞に載っていたな)を親切にも教えて呉れたり、明日は新居関所跡に立ち寄ることを勧め、我々の旅行談を聴いて感嘆すること頻り。でも、最近、再び訪れた時には、のろけ、数人の詰き処女(いや、乙女と訂正しょう)を前にして、そのものずばりつ話(具体的に述べるのも憚る位の)をべらべら口にするんだから、越者な僕は全く、閉口して、1人で白けてしまった。時々、6才年上の従姉が、ビールを注いで呉れるが、1年生が同席している手前もあり、又、女性であることを意識してしまい、彼女と全く言葉を交わさず、テレてしまう。
「義夫さんって、意外に純情で、優しいのねえ。そんなあなたが、とても好きなの」

と愛する女性に言われ、顔を赤くし、それに答えるように、そっと愛撫する – とこんな事を夢見る、純情青年、関口君。でも、3度もフラれると、自分自身で、バカに思えてくる。1度なら、可愛いし、2度なら、同情の余地もあるが・・・。

私情を交えず、客観的に評価しても、彼女、意外に可愛い。常に女性に対してニヒルな態度で接する三沢君、ホモかと感ぐられる程女性に全く興味を示さない岸田君、この両君の心をも、取り乱させる程だから、想像できよう。彼女をものにするために、この2人、壮烈な死闘を繰り広げ、勢い余って、寝床のシーツに白いものを泳がせたとか。しかし、2人に、忠告するが、彼女、4才年下の男性と今年の10月に結婚するそうな。我々は御厚志に甘え、汚れた衣類を洗濯して戴く。何しろ、商売が、クリーニング屋だから。

洗濯で思い出したが、岸田君よ!君の家に僕の貴重なパンツを1枚、忘れたんだ!もし君の親父さんがはいていたら、呉々も殺菌するように伝えてくれ、何しろ、その当時、まだ、僕はインキンだったから。今頃、辺り構わず、見境もなく、ボリボリ、掻いているかもしれないな?いや、待てよ、ひょっとしたら、現に今、君が穿いているパンツが僕の….そういえば、この頃、やたらと股の間に手をやるな、きっと、そうだ!やはり、君のパンツだ!大事に使って呉れよ。何しろ、夏合宿以来の付き合いだからな。食後、我々は、母なる布団に抱かれながら、夢路へと新たに旅立つ。

第3日目 浜松 – 名古屋
余りにも紙面を無駄にしたので、自重して簡潔に述べることにしよう – 無駄を知りながら。今日は比較的距離が短いので、充分、睡眠を取り、起床を9時に延長する。昼食の弁当をこしらえて戴き、布団の温もりに未練を残しながら、10時過ぎ、叔母宅を出発する。浜名湖を過ぎ、途中、新居関所跡に足を伸ばすが、改装中なので、仕方なく、歩道でボケーッと休み、また、単調な1号線を突っ走る。曇よりした雲の下に、それと歩調を揃えるかの様に、拡がる遠州灘を左手に見ながら、だらだらした坂を越えると、豊橋市内まで、もうすぐだ。僕が、全部ギヤーを落としたのに、岸田、三沢両君はトップで上るのだから、全く恐れいる。出発当初、彼等に敬意を払い、内心、コンプレックスを感じていた私であるが、今では全く居直り、むしろ、そうあるべきであるとの感さえする。勿論、ここで、また、かなり引き離されることになる。

彼等にやっと追いつき、途中競走しながら、豊橋駅になだれ込む。駅前で地図を調べながら菓子を頬張っていると、何処からともなく、暗いイメージを韻に含んだアコーデオンが、車の騒音や、何かに取り憑かれ、そうしないと心が安まらないかのように足早に急ぐ市民の足音に、かき消されながらも、そして、駅前の空間に融け込むことを拒まれながらも、誰に訴えるともなく辺りに漂い、私を捉えて離さない。この音色を耳にすると必ず、小さい頃の記憶が甦える。

母に連れられ、明治神宮に参拝しに行くと、正月や文化の日のように、人が多く集まる時には、必ず、この音色が流れたものだ。私は母から貰ったわずかの金を、それが我々に課せられた義務かの様に – 意識的ではなく、直感的に、白い木箱に入れたことが、1度だけ、ある。そのような行為に対して、無言の、丁寧な、御辞議で返札されたとしても、半ば、満足感に充たされ、半ば、その人達に負債を背負っているような、一種、不可解な気持におそわれ、母を引っぱる様にして衝動的に逃げ出した。それは、当然ながらも、戦争に対する問題意識に根差した行為ではなく、その音色が秘める暗いイメージを忌み嫌いながらも、それに引きずり込まれるという、全く、感覚的に左右されたものであった。今も、10数年前と同じ様に、町角に、2人の旧大日本帝国軍隊の戦傷軍人が、何か、やるせなさに、じっと耐えるかの様に・・。

1人は、多分、失明したのであろう、サングラスを掛け、立アコーデオンを悲し気に弾き、もう1人は、ゴザか新聞紙を致き、跪き、頭をずっと道行く人に下げている。小さい頃に感じた同じような複雑に交錯した感情が、胸の中をよぎる。戦無派の我々は、何ら戦争責任を問われることはないし、むしろ、問う立場に、必然的に委ねられ、この様に、青春を謳歌し、サイクリングをすることに、何の後めたさを感ずる必要なく、全てを「時代の流れ」に帰することも出来る。

4、50才に見える彼等は、学徒出陣兵とも考えられる。仲間の多くは戦死し、彼等は、奇跡的に死を免れた数少ない兵士かも知れない。彼等には、青春を謳歌する時間も与えられなかったし、青春と呼べるべきものは、何もなかったに違いない。我々は、このように、サイクリングをすることによって、青春の様々な思い出を築き上げ、その1つ1つの青春の痕跡が刻まれた記憶というフィルムを、何年後かに、心に映写する時、そこに、我々の感情を揺さぶり、そっと過去の生を甦らせてくれる、あの懐しい「何か」を見い出し、1つ1つ噛みしめ、味わうことが出来るだろうが、彼等は、常に戦争の暗いイメージが、悪霊の如く、まつわりつくその青春を語ることは、決してしないし、出来ないであろう。

飼い主に捨てられた、役立たずの野良犬のように、未来を拒否され、忌まわしい過去=青春を引きずりながら、生を維持している人間!自らの力で、希望への道を切り拓く能力を奪われ、再生への道を閉ざされ、単に生きていることを強いられ、その状態の持続だけを、唯一、許された存在としての人間!このような宿命を背負った仲間には、水俣病患者がいる。しかし、闘うべき敵を持つ水俣病患者と違って、彼等2人は、一体、誰に、何に、訴えたらよいのであろうか?彼等の存在を知ったところで、我々の多くは、単なる、戦争への素朴な反發感情を示すことによって、昭和元祿と吹聴される現在の社会体制を固定化し、美化し、埋没するにすぎないのではなかろうか?何か、それを、唱えれば、ユートピアの世界が、地上に舞い降り、我々の精神の健全さが証明されるかのように、度あるごとに、「民主主義の危機」とか、「民主主義への挑戦」だとか叫ばれる。

戦後、この言葉程、弄ばれ、世俗化された、念仏の言葉もないであろう。この言葉に、俗流民主主義者の硬直化された精神を、垣間見るのは私だけであろうか?彼等が、その意識の奥底から、その青春の思い出を取り除き、どんなに抹殺しようとしても、我々のような、より平和な現在に生きる健全な人間を見る度に、それは不死鳥のように、記憶となってはばたくであろう。なぜなら、不具を余儀なくされた肉体に、1つ1つの思い出が刻まれ、決して拭い切れないからであり、その肉体にこそ、全ての青春が集約されているからである。

もし、私のような、如何にも平和を謳歌しているような恰好をした現在の人間が、同情を装いながら、のこのこと出向き、幾ばくかばかりの金を与えたとしたら、どうだろうか?いや、そんな勇気さえ、僕にはないだろう。純粋な慈善行為との錯覚を当人に与えるカンパという行為は、たとえ善意でなされようとも、それが自己目的化される時、しばしば、自己充足のみを与え、カンパの当事者自身の闘いと深く係わっていることを見落とさすという危険を、それ自体に含んでいる、もし、カンパが、第3者を意識してなされるならば、そのような善意は偽善に転化するのである。

かつて、革新という立場上、総評が、ベトナム人民のために、(確か、そう記憶するが、沖縄人民のための支援金かも知れない)のカンパを呼びかけた時、「日本の方々には募金してもらうより、日本自身のことを考えてもらいたい」と丁重に、南べトナム民族解放戦線の副議長が語ったらしいが、このような異議申し立てを痛苦に受け取る善意の持ち主は、果たして何人いるのだろうか?

我々が通常、街頭で、諸々の団体にカンパする時、善意・同情を寄せ、カンパという不連続的行為によって、疑似連帯の意志表示をし、あたかも、それが彼等との共闘であるかのような錯覚に襲われ、さも、良き理解者である、と言いたげな表情をして、カンパに善意・願望を託し、彼等の行動に白紙委任し、手を汚さずに、安々と免罪符を獲得し、茶の間という安全な場所に自らは閉じ籠もり、ドラマか何かを眺める様に、テレビの画面や新聞紙面に映ずる彼等の行動に一喜一憂するに違いない、いや、感情の反応さえ、ないかも知れない。

その時、彼の問題意識は、次第に、鮮明度を失い、ほやけ、対象を失い、拡散してしまい、小市民的な感情のもくずと化すのである。彼が、「出来れば、私もお手伝いしたいのだが、家庭の事情もあることだし、これで勘弁して下さい」と意識しつつ、カンバする時、彼は、主体としての意志の問題を、可能性という客観的な問題に恣意的にすり換えるという意識的操作をすることにより、逆げ道をすでに作っているのである。つまり「手を汚したくない」との自己防衛的な欲望が、「ねばならぬ」という当為の意識や「せざるをえない」という内発衝動性を、完全に抑えつけ、彼の心を支配しているのである – 至上命令の処世術として。

そして、もし、その時「カンパをしてくれるよりも、我々の問題をも、あなた自身の問題として把え、それに基づき、あなたの日常生活の底辺から行動を起こしてくれる方が何よりもの励みとなり、真の連帯ともなる」と逆に問い掛けられたら、惑いの表情を顔に浮かべ、ほろほろの態で、こそこそと逃げ去るに違いない、まるで何かいたずらをした小児のような気持におそわれて。

例え、良心なるものが疼き、同情心から、カンパしたとしても、我々が、そこで思考を停止させ、日常性という安全な世界に逃げ込み、埋没するなら、免罪符獲得を目的とした偽善者の行為として、断罪されても反論できまい。幸いにも、そういう奇特な方は、我々の周辺にはいないが…。

カンパは、問題意識の出発点であり、それが日常生活の中で還元されてこそ、意識の共有化もありえるのであり、カンパする者とされる者の間に、真の連帯感が生まれるのであろう。それ故、私が、今ここで、同情のみを託したカンパをしても白々しいし、行動形態こそ違っても、本質的には、単なる自己満足的、逃避的なマスターベーションにしか、すぎないであろう。

参政権だって、ある意味では、定期的に発行される免罪符でしかない。現に、アナクロニズムの感を抱いて、傍観しているにすぎない私、彼等2人と目を合わせる位置にいなかったことは、唯一の慰めであるが、もし、彼等と、一瞬でも、目を触れ合うことになったら、私は、どのように反応したであろうか?何かに憑かれた様に、彼等の処に・・・いや、そんなことは、今の僕には、絶対に出来ないし、したくもない、むしろ、傍観している方が、結果的には、気が休まるのだ。

彼等の戦争責任を追求し、罪状を推測し、羅列することは避けよう、だが、彼等を歴史の片隅に追いやり、切り捨てることは出来るだろうか?いや、それが我々戦無派に許されるだろうか?このように、戦争の遺産として、生きることを拒否された人間がいると思えば、自民党タカ派の総師である岸信介や賀屋興宣のように、当然、A級戦犯として処せられるべき人間が、国政に携わり、歴史を逆回転させようと、過去にしがみつきながら、現世に、その腐敗しきった鎌首をもたげているし、戦争の遺産として大事にされ(永田町界隈の連中により)それが、許されている。

皮肉なことに、戦傷病軍人の団体や遺族会は、自民党の貴重な票田となっているのが事実であり、あの反動的な軍国主義的な靖国神社法案を上程させるための有力な圧力団体でもある。この矛盾にどう対処したら、よいのであろうか?純粋精神讃美論も、1億総懺悔論も、僕には、ピンと、こない。

この様に、あれやこれやと頭を廻らしても結論は出ないし、いや、出せないと言った方が正確かも知れない、意識の泥沼にはまり込むだけなので、中途半端だが、終止符を打つことにするが、次のことだけは確かであろう。すなわち、この2人の戦傷軍人が、例え、どのような過去を秘める人間であろうとも、現在は、彼等こそ、最も戦争を憎悪し、平和を希求し、愛する人間である。そして、私はそうあって欲しいと願う。結論めいたものは、やはり、月並な文句に落ち着いてしまう – 私も人並みの人間であるから。また、私の悪い癖が出てしまったようだ。話を戻そう。

出発する前(東京を)、伊良湖岬から鳥羽に船で渡り、伊勢(最近、革新系の市長が当選されたそうな、やはり、時代の流れですかな?そう言えば、橿原市も)を通って奈良まで行く計画を立てたが、山を越えなければならないので、1号線に決定したのであるが、このペースでは、予定より早く、名古屋に到着しそうなので、単調でない「何か」を期待して、豊橋から国道247号線に逸れ、蒲郡、碧南を通過して、名古屋に向かうことにした一塚氏の御厚志を承り、今日も布団で寝られることを夢見て・・。

結局、夢にしか、すぎなかったが、我々サイクリストにとって、布団の恨みは、食い物の恨みに値する程恐ろしいことを、承知のうえでの仕打ちだったのですか堺さん。247号線に入ると、交通量は、ぐっと減り、潮風が快よく、肌を突き通す。

東京を発ってから、久しぶりに、本格的な、あの独得な臭いを運んでくる浜風が鼻を刺激し、異国情緒を味わせて呉れる。近く、渥美湾を左手に眺めながら、風景の単調さによって硬直化した視神経を解きほぐして呉れる海岸線を突っ走る。今日は非常に好調だ。途中肉屋に立ち寄り、チーズを買うが、この店の主人らしき、おっさん、値段が分からず、おばさん(多分、女房であろう)に尋ねるが、彼女も分からないので、「東京では、幾らだ」と、逆に僕に値段を聞く仕末、大した買い物でもないので、ホラ吹くことも出来ず、適当に答えると、その適当な値段で売って呉れた!多分、御先祖は武士に違いない、それにしても全く呑気である。ひょっとしたら、趣味でこの商売やっているのかもしれないな?東京だったら、とっくに、この店、ぶっ潰れていたことであろう、と要らぬ心配をする。

蒲原付近の歩道で昼食にするが、ガキっていう奴はどこも同じで、寄ってきて、盛んに菓子をせびるが、小学生でもあることだし、情操教育を重んじる我々であるから、彼等の菓子と物々交換すること例によって低次元の月並みの質問を浴びせる。旅先では必ず受けるが、回数が重なると、うんざりしてくる。しかし、我々の答に対する反応を、相手の表情から読み取るのも楽しみの1つである。相手が驚きや感嘆の表情を示すと、凡夫の域を脱した喜びや、何か違大な先駆者であるかのような誇大妄想の念に駆られ、元気づけられるものである。ガキとても、同様、やはり嬉しいものであり、決して悪い感じはしない – たとえ、束の間のヒロインであっても、幼児的感情と嘲笑されようとも、自然と酔い痴れるものである。

初めて、ガキ共に盛大に見送られながら、いざ、名古屋へ。こうなってくると、まるで、正義の使者 – 月光仮面(仮面ライダーより、夢があるからな)のような気分になる。ガキ共に夢を与えるという使命を帯びた、まさに、正義の使者 – 「どーこの誰だか、知らないけれど、誰もが、皆ーんな知っているし、月光仮面のおじさんはー、正義の味方の良い人よー、疾風のように現われて、疾風のように去って行くし、月光仮面は誰れでしょか、月光仮面は誰れで…そう、実は僕なんですよ」てな調子である!こんなことを書くなんて…でもガキの頃は、まだ、夢があったな、少なくとも選択の余地があったしな、今では、10年先が見えているような諦めの境地だからな。

赤胴鈴之助、少年ジェット、まぼろし探偵、七色仮面、少年探偵団、快傑ハリマオ、ローン・レンジャー、アンタッチャブル、名犬ラッシー、ローハイド、ララミー牧場、チロリン村とくる実の木、ポパイ等、どれもこれも、ガキの未熟な夢を育ててくれたからなあー、ああー、10数年前の若かりしガキの頃が懐しい、夢よ、もう1度!今は切れ痔寿で悩まされ、女で悩まされ、就識で悩まされ、全く夢も、希望もないからなあ、とこんな非生産的なことを考えながら、とは全くの嘘で、全く思考を停止しながら、只、黙々と、その実、岸田君の栄養不良のケツを、じっくりと鑑賞しながら、ペダルを踏み続ける。

碧南に到着したのが4時過ぎ。祭のために、混雑しており、交通規制している。中学生以来、祭に参加していないので、久しぶりに恋人に再会したような感じだ。ゆっくり堪能したかったが、非常に混雑しており、傍観さえ出来ない。仕方なく、バナナとミカンを買い、適当な処で休むことにするが、この八百屋で、岸田君、すかさず、ブルジョア・テクニック振りを披露する。近くに交通規制の警官がいたのも無視して、又、店が祭のために混み、店員が監視していなかったので臆面もなく、我々の前のザルに盛られたバナナの山に、別の1山から1房のバナナを拝借し、盛ったのである。そして、何の小細工もせず、如何にも、今し方、偶然、見つけたかのような表情をして、その余計に盛られたザルのバナナを指差し、
「おばさん、このバナナ頂戴」

私と三沢君は、怪しまれないように、笑いを堪えるのに苦労した。近くの神社で休み、潮風を浴びながら、岸田君の貢献により、結果的に、値切ったバナナと、ミカンを、たらふく食うが、御蔭で食べ切れなかった。出発する頃には、すでに5時近くとなり、暗かったので、ライトのない私と三沢君は、昨夜の教訓を踏まえ、懐中電灯を買うことにする。しかし、実際に購入したのは、炭鉱夫型のヘッド・ライト。これは、夜間、釣りをする時、浮きを照らすために使用されるのだそうだが、ゴムバンドが付いており、頭の屈伸で、自由自在に照らせるので便利だ。

早同交歓会で紛失したのは、非常に惜しかった。ただ、固定出来ないので、でこぼこ道だと、不便だ。腰に電池をぶらさげ、頭をライトに付けて得意気に出発する。岸田君、頻りに羨しがる。小石は識別出来ないが、路肩やでこぼこや標識は、自由に照らし出し、識別出来るので、このライトと戯れながら、ナイト・ランを敢行する。昨日と違って、全く快調である。途中、三沢君の愛車がパンクするが、このライトの御蔭で、楽々と修理出来た。これがパブリック・ランなら、クラブ員全体に迷惑をかけ、焦りながら、やるものだが、何しろ制約される要素が少ないから、肉マン(と言っても、女性のアレではないから、誤解のないように、なぜなら、女性のアレに、我々男性の数億もの分身が食われるのだから)を食べながら、楽しく附き合うことができる。やはり、ブライベート・ランだと、自然と和やかになり、学年の差を忘れさせ、一種の解放感に浸ることができる。

堺氏の親類宅に泊めて頂くつもりだったので、名古屋駅から7キ口程、手前の名鉄の某駅に7時過ぎ、到着する。今日のコースは峠もなく、町中が多く単調だったので、我が精鋭部隊には、物足りなかったが、この2人が別の楽しさを与えて呉れた。

早速、電話して、無事に到着の旨、堺氏に伝えるが、すでに2人の先客(及川氏と渡辺氏)が居り、親戚宅でもあり、これ以上の迷惑は、気が引けるとの堺氏の心理的動揺を察し、こちらから辞退した。本当にがっくり来た。路頭にさ迷う3人のコジキスト。「あの2匹には別として、せめて僕だけでも」と、余程、押し切ろうと思ったが、やはり、先輩としての鉄則を守り切ることにした後で、堺氏からの感謝の言葉と、多少の報賞金とを期待して。

私が、出発する前から盛んに吹聴していただけに、100パーセントの可能性を抱いていたのであろう、それだけに、この悲報が2人にもたらしたショックは大きく、それが憤りとなり、ここで書くのも憚るようなことを口走る。しかし、彼等も卒業したことだし、折角だから、しかし、正確に表現するには、かなり勇気が要るので、控え目に、婉曲的に述べることにしよう。

「デビル(注:日本名は出唇)に、デブカバに、デメケジャラの奴等、絶対にコンパでシバき、ロウソク垂らしてやろうぜ、もし、自己批判しなかったら、総括しちゃおうぜ」と罵倒する2人を、先輩思いの関口君は、注意し、宥める。世間一般との解釈上の違いはあるが、彼等の一致する解釈に従えば、「自己批判」とは自主的に脱ぐことであり、「総括」とは、数人で寄ってたかって、無理矢理に脱がせ、パンツをズタズタに引き裂き、フルチンにするそうな。

我がクラブには、「総括」された部員の何と多いことか!私のように、素直に「自己批判」すれば、被害も軽く済み、無事、パンツも戻ってくることだし、中丸君、これからは、深く「自己批判」することですなあ。尚、個別的に解釈すれば、堺氏に対しては、親切にも、キスする時(相手がいての話ですがね)、困らないように、あの異常に発達した下唇を、及川氏に対しては、性豪振りを思わせる、あの超特大の男根と金玉(垢でどす黒く汚れていても、どうして金玉なの?誰か、おしえて)を、切り落とし、渡辺氏に対しては、眼鏡と間違われる程、飛び出た涙球をくり貫き、「もしもし、そこのお客さん、黒いタイツを穿いたまま、入浴なさるんですか?」と銭湯で誤解される程、下半身に集中した体毛をそり落とし、河野君のようにしてやることだそうな。但し、この見解は、あくまでも、2人のみによって導き出されたことを付け加えておく。僕は単に代弁したのみだ。

外食後、銭湯に行く。私なら、1週間程度なら、我慢出来るが、毎日、湯を浴びなければ気が済まない程、神経質で清潔好きな岸田君を見ると、入浴も彼の娯楽の1つではなかろうかと思えてくる、それ程、ツアー中の彼は、食物以上に銭湯に対しては執念深いのである。彼とツアーする諸君は、呉々も、このことを肝に命じておくべきですぞ。田舎、いや、この言葉は即ちに撤回する、なぜなら、保泉氏を筆頭にして、吉田氏、中丸君のような、山奥育ちのクラブ員が、我がWCCには多いのですから。

地方(名古屋市内ではあるけれど)の商店街は、どうも店を閉めるのが早く、喫茶店も例外ではない。仕方なく、駅前の公園にテントを張る。この公園を通り抜ける乗降客が多いが、他に捜す気力もなかったので、ここに落ち着くことにしたのだ。自転車は3台一緒にブランコの鉄柵に、鎖で結び付け、例のカビ臭いテントにもぐり込む。しかし、寝るには早いし、手持無沙汰なので、再び外に出る。私1人なら、夜の巷を漁り、女の子の5・6人を泣かせ、「夜の帝王」振りを遺憾なく、発揮出来るのだが、欲求不満気味の2人をテントに残して置いたら、同性愛に走り、翌日、多分、岸田君の方であろう、裂け痔のために自転車に股がれず、三沢君の方は、岸田君の未消化の御飯粒が詰まり、尿毒症でも起こされたら困るので、3人で屋台のラーメンと串ダンゴを食べることによって、不祥事を未然に防いだ。

この後、再びテントに隠遁し、うとうととすると、テントを懐中電灯で照らし、男の声がする。見回りの警官である。話を聞けば、我々がテントの中で不純異性交遊とやらの、法に触れるような行為を繰り広げていると、感違いしたらしい。「ウッファーン」、「いや、そこはダメよ」、「もっと右よ」、「とっても、いい気持よ」、「ロウソク垂らしてー」「ウーン、早くしてぇー」の類の妖し気な言葉を別に、口に出した訳ではないのに。

尤も、強姦の夢を見て、快感を味わい、2週間分のアレを漏らした純情なお方もいたとか、ねえ、三沢君、いや、俺だったかな?我々が事情を説明すると、彼等も納得し、我々に理解を示して呉れた。まあ、どう見ても、彼等の宿敵には、見えないだろうね。青い乱闘服姿の彼等を目にすると、敵愾心に燃え、ムラムラと感情が沸き上がり、石の1つでも投げたくなるんだが、この様に好意的に接しられると、思わず「御勤め、御苦労様」と口をすべらしそうになってしまう。青ガラスも状況次第では、平和なハトに転ずるのかな、と妙な感慨に耽る、やはり、根は優しいんだなあ、関口君って。でも、まだまだ、俺の動揺し易い階級意識は、鋼鉄のように鍛える必要があるんだな、と自己検証し、反省するなんて、プロレタリアートの息子は、さすが、出来が違う。このような、つまらぬことを考えているうちに、私は、いつの間にか、夢路に旅立っていた。

僕の担当は、これで終わりだが、「あとがき」と称して、もう少し書き続けるが、寛恕されたい。「記録」や「資料」という観点から、把えるならば、僕のこの紀行文は、何ら価値を有しない代物であろう、それは、僕も承知している。寧ろ、意図的に、その様に構成したと言えよう。なぜなら、僕の生身の自分、日常生活における分身を、表現したかったからだ。だから、旅行中に、肌で、実感として感じたことを、そのまま素直に表現する、というよりも、その現体験を日常生活で心の奥底に沈澱されてきた、様々な観念という溜り座(日常生活に還元される機会は皆無に等しいし、それ無くして、生きていけるから)で、ある程度、塗りつぶし、否定的に粉飾した、ノンフィクションと、フィクションとの混合物と言った方が適切であろう。

現代社会において、又、我がWCCにおいても(残念ながら)、真摯な態度で、1つの自分の生活を検証し、主体性を維持していこうとすると、1つの大きな壁が、立ち塞がっている現実に気づき、愕然とし焦燥感に包まれ、やがて意気消沈するのが落ちだ。それは、人間関係という奴だ。人間関係を大事にし、とことんまで追求すればする程、逆作用として桎梏が働き、内面を自己制御し、他人を傷つけまいと思うあまり、自分を他人に適応させてしまうという「生活の知恵」が、幸か不幸か自然に身についてしまう。そして、大方の人間は、それを追求する過程で、相手との接点に達すると、回転を止め一定の距離で自己保身的に接し、その回転を空回りさせ、暗黙の了解のうちに一定の境界線を築いてしまう。なぜなら、それが、現代社会の一般的風潮だし、適当に自分を適応させ、適当な態度で、適当に接していても、結構生きていけるし、その方が煩わしくないし、余計な神経を摩り減らす必要もないし、適当に楽な生活を維持していけるから。

このような悪姿は、当然にも、我がWCCまでをも浸透し、それが、クラブのムードをも形作っていると思う。と言っても、こういう不満を吐く僕も、結構、楽しくやってきたし、各々個性の違った分子が寄り集まった大所帯では、無理からぬことの様にも思える。僕も、そろそろ、クラブを総括する段階に達したようだ。

僕が1年生の時は、大学立法闘争が早稲田全体、特にクラスをも巻き込み、それが、支配的ムードとしてキャンパスに漂っており、級友に対して、サイクリングクラブ員であることにより、非常な後めたさを感じたものだが、2年、3年になって執行部の一員となり、様々な経験を経てきた現在では、クラブ員であることを誇りに思うし、授業では得られない様々な何かを獲得したことは、僕の青春体験に大いにプラスになったと思うし、そう願いたい。なぜなら、僕にとっては、授業は、目の上の瘤的存在であり、それ故ほとんど出席しないし、僕が授業で得た唯一のものは、2年間連続の独語の「不可」のみ、だから高橋君、独語お世話になりますよ。4年生になっても、独語を覆習することも、貴重な人生体験ですかね?

一時、クラブを止めようと思ったこともあるが、クラブを止めたら、僕の大学生活で何が残ったであろうか、と思うとゾッとする。それ程、俺はクラブに規定されていたのか、いや、規定しもしたしクラブを媒介として俺なりに、何かをやってきたし、自分を創り上げてきたんだ、と思う。俺の大学生活は決してクラブだけではないし、クラブは、あくまでも、俺の青春の一面と言えようが、大きな支えであったことだけは確かだ。異端派サイクリストを自称する俺は、サイクリングバカと言うよりも、クラブバカとして送ってきたが、俺は、それで良かったと思う。

人間の意志(意識ではない)なんて弱いもので、他者との関係性に規定されてしまうのだ、それが人間関係の煩わしさの正体なんだ、との意見に賛成するし、俺も実感として、それを認めるが、それが一種の魅力をも引き出している。俺が、自然との対話よりも、人間との対話を重視するのは、そういう意味からである。だから俺は、人間が介在しない、1人だけのプライベート・ランは避けている。このような考え方は、サイクリストとしては、非常に偏狭な自然感かも知れないし、多分そうであろう。出来れば、俺も1人旅したいと思うのだが・・・。

ある先輩の各言「サイクリングにルールはない」 – 俺のサイクリング観と強いて言えば、これである。俺はメカニックの知識に乏しいし、スポークの2、3本が折れようが、リムが曲がろうが、片方のブレーキが効かなくても、前輪と後輪とのタイヤの太さが違おうが、走れれば、それでいいのだ、内田君には、非常に申し訳ないが、と思う。そういう意味でも、俺は異端派サイクリストなのである。だから、俺には、愛車精神がない、と結論的にはそうなる。でも、サイクリングは好きだ。それは期待したと違う別の何かを与えてくれる、という不思議な魅力を秘めているから、なのだ。

尚、前書きは、全部、カットすることにした。それは、惨めな過去の述懐にすぎないし、幻影価値を有する私有財産として、自らの手で、愛情という地平線の彼方に、葬りたいからである。「女性に関する哲学」をも、省くことになったが、実践=敗者復活戦を試みることにより、更なる論理構築を経て後、いずれの機会に載せるつもりである。精神的インポテンツの状態が続く限り、貧困なる哲学を免れえないから・・・迄う御期待!

第4日目 名古屋 – 奈良(R・M)
岸田君の「起床!」という彼の普段の物静かな態度からは想像できないような大きな声で、テントの中の2人は目を覚ました。虚ろな目で時計を覗くと、まだ5時半をちょっと回ったばかりである。関口氏も三沢君も3日間の疲れが相当たまっている様子。そんな2人に比べて、岸田君は元気一杯、ヤル気十分。というのは、予定ではいよいよ本日奈良に到着することになっているからだ。奈良の都は彼の懐かしの故郷である。

テントを素早く畳み、各自、愛車の点検を済ませ、6時過ぎに眠い目をこすりながら、冷たい朝の空気の中を出発。今日も今までの3日間同様快晴である。我々は非常に運がいいようだ。これも日頃の行ないの良いせいか?ところが、名古屋市内に進路を取っているはずなのに、左右の風景はだんだんと田畑が多くなり、終には、前方に山亚が立ち塞がってきた。コースリーダーを務める岸田君が早く奈良に着きたい一心で、あせって道を間違えたのだ。しかし、関口氏、三沢君共に人間が出来ていることにおいては、クラブ内でも定評がある。ゆえに、岸田君を非難するどころか、日頃の寛大なる精神をもってして、逆にガックリきている岸田君を慰めた程であります。3人は気を取り直して、もときた道を戻って再び名古屋市内に向かった。

ようやく名古屋市街を少し過ぎたあたりで、こんどは部隊長の関口氏が、何事が起こったのか、悲痛極まりない声を上げて、前を走る2人を呼び止めた。関口氏を見ると、彼は顔を強張らせて、何を必死に堪えている様子。目に涙さえ浮かべている。
「オイ、おれはもうダメだ。とってもガマンできねェー。頼むからトイレを早く見つけてくれ〜!」

流石の「新宿夜の帝王」もこれだけはどうにも仕様がないらしい。運よく、少し先に食堂が見つかったので、何とか難をのがれ、朝食もついでにその食堂で済ませ、国道1号線を再び走り始めた。

1号線というのは実につまらない道である。車は多いし、我々健脚の生き甲斐とする峠も無い。単調な道路である。ただ黙々と走るのみ。もう少しで亀山だという所で、関口氏の自転車の調子がおかしくなった。後輪が激しくブレている。そのままの状態でどうにか亀山まで走り、亀山駅前で関口氏の愛車を点検してみると、後輪のスポークが何と7本も折れている。ああ恐ろしい。まずいことに、我々は3人共スポークのスペアを持ち合わせていなかった。たとえ持っていたとしてもこの3人はスポークを交換する技術など無いのだから、スポークの有無は問題外ではあるが・・・。

とりあえず昼食を取ることにし、その後で自転車屋を捜すことにした。駅前の食堂で食事を済ませ、足りないところをパンを買って駅前広場の暖かい陽射しの下でパンをかじりながら、近く休んだ。さて、自転車屋を捜し始めたが見つからない。そこへ、丁度、土地っ子らしき小学生が3人やって来たので、自転車屋まで案内してもらった。横道を入ってすぐそこに自転車屋はあった。修理が終るまでの間に、我々3人と案内をしてくれた小学生3人とが交わした会話の1部を紹介しましょう。

小学生A(関口氏の毛沢東カンチョーマンスタイルをさも感心したようにシミジミと眺めて)「このアンチャンが1番かっこええな」
小学生B「ホンマや。映画かテレビのスターみたいや」
小学先C「その色メガネが何と言ってもええな。オラにもチョット貸してくれや」

関口氏「そうか、よし、じゃオレの素顔をおがましてやろうか」
(関口氏、サングラスをはずして、子供たちにニヤッと笑って見せる)

小学生B「ヒャーッ。ひでェーな。まるで怪獣やな」
小学生A「全くヤ。怪獣映画に出てくるのにそっくりや」

岸田君「そやロ。やっぱり俺の顔が1番ええやろ」

小学生「いや、オメェよりもこっちのメガネのアンチャンの方が賢そうな顔をしてるワ」
小学生A「でも、怪獣のアンチャンが1番貫録あるな」

会話はこのあともズーッと続いたのであるが、ここらでやめにしておこう。

自転車の修理も終わって、子供達に見送られて亀山を1時半頃出発。亀山から15分位走った所で1号線と別れて国道163号線を左に入る。伊賀上野に通じる道である。道路の左右は紅葉の山々で素晴らしい眺めである。道路も地道となり徐々にではあるが上りになっている。しかも工事中のため、大型車は通行禁止となっており、車も滅多に通らず、非常に気分が良い。これでなくてはいけない。

伊賀を過ぎたあたりで、道路は再び平坦な舗装になった。すると、最後尾を走っていた関口氏が全く突然に前を行く三沢君、岸田君を追い抜いて先頭に立ち、ビュンビュン飛ばし始めたのである。どうも彼は亀山の自転車屋でスポーク修理の際に、グリスアップをしてもらったので、愛車の調子がかなり良いらしく、それに気分をよくしたものらしい。

岸田君、三沢君も「何クソッ」と負けずにスパートしたから大変。今やロードレースの開始である。抜きつ抜かれつの大熱戦である。結局、関口氏は年齢には勝てず途中で落伍。1位は当然岸田君であった。この予定外のレースのため、上野に到着した時には、3人共バテバテであった。30分以上もここで休んでしまった。上野を出る頃は、もう空は暗くなり始めている。またまた今日もナイトランになりそうである。イヤハヤ、全くウンザりしてしまう。

奈良まであと45キロ程度である。この45キロは、唯もう惰性でガムシャラに走った様な気がする。上野を出て30分もたたないうちに、あたりは真っ暗になってしまった。闇につつまれて、どんな所を走っているのか全く見当がつかない。三沢君、関口氏御両人自慢のヘッドライトも電池が切れて使い物にならず、時折通過する自動車のライトの光を頼りに走り、断崖、絶壁など幾多の迫り来る危険を乗り越えて、奈良市内に入ったのは8時頃であった。

3人共、疲れと空腹のため言葉を交わす元気もない。ああ!それなのに、今夜の宿泊予定地である岸田邸までは何と10キロもあるというのだ。とはいえ、我々は精鋭部隊である。超健脚なのである。たかがあと10キロと勇ましく走り出したのである。しかし、いくら気力が充実していても、肉体の方がいうことをきかない。関口氏などは、もう必死である。悲愴な顔をして懸命にペダルを踏んでいる。

前を走る2人が左折したのにも気付かずに、ただただ前へ前へと進んで行ってしまった。2人がいくら「オーイ!関口さあーん!オーイ!」と後ろから叫んでも、とても聞こえるものではない。ただ前進あるのみとばかりに必死に進んで行く。流石、我等が部隊長である。この何事にも必死に打ち込む姿は見習うべきであろう。こんな有様ではあったが、9時前には何とか無事に岸田邸にたどり着き、我々の東海道メチャクチャランも終わりを告げる事になった。

1971年度サイクリングレポート – 法学部2年 河野

1971年度サイクリングレポート
法学部2年 河野

5月16日 マップリーディング
今回のマップリーディングは陶山氏の提案に基づいて行なわれることになった。正門前を出発し、王子駅を通り、草加駅までは、ただ街中を走るだけで、もの足りないものであった。しかし、草加駅から野田市清水公園に至る迄4ヶ所のチェックポイントを設け、好きなコースを選んで、順序の指定もなく、各チェックポイントの通過を試みるという企画は思いの他効果があったと思う。

というのも今まで地図の読み方がよくないというのを、何とかしようという意図のもとに行なわれた今度のマップリーディングは、学年を越えて勉強になったと思う。その後清水公園での花見を満喫した後、浦和駅まで速いペースで走った。このランを通じて感じたことは、全長80kmの長距離を予定に沿って、速いペースで走ったコースリーター、マップリーディングの予想外の好成績であった。これらは通常平地ランでは、自然に盛り上がりに欠ける点があるはずだが、時間的配慮・ランの走行速度がスムースにいったためである。今後の平地ランのよき教訓となるだろう。

6月5日 – 6日 松姫峠・早慶親睦ラン
第5回早慶親睦ランは、早稲田の主催で松姫峠征服。6月5日は曇りで、明日の松姫峠がどうなるかなぁと心配しながらも、先発隊が午前10時過ぎ早大正門を出発した。私がコースリーダーとなり、立石君、奥野君、石井(秀)君、横山君、慶大の横山君、相沢君、川島君の8人が、先発隊として走った。本隊の事は全くわからないので先発隊員として書くことにします。

早大正門をスタートし、四面道までは私に代わって奥野君がコースリーターをやってくれ、四面道で慶大の相沢、川島両君と合流し、1隊として走った。今回のランは、早稲田の主催の為か、先発隊任務の遂行せんが為か、とにかくかなり速いペースで走った。

慶応の横山君も、「早いなぁ。うちの相沢も川島も初めてのランなものやからな」

そういう中でも両方とも景色のいい所があるとすぐ写真でも取るかという具合で、適当に休息をとりながら走った。こうして氷川についたが、中丸君がまだ来ていなかったので少し時間をもてあました。中丸君が着くとすぐ先発隊の仕事にとりかかった。テント張り、買出し、食事の準備等。その後しばらくして早稲田、慶応の諸氏が次々と到着した。3年生ともなればかなりの仲で、慶応の大池さんは相変わらず目立つ存在だ。全員着く中で、食事を作り始めた。

ここで気がついた事は、慶応さんは驚くなかれ、1年生を除く2、3年生が食事の準備を手伝っているではないか!これも聞けば慶応の慣習とか…。慶応の青木主将はみその入れ具合が非常にうまいとの評判、これも信州生まれの為なのだろうか。食事をなごやかに終え、ミーティングに入り、各自各様の感想を述べる中で、雰囲気がよくなって来た。「さぁビールを飲もう」と冷やしていたビールが各自に配られ、何となく活気が出てきた。この後がおもしろい。みんな1本のビールで悪酔いをしたのか、歌が出始め、早慶両方の歌合戦だ。「出そうで出ないは慶応の何とか」、「出そうで出ないのが大池の何とか」のヤジが飛ぶ。こうなったら応援歌、春歌の応酬。私も全く予想していないことが起こり始めた。関口さんが例の華麗(~)な踊りをやるや、岡田君が久々ぶりのカクテル踊りなるものやるや、ここまで悪のりするとは・・・。慶応の諸氏も全くびっくりした様子だった。1度は早慶コンパをと話にのぼっていたが、現実のコンパを眼前に見た彼等はどう思ったことか…。

コンパの後、寝る気のしない人達が火のまわりに集まって互いのクラブの話題を話し合った。また23時ショウの出演問題もかなり熱心に話し合われた。やがて全員テントに入り、テン内で親睦を深めていたようだ。夜中に雨が降り始め、あくる日まで降り続けた。早慶砂子、青木両主将の話し合いの結果、ハイライト松姫峠を断念して、青梅駅まで雨の中でも走り、駅前で解散とのこと。早慶両クラブ諸氏は降りしきる雨の中を青梅駅まで走った。雨にたたられた為、峠を目指す中でのより深い親睦を築く機会を持てなかったのは非常に残念であった。ただ言えるのは、例の早慶両校の画期的コンパ(?)で今までの親睦ランからの脱皮を試みたことだろう。

6月20日 富士スバルライン
富士スバルラインは例年行なわれ、我がクラブの年間ランにあって最も強烈なヒルクライムのひとつである。河口湖ユースホステルから数100mのスバルライン入口から新5合目まで全長30キロmの上りっぱなしだ。参加者は14名。ランの前の厳しいとのうわさが為に少ないのなら少し寂しい感じがする。

4年生の宮崎さん、中山さんは、一足先に出発した。これもみんなに迷惑をかけない先輩の御配慮のためか・・。砂子主将をはじめとする残り12名は、河口湖ユースホステルに荷物をあずけ、ユースのおじさんに記念写真を取ってもらい、力強い激励を受け、さっそく砂子氏のトレーニング開始。眼前の延々とのびる全長30キロmの坂に挑戦しようとする意気に燃え、各自柔念なトレーニングをやっていた。さぁ、いよいよスタートだ。総勢12名がスタート地点に1列に並んだ。砂子主将のスタートの合図と共に心よいスタートがなされた。

今回のスバルラインにおいては、何やら関口氏と中丸氏の間で、丸ぼうずになるか否かの勝負が争われるとの話。両氏とも、初めから力強い出足のようでした。他方、砂子主将も2時間のタイムを破らむと心密かにねらっているとか・・・。ただ心配なのは稲垣君だ。彼は初めてのヒルクライムとのこと。厳しいだろうが頑張ろうと力づけた。

今回の富士スバルラインもこうして行なわれ、幸いに霧の中のランの為に、各自走りやすかったようだ。4年生の中山さんを除いては皆差こそあれ、順々に新5合目に着いた。ところがただ、平君が自転車の調子(ハンドル)が悪くかなり遅れているとの情報が伝わってきた。とにかく新5合目に着いたクラブ諸氏は充分な休息をとったので、平君を待たず下ることにした。この時驚いた事に、平君は下から1人走ってくるではないか。
「おぅーい、ガンバレヨ」

心からみんなそう思ったはずだ。これが我がクラブであり、ワセダマンなのだ。平君の根性に声援を送ろう。

今回のランにおいて、最高タイムであった砂子主将は2時間を数分越し、念願の2時間を破れなかった。また関口氏と中丸氏との丸ぼうずの話は何とか和解したとか・・・。1年生の諸君、ほんとうにおつかれでした。我がクラブの諸氏、ヒルクライムの真価を味わってくれたことでしょう。

10月23 – 24日 オープンサイクリング(軽井沢)
我がクラブ恒例のオープンサイクリングは今年初めて1泊で実施された。一般参加者30余名(内2人男)を集め、紅葉の軽井沢で楽しい一日を過ごした。軽井沢はサイクリングの本場と言われる如く、貸自転車が非常に多く、オープンサイクリング実施には最適であった。軽井沢の知名度の為か、はたまた我がWCCの主催のせいか、集まったのは女性がほとんど。日頃女性に親しんでいない我がクラブの面々は、顔も終始とろけむばかり。あぁ不思議や!この出席率や!!

今回のオープンのコースは全長20キロm程度と短く、その上なるべく単純な道だが、比較的急な坂が3つあり、一般参加者のほとんどが自転車を押す状態であった。10月の末頃で、高原地軽井沢はすっかり紅葉し、木々は黄色づき、空気のうまさは全くこたえられなかった。軽井沢の高級ゴルフ場の緑のジュウタンのような芝生の美しさや、その後にそびえる浅間山の雄姿は本当にきれいであった。

今回の走り方は2班に分かれて、双方反対の進路をとり、軽井沢レイクタウンで合流するという方をとった。このレイクタウンで、大きな円をつくって昼食をすませ、その後でバレーボール、ソフトボール、ボート、トランポリン等をやり、楽しいひとときをすごした。午後1時半頃レイクタウンを出発し、全員が軽井沢友愛山荘についたのは4時前であった。友愛山荘において解散式をし、クラブ員の中には一般参加者と共に普通列車に乗り込み、上野まで、よりいっそうの個人的親睦を深めた者もいたようだ。何やらダンスパーティの券を盛んにさばいていたとか・・・。

今年のオープンサイクリングは思い切って1泊を試み、何とか成功したと言えるが、まだまだ欠点があったと思う。この点は今後、1,2年会で明らかにし、来年度の為に役立てるべきであろう。来年の再考を期待したい。

11月5 – 8日 第8回早同交歓会(奈良)
今年の早同交歓会はDCCの担当の下で、奈良を中心に開催された。まず樫原に集合し、そこで1泊の後、班別のサイクリングを行い、赤目四十八滝へ。3日目は曇った空の下でタイムトライアル。1年の岸田君、3年の砂子さんの活躍で同志社勢を断然圧倒。4日目は寒風吹きすさぶ中を京都へ。その夜は祇園にてコンパ。このようにして今年も同志社との友好を深めた。

11月16日 ダンスパーティ(大手町サンケイホール)
大手町サンケイホールにおいて、我がWCCと青山学院女子短期大学華道部との共催のダンスパーティが行なわれた。演奏は早稲田大学ハイソサイエティオーケストラとザ・ワイルドキャッツ。当日ふだん滅多に着ることのないスーツを着こなしてさっそうと地下に集まった面々。大学内は授業料値上げ問題でストライキ中だというのに、何事か商学部地下はそらぞらしかった。

大手町サンケイホールに着いた我がクラブ諸氏はさっそく受付係、クローク係を中心に準備完了。この日会場はいっぱいになり、踊り場は、まるで、いもの洗い場のごとし。喫煙所もタバコの煙でもんもんとしていた。それにしてもどこでどうさばいたのかこの入場者!とにかく大盛況、大成功でした。1年がかりで、この日の為に頑張ってこられたダンスパーティ実行委員諸氏本当にごくろうさんでした。これで来年の会計も安泰とは2年生諸氏の意見。今後青山学院とのつきあいも続きそうだし、まずはめでたし、めでたし。

11月23日 1年生企画ラン(狭山湖1周)
1年生が初めて企画するランで、狭山湖畔のマラソンコースにもなっている全長70kmのコースであった。道路はデコボコあり、泥道あり、舗装ありの変化に富むものであった。ピクニック気分でのんびりと一日を過ごしたという感じであった。何かしら峠への郷愁を覚ゆるのだ。都内の排気ガスをのがれてやっと狭山湖畔に来たと思いきや、日曜日のせいもあってかマイカー族ばかり。あぁ、東京は全くサイクリングする所じゃないとつくづく感じる1日でした。

11月27日 – 28日 4年生追い出しラン(房総半島)
安田氏の企画による4年生追い出しランは今年初めての房総半島で行なわれた。4年生にとっては学生時代最後のクラブランで、4年生8名の出席の下で行なわれた。早大正門を出発し、川崎まで走り、川崎からフェリーにのり木更津につき、木更津まで走って来た平川他数名と合流した。木更津市内で昼食をとり、午後1時過ぎコースリーダー奥野氏の下に走り始めた。

この日のハイライトはマザー牧場だが、途中の国道はダンプカーが多く全く危険であった。マザー牧場への上りは、かなり急だが、完全アスファルトだったので意外と上りよかった。マザー牧場で乳牛とたわむれる中で1時間程休息の後、再び上り坂を上りきると急に眼下に広がる山々の連なりを見た。その向こうに映える夕日はほんとうにすばらしかった。この日は予定より2時間あまり遅れて民宿についたが、その変化に富むコースと景色のよさに満足した。その夜ミーティングの後、堺さんの田舎の北海道産の魚をつまみにして、4年生との別れをおしんで盃をかわした。

翌日28日はいつもの通り6時起床し、霜のおりた庭でトレーニングをやり、朝食後30分もしないうちに宿を後にした。この日も、清澄山頂の清澄寺、清澄山から見おろす房総の連山、その向こうにかすかに光る太平洋など清澄山からの眺望は全く美しいものでした。この清澄山をいっきに下り、太平洋に出て、太海まで走り、再び房総半島を横断するのだ。愛宕山、横根峠いずれも相当な上りで強烈なサイクリングでした。東京湾岸の保田に下ってきて、沿いの国道を北上し浜金谷駅前で解散。時にもうあたりは暗くなっていた。またもや2時間程遅れたのだ。コースリーダーの走り方及び企画双方に責任の一端があろうが、とにかく大きな事故もなく房総半島のよさを発見することができ、楽しい4年生追い出しランであった。4年生諸氏本当におつかれさまでした。

峠 – 三好達治

峠 三好達治

私は峠に坐ってゐた。

名もない小さなその峠は、まったく雑木と萱草(かやくさ)の繁みに覆ひかくされてゐた。
××ニ至ル2里半の道標も、やっと1本の煙草を喫ひをはつてから叢の中に見出されたほど。

私の目ざして行かうとする漁村の人々は、昔は毎朝この峠を越えて魚を売りに来たのだが
石油汽船が用ひられるやうになつてからは、海を越えてその販路がふりかへられてしまったと私は前の村で聞いた。
私はこの峠までひとりの人にも会はずに登ってしまった。

路はひどく荒れてゐた。それは、いつとはなしに雨に洗い流されて、野茨や薄の間にともすれば見失はね易く続いてゐた。
両側の林では野鳩が鳴いてゐた。

あさ空は晴れてゐた。遠く叢の切れた一方に明るく陽をうけて幾つかの草山が見え、
柔かなその曲線のたたたはる向ふに藍色に霞んだ「天城」が空を領してゐる。
私の空虚な心は、それらの小山を眺めてゐるとほどよい疲労を秋日和に慰められて、
ともすれば、ここからは見えない遠くの山裾の窪地とも、またはあの山なみの中腹のそのどこかとも
思へる方角に徴かな発動機船の爆音のやうなものを聞いたのだつたが、(それはしばらく続いてゐたらしいのだが、)

ふと訝(いぶ)かしく思へて耳を澄まして見ると、もう森閑として何のもの音も自聞えて来なかった。
時をり風が叢を騒がせて過ぎ、蜂の羽鳴りがその中を弓なりに消えていつてはまたどこからか帰って来た。
翼の白い燕が颯々と羽風を落していった。

編集後記 – 平川

編集後記

5月も下旬というのに、今晩は膚寒い。雨粒が屋根を激しくたたきつけている音のみが、静寂の中を伝わってくる。もう梅雨のはしりなのであろうか。時のたつのは早い。

5月当初を発行目標にしていたにもかかわらず、ここまで遅れてしまった。かえすがえすも残念である。校正の仕事もさることながら、原稿集めが大変であることを、今さらながら痛感する次第である。率先して早く提出して下さった現4年生、及び現2年生諸君に対し非常に申し訳なく思う。

第9号も前回にひき続き、140頁に及ぶ、クラブ誌としては非常に分厚いものになった。しかしながら、内容に関しては昨年とうって変わって、記録を中心としたものになった。「峠の詩」の作風も変えた。新たに写真も入れてみた。多分、以前と少し違った感想を抱かれることだろう。しかし、編集の方法は星先輩以来のものを踏襲したにすぎない、という点では全く進歩のない、かえって編集技術の未熟さのゆえに劣ったものになっているかもしれない。尚、広告集めには岡田君、校生や字数かぞえには稲垣君・小野君をはじめとする2年生諸君の援助を受けた。

第10号の担当は小野君になった。今回以上の援助がなされることを熱望してやまない。

最後に「峠」に対して暖かい援助をさしのべて下さった、高橋、日東、中村、藤田、サンノー、アルプスの各社に対して深く感謝いたします。
(平川)

発行早稲田大学サイクリングクラブ
1972年6月2日
峠第9号
編集責任者 平川

Editor’s Note

1971年の出来事。昭和46年。

第13回日本レコード大賞 1971年 また逢う日まで 尾崎紀世彦

1月。第一回ダボス会議が開催。
2月。アポロ14号が月面着陸。
3月。バングラデシュ独立宣言。
4月。仮面ライダー放送開始。
6月。沖縄返還協定に調印。
8月。アメリカが金とドルの交換停止(ニクソン・ショック)
10月。 中華人民共和国が国連加盟。

WCC夏合宿は、「 能登、中部山岳 : 金沢から – 松本まで」でした。

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こんにちは。WCC OB IT局藤原です。

第9代(1973年卒)社会派サイクリスト関口先輩による「東海道メチャクチャラン(東京-奈良)」が28ページの大作。文集「峠」の歴史の中で、これほどの分量はないでしょう。また名田先輩による、返還以前の沖縄を旅する「随想的沖縄日記」には、引き込まれました。

当時の文章をWEB化するにあたり、できるだけ当時の「雰囲気」を尊重するよう心掛けたつもりです。
文章と挿絵はPDF版より抜粋しました。レイアウト変更の都合で、半角英数字、漢数字表記等を変換していますが、全ての誤字脱字の責任は、編集担当の当方にあります。もし誤りありましたら、ご指摘をお願いします。

2025年2月、藤原

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