峠「21号」_2012_現役生から

忘れられない風景 – 石原

忘れられない風景 商学部1年 石原

高校1年の秋、僕はなんとなく遠いところに行ってみたくなった。1人で行くのもなんだか寂しいので
友達を1人誘った所、快諾してくれた。

それで何処に行こうかという事になったのだが、当時はまだロードバイクやランドナーなんてものは知らないから、もちろんママチャリで行く事になる。もちろん長距離の走行は無謀であった。
しかしそのことがよく分かっていなかった私は、中学の頃に見た大仏をもう1度見てみたかったので鎌倉に行こうと提案した。友達は賛同してくれた。こうして鎌倉への当てもない旅が決まったのだ。

当日はまだ日が昇る前から出発したのだが、持参した地図は東京23区までが掲載範囲だったため、東京を出てからはアクアラインの方やよく分からない工業地帯へ向かってしまったりして何処にいるのか分からなくなってしまった。だから道路標識に鎌倉と見えた時は本当に嬉しかった。
着いてから早速大仏を見に高徳院に行った。実は別段仏像に興味が有るわけではないので少し見ただけで満足してしまった。だが僕は苦労して来た分得た「達成感」に満足していた。

時は経ち大学に入学した僕は既にWCCに目をつけていた。もちろん中学、高校とやってきたバスケットボールも捨て難かったのだが、またあの「達成感」を手に入れてみたかったのだ。

そういうわけで早速1回目から新歓ランに参加をすることに決めた。ランは奥多摩から大月まで。普段行かない場所に行く事に興奮を覚えた。

新歓ランのためにランドナーを借りたのだが、当日駅に到着し組み立てて乗ってみるとドロップハンドルはなかなか運転がしづらい。ハンガーを買いに行く僅かな距離でさえ僕に恐怖を与えた。

ランの序盤は平坦な道が続き正に「爽やか」なサイクリングであった。奥多摩湖はさざなみが立つこともなく綺麗だった。

ところが中盤に差し掛かってくると険しい登り坂になり僕は息が上がってしまった。当日参加した他の1年生も苦しそうな様子だ。でも先輩方は笑顔で登っている。なんと写真を撮るために先頭の班から離脱し下ってくる先輩もいた。これにはたまげた。僕はこの先輩たちは苦しみを受けることを喜びとしているんじゃないかと思った。

ぜいぜい息を荒げながら道行く道を進み、だんだん頂上が近づいたことが自分でも分かる所まで来た。「あともう少しだよ!」先輩の声が響くが、僕は自転車から降りずに漕ぐのが精一杯で反応すら返せない。遂に松姫峠が見えた。僕はゴールが見えたことが嬉しくてその時はここぞとばかりに力を振り絞り、目的地にたどり着いたのであった。

登り切った直後は疲れてすぐ座り込んでしまったのだが、落ち着いてから周りを見渡してみるとそこは素晴らしい場所だった。人や車の往来は全くといっていいほど無い。目の前には遠くまで広がる悠然たる景色。大きく息を吸ってみる、気持ちいい。僕はまたあの「達成感」を得られた。

今は夏合宿も無事乗り越え、WCCの一員としてたくましく?成長し、たくさんの思い出はできたが、あの新観ランはやはり僕のWCCにおける思い出の1ページ目として色濃く刻まれているのだ。

自転車で行ってみたいところ – 梶谷

自転車で行ってみたいところ 社会科学部1年 梶谷

WCCに入って半年がたち、最初は自転車で峠を上ることがつらくて仕方なかったですが、部員の皆と一緒に自転車に乗っていると、だんだん峠を上ることが楽しくなってきました。
タイムトライアルで利用するヤビツ峠、前プラであまりのつらさに無口になった鶴見峠、夏合宿で最も印象的だった三国峠。他にも色んな峠を自転車で上りましたがどれも楽しかったです。体力が付いてきたのかなと感じました。ただダートに対する耐性は最後までつきませんでした。ダート克服がいまのところの目標です。

この「峠」のテーマは行ってみたいところ、または行って良かったところです。だいぶ峠に慣れた今、僕は全国の有名な峠に行ってみたいと思っています。
そこで色んな自転車雑誌を読んで有名な峠を調べみました。行ってみたいと感じた峠は沢山ありますが、その中でも特に行ってみたいと思った2つはかなりキツイ峠だと紹介されていました。その2つの峠は大阪と奈良の県境にある暗峠と長野県にある乗鞍です。

大阪~奈良間にある暗峠は酷道とも呼ばれ、雑誌の中では難易度MAXとなっていました。標高400mで距離は2.4kmと高さも距離も1見たいしたことはありませんが、斜度が尋常ではありません。
ゴールのだいたい500m手前までは勾配20%がえんえんと続くそうです。さらに驚くべきことに最大斜度は37%もあります。もし僕が自転車で上るとしたら何回足をつくことやら。道路自体も綺麗な路面ではなく、滑り止めのための溝があるためかなり上りにくいこと間違いなしです。

乗鞍では有名なヒルクライムレースが毎年開かれているようで、3,000もの人が毎年そのレースに参加するようです。そのコースは全長が20.5km、標高差1260mとかなりキツイです。
またコース中に森林限界を超えるため気温が低く、空気が薄いことも難易度を高める要因だと雑誌に書いてありました。自転車乗りにとって乗鞍は聖地扱いだそうです。

2つの峠ともかなりキツイ道であり、決して自転車で上るのに適しているとは言えませんが、WCC部員である僕にはとっても魅力的な峠です。合宿で行けたらなと思いましたが、中部合宿に僕の代では行かないので、長期休みに行ってみようと思います。

そもそもなぜつらい思いをしてまで峠に行きたいのか、僕自身はっきり理解していません。WCCの活動を通していつの間にか峠に行ってみたいという気持ちが出てきました。今まで峠をのぼったことで感じた達成感がこの気持ちを生み出したのか、はたまた僕のつらいと感じる感覚がマヒしたのか分かりませんが、この変化がWCCに染まってきた証拠なのかなと「峠」を書いていて感じました。

小仏峠 – 駒谷

小仏峠 文学部1年 駒谷

最も思い出深かった峠はと訊かれて、自分がこれまで訪れた数少ない峠の中から選ぶとするのなら、僕は真っ先に小仏峠を挙げるのではないかと思う。

あれは、どんよりとした曇り空のまだ午前中のことであった。僕は1年企画の下見で単身小仏峠を目指していた。高速の道路交通情報で常連の小仏トンネルを有する小仏峠は標高560m、高尾の西側に位置している。甲州街道を通る大垂水峠を迂回して、途中完全な登山道と化す小仏峠までの道のりを踏破しよう、というのが僕の企画の趣旨であった。

峠までの登山道は予想をはるかに上回る急傾斜で、自転車を押して歩くにはかなりの負担だった。ところどころに倒木があったり、ごつごつとした岩がむき出しの箇所、木の枠で段差状に組み上げられた部分など、時々は自転車でも進めるところがあるのではないか、という僕の甘い考えは、峠へ登り始めてから10分、流れ落ちる汗とともにどこかへ消え去ってしまっていた。登山道は真ん中がくぼんだような格好で、両側には壁のように土が積もっている。秋の初めの寂しげな木立の中を、這うようにして進む僕の荒い息遣いだけが、低く低く響いていた・・・。

そう、この道中には音がないのである。折しもこの日は日曜日で、登山中にハイキングの皆さんとすれ違ったりするのではないかと淡い期待を寄せていたのだが、これまた裏切られた。
人っ子1人見当たらない。そもそも登山道の入り口からして、幹線道路から随分離れた静かなところであったのだが、坂を上り始めてからというもの、車のエンジン音すら聞いていないのだ。
それだけではない、当然いると思っていた鳥たちのさえずりもまた聞こえてこない。ただ僕の荒い呼吸だけが、登山道に響いている。前に人影はなし、振り返っても人の気配はなし、見上げる空はどこか不吉な鉛色で、道の脇には「甲州道中」と消えかかった文字で彫られた小さな石碑が傾いていた。こ、これは・・・。

小仏峠の頂上には、廃墟と化した茶屋がある、という事前情報を無駄に入手していた僕は、ここで完全に肝を潰していた。しかもこの後、峠を越えて向かう予定であったのが廃墟・多摩テック、関東屈指の地下霊場・弁天洞窟と、これまた憎い組み合せ。

峠を登り切った少し先には、水子を祀った新興宗教の遺構があるとかないとか・・・。考えたくもない情報ばかりが、ぐるぐる頭を駆け巡り、何が楽しいのやら1人でにやにや笑い、それでも心は恐怖におののきながら、重い自転車を押しに押して、僕は急な登山道をひたすら登るしかなかった。

そして遂に峠を登りきると、なんということであろう、これまでの閑散っぷりがまるで嘘であったかのように、頂上の広場ではハイキングの人々が休息を取っていた。自転車にヘルメットという異様な僕の格好をじろじろ見られ、多少恥ずかしい思いもしながら下りへ向かうと、ここも同様、登りよりさらに道幅は狭くなったものの、逆から来る登山の方々と猛烈な勢いですれ違い、なんだかうれしくて、訳もなく挨拶してみたりして、人と一緒にいることの暖かさを知ることになるのである。

そうして下りの道中も自転車を押して進んでいったのだが、しばらく行くと舗装路に差し掛かった。どうやらここから都道に復帰するらしい。ここからの傾斜はしばらく続いたのだけれど、この下り道が、
最高によかった。空もいつの間にか青空をのぞかせ、押して下ったのでは比べ物にならないあのスピード、レンガのアーチ、高い高い高速の橋の下を駆け下って、畑の脇をすり抜けていく。

そう、まさに絵にかいたような、ハッピー・エンドだったのだ。

鶴見峠 – 鈴木(勇)

鶴見峠 人間科学部1年 鈴木(勇)

私には思い出の峠があります。その思い出の峠の名前は、鶴見峠です。鶴見峠は北海道の阿寒湖の近くにあります。私は1年生です。そのため、北海道での夏合宿が初めての長期合宿でした。思い出の北海道の夏合宿の前プラで行った思い出の峠です。

夏合宿の前には前プラがあります。私は、あまり話したことの無い先輩に連れていっていただきました。話したことが無いと行っても、特別な理由があってのことではありません。
たんに、私自身僻地に通っているので部室にあまり行かないためです。部室に行った回数が数えられるくらいの私は、もとより話したっていうほど話したことがある先輩は少ないのです。

前プラに連れていってもらう以前から、いろいろとすごい先輩だということは同期から聞いていました。通り名は神です。その凄さは押してはかるべきでしょう。私がいった前プラは普通と違いました。
前プラは、夏合宿のクラブランの下見をするものです。しかし、師匠である神は1人で下見を終わりにして、オリジナルルートを前プラとして企画してくれました。前プラは全部で5日間でした。「同じルートじゃつまらないでしょ?」だそうです。かっこいい。先輩になったらしたいことがまた1つ増えました。

鶴見峠はその前プラの2日目の昼頃に上った峠です。前日までの集合日と一日目は雨が降りそうな曇り空で、寒いくらいでした。しかし、この峠を登るときだけは狙ったかのように快晴でした。このせいで、この峠の攻略は大変厳しいものになりました。そうはいっても、そのおかげでこの峠が思い出の峠となったわけです。

この峠のつらい所は4つあります。1つ目のつらい所は、日光を遮る木陰が少ないことです。ちょうどお昼頃だったため日陰がほとんどありませんでした。2つ目のつらい所は、わだち以外の部分が深い砂利になっていることです。キツい上り坂でも蛇行運転できませんでした。
3つ目のつらい所は、普通車がギリギリ通れるような道にも関わらず、ばんばん車がくることです。このせいで、1度立ったら再び漕ぎ出すのが大変なのに、車が来たらわだちを出て深い砂利に入らなくてはならないのです。しかも、車の人はニヤニヤしてました。ニヤニヤしてる車の運転手は決まって必要以上にゆっくり追い抜きます。「正気の沙汰じゃねえなぁ」といわんばかりに。

4つ目のつらい所は、やる気が失せるところです。なぜなら、その峠の上り坂はずーっとまっすぐでした。どのくらいまっすぐが続くかというと、ずーっと遠くに見える場所で道ばたの平行線が1点にぶつかって見えるほどです。「このつらい坂があんな所まで・・・・・・」。やっぱり、何度か曲がりつつ上っていける峠の方が精神衛生的にずいぶん楽です。以上の4つの点でこの峠は壊れ性能でした。この峠で初めて、いわゆる死んだという状態になりました。

そんな峠もいい思い出になり得たのは、峠の景色がすばらしかったのと達成感が半端無かったことでしょう。いやー、いい峠だった。

雲間に見えた絶景 – 角

雲間に見えた絶景 文化構想学部1年 角

私はWCCに入ってからまだ短い間しかたっていないが、今迄に登った峠の中で印象深いものは「白樺峠」である。北海道合宿で雲の中を走りぬけ、展望台および頂上からの風景は今でも色鮮やかに思い出せる。また、頂上がひらけており登りきった感じが良かった。ほかにも合宿も半分終わり節目の日でもあったのでそういった精神的な面もあり、もっとも思い出深いものとなっている。

そもそも私はWCCに旅というか観光目的で加入した。ゆえに、ヤビツ峠のようなあまり景色の変わらない山の中を走るよりも、登っている最中もきれいな景色がみられるところの方が好きだ。同じ登るのでもやはり視覚的に面白みのある方が過程も楽しめるのが良い。だから、道中はずっと山の中で頂上が木々に囲まれているところだと、登りきっても達成感や壮快感は少ない。

そういう面では白樺峠は天候のおかげもありとても魅力的だった。最初の方の森の中は霧で見えなかったがその不安定さゆえにドキドキさせられ、霧の中を抜けた後は雲の上にちょこんとでた山が幻想的だった。頂上は着いたらすぐに鋭角に下っていたので、ここがてっぺんなのが自覚できるとともに、パノラマがきいており開放感を感じることができた。白樺の白さが周りの緑と蒼に映えきれいであった。周りに高い峠が存在せず車もほとんど来ないので、その光景を独占できている感じもよかった。

そして、より印象深くしているのが合宿の中盤であったということだ。日帰りや序盤であったら、お手軽感が出て微妙な感じがしてしまう。その点このころになると、疲れが出てくるとともに走ることに対して大分慣れが生じてくる。達成感を感じやすくなる一方で、周りの風景を楽しむ余裕が出てくることによって、より一層充実感を得ることができる。

やはり、同じ峠でもそれに対してどのような体験をしたのかが重要だ。霧の中という困難をくぐり抜けた後に、雲間に見える景色はこの合宿を示しているように感じられた。ここまで天候にも恵まれず、雨の中を走ることも多かったからこそ、こういった演出は趣がよかった。感情の面でまだゆとりがあるが肉体に疲労がたまっているこの時点だからこそ、魅力的に映ったのだろう。

いろいろと気に入った理由を挙げていったが、やはり第一印象が良かったからだろう。こういうのは理屈抜きで心で感じるものだと信じている。雲を抜け展望台についたときは思わず自転車を止めて見惚れるような景色であったし、頂上に着いた時は思わずガッツポーズをした。
感情から発露した行動が出るようなそのような峠だったからこそ、1番の峠に位置付けた。この感動をもう1度味わえるような峠を探して、旅を続けていきたい。

好きな峠について – 塚田

好きな峠について 政治経済学部1年 塚田

4月の終わりの新歓ランで私は、生まれて初めて、スポーツ用の自転車というものを輪行し、千葉で日帰りツーリングという形で、比較的長い距離を走った。そして、今にいたるまで、WCCの活動や個人的なランにおいて数多くの峠に上ってきた。今思うと、それぞれの峠にはそれぞれの魅力があり、私自身は上ってきた峠は全て思い出として残っているが、やはり1番好きな峠と言われると、ヤビツ峠を挙げる。

6月頃に初めてタイムトライアルとしてヤビツ峠を上ったときは、走り出して、すぐに体力に限界が来てしまい、苦しみに耐えながら、休み休み上ったのを良く覚えている。
結果は1時間以上もかかってしまい、順位が私より1つ上の人との間に10分以上の差があった。それ以来ヤビツ峠はただ長くゆるい坂ゆえの退屈さとつらさだけがある峠という悪いイメージしかなく、嫌いな峠の1つであった。しかし夏合宿を終え、自分ひとりでヤビツ峠を上ってみると、6月のときの自分とはまるで別人であり、35分弱で走れた。そして秋のヤビツ峠のタイムトライアルでは、6月の記録から約30分縮めることができた。私は記録が縮まったことが何よりも嬉しかった。

また、夏合宿においてひたすらペダルをこぎ続けることによって、ゴールへとたどり着く喜びを知った私は、また、ここで強くこげばこぐほど、タイムがどんどん縮まっていく喜びも知った。

ヤビツ峠は、ゆるい坂が延々と続く。しかしそれは決して退屈なものではない。周りは自然に囲まれ、走っていて気持ちがいい。そして何よりも、究極的な自分との戦いの中で、自分に勝ち、最後までペダルをこぐのを諦めずに走り続けた結果、茶色の「ヤビツ峠」の看板を目の前にしたときの達成感はたまらない。

このような魅力に取り付かれている私は、また今週末にヤビツ峠に行こうかと考えている。こぎ続けることによって出会えるつらさの先にある喜びをまた味わうために。そしてさらに速くこげるようになるために。

函峠 – 服部

函岳 教育学部1年 服部

野を越え山を越え、時には海の向こうをも目指す早稲田大学サイクリングクラブに入ってからもう半年が過ぎた。人間の感覚では充実した時間ほどあっという間に過ぎていくものらしく、気が付いたら2012年も残すところあと10週間となってしまった。
過ぎ去った旅の記憶を風化させないためにも、今ここできちんと半年分の活動を振り返り、その中でも特に印象的な出来事や景色を「思い出」として昇華させたいと思う。

そもそも私は入学当初からサイクリングクラブに入ろうと思っていたわけではない。興味があったのはむしろ「旅」や「探検」であり、要はどこか遠くへ出かけることができればそれで良かったのだ。だから他の、例えば登山部やワンダーフォーゲル、探検部のようなサークルに入る選択肢だって当然あった。それではなぜ数多のアウトドア系サークルの中からサイクリングクラブを選んだのかというと、これには父の趣味が大きく影響している。
私の父は学生時代からずっと、バイクでのツーリングが大好きで、私が生まれてからも休みの日にはいろいろな場所へ連れて行ってくれた。そんな幼い頃の体験が知らず知らずのうちに私をして2輪車へと向かわせたのだろう。血は争えないとはまさにこのことである。

「どうせするなら人に語りたくなる旅をしろ」
と以前父に言われたことがある。この言葉が本当に父のオリジナルかどうかは甚だ疑わしいのだが、それはともかく私はこのフレーズを大変気に入っており、特に夏合宿では改めてその意味を実感した。では私が人に語りたいものは何かと問われれば、それは北海道合宿10日目に挑んだ加須美峠からの函岳とその景色ということになる。

標高1,129mの函岳の頂上に至る道は途中から険しい砂利道になっており、ただでさえ頼りない私の足腰はガクガク、肩はガチガチ、頭はフラフラ、意識朦朧、息も絶え絶えに、どうにかペダルを回していた。今思えばもっと周りの景観を楽しみながら登れたら良かったのだが、あいにくこの時はそんな余裕はどこにもなかった。永遠に続くかと思われた北の大地の林道。

しかしそんな苦しみを一瞬で吹き飛ばすほど素晴らしい光景が頂上で私たちを待ち受けていた。見晴らしは良好で、大自然の爽快な絶景はまさに圧巻というしかない。目に映るのは青空と広大な海と鮮やかな林、そして彼方にそびえる山々の稜線のみ。青と緑の美しいコントラストにひんやりした風が加わり、清々しいことこの上ない。北海道に来て本当に良かったと心から思わせてくれる、そんな眺めであった。

合宿を終えて地元に帰ってきた後も何度か自転車に乗って出かける機会はあったのだが、どれひとつ、この日ほどに面白くはなかった。いったいなぜなのか、考えてみようかとおもったが、答えは簡単だ。私はあの時自分の全力をヒルクライムに投じていた。だから面白かったのだ。旅が面白いものであるためにはそのとき自分がもてる全力を注がなければならない。

私は今もたいして強い脚をもってはいないし、ヤビツ峠でのタイムトライアルの順位は下から数えた方が楽なくらいだが、それでもWCCのランにはこれからも参加し続けたいと思っている。坂を登るときはヘトヘトなのに、終わったあとにはこんなに前向きな気持ちになれるのだから自転車というのは、まことに不思議なものである。

はじまりの地・『松姫峠』- 早野

はじまりの地・『松姫峠』 法学部1年 早野

今回50周年を記念する冊子『峠』を構成する1部分になれたことを光栄に思う。私は高校まで野球漬けの毎日で、自転車の魅力・泥臭い旅の魅力なんて考えたこともなければ、自転車で峠を上りきった時のあの感覚、興奮を知る由もなかった。そんな私がこのクラブに出会ったのは、新歓期。高校の同級生の誘いに乗ってついていった先にあったのがWCCだ。最初は付き合い半分だった。しかし、初めての新歓ランを経験して、私の考えは大きく変わった。

始めのうちはワクワク・ドキドキしていた。初めての輪行、初めてのスポーツ自転車、そして初めて見る景色。全てが新鮮で、ペダルを一漕ぎした時の感覚は、新入生の自分からしたらまさしく、新たな環境に自分を投じるために、1歩足を踏み出したときのあの緊張感・高揚感と同じものに感じられた。しかしそのワクワクは長くは続かなかった。

自転車に乗り続けるというのは、自分で何か目的や目標物を見つけたりしないと案外退屈なものだ。元来飽きっぽい性格である私は、興奮が覚めてしまうとランをどう楽しんだらよいかがわからなかった。どこまで行っても周りには木々と道しかない。
誘ってくれた山口も他の班で、わずかな休憩中くらいしか話せない。正直、選択を間違えてしまったのかもしれない、という後悔がチラッと頭をよぎった。せっかくの日曜日を丸々棒に振ってしまったのかもしれない、と。

しかも段々と道は上へ上へと続いている。ああ、この人達は何が楽しくてこんなことをしているのだろう。ゲームでも、読書でも、買い物でもなんでもできる時間とお金を犠牲にして・・・この坂道はあとどれくらい続くんだろう?早く家に帰りたいな・・・。

そんな時だった。上っていた道の先が緩やかに空の向こうへ消えている。バス停の看板が見えた。忘れもしない、その長い長い上り坂の名は「松姫峠」だった。それを見た瞬間何故だか、それまでの考えが嘘のように私の気持ちは一気に晴れやかになってしまった。ああ、やった、と。

そんなこんなで私はWCCで初めて自転車に乗って峠の頂に立つという経験をしたわけだ。そして私はようやく、何故自転車で峠を越すという単純なことが、これほど漢たちを惹きつけ、50年という長い歴史となって積み重なってきたのかを知った。苦しめば苦しむほど、足掻くほど、藻掻くほど、強く掴みとれるその言い表しがたい感情と景色は何にも代えられず、美化された思い出とともに自分の一部となってこれからの自分を形作っていくのだ。

あれから半年が過ぎた。それこそ自転車にでも乗ったかのように、この半年はこれまでの人生の中で1番早く過ぎ去っていった。そしてこの半年の間に、私には皇帝の名を冠す相棒と、仲間と呼べる存在ができた。峠を超えたときのあの昂ぶる感情と、とりわけ大きな感動を与えてくれる景色と、寝食を共にした仲間たち、そして思い出。
WCCで得られたものはあまりにも大きい。そしてそれらは全て、あの日松姫峠を上っていなかったら得られなかったものだ。あの時の私はまだ坂を楽しめていなかったからか、松姫峠がどんな風であったかはよく覚えていない。

だから、3年後、このクラブを引退の時に、また上ってみようと思う。とても長く感じられたあの道が、今度はどれだけ短く感じられるだろう。今から楽しみで楽しみで仕方がない。

樹海を越える峠道 – 平賀

樹海を越える峠道 先進理工学部1年 平賀

私は、夏合宿の舞台となった北海道のツーリングマップルを購入し、巻末に掲載されている多くの写真を眺めていた。その中に、扱いが小さいながらも一際私の目を引く1枚があった。立派に整備された橋がなんと樹海の上を通っていたのだ。道内最高所の峠と名高い三国峠の写真であった。

樹海の上の橋。なぜかはわからないが、その風景は私のテンションを一気に高めるものだった。行ってみたい、生の三国峠の風景をこの目に焼き付けたいという欲求が沸きあがってきた。

そして迎えた夏合宿コース発表の日。三国峠に限らず、日常から遠く離れた北の大地のどこを見て回れるのかドキドキワクワクであった。かつて家族旅行で通った日勝峠を始めとした様々な峠・ダートが明らかにされていく中、それは8日目にやってきた。その日の行程は「糠平~三国峠~銀泉台~層雲峡」といったもの。彼の地を自転車で訪れることになった。

それから約1ヶ月後の夏合宿8日目。まだ夜が明けないうちに一行は視界のおぼつかない山間ルートを北上し、旧士幌線の史跡を巡りつつ三国峠を目指す。だんだんとアップも佳境に差し掛かり、山間から朝日が顔をのぞかせ始めたころ、ついにあの光景が目に入ってきた。

上り坂の国道に架かった500m以上はあるとみえる橋。それが延々と樹海の上を通っていた。その後も2、3個の短めの橋が続いている。早朝で車も少なく、こぎながら風景に没頭することができた。さらに、視線を横に向けると、今まさに昇ってきた朝日が雲の切れ間から見え隠れしていた。ツーリングマップルで見てからずっと楽しみにしていた光景を目の当たりにし、自転車をこぐ足にも力が入った。

峠の頂上にはパーキングエリアがあり、WCC恒例の集合写真にうってつけの三国峠と書かれた看板があった。そこからだと残念ながら橋はよく見えなかったが、延々と広がる樹海を見渡すことができた。大満足の風景である。

私は峠を上りながらも風景を楽しめる場所に心惹かれるのだと思う。今後もそのような場所を見つけ出し、踏破していきたいと思う。

天下の険、箱根 – 山口

天下の険、箱根 法学部1年 山口

「箱根8里」
箱根の山は天下の険函谷関(かんこくかん)も物ならず
万丈(ばんじょう)の山 千仞(せんじん)の谷
前に聳(そび)え後(しりえ)に支(さそ)う
雲は山をめぐり
霧は谷をとざす
昼猶(なお)闇(くら)き杉の並木
羊腸(ようちょう)の小径(しょうけい)は苔(こけ)滑(なめら)か

一夫関(いっぷかん)に当るや万夫(ばんぷ)も開くなし
天下に旅する剛毅(ごうき)の武士(もののふ)
大刀(だいとう)腰に足駄(あしだ)がけ
八里の岩ね踏み鳴らす
斯(か)くこそありしか往時(おうじ)の武士(もののふ)

その昔、東海道の中で、そのあまりの険しさから「天下の険」と謳われた箱根。難所の箱根峠の麓には、箱根の関所(箱根関)、宿屋が置かれていた。今でもその険しさは変わらず、芦ノ湖、温泉街、等の観光地も多いことから、週末は大変賑わう。箱根駅伝は特に有名であろう。箱根はいままでに数々の名シーンやドラマを生んできた。

自分は神奈川県横浜市在住である。国道1号線に面したところに住んでおり、正月は1号線まで降りて行って箱根駅伝をよく見にいったものだ。そういうこともあって、駅伝、箱根という言葉はとても身近なもののように感じていた。
時は過ぎて、大学に入り、WCCに入り、思い始めたことは、自分の自転車で箱根に行ってみたい、ということであった。夏合宿を終え、涼しくなり始めた10月。WCCではこの時期に、1年生による初めての個人企画である、1年企画が行われる。

1年生がそれぞれ自分で走りたい場所、コースを考え、ランを企画し、部員全員の中でプレゼンをして、投票で決定される、というものだ。自分は迷うことなく箱根を選んだ。箱根に行ける絶好の機会であった。自分が企画したコースは、平塚駅より出発し、箱根までは1号線、海岸線を走る。
箱根からは1号線ではなく、旧道に入り芦ノ湖へ、その後芦ノ湖を左手に臨みながら北上、長尾峠を経て御殿場へと下る。コースを考えているときは、本当に胸の高まりが止まらなくて、投票とかプレゼンのことなんて忘れていたように思える。

ランの企画者は、全員コースの下見が義務づけられている。もちろん1人でいくわけだが、ふと、いままでのことを思い返してみると、1人で峠に行くというのはいままで無かったことに気づいた。WCCに入部して以来、いろいろな場所、峠に行ったが、いつもそこには、部員達がいた。プライベートで峠に行くときも、部員を誘っていっていた。だが、今回は違う。下見当日、フロントバックに必要なものを詰め、高鳴る気持ちを抑えつつ、準備運動をして、早朝に自宅を出発。

自宅から箱根までは約54km、途中バイパスを避けつつ、1号線をひたすら小田原方面へ。スタート地である平塚を過ぎたあたりから、左手に相模湾が広がる。小田原に着くと、ついに標識に箱根という表示がされる。自然とペダルの回転が速くなっているのを感じた。しばらく走ると、建物は減っていき眼前に山が広がってくる。ついに箱根である。

箱根旧道の入り口である、三枚橋へ到着。一呼吸おいて、ペダルを漕ぎ出す。いざ、箱根に挑戦である。最初は温泉街、旅館が続く、そこを抜けるといよいよ峠らしくなってくる。旅館の通りを抜けて最初のカーブを抜けたとき、息を呑んだ。
森の木の間から漏れる日差しが道を照らし、上のほうにはもう1つの道が見える。眼前に広がる光景に、自然と顔がにやけてしまった。楽しい時間というものは本当に一瞬で、あっという間、神社前の激坂、七曲り、茶屋を過ぎて芦ノ湖まで来てしまった。心が満たされたような心地がした。いままで自転車に乗った中でも感じたことの無い感情であった。

天下に旅する剛毅(ごうき)の武士(もののふ)
大刀(だいとう)腰に足駄(あしだ)がけ
八里の岩ね踏み鳴らす
斯(か)くこそありしか往時(おうじ)の武士(もののふ)

この日はまさに、大刀は自転車、武士は自分であったろう。箱根はとても素晴らしいところである。

峠 – 岩熊

峠 文化構想学部2年 岩熊

私はWCCに入って初めてサイクリングを始めたので、私のサイクリング歴は1年半もないようなものだが、それでも数多くの峠に出会い、強烈な体験をすることができた。

今回、「今までで印象に残っている峠・挑戦してみたい峠」をテーマに書くにあたって、どの峠を選ぼうか迷ったが、挑戦してみたい峠に「しらびそ峠・乗鞍岳」を、今までで印象に残っている峠に「函岳」を取り上げたい。

しらびそ峠(長野)、乗鞍岳(北アルプス)は2011年の夏合宿の下見時にすでに登ってはいる。だが、それでもまた再挑戦したい理由は2つある。

1つは、両方とも前プラで登り切った時は霧がかかっていて、次いで本合宿の時は道路事情などにより断念し、結局完走する思いができなかったからだ。

峠での景色を見ることは叶わなかったが、その途中で目にした景色の美しさは素晴らしかった。ネットの写真で峠を見ることはできるが、やはりまた再度挑戦して峠から景色を見下ろしてみたいと思っている。

もう1つは、以前はつらいと感じていたあの坂を、経験を積んできた今の自分でまた試してみたいという思いからである。前プラで登ったとき、当時の私は体力が無く、ついていくので精一杯だった。

確かどちらとも、そこを登るのにかなりの時間を費やしてしまった気がする。だが、そのデータを見てみてもそれほどきついものだとは思えない。醜態をさらしてしまったあの時にリベンジしてみたい。

今まで印象に残っている峠をあげるとすれば(厳密には峠ではないが)、函岳(北海道)が私のなかでは1番だ。そこは360度の大パノラマで、見渡す限り高原と山と空が広がっている。「北海道の大自然に囲まれている」ということを強烈に実感した場所だった。

しかし、私にとって函岳が特別な存在になったのは、ここを登る前に行くべきかどうか、私たちに葛藤があったからでもある。函岳は距離も傾斜もそこそこにあるダート道で、ダートで怪我人を出してしまったため登るには躊躇いがあった。危機意識があったからか無事に降りることができたが、あの時、集団ツーリングの安全管理の重要性を強く認識させられた。

峠はサイクリストにとって有意義な場所であると思う。「ここまで来た」「ここまでやった」と実感させてくれるから。実感させてくれる高見の景色が、空気が、そこにある。

これから登る峠でどんな光景に出会えるか、私はそんな期待を胸に、ペダルを踏む。

北海道合宿前プラ男1人旅 – 加地

北海道合宿前プラ男1人旅 商学部2年 加地

私はこのWCCに入部して以降、実に様々な場所、峠を走ってきました。そんな中でも特に思い出に残っているのは、私にとって初めての前プラとなる今年の夏合宿での前プラでした。

8月上旬某日、私は北海道、函館へ飛びました。初めての自由に気ままに好きな場所を走れる前プラを目前に、非常にワクワクしていたのを覚えています。また北海道は8月にもかかわらず大変涼しく日中は非常に走りやすかったのも印象的です。ただ夜になるとかなり冷え込み、前プラはもちろん本合宿でも寒さで眠れないことが多々ありました。

到着後は五稜郭を観光し、国道5号を北上し大沼公園へ。当初はここでテントを張る予定でしたが、時間的にもう少し余裕があったので更に森まで北上。道の駅で一日目を終了しました。

2日目もひたすら海沿いに国道5号を北上。本格的に海が見えるようになるとより寒さに拍車がかかり震えながら走りました。この日は180キロという長距離を走り抜け室蘭の道の駅で1泊。

3日目はひとまず登別へ向かい、そこからオロフレ峠を通り洞爺湖へ。洞爺湖沿いを走っている際になぜか梟(ふくろう)が道路で寝ていて、危うく轢きそうになりました。そして羊蹄山を横に望みながら
京極へ向かいましたが、午前中のオロフレ峠でがっつり体力を使ったため、この間のアップは死ぬほど辛かったです。

4日目の午前中は毛無峠を経て小樽へ、午後からは再び海沿いを走り札幌に歩みを進めました。北海道を代表する2大観光地を巡る休息日的な位置づけでした。

5日目は1週間に及ぶ前プラの中で最も印象的な日でした。まずは岩見沢へ。途中で何故か自殺が後を絶えないという高砂駅が在ったので、付近を通る際はちょっとびくびくしていました。
その後は芦別方向へ向かいましたが、本来は通行止めのダートを走る予定でした。しかしこのダートは通行止めの為、当然人は居らず、非常にひっそりとしており、熊が出てこないか、人ならざるモノが出てこないかと臆病風に吹かれ進路を反転。チキン過ぎますね。

芦別からは10キロに及ぶ別のダートを抜け千望峠へ。ここは一応通行止めではありませんが、交通量は皆無。しかも狐がわんさかいて、いつ熊と遭遇してもおかしくないような場所でした。しかも、傾きかけた日が私に心理的プレッシャーをかけていました。

しかし、恐怖はここからです。漸く峠を登りそこにあったものは・・・注連縄つきのお墓が1個ぼつーん・・・しかも進入禁止ロープの内側に。更に奇怪だったのは、そのすぐそばにテントが設営されていたのです。
日がほとんど暮れていたことも相まって、私のビビリバロメータはメーターを振り切り、「ここは色々ヤヴァい!」と思い、上下をするのも忘れ、ダッシュで上富良野まで下りました。今のところ私の日常に異変はありません。

6日目は美瑛の方へ。合宿のコースではダートがふんだんに盛り込まれていたため付近のダートをひたすら走りまくっていました。

そして迎えました前プラ最終日。この日は旭川峠を往復して旭川へ向かうのですが、なんとこの旭川峠は全長20キロのダート峠です。

それを往復ですから計40キロ。合宿前にダート耐性をつけようという目論見です。しかしその下りの途中でどこかで見覚えのある2人組が・・・そう、同じく旭川を目指していたT村さん&H野班に偶然にも遭遇。元々往復する予定でしたので一緒に随行させて頂きました。

1週間に及ぶ前プラは自由で非常に楽しかったのですが、その反面1人ではつまらなく、苦しい場面も多々ありました。やはり人と喋れないのは辛いですね。そんな意味でも、この前プラはWCCの集団サイクリングの魅力を再発見させてくれるランでもありました。

自転車 – 木村

自転車 人間科学部2年 木村

今回、現役部員が執筆するテーマは「峠」についてである。その中で、私にとって特に印象深い峠が2つある。

1つ目は、私が初めてランドナーに乗り、上った場所である「ヤビツ峠」である。ここには新歓ランで行ったのだが、震災の影響で、このときはまだ学校が始まっていなかったと記憶している。私は大学に入ったら自転車に乗りたいと考えていた。なぜこんなマイナースポーツを選んだのか。自転車は今までやってきた球技のような集団スポーツとは違い、好きな時に1人でも楽しめて、競技寿命が長く、いつまでも続けられるものだからだと思う。話がそれてしまったが、早稲田大学でしっかり自転車に乗れるのはWCCなのではないかと思い、新歓に参加した。

秦野駅に集合したときは、全く未知の体験に緊張していた。それでも、実際に走り始めると初めてのスポーツ自転車の感覚が新鮮で、ただ街中を走るだけでも面白かった。名古木に着き、いよいよ上りが始まる。事前に坂を上るということは聞いていたが、ギアもついているし、たいしたことはないだろうと思っていた。ところが、バス停に着くころには足がプルプルしていた。自転車とは楽に移動するために生まれたものではないのか。気を取り直して、再出発。展望台を目指す。慣れないドロップハンドルで立ちこぎが難しかった気がする。

この日はとても晴れていて、展望台からの眺めは最高だった。このクラブにいればこんな体験がもっとできるのかと期待が膨らんだ。そんなこんなで頂上に到着。このとき参加していた1年生は自分を含めて3人いた。自販機の前で、「みんなここ入るっしよ?頑張って行こうぜ!」なんて話していたが、今となってはそのメンバーはやめてしまった。そんなことは置いといて、やはり自分の足で上ってきたという達成感はとても大きかった。車や電車で移動するのは簡単だが、自分の力だけでいろいろな場所に行けるというのはとても魅力的だなと感じた。他にも、いくつかの新歓ランに参加したのだが、あまり憶えていない。とにかくこのランでWCCに入部しようと決めた。

2つ目は1年生の時の前プラで行った「しらびそ峠」である。自転車に乗るなら当然ランドナーと思い、当時ランドナー最安値であるアラヤ・フェデラルを手に入れ、とても楽しみであった夏である。
この前プラについては色々書きたいことがあるのだが、長くなってしまうので、また別の機会に。

本題に入ると、このしらびそ峠は絶望的にきつかった思い出がある。とにかく斜度がすさまじいのである。何発で上ったかは忘れたが、サイクルコンピュータの平均速度は時速4kmぐらいだったんじゃないかと思う。それでも何とか上り切り、頂上のお店でそばをおごってもらった。
しらびそ峠の看板?もしくは石碑を撮り、もう2度と来ない。と心に誓った。その願いが通じたのか、本合宿ではコースカットによりなくなった。しかし、最近になって、そんなにきつかったのか。思い出補正により、厳しいところに行ったと思い込んでいるだけなのではないか。と考えるようになってしまった。

その時はまだ自転車に乗り始めて、3カ月程度であったため、ただの経験不足だったということも10分ありうる。これはもう1度行って確かめるしかないのか。自分も前プラに1年生を連れて行くときには、これほど強烈な体験をさせなければならない。

この文章を書くにあたって、様々な峠を思いかえしてみたのだが、不思議と楽しいはずの下りの記憶があまりない。結局後に残るものは達成感なのだとしみじみ感じる。確かに爽やかサイクリングも楽しいが、せっかく何かに打ち込むのなら引退したときにこそ、やってよかったと思える経験がしたい。そう思えることを期待して、これからも自転車で峠に上って行きたい。

峠 – 宮崎

峠 法学部2年 宮崎

これまで行ってよかった峠は特にないです。正確にいえば記憶が曖昧であまり覚えていません。たいてい峠に着くまでの間に死にそうになり、気がつくと峠を下っていたり、合宿が終わっていたりします。そう、はじめから峠なんてなかったかのように僕はランをこなしていたと言っても過言ではありません。

ではなぜ僕は峠に登るのでしょうか?
答えは下りです。下りがあるからこそ僕は自転車にまたがり峠に登るのです。僕の体感で峠は登り20%の下り80%で構成されています。基本的にプラスマイナス0にならなきゃおかしいんですけどね。

僕にとって自転車で峠を登っている時間は決して楽しいものではありません。最初はいいのですがどんどん辛くなってきます。あとひとこぎで下り、あとひとこぎで下りと心のなかで念じ自分で自分を勇気づけます。そしてそれが長く続くと、はっと意識が飛びます。
僕はほんとに疲れていると休憩時間に寝てしまうので、休んでいるあいだの記憶もありません。もちろん峠の上でも休憩するわけなのでなにも覚えていません。

先ほど僕は下りのために峠に登ると書きましたが、まさしくそのとおりで、峠に下りなかったら僕は自転車に乗っていなかったでしよう。

僕は峠にいるあたりではあまり記憶がありません。しかし下っているとだんだん意識がはっきりしてくるのです(意識がはっきりしないことも多々ありましたが・・・)。
実際にかかっている時間から考えれば下りにかかる時間よりも上りに登りにかかる時間の方がはるかに長いはずです。それにもかかわらず記憶として僕の頭に残っている時間は圧倒的に登りに比べて下りのほうが長く様々なことが思い出されるのです。あのスピード感といいますか、疾走感といいますか、とにかく全身に風を受けるのが好きです。夏は涼しいですしね。春は涼しいどころか寒すぎて握力がなくなりブレーキがかけられなくなりましたが、それでも下りは好きです。

それでも、ひとつだけ覚えている峠があります。あれは1年生の時の夏合宿のことでした。夏合宿の記憶はほとんどないのですが、おそらく合宿全体の真ん中らへんに行った峠だったと思います。記憶があまりないのでどのようにその峠に行ったとか、その峠の名前とかも覚えてないです。
実際にその峠にいた時の記憶がないため、その時に何をしていたかとかは覚えていませんが、なぜか僕はデジカメで何枚か写真を撮っていました。その写真のおかげでイメージが補強できたから覚えているのかもしれませんが、いままで行ったことのある峠の中では1番覚えていると思います。この峠はきれいな切通でなんとなく涼しかった気がします。全体的にコケが生えていて緑色がきれいでした。下は泥でぐちゃぐちゃしていましたし、よくわからない地蔵があったようなきがしますが。切通でしたので景色がどうこうということはなかったのですが、その切通がきれいでした。

50周年記念原稿 – 石井

50周年記念原稿 教育学部3年 石井

自転車乗りには、自転車に乗った距離や時間に比例して、思い出にのこる場所や景色や人との出会いがあるのだと思う。

大隈講堂前でWCCのブースを見つけ、新歓ランから潜り込み、灼熱の中国合宿を経て、春休みにはニュージーランドへ。後輩ができると大雨の中のランを経験し、2度目の夏合宿を終えると、お世話になった4年生を追い出し、春の前プラで海外の味をしめて韓国に行っていたら、3年になっていて夏合宿などあっという間に終わっていた。
3年間で10,000キロを少し超す程度の走行距離であった。行きつけの自転車屋さんには「結局3年間ずっと自転車に乗っていたね」と言われたが、自転車を選んでよかったと思っている。

自転車で走ると世界は狭いようで広い。そしていろんなところにいろんな人が住んでいるという、とても当たり前のことを実感する。私たちが自転車で通り過ぎる一瞬の景色の中に、その土地で暮らしている人たちが入り込んでくるような感覚がとても好きだ。
北海道最北端の稚内では野球をやっている少年と、地震のあった気仙沼には立派な船乗りと、能登半島の珠洲ではトライアスロンをやる元気な夫婦と、韓国からの帰りの船では獣医の卵と、NZでは日本にあこがれていたローリーと、薩摩半島枕崎では学芸員さんと、もうそれは数えきれないくらいの人との出会いがあった。そしてそれ以上の素敵な景色を見た。

自転車に乗っているときの私はもう完全に旅人に成りきっている。私が自転車で走ってよかったと思うのは、今しかできない旅をして、見知らぬ人と出会い、きれいな風景を心に刻んでいるような感覚をつかんでいる時だと思う。怖れと期待と不安と楽しみがごちゃごちゃに入れ混ざったような自転車旅やWCCの合宿はほんとうにいいものだった。

WCCといえば、この冊子が題しているように『峠』が根幹なのだろうが、私は峠以外の道にスポットを当ててみた。全力で峠に向かうとか、峠を制覇という感覚はどうも性に合わないらしい。
そもそも道は街と街をつなぐために作られる。その際、どうしても山越えをしなくてはならないので仕方なく峠を越えるのであって、本来いやいや行くところなのだ。そういうところばかりを好き好んでしかも自転車で登る輩が50年間も脈々と続いているのは本当に不思議だ。

自転車という趣味に引き寄せられて集まった仲間は偶然の出会いなのだけど、学校のクラスのように
全くの偶然というわけでもないので、どこか必然の出会いのようでもある。
WCCを最後まで続けられたのはやはり一緒にやってきた同期先輩後輩がいたからだろうと思う。歴代の先輩方やそして未来に続く後輩たちとも同じような気持ちが脈々と続いているというのが、この冊子『峠』を通して確認できれば嬉しい。50年後の100周年パーティーに参加した時に、同じような気持ちを持った後輩がこんなような文章を書いていたらとても嬉しく思う。

思い出に残っている「峠」- 太田

思い出に残っている「峠」 人間科学部3年 太田

この文章を書くにあたってこれまでの自分の自転車歴を振り返ってみた。自分は現在3年だがWCC入部は同期より1年遅い。こうして改めて計算してみると、自転車に乗り始めてまだ2年も経っていないのである。しかしこの2年に満たない期間で本当にいろいろな場所へ行った。よく旅の目的として名所などに、「行く」ことと峠や道を「走る」ことの2つが挙げられるが、自分は前者により魅力を感じる。だが当然後者のような「走った」という記憶が強い場所もある。その1つが、第50代春合宿で訪れた九州・大分県から熊本県へとまたがる「やまなみハイウェイ」および「牧ノ戸峠」である。

この日、第50代春合宿4日目は悪天候のなかで始まった。大した雨ではなかったが寒さと重なりとても冷たい雨だった。午前中は観光をいくつか巡りつつやまなみハイウェイへと向かっている。どれも面白く興味深いスポットであったが、雨が冷たかった。
そしてその後、冷たい雨は濃い霧へと変わる。やまなみハイウェイ前半は完全に霧の中であった。この霧の中で訪れた観光休憩地「九重 夢 大吊橋」において、茶屋の火鉢で必死に手を温め、冷たいカレーをコッヘルで食べ、出発直前に霧の向こうに微かに吊橋が見えたことは忘れられない。寒さで折れかけていた心を持ち直し出発したが相変わらず寒い。そして相変わらずの霧である。

自分はここから牧ノ戸峠までの記憶があまりない。だがそれはこの後の記憶がより強いからかもしれない。その日の最高標高である牧ノ戸峠に近付くにつれ当然気温は下がっていき、峠に到達したとき寒さは文句無しのピークに達していた。自転車達にも寒さは堪えたらしく、自分を含め数名の自転車はブレーキが凍りかけていた。この時点で自分はいよいよ寒さに耐えられなくなり、とにかく早く走り終えて眠りたいと切実に願っていた。もはや天候など何でもよい。

ところが峠を後に熊本県へと発った直後、曇りに曇っていた空は突如開け、目の前にはまぶしい光とともに青空が広がった。限界に近付いていた自分の身体を感動と衝撃が駆け巡ったのを覚えている。
「今晩のメニューは何かな」などといったそれまでの思考は一瞬にして吹っ飛び、ただただ美しい景色に目を奪われた。その後走った道も、途中立ち寄った展望所から見た夕陽もとにかく素晴らしかった。こうしてやまなみハイウェイ後半は自分にとって忘れられないものとなった。

今まで自転車で走ってきて最も強く記憶に残っているのがこの牧ノ戸峠だが、他にも和歌山県の円月島、岐阜県の飛騨高山・白川郷などはとても印象的であった。こうして日本全国、観光地から大自然の中まで体験できるというのは非常に貴重で恵まれたことである。
これから社会に出る前にまだまだ行ってみたい場所は多い。色々な場所を訪れて色々なことを感じ、自分の中身にできれば文句無しだな、などと考えている。

自転車旅 – 田中(雄)

自転車旅 法学部3年 田中(雄)

何を書いたらいいのか分からないので、とりあえず自転車に乗ろうと思ったきっかけから話していく。まずそのきっかけのきっかけは高校2年の時、姉の持っていた漫画「ハチミツとクローバー」を読んだことにあると思う。「ハチクロ」は、

『美術大学を舞台に、いわゆる「青春群像劇」を、ハイテンションなエピソードや静かな感動シーンを通じてとらえていく、恋愛に不器用な大学生達の報われない恋模様や、自分の才能や生き方について迷う若者達の姿を描いている』少女漫画である(Wikipedia参照)。

その中で主人公の「竹本君」という青年が登場するのだが、彼の『大学卒業が近付いても自らの生きる道を見付けられず、自分が何をしたいのか悩み、彷徨する(またまたWikipedia参照)』

姿が描かれており、最終的に彼は「ちょっとつきあたりまで」と言って何も持たず、誰にも伝えずに自転車で飛びだし、結局北海道の稚内へとたどり着く。
それを読んだ高校2年のくそ坊主の私は、「あぁ大学生ってこんなこともできるのかぁ・・・いいなぁ…自由だなあ・・・」とぼんやり思ったのである。その時はっきり「自転車に乗りたい」と思ったわけではないが、後から考えるとここにきっかけがあったような気がする。
その後、受験勉強真っ最中の高校3年生秋に、クラスメイトと冗談で
「どっちかが立命館に受かったら京都まで自転車で行こうぜwww」と話したことで、
「自転車に乗って旅をする」ということが自分の中で明確に意識されだした。

そこから半年の現役時の受験+1年間の浪人という1年半の時を経てWCCに入会し、自転車旅を始めたわけである。はっきりと「自転車で旅をする」という目的をもって入会したため、新歓合宿やプレ合宿で激死した経験もあったが、それが理由でWCCを辞めたいと思ったことは1度もない。逆に今は「自転車旅」の経験やノウハウは1通り身についたので、いつでもやめられる、というのも本音である。

自分にとって旅とは、今のところ合宿前の「前プラ、後プラ」を指す言葉にすぎず、それが非常に残念に感じる。その旅中は「あ、これはネタになるな。みんなに会ったら話してみよう」とか「中村とかKINGは今頃どこ走ってんのかなー」とかを考えている。

この旅は自分以外の他者が確実に同じような旅をしていることが分かっているため、自分のことではなく他人のことを考えながら走ってしまうのが残念というか。普通の人は孤独な旅しかできないわけだから、もしかしたらとてつもない幸運なのかもしれないけど。今の自分の中ではプライベートランはWCCのランに内包されるものであると思う。

最近の「自分が自転車に乗る理由」は、「自分の自転車が好きだから」というのが1つの理由。WCCに在籍してはや2年になるが、私ほど自分の自転車を愛していたものはいないと思う。それくらい愛着はある。

だから、「こいつと一緒にいたい」という気持ちから自転車に乗っているということはある。自転車というかもはや恋人である。もう1つの理由は、「自転車に乗っている自分がかっこいいと思うから」である。誰よりも美しい自転車に乗り、重い荷物を積んで、こんなにすごい傾斜の坂を必死に登る自分と自分の自転車に対してナルシシズムを感じるのだ。「じぶんをみろ!」と。

特に雲仙を上っているときはこの感覚が凄まじく、バスや車で上ってくる人をなぜか相当見下しながら走っていた。とりあえず自己陶酔がすごい(小並感)。ということで、峠を上っている俺が1番輝いていると思うため、自分の中では峠が自転車旅の大部分を占めるものである。

上で「いつでもやめられる」とは言ったが、WCCに関しても相当に愛着はある(49,50,51代の中ならそれはとびぬけたものであろうと思う)。まあ誰よりもWCCに触れている時間が長いために当然だとは思うが。なのでこの気持ちを後輩にしっかりと伝えてからWCCをやめられればいいなあと思う。口下手だが、合宿なりランなりトレなり各機会で全力で表現していきたい。

2度目の挫折の話 – 中村

2度目の挫折の話 商学部3年 中村

僕の入部した動機の1つである、秩父の、名前は忘れてしまったのだがとにかく人生で初めて自転車というもので上った、そして、人生で初めて周りに明らかな遅れをとる、という苦い経験をさせられたあの峠を除いて、次に僕にとってきつかった、挫折した、だった、あの峠の話を書こうと思う。

それは2年の夏。合宿の前に個人個人が思い思いに走る「前プラ」での話である。2年生の夏、といえば、既に2回の合宿を終え、知識も経験も相応に積み、下見と1年生の教育に追われる3年を尻目に、何にも縛られずどこでも好き勝手、縦横無尽、傍若無人に走り回ることができる、そんなことが許されている最も自由な数週間である。

僕も日夜机のパソコンに向かっては、中部地方のツーリングマップ片手に、あれこれ無茶苦茶なコースを組み立てて1人盛り上がっていた。祭りというのは準備の時が1番楽しいものである。
実際走るのも苦労するのも自分以外の誰でもないというのに、全くもって無責任なものである。そうして出来上がった行程に於いて最初に上らされることになった峠、福井と岐阜の分水嶺となり、中部屈指の山岳路を要し、僕の大学2年生の夏をそれはもう酷いものにしてくれたそれが、忘れもしない冠山峠である。

東京から愛車と共に東海道線に半日揺られ着いた岐阜からスタートした。その日も太陽は絶好調で僕らの上にあった。そのせいもあり峠に至るまでもなくきつい。
それそもそも前プラには合宿についていくための強化合宿という側面もあるので、きついことそれ自体、構わないといえば構わないのだが、早速企画者を恨み始める。冠山峠に至る前の湖沿いの道は良かった。

いくつもの、それぞれが数kmはあるトンネルが続き、その炎天下において、中は非常に快適だった。いっそそこで寝てしまおうかとさえ思ったものである。その誘惑を断ち切り、湖から逸れいよいよ峠を攻める。地図上では峠まであと5キロである。なんだそんなものかと思う一方、峠は距離ではないと自分の経験が囁く。どちらにせよ上ることに変わりはないのだからと、そのアラートを切り捨ててペダルを勢いよく踏み込む。しかし、しばらく走るまでもなく、これは無理だと、これは越えられないと、引き返すしかないと、僕は足を止めた。上れなかった。

目の前に聳えるそれは激坂というやつである。インナーロウをしてローリングせざるを得ない傾斜。無論当時の自分の非力さも一因であるに違いないが、かてて加えての炎天下、そしてそれ以上に鬱陶しかったのが、虫害である。

その1件以降、2度と持っていくのを忘れないようにすることを胸に固く誓ったものの1つに、虫除けスプレーがある。当時虫刺され用の軟膏こそ持ってきていたものの、それで微速右往左往する自分の周りを執拗に飛び回る奴等を遠ざけることはできなかった。上り故引き離すこともできず、背中を物色してくる奴らを一々手で払うので走るペースも乱れ、とても上るどころではない。立ち止まることも許されない。真夏の太陽の下、1本のジュースより1本のアイスより1本のキンチョールが欲しかった。

そんなわけで半分くらい逃げるように自転車を押して、上らされた峠は先にも後にもこの冠山峠のみである。今までで1番長い5kmであった。福井についたらコーラを何よりまず手に入れることだけを胸に峠を越えた。最早他の峠を越えようなどという気力はなく、その後の行程は大幅に変更されることとなった。

そんな諸々の事情があったために地獄のような数時間を過ごすこととなった冠山峠だが、それは暗くじめじめとした林の中をひたすら走らされるような鬱々とした峠ではなく、常に右手には広く視界が開け、終盤は先の方まで見渡せるようになる、山々の緑がとてもきれいな、走っていて爽快だったろう峠ではあるのだ。その時は色々と悪条件が重なったために、峠からの眺望も楽しむ余裕もなくすぐ下ってしまったが、それ自体いい峠ではあったと思うのだ。そう思いたい。

3年の冬を迎え、間もなく現役を終えようとしている僕であるが、もしも、もう1度自転車で峠を上ることがあるとしたら、それは冠山峠を於いて他にない。

Beyond the pass – 川和

Beyond the pass 文化構想学部4年 川和

自転車乗りには、昔から成るひとつの難解な問いがある。
なぜ坂道を上るのか

古今東西、自転車乗りというものはこぞって峠道を走る習性がある。その道程がいかに苦しいものか分かっていたとしても、それでも登るのである。高々とそびえる山を見て恐れをなして逃げるような者は、サイクリストには存在しない。
有名な自転車レース「ツール・ド・フランス」にもアルプスやピレネーを越える数多くの名立たる峠が組み込まれている。そして、そのような山岳で圧倒的な速さを見せる者には、多くの賞賛と敬意が与えられる。

ある自転車選手が、どうしてそんなに山岳で速く走れるのか、という質問に対してこう答えたそうだ。
「1秒でも早くこの苦しさから解放されたいからさ」

私はこの言葉の裏側には、全てのサイクリストに普遍的に存在する大きな感情が存在すると思う。恥ずかしさと謙遜の裏側に、彼の『坂道』に対する情熱が垣間見えるのである。

私は大学に入ってからというもの、暇を見つけては自転車で放浪している。この4年間で走行距離は約4万kmに達しようとしている。実はこの4万キロという数字は、たいして大きい数字ではない。
走行時間と比べると比較的少ない方である。なぜそうなのかと言うと、ツーリングコースには必ず峠を入れるからである。500~1000m程度の峠を3つほど越えるため、時間がかかり、距離は稼げない。しかし、その分たくさんの峠を制覇することができる。そういったこだわりを持って走ってきた。

その中でも特に印象に残っている峠を3つ挙げてみよう。

私の本格的山岳デビューは、1年生の東北合宿で一日目に登った、磐梯吾妻スカイライン(福島県)である。標高1,707mの浄土平をピークに、複数の峠を跨ぐ、日本有数のスカイラインだ。今思い返すと、最初からこんなハイレベルな峠に挑戦したのは無謀だった。しかし当時の自分は、先輩について行くだけで精一杯で、自分の身の程を鑑みる余裕もなかった。

夜明け前に上り始め、太陽と共に高度を上げていく。途中から赤とんぼの群れが並走し始める。薄く透明な羽が、朝焼けに真っ赤に染まっているのがよくわかった。
自分の歩みが、自然界の呼吸と重なっていることを実感した瞬間だった。森林限界を越えると、唐突に雲ひとつない青空が現れた。しかしそれはすぐに間違いだと気付き、一瞬、息を飲んだ。雲はあった。それは、上ではなく下に。眼下には雲海が広がっていた。
太陽を遮るものは何もなく、その光は等しく我々を照らす。足元には見渡すかぎりの雲と、その隙間から見える下界の街並み。この世のものとは思えないその風景は、まさに極楽浄土だと思った。今でもその景色は目に焼き付いている。

苦い思い出の1つとして残っている道に、1年生の春合宿前プラで走った、宮崎県木城町から西都市に跨る『中之又線』という林道がある。といってもこの道はほとんど無名に近く、インターネットで調べても情報がなかった。
なぜそんなマイナーな場所に行ったかと言うと、その日のうちにできるだけ距離を稼ごうと思い、最短距離の道を探していたからである。国道を走っては、少し遠回りになるが、この林道を使えば大きくショートカットできることに気付いた私は、意気揚々とそこへ向かっていった。

はじめ、道は深い渓谷の底を、岩壁に這うようにつづいていき、まるで山水画のような風景を見せていた。しばらく行くと、寂れた集落に行きつく。コンビニはおろか、商店もなく、唯一目を引いた建物と言えば、1軒家のように小さい小学校だった。

林道はそこから一気に高度を上げ始める。その日は天気が悪く、常に霧が立ち込めていて前が見えなかった。クルマの通りもほとんどなく、ひとり真っ白な世界の中に取り残されてしまったようだった。そんな状況は否応なしに私の不安を掻き立て、いつ終わるのか、もしここで日が暮れてしまったらどうしようとか、そんなことばかりが頭の中をめぐり、もがけばもがくほど消耗していった。さらに追い打ちをかけるように、坂の傾斜がきつくなっていく。そしてついに私は耐えられなくなって、足を着き、自転車を押すことにした。完全な敗北である。

結局この日の行程は、ほとんどこの上りで終わってしまい、当初の距離を稼ぐという目的は達成されなかった。自転車に乗って初めての挫折である。

この2つの想い出は、全く対照的ではあるが、どちらも鮮明に記憶に残っているという点は同じだ。楽しかったのも辛かったのも、みんなひっくるめて想い出になり、人生の1ページに刻まれてゆく。勿論走っているうちはそんなこと微塵も考えたことはないが・・・

そして、その1年後、峠の酸いも甘いもひと通り経験した私が向かったのは、日本のはるか南、“白く長い雲のたなびく土地”ニュージーランドである。初めての海外ということもあって、五感に入ってくる情報全てが新鮮な驚きに満ちていて、それは今でも思い出せるくらいだ。
中でも私の心に深く刻み込まれているのは、Island saddleという峠と、その前後に走った荒野である。ちなみにこの峠、実は、滞在中2度走っている。1度は下見中単独で、2度目は合宿に皆と一緒にだ。そしてこれから書くのは、1度目のひとりで走った時のことである。もちろん皆で走った時のこともWCCで経験したランの中では素晴らしいものの1つではあるが、1度目の単独行の経験は私の20数年の人生の中でも、巨大な石碑のようにその存在感を示している。

その日は合宿中で最も厳しい日の下見であったので、余裕を持つべくかなり朝早く出発した。しかし、順調にはいかず、最も厳しいと予想された『ポプラーズレンジ』という地域に入るころには夜の7時をまわっていた。そこから次の日の昼までに120キロの無人の荒野を走らなければならない。緑もなければ動物もいない。人間など当然いない。

日は沈み、荒野は私を追い詰めるように闇に沈んでいく。道などとうの昔に見えていない。だが見えた
ところで地平線の彼方まで砂利道が続いているだけだ。進んでも進んでも何も見えてこない。体力だけが減り、大量に持ってきたはずの水は、もう残り半分を切っていた。

俯いてひたすらペダルを漕ぐ。何も考えずにただ、漕ぐ…いつの間にか月が登ってきて、辺りがぼんやりと白んで見えるようになった。しかし、相変わらず道は闇に吸いこまれるように続いている。虚ろな心でしばらく走ると、道脇に明らかな人工物が見えてきた。心臓が飛び跳ねるような喜びに包まれ飛びつくと、それはロードマップだった。

そう、ここは荒れ果てているとはいえ人が開拓した道なのである。そしてこのマップはさしずめマイルストーン。ここは荒野のど真ん中で、今まさにちょうど中間地点にいることを物語っている。お前の走ってきた道は正しかった、ここまでの道のりは無駄ではなかったと、それは私に語りかけてくれた。夜の12時、私は疲れ切ってそのマップのそばで眠りに就いた。
体を横たえると、今までの達成感よりも明日への不安がむくむくと膨れ上がってくる。水はもうない。助けを呼ぼうにも携帯は通じない。唯一の希望は、ロードマップという人工物だけ。地図があるのはそれを必要とする人間がいるからだ。つまり、少なからず人はここを通る。それを信じて、残り半分を走ろう、そう心に決めて目を閉じた。

翌朝、テントから顔を出すと、その景色に目を疑った。ここは昨日と同じ場所かと疑ったくらいだ。暗くて見えなかったが、この道は山々の間を縫って進む広大な渓谷だった。渓谷というには余りにも広く雄大で、ここは日本ではないのだと改めて感じた。

いそいそと食事、荷造りを済ませ、自転車に跨り、この道のハイライトであるIsland saddleを目指す。傾斜が昨日よりもきつい。道がついにこの山々を越えようとしているのだ。懸命に踏んばるも砂利で滑って前に進まない。この峠を越えるんだ。越えてそのてっぺんに自分の名を刻むんだ、滑って足を着くたび、そんな思いばかりが心に浮かんでくる。

しかし、昨日のような悲壮感はなかった。なぜなら、その先に峠があるからだ。峠と名前が付いている限り、その向こう側には何かがあるはず。峠は誰かがこちらから向こうへ抜けるために信念を持って踏み抜いた場所である。故にその両端に何もないはずがないのだ。この峠の先には絶対に何かがある。
この峠を開いた名前も知らない冒険者たちに思いを馳せ、そして自分も彼らの背中を追うようにして一漕ぎ一漕ぎ踏みしめた。

突然、傾斜が緩くなった。「峠が近い」とWCCで鍛えられた峠を見分ける嗅覚がそう訴えている。いつもなら気持ちが爆発してスプリントするところだが、その時はとても静かだった。この一瞬は2度と来ない、そしてこの気持もいずれ過去のものとなる。だから、今この時を噛みしめろ、おまえは今、峠という一瞬を超えるのだ

大きく息を吸い込んで、ジワリと踏み出す。小さな看板が目に入ってきた。この大きくて、静かで、寂しげな風景におあつらえ向きの小さな看板には“Island saddle”とだけ記されていた。

坂を上るとき、人は無感動ではいられない。様々な感情の動きを伴って上る。なぜそうなるのか、理由はいくつかあるだろう。例えば草木がきれいだったり、風が気持ち良かったり、時には愛らしい小動物と出会うなど、外の世界からの刺激は大きい。

しかし、それだけではないように思う。時折私は、坂を上ることだけに集中すると、周りの音が聞こえなくなる。自分の鼓動と呼吸の音だけが響いてくるようになる。そうすると決まって思うのが「なぜ上っているのか」ということである。
このひとつの疑問に端を発し、思考の迷路をゆっくりたどり、自分の心に出会う。心はいつだって同じ問いを発する。

自分は何なのか、いったい何をしたいのか―

そんな重い問いはそのままペダルの重さとなって、行く手を阻む。こいつと闘いながら上って行かなければならない。そしてある時、ペダルはフッと軽くなり、気づけばそこは峠であったりする。それまで波立っていた心は、急に凪ぎ、達成感だけがひっそりとそこに残るのである。

よく、人生は坂道である、といった文句を耳にすることがあるが、逆もまた然りであると思う。峠を越える道のりは、人生の在り方、人の生き方を縮小したものではないだろうか。
そしてまた、人間が往々にして平凡な人生よりも、起伏のある生き方を望むのは、自転車乗りが坂道を上ろうとするそれに、よく似ている。

「自転車乗りはなぜ坂道を上るのか」という難問には、すなわちこの「起伏のある生き方を望む」というのがひとつの答えになるかもしれない。彼らは人生だけでなく、道にも山越えを望んでいるらしい。

ではなぜ人間はそんなにも進んで苦しみを得ようとするのかという問いには、ただ一言「その方が面白そうだから」という一言で答えよう。きっとこれは人間のどうしようもない本能、人生を寝て過ごしてはいられない、という動物としての性ではないだろうか。

走りたくてウズウズする。もうどうにもならない感情がそこには存在する。冒頭で挙げた自転車選手の彼の言葉は、そんな子供みたいに無邪気な本心を、恥ずかしがって隠すものだったのだと、私は思う。

CROWN SADDLE – 米田

CROWN SADDLE 商学部4年 米田

標高1,080m、この数字を聞けばWCCの面々ならどう感じるであろうか?
「そこそこの峠だね」「楽勝すぎるよ!」「もっと上れる!」

WCCの厳しい合宿を超えてきた先輩方であればこんな感想を抱くであろうか。かくいう私も「軽くいなしてやるぜ!」と息巻いていた・・・・

それは日本から遠く離れた南半球はニュージーランド、南島のArrow town Wanakaを繋ぐCrown Range Roadの途中にあるSaddle、つまり「峠」である。時は2011年2月、私が主将、企画局として携わった春合宿(正確には春の旅)の下見中のことである。

実はこの峠、標高が1,080mながらニュージーランドの道路最高標高である。日本で言えば乗鞍岳がそれに相当する。企画局の私は当然これを採用し1番きつい一日目の行程に組み込んだ。しかしながら前述のとおり日本と比較しても低めに見える峠に油断していたのである。そして当日、下見初日のまだ合宿モードでない私の体にニューシーランドが牙をむくのである!

暑い・・というか熱い・・日本は2月という冬であったが、南半球のニュージーランドは当然逆の季節。寒さに慣れていた私の体にギラギラと太陽が照りつける。なれない英語で何とか購入した、外国特有のものすごい色をしたスポーツドリンクがみるみる減っていく。これはいかん・・

キツイ・・きつすぎる・・日本の山道などは巻くことによって傾斜をゆるくしてくれるのはご承知のとおりだが、ニュージーランダーはそんな無駄がお嫌いなようだ。
巻くのは最小限に、できるだけまっすぐな道を作ろうとするのである。悲しきかな車社会。平均傾斜10%はくだらないであろう道が延々続く。ああもうインナーローまで落ちてしまった。しゃかしゃか・・

心配だ・・大丈夫だろうか・・そして圧倒的不安が私のペダルをさらに重くする。慣れない土地、喋れない聞けない英語、ちゃんと部員全員で完遂できるのかという不安。これからの苦難を思うとペダル先走り、安定したペースを乱す。

そんな時1台の車が後ろからくる。4人ほどの若い男のニュージー達だ。すれ違いざまに、
「crazy!」「あとちょっとだぜ」「コーラは最高にうまいぜ(?)」
など好き勝手に騒ぎ立て去っていった。

なんだが馬鹿馬鹿しくて元気がでた。縮尺の大きすぎる地図はあまり気にせずに、しっかり1歩1歩漕いでいく。峠の石碑が見えた。あそこまでもう少し・・

なんとも遠い1,080mだったがたどり着く。なんとも風が心地よい。峠からはニュージーランドらしい質素ながら広大な景色が見れた。石碑で写真を撮るが石碑の英語を訳す元気はない。

まだまだ旅は続く。「ニュージーランドの峠全部こんなんだったらやベーな」なんて考えながら、次の峠に向かっていくのであった。

この峠より100倍とんでもない峠がこの先に待ち受けているのは、また別の話。

次章、峠「21」号_北海道夏合宿

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